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柴谷篤弘先生の対談本から”レジスタンス”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


ネオ・アナーキズムと科学批判: 柴谷篤弘対談集 (LIBRO TALK)

ネオ・アナーキズムと科学批判: 柴谷篤弘対談集 (LIBRO TALK)

  • 作者: 柴谷 篤弘
  • 出版社/メーカー: リブロポート
  • 発売日: 1988/01/01
  • メディア: 単行本

まえがき

(1987年11月3日 柴谷篤弘) から抜粋


1984年末近く、私はサイエンスハウス社(東京)から『私にとって科学批判とは何か』を出版することができた。

この本は、私が1971年ごろからはじめていた科学批判が、当時ゆきついた先について論じたものであった。

そこで私は科学批判が、科学を超えた人間社会のさまざまな価値・理念と科学との間の不整合を問題にする、科学の外からの批判と、科学内部で通用する論理を用いて、科学それ自体の持つ論理的矛盾を明らかにする、科学の内部からの批判に分類できることを述べた。


そして私自身の科学批判は、まず前者から始まったが、今日では多くの人々が、その視点からの批判的活動に従事している。


1983、4年当時は、日本の科学技術はそれを無視する姿勢をあらわにしており、外からの科学批判は当面有効でないように見えた。

それに対して内からの科学批判は、批判のもう一つのゆきかたとして機能しうるのではないかと私は考え、もともと科学者である私としては、そのような分業をしてはどうかと思っていたのである。


この線は今日、批判をこえて科学のもう一つの視点を定立することを通じて、人間の位置と内実を科学として見直すことが、あるいはうまくいくのではないか、と予想できそうなところまで来たようである。

それに対して、外からの科学批判は、1984年以来いくつかの問題について強力に進められ、科学技術がそれに対して何らかの反応を示さざるを得ない局面も見え始めている、といえるようである。


科学批判に対する私の右のような視線は、科学批判を通じて私が身につけることのできた思想的背景ーーかりに私はそれをネオ・アナーキズムと呼んだーーと関係があるのではないか、と感ぜられたので、そういう角度から、前掲の本で論議をすすめた。


本が出てから、いく人かの親しい友人がたから、様々の意味で右のような私の考え方に対する批判をいただいた。

それは私自身で伺っておくにはあまりにも重要な論点を多く含み、私のおかそうとしている過ちの指摘についても明瞭なものがあると感ぜられたので、その中の三人の方に、対談をお願いして引き受けていただいた。


この本はそれらの記録であるが、独立した三つの対談ではなくて、後続するものは先行するものを一応は踏まえて進められるような手続きをとった。


そして最後には、こうして作られた三つの対談の記録を、三人の対談者に眼を通していただき、そのうえでそれぞれに短い感想を書いていただいた。

そして最後に私が、それらの感想を拝見したうえで、私自身も短いにどのを書いたわけである。


目次から


I 批判と科学

(対談者・吉岡斉)

柴谷さんの科学批判と私

ネオ・アナーキズムにふさわしいコミュニケーションとは

共同実践による共同認識か

異種実践による共同認識か

内在批判と外在批判の差異

科学批判の三つのタイプ


II パラダイムとのりこえ

ーT・クーンと弁証法ー

(対談者・桂愛景(けいよしかげ))

『アインシュタインの秘密』の秘密

科学革命と「通常科学」

クーンには弁証法がない

弁証法のイメージ

真に新しいものはのりこえである

合=理性と非合=理性

p-n接合的関係理論変化と矛盾

パラダイムの構造

内在批判と外在批判

のりこえの行く先

「相対主義」をめぐって

かりそめと本気

科学批判における内部と外部


III   科学批判の新しい立場

(対談者・江口幹)

はじめに

ある違和感

柴谷の方法の二つの側面

ネオ・アナーキズムという規定は適当か

自己発見のための批判

ネオ・アナーキズムの矮小化?

理論をどう受け取るか

理論の変革と進歩思想

理論家の役割

カストリアディスの可能性

一般の人々と専門家

外在批判と相互援助は両立するか

あるべき社会から照射する科学批判

科学批判の新しい立場


IV  対談を終えて

ネオ・アナーキズムと科学批判

(吉岡斉)

マイケル・ポラニーと創発

(桂愛景)

討論というものについて

(江口幹)

断片的な注記

(柴谷篤弘)


ネオ・アナーキズムと科学批判


吉岡斉


から抜粋


活字に直す段階で舌足らずの発言に加筆し、何とか意味が通じるように努めたが、読者に分かっていただけるか自信がない。

もし難解に感じられたのであれば読者におわびしたい。


めちゃくちゃ難解です。


自分だけだろうか。


この対談における私の主張そのものはごく単純なものである。

第一に、人間が思うままに生きる権利を尊重するというネオ・アナーキズムの基本原則を私は強く支持する。

 

第二に、相手の意見の首尾一貫性のほころびを詮索する(揚げ足を取る)というネオ・アナーキズムの実践規則は、右の基本原則と抵触する可能性が大きく、特別の場合にしか正当性を持たない

 

第三に、ネオ・アナーキズムの立場から現代科学の問題点を考えると、科学者集団が政治的・経済的権力構造と結託して、軍事的・経済的なパワーの拡大競争に役立つ情報を野放図に生産し流通させる、という科学研究の制度的体質が、大きな問題点として浮かび上がってくる


つまり現代科学において科学者と一般人との関係はネオ・アナーキスティックな関係から最も遠く隔っており、科学の進歩のインパクトを不断に被らざるを得ない一般人との対話をすっぽかしたまま科学者が、政治的・経済的な権力と結びついて勝手にパワーを行使するような状況が作られている。


ネオ・アナーキストがそれに対する批判を素通りするのはおかしいではないか。

柴谷氏が「構造主義生物学」を提唱するなどして生物学の方法論談義に熱中するのは結構あるが、それはネオ・アナーキズムの方向へ現代科学の変革という課題と、あまり関係ない作業ではないか。


右の三つの私の主張はいずれも、柴谷氏のいうネオ・アナーキズムに賛同し、それをさらに発展させたいという立場から、なされたものである。

それというのも、ネオ・アナーキズムという思想がたいへん魅力的だからである。

抑圧する者とされる者、操作する者とされる者、等などの不平等、非対称な人間関係を断固として認めないというのが、ネオ・アナーキズムの最も基本的な信条だと思うが、これは私の以前からの信条とも深いところで共鳴し合う。

それは、私自身が言語的にも身体的にも「劣った」人間としての自覚を持ち続けてきたことと無関係ではないように思う。

優劣の序列のない人間関係は実に居心地がいい。


幾つもの偶然が重なって私はいま、非対称な人間関係の「強者」の側にしばしば立たざるを得ない社会的位置(大学教師とはそういうものである)を占めているが、これはあくまでもかりそめの役割なのだという意識が絶えずつきまとっている。

中央官庁の役人や大企業や先端産業の企業のビジネスマンや技術者のほうが、田舎大学の教師と比べて段違いのパワーを、たいした権利もないのに行使しているように私には思えるが、大学教師もまた50歩100歩であることは否めない。

そうした社会的役割を担うことには一種の場違いの感覚が付きまとう。

どんな相手に対しても優劣のバランスを取ろうとすることは、ほとんど私の習性にまでなっていると、我ながら思う。


そんな私にとって、さまざまの人生に対して優劣の序列をつけること、また人生の一部である思想に対して優劣の序列をつけることほど野暮ったい行為はない


この辺りのお考えは


ものすごく同意できます。


過日ETVで「膨張と忘却 


~理の人が見た原子力政策~


という吉岡先生を特集していた。


原発のリスクにいち早く気が付かれておられた。


その番組で同僚の先生が吉岡先生はいつも


「自分は普通のことを言ってるだけなのに」


と言っていたと。


柴谷先生や吉岡先生のお考えを追求すると


どうしても権力に歯向かうことになり


不穏分子よろしく反抗勢力、レジスタンスの


思想になっていかざるを得ないのだけど


それは教員としてあるまじき態度なのだろう。


ゆえに、これら先生たちの思想は世間から


黙殺され消えていくかのように見えている


ただいま現在の日本では読み継ぐ意義は


あるのではないか、なんて。


本自体はかなり難解だったけれど


全体の印象として


三人の対談がそれぞれ関係していて


批判や批評をしているというのは


かなりめずらしい企画と思う。


相当お互いを理解して認めた上でなければ


成り立たないような気がする。


柴谷先生のいう科学というのに


興味があるのだけど、全然理解が足りず


何度も読んでしまうのは


本当は自分には必要のないものなのか


それとも今わからないだけなのか


ちょっとわかりかねますが


雪も降った明けて本日朝の地震には


気が付かなかったものの心配な


今日この頃でございます。


 


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