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最初期の池田先生の書から”清算”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

構造主義と進化論


構造主義と進化論

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 海鳴社
  • 発売日: 1989/09/01
  • メディア: 単行本

はじめに

から抜粋


本書は「構造主義」という時間とは最も無縁なものと、「進化」という時間に最も関係深いものを架橋しようとする試みである。

本書を書いた動機は二つある。


一つは、前著『構造主義生物学とは何か』(1988年)を書いたあと、進化については、まだなにか言い足りない思いが残ったこと。


一つは、「科学とは不変なるもの(構造、形式、公理など)によって変なるもの(現象、出来事、個物など)をコードしようとする営為である」という私の構造主義科学論によって、変なるものを扱っている科学の代表である「進化論」を解釈しようと考えたこと。


その二つの動機に沿って執筆していくうち、時間論を避けて通るわけにはいかなくなり、それとともに科学的営為の原点とも言うべき、古代ギリシャの自然哲学者たちにも言及してみたくなった。


そんなわけで、ごく常識的な科学史や進化論からみた言説としての本書には、

①少し風変わりな古代ギリシャの自然哲学史、

②新しい歴史的事実の記載は何もない進化論史、

③わけのわからない時間論、

④マユツバものの構造主義進化論の大構想、

などが書かれている。


もちろん私には私なりの成算があるわけで、私の密かな目論見によれば、本書は未来から書かれた進化論史の本なのである。


したがって現時点において、本書が、構造主義進化論のマニフェストとして読まれようが、できそこないの進化論史として読まれようが、時間や名を形式化しようとする形式主義者の稚拙な一試行(いちしこう)として読まれようが、かくべつの不満はない。


池田先生のライフワーク


”進化論”の最初期の書ということで


このあと”進化論”については


何冊も書かれているのだけれど


直近の『驚きの「リアル進化論」』と比較すると


基本ラインはあまり変わってないように


自分は感じた。


細かいところは違いますよ、そらもちろん


30年以上経過しているんだから。


そもそも進化論自体理解しているとは


自分は言い難いし。


そういうことではなくて、


”態度”というか”物腰”というかが


同じってことで。


そういう意味では確かに”まえがき”にあるように、


未来の視座を持った書なのだろう。


ただ、この書は個人的には読みづらいってのは


あるのですが、それは自分の頭がついていけてない、


ってことなのでしょうなあ。


あとがき(1989年3月) から抜粋


1989年1月7日に昭和天皇は死去した。

当時私は本書の執筆に没頭している最中であった。

天皇死去に伴う政府・マスコミあげての騒ぎと、それに便乗した天皇の戦争責任不問キャンペーンを傍に見ながら、私の心は鬱屈し、それはときとして現れる主題からの逸脱と、論敵へのいわずもがなの悪口となって本書に反映した。


それは本書の品格を損なうものではあろうが、もともと品格のない私はあえて書き改めることをしなかった。

文句のある人は私の悪口に数倍する罵詈雑言を私に浴びせるもよし、黙殺するもよし、紙上のものである限り、そのこと自体に異存はない。


柴谷篤弘氏は草稿を通読し、貴重な幾つものコメントを寄せてくださった。

前著の時と同様に深い感謝の意を表したい。


私事になるが、1988年6月1日に私の母は20年近くにもなる長い闘病生活の末に死去した。

母は、私の人生上の小さな失敗を我がことのように悔い、小さな成功を我がことのように喜んだが、私が政治的には必敗の学生運動に関わったときだけは、長いものには巻かれろ式のものいいで私を諌めることをしなかった。

それどころか国家がいかにインチキなものであり、姑息で卑怯な人間を再生産するかを(もちろんそのような言い方をしたわけではないが)語ってくれさえした。

だから私の反国家主義は母親ゆずりである。


死に近き母のベッドの枕辺で、本書の構想を練りながら、私には、母が死に逝こうとしているのに私の心はなぜかくも平静でいられるのか、いぶかしく悲しかった。

母はたとえ生きていたとしても、本書のようなものを決して読むとは思われないが(母は私が前著を見せた時も一瞥しただけで扉すら開けようとしなかった)、行動ばかりでなく心まで親不孝であった私のせめてもの気持ちとして、本書を母に献じたい。


個人的なことを滅多に書かれない印象のある


池田先生、実際にはそんなことはないのかも


しれないが、反権力の発芽は、お母様だった


というのは実は自分も似ているというか


自分の母親は威張りくさった態度というものを


忌み嫌っていてそれを受け継いでしまいまして。


(僭越ながら…養老先生シンパになるのも


無理ないよなあと思った。)


かつ、母が亡くなった時に平静だったのも


同じで、でもそれは自分なりに思うことがあり


自分の場合は子供が生まれたばかりだった為


母親が用意してくれていたステージが


変わったから、としか言えない。


抽象的でうまく説明できないのだけれども。


余談だけれども、池田先生はお母様に


献じるものがあるので清算されたと思うけれど、


自分は何を献じたのだろう、などと全く不毛なことを


考えてしまった朝5時起床で仕事してきた身では


なかなか眠くなってお腹減ってきましたので


食事したいと思い始めたところです。


 


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中村・村上・西垣先生の対談から”わからなさ”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

ウイルスとは何か 〔コロナを機に新しい社会を切り拓く〕


ウイルスとは何か 〔コロナを機に新しい社会を切り拓く〕

  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2020/10/27
  • メディア: 単行本

第二部 どういう社会を目指すのかーーディスカッション

新型コロナウィルスがあぶり出した社会の問題


予測不能なものに向き合えるのが生き物


から抜粋


村上▼

昔から一つ気になっているのは、さっきから出てきている、確率です。

気象情報で「何%」というと、いかにも科学的になったように見えるけれど、何%と言った時の、100%から引いた方はわからないわけでしょう。

そのわからないということをわからないとして、正面から受け止める

何%とは何を意味しているのかということをきちんと理解して、よくわからないんだけど、それでもそのわからないことに対応しましょうという気持ちで、最後まで我々自身がいられるのか、それでも数字が「%」で出たから、その数字をよりどころにして行動しましょうとなるのか。

ここにさっきから西垣先生が言っておられるポイントの一つがあるのかもしれない。


西垣▼

最近のAIというのは統計処理をやっています。

確率分布を仮定して、計算して答えを出す。

ところが状況ががらりと変わってしまうと、分布そのものが変わるので、AIの計算結果は役に立たなくなる。

そこが問題なのです。

一昨年『AI言論』という本を書きましたが、そこでカンタン・メイヤスーという現代哲学者の興味深い議論を紹介しました。

彼はわからなさに二通りあると言っています。

一つは、英語で言えばポテンシャリティ(潜勢力)。

これは確率的なわからなさで、繰り返しているうちにだんだん見当がついてくる。

もう一つは、ヴァーチャリティ(潜在性)です。

こちらは、対象の挙動が何をもたらすか全く予測ができない偶然性みたいなものなのです。

わからなさにはこの二つがあるのに、我々はみんな大体ポテンシャリティでなんとかなると思っています。


地震を例にすると、首都直下型地震が起きる確率は何々%だとかいいますが、メイヤスーに言わせると

「そんなことはヴァーチャリティだからわからない」

となるでしょう。

彼の議論は『有限性の後で』という本の中に、非常に厳密に書かれています。

要するに世の中の事実の根本には、われわれ人間には偶然としか思えない根本的なわからなさがあるということです。


サイコロを振って出る目を当てるようなポテンシャリティについては、確率計算で予測できるけれど、そればかりではないのです。

AIは過去のデータに引きずられる存在で、まったく新たな環境条件のもとでは役にたちません。

ところが人間などの生物は、新たな環境でもなんとか生き抜こうとする。

この何とか生きようとする直感力みたいなものが弱ると、死にます。

生物種は滅びます。

人間はそのことに気づかないといけないんじゃありませんか。


中村▼

フランソワ・ジャコブという研究者がいます。


村上▼

ジャック・モノーと一緒にノーベル生理学医学賞を共同受賞した人ですね。


中村▼

彼の生物の定義ーー彼自身は、別に定義として言っているわけではないのですが、生物とは何かを説明しています。

1980年代に書いた本ですが、私は彼の考え方がとても好きです。

彼は、生物を

①予測不能性、②偶有性、③ブリコラージュ(あり合わせの材料、道具でものを造ること)、と言っています。

寄せ集めてできた予測不能なものが生物だと、分子生物学者として説明しているのです。

私は直感的に、この説明はピタリと当たっているなあと思っています


「偶有性」は、茂木健一郎先生が


「ブリコラージュ」は内田樹・平川克美先生が


ある対談で話していたのを思い出した。


まったくのノーマークの書でしたが


いつも立ち寄るブックオフの廉価コーナーで


中村先生のお名前があり廉価の中では若干


高めだったが即購入。


予想以上に興味惹かれる書だった。


この3人ではないと語れない対談だったものを


長時間の電車の移動中に読了。


「わからなさ」を「わからない」とすることが


許されない社会というか、


「わからない」と言えない、言うと「経済」が


回らない何かになっているような気がする


ただいま現在の大人の世界。


なぜこのような世の中になってしまったのか、


とはいえ、それでも踏ん張るのだ


いや、もうそんな年齢ではない、と


お三方の中でも押し問答があり、


天井人のような方達でさえもそうなら


下々のものだって逡巡して当たり前


それでも考えておかしいと思えば抗い、


より良い方向にするのが


今を生きる大人の役目なのだろう、と思った


本当に良書でございます。


コロナ禍発生当初の書なので、この後時間が


経過すると一般的には価値が薄れてしまうのかも


しれないが、普遍的な眼差しを秘めているなあと


感じた次第でございますが、明日は


早番仕事のため早く寝たいと思います。


 


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2冊の柴谷篤弘博士の書から”態度”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


あなたにとって科学とは何か―市民のための科学批判 (1977年)

あなたにとって科学とは何か―市民のための科学批判 (1977年)

  • 出版社/メーカー:
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

まえがき から抜粋


この本では、まえの本と違って「反科学」ないしは「反科学論」の表現を、ほとんど排除しております。

そのひとつの理由は、わたしの反科学論とはかならずしも同じでない反科学論というのが日本では盛んであるというようなことが書かれたり、一般にわたしの意図が誤解されているということを言って下さる方々があったりして、この表現にこだわることは有益ではないと判断したからであります。


すべてのものがすみやかに風化してゆく消費社会では、たとえ同じ立場を守るためにさえ、われわれは、全速力で変わってゆかねばならないのかもしれません。


これは、わたしの好きな、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の中で、赤の女王(チェスにみたてたはなしなのです)がアリスに語ることばと関連しており、動物の進化における、「赤の女王説」というようなものも出されているくらいです。


いずれにせよ、反科学論は、とうとうたる世相に食いものにされつつあるようで、自衛上、私は、前の本の書名が『反科学=論』ではなくて、『反=科学論』の含みをもつものであることを、ここに改めていってみたくなっております。


しかし今回新たに書いた本では、科学批判という表現をとりました。

これとてもすでに「反科学ないし科学批判」という表現があらわれており、同様風化しきるまでには長くかからぬかもしれません。

赤の女王の説くところにしたがい、つぎに進出すべき立場の呼び名を、今から用意しておく必要があるようです。


柴谷先生の何かと闘っておられる姿は


ものすごくロックと通底する気が勝手にする。


体制とか権力とかへの態度というか。


この頃何冊か拝読させていただき


そのことがわかってきた。


いや、もっとわからなくなっているのかも


しれない。


原稿を書いてから、すでにいくらか時間がたち、その間多くの方々から意義ふかい意見が発表されています。

いまとなっては、この本でわたしの書いたことの大部分は、日本でもどなたかがすでに書かれた内容に過ぎないようです。

人間のもつ遺伝的制約にもかかわらず、そのなかで多様性があらわれ、しかも個々の人間の創造的可能性の限界は、

考えていいとする、この本でのわたしの主張は、構造主義の哲学とも矛盾するところがないようです。


それやこれやを今になって考えてみると、この本で書いたことは、まだまだ不十分であったという気がします。

ある期間、他の業務はすべて投げうって、この本に集中できたら、もっと整った、正確な本が書けただろうという悔いに似たものが、絶えず心にかげりをつくります。

しかし、これこそが、学者の立場であって、生活し行動する市民の立場ではないこともまたきわめて明らかであります。

さまざまの立場・状況のもので努力しておられる、既知・未知の市民のかたがたから、この本をきっかけにして、今後も色々学んでゆく機会に恵まれることを願ってやみません。


1977年4月3日 シドニーにて


 の説明文から引用


学問的な本には、注をつけるのがしきたりです。

その多くは、文献の引用であり、それには二つの意味があります。

ひとつは、自分自身の手によって、知識を生み出したのではなく、他の人の書いたものを利用して記述をすすめる場合、その出典を明らかにして、誰がもともとどのようにしてその知識を手に入れたのか、また元の本の引用・紹介が正しく行われているかを、読者が必要に応じて検討することができるようにする、ということです。

別な意味からは、そのことによって、人類史のなかで、その知識の樹立が、誰の功績に帰すものかを、公平に示そうということにもなります。

しかし転じて、二つには、著者がいかにたくさんの文献を読みこなし、学が深いかを、読者に誇示することによって、著者の学問的権威らしいものを打ち立て、数多くの文献に接しえない読者による批判と協同を心理的に困難にし、学問と学者を神秘化しようといったしきたりをも批判してゆくべきでしょう。


この本では、その意味で、表に出典に関するただし書きをつけた以外は、本文には、注はいっさいつけず、そんなことを気にせず、読者にわたしの思想を追っていただくことにしました。


しかし、この本を材料として、いっそう深く、自身の考えをすすめたい、と思われる方々のためには、わたしがどのような著者と著書・論文に負うているかを示すことが必要であろうと思われますので、いくつかのただし書きとともに、これを付録の形で、ここに注としてまとめておきます。


すごく誠実だ。


”注”に対しても著者が文責を負って


かつ丁寧な説明もされているなんてのは


学者さんの本にしては珍しいことでは


ないのだろうか。


そもそも今まで学者さんの本を


意識して読んでなかったから


自分が感じるだけなのかもしれないが


柴谷先生の文章の覚悟と巧妙に仕掛けられた


トラップは深く、拮抗しうる知性を持たないと


わからないみたいな気がする。



恐龍が飛んだ日: 尺度不変性と自己相似 (ちくま文庫 よ 6-4)

恐龍が飛んだ日: 尺度不変性と自己相似 (ちくま文庫 よ 6-4)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1995/12/01
  • メディア: 文庫

第4章 真理は一つではない


反論が多いほど有効


から全文引用


養老▼

柴谷先生の書かれたものを読むと急に腹が立つことがありまして、たとえば『今西進化論批判』(1981)の中で、キリンの首はなぜ長い、ゾウの鼻はなぜ長い、というのは、発生の問題だと断言されるのですが、そこでカッとなる。

わたしもですから、この本の書評の確か結論のところで、要するに柴谷氏の言い分は、自分を発生学者としてみてほしいという事の言い換え

だろう、という解釈をした、と書いておいたのです。


柴谷▼

なるべく刺激的というか、反論が多く出るような形で出した方が有効である。

少なくとも、欧米ではその方が有効だと思われているのですが、日本ではどうかわからない。


養老▼

やっぱり有効だと思うんですよ、わたしは。

おかげでこちらも考えますので。


柴谷▼

僕はそうだと思うんですよ、それは。

そういうものであると思うんです。

私自身がまた文句をいわれるとものすごく進歩するのであって、私のように体制の中ではかけはなれて周辺部にいる人間は、本の形にしないと、十分に人の話を聞けないです。


養老▼

確かに、極端なことをやるかいうかしないといけないみたいで。


柴谷▼

でも、私はこれは仮に極端な言い方をしてみせているんだぞ、ということを、自分では意識しているのだけれども、読む方は本気にとる、

仮にこう考えればこうなんじゃないか、これはどういうふうにしたらいいんだろう、ということをいっているんだけれども。

養老さんはそういうふうにとってくださった、最後の発生学の立場からわざといってるんだと。


養老▼

しかし、それはやっぱり頭を冷やした後の話でありまして(笑)。


柴谷▼

カッと怒らせるところが実は狙いなのであって。


養老▼

読んだ時はまずカッと怒るんです。


柴谷▼

その時は、必ず怒った状況を克服するので、相手の方には進歩があるはずである(笑)。

私自身がそうなものですから、刺激的なことで反論されると、得をしました。


アップデイトされ続ける柴谷博士の言説。


だからといって、読んでてくだびれて


退屈ってわけではまったくなく爽快


なのは、面白いと感じる感性が響くからなのだろう。


時代を帯びているため、見過ごされがちな気が


若干したり、自分自身もその全てをキャッチ


できてないとは思うのだけれども


昨今は響きまくりな柴谷先生の言説。


難解なものが多い気がするのだけれども


この書に関していうととても平易で読みやすく


今までで一等、装丁が洒脱。お洒落です。


装丁デザインした人もすごいと感じて


またまた主題と離れてた解釈をするんじゃないよ


といっても元から大した情報処理できない頭なんじゃ!


と思った夜勤に向かうバスの中での読書でした。


 


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石坂公成先生の書から”フェアネス”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

我々の歩いて来た道―ある免疫学者の回想


我々の歩いて来た道―ある免疫学者の回想

  • 作者: 石坂 公成
  • 出版社/メーカー: MOKU出版
  • 発売日: 2000/07/01
  • メディア: 単行本

第1章 少年時代から結婚まで

私の生い立ち


から抜粋


人間には祖先がある。

ヒトの遺伝子が全部解読されても、私がなぜ石坂家に生まれたのかはわからない。

それは運命というものである。


石坂家はもともと埼玉県熊谷周辺の地主で、先祖は源氏の流れを汲む家系である。

祖父の義雄は8人兄弟の末っ子であった。


父弘毅(こうき)は、義雄の長男である。

のちに東芝社長・経団連会長になった泰三は三男であった。

祖父母には8人の子供がいたから暮らしは貧しかったが、子供たちには幼い頃から「四書五経」や『資治通鑑(しじつがん)』を素読(そどく)させるなど、教育熱心な家庭であった。

叔父の話によると、祖母・ことは、大変よくできた人だったそうで、針仕事をしながら父や叔父が素読するのを聞いて、間違いを指摘したということである。

父は子供の頃に読んだ漢籍の一部を大切にしていた。

私も漢籍がいっぱい入っていた大きなつづらが納戸の棚の上に並べてあったのを覚えている。


小学校の3年生か4年生の頃だったと思うが、ある日、風呂場で父が私にたずねた。

「おまえ、世に中に出て、一番大切なことはどういうことか知っているか?」

私は「もっと勉強しなければいけない」などと言われるだろうと考え

「勉強するということですか?」と答えたのだが、父は、

「勉強するのも大事だが、世の中に出ると”着眼”ということが大切だ。

”着眼”というのは、目の付け所ということだ。

今のおまえにはわからないだろうけれども、どういうことに目をつけるか、何が大切かがわからないと、いくら努力しても効果がない。

よく覚えておきなさい。」


二つ目は、やはり小学校時代に、私が膝を擦りむいて帰って来た時のことである。

私がちょっとした怪我をするのは日常茶飯事だったが、あまり頻繁なので、母が気にして父に頼んで注意してもらったのだと思う。

父は私を呼んで坐らせた。

父や母と話をする場合は、立ってものを言うなどということは許されず、いつも正座であったが、膝が痛いくらいでは足を投げ出すことは許されなかった。

父は、

「『身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝(こう)の始めなり

という言葉がある。おまえが暴れて怪我をするのは勝手だけれど、怪我をすれば親は心配するものなのだから、それを頭に入れておきなさい」

と言った。

話はそれで終わらないで、

身を立て道を行い、名を後世に揚(あ)げ、以(も)って父母を顕(あらわ)すは孝の終わりなり

まで教えてくれた。


お父様の授けてくれた格言


厳格な雰囲気がすこぶるいたします。


格言自体も格調高くて、近寄れない雰囲気がする。


内容は何となくしかわからないけれど…。


でも親の言葉とか行動とかは子供にとって


影響甚大なのは、僭越ながらすごく伝わります。


子供たちの中では、男である私だけが特別な存在であった。

家というものが重んじられていた時代で、両親は私が跡取りであることを意識していたと思う。

ただし、私が将来何をするかについては、自由な考え方だったようである。

自分が自分のしたいことができなかったので、自分の息子にはやりたいことをやらせてやりたいというのが父の念願だったように思う。


余命2ヶ月の東大生


から抜粋


東京大学医学部に入学したのは昭和19(1944)年の9月で、終戦の1年前だった。


昭和20年に入ると、空襲が頻繁になった。


学校から突然、勤労奉仕に行くように言われ、我々は高崎の郊外に連れていかれて、麦刈りと田植えを手伝わされた。


当時は誰が考えても、日本が敗戦を迎えることは時間の問題であった。

日本が降伏するということは考えられないことだったので、我々は米軍が数ヶ月以内に本土に上陸してくるであろうと思っていた。


我々は二人ずつ高崎郊外の農家に泊まり、昼は専ら畑仕事をしていたが、時々近所の家で働いている同級生と会った時に話題になったのは、

「我々があと1ヶ月で死ぬのなら、それまでに何がしたいか?」

ということだった。


誰も死ぬことを怖れてはいなかった。

中学の同級生の中には特攻隊で戦死した人もいたし、高校時代を一緒に過ごした文科系の学生は学徒出陣で戦地に行っていたから、我々が戦うのは当然と考えていたのである。

同級生の中には、「映画が見たい」「女の子と遊びたい」と言って笑っていた人もあったが、私は

「明るい光の下で本を読ませて欲しい」

と思った。


そういう生活を強いられていた我々にとって、8月15日の終戦は全く予期しないことであった。


終戦までは自分の国を守るために死ぬことは当然だと思っていた。

特攻隊で死んでしまった中学や高校の同級生もいたから、死ぬことに抵抗感はなく、次は自分の番だと思っていた。

しかし、99パーセントは死ぬと思っていたのに、終戦によって急に生きることになると、自分が今後どうするべきかわからなかった。


この体験は、それから先の私の人生に大きな影響を与えた。

終戦当時は、日本が存立しうるか否かさえ定かではなかった。

どのような世の中になっても、医者が必要なことは確かであるが、日本にとって、将来、研究者や学者が必要になるかどうかさえもわからなかった。

しかし、自分が当然死ぬ運命にあったことを考えると、生きられるのなら、せめて自分のしたいことに自分の人生を賭けてみたいという願望が強かったのも確かである。


私と東大医学部で同期だった人たちの中から基礎医学に進んだ人が10人以上いたのは、そのためではないかと思う。

あとになって当時の日本の状態を考えると、常識のある人から見れば、我々がいかに世間知らずで無謀だと言われても仕方ないが、我々が戦争の体験から得た人生観は現在の人の常識を超えていたものだと思う。


基礎医学に進む、ということが何を示されているのか


分かりかねるモノを知らない初老なのでございますが


なかなかそちらにはいかないってことなのかと。


なんでだろう。一旦置いておこう。


なぜならば、”あとがき”で少しだけわかるから。


あとがきから抜粋


私が日本の方にわかっていただきたかったことの一つは、”自然科学者というものがどんなものか?”ということである。

日本では、よい大学を出て、多くの専門知識を持っていれば、一人前の研究者になれると信じている人が多いようだが、そんなことは科学者にとって大きな要因ではない。

基本的には、科学者には自由がある。

それはこの職業の最大の魅力なのだが、職業である以上は、何らかのかたちで世の中のためにならなければならない。

私は日本政府が考えているような、科学技術の経済効果のことを言っているのではない

学問の進歩に貢献することのほうが基礎の研究者にとっては大切なことである。


しかし、自分が”これは大切なことだ”と考えてやったことでも、結果的には他の研究者の役に立たないことが多い。

その意味では我々の職業は報われない商売である。

医師や弁護士なら、多かれ少なかれ世の中のためになるのだが、基礎研究者の仕事は、何の役にも立たないことがある。

下手をすると自分の娯楽になってしまい、職業として成り立たなくなる。

この点は、過去50年間気になっていたことだった。


我々の仕事は、自分の得た結果を他の人が利用してくれなければ意味がないのだが、若い日本のエリートの中には、自分の得た結果をなるべく自分のものだけにしておいて、他の人には利用させたがらない人がいる。

これは、日本のエリート教育の欠陥によるものと思う。

どんな職業でも同じことだと思うが、科学者が、”自分さえよければよい”という態度を取ると、科学の進歩は社会に貢献するどころか弊害を招くことがある。


私が科学者としての経験を書いた理由の一つは、若い方にも”科学者というものはどうあるべきか?”ということを考えてもらいたかったからである。


本当にフェアネス、公正な人物である


と言わざるを得ない。


読書というか、本は素晴らしいと思う。


なぜなら実際に会ったら、思っていたのと


異なり話してもまるで理解できないなんてことも


あり得るだけに余計そう思ったりして。


余計な感想は置いといて


この本は石坂先生が日本・アメリカでの


研究奮闘記が刻まれているけれど


泥臭くなく飄々とされている。


それと”私”よりも”我々”が多く使われていて


時に同級生、同僚、仲間、そして言わずもがなの


奥様との愛あふれる交流が描かれる。


奥様とのことは特に晩年の手紙のやり取りが


涙なくては読めない素晴らしいパートナーシップ


なのだけど、それは先日の方が濃密なので


ここでは、石坂先生の成り立ちと、


日本の科学者への思いをピックアップさせて


いただきつつ、若い科学者には絶対に


読んで欲しいとサイエンスにはあまり縁のない


自分が力説してもなあ、とうなだれつつも


花粉の強い朝、休日のためそろそろ風呂と


トイレ掃除してきます。


 


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柴谷篤弘博士の”驚愕”の料理本を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

オーストラリア発 柴谷博士の世界の料理


オーストラリア発 柴谷博士の世界の料理

  • 作者: 柴谷 篤弘
  • 出版社/メーカー: 径書房
  • 発売日: 1998/02/01
  • メディア: 単行本

 


目次 に挿入されている訓示的な短文から


あなたがどんなものを食べているか

言ってみたまえ。

あなたがどんな人物か言ってみせよう。

[伝]フランスの美食家

アンテルム・ブリヤ-サラヴァン

A.Brillat-Savarin(1755-1826)


柴谷博士のプロフィールが他にないものだったので


引かせていただきます。


”職歴”や”著作”はWikiの方が詳しく出ております。


学位

理学博士、医学博士


専門領域

昆虫分類・形態学、動物学、細胞生物学、分子生物学、発生生物学、理論生物学(構造主義生物学・進化論)のほか科学批判、自然保護、差別論、隠蔽研究(政治・社会・文化論)など広い範囲にわたる


こんなに広い専門領域ってすごいのだけど


ご本人的には地続きなものなのか。


”昆虫分類”が”隠蔽研究”と地続きではないよなあ。


まえがき から抜粋


私は生物学者で、料理の研究家でも食品や料理店の専門家でもない。

ただ、ながいあいだ、外国生活をしたため、日々の生活を送るうえでの日常的な意識と、外から日本を見る目が、一般の「日本男子」とちがってきたようだ。

それに生まれつき好奇心が旺盛なために、外国住まいのあいだ、いろいろな国や民族の言語にも料理にも興味を持った。

それがオーストラリアという多文化主義の国で、自分の日常生活のなかに入り込んでしまい、我が家の食卓は、すっかり多文化主義的になった。


1989年以来日本に住みつくようになり、このごろは年齢のせいか億劫になり、一頃は仕事で多忙を極め、また退職金は資金が豊かでないため、旅券も期限が切れたままで、あまり外国へ出ていく習慣がなくなってきたようだ。

レストラン事情や食品事情はそのあいだ、日本でも外国でも急速に変化しているはずである。

だからこの本で書いた私の経験には、時代遅れの面も多いだろう。


だが、「食」は私たちの日常生活にはりついて、時とともに、また地域によっても文化によっても、大きく変わる。

また変わらずにはすまない。

ことに、このごろのように、いろいろの国の料理と食べ物が生活の中に入ってくると、同じものを外国から受け入れるやり方にも、国柄・文化の違いが出てくるだろう。

だから、私は時代と地域といろいろ行き来しながら、日本での現在の外国の食文化を受け入れ状況と、それをさらに学国から眺めたらどう見えるだろうか、というようなことまで、この本で書いてみようとした。


できれば、日本でのわれわれの現在の食事情における偏りを、すこし広い観点から描いてみたかった。

だから「オーストラリア発」なのであり、「世界料理」であって、あえて「民族料理」とか「エスニック」とかを、鍵言葉にしなかったのである。

つまり、いろいろな時期の諸国の料理事情を書きながら、たえず、様々の次元での現在の日本との差異を意識してきたのであった。

つまりは、私は1997年末における日本の食事情のことを、裏側から書いたのかもしれない。


柴谷先生が書く料理本なので、


一筋縄ではございませんで様々な国の


食事情たる随筆や日本の差異を記されているのは


”まえがき”にある通りなのだけれども


まさかの”レシピ”もあり、また手に入りにくいから


日本の食材で代用するなら、ここで買えるとか


日本で食べれるレストランなどの当時の一覧も


掲載されている。


随筆の中には、ここは安い(コーヒー付き800円)


なども!


さらに驚愕するのは”あとがき”に


四半世紀近く台所を一緒に使い、買い出し、料理と

後片付けの実践の中で助言・批判をし、また諸外国・日本各地の料理店での経験をわかちあってくれた伴侶


としての奥方への感謝の言葉を記されている。


柴谷先生らしくないといえば、これほど


らしくない本も他にないだろうという意味でも


貴重な雰囲気を醸し出している書なのですが


そろそろ朝の買い物に出かけないと、と


家の雰囲気が醸し出してきた朝の空気感の


我が家でございました。


 


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『方丈記』から”進化論”に到達、なのか? [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

方丈記・無名抄新解 (要所研究シリーズ)


方丈記・無名抄新解 (要所研究シリーズ)

  • 作者: 稲村徳
  • 出版社/メーカー: 新塔社
  • 発売日: 1969/03/10
  • メディア: 単行本

 方丈記のことなど


田宮虎彦(昭和32年6月)


から抜粋


ゆく川の流れは絶えずして、しかしもとの水にあらず。

よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつむすびて、ひさしくとどまることなし…と書きはじめられている方丈記の無常感は、私たち日本人が母の胎内から受け継いできているものだ。

それは、方丈記が書かれた800年前から、今に至るまで、かわることなくつづき、国民性の一つとして、日本人の心の中に溶けこんでしまっている。

私は、少年時代に、中学校の教科書で、この有名な文章をはじめて読んだのであったが、その時、たちまちその魅力に魅せられてしまった。

しかし、よく考えてみると、中学生ほどの年齢で、この無常感の真実の意味がわかっていようはずがない。


無常感はもともと仏教から生まれたものだと思う。

それが、思索で鍛錬された理性として、私たちの心にあるというのではなしに、理性以外のものとして心の中に生きていて、私についていえば、その理性以外のもので、方丈記の無常感を受け入れたといってもよいのである。


これは、もちろん私ばかりのことではなく、日本人のすべてについていえることだ。

それ故、方丈記のみならず、ほとんど時を同じくして書かれた、祇園精舎の鐘の声、諸行無常のひびきあり…にはじまる平家物語が、ひろく深く人々にうけいれられ、国民の文学となり得たわけである。


だが、この無常感は、いつごろから、それほどつよく私たち日本人の心をゆりうごかしはじめたのであろう。

「もののあわれ」という言葉は、源氏物語の頃からあるようだ。

だが、「もののあわれ」は無常感ほど深い悲しみや苦しみを持っていないように思われる。

語感には遊びの感じさえある。

もちろん「もののあわれ」と無常感とにはつながるものがあるだろう。

しかし、無常感が「もののあわれ」をはなれて、悲しみや苦しみを、その中にひそめたのは、やはり、方丈記・平家物語の時期であったと思う。


考えてみると、方丈記や平家物語の書かれた頃は、世は混乱の極にあった。

新旧勢力の交替期であった。

戦乱に戦乱があいつでいた。

ほろびゆくものは、崖肌をころがり落ちるように無惨にほろび去っていった。

権力は朝廷から鎌倉武家にうつっていっただけだったが、それにつながって生きていた人たち、あるいは権力には関わりはないながらも二つの権力の交代の下にふみにじられた無辜(むこ)の民たちは、ひとときも心の休まる時がなかっただろうと思われる。

その苦しみは、私たち自身も10年前の戦争とそれにつづく敗戦後の混乱期につぶさになめた。


方丈記は、精密なカメラがうつしだすように、それに苦しめられた人々のありようを描いてみせてくれている。

800年の歳月が過ぎ去っているにもかかわらず、それが10年前に私たちが経験したと同じ悲しみや苦しみであるように切実さを私たちに感じさせるのである。


無常感は、そうした人々の異常な悲しみや苦しみを己の中にすいとることによって、「もののあわれ」の遊びからはなれてしまったのだ。

そして、一度、遊びを離れては、もう2度と遊びにはかえられない。

人生は悲しみや苦しみに満ちている。

よし生きてゆく悲しみ苦しみを度外視しても、よどみにうかぶうたかたのように、あとかたもなく消えていく人の生の終わり、死は避けようもない。

その死と結びついて、無常感は人の心を未来永劫にゆすぶりつづけて来たのである。


方丈記を書いた長明は鴨社の社司であった。

父祖あいついだその社司に自分も補せられんことを願って許されず、世を捨てたといわれる。

新旧勢力の交替に、その運命を翻弄されている一人の歌人がここにいるわけだ。

平家物語の作者は誰ともわからぬらしいが、おそらく長明と同じような落魄(らくはく)歌人たちの一人であっただろう。


つまり、方丈記も平家物語も、ほろびの美しさをうたうことによってのみ、自己の存在をあきらかにすることの出来た人たちの著作だったわけである。

時はまさに濁悪の末世。

無常感が、美しいよわよわしい陰気な花をさかせたのは当然である。

それから100年がすぎ、長明とほとんど同じ経歴を持つ兼好によって徒然草が描かれたのだが、この二つを隔てる100年という歳月が、同じく無常感を基調としながら、徒然草をはるかに知性のかかった書としていることは、知識人の運命というものを知る上に何か示唆を与えるようにも思われる。


日本の文学とか文化とか国民性などが


”もののあわれ”を誘い、”無常感”に


到達するというような。


”もののあわれ”と比べ遊びがないのが


”無常感”というのがなかなかすごい。


さすが作家は違う。


”ほろびの美”となると退廃とか耽美を


想像してしまうのだけど。


自分はそこまでネガティブな要素を


感じておらずに、恬淡とした境地


だったのではなかろうかという気がする。


無意識にはネガティブなものからの


発想だったのかもしれないけれども。


ドライな文章の印象を受けるのは確かだけど。


それにしても何かから受ける印象って


受け手の感性・知性にかなり左右されるのは


どんなものにも共通なのだろうなあと。


自分はもうネガなものを積極的に


受け取りたくはない年齢でもありまして


そういうのが似合うのって人にもよるし


年齢とかでは線引きできないものなのだろうが。


じゃなにで分けるのかと言ったら


”氏と育ち”というか”遺伝と環境”によるような。


あれ、話がなんだか進化論に達してしまったよ


とおそるべし”方丈記”なのでございました。


 


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『方丈記』から”動機”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

文法全解方丈記,無名抄 新装・二色版 (古典解釈シリーズ)


文法全解方丈記,無名抄 新装・二色版 (古典解釈シリーズ)

  • 作者: 島田 良夫
  • 出版社/メーカー: 旺文社
  • 発売日: 2005/08/01
  • メディア: 単行本

はしがき から抜粋


古典に親しむことによって、日本文化の伝統にあらためて開眼(かいげん)し、感嘆する人も数多(あまた)いるはずである。

日本の三大随筆と言われる『枕草子』『徒然草』それに『方丈記』は、それぞれ、自分の時代を個性的に生きた人たちの記録である。

そして、なかでもこの『方丈記』には、個性的すぎるほどの人間くささが感じられて興趣(きょうしゅ)は尽きない。


『方丈記』『無名抄』の作者について


鴨長明の生涯


鴨長明の周辺


から抜粋


鴨長明の正しい読み方は、「かものながあきら」とすべきで、「ちょうめい」は音読したにすぎない。

通称は菊大夫(きくだゆう)といった。

生まれた年は仁平(にんぴょう)3年(1153年)とも、久寿(きゅうじゅ)2年(1155年)ともいわれ、はっきり断定はできない。

父親の長継(ながつぐ)は、京都の賀茂御祖(かものみおや)神社(下鴨神社)の正禰宜(しょうねぎ)であった。

正禰宜とは神職の階位をあらわすのだが、神職全員を統率する高い地位をいう。


『方丈記』について


2.『方丈記』の内容と鑑賞


長明の精神面の軌跡


から抜粋


『方丈記』に関係のある長明の精神面の軌跡をたどってみると、どうなるであろうか。

彼を出家にしむけた最大の理由が、神職に就任できなかったことにあるとすると、ここでは人生への失望・痛恨・挫折等など悲運のどん底にあったであろう。

出家してから。彼は大原・日野と自然の中に埋没し、自己の内面を凝視した。

その結果、都の生活とはうってかわった気ままな暮らしに満足を覚えたのであった。

しかし、この満足感は心からの十分な満足ではなく、むりな自己満足の色合いが濃い。

はたして長明は、方丈の庵の生活に執心する自分を反省して終わるのである。

要約すれば、神職就任に失敗し挫折→自然(山林)生活によって内面凝視→自己満足自省心という軌跡をたどったことになる。


”自己満足”のところが一番自分には響きまして


”自省心”までいかなくとも『方丈記』はとても


好きな随筆でございます。


長明さんにしたら、”自己満足”で


終わっては意味がないんだよ


ってことなのかもしれないが。


出家しているからか、どうしてもその


”自省心”のところは


自分はまだその境地に立てない。


で、”自己満足”のところをピックアップしてみた。


《原文》《通訳》《要旨》の3種なのでございますが


これは断然《原文》が良い。


《通訳》《要旨》を読んだ上で、ってことが


前提なのでございますが。


なので、《通訳》《要旨》《原文》という


順番で以下に引いてみた。


17 閑居の気味(その三)


《通訳》


そもそも、三界とよばれるわれわれをとりまく現実の世界はもっぱら心の持ち方ひとつでどうにでもなるものだ。

人間の気持ちがもし安定していないならば、貴重な象や馬の宝物も、金銀などの珍品も何の役にもたたず、宮殿・たかどのなどのりっぱな建物に住んでも何にもならない。

今、私のいる静かな環境の住まい、そしてたった一室のせまい家に、私自身はとても愛着を感じている。


何かのついでに、都に出かけて、私が粗末な身なりで乞食のようであることを恥ずかしいとは思うけれど、ひとたび日野に戻ってここにいる時は、かえって他人様が世俗の欲目にあくせくするのを気の毒に思った。


もし、あなたが(私の)今まで述べてきたことを疑問に思うならば、魚と鳥とそれぞれの生活ぶりを見よ。

魚は水の生活に十分に満足している。

魚でなければ、その気持ちはわからない。

鳥は林の生活を望んでいる。

鳥でなければ、その気持ちは理解できない。


静かな暮らしのしみじみとした味わいもまた同じこと。

そこに生活してみないでだれにわかるであろうか。

わかろうはずがない。


《要旨》


われわれをとりまく現実の世界は、その人の心の持ち方でどうにでもなるものだ。

心が安定を欠くと、貴重品も珍品も価値はないし、どんな大邸宅に住んでも空虚である。

私は今住んでいる日野の家が、どんなにさびしくとも、せまくとも好きである。


ここにいると、都で名誉、名利のためにあくせくする人たちが気の毒に思える。

魚は水の、鳥は林の生活に十分満ち足りていることからみてもわかるように、私は日野の方丈の住まいに満足している。


その気持ちは、ここに住んでみなくてはわかろうはずもない。


《原文》


それ三界はただ心ひとつなり。

心もしやすからずは、象馬・七珍もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし。

今、さびしきすまひ、一間の庵みづからこれを愛す。


おのづから、都に出でて、身の乞丐(こつがい)となれることを恥づといへども、帰りてここにをる時は、他の俗塵(ぞくじん)に馳(は)することをあはれむ。


もし、人このいへることを疑わば、魚(いお)と鳥とのありさまを見よ。

魚は水に飽かず。

魚にあらざれば、その心を知らず。

鳥は林をねがふ。

鳥にあらざれば、その心を知らず。


閑居の気味もまた同じ。

棲まずして誰かにさとらむ。


《原文》は短い単語でリズミカルで心地よい。


それがこの随筆の醍醐味なのだろうことは


周知の事実なのでございます。


それにしても鴨長明さんの生涯は


複雑で浮かばれなかったというのは


余計なお世話と思うし、浮かんだか沈んだかは


己次第なのだよ、と言われているような気もする。


たった一人でいいから理解者がいたら


また違っただろうと思うが、そうすると


「方丈記」自体を書くこともなかっただろう


ことを思うとこちらが複雑な気持ちに


なりますなあと。


表現行為というのはつくづく容易ならざるものを


背後に忍ばせているのだなあと感じた。


余談だけれど長明というのは「ちょうめい」


ではなく「ながあきら」だというのは


存じ上げておりましたが


通称「菊大夫(きくだゆう)」ってのは


数多く「方丈記」関連を読んできて


この書で初めて知った。


というか、”通称”って何だろう、と思いつつ


朝の5時起きでの仕事だった本日、仕事前


コンビニの駐車場で読んでいた時から


花粉で強く喉が痛痒い1日でございました。


 


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野沢収さんの書から”若さ”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

新版 ザ・ドアーズ―永遠の輪廻


新版 ザ・ドアーズ―永遠の輪廻

  • 作者: 野沢 収
  • 出版社/メーカー: 音楽之友社
  • 発売日: 2001/12/01
  • メディア: 単行本

1 音楽が終わるまで

1971年7月3日土曜日 から抜粋


ジム・モリソンは持てる才能の”魔”にからめ取られ、やがて自滅せざるを得なかったロックンロール詩人といえるかもしれない。

かつてオノ・ヨーコは、三島由紀夫を”自分の作り上げた幻想の中で死んでしまった”と言ったが、モリソンもまた自らの「文学」にーーーデンズモアにいわせれば、”ニーチェ”にーーー殺された一人だ。


一方で、酒で身を滅ぼした典型例として片付けられないわけでもない。

彼は彼の深層によどんでいる衝動をむき出しにするためにアルコールを用いた。

むろん彼の飲んだ酒のすべてがそうではないが。

自己を器用にコントロールし、時代に同調し、サイクルを合わせてゆくキャラクターとは対極的に立つモリソン。

しかしそれも自滅と解されるのは避け難い。


このどちらも皮相的ではあるが、全く誤った指摘とは言えない。

だが、「ムードを変えよう、喜びから悲しみに(L.A.ウーマン)」と歌っていた彼の死には、単なる自殺とも事故死とも異なる、それらを超えた”何か”が感じられてならない。


「死よ 汝の訪れしとき 生けるもの すべて 天の使いとなり 空かける 翼を得ん」


これは、彼のまさに戦慄すべき戦略である。

永遠こそ死と引き換えに彼が最後に得たものだ。

自分自身を対象化し、作品としてしまうために。

《L.A.ウーマン》の次の作品とは、もはや言葉も音楽も不要となった、「ジム・モリソンの死」という表現だったのではなかったか。

なぜなら、そこに彼自身の意志が介在したにせよ、あるいはしなかったにせよ、それまでに遺した言動や何よりも作品の数々が否応なく”死”にそのような意味をもたらしているからである。

四年余にわたって奏でられてきた永遠へのプレリュード。


ポップスターからの逃避を逆手にとり、皮肉にも表現にまで昇華させたといってもいい。

モリスンは姿を消すことにより、彼の生涯を貫いてきたコンセプトである「終り」を始めたのだ。

死により彼の美学はいったん完成され、そのことにより彼のコンセプトはさらに続く。

ドアーズでの数年間は、モリソンにとってどうしても死ななければ生きてこないのだ。

現在、不在でありながらも、ますますその存在感を強め、表現を続けているというべきか。


つまりあれほど「終り」にこだわっていたモリソンが、1971年7月3日以降、いよいよ永遠に「終り」始めたのである。

これには、恐ろしいことに終りが来ない

永遠の不在を”表現”にしてしまったアーティスト


彼はあらかじめ約束された彼岸への旅立ちに関する歌を持って現れた。

私を遠くない距離に見、徐々にそれに接近してゆく緩やかな自殺。

一般的な通念上での”自殺”とは異なった、自分自身の上に死を誘発しようとする試み。

例えば客観的にはドラッグによる偶発的な事故死と見えても、彼の主観にあってはいかなる驚きもない必然死。

いわば、未必の故意による自殺。

プログラムされていた死が、単にその「時」を捉えたに過ぎない。

モリソンの死にはそんな印象が強い。

従って、それが悲劇的な非業の死という印象を抱かせないのである。


もうひとつ、彼の死を悲劇的な色彩から遠ざけている要因がある

それは、三人のメンバーとの関係が、最期まで崩れることなく保たれていた点だ。

これは、マンザレクに負うところが大きい

モリソンは才能をもてあましながらも周囲の人間に恵まれず、不遇と失意のうちに短い生涯を終えたわけでは決してないのである。

彼本人の思惑はともかく、客観的事実として、彼の周囲には実に申し分のない才能と理解者が(理解という言葉が適当でなければ、協力者が)常に存在していたのだ。

このマグネティヴなパワーがもたらした幸福。

しかも彼らは、この”一瞬のうちに姿を消した巨大な流星”の話を今なお語り継いでいるではないか。

何もかもがモリソンの意図した通りに運んでいる。


よき理解者、レイ・マンザレクも鬼籍に


2013年に入ってしまわれた。享年73歳。


もう10年以上経過。


”ロック”とか”文学”とか”映画”などの分野って


解釈の仕方であらぬ方向に行くことも多々ある。


特にドアーズの場合、単に優れた音楽ってだけで


捉えるには余りあるものなのは確かなのだけど


ビートルズもそうで難しく考えすぎではないかなあと


でも面白いから読めちゃう、というのは


もう老年に差し掛かったおじいさんの


繰り言で少し自分自身残念でもありますが


昨今はそう感じてしまう。


本に話を戻すと、日本の表現者からの視点


オノ・ヨーコ、三島由紀夫もあったり


ジム・モリソンが亡くなった後の


ドアーズにも主眼を置いていたりと


この著者ならでは一級資料であるということは


疑いようのない事実。


これ以上のドアーズ研究・分析本は国内では


なかなかでないでしょう。


1971年以降のドアーズの活動内容の


詳細に触れているのを読んだ記憶がほぼない。


自分は昨日も聞いたけれど「other voices」は


レコード持っているし、かなり良い出来と感じる。


だけど、ジムが抜けたのは埋め難いものが


 あるのも事実で。


(ちなみにレイのソロ一作目もサブスクだけど


一昨日聴いたらかなり良くて驚いた)


バンドサウンドのマジックって


言葉では尽くせないものがある


っていってしまえば、それまでなんだけど。


余談でございますが、自分はこの書


若き日に改訂版の前のものを読みましたが


7−8時間くらいぶっ続けで読破したことを


思い出しました。


若かったからできた懐かしい書でした。


とはいえ、過去の書ってことじゃないすよ


今でも通用する本で読み応えございます。


 


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ローレンツ博士の書から”優しい眼差し”を感じる [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


ロ-レンツの世界: ハイイロガンの四季

ローレンツの世界: ハイイロガンの四季

  • 出版社/メーカー: 日経BPM(日本経済新聞出版本部)
  • 発売日: 2024/03/14
  • メディア: 単行本

まえがき から抜粋


この本はいわゆる科学的な本ではない。

打ち明けていえば、ひとえにこの本は動物たちを観察しているときに私が味わう喜びから生まれたものである。

それはそれでまったく正しいことだと思うけれど、じつはこれはこの本に限ったことではない。

というのは、私の学問的な仕事もまた、その根本ではやはり同じ喜びから発しているからだ。

科学者が新しい、思いもかけぬ発見をなしうるのは、いかなる先入観からも解放された観察によってのみなのである。


最初に述べたように、この本は科学の本ではない。

私たちの科学的研究の一種の副産物である。

この一言からも、ありのままの客観的真実は、それが自然に関するものである限り、じつに美しいものでありうることがわかる。


そしてもう一つ、この本は私が書きはじめる前にすでにできあがっていたも同然であった。

つまり、そのプランはごく細部にいたるまで、はじめから写真によってきまっていたのである。

今では残念にもほとんど忘れられてしまっているドイツの詩人フリッツ・フォン・オスティニは、今世紀への変わり目に画家ハンス・ペラルによってつくられた子ども向けの楽しいメルヘンの絵本に、こんな文を書いた:この本の絵を描いたのは詩人で、物語を歌ったのは画家である

この本の本文と写真の関係は、まさにこれと同じである。


あとがき から抜粋


この本に書いたのは、シュビレ・カラスが編集した写真集の解説であり、事実上これらの写真がどのようにして撮られたかという報告といってもよい。

本書にもられた内容は写真そのものによって語られている。

それでは、この物語はだれのために書かれたのか。

この物語を吸収し、それが伝える情報を理解してくれることを私たちが願い、また信じている相手は、いったいだれなのか。


今日、人間はあまりに文明化しすぎ、自然から疎外されている

大部分の人々は日常生活の中で生命のない人工物以外のものに接する機会をめったにもたず、生物を理解したり彼らとかかわりを持ったりする能力を失ってしまっている


私たちをとりまき、私たちの生活を可能にしてくれている自然界に対して、人類全体が蛮行を働いているのは、一つにはこのような能力の喪失のせいである。

人間と地球上のほかの生物とのあいだの失われた接触をとりもどそうとすることは、価値のある重要な仕事である。

要するに、このようなかけに成功するか失敗するかによって、人類が地球上のほかの生物とともに滅びるか否かが決まるのである。


一日中、けんめいに働いた人々、ふつうはストレスにさらされがちな彼らは、たとえ正しいものであろうと、危険を警告する本(レイチェル・カーソンオルダス・ハックスリー、メドウ・グループその他の人々が書いたもの)を読みたがらない。

だれだって働いた後に贖罪的説教をききたくはないし、石油節減や省エネルギー、浪費の削減といったことは喜ばれない。

そのうえ困ったことに、人間はよいことをするのを重荷だと思い込む習性がある

だが人間は、疲れているときに美しさを感じとることができる

薬屋が苦い丸薬を砂糖でつつむように、美を介することによって、自然から疎外されている働きすぎの人々に、自然界の生物を守り保存する義務の観念を植え付けることができるのではないだろうか。


ハイイロガンは、多数の都市大衆にそうしたアピールを伝えるうってつけのメッセンジャーだと、私たちは考えている。

比較的なじみ深いさまざまな動物のうちで、その行動がハイイロガン以上に人の心をとらえる動物は一種しかいない。

それはイヌである。


動物たちは道徳的責任という観念をもっていない。

彼らがおこなうことはすべて、自然の習性の産物であり、自分の家族や社会を害するかもしれないという予測によって彼らの行動が左右されることはない。

しかし動物は、自然の習性によって、ほとんどすべての場合、あたかも彼らが信頼できる予測の感覚にもとづいて行動しているかのように、確実に正しい結末に到達しうるようになっている。


動物には道徳的責任感というものは必要がない。

自然状態では、自然の習性が彼らを正しいものへと導くからである。


じつは人間にも同じような自然の習性がたくさんある。

だが文明人は理性的、道徳的な考え方により、例えば自然の習性にしたがって子どもたちを扱うのを妨げられることが多い。

子どもたちが行儀よくふるまい、かわいいと思えるのに、彼らを抱きしめてキスしてやることができない

かと思えば、彼らがいたずらをしても、思いきりひっぱたいてやることを自制してしまっている


それはいうまでもなく、いわゆる反権威主義的教育なるものにもとづく、とんでもないナンセンスなのである。

理性的・道徳的な考え方が文明人を過(よぎ)らせているもう一つの分野は、私たちの働くペースである。


勤勉は明らかに美徳であり、同様に怠惰(たいだ)は悪徳である。

だが、義務感につき動かされて、自分の健康を損なわずにできる以上の仕事をするようになると、他の種類のゆきすぎと同じく、勤勉は悲しむべき悪徳になるのだ。


なので、ハイイロガンたちの生態を見て学ぶべき、


”くつろぎ方”や”休み方””ひなの休息の声と眠りの声”は


”なによりも美しい、なによりも効果的な子守唄”、


決定的な写真でクローズしている書でございました。


”あとがき”での”重要な仕事”について


時代遅れのお爺さんの戯言ととるか、否か、


自分なぞ圧倒的に後者と感じ入るのでございます。


オーバーガンスルバッハによせて


日高敏隆


から抜粋


1980年5月、ぼくはアルム渓谷を訪れた。

この本の舞台であるオーバーガンスルバッハのガンたちとその研究を見るためだった。


ウィーン郊外のアルテンベルクにある壮大な自宅から、ローレンツは真っ赤なベンツを猛烈なスピードで馳って、ぼくをまずグリュウナウへ連れていってくれた。

グリュウナウ・イム・アルムタール(アルム渓谷のグリュウナウ)は、鄙びた美しい町だった。

ローレンツが常宿にしている旅館には、カストナー夫妻と美しい娘リージーが、甲斐甲斐しく働いていた。

古びた木製のテーブルの上には、かわいらしい民族衣装ディルンドルを着たリージーが毎朝庭から摘んでくる愛くるしい野の花が、小さな花瓶にあふれるほど飾ってある。

何という美しいところだろうとぼくは思った。


アウインガーホーフの研究所には、クラウス・カラスの研究しているビーバーが飼われていた。

少し離れたところには、ミヒャイル・マルティースのイノシシの親子が何組もいて、その子どもたちは楽しそうに遊びまわっていた。

いかめしい感じのヒュットマイヤー氏にも会った。

彼の案内で、家に飼われているオオヤマネコにも会わせてもらった。


あらためてこの本をひもといてゆくと、すべてがこの本に描かれているとおりであった。

朝霧も夕焼けも雨も。

ほんとうに懐かしい思いである。


初版が’84年なので、日高先生が訪れてから


4年くらいしか経っていないのに


かなり懐かしがっておられる印象。


ローレンツ博士に対する郷愁なのか


グリュウナウへ想いがそうさせるのか。


はたまたご自分の人生への思慕もあるのか。


ちなみにローレンツ博士は、’89年に85歳で


亡くなっているので


この時点ではまだご存命だったはず。


日高先生は当時54歳。


という、この本の主テーマとは思えない事に


目がいってしまう自分はやはり


ひと味違う”アホの極み”なのかもしれないが


この書は自然への”優しい眼差し”が


ひしひし感じられる書でございました。


ローレンツ博士、緑のシャツが


えらくかっこいいです!


 


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多田富雄先生の書から”福祉国家”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか


わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか

  • 作者: 多田 富雄
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2007/11/19
  • メディア: 単行本

はじめに

総括、弱者の人権


から抜粋


この本は2006年度に行われた、政府による診療報酬改定に端を発した、リハビリテーション医療(リハビリ)打ち切り反対闘争の、私の論説を集録したものである。


リハビリを続けなければ、社会から脱落するもの、生命の危険さえあるものにたいして、医療を打ち切るという酷い制度改悪に私は怒った。


文章を書いて反論することが、一障害者の私にできる唯一の抵抗であった。

本にまとめておきさえすれば、この医療史上の一大汚点は、実名とともに後世に残る。


この本を出版する意味


から抜粋


リハビリは息の長い訓練治療にとってようやく目的が達成できる医療である。

健常者にはわからない苦痛に満ちた治療を、医師も患者も辛抱して続けている。

紙の上でお役人が、いつ治療を打ち切るかなど、判断できるはずはない。


それを2006年の制度改定では、病気や障害の多様性、患者の個別性などを無視して、一律に日数で制限しようとしたのだ。

これまでの保険医療制度改定では、患者の負担増を求める流れはあったものの、医療を「切り捨てる」事態が起こったのは始めてである。


国民皆保険以来始めての、医療保険からの患者切り捨てである。

今回設けられた制度により、長期のリハビリ医療を必要とする多くの患者は、保険診療の対象からははずされることになるのだ。

回復を断念せざるを得ない。


これは、世界が羨む国民皆保険を達成した日本の、医療制度の根幹を揺るがす問題である。

このまま医療制限が続けば、早晩公的医療保険は崩壊する。


公的皆保険を破壊し、アメリカのように、損害保険会社の営利的な保険に移行させようとしている危険な医療資本家が、政府の財政諮問会議のメンバーにも堂々と名を連ねている。

実現すれば、先進医療は一部の富裕層だけに独占される。

貧乏人は、生死がかかっていても、医療費不足によって放置されるようになりかねない。

これは国民皆保険という、戦後日本が達成した世界に誇る制度の危機でもある。


だからこの問題は、リハビリという一部の人だけが直接の関心を持つ医療問題ではない。

この国の医療と福祉の未来、ひいては弱者の生存権までかかった、重要な問題なのである。


9 リハビリ制限は、平和な社会の否定である


から抜粋


鶴見和子さんは、先のエッセイにこう述べている。

「戦争が起これば、老人は邪魔者である。

だからこれは、費用を倹約することが目的ではなくて、老人は早く死ね、というのが主目標なのではないだろうか。

老人を寝たきりにして、死期を早めようというのだ。

したがってこの大きな目標に向かっては、この政策は合理的だといえる。」

「老人は、知恵を出し合って、どうしたらリハビリが続けられるか、そしてそれぞれの個人がいっそう努力して、リハビリを積み重ねることを考えなければならない。

老いも若きも、天寿をまっとうできる社会が平和な社会である。

生き抜くことが平和につながる。」

と続けている。

だからこの問題は、リハビリ医療だけの問題ではない。

こんな人権を無視した制度が堂々まかり通る社会は、知らず知らずに戦争に突き進んでしまう社会になる


老人も障害を持った患者も生き延びねばならない。

鶴見さんの言うように、それが平和を守ることにつながるのである。

その意味でも、この制度改定には断固として反対しなければならない。

それが鶴見さんの遺志でもある。

(『世界』2006年12月号)


回復期に受けれなかったことを


”一生の痛恨事”とされ、リハビリの重要性を


誰よりもご存知の多田先生の警鐘。


その後、この日本の福祉はどのように


なって今に至るのだろうか。


兵庫県医師会の先生の記事にたどり着く。


https://kobecco.hpg.co.jp/22842/


 


社会保障の歴史にも”経過”という意味で


興味があるのだけれども


福祉国家の事例に言及されているところが


自分としては強く惹かれた次第でございます。


 


余談だけど、多田先生もまさかご自分が


専門外のこういう告発書を書くことになるとは


想像だにしなかったであろうなあと。


予期せぬってことでいうと自分も


吉本隆明先生の書で多田先生のことを


知ったのだけど、この時はまさかこの後


深掘りすることになりこの書を読んだり


リハビリという今の自分の仕事と微妙に


リンクすることになるとは思わなかった。


リハビリは自分の親もお世話になったし、


かくいう自分や誰しもが


お世話になる可能性だってあるのだから


声高に言い続けていかないとならないのでは


なかろうかと思った夜勤前のコンビニ駐車場で


拝読させていただいた深い書でございました。


 


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森岡正博先生の対談から”権力と人間”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

現代文明は生命をどう変えるか: 森岡正博・6つの対話


現代文明は生命をどう変えるか: 森岡正博・6つの対話

  • 出版社/メーカー: 法蔵館
  • 発売日: 1999/02/10
  • メディア: 単行本

はじめに から抜粋

羊のクローンが成功して、それを人間に応用すべきかどうかを知識人たちが議論しはじめたその矢先に、韓国で人間のクローン実験がはやばやと行われてしまった。

人間の臓器を作り出して利用するためだったら問題はないということで正当化されそうないきおいだ。


現代文明は、われわれを、いったいどこへ向かわせようとしているのだろうか。

科学技術は、私たちひとりひとりの欲望である。


私たちひとりひとりの欲望と、管理社会のシステムと、現代科学が、複雑な相互依存の関係を作り上げているのだ。


学校のいじめと、生命の選択と、地球規模の環境問題は、根っこが同じだ。


いま起きている様々な問題を、大きな文明のうねりが巻き起こすひとつながりの出来事としてとらえてみること。

そして、現代文明が、われわれの生命をどこへ連れていこうとしているのかを、一気に見通すこと。

そのことを、徹底的に考えたい。

それがこの対話の動機だった。


NHK未来潮流という番組「生老病死の現在」の


収録の対談だったというが


相当の覚悟を持って挑まれたという


真剣勝負だったことが”あとがき”からも分かる。


あとがき(1998年冬 森岡正博)


から抜粋


しかし、これには莫大な集中力を必要とした。

1セッション撮ったあとは、ボロボロに疲れた。

それだけではなく、撮影スタッフもまたズタズタに疲れたことだろう。

シナリオはないし、いつ終わるかわからない。

収録テープの山がうずたかく重ねられていく。

集中力の限界へと全員が追いつめられる。

こんな番組を、もう作れないだろう。

未放映部分の対話記録を目ざとく発見し、出版への道を開いてくれた法藏館の中嶋廣さんには、いつもながら感謝している。


まえがきにあったのだけど、


テレビは限界があり一部しか


放映できなかったため


未放送部分を中心に対談として出版


とあるけれど未放送をどうやって


発見したのだろうか。


全くどうでもいいのかもしれないが。


柴谷篤弘


[洗脳としての科学文明]


先端を走る日本の息苦しさ


から抜粋


森岡▼

今の日本社会を覆っている何か、少なくともこの社会を覆っている独特の息苦しさみたいなものはあるわけです。

それが、一方においては教育のようなところにあらわれているし、もう一方においては生命のテクノロジーに象徴的にあらわれている。


柴谷▼

その問題は日本だけでなしに、いわゆる科学技術先進国はみな抱えている。


森岡▼

科学技術が医療の場面においてわれわれの生命にかぶさってきている独特の暗雲のようなもの、それは優生思想をサポートするようなものであったりすると思うけど、それとリンクするような形で、今、日本の教育現場でも同じような暗雲が垂れ込めているような気がするんです。

それは個別に切れている話ではなくて、何か共有している構造があると思うんです。

一つは、日本社会みたいなところでうまく人生を送っていくためには、やはり誰かが決めたプランとか、われわれ全体がなんとなく持っているある図式の中に入っていないと難しい、というような思い込みに我々が縛られていることです。


柴谷▼

その思い込みは、よその国とり日本の方が強いような感じがします。

狭い日本だから、どうしてもそうなるのかもしれない。


森岡▼

逆にいうと、これから地球も狭くなっていくわけだから、21世紀には地球が日本化していくのかもしれない。

今、日本で抱えている管理的な抑圧は、問題の先取りをしているのかもしれない。

その意味では不登校とか家庭内暴力の問題なんて、我々が先に悩み苦しんでいるのであって、日本は特殊だからローカルな問題だと捉えると具合が悪いんです。

「いじめ」はいま世界の各国で「発見」されはじめています。


柴谷▼

近代文明とか科学技術文明とか資本主義が、そういう方向へ追い込まれているようになっているという考え方ですね。


森岡▼

日本のような社会が逆説的にそこでは先端を走っていて、ある種の問題に早く直面させられている。


柴谷▼

そこはやはり近代国家や民族国家では、政府や政権が人間の生命を管理するという問題があります。

近代文明が内部的に抱え込んでいる問題、それが科学技術と資本主義の進歩によって、日本では面積が狭いためにいちばんきつく出ている。

国家は、科学技術と効率によって、生命や生殖を含めて、生きることから死ぬことまで全部管理しますというのが、ミシェル・フーコーの考え方で、10何年前に出ている話ですが、近代国家というのはそういう具合に管理をしているわけです。


森岡▼

そして、その管理が、あたかも自由社会における個々の自由な判断の集積であるというかたちをとらせているんです。


柴谷先生の書は対談も含め何冊か


拝読してきたけれど


この森岡先生の対談がいちばん


腑に落ちた気がした。


慣れてきたのかもしれないし、


森岡先生と自分が近い感性なのかも


しれないけれど。大変僭越ながら。


森岡先生や難解な柴谷先生や当時の世界が


抱えている問題などがわかりやすく


対話されている。


[老いと死を見つめ直す視点]


多田富雄


遺伝子から見た老いと死 から抜粋


森岡▼

もう一つ、「死」と同時に「老い」についても考えてみたいと思うんです。

たとえば、今まで普通に「老い」というものをどう考えてきたかというと、健康な時には速く走れたり、考える能力があったり、色々なことができるけれども、からだにガタがきたりして、だんだん今までしてきたことができなくなることを、「老い」であるというふうに見てきたと思うんです。

そうだとすると、たとえば頑張っていろいろな健康法を行ったりすれば、若い状態がいつまでも続いていくんじゃないかと頭のどこかで考えたりする。


ところが最近の科学によると、実は「老い」とはそんなに簡単なものではなくて、人間が老いていくこと自体が、実は遺伝子のなかにプログラミングされているのではないか、ということが明らかになってきました。

そうだとすると、「老い」というのは単にからだにガタがくるのではなくて、むしろ細胞は積極的に老いているということになって、これは今までの見方と180度変わるようなショッキングなことだと思います。


多田▼

老いも死も、今までは生物学の研究の範囲外だと考えられてきたと思います。

「老い」つまり老化とは、単に時間的な経過に応じて、いろいろなからだの機能が衰えていく過程で、ゴムや金属が必然的に劣化してゆくのと同じで、生物学的に扱うことは不可能と考えたのです。

それに対して発生とか成長というのは、整然と起こってくる生理的現象ですから、遺伝子がどのように発現してどんな形質が現れるのかということが、非常に詳細に解析できたわけです。


それに比べると、「老い」という現象は、人によって現れる時間が非常に違うという不規則性があります。

それから人によって異なったタイプの老いが起こる。

つまり「老い」には多様性があって、自然科学が対象にしている、規則正しい普遍的な変化とは違っているということから、自然科学の中では取り残されてきたと思います。


森岡▼

なるほど。

つまり「発生」というのは、どんな人間でも同じように育って成長していくから、自然科学でも取り扱いやすかった。

けれども「老い」は人によってそれぞれバラバラの違う道筋を通っていくから、非常に捉えにくかったということですね。


多田▼

そうです。

同じように「死」という現象について、生物学が今まで解明したことは不思議なほどに少ないのです。

死も、生物学の研究の対象ではなかったのです。

しかし、最近になって老化も死も、遺伝子レベルで決定されている部分がわかってきたんです。

たとえば細部が死ぬためにアポトーシスという現象があるんですが、それは特定の死の遺伝子が働いて、細胞が自ら死んでいくわけです。


森岡▼

細胞の自殺ですね。


多田▼

そうです。

積極的に自分を殺していくというプロセスがあることがわかってきました。

そういう遺伝子がいくつも見つかってきて、非常に原始的な多細胞生物ができた頃から、すでに死の遺伝子というものが作り出され、それが進化しつづけてきたことがわかってきたんです。


森岡▼

つまり、人間とか他の動物なんかでも、細胞が死んでいくことがあらかじめ遺伝子レベルで予定されているということですか。


多田▼

プログラムされているわけです。


森岡▼

それはあるところまで細胞が育ってきたときに初めて、そのプログラムが働いて死んでいくというイメージなんでしょうか。


多田▼

いつ死ぬのかを決めているのが何かということは、まだよくわからないんです。

しかし、細胞の分裂回数には制限があることがわかっています。

アポートシスは、私たちのからだが発生してくるときにさかんに起こる現象です。


ものすごい興味深いです。


多田先生も何冊か読んできたのだけど


森岡先生の対談がいちばんといっていいくらい


なんかわかる。とっつきやすい。


老い、死、とも、人間の本質的なテーマだからか


深く、しかし結論など出そうにないものと


感じるのは自分だけなのか


寒い朝の読書でございました。


 


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石坂公成先生の書から”結婚・幸福”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

普段そんなことを考えませんが


昨日、とある年配の知り合いの方と話し


プライベートなことなので詳細は


伏させていただきますが


伴侶との永遠の別れをお聞きするに及び


人生を自分なりに深く思うと同時に


この書に巡り合ってさらに考えた。



結婚と学問は両立する: ある科学者夫妻のラヴストーリー

結婚と学問は両立する: ある科学者夫妻のラヴストーリー

  • 作者: 石坂 公成
  • 出版社/メーカー: MOKU出版
  • 発売日: 2002/07/01
  • メディア: 単行本


まえがき から抜粋


このところ、生命科学では遺伝子が大はやりである。

クローン特集などというものが確立されたので、マスコミはマイケル・ジョーダンやイチローをたくさんつくることができるようなことを言っている。

日本のマスコミによってつくられた風潮は、

”人の一生は遺伝子によって決まってしまう”

ということらしい。

ところが、幸いにして、人間の一生はもっと面白いものである。

我々自身の人生から明らかなことは、人間がどこへ行って、何をするか?

ということは、遺伝子ではなく、運命(偶然)によって決められているということである。


前著『我々の歩いて来た道』に書いたように、私は二つの偶然が重なった結果、学生時代の夏休みに伝染病(現在の東大医科学研究所)へ行くことになり、さらに二つの偶然が重なって、中村敬三先生の教室へ行った。

もし、そのうちの一つの偶然でも欠けていたら、私は先生の教室へは行かなかっただろうし、したがって、大学を卒業してから免疫学をやることにはならなかったであろう。

照子が次の冬休みに中村先生の教室へ行って実習を受けたのは、彼女の親友の家が先生の家の隣にあったからである。

つまり、半年の間に起こった五つの偶然が重なった結果、私と照子は顔をあわせることになった。

照子の言葉をもってすれば、それは運命の神のなせる業(ワザ)である。


こうしてみると、我々の人生は偶然によって支配されていたことになる。


私は身なりにまったくかまわない男である。

ことに学生時代は、戦争の影響もあって、父のお古のカーキ色の服を着て、兵隊靴を履いていたから、どう見ても、女の子にアピールするような格好ではなかった。

そんな私に照子が熱を上げたのは何故だったのか?

不幸にして、私はそのわけを知らない

我々夫婦は、何でも話し合えたはずなのに、50年の結婚生活の間に、私がその理由を照子に訊ねなかったのは一生の不覚であった。


しかし、照子自身も、その理由はわからなかったかもしれない。

人間の感情などというものは、遺伝子が全部わかっても、いかに脳神経科学が進歩しても、なかなかわからないであろうし、たとえメカニズムがわかったとしても、それは人間にとってあまり役に立たないものかもしれない。


I 我々の背負った宿命


から抜粋


照子が学生時代からもっていた悩みは、どうしたら学問と結婚を両立させることができるか?

ということだった。

女学校から女子医専(医学専門学校)を通してずっと首席だった照子にとっては、職業をもって、世の中に貢献することは、自分の背負った宿命であったし、人生の目的であった。

しかし、50年前の日本の社会では、それは極めて困難な課題だった。

そのうえ、男の兄弟のない照子は、婿養子をとって家を継ぐことを期待されていた。

しかし照子は、親も家も財産も捨てて、無一文の私の腕のなかに飛び込んで来てくれた。

したがって、照子に学問と結婚を両立させることは、私の人生の目的でもあった。


ものすごい強い結束のパートナーシップ。


お互いがイーブンでフラットな関係、


もちろん時代が違うから封建的な態度も


あったであろうけれども、良い関係を


キープできたのはお二人を繋いだ


”仕事(学問)”で、力を合わせての


”成果”だけがものをいう実力の世界だったから


かな、と。


そういうのは、夫婦が同じ仕事だとすると


本当に稀だなあと思いつつも、一転、


多くの夫婦が異なる仕事、または一方だけが


仕事を持つ中でも、”良い夫婦”の条件って


多かれ少なかれ、そういうものなのかも


しれないなと思ったり。


その流れもあり、自分としては


照子夫人の結婚についての考えを述べられた


手紙が興味深かった。


「…学者の家が、とかくすると冷たい家庭になりやすい家…そして陰にFrau(妻)の大きな犠牲が横たわること。

私はHeiraten(結婚)に対しては、決して一方の犠牲の上に立った一家の形成であってはならないと思います。

お互いに切磋琢磨し合い、おぎないあい、そしてあたためあってお互いが何等かの形で成長し、向上してゆく所に始めてHeiratenの意義があるのではないでしょうか?

また、それが私の結婚の理想です。

こういう云いつつも、現実に家庭がうるおいのないものになってきたら、私は学問を捨てて、家庭に入って了い、良い家庭を作るために専念する様になるでしょう。

でもそれは私にとっては本当の幸福を味わい得ない生活だろうと思います。


私は出来たら一生御勉強したい

そして同時に、人間として明るいあたたかな生活が(物質的ではなく精神的に)したい

それだけです。」


照子が言っていることは概念的だったが、これが自分の結婚についての彼女の理想だったのだろう。


あとがき から抜粋


私と照子は、デンバーでも同じ研究室で働いた。

ジョンス・ホプキンスに移ってからは、二人は別々の研究室を持っていたが、それらは同じ研究棟の同じフロアにあった。

照子は、

”貴方は忙しい時にお昼を食べ忘れてしまうから…”

と言って、昼食の時は、毎日私を食堂へ引っ張って行った。

また、照子は長い間自分で運転しなかったから、出勤する時も、帰る時も一緒だった。

私は夕食後、再び研究室へ戻ることがしばしばだったが、少なくとも3度の食事は照子と一緒だったし、買い物に行くのも一緒だった。

こうしてみると、一生を通じて我々くらい一緒の時間を過ごした夫婦は珍しいのではないかと思う。


そんなにいつも顔をつきあわせている夫婦が、毎年、2、3度カードを交換するということは意味のないことなのかもしれないが、それでも、照子がそれを要求したのは、彼女がロマンティックであるのと、”わかっていても証拠がほしい”という心理状態によるものだったのだろう。


照子もカードを書くことで幸福感を味わった様だし、時によっては、それを書くことで、自分の決意を自分に言い聞かせていたように思う。

また、何でもしゃべりあっている夫婦でも、面と向かって言い難いこともあるが、書くのなら真意を伝えることができる。

私はものぐさで、忘れっぽい人間だから、照子が”カードショップへ寄って、カードを書いましょう”と言わなければ忘れてしまうことが多かったのではないかと思う。

したがって、私にはそんなことを言う資格はないのだが、私は新婚のご夫婦や、これから結婚する人たちにはカードを交換することを勧めたい。


この後、日本の夫婦は男や女はかくあるべし、


という固定観念に縛られていると


いうことを指摘される。


そのような日本の習慣から言ったら、ワイフのラヴレターを公開することなどはもっての他であり、私のしていることは、(日本の)社会人としては、するべからずことだったのかもしれない。

照子も、”しょうがない人ね、はずかしいじゃないの!”と言うかもしれない。

それでも照子は私を許してくれるだろう。

彼女は自分の人生を誇りに思っていたはずである。

しかも我々は50年のうち、35年をアメリカの社会のなかで過ごした夫婦だし、その上我々夫婦は愚直である。

その意味で私の非常識は大目に見ていただきたいと思っている。


ものすごく読みやすい簡素な表現で


この書全体が記され、この著者は


本当に世界的な学者なのだろうか


という無駄な疑問。


ちょっと略歴を調べれば分かる事でございます。


それにしても奥様との馴れ初めからを綴った


あえて苦戦・苦闘と言わせてもらいますが


いろいろな辛いことも含めての


”愛”としかいいようのない石坂先生の人生は


楽しそうで本当に読んでいて愉快な気分に


なることが多かった。


これまた、本当に世界的な学者なの?


とまたまた無駄な思考。


しかも業績(lgE)を読んでもまるで理解できない


浅学非才っぷりは、我ながら


もはや如何ともできない。


それは一旦置いておいて石坂先生の書に戻るが


偉い人ほど偉ぶらないと言うやつで


石坂先生の場合、諸々無頓着だったゆえ


自分が見えてなかったのかもしれないし


世間の流れには興味がなさそうなことは明らか。


仕事(研究)と奥様(家庭)のこと以外は


頭になさそうだなと読んで思った次第。


そんな不器用で愚直な人間であればこそ


この書のような人生を歩んだことは


想像に難くない、とはわかったような言い方で


あんた何様なのよ、と自分に問うけれど


一つだけ言わせてほしいのは


パートナーによって大きく人生が変わるのは


本当にそうなのよ、と言うこと。


そしてそれを幸せと感じることが出来たら


それはもう幸せなんだよね、と言うことで


石坂先生の書からあらためて”結婚・幸福”を


考えた、夜勤明け休日の午前中でございました。


もちろん、結婚が全てではないし、独身でも


幸福な人は沢山おられるでしょうけれども


自分は、って話でございますことを


付記させていただきたいと思っております。


 


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