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養老先生と高橋先生の解説から”情動”に触れてみた [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2019/10/31
  • メディア: 単行本

ALL REVIEW


養老孟司


既存の概念見直し脳機能を考える から抜粋


主題は喜怒哀楽という言葉に代表される情動である。

脳には主として情動を担う部位がある。

たとえば大脳辺縁系。

私のように古い教育を受けた者には、そういう知識がしっかりと入っている。


著者はそれをほぼ全面否定する。

そもそも喜怒哀楽、情動とはどういう基準で確定されるか。

顔の表情でわかる。ではそれを解析してみよう。

表情は顔面筋の動きで測定可能なはずである。

では怒りの場合に、どの筋肉がどのくらい動いているか、たとえば筋電図で調べてみよう。結論ははっきりしている。定まった結果が得られない。


さまざまなことをあらためて考え直す必要がある

著者はそれを試みる

従って、多くの概念をあらためて見直し、さらには新語を作りださなければならない

だから古典的な脳科学の教育を受けた人には、読みにくいだろうと思う。

古典的には常識になっていることを変えなければならない。

著者は学会で聴衆の一人を怒らせたという挿話を紹介する。

無理もないと思う。

常識を変えるのは簡単ではないからである。


新しい見方は、新しい用語を必要とする。

水は子どもでも知っている物質である。

しかし化学ではそれをHとOで記す。

HもOも日常とはなんの関係もない、その意味では未知の概念である。

HやOという未知の概念で、水という既知の物質を説明する。

既知を延長すればわかる。

それは知的怠惰である。

著者と訳者は、巻末に丁寧な解説資料を付している。

これを大いに参考にしてほしい。


脳科学という視点からの流石の考察を


養老先生はされている。


さらに、翻訳の難しさも指摘されているくらい


ただいま現在の日本語にすると


違和感があるのだろう。


新しすぎて今は理解できないものなのかもしれない。


訳者 あとがき


から抜粋


最初に、本書の二つの主張を端的に記しておく。

一つは、情動についての従来の見方を覆す、著者独自の「構成主義的理論」を説明すること。

二つ目は、その理論が人間の本性について新たな見方をもたらし、ひいては社会にも大きなインパクトを与えることだ。


情動、ひいては人間の本性についてのまったくの新たな見方を提起する本書の性格上、ややわかりづらい用語が使用されている。

もちろん読み進めれば理解できるように書かれてはいるが、その一助となるべく重要な用語のみに絞って読解の指針を紹介する。


・情動(emotion)ーーー「情動」という用語は、日本だろうが英語圏であろうが、著者間で一貫性があるようには見受けられない。

しかしこれまでの訳者の読書経験から言えば、主観的であるがゆえに本人の自己申告によってしか知り得ない経験として「感情」を、表情や、何らかの生理的な指標(たとえば心拍数など)によって客観的に(すなわち科学的に)測定可能な現象として「情動」をとらえている場合が多い。

本質主義を否定する著者がこの見方をとっていないことは本書冒頭から明らかになるが、著書本人にメールで問い合わせたところ、「慣例にしたがってそのように考えている科学者もいるが、自分はその見方をとらない」という回答があった。

その内容は以下の三つに要約される。


「情動」は、感情(おもに自律的な内受容感覚)とは異なり、身体と外界の相互作用をもとに構築された知覚(perception)である。


②前述の「知覚」は「意識」と同義で、無意識的であるような情動は存在しない


知覚の構築には、「気分の性質」「行動」「世界を経験するための手段(すなわち評価)」「自律神経系の変化」などが関与している。


ここで特筆すべきは、著者は情動に関して意識の介在を前提としており、情動の構築には「概念」が必要だという本書の記述からも、情動構築の基盤の一つとして認知作用を据えていると読み解けることである。


この他、出てくる用語として、


概念(concept)とインスタンス(instance)、


気分(affect)、表情(facial expression)と


相貌(facial configuration)、


感情的ニッチ(affective niche)、縮重(degeneracy)、


構成主義(constructionism)なども解説されている。


高橋洋先生の解説が、これまたシャープで深い。


ものすごい知識量から絞り出されているようで


爽快だけれども、若干読んでいて怖さを感じた。


肝心のリサ博士の内容だけど一言で言うと


浅学非才な自分では、あまり理解できない。


そんな輩に向けても高い文章力からの技術で


平易に書かれているのは分かるし


興味深い内容であることは間違いないのだけれども。


最大の争点、自分にとってってことですが


「感情」とどう違うのか、はなんとなく分かった事が。


身体性を伴う意識で構築されているもの、


とでもいうのか。無意識の領域では一切ないのだね。


フロイトやユング、岸田秀・河合隼雄先生を


読むととさらに分かるのかもしれない。


「意識」と「無意識」は自分にとって


かなり興味深いテーマで、音楽とか芸術って


そことのコネクトだったりするからなあ、と


情動のなんたるかまで辿り着けずにいることに


気づけない愚かというワードは自分のために


あるのかもしれないと思いながらも


GWという世間の流れに乗っての休日


風呂掃除とトイレ掃除して参ります。


その前に朝ごはんですな。


 


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5冊の養老先生の紹介する池田先生を纏める [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

ほんとうの環境問題


ほんとうの環境問題

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/03/01
  • メディア: 単行本

あとがき から抜粋

池田さんが環境問題がいま心配だと、珍しいことをいう。

どこが珍しいかといって、そういういわば政治的な、時事的なことを、本気で心配しているらしかったからである。


池田さんも私も、要するに虫屋である。

虫が好きで、なにかというと、虫捕りに行ってしまう。

実は環境に「超」敏感である。



正義で地球は救えない

正義で地球は救えない

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/10/01
  • メディア: 単行本

あとがき から抜粋

世の中が変なのか、私が変なのかと問えば、そりゃ変なのは私に決まっている。

世間は多数で、私はひとりだからである。

若いときからそう思ってきた。

だからいまでも、変なのは世間ではなく、私に違いないと思っている。

でも似たような変な人がいるもので、共著者の池田君がそうである。

ただし変だというのが似ているだけで、どこがどう変なのか、そこは別段似ているわけではないと思う。

ただし虫がなにより好きというのは、まったく同じ。

前著『本当の環境問題』で、変なふたりが世間を憂えてみたら、読者があんがい多かった

それなら、そう変ではないのかもしれない

それではというので、また世を憂えてしまったのが、この本である。



もうすぐいなくなります―絶滅の生物学―(新潮文庫)

もうすぐいなくなります―絶滅の生物学―(新潮文庫)

  • 作者: 池田清彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/01/28
  • メディア: Kindle版

解説から抜粋

著者の池田清彦は、絶滅という主題を徹底して客観的に論じる。

絶滅という言葉が含む情動性に気づいているからであろう。

情動は科学ではない。

科学の背後に動機として隠れているものである。

絶滅するのはいったい何なのか。

はたして遺伝子か、種か、大きな分類群か。

恐竜なら、鳥になって生き延びてしまったではないか。

絶滅を語るとき、論者はまたして絶滅とは何を意味するか、明確に考えているだろうか。

それを池田は丁寧に、鋭く突く。


かつて池田自身、「科学とは変なるものを不変なるものでコードする」ことだと喝破した。

言葉は「不変なるもの」である。

時間とともに変化しないからである。


池田先生のいう”時間”をディープなレベルで


考察されていて、確か池田先生の著作で


”時間”をテーマに書かれている未読本が


あったなあと。嬉しいような悲しいような。


他にも山積している未読本が…。



臓器移植我、せずされず (小学館文庫 R い- 14-1)

臓器移植我、せずされず (小学館文庫 R い- 14-1)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2000/03/01
  • メディア: 文庫

解説 臓器移植へのラディカルな反論

から抜粋


私が最初に池田に出会ったのは、柴谷篤弘の主催した構造主義生物学のシンポジウムだったと思う。

このとき池田はたしか英語で発表したと思うが、なにをいっているのか、皆目わからなかった

構造主義とはわからないもので、そのわからなさを主題にしたイギリスの小説があるくらいだから、わからなくていい。

でもその後、池田の著書を読んだり、さまざまな会合で話を聞いているうちに、やっと少しわかってきた

なぜわからないかというと、基礎から論じるからである。

それが学問だというのは当然の話だが、いまはわからないと、学生が説明してくださいという時代である。

説明されればわかると思っている。

いくら説明したって、わからないことはわからない

私は陣痛をいう痛みはわからないのである。


それなら池田の話はきわめてわかりにくいかというなら、私の話よりずっとわかりやすいのではないかと思う。

歯切れのいい、かなり辛辣なことをしばしばいう。

山梨にしては珍しいではないかといったら、俺は東京の下町だ、ビートたけしと同じ学校だといわれてしまった。


そう聞けばわかる。

山の手でないことはたしかである。

そもそも風体が違う。

最近しばしば池田と一緒に東南アジアに虫捕りに行く。

池田もそれなりのスタイルを作ってはいるが、暑いところだから、ふだんは短パンに草履を履いて、ビールを飲んでいる。

どうみても下町のオッサンである。


辛辣なことをいうので、ときどき人に嫌われるらしい。

変なしっぺ返しが来ることを、たまにボヤいていることがある。

それは相手の単なる誤解である。

なぜなら性格はたいへんやさしい。

他人に悪意を持つような性格ではない。

虫好きで、若い頃はとんでもない非常識家だったことは、半生の記録を読めばわかる。

生物学者』(実業之日本社)という本である。

こういう無茶をしてきた男がそろそろ中年を過ぎようという年齢で、ものごとがわかっていないはずがない


自分の子どもたちが、なぜか生物学をやる。

そういって不審そうな顔をしている。

親父がこれだから、子どもはそんなものは嫌うと思っているらしい。

よい父親であろうということが、このことでもわかる。

意地の悪い人は、それは池田の奥さん、つまり母親のおかげではないかというかもしれない。


あるとき池田のお母さんが入院して、当時はまだ東大の医学部に勤めていた私の部屋に立ち寄っていったことがある。

そのときの心配ぶりを見て、私よりずっと暖かい人柄だと感じた。

自分の母親に対して、私はあれほど細やかに心配はしない。

いまもそう思っている。

だから学生にも好かれるはずである。

学生がこの大先生を友だち扱いしている。

言葉遣いがそもそも先生に対するものではない。

山梨大学にときどき行く男がそう報告していた。


池田先生のこの書での言説は、


自然界のものは傲慢な生き物が勝手に


どうこうできるものじゃないんだ的な


松井孝典先生の「レンタルの思想」の思想との


類似性を指摘されている養老先生。


『生物学者』は今ではタイトル変わり


自分の中では池田先生の書かれたものの中で


一番好きな書でございます。


全著作を読んでるわけではないけど。


ちなみに養老先生1937年生まれなので、


この時点で当時63歳、


「そろそろ中年を過ぎようという年齢」の


池田先生は1947年生まれの当時53歳。


四半世紀も前のお互いの関係は


今も継続されているようで


こちらは、養老先生84歳、池田先生75歳。



年寄りは本気だ: はみ出し日本論 (新潮選書)

年寄りは本気だ: はみ出し日本論 (新潮選書)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/07/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


まえがき から抜粋


池田は故堺屋太一が言った「団塊の世代」に属する。

私は団塊嫌いと言われることもあるが、妻も典型的な団塊の世代で、その世代に友人も多い。

池田はじつに頭の良い人で、なにしろ天下の英才を集める東大医学部にいた私が言うのだから、間違いあるまい。

もちろん「良い悪い」を言うには物差が必要である。

池田の場合はものごとの本質を掴んで、ずばりと表現する。

そこがきわめて爽快である。

しかも理路整然、理屈で池田にケンカを売る人はほとんどいるまい


前にも書いたことあるけれど、


怖いです、池田先生は。


まさにインテリヤクザそのもの、


もしくは、お二人のことをいうのだろう。


あー、こわっ。だからこそ、面白くて、深い。


『臓器移植 我、せずされず』は、


すでに絶版で題名がご自分の意図するところと


異なることを指摘されていたのを新装版の


電子書籍(『脳死臓器移植は正しいか』)で拝読。


ちなみに新装版は残念ながら養老先生の解説が


割愛されておりますことをご報告させて


いただきたく、なので旧版からの抜粋だった事を


雨降りの関東地方、朝から頭痛に悩まされ


自然と身体はリンクしていることを痛感する


我が身からのご報告となります。


全然関係ないのだけれど、英語に関する


池田先生のご意見が10年以上前週刊朝日に


掲載されており、かなり面白かったので


リンクさせていただきます。


 → 英語できない議員がTOEFL推進 池田教授あきれる


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ゲノムの事典から”倫理”の入口に立つ [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

バイオ・ゲノムを読む事典


バイオ・ゲノムを読む事典

  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2004/02/20
  • メディア: 単行本

編集者によるまえがき

から抜粋


今から半世紀前の1953年、ワトソンとクリックが遺伝子の本体であるDNAの二重らせん構造モデルを発表しました。

遺伝現象が、分子のレベルで説明できたのです。

これ以後、バイオの世界はDNAを基幹に発展してきたと言っても良いでしょう。

1960年代には、生命現象を分子の言葉で語る分子生物学が誕生しました。

そして、1973年にコーエンとボイヤーにより遺伝子組み換え技術の基本となる特許が出願されました。

人類は遺伝子を操作する手段を手に入れたのです。

この技術により1979年には、ヒト・インシュリンが生産されました。

そして1982年、遺伝子組換え医薬品の市販が米国で認められました。

科学的事実の発見から、基本技術の確立まで四半世紀、事業化までは30年程かかったことになります。


1985年には、ヒトゲノムDNAの30億に及ぶ塩基配列(シーケンス)を解読するというヒトゲノムプロジェクトが提案されました。

当時は、巨大科学への研究資金投入について賛否の議論が巻き起こりました。

しかし2000年、想定していたよりも早く、概要解読結果が発表されています。

その背景には、国際共同プロジェクトチームのみでなく、クレイグ・ベンダーが1998年に設立したベンチャー企業セレラ・ジェノミクス社との競合があったことは今や広く知られています。


21世紀に入ってポストゲノムシークエンスの時代となり、遺伝子の機能解析やタンパク質の構造・機能解析に力が注がれています。

これらの研究の先には、遺伝的に規定された個人の体質に合ったオーダーメイド医療など医療の進歩・革新を始めとして人類への計り知れない恩恵が期待されています。


日本における産業としてみた場合、遺伝子組換え技術等いわゆるニューバイオ産業の市場は1兆数千億円程度であり、まだまだ、これからの産業であると言えます。

ただし、従来型のバイオテクノロジーや周辺分野の発展も含めて、バイオマス、機能性食品、バイオ研究ツール、バイオインフォマティクス等産業の幅は確実に広がっています。


バイオテクノロジー・ゲノム科学の進展は、一方で、生命倫理の面や環境・安全面でも大きな問題を投げかけている点を見逃すことはできません。


例えば、個人の遺伝情報の保護や遺伝子診断、クローン動物作製などES細胞を用いた再生医療の研究のあり方、遺伝子組換え作物(GMO)やバイオ施設の社会的受容性などの問題が議論されています。


これらの課題は、いまや一部の科学者や産業界の企業家のみに課せられているわけではありません。

人類の未来を創るためにも、私たちはバイオ(生命科学)についての知識と見識を持たなければならないと思います。


III バイオテクノロジーと生命倫理


生命倫理と国際的対応


(米本昌平)


から抜粋


21世紀の生命倫理の課題は、国際的な基準の確立である。

先進国間にも基準の不統一があるし、南北間にはこれまでには本格的にはとりあげられていない価値観の段差がある。

生命倫理の問題一般に対して、米国社会は、技術使用は原則自由とし自己責任とプライバシー原理によって本人の選択に委ねようとしているのに対して、欧州社会は普遍的価値感を確立させようとしている。


ユネスコ本部はパリにあることもあって、ヒトゲノム宣言は主にフランスの立法官僚の影響下で作成された。

冷戦時代に米国と英国が脱退したままであり、日本はユネスコの経費の4割近く出す最大拠出国なのだが、宣言の作成にはほとんど関与できていない


ヒトゲノム宣言の重要な側面は南北間の協力がうたわれていることである。

生物多様性でもヒトゲノムの多様性でも、発展途上国は一方的に資源を供給する側で、これを元に北側が研究活動とその産物である特許を独占し、南側に売りつけることに不満が生まれている。

これはbiopiracy(生物資源収奪)と呼ばれる。

ヒトゲノム研究の国際調整組織、HUGO(ヒトゲノム機構)の倫理委員会は、ヒトゲノムの研究から未来世代を含めたあらゆる人たちが基本的な保健福祉を受けられるよう、商業開発に成功した企業が1〜3%を拠出することを提案している。


さらにヒトゲノム宣言は、ヒトクローンの禁止にも言及している。

欧州連合(EU)や世界保健機関(WHO)も、ヒトクローンの作製禁止を表明しており、この問題については強制力を持った国際禁止条約の作成に向けた提案もされている。

さらに、軍事利用の禁止や知的所有権など国際的に対応しなくてはならない課題は多い。


東日本大震災も、iPS細胞も、


EU統一からのイギリス離脱も、


コロナのパンデミックも、


ウクライナ侵攻も、


イスラエル・パレスチナ戦争も


経験していない世界だった頃の


バイオ・ゲノムの書で平易にかかれていて


市井の人間にも比較的読みやすいものだけど


科学と無縁な自分が読んでもなあ、とか


だからこそ読むんじゃ、とか思ったり。


それはそれとしてこの書で


倫理を担当されている米本昌平先生の使う


「南北」という表現がとても違和感あり、


具体的には何を指すのか気になった。


なんとなくわかるとはいえ。


それだけにとどまらず、米本先生の


お考え自体気になり何冊か米本先生名義の


書籍を購入してしまった次第でございますが


そもそも倫理という枠で括って良いのかすら


よくわかっておりませんで、過日読んだ書


併せての新たなテーマに遭遇してしまった


感のある午前5時起床での仕事だった本日は


すでに眠くなってきたのでございます。


 


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クーン博士の難解な”構造”の周りを読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


科学革命の構造 新版

科学革命の構造 新版

  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2023/06/13
  • メディア: Kindle版

序説

50周年記念版に寄せて


イアン・ハッキング


から抜粋


古典的名著といえる本は、そうそうあるものではない。

本書はそんな名著のひとつだ。

読めばそれとわかるだろう。


この序説は飛ばして読み始めるといい

今から半世紀前に、本書がいかにして生まれたのか、本書の影響はどのようなものだったか、本書に主張されていることを巡ってどんな論争の嵐が吹き荒れたのかを知りたくなったら、ここに戻ってくればいい。

今日における本書の位置付けについて、ベテランの意見が聞きたくなったら、戻ってきてほしい


ここに述べることは本書の紹介であって、クーンと彼のライフワークを紹介するものではない。

クーンはつねづね本書のことを『構造』と呼んでいたし、会話の中ではただ「例の本(the book)」と言っていた。

私は彼の使い方に倣うことにする。

『本質的緊張』は、『構造』の刊行直前か、またはその後まもなく発表された哲学的な(ここでは哲学的を、歴史的に対する言葉として使っている)論文を集めたもので、たいへん参考になる。

そこに収められた論文はいずれも、『構造』への注釈、ないしその拡張とみなすことができるので、併読するにはもってこいだ。


ひとつ、あまり語られていないことがある。

あらゆる古典的名著がそうであるように、本書は情熱のなせるわざでもあり、ものごとを正しく理解したいというひたむきな願望の表れだということだ。

第1節序論冒頭の控えめな一文からさえ、そのことははっきりと見て取れる。


「歴史は、もしもそれを逸話や年代記以上のものが収められた宝庫とみなすなら、現在われわれの頭にこびりついている科学のイメージに、決定的な変化を引き起こすことができるだろう」。


トマス・クーンは、科学についてのーーーすなわち、良きにつけ悪きにつけ、人類がこの惑星を支配することを可能にした活動についてのーーわれわれの認識を変えようとした。

そして彼はそれに成功したのである。


訳者あとがき から抜粋


周知の通り、単行本としての『科学革命の構造』は1962年にシカゴ大学出版会から原書が刊行されたあと、1971年に中山茂訳の日本語版がみすず書房から刊行され、以来日本でも半世紀以上にわたって広く読まれてきた。


『科学革命の構造』の内容は第二版の刊行を持って定まり、第三版では本文の改定はなされなかった。


しかしクーンの没後、2012年に刊行された原著第六版は、刊行50周年を記念してイアン・ハッキングによる序説を巻頭に収録し、これからの読者に向けて装いを新たにするものとなった。

ハッキングの序説ではクーンのこの著作によって広められた「パラダイム」「通約不可能生」「通常科学」などをはじめとする重要語・概念について、今日的な視点からの解説がなされ、その意義が歴史的に位置付けられている。

ハッキングは自分の序説を飛ばして読みはじめるようアドバイスしているが、『科学革命の構造』がどういうものかをあまり知らずに読みはじめる人にはとりわけ、今回追加された序説は良い手引きになるだろう。


2022年11月 青木薫


青木先生ご指摘のように、読んだほうが良い


ハッキンスさんの序説は


CDでいえば、質の高いライナーノーツのようで


当時の世相や社会状況、この書の生まれる時代背景等


書かれていてクーン先生のことをイメージしやすい


って、ライナーノーツはねえだろう、例えとして


って思っております。


肝心の中身は難しすぎてわからないところが


多かったが、単語や人名等ひっかかるものがあり


機会があれば、ないかもだけど改めたい所存です。


ちとこれは高いハードルすぎるのかもしれない。


余談だけれど、日本版の本の装丁のデザインが


とても良いと思った次第でございます。


それにしても低気圧だからなのか頭が痛い


自然と身体の関係という構造を感じざるを


得ない平日の休日の午前中でございました。


 


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柴谷篤弘先生の2冊から”差別論”の変遷を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

反差別論: 無根拠性の逆説


反差別論: 無根拠性の逆説

  • 作者: 柴谷 篤弘
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 1989/10/01
  • メディア: 単行本

プロローグ

から抜粋


天皇制をはじめ、いろいろな社会の制度、あるいは疑制度に対する反対運動が、目につくようになってきた。

私はいま外国にいて、この種の話を外国語で論ぜねばならない。

そのときには、天皇制反対のことを言うには、アンチ・モナーキストといった表現をとっている。

モナークはすなわち君主、王者である。

こういった国際的な表現をとると、ただちに、それではレパプリカン、共和主義なのか?ということになってくる。

日本の天皇制反対論には、反対・批判はあるが、それでは、どういう対策があるのか、という点について、はっきりと出されなかった。

昭和天皇がなくなって、はじめて、新しい憲法草案などを試みる人々もではじめたようだ。


私なりの結論を手短かにいうならば、ともすれば絶望的な無力感にとらわれがちな、世のなかで「おちこぼれ」を強制されてきた人々、単に被差別部落の人々だけに限らず、登校拒否、帰国子女といわれる人々をふくめ、その人たちが加わって、生活し、動いてゆくための受け皿を、どのようにしてつくりだしてゆくか、を考えてみたいのである。


私自身、一種のおちこぼれであることは、すくなくとも本人にとっては、ずっといつもはっきりしていた。

それで、いまでもどうかして科学者の権力構造の世界にまぎれこむと、人々が私にたいして好意的にいってくれる紹介の文句は、「分子生物学の草分け」というものである。

いわば私の昔のことで、今はもうなんでもない、つまりは権力コースからのおちこぼれであることを、はっきりいったものだ。

この状況はもう20年ちかく続いている。


ところが、1988年にそれまで勤めていた大学を定年退職して、ベルリンにやってくるまで、半年のあいだフリーでいた。

その時に、ジャーナリズムでの用語をみならって、「フリーランスの科学者」という表現をおもいついて、それを使うことにした。

ベルリンに来てみると、そんなことが、おもいがけず新鮮にひびくらしいことに、気づくようになった。

「いかにもラジカルな表現だ」、と若い科学者からおだてられさえした。


いってみれば、毎日いい調子で暮らしているような私ではあるが、それなりに、おちこぼれには徹するようにこころがけているわけで、それは、はたで見ていれば、すぐそれとわかるようである。

そういう立場で、ひとつ民間のおちこぼれグループ、NGO連合の理論を考えてみようということで、この本を書いたわけである。


1 差別への私の関心の由来


1 生物学をやりながらから抜粋


1989年なかばの日本で、反差別、とくにいわゆる「部落差別」の問題について、いわば専門外の私が意見を出そうとしている。

それには二つの理由がある。


第一に、現在日本が、経済大国として成功しているということがある。

その理由の一つは、国民の等質性なり、人々の間の「和」であるともいいなされる。

その時に、いわれのない差別(例えば「部落」差別)をなくし、「同和」の理想を達成するということはなんなのか、それを問題にしたい。


第二に、いわゆる「部落」差別と、そのほかのいろいろの差別とのあいだの、相互に織りなされる関係のからみ合いについて、色々と考えてみたい。

どうして、生物学をやっている私が、このような問題に自分を巻き込んでゆくのか。

その理由は、それなりに長い。


そういう生物学のこまかいことは、どちらでもいい。

要は、私はいつも自分を少数派として規定するように、自分自身を追い込んできた。

それが「好き」なのだ、といわれればしかたがない。


もう一つの動機は、私がオーストラリアにいて、いわゆる多元主義というものに、身近に触れたことと関係しているだろう。

それとともに1969年頃からずっとやってきた科学批判のいとなみを通じて、いわゆるリバータリアン・ソシアリズムという政治的な信条に、自然とはいりこみ、それにもとづいて、かってに自分では「ネオ・アナーキズム」と僭称している考え方を築こうとしてきたこととも関係があるようだ。


エピローグから抜粋


これは私が1985年にオーストラリアから日本に帰ってきて、はじめて自分で書いた本である。

それは1984年に出したものから、実に5年ぶりの仕事であった。


この本はまた、私にとってはじめて、ワープロにとり、あるいはじかにワープロに打ち込んで、仕上げたものである。

当然、文体その他にいろいろな影響が出たと思われる。

それに、3月に大学をやめて、10月にはベルリンの研究所にうつる予定であったので、実はあまり時間がなかった。


書名の『反差別論』は、私の前著『反科学論』とおなじく、”反差別 - 論”と”反 - 差別論”の二重の意味を含ませた。

後者はもちろん、「差別論」を新しい観点から再編成しようという意図をこめた表現である。


1989年7月 ベルリン出発・帰国を前にして


すごく読みずらかった。申し訳ございません。


この10年くらい後に出版された以下の書の方が


言葉が今と同じようなフィーリングもしたし


柴谷先生もパコソンと脳と手が


ひとつになったかのようなわかりやすさだった。


もしかして時流も味方したのかもしれない。



比較サベツ論 (明石ライブラリー) (明石ライブラリー 3)

比較サベツ論 (明石ライブラリー) (明石ライブラリー 3)

  • 作者: 柴谷 篤弘
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 1998/01/30
  • メディア: 単行本

第1章 ことの来歴

1 表現者の責任 から抜粋


1989年に明石書店から『反差別論』を出したあと、私はいくども、生物学者として「差別」の問題に興味を持ったのはなぜか、ということをたずねられた。

そのことを一応、そのあとで同じ出版社から出した『科学批判から差別批判へ』(1991)という本で説明した。

その本の中で、私が生物学者のなかの少数者として「構造主義生物学」を提唱した、という歴史的事実と、私の「反サベツ論者」としてのいとなみを、順列・並列にむすびあわせてみた。

しかしそのあと、1996年になって、私が構造主義にかかわりあうよりもずっと以前に、生物学の学生・新卒業生として、研究生活に向かってからのことを、「ある分子生物学者の回想録」というかたちで朝日新聞者から出版することができた。

題して『われわれにとって革命とは何か』。

ただしこの本では、書名の示す主題のせいぜい前半あるいは三分の一くらいまでしか書くことができなかった。

この段階で、私がここで新しいサベツ論の本を書き始めるにあたり、もう一度私がなぜサベツの問題に関心を持つようになったかを書くことから始めよう。

ただし『われわれにとって革命とは何か』のあとがきで、私は、回想録というのは要するに自己正当化でしかない、ということを自戒として書き込んだ。


だからここで、私の反サベツ理論への踏み込みをうながした世俗的な経過については書きとめることができても、無意識をふくむ内面の問題にまでふみこんで書くための心の準備は、これを書き始めている現在まだ完了していないようだ。


終わりの章から抜粋


サベツを受けるものは、少数者とは限らない。

権力関係における弱者が、多数であれ、少数であれ、サベツを受ける。

伝統的な人類諸文化の少なくとも大部分から近代人類文明までを貫通して、女性サベツを具現化させてきた権力の構造。

権力を持つものは、世界の人々を二種類に分けて、その区別の境界の内と外を区別するのに、自分の利益を標準にして線引きをしていた。

その線の内側にいるものが「まとも」で、外側にいるものは「まともでない」か、せいぜい二級品にとどまる、とされた。


このようにして、男性=人間の社会から女性がまず排除された。

その支配のもとで確立された強制的異性愛原理から、同性愛そのほかの性的指向における少数者や、性労働者が線の外に排除された。


このようにして確立された「性別二元論」による区分と、それに直角に交わる異性愛/同性愛区分の両方に対して、さらに横断的に、「クィア」あるいは「周辺問題」として、国家・社会や民族の生産性にはほとんど関わらない少数者・弱者がいる。

老人の性、子どもの性、S/M、性の同一性障碍などは、こうして線の外側に追いやられた。

これらは、財貨と性的身体の生産性を性支配原理によって管理する上での、避けられない「不純な付随物」として生ずる。


これらの不純物に身をもって関わることは、性労働や性産業に従事することとともに、「健全な」社会と文化のなかで倫理的に問題があり、人間の品性としても「下劣」「低位」なものとして、汚名を着せられることになった。


しかしこのようにして、社会への抵抗の原理が発見されることを、これまでの分析は少しづつ明らかにしてきた。

このようなたたかいにおける被サベツ集団は、障碍者集団をふくめて、「社会の生産・再生産の管理体系の中でのサベツの対象」として、ひとまとめにすることができる、と思われる。


現代におけるサベツの問題は、なによりもまず、すべてのサベツされている集団について、なぜ社会にサベツが起こるのかを明らかにする努力を、一層強めてゆかねばならぬ


柴谷先生のこの指摘はかなり早いと感じた。


構造主義生物学を研究されていると


サベツの無意味さを痛感されていたのかな


と思ったりもさせていただきましたり。


それにしてもただいま現在も、政治の世界など、


喧々諤々やってますよな、古い価値観側からの


ポロッとしたものなど。時代遅れなのだろうな。


とはいえ、自分も新しい価値観です、


と言えるほど、現代人をやっているわけではなく


昭和人であるなあと実感することしきり、


そのあと勉強してみたりして、納得したり。


今を生きるわれわれにとって「サベツ」は


あまり馴染みないことと思いきや実は


昔と形を変えて生き延びているような気も


時折する夜勤前のバスでの読書でしたが


シビアな内容すぎてなかなか進まなかったことを


ご報告させていただきます。


 


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2冊から中垣通先生の”新しい知”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

ネットとリアルのあいだ: 生きるための情報学 (ちくまプリマー新書 123)


ネットとリアルのあいだ: 生きるための情報学 (ちくまプリマー新書 123)

  • 作者: 西垣 通
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 新書

第1章 ITが私を壊す?

アトム化する個人


から抜粋


チャップリンが1930年代につくった映画「モダン・タイムス」は、産業革命によって傷つけられる人間の尊厳というヒューマンなテーマを扱った。

工場で朝から晩までネジを回している人間は、やがて歯車のような存在にされてしまう。


ではIT革命は何をもたらすのか?

それは「社会全体のメガマシン(巨大電子機械)化」である。

少なくとも現代はその方向に走っている。


メガマシンには次のような前提がある。

人間は企業とおなじく、利益の最大化をもとめて合理的行動を行う機械単位だ。


こうして、人間は一群の数値データに還元されてしまう

つまり、ITの処理対象となっていくのである。


もちろんこれは、資本主義社会の特徴であって、豊かな消費生活をおくるためには仕方がないと割り切ることはできるだろう。

評価数値をあげようとして、組織や人間が努力すること自体は悪いことではない。


しかし問題は、ITの急激な発達によって、組織や人間を評価する数値データが際限なく

増え続けるだけでなく、その変動速度がおそろしく大きくなっていることである。


投機マネーや政治情勢によって市場はつねに揺れ、およそ安定にはほど遠い。

要するに、市場が数値で押し付けてくる「客観的リアル」そのものが、大してあてにならないのだ。

具体的にはたとえば、少々偏差値のたかい大学卒の肩書など、幾度か職場を変わればほとんど就職や昇進の役にたたないのである。


身体的・言語的な「私のリアル」が消失し、空っぽになった自分を感じる時ふと、ネットのなかのアバター(キャラクター)への変身願望が出てこないだろうか。


これを”壊す”ととるか”脱皮”ととるかで


対処法やその後の展開は変わるのだろう。


脱皮とするのは養老先生関わる”メタバース”とかか。


”壊す”はあまり想像つかない。


あとがき から


この本は、ネットの発達した情報社会のなかで、どうしようもなくウツ気分に沈みがちな人たちのために書き下ろした。


筆者自身、特にペシミストではないつもりだが、ウツ気分におそわれることがすくなくない。


現代はいうまでもなく、デジタルな情報がとびかう便利な情報社会である。

だがそこでは、「人間の機械部部品」「人間の情報処理単位化」が猛烈なスピードですすんでいるのではないか。

またそういう自分に倒錯的快楽をおぼえる人も増えてきた。


人間が取り替えのきく機械部品とみなされるとき、自由だの平等だのといったお題目を唱えても虚しいのである。


これは、一部の強者が多くの弱者を抑圧するという昔ながらの問題ではない。

万人を抑圧し、万人をロボットやサイボーグに変えていくという新たな問題なのだ。


20世紀の知のありかた自体の中に、そういう方向性があるのである。

具体的には、意識、合理性、客観的な論理を何より重視する知が、世界を支配してきた。

急速なIT(情報技術)の発展と、これによる社会の効率化はその象徴である。

その有用性自体を否定するつもりはない。


だが一方で、悲鳴をあげているのは「生命」そのものだ。

生物は、無意識、非合理的な直感、身体で突き動かす情動や感情と共に生きているのである。

それらがリアリティを支えている。

人間も生物である以上は、それらを根こそぎ奪われたらどうなるだろうか。


そのあたりを真剣に考えずに、経済発展のためだけにIT立国をとなえるなら、日本列島はますますウツ気分の暗雲におおわれていくだろう。


生物は、無意識、非合理的な直感、身体で


突き動かす情動や感情があるのだというのが


今は手薄になっているような、現代社会。


この指摘は鋭いと思うか、当たり前じゃんと


思うかで意見は分かれるだろうが


もちろん自分は前者でございます。



集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)

集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)

  • 作者: 西垣通
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/01/06
  • メディア: Kindle版


まえがき から抜粋


「知とは何か」という問いかけは、決して、暇つぶしのペダンティックな質問などではない。

むしろ、命がけの生の実践に関わる問いかけなのだ。


それを象徴するのが、2012年10月、イタリアで地震予知を失敗した学者たちにくだされた禁錮6年の実刑判決だった。


この判決に対しては、世界中の自身学者はじめ、多くの人々から抗議の声が沸き起こった。

科学者の発言責任が刑事罰で問われれば自由な議論ができなくなり、ひいては科学の発達が妨げられるというものである。


だが、犠牲者の遺族達はこの判決を歓迎したという。

科学的議論は自由であるべきだというのは近代の原則だとしても、専門家の発言が権威を持ち、人々の運命を左右する影響力を及ぼすとき、そこに責任は生じないのか。


そんな感想が出てきても不思議ではない。

これは海の向こうの話ではないのだ。


3.11東日本大震災、そして直後の原発事故に関連して、同様の思いをいだいた人は少なくないだろう。

つまり、「専門家の権威」に対する一般の人々の信頼がゆらいでいるのである。


かわりに注目されているのが、一般の人々の意見を集める「集合知」である。

とりわけ、ウェブ2.0が登場して誰でもネットで発言できるようになって以来、「ネット集合知」への期待が高まっている。


高学歴社会のいま、これは魅力的な仮説である。

ネット集合知は、21世紀IT(情報技術)のもっとも重要な応用分野となる可能性がある。


とはいえ、ただみんなの発言を機械的にあつめ、集計すればよいわけではないだろう。

ネット集合知が有効性を発揮するための条件とは何か。

客観的な知識命題と、主観的な利害や感情との調整はどうするのか。


そんな具体的問題を考えていくと、われわれは厭でも「人間にとって、知とは何か」という、いっそう根源的な問題に突き当たる。


あとがき から抜粋


大学で教えるようになって、もう30年近く経った。

近ごろとくに気になるのは、若者達がせっかちになり、手っ取り早く唯一の正解をほしがることだ。


けれども、世の中には、正解など存在しない問題が多い。


20世紀は、専門家から天下ってくる知識が、「客観知」としてほぼ絶対的な権威を持った時代だった。

それが全て誤りだったとは思わない。

今後も専門知は、それなりに尊重されていくべきだろう。


とはいえ、21世紀には、専門知のみならず一般の人々の多様な「主観知」が、互いの相対的な位置を保って交流しつつ、ネットを介して一種のゆるやかな社会的秩序を形成していくのではないだろうか。

それが21世紀情報社会の、望ましいあり方ではないのだろうか。


なぜなら、個々の血のにじむような体験からなる、繰り返せない主観的世界こそ、生命体である人間にとって最も大切なものだからだ

コンピュータやサイバネティクスとつきあい始めて40年あまり、これが、情報学者として私のたどりついた結論である。


中村桂子・村上陽一郎先生との対談で


初めて存じ上げたのですが


自分もネット経験20年以上なので


リンクするところも多々あり興味深い内容。


中垣先生の、IT全般、AIに対する捉え方など。


表現も独特でユニーク。


「社会全体のメガマシン(巨大電子機械)化」や


「集合知」とは言い得て妙だなあと感じた。


それとは別に「専門家」についての


現代での認識は、池田清彦先生も論じてたことと


「クオリア」は、茂木健一郎先生の言説と


合わせて研究してみたいと思いつつ


そんな時間があるのかよ!と思ったりも


している雨模様の関東地方でございました。


 


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2冊の井上先生達のハイレベルな”AI”への視座 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

人工知能と経済の未来 (文春新書)


人工知能と経済の未来 (文春新書)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2016/07/19
  • メディア: 新書

井上先生は、AIには2種あって


汎用人工知能」「特化型人工知能」とされ


前者は


人間のように様々な知的作業を


こなすことのできる


後者は


一つの特化された課題しか


こなすことができない」と仰り


今世の中の多くのAIは後者だと指摘。


前者は2030年頃に開発の目処が立つとのこと。


はじめに から抜粋


その時、私たちの仕事はなくなるのでしょうか?

経済成長は停滞するのでしょうか?

はたまた爆発的な経済成長がもたらされるのでしょうか?


私は、大学時代に計算機科学を専攻しており、人工知能に関連するゼミに属していました。

人一倍勉学を怠っておりましたが、ひととおりの知識は持ち合わせているつもりです。


どういうわけか現在は、マクロ経済学者として教鞭をとっています。

マクロ経済学というのは、一国のGDP(国内総生産)や失業率、経済成長率などがどのように決定されるのかを明らかにする経済学の分野です。

そのようなわけで本書では、人工知能にそれなりの知識のあるマクロ経済学者という立場から、人工知能が経済に対しどのような影響を及ぼすかについて論じてみたいと思います。


のっけからものすごくユニーク。


こんな先生の講義なら受けたいと思うだろう


学生時代なら、いや、中年の今でも思う。


しかしながら経済学って難しそうだし


テーマはあまり増やしたくないのだよなあ


と先日、トマ・ピケティの書を


ブックオフで立ち読みしながら


買わない方向にした時に自分に


言い聞かせた言葉を思い出したのでした。


おわりに から抜粋


現代社会で失業は、人々に対し収入が途絶えるという以上の打撃を与えます。

つまり人としての尊厳を奪うわけですが、それは私たちが自らについてその有用性にしか尊厳を見出せない哀れな近代人であることをあらわにしています。

みずからを社会に役に立つ道具として従属せしめているのです。


そのことを批判してバタイユはこう言っています。


「天の無数の星々は仕事などしない。利用に従属するようなことなど、なにもしない。」


人間の価値は究極的なところ有用性にはありません。

人の役にたっているか、社会貢献できているか、お金を稼いでいるか、などといったこととは最終的にはどうでも良いことなのです。


要するに、有用性という価値は普遍的なものではなく、波打ち際の砂地に描いた落書きが波に洗われるように、やがて消え去る運命にあるのです。


AIやロボットの発達は、真に価値あるものを明らかにしてくれます。

もし、人間に究極的に価値があるとするならば、人間の生それ自体に価値があるという他ありません。


機械の発達の果てに多くの人間が仕事を失います。

したがって、役に立つと否とにかかわらず人間には価値があるとみなすような価値観の転換が必要となってきます。


そもそも、自分が必要とされているか否かで悩むことは近代人特有の病であり、資本主義がもたらした価値転倒の産物です。

しかも、価値転倒が起きたことすら意識できないくらいに、私たちは有用性を重んじるような世界に慣れ親しんでしまっています。


有用性を極度に重視する近代的な価値観は資本主義の発展とともに育まれてきました。

資本主義は、生産物の全てを消費せずにその一部を投資に回して、資本に増大させることによって拡大再生産を行うような経済として考えられます。


より大きな投資は後により大きな利得を生むことから、資本主義は未来のために現在を犠牲にするような心的傾向をもたらし、あらゆる物事を未来の利得のための有用な投資と見なす考えをはびこらせたわけです。


バタイユは、その著書『呪われた部分』で「普遍経済学」の構想を示しています。

それは、必要を満たすために生産するという通常の経済学とは逆に、過剰に生産された財をいかに「蕩尽」(消費)するかについて論じるような経済学です。


別の言い方をすれば、バタイユが「限定経済学」と呼んでいる通常の経済学は「希少性の経済学」であり、普遍経済学は「過剰性の経済学」です。


パリでバタイユが「普遍経済学」の着想を膨らませているのと同時期に、ドーバー海峡の向こう側では、ケインズが経済学の「一般理論」について思案していました。

それらは、「供給の過剰」と「需要の不足」をそれぞれ強調しており、裏表の関係にあります。


AIが高度に発達した未来の世界でベーシックインカムが導入されれば、労働時間の劇的な短縮が可能となります。


このような経済では、賃金によって測られる人間の有用性はさほど問題とはならなくなります。

なぜなら、賃金労働に費やす時間は、人間の活動時間のほんの一部を占めるに過ぎなくなるからです。

そして、残された余暇時間の多くは未来の利得の獲得のためではなく、現在の時間を楽しむために費やされるでしょう。


ものすごく難しい領域でございます。


しかし、言葉がわかる、というのは抽象的ですが


引っかかる、というのか。


ケインズは経済学を語る言説では


よく聞く名前だけどバタイユとは。


三島由紀夫・澁澤龍彦先生が言ってた


くらいしか自分は思い出せませんが。


お若いからか、音楽家など文化面での


照らし方なども腑に落ちるところ多く


かなり勉強になる。何のためのかは


全く不明なのですけれども。



AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)

AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2020/09/29
  • メディア: 新書

第2章 経済はAI化でどう変わるか

「AIショック」に人間の身体は耐えられるのか?


から抜粋


井上▼

少なくとも、今のAIには意識も意志もないですからね。

突然意識を持つようになる、みたいなSF的な話もありますけれども。

私はちょっと違う捉え方をしていて。

人間の意志とは少し違うかもしれないんですが、例えば「アルファ碁」という囲碁に特化したAIは、囲碁の勝負に勝ちたいという、ある意味「意志」があると言えなくもない。

ただ、人間の意志と何が違うかというと、アルファ碁のようなAIは、人間が、「お前は囲碁に勝つように頑張りなさい」と目的を設定している。


だけど人間は何か一つの設定された意志を持つのではなく、生きている中で突然、ある意志を自ら持つんですよね。

AI研究者の中には、生命の根源的な意志は、結局繁殖することだと考えている人が多いんです。

そうすると例えば、生存と子孫を増やすことが究極的な目標で、あとのいろんな人間の欲望というのは、そのは生物でしかないという。

でも私は、そうではないと思っているんです。


進化論的には、結局繁殖とか生存とかに関する欲望を強く持った種が生き残ってきたんだろうなとは思いますが、繁殖に関係ない欲望もいっぱい持っているだろうというイメージを持っています。


結局、人工知能と人間の意思や欲望の違いは、人間はまず、今のAIとは違って多様な欲望を持っているという点

それから、欲望自体が変化するということなんですよね。

それを私は勝手に「ダイナミックな報酬系」と呼んでいるんです。

人間の脳の報酬系というところで快か不快かにより分けられ、欲望が生まれ、それがダイナミックにどんどん変わっていくという。


養老▼

逆にコンピュータが欲望を持ち得たら、それは人間によって「暴走」と呼ばれることになる。

だって、さっきから言っているように、前提は人間が作っているんだからね。


井上▼

例えば囲碁のAIが、突然試合を放棄して「ボーッとしている方がいいので」と言ってボーッとし始めたとか、囲碁をやめちゃって、他に何か楽しみを見出すなんていうことはしないわけですよね。

そうなったら、反乱になる。

今のAIが、そんなに暴走する恐れがないというのは、人間から与えられた一つの意志、あるいは一つの欲望とか目的ですね、それに沿った動きしかしないからですよね。


養老▼

僕はそういう議論は常に、さっき言った話に立ち返った方がいいよねと思っている。

地球上にすでに64億もあるものなんて、今さら作ってどうするのよと(笑)。

乱暴なことをいうようだけど、なぜそこまでやる必要があるの?という疑問が、どうしても起こってきますね。

特にAIに関する全体的な議論を見ていると、予測することもできるし、論理的に考えるのは面白いからいいんですけど、余波が大きいようなものを社会システムにいきなり持ち込むというのは、本当にそれで大丈夫なんですかと問うところからはじめないと


ちょうど遺伝子をいじるかどうかという話にも似ているんですよね。

AIが社会にショックを与えるとしたら、逆に人間は、それに耐えられるようにできているのか、と問わないと。

さっき言った『サピエンス異変』の話だよ。

人間が作っちゃった世界に自分の身体が適応してませんよという。

僕も腰痛です。

虫の観察やって、いつもパソコン前に座っているから。


リスクを特定できないものは


よく議論を尽くさないと、とも解釈でき


それは”原発”にも通底しそうだなあと。


単に、職を奪われる、という捉え方は


一般庶民の悲しい性みたいなもので。


奪う、奪われない、ということでなしに


話はずれてしまうかもだが、


なぜ、共存しようよという発想にならず


ドラスティックに傾くのだろうかなんて


自分なぞは思ってしまうのだけど。


もちろん資本の論理、効率化だけを


主に置くからってのは言わずもがななんだけど。


雇用される側だとしても、


デジタルとアナログの合わせ技の方が


良いと思うのだけれどもなあ。


それはお気楽な言説ってことなのだろうか。


話は本にもどり高次レベルなお二人の話は


これまた膝打つ書籍でございまして


何回か読みこみたいと感じるのだけど


そんな時間あったら山積してる未読本を


読めや、または、仕事を精進しなさい


とどこかから聞こえてくる


早朝5時起きのため、早く寝たいと思う


身体管理という視座には勝てないのでした。


 


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中村先生たちの訳・監修本から”DNAの警鐘”を見る [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


細胞の分子生物学 第6版

細胞の分子生物学 第6版

  • 出版社/メーカー: ニュートンプレス
  • 発売日: 2017/09/15
  • メディア: 大型本

翻訳にあたって

2017年7月 中村桂子・松原謙一


から抜粋

1983年。

”Molecular Biology of the Cell”と表紙に書かれた教科書の登場に驚き、その内容の見事さに感銘を受けた時のことは今も忘れない。

DNAを遺伝子として捉えることで生命現象を解明できると考えていた分子生物学者が、生きることを支えるのは細胞であることに気づいたのである。

もちろんそれは、”Molecular Biology of the Gene”が進展した結果であり、学問は地道な積み重ねの上にしか飛躍はない。


以来30年以上、「細胞の分子生物学」の進展にはめざましいものがあり、本版のまえがきには、第五版以来これまでに500万を超える論文が発表されたとある。

これを読みこなし、この分野の全体像を作ることがいかに難しいか。

研究の進展は理解を深めると同時に、問いをたくさん生み、時に謎を深めてもいる。


新しい知見を盛り込んだ大部の著書の翻訳はとても大変な作業であり、新版を前に迷ったが、内容の充実ぶりに押されて取り組んだというのが正直な気持ちである。


各版を追うと、その時代の研究の動きが見えて興味深い。

当初は細胞といっても植物と神経には独自なところがあると捉え、これらを別に扱っていた。

しかし、研究が進むにつれて、基本は同じという考え方にまとめられた。

ある時は、近年関心が薄れてきていた感染症の問題が浮かび上がり、そこでそれまであまり眼を向けられていなかった先天性免疫が一項目として取り上げられるようになったこともある。


そして第6版である。

ゲノムをもつ細胞に関する生物学がみごとに整理されたといって良い。

特に近年、新しい研究方法の開発・改善や細胞の可視化によって研究が急速に展開しており、具体的な研究の進展が細胞の理解を進めたことがわかる。

教科書としてもこれだけ版を重ねる必要があったわけだが、30年を越える研究によって細胞の分子生物学の基本はできたといってもよいのではないだろうか。


もちろん、まだわからないことはたくさんある

各章の最後にある「まだわかっていないこと」を見ると、ここにこそ面白いテーマがあることがわかる。

ここに読者がこの問いに答えようという気持ちになってほしいという願いが込められている。


さらに大きなテーマもある。

「まえがき」にあるように、今や私たちの眼の前には、ゲノム解析をはじめとしてタンパク質相互作用、遺伝子発現などについてのデータの山がある。

しかもデータベースには日々更なるデータが入ってくる状況である。


ビッグデータの時代である。

そしてこれは「細胞とは何か」を知るための宝の山と言ってよい。

しかしそれをどう生かすか。

残念ながらそれは見えてこない。

「新しい細胞の生物学」とよんでもよいかもしれない学問を構築しなければ、細胞はその本当の姿を見せてはくれないだろうという状況になっている。

これこそ本書で学ぶ若い人たちの仕事である。


本書が新しい生物学を生み出す研究に生かされることを心から願っている。


PART 1 細胞とは


細部とゲノムから抜粋


地球上の細胞が共有する特徴

ゲノムの多様性と生物の系統樹

真核生物の遺伝情報


地球は生物、つまり周囲から素材を取り入れて自己を複製する複雑な組織を持った不思議な化学工場で満ちている。

生物はとてつもなく多様に見える。

トラと海藻、あるいは細菌と木ほど違うものがほかにあるだろうか。

ところがわれわれの祖先は、細胞もDNAもまったく知らないまま、そこに何か共通するものがあることを感じ、その”何か”を”生命”と呼び、それに驚嘆し、定義しようとし、それが何ものであり、どう働くのかを、物質との関連で説明しようとしてきた。


前世紀でなされた多くの発見で、生命の本質にまつわる神秘は取り除かれ、今では、生物はすべて細部からなることがわかっている

細部は膜で囲まれた小さな単位で、化学物質の濃厚な水溶液で満ちており、成長しニ分裂して自分の複製を作るという優れた能力を持つ。


細胞は生命の基本単位なので、生命とは何でありどう働くかという問いへの答えは細胞生物学(Cell biology)に求めることになる。

細胞とその進化をより深く理解することにより、地球上の生命の神秘的起源、驚くべき多様性、広範な生息場所といった、壮大で歴史的な問題に取り組むことができる。


かつて、細胞生物学の始祖の1人、E.B.Wilsonが強調した通り、”生物学のあらゆる問題の鍵は細胞に求めなければならない。なぜなら、すべての生物は一個の細胞である(あるいは一個の細胞であった)からである”


外見の多様性とは裏腹に、生物の内部は基本的によく似ている。

生物学は、生物個々を特徴づける驚くべき多様性と基本的機構にみられる驚くべき恒常性という二つの主題を対照させる作業といえる。

この章ではまず、地球上の生物に共通の特徴を考え、次に、細部の多様性を概観する。

そして最後に、あらゆる生き物の仕様を記述する分子の暗号(コード)が共通であるおかげで、仕様を読み、計測し、解読することによって微生物から巨大な生き物まで、あらゆる生命体を統一的に理解できるようになったことを見ていく。


ここまで分解され詳細を解説・分析している


細胞の本は、おそらくないのでしょう。


”まだわかっていないこと”というのも


中村先生ご指摘されているけれども


今後生物学を志す若い人たちへの指針に


なろうというものではないかと推察できる。


それはそれとして、自分もいろんなDNA本を


読んでみたものの門外漢の自分がここまで


学術的な書を読むことの必然性のなさに


驚きを隠す事を禁じ得ないのでございまして。


それはともかく、本日ブックオフに


行ったらこの書籍の第五版だったか、があり


その表4の写真が、ビートルズの


”A Hard days night”のデザインだったのに対し


この第六版は、”Please Please Me”だったのは


ちょっと気になった次第で


チームとかクリエイティブとかという意味での


DNAの継承を表現されているのかなと


思ったことはどうでもよい言いたいだけで


ございましたことを謹んでお知らせいたします。


 


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福岡博士の翻訳本から”疑う思考”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

 



七つの科学事件ファイル: 科学論争の顛末

七つの科学事件ファイル: 科学論争の顛末

  • 出版社/メーカー: 化学同人
  • 発売日: 1997/02/01
  • メディア: 単行本


なぜこの書を手にしたのか忘れてしまい


訳者あとがきから読んでみて


うまい文章で面白いなあと思ったら


なんと福岡伸一博士だった。


”動的平衡”は言うに及ばず


何冊も世に送り出されての


人気サイエンス博士の文章であれば


そら面白いわ、と得心したのでした。


訳者あとがき


1997年1月 福岡伸一


から抜粋


村上春樹氏のエッセイに、われわれはテクノロジーに関して絶対君主的な体制下に置かれている、というものがある。

その謂いは、新聞や雑誌を読んでいると、いろんなものが新発見されたり新発明されたりしているものを見かけるけれど、それはある日突然<お触れ>のごとく空から舞いおりて来るものであって、それがなぜそうなるのかはよくわからないまま。とにもかくにも「殿様の言わはったことやから間違いあらへん」ということで、それに馴れてしまう、というものである。


そしてわけがわからないけれどスゴイ発見に聞こえる例をでたらめに創作しているのだが、それが傑作で、「東京大学理学部のXX博士はニホンザルの脳下垂体を電気的処理によって階層化することに成功した」というもの(「村上朝日堂の逆襲」)。


エッセイ自体はこのパロディの見出しからも分かるとおり、なかばジョークとして書かれていて後半はオーディオの進化に話は移るのだが、科学上の新発見ということに関してある種の真実を衝いている。


今日われわれが耳にする科学と技術に関する出来事は、この見出しのように、何となく立派そうに聞こえているだけで、ほとんどの人はその中身にまで触れることはない

しかし、実は、少しでも中身を垣間見ることができれば、新聞に見出しが踊るような「新発見」は、多くの場合、でたらめといわないまでもその内情はお寒い状況なのがわかってくる。


そもそもこういう報道自体が、極めて恣意的なもので、たまたまその時期、毎年恒例のその分野の学会の総会が開催されていて、そこで報告される発表の中から、マスコミ受けしそうなネタを学会側がピックアップして記者に配布していたりするものである。

だから研究学会が多く開かれる春先や秋には「新発見」の記事も自然多くなる。

しかもこの学会というのは学者の一年に一回のお祭りのようなもので、とにかく参加することに意義があり、皆さんとりあえず自分の現在の研究成果を大急ぎで取りまとめてやってくる。

中身は当然、玉石混淆となる。


つまり、「テクノロジーに関して絶対君主的な体制下」にあるわれわれが少しでも科学や技術の世界で行われていることを民主化するために大切なことは、<お触れ>に際して「殿様のいいはったことやから間違いあらへん」とすぐ馴れてしまわず、いますこしだけその内容をのぞいてみようという気持ちを持つことである。

<お触れ>の内容を理解するにはもちろん「脳下垂体」とか「階層化」といった専門用語の意味やいわゆる理科系的思考が必要になることもあるけれど、その前提となるのは「なんとなくすごそうだけどほんとうにそうだろうか。いや、人間のやっていることだからキレイゴトばかりではないはず」という額面どおり受け取らない姿勢なのである。


本書が述べていることもそれにつきている。


つまり、今日われわれが、なんとなく正しいと信じている科学理論は、実はきちんと立証されているわけではない。

他方、今日私たちが、なんとなく間違いであると信じている科学理論は、実は完全に否定されているわけでもない。


「あとがき」から読み始めた読者の方に簡単に内容を紹介すると、前者の例として本書ファイルIII 「相対性理論は絶対か」が興味深い。

ここではアインシュタインの相対性理論の正しさを見事に証明したとされる教科書にも載っている二つの有名な実験が登場するが、この実験には、実は、理論に合うような結果を出すためいくつもの人為的なデータ操作があった。


一方、後者の例としてはファイルI「記憶物質の謎」が面白い。

あるテスト課題を練習させたネズミの脳から取り出した物質を、別のネズミの脳に注射したところ、練習なしで課題ができた、という成果を発表した研究者。

「そんな馬鹿な」とごうごうたる非難の嵐をうけてたちどころに否定されてしまったが、実験方法やデータの取り扱いそのものはまともなものだったのである。

それどころか、このような先駆的研究のおかげで、その後の、脳の神経活動を支配する脳内ペプチドの発見(今はやりの脳内麻薬エンドルフィンもその一つ)がはなばなしく展開されるに至った、といってもよいのである。


科学理論は、端的にいえば、「その現象は、この理由によって生じている(にちがいない)」という因果関係を、ある時、誰かイマジネーション豊かな人が思いつくことから始まる。

そこで、この確信を確かめるために「この理由」を人工的につくり出して、「その現象」が起きるかどうか、調べてみる

これが科学実験である。

が、これはかなりの曲者

本書のほとんどのファイルが示しているように、実験がすんなり思い通りの結果を出すことはまずない。

実験者は持論を確信しているので、実験方法が間違っていたから思い通りの結果にならないのだ、と思う。

でもそもそもその持論が間違いだからそうならないだけなのかもしれない。

うまく行かない実験結果を前にして、両者はすぐには区別がつかない。


その上、理論を思いつく人間のイマジネーションというのがこれまた極めて曲者で、ランダムなことを前にしても、そこにある種のパターンを見出してしまいがち、という人間特有の脳細胞の癖のようなものがあるのだ。


ちょうど、華厳の滝の前で写真を撮ると必ず、自殺者たちの顔が背景に浮かび上がるように(ヒトの視覚認知は、人面のパターンに過剰に反応しやすい癖があるようだ)。

で、多くの理論がこのような関係妄想のなかから生まれてきている。

よくいえばセレンディピティだが、思いつき、早合点ということでもある。


思い込み、刷り込み、因習等からによる偏見。


科学の世界も全てが神聖な成果だけではなく


それはどんなジャンルもそうなのかも


と思わせる福岡博士の分析と考察、


だけでなく、経験からの知見が炸裂。


一般の人とか自分もそうだが


新聞発表があると鵜呑みにしがちで


特定のジャンルということではなく


全てを疑う目と思考力を身につけておいた方が


それも程度によるし生活や仕事に支障なき


範囲でってこととは思うものの、


世の中良い方向に行くのはわかっているものの


つい、めんどくさくて楽な方に行きがちで


身の引き締まるなあと思う


福岡博士の文章でございました。


 


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ローレンツ博士の書から”異なる視点”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

攻撃―悪の自然誌


攻撃―悪の自然誌

  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1985/05/01
  • メディア: 単行本

まえがき から抜粋

この書で扱うのは、攻撃性(Agression)、すなわち動物と人間の、同じ種の仲間に対する闘争の衝動のことである。


わたしは先ごろアメリカへ行ってきたが、その目的の第一は、比較行動学と行動生理学に関して、精神科医、精神分析医、心理学者たちに講演をすること、第二の目的は、フロリダのサンゴ礁での野外観察によって、ある仮説の真偽を追試してみることだった。

その仮説は、わたしが、ある種の魚の闘争行動とその色彩の種を保つ働きとについて、水槽の中で観察した事実をもとにして、あらかじめ立てておいたものだった。


大学病院では、わたしは初めて精神分析学者たちと話し合ったのだが、その人たちはフロイトの学説を、反論する余地のない教義を述べたものではなくて、どの学問の場合でもそれが当然なのだが、作業仮説を立てたものと見ているのだった。


そうとするなら、ジークムント・フロイトの学説のうちで、あまりにも大胆すぎるのでわたしがそれまで同意しかねていた多くの点が、納得できるものだった。


かれの衝動説についてその人たちと論じ合った結果、思いがけないことに、精神分析学の成果と行動生理学の成果とが一致していることがわかったのだが、この一致は、両分野のあいだで問題の立て方も研究法も違い、とりわけ帰納の土台が違うだけに、わたしにはいっそう重要なことと思われた。


死の衝動という考え方については、おそらく意見が全くわかれるだろうと、わたしは想像していた。

死の衝動とは、フロイトの説によると、生命を保つさまざまの本能と正反対の極をなす破壊の原理となっている。

生物学とは縁のないこの仮説は、行動学を研究する者の目から見ると、不必要であるばかりか、間違っている。

攻撃の及ぼす結果は、しばしば死の衝動の結果と同一視されるけれども、攻撃の本能もやはり他の本能と同じように、自然の条件のもとでは、生命と種を保つ働きをもつものなのである。


自分の手であまりにもすみやかに、その生活条件をつくりかえてしまった人間の場合には、攻撃の衝動は破壊を促すことがたびたびあるが、しかしそれと似た破壊作用は、それほど劇的ではないにせよ、他の本能にも同じくあるものなのだ。


死の衝動なるものに対するわたしのこのような見解を親しい精神分析学者たちに向かって主張したところ、意外にもわたしは屋上屋を架していることになったのだった。

その友人たちは、フロイトの著作からいろいろな箇所を引いて、フロイト自身すら自分の二元論的仮説にあまり信頼を置いてはいなかったこと、その仮説は、有能な一元論者であり機械的に物事を考える自然科学者であったかれにとって、もともと性に合わないものであったに違いないことを、教えてくれたのである。


それからほどなくして、わたしは暖かな海にはいって野生のサンゴ礁の魚を調べ、その攻撃を保つ働きのあることをはっきり見てとったとき、この本を書こうという気になった。


ローレンツ博士にこの本を書かせたのが


フロイト博士だったというのが興味深い。


しかも周りの学者の意見から察するに


ローレンツ博士の学説に近しい見解だった


可能性を匂わせるものを感じ取ったと


いうのだからダブルで興味深い。


攻撃と進化の自然淘汰の親和性ってことだろか。


自分はどちらかというとユング博士派なので


そこは一旦置いておこう。


この書はかつて読んだ対談本


日高先生と南沙織さんが話していた。


英語版とドイツ語版の考察などされている。


訳者あとがき 


訳者を代表として 日高敏隆


から抜粋


ローレンツはここでは、これまでの動物の行動の研究の中から、種を同じくするもの同士の闘いや殺し合いの問題を主題として論じている。

同類どうしの闘いや殺し合いーーーそれはバイブルによれば悪である。

モーゼは人間にそれを禁じたが、動物には禁じなかった。

じっさい、動物においては、同類個体間での闘いはたえずみられるものである。


しかし、よく調べてみると、動物においては、この「悪」はじつは「善」なのである。

それは種を維持する上には必要不可欠なものなのだ。

けれど、同類どうしの殺し合いは、動物においても禁止されている。

モーゼによってではなく、進化によって。

闘いは「儀式化」されることによって、真の殺し合いから切り離され、「悪」から「悪」を捨て去ってその善だけを残すようなてだてがこうじられているのである。


ローレンツはこの同種個体ーーー種を同じ(アルトゲノツセ)くする仲間(Artgenosse)ーーーどうしの闘い、すなわち攻撃性(アグレッション・Aggression)について、かれが歩んだと同じ道をたどりながら、読者に語る。


美しい熱帯魚は、攻撃しやすいために美しいのであること、攻撃によって個体が分散し、種が維持されやすくなること、攻撃は内的な衝動によって引き起こされること、それは自発的で抑えがたいものであること、しかしそれは、動物では進化の過程における儀式化という道を経て、悪の牙を抜かれていること、「本能」というものは単純なものではなく、多くの衝動の間に複雑に絡み合いの結果現れることなど、きわめて含蓄の深い章が続く。


ついで、もし攻撃性がなくなったら、個人的友情というものも消失するであろうという意外な認識が、いろいろな動物の例から語られる。

そうなると、連帯とは一体何なのか?

フロイトは死の衝動ということをいったけれど、攻撃の衝動は死の衝動にあたるものなのか?

人間における闘いの基盤に攻撃衝動が働いていることは否定できないが、それが人間においても遺伝に深く根差したものであることも否定できない。

ではそれにどう対処したらよいのか?

このような人間の根本的な問題への問いかけと彼なりの見解が展開される。


このような議論は、従来はフロイト的な見地からの説明か、さもなくば政治・経済レベルからの説明に終始することが多かったようにおもわれる。

しかし、この人間という奇妙な動物は、そのようなどれか一面からの説明を許さない

ティンバーゲンがいうとおり、人間はいまだに「未知なるもの」アレクシス・カレルの『人間この未知なるもの』)である。

ローレンツのこの著書もまた解決ではないけれども、ここに述べられたようなアプローチをとりこんでゆかぬかぎり、人間の哲学的認識も進まないであろう。


サブタイトルの「悪の自然誌」とあるのが


なぜ「悪」なのか、日高先生の解説で腑に落ちる。


自然を無視した文明批判をされる


ローレンツ博士ならではということなのかなと


思いを馳せつつ、夜勤明けブックオフで


遺伝子系の本を購入して歩いてたら


昨年夏に会ったパパ友と偶然会って


近くの大学の食堂に移動して


ローレンツやその他昨今の読書について


熱弁を振るって2時間過ごさせていただき


そこで時の話題、小林製薬の”紅麹”問題の


パパ友なりの見解をお聞かせていただき


そういう視点だとするとまた大手メディアでの


取り上げ方や評価などとは、まったく


異なるなあ、と滋味深く拝聴した次第で


それが出来るのは紙の読書からの


思考技術がなせる技だと勝手に分析&


リスペクトさせていただきつつ


ますます読書熱からの研究及び


フィールドワークに精が出そうだと思った


のでございました。


 


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②槌田敦先生の2冊から”エントロピー”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

  • 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本

2. 多数の農民は失業者になる

【強者のための経済学になり果てた現代経済学】


から


現代社会において、貧富の格差はますます拡大している。


現代経済学者は、その原因を検討することなく、無責任にも「政府はもっと支出と雇用を」(クルーグマン、朝日新聞12年3月9日)などと主張する。

どこから、その資金を捻出するというのか。

富者から税金を取れば良いが、富者は政治を支配しており、損になることをする訳がない。

しかし、富者から見ても、格差社会はトラブルが多く、放置すれば暴動に発展する。


そこでわずかに応ずるだけである。

これでは、格差社会は解決できない。


結局のところ日本のように消費税を値上げして、弱者から税金を搾り取り、弱者を苦しみ追い込むことになる。

同じ人間に生まれて、強者である富者の繁栄と弱者である貧困者の悲劇。

現在経済学は富者の利益だけに関心を示す学問に成り果ててしまった。


【失業と貧困の最大の原因は自由貿易】から


貧困の原因は失業である。

そして、貧困者には需要がなく、失業者は供給できない。

格差社会では多数の人々には需要も供給もなく、商取引から排除されている。

その一方、少数の富者(強者)が商取引を華々しく繰り広げている。

アダム・スミスのいう「神の見えざる手」は壊れている。


日本では、自由貿易は、農業を破壊することが最大の問題であると考えられている。

そして、農業ばかりか、その他の産業も破壊するという。

しかし、自由貿易にはもっと基本的な失業と貧困の問題がある。


はっきり言えば、自由貿易は、農業者を大量に失業させ、これらの人たちを貧困に追い込むのである。


3. 今、必要なのは弱者のための経済学


【エントロピー増大にもかかわらず、人間社会が維持される条件とは】


から


物理学のエントロピー増大の法則により、人間社会の活動は資源を消費し、廃物を発生する。

この人間活動を続けると、環境にある資源は枯渇し、環境は廃物だらけになるはずである。

ところが、現実には資源は枯渇しないし、廃物はいつの間にか消えている。

つまり、地球は人間社会に豊かな環境を提供しているのである。

これが、人間経済が持続できる第一条件である。


その理由は、化石燃料のように資源が豊富で、現在の消費程度では糖分枯渇しないことに支えられている。

これに加えて、環境に排出された廃物がふたたび資源に戻っていることも幸運である。

これは、宇宙に余分のエントロピーが捨てられて、環境に物質循環が存在するからであるが、その物質循環に人間社会も載っているのである。


これに対して、原子力の廃物、放射能を資源として、これをウランに戻す能力は自然にはなく、ここには物質循環は成立しない。


つまり、ウランはそもそも使用可能な資源ではない。

それを無視して原子力を利用した結果が、原子力の困難の原因なのである。


人間社会維持の第二条件は、環境から資源を取り入れ、廃物を自然に返すことが保証されていることである。

その作業は需要と供給という経済活動で支えられた物質循環がしている。

これを強調する学問がエントロピー経済学である。


需要と供給による社会の物質循環を維持することにより、人間社会の持続性は維持される。

これに注目しない「持続可能性」の主張はすべて誤りである。


【商取引の法則、需要と供給】から


では、どのようにして、需要と供給により社会の物質循環が成立するのか。

それは、全面的に古典経済学の正しさを認めることである。

需要者は商品を受け取り貨幣を支払う。

供給者はその逆をおこなう。

その商取引が貨幣循環を成立させる。

これが物質循環を支えている。

そして自然から資源を得て、自然に廃物を返している。


ここで、需要曲線と供給曲線の考えが導入される。

需要曲線とは、その金額ならば買っても良いという商品を価格が下がる順番で並べた曲線であり、供給曲線とは、その金額ならば売ってもよいという商品を価格が上がる順番で並べた曲線である。


その交点が取引価格となる。

この金額で取引すると、需要者は予定価格よりも安い価格で買うことができて得をし、同時に供給者は予定よりも高い金額で売ることができて得をし、両者共に利益が得られる、

この利益(余剰という)は新しい需要となるので、経済成長の原因となる。

これが、いわゆるアダム・スミスの神の見えざる手である。


エントロピー経済学は、このアダム・スミスの神の見えざる手に加えて、この商取引が社会の中の物質循環を保証していることを重視する。

ところが、現代経済学は、その条件を壊す「自由貿易」を掲げている。

これは人間社会を壊す悪魔である。

貿易では、真の自由貿易、買うの買わないの「自由」を尊重する必要がある。


国内政策では、働けるものに補助金を出してはいけない。

失業者には貸付金、就職したら返金(所得税に加算)させる。

働けない子供、病人、老人には税収により生活資金を支援する。

このようにして「アダム・スミスの神の見えざる手」は成立し、失業と貧困のない健全な社会にすることができる。


【残された問題】から


貧困者は生きるために自然を破壊する。

貧困は砂漠化への道である。

このようにして、貧困国では子孫の生活する場所はどんどん消えていく。

ここには売る商品はなく、買う資金もない。

そこで必要なのはこの半砂漠で貿易や援助なしに自給する技術である。


また、近い将来に予測される寒冷化(『新石油文明論』2002年参照)で、北方の農地は使えなくなる。

この人達は集団で移住を求めるであろう。


古典的な戦争の心配もある。

その場合を想定して、温暖化に住む人たちがどのようにして北方の人たちを受け入れるか、検討を始める時がきた。

CO2で温暖化するという騒動で浮かれていた時代はすでに終わったようだ。


すごい。


槌田先生の中では2012年時点


12年前にすでに脱炭素社会キャンペーンは


終わっているのか。


現実的には、いいのか悪いのか、はたまた


浮かれているのか、落ち着いているのかも


不明だけれども、脱炭素キャンペーンは


終わっていないし、さらにご指摘通りで


本当に悲しいが古典的な戦争を


中東ではしていて昨夜のニュースから。


 イラン、イスラエルへミサイル発射 


 「報復攻撃」実施と発表


それは置いておいていいのか不明ですが


一旦置かせていただき


”エントロピー”についての理解に補強として


他の書籍から一部引かせていただきます。



環境保護運動はどこが間違っているのか (TURTLE BOOKS 7)

環境保護運動はどこが間違っているのか (TURTLE BOOKS 7)

  • 作者: 槌田 敦
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 1992/06/01
  • メディア: 単行本


増補・地球温暖化は悪いことか


◉自然のサイクルとは


汚染とは、物理学のことばでいうと、エントロピーです。

地球は、このエントロピーを宇宙に捨てることのできる星です。

これによって、地球上にはいろいろな活動が存在できるのです。

地球に存在する最も大切な活動は、大気の循環です。

つまり風が吹くことです。

この循環により、大気上空で放熱して、宇宙に熱エントロピーを捨てています。

水が蒸発して雨が降るという水の循環も大切な活動です。

この二つの循環活動があるので、地球表面は熱の汚染から免れ、快適な気候が保証されています。


しかし、これだけでは、もうひとつの物の汚染が溜まってしまいます

これは、生態系での養分の循環が解決しています。

土から養分を得て植物が育ちます

これを動物が食べ、植物と動物の死骸は微生物が分解して土に養分を戻すという養分の循環です。


この養分の循環で生態系は元に戻ったのですから物エントロピーは増えていないはずなのですが、その代わり発熱して熱エントロピーになっています。

植物から堆肥をつくるとき、発熱していることからこれを知ることができます。


生態系の循環は物汚染を処理して、熱汚染に変えているのです。

この熱汚染も大気と水の循環によって宇宙に捨てているので、地球上は物汚染も熱汚染も免れることができるのです。


ところで、この養分とは、リンや窒素などの肥料のことですが、水に溶けて下方へ流れ落ちてしまう性質があります。

それを解決しているのは鳥などの動物です。

海や平地で餌を得て、これを高地に運び上げ、そこで糞をして養分を供給しています。

これが地球規模の養分の大循環です。

これにより海洋だけでなく山地を含む陸地にも生態系が存在できるのです。


これらの四つの循環が自然のサイクルと呼ばれるものです。

これらの循環の中に人間の廃棄物を繰り返す限り、汚染問題が発生することはないのです。

しかし、この自然のサイクルの能力を超えて人間社会が廃棄物を発生させると、その汚染は宇宙に捨てることができず、地球上に留まることになります。

これが汚染問題なのです。


自然の循環が大切な営みであり、


自然が人間生活に欠かせないもの、


それ以上でも以下でもない。


それを崩すことは、暗い未来しか


見えてこない。


にもかかわらず、世界や近代文明で


ただいま現在行われていることは


一体何であろうかという疑問。


心配だらけだけれども、日常生活は


キープできるよう個々で頑張って


いかなければと気を引き締めさせて


いただき、仕事や読書を続けて参ります


所存でございます。明日も夜勤なので。


 


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①槌田敦先生の論考から”違和感”と”現実”を体感 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

  • 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本

現代の暴力装置=原発と自由貿易に騙されないために

弱者の視点・エントロピー経済学で考える


元理化学研究所研究員 前名城大学経済学部教授


槌田敦


から抜粋


強者(富者)は、安い電力を口実にして原発を建設し、経済発展を口実にして自由貿易を押し付け、強者の利益をさらに拡大しようとしている。

そして現代経済学は、この強者の欲望を支える道具となっている。


この強者のための現代経済学をふたたび、アダム・スミスの経済学に戻し、福祉のための学問、つまり弱者のためのエントロピー経済学を構築する。

そのため、まず、原発と自由貿易という現在の暴力装置のウソを暴き出すことから始める。


1.これは「事故」を超えて「事件」である


【福島原発事故は、これまでの原発事故と本質的に異なる】


から抜粋


スリーマイル島原発事故(1979年)の原因は、「逃し弁開閉の誤信号」だった。

弁が開いているのに、閉じていると表示され、原子炉の冷却水が流出していることに運転員は気づかなかったのである。


チェルノブイリ原発事故(1968年)は、「制御棒の設計ミス」だった。

原子炉を緊急停止しようとして緊急制御防を入れたら、かえって核反応が進み、核爆発となってしまったのである。


今回の福島事故は、このような単純なミスで起こったのではない

事故の原因は東電による安全対策の手抜きだった。


【大災害となった福島原発事故】


から


この福島事故で、東京電力は大量の放射能を環境にばらまき、強制避難で45人(NHKによれば68人という)を死なせ、数人を自殺させ、福島県民の心身を傷害した。


それだけではなく、BEIRーVII報告(アメリカ科学アカデミー2005年6月29日)によれば、100人が生涯において平均して100ミリシーベルト被曝すると1人はがんになり、またその半分はがん死する。

したがって、生涯被曝が50ミリシーベルト増と予想される福島県民200万人の場合、今回の事故によって1万人はがんになり、その半分5000人はがん死させられることになる。


【今後も安全費用の節約による原発事故継続の心配】


から抜粋


原発では事故があるたびに安全費用の追加が繰り返され、原発の単価はますます高くなっている。

その原因は、放射能という毒物が科学技術では消滅できないからである。

そこで、この放射能毒物の閉じ込めだけで対策することになる。


しかし、放射能はこの閉じ込めもすり抜けて、漏れ出してしまう

そこでまた別の閉じ込め作業の追加が必要となる。

これの繰り返しで、原発の費用は増えていく。

これが、原発の費用が火力の費用よりも高くなる理由である。


放射能は、もはや科学技術の手に負えないことを認めなければならない

原発で儲けようとして裏目に出て、損ばかり増えることになった。

経済学は、この原発の現状を認め、対策不可能な放射能を生み出す原発を廃止する側に立たなければならない。


ところが、それを許さない勢力が存在する。


原発でメシを食っている人たちである。


この人たちは直接電力会社に雇われている訳ではない。

下請けの下請けの…という形になっていて、多くの企業が原発にたかっている。

この連中が、原発停止では職を失うと騒いでいて、これだけの被害があったのに、一部の町長や町会議員に原発再開を言わせているのである


【事故原発の現状説明もウソだらけ】


から抜粋


ところで、この東電は、安全対策の手抜きをごまかすために、原子力・保安院とともに話題をすり替えてきた。

たとえば「炉心溶融」がそれで、マスコミはまんまとひっかかった。

炉心溶融(メルトダウン)とは、融点2800℃の酸化ウラン燃料が溶融することを言う。


スリーマイル島原発のように、完全な空焚きになればそのような事態になるが、福島事故では、原子炉の底には水があり、燃料を支えている構造材の鉄(融点1500℃程度)が溶けて、燃料と共に水中に崩れ落ちて冷えたと考えられる。

構造材の融解はウラン燃料そのものの溶融ではないから炉心溶融ではない。


それから、4つの原子炉建屋ですべて水素爆発したことになっている。

しかし、水素爆発は1号機だけで、2号機は爆発そのものがなかった。

3号機では1986年のチェルノブイリ型爆発である。

水素爆発では黒い煙にはならないし、プルトニウム241(半減期13年)が環境に飛び散ることもない。

4号機は蓋の開いた原子炉から水蒸気が激しく噴き上げ、それが8月になっても続いていたから、1999年のJCOの臨界事故と同様の核暴走があったと考えられる。

この原子炉には燃料が入っていないとされているが、ウソらしい。


【放射性廃棄物はどのようにするのか】


から抜粋


原発推進の経済学者たちは、放射性廃棄物の問題に口を閉ざしてきた。

それにもかかわらず、彼らは、今でも、原発で電気を得て、経済成長しようと叫んでいる。

私は、放射性廃棄物の問題について、子孫に対する4つの犯罪を整理した。


①処理・処分の困難な毒物を製造する行為、

②毒物を取り扱い困難にする行為、

③人間集団の遺伝情報を狂わせる行為、

④子孫に毒物管理を強制する行為

(『エネルギーと環境 原発安楽死のすすめ』1993年、183ページ)。

けれども、原発推進の経済学者たちを反省させるには、私の力は足りなかった。


槌田先生の指摘が正しいとすると


今まで大手既成メディアで


報道されていることとは


違和感があるなあ、という実感。


福島原発事故以前から、槌田先生は警鐘が


無視され続けている現状。


権力は自分たちでは手を下さずに


自粛警察と化している人々が動いている


いびつな構造。


なんかテーマが同じだからか


池田清彦先生に似てきてしまったな。


(どこがだよ!)


何を支持するのが良いのか、は


自分で調べてより正確な”知識”に裏付けされた


”考え”なのだろうと思った久々の日曜早朝読書


梅茶をすすりながらそろそろ朝食をとり


風呂とトイレ掃除しないと。


先週サボっておりますから。


 


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