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W桂子先生から”美しいリレーションシップ”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


柳澤桂子―生命科学者からのおくりもの KAWADE夢ムック (KAWADE夢ムック 文藝別冊)

柳澤桂子―生命科学者からのおくりもの KAWADE夢ムック (KAWADE夢ムック 文藝別冊)

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2001/01/01
  • メディア: ムック

ムック本を以前より持っていて

お二人の桂子先生対談は読んでいたが


中村先生単独の随筆は読み損なっており


昨夜、読んでみて打ち震えた。


昨日投稿した、加藤典洋・池田清彦先生の


対談とうまく言えないけれど思想的にではなく


”対極”にいる科学者と感じた。


加藤先生曰く「過度に純粋」なのかもしれない。


もしも世間に出ると「あおっちょろい」と


笑われてしまうのかもしれないが


本当に笑われていいものなのだろうか。


どちらをとるのかということでは


もちろん、ない。


これは相当に深く入り組んでいて簡単に


答えのようなものを出せる質のものではないだろう。


それは遺憾ながら一旦置かせていただき


中村先生の視点からみた柳澤先生というのも


貴重で発見があるけれど


それだけでは語り尽くせないものがあり


出会いの奇跡とでもいうもか


語れば語るだけ野暮で


浅学非力な我が身を認めざるを得ないのですが


愛が横溢した素晴らしい随筆だった。


頼りになる仲間、柳澤さん


中村桂子


1971年、大学時代の恩師である江上不二夫博士が、私たち弟子から見ても、えっと驚く新機軸を出され、研究所を創設された。

三菱化成生命科学研究所である。

今では何の変哲もない名前に聞こえるかもしれないが、まず、生命科学が新しい。

それまで生物研究は研究対象となる生物や現象によって縦割りになっていた。

動物学、博物学、遺伝学、発生学…いくらでもある。

それを、生命現象全般を体系的に研究し、しかもそれを人間理解につなげようというのだからすごい。

更にはそれを民間の企業と組んで…当時は、学者としてあるまじき事と批判もされた。


もう一つの新しさは、女性の研究者を積極的に採用されたことだ。

こうして、それまでの研究歴がまったく違う柳沢さんと私が仲間としての毎日を送ることになったわけだ。

当時、採用面接にあたった三菱化成の幹部は、かなり心配していたようだ。

若い仲間に妊娠中の人がいて、「出産を控えて退職しますという話はよく聞くが、大きなお腹の人の面接は初めてだ」と戸惑っていたのを思い出す。


二人共、子育て真最中。

それぞれにその特徴を生かした仕事ができたと思っている。

柳沢さんは、どうしても哺乳類の発生を始めたいと頑張った。

これまた、今ならどうということはないが、当時は、ネズミを誕生させ、それを管理するのも大変な状態だった。

しかし、見かけによらず芯の強い彼女は、主張を通し、実験や飼育の技術習得のためのアメリカ滞在まで実行した。

こうして始めた研究の素晴らしい成果は、彼女の本のいくつかに紹介されている通りだ。


恵まれた環境での望み通りの研究。

研究者として誰もが求めながらなかなか手にできない状況を、自らの能力で作りあげ順風満帆でスタートした彼女の行手には、誰が見ても素晴らしい研究生活が見えていた。

私も、研究会での柳澤さんの報告がとても楽しみだった。


ところが、何がどうなったのかわからない中で休みがちになり始め…研究者としての無念さは、他人がどうこう言えるものを超えている。

闘病生活の身体的・精神的な苦労も同じだ。


ただ、私の中にある柳澤さんは、冷静に考え、確たる自己を持つと同時に、自分の子供たちにむける眼と同じ眼を地球上の生きものすべてに向けている素晴らしい仲間という面が大きい。

生命科学は、生きものを切り刻んで、その構造や機能を調べ、あわよくばその成果でお金を儲けようとしている学問と言われかねない昨今だ。

違うんだよ。

DNAもネズミも、それと実際に接し、それを通して見えてくる生きものの姿を知ると心豊かになるんだよ


この実感をできるだけ多くの人と共有したいという気持ちをもつ仲間としての柳澤さん。

同じ”桂子”なので、時々同一人物と間違えられることもあった。

なぜかわからないが、この30年間、彼女は私より強く、長く生きる人のはずだと思い続けてきた。

今もそう思っている。


中村先生、ただ今現在2023年末も


そう思っておられるだろうな、と感じた。


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加藤典洋先生の対談から”生態系”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


対談 ──戦後・文学・現在

対談 ──戦後・文学・現在

  • 作者: 加藤 典洋
  • 出版社/メーカー: 而立書房
  • 発売日: 2017/11/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

X 池田清彦 評論家、生物学者

3.11以後をめぐって


「環境問題」は人間中心主義 から抜粋


加藤▼

「環境」っていうのがまた、不思議な概念なんだね。

江戸時代にこういう考え方がなかったことは確かだ。

20世紀前半でも、またいまのような形では誰も頭にもなかっただろうね。

1962年に『沈黙の春』が出版されて、「環境問題」がクローズアップされるよね。

でも、地球環境を守ろうっていうのは、人間中心主義。

要するに、これ以上自然が破壊されると「われわれ」が危ないって、人間を中心に自然というものを捉えている。

で、それが、そうじゃないものに、このあと変わる。


最近Youtubeでチェルノブイリの動画を見たのね。


彼女によれば、あの事故以来、チェルノブイリ周辺の生態系がすっかり変わってしまったっていうんだよね。


池田▼

いまのチェルノブイリは、特定の生物はいたりいなかったりするんだろうけど、全般的には野生動植物の宝庫になっているようだね。

放射線に弱い個体はみんな死んじゃったけど、強い個体は生き残って繁殖しているわけ。

生物っていうのはしたたかで、環境の変化にどんどん適応して極端な話、それほど高レベルでなければ、放射性物質をまき散らしても、それに適応できる生物だけが生き延びて、そこに人類が含まれるかどうか知らないけど、それなりに世界は回っていく。

地球レベルで考えれば、人間は「地球に優しく」とかいうけれど、地球は放射能で汚染されようと何が絶滅しようと関係ない。

28億年前、地球に磁場ができてバリアが生じたことにより、宇宙線(放射線)が遮られたんだ。

それでDNAが破壊されなくなって、バクテリアが地球表面に進出してきた。

確かに高濃度の放射能は生物にとって脅威だけど、低レベルであれば野生動物の生存にとってさほど脅威ではない。

ガンになる前に繁殖してしまえばいいわけだから。


加藤▼

じゃあ、「放射能は全生物の脅威だ、生態系を壊す」みたいにはいえないわけか。


池田▼

そうなんだけど、一般的には、世界が放射能で満ちたら死ぬ生物はたくさんいるよね。

いま僕はものすごく長い時間軸で語ったけれども、人間にとっては、やっぱり自分や自分の子孫のために、現在の環境、つまり人間に都合のいい環境をいかにして守るかってことが大事だよ。

そう考えると、人間中心主義っていうのは、われわれの思考の基盤としてあるんだよね。


環境保護団体なんかは「生物にも権利がある」みたいなことをいうけれど、生物に権利なんかありっこない。

人間以外の生物には「権利」なんて概念はないんだから。

生物中心主義っていうのは人間中心主義の別名なんだよ。

まず現在生きている人間と近未来の人間が住み良い環境を維持するところから始めて、そこからちょっとづつ射程を伸ばして、100年後、200年後も人間が生存可能かってことを考えていかないと難しいよね。


だから、たとえば過激なディープ・エコロジストは、エネルギーが足りないなら昔みたいな生活を送ればいいっていうけど、それだとやっぱり死ぬ人が多くて大変だなって思う。

エネルギーがなくなると医療の世界が破綻するんだよ。

いつ停電になるかわからないところでは手術はできない。

自動車がなければ急病人は運べない。

そのほか、公衆衛生のインフラもすべてエネルギーに依存している。

それに、昔といまとでは世界の事情がまったく違うよね。

もう世界がつながっちゃってる状況で、日本だけが30年前の水準でしかエネルギーが使えないとなると、かなり悲惨なことになってしまう。

それを考えると、やっぱりエネルギーは現状維持をする必要があるんだよ。


加藤▼

そうか。

生態系も人間中心の概念なのか。

変わってないのか。これはいい勉強になりました。


今の生態系は人間中心の概念なのだろうか。


人間がそうしてしまったような気がする。


かつそれに適応してきて現状があるような。


なるべく自然の生態系にもどすのが


理想なのだろうけれど


それは容易ではないし、戻しても人間が


生きていけないんでは本末転倒で。


これは相当込み入った話になりそうだと感じた。


柳澤・中村先生たちであるダブル桂子先生と


相容れないと感じるのは、ここら辺りに


端を発しているのか。


いずれにしても、どちらもキャッチしてしまう


自分もいるのだけどなあと。


引き続き加藤先生の言葉から。


生活水準の話をすると、僕は、基本的には原発は減らしていったほうがいい、最終的には離脱したほうがいい、なくなったほうがいいし、なくなるだろうと思っているんだけど、離脱のために生活水準を下げることも辞さないっていう考え方には、賛同しない。

それは思想的に健全じゃないと思うから。


たとえば、京都大学原子炉実験所助教授の小出裕章さんの原子力に対する識見と行動には深く敬意を抱くんだけど、一定の条件下で汚染された食べ物を自分が引き受けるとか、この人の言うのを聞くと、考え方がちょっと純粋すぎるというか、それを、他の人にも勧める形になったら、それはそれで困ったことになると思う。

宮沢賢治もそうだけど、理系の人は、大変すばらしい。

でも、ときに、過度に純粋で、ちょっと単純だったりするよね。


パスカルは「繊細の精神」に対して「幾何学の精神」があると言ったでしょ。

彼はその二つを併せ持った。

僕はね、いま必要なのは、「理系の心」と「文系の頭」なんだっていう感じがしてる

つまり、いま起こっていることに対して、まずどう感じるか、というところでは、理系の心で対処する

単純に具体的に、事象に即して、数字を見て、恐怖する


で、今後、そのことをどう考えていくかというときには、時間軸を広くとって、見えない人々、いまはいない人々、もう死んだ人々、まだ生まれていない人々への想像力を駆使して、考えの枠組みを作らなければならない。

これまでは、パスカルの言葉は、「文系の心」と「理系の頭」というふうに考えられてきたと思うんです。

でもいま思えば、パスカルが言ったのは、それと一緒に、「理系の心」と「文系の頭」を持つと、二つが併存するよ、ということだったんじゃないか。


原発事故のあと、最新型の原発なら、問題ないと立花隆さんは言っているわけだけど、でも、これって理系の頭、文系の心で考えているんじゃないかな。

原発災害というのは、技術だけの問題じゃないってことが、今回、はっきりわかったわけですね。

原発を理系で考えて、被害を文系で受け止めるんじゃなくて、原発を文系で考えて、被害を理系で受け止めることも一緒にやるのがいいと思う。


東京湾でガスタービン発電 から抜粋


池田▼

「エコロジー」という言葉を作ったのは、19世紀後半に活躍したエルンスト・ヘッケルというドイツの生物学者だよ。

だから、生物の個体の周りにはさまざまな環境があり、それが重要だっていう概念はそう古いものではない。

で、「環境」とは何かというと、生物にとっての「情報」なんだ。

生物はDNAというくくりつけの情報に従って発生していくわけだけど、それに対して外から環境というバイアスがかかる

これもまた情報で、これによって生物は変わっていく

つまり情報とは、ある主体を変えるものなんだ。

いまの人は、「自分」っていう絶対に変わらないものがあって、そんな自分が危惧する情報を、必要/不必要、あるいは役に立つ/役に立たないってセレクトしてるけど、実は全然違う

情報っていうのは自分を変えるものだし、自分が変わらない情報なんてなんの役にも立たないんだから。

今回の原発事故にしたって、いろんな人が頭の中をシャッフルして、「いままでの考え方はマズかったかな」って考え方を変えてるよね。

そういう人は偉い人で、絶対に自分を変えない人っていうのはアホの極みだと僕は思うよ。


僕は「原発は危ない」っていうような話をずっと本に書いてきたんだけど、こんなに悲惨なことになるとは思わなかった。

そのへんでまだ認識が甘かったんだけど、あの事故のあといろいろ考えてみると、日本はとりあえず”つなぎ”で火力発電をやって、その間に新しいエネルギーを開発するのが最も合理的な選択だよ。

20年くらいかかると思うけれどね。


一方で僕は、原発はとりあえずはいちばん発電コストが安いっていうのを信用してたんだ。

でも、円居総一『原発に頼らなくても日本は成長できる』って本を読むと、そうじゃないらしい。

原発の稼働率が80%なのに対して、火力発電所は41%しか稼働してなかったっていうの。

なぜかというと、春秋に電力が余るから火力発電所を停止するんだけど、原発は動かしっぱなしが一番効率がいいから止めない。

で、火力発電所は止めるわけだ。


どんな発電所でも再稼働するのにすごいエネルギーが要るから、いちいちそれをやる火力発電所は、原発より発電コストが高くなるんだよね。

両方とも稼働率80%で計算すると、実はすでに火力発電のほうが安かったんだ。

加えて、原発の発電コストには、政府が出した補助金のたぐいは計上されないんだよ。

たとえば島根原発がある松江市は、年間で40億円とか、多い年で70億円以上の原発交付金をもらっている。

さらにいま稼働中の原発の廃棄物を処理するのに、どう見積もっても40兆円くらいかかる。

ついでにいえば、福島第一原発の事故の後始末には少なくとも140兆円は必要なの。

ひっくるめて計算すると、もう太陽光より高い。

とんでもない発電単価になるよ。


だからどう考えたって、火力発電がいちばん安いんだ。

いまのところはね。

僕は石原慎太郎のことはあまり好きじゃないけれど、彼は東京湾に100万キロワットのガスタービン、つまり天然ガスの火力発電所を造るって、猪瀬直樹に指示出しているでしょ。

あれはいい判断だと思うよ。


で、そうなると「CO2で地球温暖化が…」とかくだらない話に結びつける人が出るんだけど、温暖化の恐怖をあおっているIPCC(気候変動に関する政府間パネル)は、もともとイギリスのサッチャーが原発を推進するために始めたものだからね。

彼女は北海油田が枯渇するのがわかってたから原発をやりたがったんだけど、チェルノブイリの事故もあってそういう空気じゃなかった。

そこで「地球が大変だ!」って大騒ぎしたんだよね。

チェルノブイリの事故は1986年、IPCCの設立は1988年だからね。

日本もそれに乗ったわけだけど、CO2悪玉説なんて原発産業の回し者が考えたペテンだよ。


外交センスの欠如 から抜粋


池田▼

CO2が温暖化効果ガスであることは間違い無いんだ。

要は、そのコントリビューションがどのくらいあるかって話でしょ。

IPCCの報告でも、今後100年間の平均気温の上昇幅はせいぜい2〜3℃なんだよ。

石油枯渇の件は横に置くとしても、もしその数字が正しいとして(僕はウソだと思っているけどね)、その2〜3℃の上昇を抑えるコストと、上昇したあとにかかるコストはどっちが高いかって話だよね。


たとえば社会学者の橋爪大三郎さんは、農業が壊滅的な打撃を受けるっていうけれども、それは国という区切りがあるからなの。

シベリアやカナダは、すごい穀物地帯になるよ。

北海道の米なんか200%くらい増産するっていう試算があるくらいだからね。

要するに収穫できる場所がずれるんだよ。

だから困る国とそうでない国があって、たとえばアメリカ中部あたりはダメになっちゃうんだけれども、地球全体で見れば、平均気温が上がれば穀物の生産性が高くなるのは当たり前の話だからね。


いまから6500万年前、白亜紀の終わりに恐竜が滅びたときは、地球のCO2濃度は今よりも数倍高くて、気温も4〜5℃ほど高かったんだ。

そこであんなにでかい恐竜が生きていけたのは、そいつらが食べる植物がものすごく繁茂していたからだよ。

ただし、現在の農作物は現在の気候に合わせて作り出したものだから、そのままだとマズい。

だけど、そんなのは100年がかりで新しい環境に適する作物を作り出していけばいいんだから、さして問題はないんだよ。


この後加藤先生が、ペテンに賛同されて


別の意見からの論考をされつつ


とはいっても、国際社会の流れによらないと


ならんのでは?的な発言をされての


池田先生の回答。


池田▼

CO2と温暖化の因果関係っていうのは、実は誰にもわからない。

実証実験がまったくない分野なんだからなんとでもいえるわけ。

でも、世界の流れに一応乗っかっていかないと難しいというのも一理あるよね。

日本は国策として、うまく立ち回れるかが大事だよ。

鳩山由紀夫が首相だったときに、「温暖化効果ガス25%削減」と国際会議で明言しちゃったからいろいろ面倒なんだけど、、僕は震災はかなり同情を買ってると思うんだよね。

つまり、「日本は今非常に厳しい状況にあるから、とりあえず復興期間中のCO2削減は大目に見てください」ってお願いしても通用するんじゃないかな。

それに日本は新エネルギーに関してはかなりいい技術を持ってるんだよ。

ただし、それを開発するためには、必ずCO2が出るんだ。

だから「日本が新エネルギーを開発した暁には、それを安価で世界に提供するので、その開発に要するCO2については目をつぶってくれ」みたいな約束を取り付けてくるとかね。


そういう外交センスが、日本の政治家には欠けてるよね。

「25%削減します!」なんて演説をぶって、スタンディングオベーションで拍手されて喜んじゃってさ。

そりゃあ、日本だけが損をするんだから、みんな手を叩いて笑うよ。

そのへんの立ち回り方は中国のしたたかさを半分くらい見習うべきだよね。


あとがき から抜粋


ここには、1999年から現在にいたる23年間に行った私の11人の人との対談を収録している。


池田清彦さんとの対談「3.11以後をめぐって」は旧知の編集者山下陽一さんの企画で2011年夏、実現した。


池田さんは当時勤めていた早稲田大学国際教養学部の同僚で、研究室も隣りだったのだが、近くで知るだけにかねてこの人の「天才ぶり」に強い印象を受けており、この機会を利用して3.11以後の「わからないこと」を色々と尋ねることにした。

頭がよいということが人間の徳にあまり資することのないばあいが多いなか、数少ない例外。

この対談にもこの人の高徳者ぶりが発露している。

インプレス選書『IT時代の震災と核被害』に発表された。


池田先生含め、対談相手の一覧は以下でございます。


1

人々と生きる社会で

X 田中優子 時代見つめて今、求められているものは

X 石内都 苦しみも花

X 中原昌也 こんな時代、文学にできることって、なんだろう?

X 古市憲寿 ”終わらない戦後”とどう向き合うのか

X 高橋源一郎 沈みかかった船の中で生き抜く方法

X 佐野史郎 「ゴジラ」と「敗者の伝統」

X 吉見俊哉 ゴジラと基地の戦後


2

人びとの生きる世界で

X 池田清彦 3・11以後をめぐって

X 養老孟司 『身体の文学史』をめぐって

X 見田宗介 現代社会論/比較社会学を再照射する

X 見田宗介 吉本隆明を未来へつなぐ

X 吉本隆明 世紀の終わりに

X 吉本隆明 存在倫理について

X 吉本隆明 

X 竹田青嗣 

X 橋爪大三郎

半世紀後の憲法


どの対談も深いです。


文芸評論家である加藤先生の領域から


文学を軸に話を展開されているためか、


養老先生の対談など他にないようなものだった。


一方的に加藤先生がお話になっているけれども。


池田先生の対談が一番響いた次第です。


加藤先生は残念ながら2019年5月他界されている。


あとがきには、吉本隆明さんに対して並々ならぬ


畏敬の念が伺えかつ橋爪先生らも参加されている為


かなり興味深いのだけど、世代間ギャップみたいな


ものを感じてしまう。自分の知性が足りないだけか。


また別の時期に読むと感じ方が変わってくるのかも


しれないのですがと思いつつ、そんなに悠長に


何度も同じ本を読めないなあ、とか思ったりもする


寒い休日、年末感が思いっきり漂ってきた


というかまごうかたなき年末な今日この頃です。


 


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’22年12月の読書から”バイアス”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

昨年の今頃は何を読んでいたのか、


2022年12月の一覧を見ていたが


ちと気になったのでリスト化してみた。


こちらはなぜかPCだけしかリンクが


機能しないのだけど。


「絆」を築くケア技法 ユマニチュード: 人のケアから関係性のケアへ :大島寿美子/イヴ・ジネスト /本田美和子著(2019年)

そのうちなんとかなるだろう:内田樹著(2019年)

なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門:岡田斗司夫・福井健策共著(2011年) 

ヒトはどこまで進化するのか:エドワード・O・ウィルソン著/長谷川眞理子解説/小林由香利訳(2016年)

池田先生の3冊から「権力」について考察

 ├ 科学は錯覚である(1993年)

 ├ 思考するクワガタ(1994年)

 └ 三人寄れば虫の知恵(1996年)

池田先生の2冊からダーウィンとウォレスを考察

 ├構造主義進化論入門 (初出「さよならダーウィニズム」1997年)

 └三人寄れば虫の知恵(1996年)

「現代優生学」の脅威:池田清彦著(2021年)

進化とは何か:リチャード・ドーキンス著(2014年)

サル化する世界:内田樹著(2021年)

何とかならない時代の幸福論:ブレイディみかこ・鴻上尚史共著(2021年) 

コロナ後の世界:内田樹著(2021年)

形を読む:養老孟司著(2020年)他1冊 

└養老孟司の<逆さメガネ>:養老孟司著(2003年)

だましだまし人生を生きよう:池田清彦著(初出「生物学者 誰でもみんな昆虫少年だった」1997年)

遺伝子改造社会あなたはどうする:池田清彦・金森修共著(2001年)

ダーウィンの遺産・進化学者の系譜:渡辺政隆著(2015年)

進化論の最前線:池田清彦著(2017年)

三島・石原慎太郎さんから伝統と新しきを考察

 ├そこは自分で考えてくれ(2009年)

 ├バカにならない読書術 (2007年)

 └三島由紀夫 最後の言葉(1989年)

進化論はいかに進化したか(2019年)


養老先生から始まった流れが継承され


池田先生・内田先生を多く読んでて


アウトローな読書を深めている印象なのだけど


勿論そう思わない人もいると思うけど。


それから、進化論に興味が出始めて


少し経っているけれど、ダーウィンのことを


ニール・ヤングっぽいロック気質の人だと


思ってたけど読んでみたら違ってたみたいな


ことが書いてあるけれども


まだまだ深掘りが浅いと思わざるをえない。


と言いつつ、ニール・ヤングの何を知っている


のだろうとちと不安になり、もしかして


昔の自分の方がバイアスなく、本当の姿に


近かったのかもと思いつつも


そんなことを気にせず読書をしていこうと


気を引き締めたクリスマスイブ、夜勤のため


準備したいと思った寒い昼でございます。


余談だけど、昨年末の読書から


最も印象に残ってて、良い読書体験・経験だったな


と思った本が2冊ございまして


ただいま現在でいうとってことなんですが


上にもあるので重複御免なのでございますし


なんの役にもたちませぬが記させていただきます。


あ、いや、本自体はかなり面白いことは間違い


ありませんよ、私の感性が、ってことです。


そのうちなんとかなるだろう:内田樹著(2019年)


だましだまし人生を生きよう:池田清彦著(初出「生物学者 誰でもみんな昆虫少年だった」1997年)


 


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オードリー・タンさんの推薦書から”コモン”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀: 公正な社会への資本主義と民主主義改革

ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀: 公正な社会への資本主義と民主主義改革

  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本

表紙袖に書かれたおそらく

出版社からの要約文から。


富裕層による富の独占

膠着した民主主義

巨大企業によるデータ搾取

21世紀初頭の難題を解決する

まったく新しいビジョン!


序文の引用から


ミルトン・フリードマン

資本主義と自由』(1961年)

19世紀の自由主義者は、物事を根底まで突き詰めるという語源の意味でも、社会制度を大きく変革することを目指すという政治的な意味でも、ラディカルだった。

その後継者である現代の自由主義者も、そうあるべきだ。


ラディカル・マーケットとしてのオークション から抜粋


問題の根源は思想にある。

というより、思想の欠如にあるというべきだろう。

右派とか左派が生まれた19世紀、20世紀の初めには、両者の主張には伝えるべきものがあったが、その潜在能力はもはや尽きている。

大胆な改革が推し進められることはなく、漂うのは閉塞感だ。

社会の可能性を開くには、社会をラディカルに再設計する事に私たちが心を開かなければいけない。

問題を根本から解決しようとするなら、経済と政治の制度がどう機能しているのかを理解し、その知識をもとに対応策を組み立てなければならない。

本書ではそれを試みていく。


オークションが世界を救う から抜粋


われわれが思い描くラディカル・マーケットとは、市場を通した資源の配分(競争による規律が働き、すべての人に開かれた自由交換)という基本原理が十分に働くようになる制度的な取り決めである。

オークションはまさしくラディカル・マーケットだ。


オークションでは参加者は互いに入札し合うルールになっているので、競売にかかるものは、それをいちばん必要としている人の手に渡ることになる。

ただし、入札価格の違いは、それをほしいと思う気持ちの差によるものだけでなく、富の格差によって生まれている場合もあることに注意しなければいけない。


ラディカル・ヒーロー から抜粋


われわれの議論は、アダム・スミスに遡る知的伝統に拠っている。

スミスはこのところ、市場原理主義をはじめとする保守派の思想家に頻繁に引き合いに出されている。

しかしスミスは、エピグラフで明確に示されている二つの意味で、ラディカルだった。

まず、経済組織の問題を根本まで深く掘り下げて、いまも影響力を持つ理論を提示した。

さらに、当時の支配的な思想や制度を攻撃し、大胆な主張と改革を打ち出した。

スミスのアイデアがいまでは「保守的」とされているのは、当時の政策や考え方を大きく変えたからにほかならない。


日本語版解説


過激で根本的な改革の書


安田洋祐(大阪大学大学院経済学研究科准教授)


2019年10月


から抜粋


「ラディカル」という単語は、「過激な・急進的な」という意味と「根本的な・徹底的な」という意味の、二通りで用いられる。

本書は、まさに両方のラディカルさを体現した「過激かつ根本的な市場改革の書」である。


市場が他の制度ーーたとえば中央集権的な計画経済ーーと比べて特に優れているのは、境遇が異なる多様な人々の好みや思惑が交錯するこの複雑な社会において、うまく競争を促すことができる点にある。

市場はその存在自体がただちに善というわけではなく、あくまで良質な競争をもたらすという機能をはたしてこそ評価されるべきだ。

もしもその機能が果たされていないのであれば、市場のルールを作り替える必要がある。

今までのルールを前提に市場を礼賛する(=市場原理主義)のではなく、損なわれた市場の機能を回復するために、過激で根本的なルール改革を目指さなければならない(=市場急進主義)。

では、著者たちが提案する過激な改革とは、いったいどのようなものなのか?


著者たちは、現状の私有財産制度は、投資効率性においては優れているものの配分効率性を大きく損なう仕組みであると警告している。

私的所有を認められた所有者は、その財産を「使用する権利」だけでなく、他者による所有を「排除する権利」まで持つため、独占者のように振る舞ってしまうからだ。

この「独占問題」によって、経済的な価値を高めるような所有権の移転が阻まれてしまう危険性があるという。


代案として著者たちが提案するのは、「共同所有自己申告税」(COST)という独創的な課税制度だ。

COSTは、1.資産評価額の自己申告、2.自己申告額に基づく資産課税、3.財産の共同所有、という三つの要素からなる。

具体的には、次のような仕組みになっている。


1. 現在所有している財産の価格を自ら決める。

2. その価格に対して一定の税率分を課税する。

3. より高い価格の買い手が現れた場合には、

3-i. 1の金額が現在の所有者に対して支払われ

3-ii. その買い手へと所有権が自動的に移転する。


仮に税率が10パーセントだった場合に、COSTがどう機能するのか想像してみよう。

あなたが現在の所有している土地の価格を1000万円と申告すると、毎年政府に支払う税金はその10パーセントの100万円となる。

申告額は自分で決めることができるので、たとえば価格を800万円に引き下げれば、税金は2割も安い80万円で済む。

こう考えて、土地の評価額を過小申告したくなるかもしれない。

しかし、もし800万円よりも高い価格を付ける買い手が現れた場合には、土地を手放さなければならない点に注意が必要だ。

しかもその際に受け取ることができるのは、自分自身が設定した金額、つまり800万円に過ぎない。

あなたの本当の土地評価額が1000万円だったとすると、差し引き200万円も損をしてしまうのである。


このように、COSTにおいて自己申告額を下げると納税額を減らすことができる一方で、望まない売却を強いられるリスクが増える。

このトレードオフによって、財産の所有者に正しい評価額を自己申告するようなインセンティブが芽生える、というのがCOSTの肝である。


著者は二名で、何をされている方なのか、気になった。


エリック・A・ポズナー

シカゴ大学ロースクールのカークランド・アンド・エリス特別功労教授。


E・グレン・ワイル

マイクロソフト首席研究員で、イェール大学における経済学と法学の客員上級研究員。


なかなかに興味深い書だけど、ぶ厚過ぎて、


全く読みきれませんがポイントだけ押さえてみた。


超浅いのだけれども。


1年くらい前、”コモン”に興味があって


それ関係の書をいくつか読んでいたので


入りやすかった。


これも養老先生の影響なのだけど。


こういう書のイメージって、


どうしてもコミュニズムとかに


なってたのでございますがそれはもう


おじさんである証左でございますが


さすがに最近はその認識が上書きされた。


さすが、台湾デジタル発展部部長さんが


推している書だけのことはあります。


日本にもこういう感性の方が政治を


取り仕切っていただけないものだろうかと


痛切に感じる今日この頃でございますが


話をこの書に戻してまして、


過去の世界情勢を丁寧に考察されての


分析なので、感嘆しましたが


日本のことも調べて、かつ仏教的な


考えもミックスしての言説なので


これも世の流れなのか、さすがだなあなんて


自分なぞに感心されてもまったく


響かないだろうけれど


興味以上にそそられる書でございましたことを


夜勤明けのこれまた朦朧とした頭で


思った次第でございます。


 


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井上民二先生の書から”どえらい仕事”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


生命の宝庫・熱帯雨林 (NHKライブラリー)

生命の宝庫・熱帯雨林 (NHKライブラリー)

  • 作者: 井上民二
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 1998/04/20
  • メディア: 新書

過日読んだ中村桂子先生の書にあったので

拝読させていただきました。

はじめに から抜粋

「熱帯雨林」ということばに、私たちはどうして夢やロマンを感じるのでしょうか。

そこは、温帯に住む私たちにとってエキゾチシズム(異国趣味)の対象でした。

常夏の国に、たわわな果実が実り、珍しい植物や動物がいる、というのが一般的なイメージではないでしょうか。

昆虫が好きな人は珍虫奇虫を、人間の生活に興味を持つ人は伝統的な焼き畑農業を思い浮かべるでしょう。


その熱帯雨林が20世紀後半、急速に消失しています。

あと数十年後には熱帯雨林は1割程度しか残らないだろうと推定されています。

夢やロマンの対象であった古き良き時代は終わり、不幸にも熱帯雨林は地球環境問題の対象になってしまいました

伐採による大気中への炭酸ガスの放出は温暖化の要因の一つとみられています。

熱帯雨林には、きわめてたくさんの生物が分布するため、1992年に締結された国際生物種多様性保護条約の主要な対象地域にもなっています。


皮肉なことに、熱帯雨林の面積が減少するにともなって、熱帯雨林の研究もここ数十年、急激に進展しました。

熱帯雨林をはじめて系統的に研究したウォーレスが、今から120年前に

「熱帯の自然の豊かさと美しさは、すでに言いふるされた話題であり、あらたに述べるべきことは多くない」

と書いていますが、彼が生きていれば、きっとびっくりするでしょう。

ウォーレスは熱帯に滞在中にダーウィンと時を同じくして自然淘汰説を思いつきました。


本書では、最新の熱帯雨林研究の成果にもとづいて、熱帯雨林の多様性はどこからやってきて、現在どのように維持されているのか紹介したいと思います。

そのなかには、21世紀、有限の地球で、熱帯雨林を残しながら人類が生き残るための、さまざまなヒントが隠されているのです。


第1章 熱帯雨林の現在


炭素の貯蔵庫 から抜粋


現在の地球環境問題のうち、温暖化問題は、最近半世紀の人類活動によって大気中の炭素ガス濃度が上昇したことに起因している。

大気中の炭酸ガスを、成分である炭素量で表すという7000億トンということになる。

この大気中とほぼ同量の炭素が海を含んだ、生きている植物体の中に貯蔵されているが、その99パーセントが陸上生態系に、さらにその8割から9割は森林の中に存在する。

森林土壌中の炭素を含めると、森林中に蓄積されている炭素量は大気中の約3倍ということになる。

森林は地球の表面積の1割弱、陸地面積の4分の1しか占めないので、炭素の貯蔵庫としての森林の重要さがこの数値からも理解できる


森林のなかで熱帯林が占める割合は5割から6割といわれている。

したがって、もし熱帯林がすべて消失すれば、現在の大気中に存在する炭素量以上の炭素が炭酸ガスの形で大気中に放出されることになる。

ただし、現時点での大気中の炭酸ガス上昇の主な原因は化石燃料の燃焼で、森林伐採から放出される量の約6倍に達している。

従って、温暖化にとって深刻なのは、化石燃料の消費量のほうであることは指摘しておかなければならない。


では、具体的には炭素はどこに貯蔵されているのだろうか。

それは70メートルを超える1本1本の木を輪切りにして、高さごとの幹や枝、葉の分布を測定するという方法によって明らかにされた。


この研究は四手井綱英(京都大学)と吉良竜夫(大阪市立大学)をリーダーとした日本の研究チームが1970年代に行った

世界に誇る仕事で、熱帯林の現存量のデータとしてはいまだに唯一のものである。


その結果から、熱帯雨林は垂直方向に五層と、複雑な層構造をなしており、樹高が20メートルから30メートルで二層から三層の温帯地にくらべ、単に高さが2倍以上になっているだけではないことがわかる。

(図 熱帯雨林の森林の垂直構造(ボルネオ島)あり)

日本のブナ林など温帯林に比べ、地上部の現存量は熱帯雨林では約2倍になっている。

これは熱帯雨林の炭素の貯蔵庫としての能力が、単位面積あたり2倍であることを意味する。


第12章 熱帯雨林を保存するために


熱帯林の減少 から抜粋


18世紀末にくらべ、1990年時点では熱帯林の半分がすでに消失し、このままでいくと2030年には1割しか残らないと推定されている。

しかも、その1割も、人間に利用しにくい急峻な場所だけに、断片的に残るにすぎない。


熱帯雨林はなぜ減少したのか。

一言でいえば、熱帯林をもつ発展途上国が経済発展のために利用したからである。

森林からは木材が切り出され、先進国に輸出された。

また、一部はアブラヤシのプランテーションや牛肉生産のための牧場に変えられ、そこから生産された油や肉は国際マーケットを通じて、これも先進国に輸出された。

ここには、先進国と発展途上国の間の南北問題が存在し、先進国の大量消費が熱帯雨林の消滅に大きな影響を及ぼしていることは誰もが認めるところである。

戦後日本のスプロール化して広がった新興住宅の建設には、大量の熱帯林の木材が使われている。


総合的地域管理計画の必要性 から抜粋


いま必要なのは、個々の事柄や技術ではなく、日本でいえば都道府県ぐらいの大きさの地域を、熱帯林を保全しながら、地域住民が暮らしていけるようにする地域開発計画と、その計画に対する先進国の政府、市民の積極的なコミットである。

以上指摘してきた問題点を解消するため、地域開発計画には、以下のゾーンが適切に配置される必要がある。


(1)自然保護地域

(2)国立公園

(3)非木材利用地域

(4)集約的利用地域

(5)生産工場


熱帯雨林の保存も理念を議論する時代から、具体的な保全政策の策定と実行の時代に入ったようだ。

もうあまり時間は残されていない。


解説 林冠に架けた夢


加藤真(京都大学助教授)から抜粋


この本の原稿は最初、NHK「人間大学」のテキストとして出版される予定だった。

「生命の宝庫・熱帯雨林」という題で、1997年10月から12月にかけて井上さんの講座が全国に放映される予定になっていたのである。


サラワクのランビル国立公園には、熱帯雨林の研究に励む学生七人が滞在しており、井上さんの到着を今や遅しと待ち構えていた。

井上さんは彼らに、「うまいもんなんでも食わせてやるからミリの街で待ってろ」と、前もって連絡していたのである。


当日、学生たちはすでにブタの丸焼きを注文して、ミリのレストランで待っていたという。

井上さんを乗せブルネイを飛び立った飛行機はその日、サラワクのミリの空港には到着しなかった。


飛行機事故が確認されたのは次の日だった。

飛行機は、井上さんが愛し、研究生活のすべてを注いだランビル国立公園の熱帯雨林のまさにその中に墜落していた。


49歳で逝ってしまった井上さんがやり残したことはあまりにも多いが、東南アジアの林冠研究の第一段階はみごとなほどの成果を生んだ。

彼はサラワクへの旅に出る直前に、251ページにも及ぶ英文の一斉開花の報告書と、本書の原稿の構成を終えていた。


出演することになっていたNHK「人間大学」の熱帯雨林の講座は、本人の突然の死によって実現を見なかったが、彼の情熱と夢はこの本に託されている。


井上先生の無念は計り知れず、言葉にできない。


この書からだけの判断しかできないのですが


情報を収集して本質を見極めるという点でも


ものすごい仕事をされたと言えるだろうなあと。


問題点を当事者の目線で掬い上げ、改善策を提示


っていえばアレだけど、なんせ相手は”熱帯雨林”


だからなあと。


亡くなってからすでに四半世紀経過したが


井上先生の仕事がどえらい成果を生んでそこから


新たな発展も窺える現状もあるのだろうが


憂うべきところも多くあるのだろうなと。


フェアトレードなどもその一つなのではと


勝手に推測。あまりこの手の事に詳しくない


自分のような市井のものも


この仕事の進め方は強く刺激されるものがある。


仮にNHKで放送されてたらさらに多くの人たちへ


伝播していただろうし、井上先生のスピリッツを


継承されただろうと思うと残念でなりません。


まったく縁もゆかりもない自分でございますが


この書を読んで感じた感想でございました。


井上先生と食事の約束をしていた学生さんたちの


その後の活躍も期待したいと勝手に願っているけど


それは余計なお世話なのかもしれないと


夜勤で仕事場に向かう揺れるバス中で読みつつ


明けの朦朧とした頭で思った次第でございます。


 


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中村先生と鶴見和子先生の対談から”地球”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

四十億年の私の「生命」 〔生命誌と内発的発展論〕〈新版〉


四十億年の私の「生命」 〔生命誌と内発的発展論〕〈新版〉

  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2013/03/25
  • メディア: 単行本

 


編集の方の”編集後記”が興味深かった。

編集後記

2006年7月31日、10年以上の闘病生活を経て鶴見和子は他界した。

『鶴見和子曼荼羅』(全九巻)を1999年1月に完成した後、鶴見さんから、「内発的発展の理論は、未完成です。この理論をいろんなジャンルの方々と語り合うことによって深めてゆきたいと思います。私はもう学者として、現地に立つこともできないし、書物から学ぶこともできないから」と言われた。

それでは、まずどなたからいきましょうかということになって、石牟礼道子、中村元となったが、中村(元)さんはすでに他界された後。

”生命(いのち)”の問題について、ぜひ中村桂子さんということになって、2001年5月9?10日に、宇治のゆうゆうの里で実現となったのが、本対談である。


2日間の時間をとってあったが、第一日目に、NHK-TVが是非取材・放送させてくれということもあり、1日目は、二人だけの突っ込んだ話にならず、閉口した。

それで2日目は、TVは遠慮していただき。お二人の限られた時間の中で、思う存分”生命”をめぐって対話となった。


この対話は、「鶴見和子・対話まんだら」の一冊として、2002年7月に出版された。

昨年、鶴見さんの命日に開かれる山百合忌の中で、中村さんに「内発的発展論と生命誌ーー鶴見和子と南方熊楠」のタイトルで講演していただいた。

本書は、これを<新版の序>として附けてなったものである。


社会学者の鶴見さんが、生命誌の中村さんにどういう切り込み方をされるか、それを中村さんが、どう受け止められどう返されるか、白熱した数時間が瞬く間に過ぎていった。

生命誌と内発的発展、生命とは何か、という現代においても解ききれない普遍的な問題が、われわれの日常生活の中で、お二人の対話が少しでもお役に立つなら、編集者としても望外の幸せである。

2013・2・28(亮)


この対談のあらましがわかって面白い。


映像が入ってあまり良い結果にならなかったのは


よくある話で、かのビートルズのLET IT BEの


映画の失敗からの映像クルー抜きで


目一杯力入れたラストアルバム「アビーロード」を


思い出すボンクラな自分でございますが。


いや、ビートルズはもちろんボンクラでは


ありませんよ。これ、なんのことか


音楽知らない人には全く理解できないのは


言わずもがなでございます。


話戻りまして、この編集者の気概のようなものは


最後についていた註にもあらわれる。


※中村桂子『自己創出する生命』は、2006年にちくま学芸文庫として出版されているが、本書における参照頁等は、全て哲学書房版(1993年)による


ちくまと哲学書房の違いがよく分かりませんが


哲学書房は腕利きの編集者さん達がいたってのは


他の方のコラムなどでもよく書かれていて


日本での”書籍”とか”文化”とか名前の通りの


”哲学”とかを他にない何かで貫かれているのが


なんとなくわかる気がして、だからなんだってのでも


ないんですけれど個人的に思う事としてすごいなと。


なんでなくなってしまったのか、結果的にでしょうが


間接的にその事がこの書でも話し合われている


気がするのは自分だけの気のせいかね。


そして脈絡ないけれども話戻って、


表4(裏表紙)にある、鶴見・中村先生の


要約された文章から。


鶴見和子

近代科論では、発展とは単系発展で、アメリカやイギリスのような社会になっていく。

でもそれでは面白くないし、そうしたら人類の将来、未来というものはないじゃない?

その時にハッと気がついて、やはり内発的発展論で、それぞれ違う発展の形があることによって人類は生き残っていけるんだなということを、生物界の多様性から教えられたの。


中村桂子

生きものたちは多様になり、現在という時点で、アリも、バクテリアも、キノコも立派に生きている、人間もその一つだというわけですから、下等、高等という言葉はないのです。

そのように考えたいと思ったので、進化という言葉を使わないで、生命誌、生き物の歴史物語といったんです。

社会がそうなっているというお考えは生命誌と重なり合います。


対談はもっと素敵で共感させられること


然りでございましたが


ここでは、編集の方のおっしゃる


新版だけの中村先生の”序”の一部を


引かせていただきたく。


 


<新版への序>


私にとっての鶴見和子と南方熊楠


中村桂子


※2012年7月鶴見和子さん7回忌にて講演


当初、「鶴見和子と南方熊楠」という題をいただきましたが、客観的に論を立てる力はございませんので、「私にとっての鶴見和子と南方熊楠」ということで、聞いていただきたいと思います。


今、社会はグローバリズムと言われています。

Globeは地球です。

鶴見さんの著書『南方熊楠ーー地球志向の比較学』がありますように、地球を考える、さらには地球で考えることは非常に大事です。

しかし今のグローバリズムはアメリカ型の新自由主義を広めるという誤ったものです。

先進国と途上国の間だけでなく、先進国内での格差まで広げています

鶴見さんはそれに対して地球上の地域それぞれの「内発的展開」が必要であるとおっしゃっていました。


アメリカで欧米の社会学を徹底的に勉強されて、身につけられた鶴見さんが、帰国後水俣に出会い調査をなさったところ、「これぞ本当の学問」と思っていたものが通用しなかったのです。

しないどころか、あまりにも違うものがあるにでとても悩まれました。

アメリカの社会学では、「自然」という言葉を使うと、社会学に自然なんかいらないと否定されてしまう。


でも水俣を考えるときに自然を入れないで考えられますか?と話されました。

そこで考え抜かれた結果が「内発的展開論」です。


ドイツに留学していた森鴎外が気づいた指摘


南方熊楠と自然の関わりかたの解釈など


興味が深淵すぎて見えないくらいブルブルする


中村先生の言葉や、鶴見先生との対話の


書籍なんですがそろそろ夜勤の準備を始めないと


ならないのでいったん筆を置かせていただき


筆なのかなんなのかわかりませんけれど


雨の関東地方、仕事に行って参りたい所存で


ございます。


 


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中村先生の”愛づる”と他先生の”推薦書”から [’23年以前の”新旧の価値観”]


科学は未来をひらく: 〈中学生からの大学講義〉3 (ちくまプリマ―新書)

科学は未来をひらく: 〈中学生からの大学講義〉3 (ちくまプリマ―新書)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2015/03/06
  • メディア: 新書

私のなかにある38億年の歴史

ーー生命論的世界観で考える


中村桂子


原発事故で明らかになった20世紀型科学の欠陥 から抜粋


私は、25年ほど前から、科学を踏まえながら生命の歴史性に注目する知を提唱しています。

今日はその「生命誌(Biohistory)」という新しい知の基本となる考え方についてお話しします。


20世紀は、科学とそれに基づく科学技術がひじょうに発達した時代でした。

しかし、残念なことに、20世紀後半は「とにかく産業(経済)を盛んにしよう」という考えが強くなり、産業に役立つ科学技術だけを素晴らしいものだと思い込んでしまったのです。

知識を得るということより、みんなが健康になるため、さらに産業を興してお金儲けをするため…そういうことのためだけに科学はあると捉えられたのです。


もちろんそれは大事なことで、全否定するつもりはありません。

ただ人間の役に立つとか健康のためと考えると、どうしても「答え」が必要になります。


答えをだすためだけに科学があるのではないと私は考えています。


「考える」ことが重要なのです。

答えはもちろん大事であり、考えて考えて考え抜けば答えは出てきます。

しかし、一つの答えが出てくると、もっと難しくて、でもおもしろい問いが必ず生まれてくる。

「答えを見つけたらオシマイ」ではなく、ずっと考えつづけること。

これがとても大切なのです。


虫を愛づる文化を持つ日本という国 から抜粋


今お話ししたような新しい世界観を支える言葉を最後にご紹介します。

「愛づる」です。

この言葉は、平安時代後期の短編物語集『堤中納言(つつみちゅうなごん)物語』に収められている「虫愛づる姫君」という物語から拝借したものです。

少し説明しましょう。


およそ1000年前の京都に、ちょっと変わったお姫さまが暮らしていました。

男の子たちに虫をたくさん集めさせたうえ、1匹づつ名前をつけてかわいがっていたのです。

お姫様のいちばんのお気に入りは毛虫でした。


両親はちょっと困っています。

このお姫様は裳着(もぎ)を済ませたりっぱな成人(13歳くらい)なのですが、お歯黒や引眉(ひきまゆ)といった当時の女性がしていたお化粧をまったくしないのです。

両親が注意しても「人間はそのままの姿がいちばん美しいのだから」と相手にしません。


あるとき、両親が毛虫をかわいがっているお姫さまに

「そんなことばかりしていたらダメですよ」と注意します。

しかしお姫様はこう言いました。

「みんなはチョウになったらかわいいと言い、毛虫のときは気持ちが悪いと言う。でも、チョウになったらすぐに死んでしまうのだから、むしろ生きる本質は毛虫にあると思うのです」とーーー。


「この姫君はすばらしい」

と思うのです。

日本文学の中では変人と言われていますが、生きものをよく見つめ、真剣に調べて、その本質をつかんだ上で自分の生き方を選択しているのです。

これは現代に通じる世界観だと思います。


ちょっと調べてみました。

日本以外の国で1000年前にこれだけ自然と生きもののことを考えた人がいたかと…。

でも、いませんでした。


日本は、自然についてよく考える、すぐれた国なのです。

なぜでしょうか?

それは日本の自然がすばらしいからです。

砂漠の真ん中では「虫愛づる姫君」のようなお姫さまは生まれようがありません。


1000年前からつづく、自然を大切にする日本の文化を受け継ぎながら、コンピュータなど新しい技術を生んだ20世紀も踏まえたうえで、新しい科学や科学技術をつくっていくこと。

21世紀はとてもチャレンジングな時代です。

私はこのような新しい社会はできると思います。

逆にできなければ、人間の未来はあまり明るくないでしょう。


自分の体のなかには38億年にもおよぶ生きものの歴史が入っているという事実。

それをベースにものごとを考えていく「生命論的世界観」を持つこと。

それを忘れないで、日常生活を過ごすようにしてください。


◎若い人たちへの読書案内


すばらしい科学者によるすてきな本


湯川秀樹『宇宙と人間 7つのなぞ』(河出文庫)

江上不二夫『生命を探る』(岩波新書)

ジェームス・D・ワトソン『二重らせん』(講談社文庫)


中村先生の「愛でる」思想は


ここからだったのかと興味深い。推薦書も気になる。


他、各先生方も興味深いものがありますが


長谷川先生の推薦書への言葉がかなり愉快だった。


その他、各先生の推薦書をピックアップいたします。


長谷川眞理子


◎若い人への読書案内


アルフレッド・ラッセル・ウォレス著

アマゾン河探検記』青土社

ダーウィンとともに自然選択による進化を考えついたウォレスによるアマゾン河の自然だけにしぼって圧巻

現代の若者たちにとっては、未知の世界の探検に行く、というようなことは、もはやあまり想像がつかないことかもしれない。

それだけではなく、生物学を目指そうとする学生にとっても、さまざまな「生の」自然に触れるという経験はあまりない。

生物も地理も人間も文化も、世界がいかに多様性に満ちているかということを知るためにお勧めしたい。


スーザン・クイン著

マリー・キュリー(1・2)』みずす書房

キュリー夫人のことは誰でも知っているに違いない。

女性初のノーベル賞受賞者で、しかも物理学と化学の二つの賞を獲得した、素晴らしい科学者である。

しかし、彼女の人生は、子ども向けの「偉いひとの伝記」などではとても計り知れない激動の人生だった。

一人の女性としてのマリー・キュリー、研究への情熱、あの時代は彼女をあのように扱うしかなかったという時代の限界など、いろいろな読み方ができる伝記。


ブレンダ・マドックス著

ダークレディと呼ばれてーー二重らせんとロザリンド・フランクリンの真実』化学同人

DNAの発見については、ジェームス・ワトソンの著書『二重らせん』(講談社)が有名だ。

あれはあれで十分おもしろい。

が、その陰に、ロザリンド・フランクリンという女性科学者がいた。

本書も、先の書物と同じく女性研究者の伝記だが、なんといっても最終的に二つのノーベル賞に輝いたキュリー夫人とは大違い。

キュリー夫人の時代とは様変わりして、研究をめぐる競争がえげつないまでに熾烈(しれつ)になった状況での、女性研究者の人生の物語である。

ガンで夭逝してしまったのは残念でならないが、ワトソンの『二重らせん』と読み比べてみると感無量である。


村上陽一郎


◎若い人への読書案内

小林傳司著『トランス・サイエンスの時代』(NTT出版)

村上陽一郎著『科学の現在を問う』(講談社現代新書)

アル・ゴア著『アル・ゴア未来を語る』(中小路佳代子訳 講談社)


佐藤勝彦


◎若い人への読書案内

ガモフ著『不思議の国のトムキンス』(白楊社)

バロー著『宇宙のたくらみ』(みすず書房)


高薮縁(たかやぶゆかり)


◎若い人への読書案内

ソロモンの指輪』コンラート・ローレンツ著

怒りの葡萄』スタインベック

イワンデニーソビッチの一日』ソルジェーツィン


西成活裕


◎若い人への読書案内

吉川英治著『三国志』(講談社)

マーク・ピーターセン著『日本人の英語』(岩波新書)


福岡伸一


◎若い人への読書案内

ニック・レーン著『ミトコンドリアが進化を決めた』(みすず書房)

スティーヴン・ジェイ・グールド著

ワンダフル・ライフ』(ハヤカワ文庫)

人間の計りまちがい』(河出書房新社)

パンダの親指』(ハヤカワ文庫)

リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子

中垣俊之著『粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う』(文春文庫)


若くない自分でも読みたくなります。


各先生たちの特色を活かしたものなのだろう


けれど、群を抜いて気になったのは藤田先生の


推薦書とその推薦文でございました。


この2冊は意表をついている。


ご本人はそんなつもりなくこの書達が


自分のベースとなっているという事なのだろうが


そういうものの方がありがたかったりするなあと。


藤田紘一郎


◎若い人への読書案内

本多勝一著『極限の民族』(朝日新聞社)

私たちの作った現代文明は、より便利に、より快適に、より清潔にというような合理性と功利性を追求してきました。

しかし、「便利・快適・清潔」だけを一方的に求め、ひたすら経済効率のみを追求する社会では、人は正常な生き方ができないと私は思っています。

そのことを気づかせてくれ、実際に私自身がそのことを確かめてみるために、ニューギニアの高地民族やインドネシアのダヤック族、イラクの遊牧民などを訪れるきっかけを作ってくれたのが、この本だったのです。


星新一著『未来いそっぷ』(新潮文庫)

この本では、語り継がれた寓話などを、楽しい笑いで別世界へ案内する33編のショート・ショートで紹介しています。

しかし、よく読んでみると、たんなる楽しい笑いではありませんでした。

たとえば「たそがれ」の章では、朝起きてみると森羅万象、世の全ての自然や物品が疲れ果ててしまっていました。

あまりに長い長い間、人間たちに使われ、人間たちに奉仕し続けてきた結果、その疲れが一度に出て、死んでしまったのです。

しかし、人間だけは健在でした。

人間以外の全ては、人間による酷使に耐えかね、老衰状態になってしまったのですが、人間だけは元気だったという内容でした。


私たちが良かれと思って作り上げた「文明」に規制されながら進化すると、いつのまにか立場が逆転し、その文明に飼い慣らされた状態になるのです。

そのことに少しでも気がついてほしいという思いを込めて、この2冊を推薦したいと思います。


藤田先生のは自分としては目を引いたけれど


ただいま現在、今の時点ではってことで


なんだかとても腑に落ちるとでも


いうのでしょうか、こういう先生にもしも


若い頃会っていたらとてつもなく


影響されたであろう気がする


5時起床の早番勤務の1日でございました。


また日が経つと感じ方も変わるので


ございましょうが。


 


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②日高先生とローレンツ博士の対談から”無常”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

前回からの続きで


動物雑誌『アニマ』1976年3月号より


歴史は繰り返すか から抜粋


日高▼

その忘れることと関係があるのですが、人間は昔の経験したことを忘れる。

そして歴史は繰り返す、といういいかたがあります。

これはきわめて陳腐なようにも思えますが、必ずしも否定しきれないようにも思えます。

そのへんはどうお考えですか?


ローレンツ▼

さて、それは疑問ですね。

私は歴史そのものが繰り返すとは思っていません。

もし古典物理学が考えたように、宇宙に厳密な因果法則が存在すれば、すべての因果関係を知り尽くしているカント・ラプラスの「精霊」がいて、きたるべきすべての結果を知っているでしょう。

現代物理学では何事も正確には決定されていないことがわかっています。

そして種の進化、系統発生においては、どの段階もすべて歴史的事象であって、決して繰り返しません。

ですから私は、ある個人の人生の中でも何一つ繰り返すことはないとおもいます。

そして、もちろん宇宙論の見地から言えば、これはある帰結を生ずるのですが、私はそれについて語るだけの知識を持っていません。

しかし、アリ・ババ、いや、アリ・ババは御伽話の人物ですね(笑)、ベン・アキバは「かつて起らなかったものは起こらない」と言いました。

私はそれを逆にして、「かつて起こったことは起こらない」と言いたいのです。

これを最初にいった歴史家は私の知る限りでは、アーノルド・トインビーです。

私は多くの点で彼の意見に必ずしも同意しませんが、それをいったのは彼が最初だと思いますし、歴史主義の貧困について、またカール・ポパーも知性あふれた論文を書いています。


日高▼

人間は歴史に学ぼうとしているし、歴史に学ばねばならぬと思っています。

しかし、ぼくにはわれわれが歴史から学ぶことができるとはとうてい思えないのですが…。


ローレンツ▼

次のような諺があります。

「歴史が示すのは、われわれが歴史から学びえないということだ」。

これは悲しいけれども事実です。

人間はしばしば誤ちを繰り返していると思います。

その実例は科学の歴史がいくらでも見せてくれるでしょう。


日高▼

進化のおこるしくみについては、現在、突然変異と自然淘汰で説明されていますし、先生もその立場で考えておられますね。

けれど、一つの種というものはきわめて自己完結的にできあがっていて、現状に適応している。

そのものからまたべつの種ができるプロセスが、それだけで理解できるとはどうも思えません。

これについて先生は、本心というか、ほんとうのところどうお考えですか。


ローレンツ▼

わかりません。

しかし、私は突然変異と自然淘汰だけが進化をひき起こす唯一の要因だというつもりはありません

けれど、確実にいえるのは、私の系統発生的な研究の経験では、それ以外の要因を考えねばならないような例には、一度もでありませんでした。

ですから結局、私はダーウィン自身よりも、はるかにダーウィン主義者なのかもしれません。

エルンスト・マイヤーもそうですし、その他きわめて多くの遺伝学者、系統学者もみなそうです。

自然淘汰の効果を信ずる理由は多々あるのです。


日高▼

しかし、動物をみているとどうもわからなくなってくるのです。

自然淘汰だけで説明できるのかどうかが…。


ローレンツ▼

私もそうです。

人間はいつも疑問を抱いていますし、科学者は疑問を忘れてはなりません。

あなたもご存知のとおり、私はポパー主義者です。

カール・ポパーは私の子供時代からの友人ですが、認識に関するポパーやドナルド・キャンベルの理論によれば、科学的発見の論理、図形の一致、事実と理論の一致、誤ったものの排除など、すべて人間の認識活動には進化におけると同じ原理が予見されているのです。


科学から哲学へ から抜粋


日高▼

先生も『鏡の背面』で認識の問題を論じられておられますね。

あれは哲学者としての先生を知る上で、たいへん興味深く読みました。


ローレンツ▼

どんな分野の自然科学者も最後には哲学に向かいます。

ハイゼンベルクしかり、ワイゼッカーしかりです。

生物学者も物理学者も最後は哲学者になります。


日高▼

先生は初め医学部に入られ、結局は動物学をおやりになったわけですね。

途中では哲学もおやりになったと聞いています。

先生が動物学者におなりになったいきさつ、そして『鏡の背面』のような本を書かれるにいたったいきさつについて、おうかがいできればと思います。


ローレンツ▼

あの本は全く哲学的です。

どうしてそこにいたったかを、お話ししましょう。

私は父の希望で初め医学を勉強しました。

父はかなり著名な外科医で、私にもそれを望んだのです。

医学の勉強中、ウィーン大学の医学部で、えらい解剖学者のホフシュテッターを知りました。

けれど彼は偉大な比較解剖学者でもあり、秀れた比較発生学者でもありました。

私はこの人のおかげで、今存在している動物の比較から進化の系統樹を再構成する方法論を教えられたのです。

それに私は動物が好きで、動物のことをいろいろ知っていました。

私はごく自然に比較解剖学の方法が行動にも通用でいることに気づいたのです。

要するにそれだけのことです。

ずっと後になって、私は人間の行動に興味を持つようになりました。

そのときに私はカントを読み、大きな影響を受けました。

そして結局、この『鏡の背面』を書くことになりました。

そのきっかけは私が捕虜としてロシアにいたときなのですが、それはまたべつの話になります。


日高▼

日本の若い動物学者にひとことおっしゃってくださいませんか。


ローレンツ▼

一人の老動物学者として若い動物学者たちに言いたいのは、科学とはただものを測ったり、定量化したりするものだとは信じないでほしいということです。

生物学で一番大事なのはまず自分の眼を見開いて、生き物を観察することです。

そして生き物をその環境の中で把え、生物と環境の相互作用を見きわめることです。

そうすれば、人間が自分自身の環境に対して、どんな罪を犯しているかがよくわかるでしょう。


およそ50年前の対談とは思えないほど


悲しいが現代にも通じる文明への警告と


とれるのは自分だけの妄想だろうかね。


最近よく拝読する中村桂子先生にも共通する何か。


ダーウィニズムのことも言及されているけれど、


これはまた別の機会に深掘りしたい。


この対談は日高先生のローレンツ博士の気遣いが窺え


それが今西錦司先生はあまりお気に召さなかった様で。


でもそこが”ジェントル”で”粋”で日高節炸裂に感じた。


ツーショットではないが、写真もありお二人とも


強烈な個性だと感じた。


日高先生40代半ば、ローレンツ博士73歳くらい。


検索しても出てこないし、今の時代として


資料的な価値はないのだろうか。


ぜひ映像も見たいものでございます。



ネコたちをめぐる世界 (小学館ライブラリー)

ネコたちをめぐる世界 (小学館ライブラリー)

  • 作者: 日高 敏隆
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2023/12/11
  • メディア: 新書

ネコとローレンツ

『ソロモンの指輪』から抜粋


コンラート・ローレンツは、今でこそノーベル賞を受賞したオーストラリアの動物行動学者として、日本でもよく知られるようになったが、1950年代にぼくが彼の書いた『ソロモンの指輪』を訳していた頃には、日本ではほとんど知られていなかった。


ローレンツは1903年11月、ウィーン郊外のアルテンベルクに生まれた。

ウィーン大学教授で外科医であった父、アードルフ・ローレンツが、アメリカのある大富豪の手術をして得た莫大なお金で建て増しした、豪華な大邸宅の庭や、近くのドナウ川の川岸にある入江のようなところで、幼いコンラートは毎日動物たちと遊んだ。

夫人のグレーテは、当時動物たちと一緒に遊んだおさな友達である。


この6月(1982年)、ぼくは2年ぶりにローレンツをアルテンベルクに訪ね、今はもうすっかり老夫婦になった二人に会った。

広大な庭の一角に、崩れかかった小屋があった。

「あれが私の最初の動物小屋です」とコンラートはいった。


日高先生のローレンツ博士への謝辞が


横溢している随筆で、縁とか時間とか


無常とかを感じさせる深い随筆でございました。


このほか、追悼の随筆もあり息子トーマスさんや


最愛の妻グレーテさんが亡くなってから


一人になってしまったローレンツ博士を


慮っている様子が窺え、切なくなるので割愛しつつ


本日偶然古本屋さんで、『ソロモンの指輪』の


ハードカバーを見つけて、訳者あとがきを


立ち読みしたのだけど、寄稿された日が


ローレンツ博士の誕生日だったようで、


乾杯と結んでおられた。まだ対談する前のようだから


50年代のいつか、だったのか、


これまた時の流れを感じるなあと。


ここのところ急激に年末感が増してきた


世間がだんだん慌ただしくなってまいりましたため


休日の今日は本屋さん巡り以外は


大人しく家で過ごさせていただきました。


さつまいもを食べながら投稿している次第です。


 


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①日高先生とローレンツ博士の対談から”成熟”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

一昨日の休日に昔の雑誌『アニマ』1976年3月号を


神保町で入手する。


お目当ては、特集の「アリ」ではなくて、


幻の対談でございました。


ローレンツ人間と動物を語る


コンラート・ローレンツ博士が昨年の11月に来日された。

1973年度のノーベル賞者である博士は、動物行動学者で

あるとともに、医学者としても哲学者としても著名である。

博士の業績を数多く紹介している京都大学・日高敏隆教授との

対談は、ローレンツ博士自らが撮影した、

動物の行動についての映像の説明から始められた。


EC(エンサイクロぺディア・シネマトグラフィカ)の


設立にローレンツ博士が、自分の研究に


使っていた映像を提供したことから話は始まり、


動物の攻撃性についてを映像をもとに


日高先生に説明されている。


これは映像あるとないでは大きな違いで、


雑誌では写真で説明されているのだけど。


NHKクロニクル様是非とも、


アーカイブ配信いただきたいのでございます。


動物のモラル、人間のモラル から抜粋


日高▼

この間、ジョセフ・ミーカーの『悲劇的態度』を読んだのですが、じつに面白かった。

先生はあの本の序文を書かれていますね。

悲劇的なものを崇拝する態度が自然破壊の根源だという、ミーカーの指摘にはぼくもまったく共鳴します。


ローレンツ▼

全くその通りです。

ジェセフ・ミーカーによれば、悲劇的態度とは恐るべき自己の過大評価、おごりだと言います。

「そんなことをするくらいなら、私は死を選ぶ」

こうした自分の誇りに対する罪という意識は、軍人で言えば将校や武士の態度です。

動物はそんな態度はとりませんし、私だって決してそんな態度はとりません。

それは生か?名誉ある死か?という価値観の問題で、動物の行動にはないものです。


日高▼

さきほどから話されてきた闘争のしかたのきまり、その他、動物の社会行動にみられるきまりのようなものは、ある見方をすれば動物におけるモラルというか、道徳といえますね。

先生は以前、それを「モラルに類した行動様式」とよばれましたが…。


ローレンツ▼

全くそのとおりです。

それはいずれにせよ競争が必要だという道徳だといえます。

競争や自然淘汰は目的ではなく手段です。

したがって、相手を傷つけたり殺したりせずに、競争ができるような闘いかたを学ばねばなりません。

もちろん人間の政治の場合もこれは必要条件ですが、それが実現するのはむずかしいでしょう。


日高▼

人間のモラルとか道徳律といったものを、動物におけるそのようなモラルから演繹(えんえき)することができるでしょうか?


ローレンツ▼

いいえ、できません。

人間の道徳は内省、つまり、自分の行為の結果を自ら問いかける能力にもとづいています。

それはもちろん動物にはないものです。

動物の愛他的行動とは、他の家族を利するものをいうのですが、それはつねに系統発生的、本能的なものです。

しかし、人間の社会的行動のうちにも同じような具合にプログラミングされたものがあります。

それはまったく本能的なものです。


もし、子供が水に落ちるのを見たら、私は何一つ考えたりせずに、やにわに水に飛び込むでしょう。


ですから私は、人間の愛他的行動、正常な愛他的行動も、そのきわめて多くが本能的なものだと確信しています。


人間はそれを認めたがらないだけです。

人間は自分の行動がすべて理性に支配されていると信じたがります

知能的、理性的には動物は大部分の人々が考えている以上にわれわれと違っています。

とくに、動物の好きな人々が考えている以上に…。

けれど感情的には、彼らは私たちとたいへんよく似ています。

人間と動物の類似性は感情的なものにあるのです。


「愛他的」という表現は時代的なものなのだろうか。


弟子のドーキンス博士ならば「利己的」なのだろう。


ドーキンス博士のローレンツ博士から


受けた影響力やいかに、と思いつつ


ドーキンス博士の自伝、以前読んだ時は


全くのスルーだったのでもう一度読んでみたい


と思った。


どこまで本能か から抜粋


日高▼

先生は『攻撃』の中で、こんなことを言っておられますね。

「人間がまったく理性的に生きたとしたら、きっと天使に近いものになるだろうとカントはいった。しかし、それは正しくない。もし人間がまったく理性的に生きたらば、おそらく天使とは正反対のものになるだろう」と…。


ローレンツ▼

正確にはカントはそういっていません。

道徳とは自分の本能的傾向に逆らってなされた行為であると考えました。

けれどこれはまちがっています。

この点では私はカントと考えが違います。

しかし、私が自分の自然の傾向に逆らって行った行為は、そうでない行為よりもっと道徳的なものだということはおそらく正しいでしょう。

自分の自然の傾向に逆らって何かを行うのは道徳的なことです。

例えば、戦場で友人が傷つき、私が生命の危険をおかしながら弾丸をくぐって彼を連れて帰ったとします。

カント流のいいかたでは、これは道徳ではありません

私はそれをせずにはいられなかったからです

けれど、もしそれがまったく知らない男であったのに、私が同じことをしたら、カントはそれを道徳と呼ぶでしょう。

あなたが自分なり、他の個人なりの行為を判断し、評価する時には、おそらく自然の傾向に逆らってなされた行為をより高く評価するでしょう。

しかし、人類についていうのなら、自然的な傾向からそのような愛他的行動をとる人のほうが、「自分はそんなことはしたくないけれど、名誉のためにはやらねばならぬ」と思ってやった人よりも、いい人だというのは確かです。

友情から危険をおかしてくれる人は親友です。

彼はそうせねばならぬと教わったから、してくれる理性的な冷たい心の持ち主よりも、私を愛しており、私の心に近いからです。


日高▼

先生の考えによれば、人間の行動は学習されたものだといわれるけれど、実際にはほとんと全てが本能的というか生得(せいとく)的なものだというのですね。


ローレンツ▼

アメリカの古い心理学者、ウィリアムス・マクドウガルが、たしか次のようにいっていたと思います。

「人間には質的に違った感情がいろいろあるが、人間はそれと同じ数だけの本能を持っている」と。

これはまったく正しいと私は思います。


もちろん学習されるものは、文化によって違いますし、われわれが心を動かされ、熱中する対象も違っています。

ある人は戦争に熱中し、戦争に出てゆくのでしょうが、われわれはおよそ反対です。

ある人は煽動に熱中します。

そして私はチャールズ・ダーウィンに熱中します。

対象は違いますが、感情の基盤となる本能は同じです。

それが人間の人間たるところです。


日高▼

確かに人間は学習もしますが、学習するということ、学習できるということ自体が生得的なものなのですね。


ローレンツ▼

まさにそうなのです。

その逆に考えるのはまちがっていますし、ナンセンスです。

なぜなら、もしたくさんの細胞を含んだ脳が人間に遺伝的に備わっていなかったら、人間は何一つ学習できないからです。

われわれの文法的言語の能力の座は右利きの人では左側の側頭葉にありますが、もしわれわれに語彙を教えてくれる文化がなかったら、この器官は宝のもちぐされ同然になってしまいます。

そしてチョムスキーがはっきり示しているように、われわれが学習するのは言語でも文法でもなく、ある言語の語彙なのです。


日高▼

行動の発現、あるいは学習の可能性が、成熟に依存する場合も多いですね。

生得的にはそなわっているが、あるところまで成熟しないと現れてこないというように…。


ローレンツ▼

行動様式の多く、学習能力さえも、きわめてゆっくりと成熟してきます。

もちろん練習や訓練によって、この成熟を早めることはできます。

けれど、私は高校時代、数学がまったく不得手でした。

とくに、微分、積分には苦労しました。

ところが3年後、妻が試験を受けることになって、私が彼女の勉強を手伝った時、驚いたことに、実にスラスラと解けるのです。

ですから、たった三年の違いで、ちょっと前にできなかったものが、非常にやさしく学習できるということもしばしばあるのです。


日高▼

人間にはいくら教わってもダメで、自分で体験してみなければわからないというものもありますね。

あれはどういうことですか?

たとえば、ぼくはいつも冗談に言うのですが、小説をいくら読んでも恋愛はうまくならない…。


ローレンツ▼

まったく(笑)。

多くの学習にとって、それに特異的な時期というものがあるのだと思います。

そして、人間の神経系は能力一杯に使わねばなりません。

さもないと、筋肉と同じように萎縮してしまいます。

使わなければ退化してしまうのです。

脳についても同じなのです。

目の網膜、もっとやさしい言葉はなかったですかね。

目の光を感じる膜のことです。


日高▼

やっぱり網膜でしょう。


ローレンツ▼

他の言葉はないですね。

とにかくその網膜についてこんなことが知られています。

いささか残酷な実験ですが、チンパンジーの赤ん坊をまったくの暗闇の中で数ヶ月育てると、もはや光に感じなくなってしまいます。

ものを手にとることができず、そこらのものにつきあたります。

このことからある人々は、空間的にものを見ること、空間的な定位は、学習しなければできないといっています。


ところがよく調べてみたら、このかわいそうな赤ん坊ザルは、網膜が完全にだめになっていたのです。

完全に退化して、網膜らしきものすらありませんでした。

ある時期に学習されねばならぬ多くのことについても、きっと同じことが言えると思います。

「老犬には新しい芸を仕込めない」というのですが、人間にもあてはまるでしょう。


日高▼

ある経験や学習をしても、それが生きてこないということがありますね。


ローレンツ▼

そうです。

それが学習というプロセスの特徴です。

狭い意味での真の条件反応は消し去ることができるものです。

私の心理学の先生であるカール・ピューラーは、「学習とはふたたび忘れ得るもの」と定義しています。


動物からの視点で人間を考察するってのは


今では珍しいことではないのだろうけど


ローレンツ博士の現役の頃では


ダーウィンの時代ほどではないにせよ


今とかなり異なるのだろうなと。


日高先生の別の書で、村上陽一郎先生が解説を


されていて、日高先生が若い頃ラジオ出演し


質疑応答になった時、学校の先生が税金で


蝶の研究なぞ、役に立たないことをしていて


どういう了見なのかと問われていたようで


そんな時代だったのかと半世紀前の


興味深いエピソードが。


日高先生のその時の回答も書かれていたが、


それがまた先生らしくて素敵だったのだけど


村上先生曰く、日高先生はローレンツ直系の人だ、


というような記述があり、


なるほどなあ、と感嘆してしまった。


それにしてもこの対談、通訳を通さず


ドイツ語なのか英語なのかわからないけれど


拮抗する知性で渡り合えるのは日高先生を置いて


他にはないだろうなあとシビレまくった


夜勤明けの朦朧とした昼下がりでございました。


あ、雑誌は日本語で掲載されていて映像を


みてないので単に自分の想像でございますこと


謹んで付記させていただく所存です。


 


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2人の桂子先生の本から”クローン技術”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

村上龍氏と中村桂子先生の対談にて


話し合われていた、クローンの書について


ちと読んでみた。


翻訳を担当されたのが中村桂子先生でございます。


クローン、是か非か


クローン、是か非か

  • 出版社/メーカー: 産業図書
  • 発売日: 1999/08/01
  • メディア: 単行本

ドリーの流行 ルイの逆境

スティーヴン・ジェイ・グールド から抜粋


流行ほどはかなく、移ろいやすいものはない。

これほどでたらめに動き回る標的に対し、客観的記述と分析を旨とする科学者に、いったい何ができるというのだ。

悪者がはびこるのを防ぐために昔から使われてきた忠告(「増える前に消せ」)にならって、「消える前に数字を出せ」というぐらいのところだ。


この言葉を胸に深く刻んでいたのが、チャールズ・ダーウィンの従兄弟で、頭の良いチャーミングな奇人、統計学の父でもあるフランシス・ゴールトンだ。

あるとき彼は、美人の地理的分布を測ろうと思い立った。


結果は、スコットランドにとっては迷惑千万な話だが、美人は南へ行くほど増え、不器量の割合が一番高いのがアバディーン、美女が最も多いのはロンドンだった。


振り子の揺れに左右され、現れては消える流行の中で、進化生物学者にとって最も根源的な問いであり、広い意味での政治問題の中心となっているのが、人間の能力と行動についての遺伝子対環境の議論である。

このテーマには、何世紀ものあいだ誤った二分法が浸透し、英語では二つの選択肢を並べて「生まれ(ネイチャー)か育ち(ナーチャー)か」という、いかにも語呂がいい特別な表現までできてしまった。

分別のある人なら、これを「どちらか一つ」の枠組で考えるのは無意味とわかるはずだ。


それでも政治の風向きが変わったり、科学の新発見があって、二つのうちどちらかに光を当てると、またぞろ、生まれだ、いや、育ちだ、という議論が流行する。

ヒットラー政権下の悪夢は、劣等民族という、たわけた遺伝理論で正当化されていたという事実があるからだ。

その結果、心理学に行動主義が台頭した。

ところが現在は、やはり社会的、科学的影響によって、遺伝学的な解釈が大流行だ。


困ったことに、ひとたび熱狂に巻き込まれると、一時的流行を永遠の英知とはき違えてしまいがちになる。


現在の遺伝子説への傾倒がどの程度のものか、振り子がまた反対に振れて機会を逸する前に測ってみたいというゴールトン的欲求から、極めてニュース性の高い二つの記事を取り上げよう。


クリーン羊ドリーと、出生順が人間の行動に与える影響についてフランク・サロウェイの著作である。

一見、この二つは何の関連もないようだが、実は現在の遺伝子重視の傾向に対して、深い洞察を与えてくれる共通の特徴がある。

つまり、どちらもほとんど遺伝学の用語で書かれていながら、実は環境がいかに強い影響を持つかという証拠として読んでほしいと叫んでいるのだ(少なくとも私にはそう見えた)。


ところが、この誰の目にも明らかな推断を下すもの(口にする者さえ)はいなかった。

遺伝理論の流行以外に、この怪しげな沈黙を説明するものを私は思いつかない。

もしまったく同じ情報が、「育ち」に基づく解釈が好まれた20年前に与えられていたら、間違いなく今とは反対に読まれでいただろう。

我々の世は、無知と悪に満ち、背後には闇が広がっている。

常に二つの光を輝かせているのはなかなか難しい。


ヒツジの創造 から抜粋


ベートヴェンのクローンが、ある日、彼と同じ19世紀初頭のスタイルで第十交響曲を書き始めると、誰が真剣に思うだろう。

つまり、一卵性双生児こそ、本物のクローンーーあらゆる点でドリーと母親よりも似ているーーなのだ。


かといって、それぞれの個別性を疑う人がいるだろうか。


ドリーの議論となると、この大原則が見逃されてしまうのは何故だろう。


国王殺し から抜粋


知的社会においては、流行を事実と区別する態度は最も歓迎される。

流行には常に懐疑の目を向け(特にその時の習慣が自分の嗜好に合っている時は)、常に事実を尊重せよ(「事実」に見えることが、一時的な流行に過ぎないこともあると知りながら)だ。

私は「熱い議論がなされている」二つの話題を検討してきたが、今のところ遺伝子説の流行が、重要な環境説の論点を見えにくくしており、その意味深さが十分に伝わらず、正確には理解されていないのではないかと心配だ。


初めてクローン技術で生まれたヒツジについて本当に一個の独立した存在なのかと頭を悩ませている時には、ドリーと母親よりも類似点の多いクローンーー一卵性双生児ーーが育ちの違いによって、まったく別の人格を持っているのが当たり前と思っていることを忘れているのだ。

また、出生順の影響についても、ダーウィン説を持ち出し、家庭内の地位と生態学的地位を比較しようとするだけで、これらが遺伝では説明できず、「育ち」の影響の大きさを示していることに眼を向けようとはしない。


ようこそ、ドリー。

その製造方法が永遠に制限されること、少なくとも人間に対してはそうあって欲しいと思う。

だが同時に、遺伝子重視の思考習慣が、一生を通じて環境がもたらす多様性への興味を失わせないことも願いたい。

そこには複雑にからみ合う自然の中で流す涙があり、喜びがあり、尽きることのないふしぎが満ち溢れているのだから。


初出『ナチュラル・ヒストリー』vol.106,no.5, 1997年6月号


クローニング、何が悪い


リチャード・ドーキンス から抜粋


科学と論理は共に、何が善で何が悪かという問いには答えられない(Dawkins,1998)。

殺人でさえ、科学の論理では悪であると証明できないのだ(いつだったか、ラジオのインタビューで証明しろと言われたことがあるが)。

だが科学は独断主義者に対し、その信条には矛盾があることを示す論理的な根拠や科学的事実を展開して、彼らを論破することはできる。


クローニングは、私たちの気持ちをどちらの方向へも変えられる科学的思考の力についての、ケーススタディとなる。


クローン羊ドリーに対する世間の反応はさまざまだが、クリントン大統領以下、こんなことは人間には許されないという合意はあったようだ。

クローニングしたヒト組織の培養によって得られる医学上の利点を強調していた研究者も、自分の信用を落とすことを恐れて慎重になり、熱心に、成人からドリーのようなクローンをつくることに反対を表明した。


だが、クローニングそれほどいとわしく、可能性すら考えてはいけないものだろうか。

誰でも、心のどこかで自分のクローンをつくってみたいと思ってはいないだろうか。

ダーウィンが自説を述べた時と同じように、これも殺人の告白をするくらい勇気がいるが、私はクローンを作ってみたいと思う。


その動機は、自分の死後、もう一人の自分が生きていれば世界が良くなるだろうなどという自惚れではない。

そんな幻想は持ってはいない。

純粋な好奇心だ。


繰り返すが、科学は何が善で何が悪かを教えてはくれない。

自然という本の中には、豊かな暮らしのためのルールも、社会をうまく治めるためのルールも出ていない。

だからといって他の本や教育が役に立つというわけではない。

ある種の疑問が出た場合、科学が答えられないなら宗教が答えてくれるという誤った思考をしがちである。

こと倫理や価値観が絡むと、本を読んだからといって決まった答えは出てこない。

私たちはもっと大人になり、自分たちが住みたい社会をはっきりと思い描き、それを実現するため実際的な難問を、考え抜いた上で解決していかなければならない。

民主的で自由な世の中を望むなら、誰もが納得する理由がない限り、他人の希望を妨げるべきではない。

ヒト・クローニングについても、それを求める人が出た場合、禁止を主張するにはクローニングが誰に対しどんな害があるのか、明示する責任がある。


この論文は、1997年『イヴニング・スタンダード』と『インディペンデンス』の二紙に掲載された記事に手を加えて書き直したものである。



いのちの時

いのちの時

  • 作者: 柳澤 桂子
  • 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
  • 発売日: 2002/03/01
  • メディア: 単行本

IV 美しい科学へ

遺伝子の多様性 から抜粋


20世紀末に起こったもう一つの大きなできごとは、クローン・ヒツジ・ドリーの誕生であった。

この技術を使ってヒトのクローニングもできるであろうと報じられた。

クローン人間の作成と、ヒトゲノムの解読は、自由に遺伝子を入れ替えて、「完全」な人間をつくろうという考えに拍車をかけることになった。


このニュースに嫌悪感を持ち、ただちに「ヒト・クローンの作成禁止」の法律を決めた国も多い。

しかし、科学者の中には、この嫌悪感を否定し、ヒト・クローンの作成をどんどん続けるべきだという人々もいる。

DNA二重らせん構造を発見したワトソンは、「合法であれ、非合法であれ、人間のクローニングのために広範な努力をおこなうとするならば、その機は熟している」

とアメリカの議会で証言した。


クローニングに賛成の立場をとる著名人のグループで一番大きな組織は、「国際ヒューマニスト・アカデミー」である。

この組織は、クローニングの禁止を「反合理的な選択」と呼び、クローニングの禁止を考慮しなおすようにという声明文を発表した。

この文書に署名した人々の中には、クリック、ドーキンス、社会生物学の父といわれるウイルソンなどが含まれている。


ドーキンスの「純然たる興味」からクローン人間をつくってみたいといい、「50歳若い自分の小さなコピーが見られると思うと、個人的に興味がそそられる」と述べている。

これらの科学者の動機をみると、クローン人間をつくって有名になりたいとか、ドーキンスのように、ただ単に興味があるというものまで、その思慮の浅いことに驚かされる(『クローン羊ドリー』G・コラータ著)。


私もクローンにたいする違和感をもっている。

しかし、「なぜ」と問いかけてみても論理的な答えは出てこなかった。

そして、いろいろな書物にあたってみたが、賛成論者も、けっしてたしかな理論を持っているわけではない、ということに気づいた。

論理的な反対理由を考えるのに2、3日の時間が必要であったが、私はかなり確かと思われる理論に到達できた。


私がここで主張したいことは、ヒトのクローニングの前にたくさんの動物実験をするべきだということである。

クローニングでできた個体がどのような運命をたどるかということを調べなければならない。

私たちはまだ何も知らないのに、ヒト・クローンで騒いでいる。

このようなことは、かつての生物学が健全であった時代には起こらなかったことである。


科学は美しいものである。

科学ではデータは公開され、新しい技法は、無償で、希望する人に教えられる。

このような無欲な科学の公開性が妨げられ、物欲や名誉のために科学が利用される場合には、恐ろしいものに変貌する。

科学をいつまでも美しいものにしておいてほしいと願わずにはいられない。


柳澤先生のこの言説は、2017年NHKで観た


福島智先生との対談での


「超えてはならない領域がある」に


つながるのだろうと感じた。


とはいえドーキンスさんを擁護するわけではないが


この文章だけを読む限りだけど、クローン技術を


禁止するにしてもその理由を明らかにするべき、と


結んでいるのがミソではないかと思うわけでして


確かにインパクトの大きい方の言説にしては


軽率な発言も含まれてるなあと思いますけれども。


羊のドリーは2016年までだけども


顛末が記事としてあったけれど、


それはそれで一旦置きまして


90年代時点でのこれら論争は各科学者の態度や


心持ちみたいのが窺い知れて興味が尽きない。


ルールとかも定まる前だからカオス状態で


今でいうとChat GPTというか生成AIの


各国の対応のようで。


自分なぞは科学知識ゼロなものだから


思わず感覚だけで”モラルが”と言ってしまいそうで


そう感じることは否めないのだけど、


ちょっと飛躍するがヒトの命が関わるものとして


原発と同じようにリスクが特定できないものを


作れたとしても本来は運用できない筈と思うが


科学を技術として利用する際、利権が絡むと


おかしなことになってしまうというのは


昨今の世の中として想像できてしまうなあと感じる。


そこに巻き込まれてしまうということで


なかなかに恐ろしいことだと思うが


科学者に限らず、一般の自分らにも波及している


なにかのような気がしてこれは避けられないのか


とか、遺伝子とか科学だけではなく


環境破壊とか、戦争とかも、悪い意味で


繋がっているようで非常に厄介で込み入った話だと


強く感じつつも、本日神保町古書店へ


年内最後だろうフィールドワークに朝から出かけ


夕食も済ませるとこの時間はすでに瞼が重く


思考も停止間近であるがゆえ、そろそろ


お風呂入ってこのテーマの続きは


またの機会に譲らせていただきつつも


ジョン・レノンの命日かと感じ入る冬の一日でした。


 


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