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2冊の椎名誠さん本から”新橋”を想う [’23年以前の”新旧の価値観”]

自分は若い頃デザインスクールに通っており


本の装丁をデザイン制作するという課題があった。


今もそれは自分のリアル本棚に残っていて


その本のカバーの内側に収まっている。


あれからなんと35年経過かよ。


その時はその後、新橋の会社に10年以上


勤めることになろうとは夢にも思ってませんでしたよ。



新橋烏森口青春篇 「椎名誠 旅する文学館」シリーズ

新橋烏森口青春篇 「椎名誠 旅する文学館」シリーズ

  • 作者: 椎名 誠
  • 出版社/メーカー: クリーク・アンド・リバー社
  • 発売日: 2014/05/29
  • メディア: Kindle版

電子書籍版あとがき


から抜粋


男ばかり30人ほどのタバコ臭い会社で、社員もみんなどこかひとくせもふたくせもあるような、あるいは無意味にいじけてひといじけたふたいじけのような人もいて、それらの人々との触れ合いもおもしろかった。

いちばん多いのが文学青年くずれで、その次が学生運動くずれ(主に60年代安保)、さらにバクチで借金を背負った賭博師くずれ、同棲している女にかなり面倒を見てもらっている女たらし崩れ、毎日酒がないと生きていけないという酒乱くずれなど、「くずれ系」が多く人間だけみていても刺激的だった。


スプートニクが打ち上げられたとき、人工衛星はどうして落ちないで地球を回るのだろうか、と言う話が出て、それがいつの間にかほとんどの社員が参加する大議論大会になったこともある。

仕事中の話だから、なんともおおらかというか、バカ的というかむしろ魅力的というか、ぼくが14年もその会社に勤めることができたバックボーンはそんなところにあったような気がする。


2012年に『風景は記憶の順にできていく』という集英社新書のためにこのなかのなつかしのエリアを再訪したが、予想したとおりぼくが入社した頃からくらべると風景が激変していた。

けれど、新橋駅から会社までの道筋の左右は現代風になった居酒屋をはじめとしたサラリーマン誘惑装置とでもいうような、遊興娯楽の店がびっしりならんでいて、”中身”は三十数年の年月をへてもあまり変わっていないようだった。



風景は記憶の順にできていく (集英社新書)

風景は記憶の順にできていく (集英社新書)

  • 作者: 椎名 誠
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2013/07/17
  • メディア: 新書

新橋・銀座


かわらない、風もときおり吹いて


屋上のテント


から抜粋


新橋から銀座に越した会社は銀座の本通りに面していたから、立地的には大したものだったがビルは古かった。

社員も30人になっており、ぼくはその頃新雑誌『ストアーズレポート』の創刊を企画してそれが成功し、取締役編集長になっていた。

27歳の頃である。

社名も「ストアーズ社」と変わっていた。


今思うとわが人生のなかでその頃が一番真剣に働いていたように思う。

仕事が楽しくてしかたがなかったのだ。


通勤時間が惜しかったので、ぼくは屋上にある塔屋の上にテントを張ってそこで寝泊まりしている時期があった。

家から一合炊きの釜を持ってきてラジウスでご飯を炊いて自炊した。

塔屋の上である。

思えばめちゃくちゃなことをしていたが、仕事熱心、ということでもあったのだ。


その頃のことを後に『屋上の黄色いテント』という小説に書いたらフランス語訳され、フランスの女性がそのストーリーにぴったりのイラスト物語のようなものを沢山書いてくれたので、他の短編とくっつけてそれは同じタイトルの単行本になった。


昔勤めていた会社のあるビルは、今は「銀座リヨンビル」というのになっていた。

表の装飾は美しいが建て替えていないとすれば中はだいたい予想できる。


そのリヨンビルの通りを挟んで最近ぼくがよく行くようになった新しいビアレストラン「ローマイヤ」があるので、そこに行ってドイツビールを飲んだ。

むかしは銀座には個性的なビアレストランがいっぱいあったのだけれど、いまはみんななくなってしまった。

それが寂しい。


あまり飲酒できない体質の自分は


本能的なのか新橋の居酒屋が目に入ることは


残念ながら、ほとんどなかった。


後年少し飲めるようになっても


地元に帰ってきてから飲んだりしてた。


昔から飲んで電車に乗ることが嫌いだったので


そういう意味での”新橋”には共鳴できないけれど


仕事という面でのシンパシーは椎名さんには


ずっと感じてた。


サラリーマン時代、ランチに出た先で、


椎名さんのサインが飾ってあるのを発見して、


のけぞったりしてた。


改めて椎名さんの社会人遍歴を見ると


モーレツ社員だったこの時期があり


それで生活が安定されご結婚もされたようで


それ以前は、破天荒そのものの


その日暮らしをされていて


自分のそれも、破天荒からモーレツ社員って


ところが少し似ている。(才能が、じゃないですからね)


しかし、よくモーレツ社員にチェンジできたよなあ、


とも我が身に照らしても思うのだけど


仕事が面白い時期でもあり若かったということなのかと。


今は良い意味で覚めてしまったのか、


時代が変わったのか、池田先生や養老先生の


本の読みすぎかもしれない。


一番の要因は歳をとったということなのだろうな。


方丈記」の鴨長明の心境に近いような。


(才能が、じゃないからね)


それにしても『新橋烏森口青春篇 電子書籍版』を


夜勤中に購入してチラ読みすることになるとは


思わなんだなあ、と夜勤明け、目がしょぼついて


老眼鏡を新しくせんと考えているところです。


 


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続2冊の”「いき」の構造”から立体的に考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


九鬼周造「いきの構造」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

九鬼周造「いきの構造」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2014/01/23
  • メディア: Kindle版


三「いき」の関連概念


意気 ー 野暮


から抜粋


いうまでもなく「私は野暮です」という場合には、しばしば野暮であることに対する自負の念を裏返しの言い方で述べていることがある。

異性への洗練された対処の仕方などとは無縁だということへの誇りが主張されているのである。

それはそれで自負するに足るだけのことはある。

「いき」を好むか、野暮を選ぶかは趣味の違いである。

どちらがより高い価値があるといえるか、絶対的な判断をくだすことはできない。


だが、文化的な意味内容をもつ一対の概念で、一方が肯定的に言われ、他方が否定的に言われる場合には、どちらがもともとも概念であり、どちらが後から派生した概念であるかということから判断することができるし、また、それらの概念が流通する範囲に応じてどちらがより高い価値があるといえるか、相対的な価値づけをおこなうことができる。


たとえば、合理、不合理というのは、理性を基準とする範囲において成立したは語であり、信仰、無信仰は宗教という範囲において成立する。

そして、これらの語は、こうした成立範囲内においては明らかに価値づけられている。


では、意気とか粋という場合はどうかというと、これらはいずれも肯定的なニュアンスでいわれている。

それに対し、野暮は、否定的なニュアンスでいわれる不意気(ぶいき)、不粋(ぶすい)と同義語である。

このことから、「いき」と野暮では、「いき」がもともとの語で、その反対概念として野暮が生まれたと判断することができるし、異性とのかかわりという範囲においては、「いき」に価値があり、野暮には価値がないと判断されるといえるのである。


(遊里に通じた)玄人(くろうと)からみれば素人(しろうと)は不粋である。

自分になじみのある「町風(まちふう)(町人風)」は「いき」として許されるが、自分になじみのない「屋敷風(やしきふう)(武家風)」は不意味である。

うぶな(純情な)、恋も野暮である。

不器量な女の厚化粧も野暮である。


不粋な小娘(こむすめ)じゃあるまいし、色里の作法(さほう)を知らない野暮でもあるまいし。


という場合にも、遊里という男女関係の世界における価値判断の結果として、不粋と野暮がおとしめられているのである。


上記では「いき」を”野暮”として恋に関してだけ抽出したが


この他にもいろいろな面でも考察され


”美意識としての価値判断の主体であり、


また対象でもありうる”


として


”その結果として、「いき」を、他の諸要素との


相対的な関係によって構成される美意識の体系”とし


理解できるとされている。


それを整理すると以下になり、


「いき」と関連所概念の体系ーーー美意識の六面体


■人間性一般に基づくもの

 ├ それ自体の価値(価値的) 

   │ → 上品(価値あり)-  下品(価値なし)

 └ 他人に対するあり方(非価値的)

   →派手(積極的)-  地味(消極的)

 

■異性とのかかわりに基づくもの

 ├ それ自体の価値(価値的)

   │ → 意気(価値あり)-  野暮(価値なし)

 └ 他人に対するあり方(非価値的)

   →甘味(積極的)-  渋味(消極的)


これを立体化するとこうなると説かれる


「いき」の構造 (講談社学術文庫)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2003/12/11
  • メディア: 文庫


<注>

直六面体の形で表すことができる

九鬼周造の「風流に関する一考察」に次のような記述がある。

「昔の哲学者は地、水、火、風の四原質のうちで地の微粒子は正六面体を成し、水の微粒子は正二十面体、火の微粒子は正四面体、風の微粒子は正八面体を成すと考へたのであつた。『風』の微粒子の形態とされていた正八面体が『風流』の価値体系を表し得ることは偶然ではあるが似合は強いと考える。」)『九鬼周造全集』第4巻80ページ。


なおこの直六面体は、他の同系統の種々の趣味をその表面または内部の一定点に含有すると考えても差し支えないであろう。

いま、すこし、例を挙げてみよう。

「さび」とは、O、上品、地味の作る三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角柱の名称である。

わが大和民族の趣味上の特色は、この三角柱が三角柱の形で現勢的に存在する点にある。


<注>『さび』九鬼周造の「さび」の理解に関しては「風流に関する一考察」第2節を参照。


「雅」は、上品と地味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである。


「味」とは、甘味と意味と渋味とのつくる三角形をさしていう。

甘味、意気、渋味が異性的特殊存在の容態化として直線的関係をもつごとく考えうる可能性はこの直角三角形の斜辺ならざる二辺上において、甘味より意気を経て渋味に至る運動を考えることに存している。


「乙」とは、この同じ三角形を底面とし、下品を頂点とする四面体のうちに位置を占めているものであろう。


「きざ」は、派手と下品とを結び付ける直線上に位している。


「いろっぽさ」すなわちcoquetは、上面の正方形内においては、甘味と意気とを結び付けている直線に並行してPを通る直線が正方形の二辺と交わる二点がある。


底面上に射影を投ずる場合には、派手と下品とを結び付ける直線に平行してOを通る直線が正方形の二辺と交わる交点と、派手と、下品とが作る矩形がいろっぽさを表している。

上品と意気と下品とを直線的に考えるのは、いろっぽさの射影を底面上に仮定した後、上品と意気と下品の三点を結んで一の三角形を作り、上品から出発して意気を経て下品へ行く運動を考えることを意味しているはずである。

影は往々実物よりも暗いものである。


”Chic”とは、上品と意気とのニ頂点を結び付ける直線全体を漠然と指している。


”Raffine”とは、意気と渋味とを結びつる直線が六面体の底面に向かって垂直に運動し、間もなく静止した時に、その運動が描いた矩形の名称である。


要するに、この直六面体の図式的価値は、他の同系統の趣味がこの六面体の表面および内部の一定点に配置されうる可能性と函(かん)数的関係をもっている。


<解説>から抜粋


興味深いのは、九鬼がこの章で、「意気」や「世態人情に通暁すること」、「異性的特殊社会のことに明るいこと」、「垢抜けしていること」等など、さまざまに定義していることである。

これらの定義から読み取れるのは、「意気」が、必ずしも異性とのかかわりの中だけで用いられるのではないという点である。

それは、本書で九鬼が問題にした「いき」よりも広い領域を包摂する概念であると言ってもよい。

九鬼は本書で、そのうちとくに「異性的特殊性の公共圏」における「意気」を問題にし、その特徴を鮮やかに浮き彫りにしたと言うことができるであろう。


全体的に難易度の高い本ではあるけれど、


興味惹かれる「いき」の構造。


立体的に考察して、フランス語概念も駆使して


研究されておられ、それを現代の研究者の


違う特色を感じながら読んでみた。


結果、なんとなくわかった、としかいえないが


それでいいのだ、と肯定したくなるような世界だった。


ちなみに、大久保先生のは平易な文章でとっつきやすい


藤田先生のは画像があってわかりやすいと言うのは


前回でも投稿した通り。


さらに感じたことは藤田先生の書は、表現が高次すぎるが


わかりやすいというか自分好みだけど


段落が少なくて若干読みにくいのが難点だった。


生意気言って申し訳ありません!


個人的に思うことは「いき」って言うのは


「言わずもがな」とか「みなまで言うな」みたいなもので


日本だけでなく世界共通なのかなあ、と。


それを日本独自の概念にするとって言う書なのかと。


にしてもフランス語も出てくるのだけど。わからない。


こういうキューブを使っての概念を説明って


書籍は不利でリアルの口頭説明がついたりすると


いいと思うので動画だろうな今の時代と思ったら


やっぱりあった。これがわかりやすいかは不明ですが。


と言うわけで、これまた浅学非才で凡庸な自分だと


今の時点ではここまでしかわからないと言う


これこそ、みなまで言わんでいいわ、といった


この残暑残る8月下旬、夜勤準備に入らんとっていう


時間でございます。


 


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2冊の『「いき」の構造』解説”まえがき”から考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


九鬼周造「いきの構造」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

九鬼周造「いきの構造」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2014/01/23
  • メディア: Kindle版

編者まえがき


『「いき」の構造』の現代語訳にあたって


から抜粋


「いき」と聞いて、どんな印象が思い浮かぶでしょうか。


歌舞伎や新派、人情芝居などではなじみがあっても、実際には見かけなくなってしまった昔の情景にも思われるものですが、形を変えれば、まだ私たちの身の回りにも、こんな姿で生き続けているのかもしれません。


洗いざらしのジーンズで素足の女性が何気なく髪をかきあげる仕草。

夜更けのビルの地下から低く流れてくるジャズピアノの音。

あるいは、ふだん鬼のように厳しい上司が、恋人を残して遠方に赴任する部下にさりげなく特別休暇をはからってやる。


こうした情景やふるまいを今ではさしずめ「おしゃれ」とか「クール」とでもよぶのかもしれません。


「いき」は、いわば日本人のDNAの一要素として時代を超えて受け継がれてきているものであり、無意識のうちに私たちの暮らし、生き方を律するリズムとなっているのではないでしょうか。


このように「いき」はさまざまな姿で私たちの周囲に息づいてきたものでありながら、それが厳密にはどういう性質のものであり、どういう働きをするものなのか、どれだけ私たちの暮らしにかかわっているのかということは、必ずしも、明らかにされてきたとはいえませんでした。

たとえば仏教教理とか、武士道倫理とかいうような事柄については盛んに論じられてきたのとずいぶん違います。


なぜそうなのかといえば、一つには「いき」というものが、本来、抽象的な思想とか論理だとかになじまない微妙な感覚や感情から成り立っているからであり、いまひとつには、庶民の 日常的な暮らしの産物であって、学問的な論議の枠から外れてきたという事情があったといえるでしょう。


こうして本格的な論議、解明から置き去りにされてきた「いき」というものを、まさに真正面から取り上げて、精密な分析、意味づけをほどこし、仏教や武士道に匹敵する日本文化の根本要素として提示したのが、九鬼周造の『「いき」の構造』です。


この小さな書物は西田幾多郎の『善の研究』や和辻哲郎の『風土』などとならんで、近代日本哲学が生んだ最も独創的な著作として高く評価されてきました。

哲学といえば、カントやヘーゲルに代表される難解で抽象的な観念の体系、日常の暮らしからはかけ離れた形而上的世界の探究というのがそれまでの常識的な受け止め方であったのに対し、吉原など江戸遊里の世界での男女の駆け引きという、いかにも俗っぽい日常生活から出発して精緻な分析を積み上げていき、武士道や仏教、建築哲学という学問スタイルを一新させるような画期的な成果をあげ、近年ますます大きな注目を集めてきています。


しかしながら世間一般の読者にとって『「いき」の構造』は必ずしも読みやすいものとはいえないでしょう。

九鬼の分析、論理は、よく読みこんでみれば、明快で整然としたものであることが理解されてきますが、その文章は決してとっつきやすいものではありません。

それは、一つには、明治以来の近代日本哲学の宿命として、西欧哲学から翻訳された専門用語や表現に一般人には見慣れないものが多く、また九鬼独特の入り組んだ、あるいは省略された言い回しで語られるためであり、いまひとつには、豊富に引用される古今東西の文化、とりわけ、歌舞伎や俗謡など江戸町人文化の知識を要求されるためで、その結果、この世評高い著作を近づきに食いものとしてきたといえます。


こうした障壁を少しでも低くするために、これまでも、さまざまな解説や注釈などがおこなわれてきましたが、本書では、それらをふまえた上で、さらに一歩ふみこんで全体を現代訳することを試みました。


そうして、こうした方針にしたがい、本書では、各章末に九鬼自身が付した原注に加えて、本文中で説明が必要と思われる箇所には訳註を括弧の形でほどこしたほか、各章の初めに内容の要点をを簡単に記し、論の節目に小見出しをつけました。


さらに、『「いき」の構造』は、その成立の背景となる九鬼の生涯に深いかかわりがあり、それを理解することが不可欠であるところから、著作解説をふくめる形でこの異端の哲学者の波乱に富んだ人生遍歴をたどってみました。


編者の大久保喬樹先生は、先日偶然見ていた


アマプラの「100分de名著」の坂口安吾の


『堕落論』の指南役で出ておられた。


最初はお一人で、途中から芥川賞作家の


町田康さんも参戦し町田さんに解説を譲る形の


流れだったのだけど、最後に深い一言で


全て持っていかれたような展開に見えたのには


自分は良い意味での清々しい


年長者の矜持のようなものを感じた。


で、なんとなく名前をインプットしてて


今読んでる本を見て、あれっ?となった


次第でございます。これもシンクロニシティなのか。



「いき」の構造 (講談社学術文庫)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2003/12/11
  • メディア: 文庫


学術文庫版への注釈者まえがき


から抜粋


『「いき」の構造』が単行本で刊行されたのは、1930(昭和5)年の11月であった。

それ以来70数年にわたって本書は読み継がれてきた。

本書がこのように長く読み継がれ、多くの読者を見いだしてきた理由にはさまざまなものが考えられるであろうが、なにより九鬼周造が生きた現実に肉薄し、それを鮮やかに構造化したところに、その大きな魅力があると言って良いであろう。


本書の「序」で九鬼は「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」というように、彼が本書を通して目ざしたもの、本書のモットーとでもいうべきものを言い表している。

現実から離れるのではなく、むしろ現実そのものを生きたままでとらえるような哲学を生みだすこと、それが、彼が本書において自らに課した課題であった。


それは日本の哲学の歴史のなかで決して一般的なことではなく、むしろ稀有なことであったと言わなければならない。

そしてその課題は本書のなかで見事に果たされている。

長い時間をかけて研ぎ澄まされ、共有されてきた価値意識が歴史のなかから鮮やかに取り出されている。


どこまでも具体的なもの、具体的な意識現象が本書の出発点である。

その点で本書はきわめて近づきやすい書物である。

しかし他方、その分析は厳密な方法的反省に支えられている。

そしてそこではフッサールやハイデガーをはじめとする西洋の多くの哲学が踏まえられている。

そのことが本書を遠いものにしていることも否定できない。

その隔たりを超えて本書がより身近なものになればと考えたことが、この「全注釈」という形で本書を世に出すきっかけになった。


注釈者あとがき から抜粋


九鬼の一面を示すものと思われるが、九鬼はパリ滞在中に多くの詩や短歌を作り、それを与謝野鉄幹らによって刊行されていた文芸雑誌『明星』に、小森鹿三またはS・Kのペンネームで発表している。

そのなかに次のような歌がある。


ふるさとの「粋」に似る香を春の夜のルネが姿に嗅ぐ心かな


それは「いき」に似たものであって、九鬼が考える「いき」そのものではなかったかもしれない。

しかし九鬼はパリではじめて「いき」に自覚的に出会ったと言えるのではないだろうか。


藤田正勝先生は京大卒、京大大学院教授。


今はわからない。


先の大久保先生と比べると「講談社学術文庫」だけあり


アカデミックで高邁な態度は崩さんぞ的な


所はあって、浅学非才な自分は少しとっつきにくい部分も


正直あるけど、本文に着物柄や歌舞伎絵など挿入されてて


理解向上の一助となっておられるセンスも良いです。


大久保先生も挙げておられたけど哲学ってえと


西田幾太郎」「カント」「ヘーゲル」にも


興味が移りそうな展開だった。


余談だけど、いずれにせよ


自分の浅い学歴での昨今の読書遍歴は


中年を過ぎたライトな読み方であるがゆえのもの


なんだけど、豊かな時間を短時間で掴もうと


しているため、浅いけどなんとなく遷移している様が


自分でも興味深いのですが


書籍の内容が深過ぎて頭がバーンアウト寸前で


かつ量が内容を凌駕している状態。


それで養老先生は漫画が好きなのか、


バランスを取るためにも


なんて思いながら、手塚治虫先生を


読みたくなってまいりました。


・・・・・


それよりも訳者まえがきだけじゃなくて


『「いき」の構造』の本文をきちんと読めや!


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2冊の書籍から”黄金時代”を回顧してみた [’23年以前の”新旧の価値観”]


無限の本棚 増殖版 (ちくま文庫)

無限の本棚 増殖版 (ちくま文庫)

  • 作者: 昭仁, とみさわ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2018/03/07
  • メディア: 文庫

第二章 コレクター人生


はじめてのコレクション


から抜粋


自分のコレクション遍歴を語るうえで、どうしても欠かせないものがひとつある。

「ライダーカード」だ。

カルビー製菓から「仮面ライダースナック」が発売されたのは1971年。

ぼくが小学生四年生の時だった。

雪の結晶のような形をした甘じょっぱいスナック菓子はそれほどおいしいとは思えなかったが。一袋に一枚付いてくるおまけのライダーカードに大変な衝撃を受けた。


カードには『仮面ライダー』に登場するライダーや怪人たちの写真が印刷されている。

大のライダーファンだった僕は、これを集めることに夢中になった。

僕だけじゃない。

クラスでも多くの男子がライダーカードに熱中していたし、日本全国で大ブームになった。

カードを手に入れるために大量買いして、お菓子は食べずに捨てしまう者もあらわれて社会問題になったほどだ。

実際、隅田川にライダースナックの袋がプカプカ浮いているのを何度も目撃した。


漫画を集める


から抜粋


『ワイルド7』は、戦闘能力に長けた凶悪犯罪者たちを集めて超法規的警察集団を組織し、法で裁けぬ悪党を問答無用で処刑するという、痛快なアクション漫画だ。

それまでは『天才バカボン』や『トイレット博士』のようにナンセンスなギャグ漫画ばかりを好んで読んでいた僕にとって、アメコミ顔負けのタッチで描かれるリアルで豪快なアクション描写は、読む愉しみ以上のものを僕に植え付けた。

「この人がこれまでに描いてきたコミックスをすべて揃えたい!」と思ってしまった。


僕が『ワイルド7』を知った時点で、コミックスはすでに20巻以上も刊行されていた。

その前には『秘密探偵JA 』という全15巻のスパイ漫画はあるし、『ケネディ騎士団』全7巻もある。

さらに遡れば、いくらでも傑作が出てくる。

だいいち、『ワイルド7』を描いている頃の望月先生はもっとも脂の乗り切っていた頃で、次から次へと新作が生まれてしまう。

それだけじゃない。

コレクターというのは悲しいもので、同じ作品でもカバーにバリエーションがあると、それすらも集めたくなってしまうのだ。


たとえば『ワイルド7』の1巻から20巻までは、背表紙のマークが青いカエルの「ヒットコミックス版」と、重版以降で『ワイルド7』のシンボルに変わった「新版」の二種類がある。

これは両方集めなければ気持ちがわるい。

同様に『秘密探偵JA 』には「キングコミックス版」「新版」「最新版」がある。

それぞれ15冊ずつ、買い集めるわけである。

頭がおかしいとしか言いようがない。


コレクターという人種がいるのは


なんとなく知っていたし


自分も比較的そっち系ではあると思うので


この書籍は興味深く拝読。


でもここまで常軌を逸することは


今のところできないので、もうないでしょうな。


自分の人生において”コレクター”になることは。


(養老先生コレクターではなかろうか疑惑もあるが)


この筆者が経営されていた”マニタ書房”、2019年に


閉業しておられるようで、残念。


久しぶりに行ってみたかった、神保町。


この書、”あとがき”が本当に泣かせる。


”ちくま文庫愛”もすばらしいです。自分も好きです。


「仮面ライダースナック」は兄の時代だったが


ドブに捨てられていたのは記憶している。


『ワイルド7』は連載終了時、少年キングを


毎週買っていた。そんな友人いなかったな。


『ワイルド7』が終わった時は


悲しかった記憶がございます。


漫画雑誌が本当に面白い時代だった。



ザ・キンクス: 書き割りの英國、遥かなる亜米利加

ザ・キンクス: 書き割りの英國、遥かなる亜米利加

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2021/03/26
  • メディア: 単行本

INTRODUCTION

午前4時、裏声で歌う「バナナ・ボート・ソング」


和久井光司 から抜粋


川崎の楽器屋時代、私の楽しみは昼休みの1時間だった。

近所の吉野家などで15分でメシをかき込むと、そのあとは京浜川崎の駅の近くにあった大きな新星堂でレコードを見て過ごす。

そこではアメリカのカット盤や廉価版が一律500円で売っていたし、国内盤で出ているロックのレコードはだいたい揃っていた。


そこで私は半年ほど前にリリースされた国内盤の『スリープウォーカー』を買ってみた。

定価で聴いても気に入るようなバンドだったら、500円のカット盤がいっそうありがたく感じられるだろうと考え、そのライナーを読めば近年のキンクスの活動が把握できるとも思ったのだ。


そして私は『スリープウォーカー』にKOされる。

まいりました、だった。

「どうしてこんなにいいバンドが語られてないの?」


これ以上のキンクス愛に溢れ、シビアに分析されたものは


なかなか出にくいのではないかと


というくらい微に入り細を穿つような書籍。


というかキンクスをまとめようという発想自体が


好感以外の感情を持ち得ない。


余談だけど、自分も京急川崎の新星堂、高校生の時


よく行ってましたよ。


自分の頃はカット盤はなかったと思うんだけどなあ。


ブルースのレコードを買ったりした記憶ある。


あとモアーズの中にも中古だったかレコード屋あった。


加納秀人のソロを買った記憶ある。


懐かしすぎる過去で、今の自分の一部を


間違いなく作った”音楽”には感謝しかない。


現在は音楽の仕事をしているわけではないのだけど


演奏もほとんどしなくなってしまったのだけども。


言い尽くせないくらいの感謝でございます。


最後に言いたいだけ、自慢ではないよ。


以下のアルバム、自分はロンドンのタワレコで


日本盤帯付きを購入して今もございます!


間違いなく名盤です!


(もちろんレコードにはボートラはありませんが)



スリープウォーカー+5

スリープウォーカー+5

  • アーティスト: ザ・キンクス
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 1998/12/19
  • メディア: CD


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立花隆さんの随筆から”ウクライナ戦争”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

四次元時計は狂わない 21世紀 文明の逆説 (文春新書)


四次元時計は狂わない 21世紀 文明の逆説 (文春新書)

  • 作者: 立花 隆
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2014/12/26
  • メディア: Kindle版


クリミア戦争を覚えているか から抜粋


クリミアの編入問題で、ロシアのプーチン大統領がすっかり悪者扱いされている。

アメリカからは、ウクライナの土地ドロボー呼ばわりまでされているが、この問題、それほど単純ではない。


クリミアの住民投票で、圧倒的多数がロシアへの編入を望んでいるという結果が出たし、ロシア議会の議決でも、プーチンのこの決定は圧倒的支持を受けている。


「ロシアとクリミアは共通の歴史を持ち我々の心の中でいつも両者は一体不可分だった」と語るプーチンの40分間にわたるTVの放送演説に、ロシアの人々は涙まで流して聞き入っていた。


日本では、この問題が、もっぱらウクライナ問題の一部として論じられているが、もともと、クリミア問題は、ウクライナ問題の一部ではない。

そもそもウクライナは、ロシア革命以後生まれた国だが、クリミア問題は帝政ロシアの時代からある。

ロシアの啓蒙専制君主として名高いエカテリナ二世がポチョムキン大将の協力の下にタタール系のクリミア汗国を滅してロシア領として併合した(1783)のがはじまりだ。


クリミアを語るなら、本来クリミア戦争から語るべきなのだが、日本人でクリミア戦争を語る者はほとんどいない。


なぜなら、クリミア戦争が起きた年(1853)は、日本にペリーの黒船がやってきた年で、それからしばらくの間、日本人の記憶は日米和親条約とその勅許にまつわる幕末の動乱話がもっぱらになってしまっているからだ。

そもそも日本人には、明治維新以前、世界史という枠組みで、同時代のできごとをながめる視点が存在しなかった。

同時代の外国で、どのようなできごとが起きつつあり、それが同時代の世界ないし日本にどのような影響を及ぼすかを考える視点も材料もなかった。


日本人が、世界の列強諸国との付き合い方を一歩まちがえると、とんでもないしっぺ返しを受けるものだということを身をもって学んだのは、おそらく日清戦争の三国干渉からではないか。


クリミア戦争が起きた当時は、そういうニュースを聞いても、何が何だかさっぱりわからなかったにちがいない。

実はクリミア戦争は、19世紀に起きた最も訳がわからない戦争で、どことどこが何を争って起こした戦争で、どう決着がついたのかも、日本では今もってもうひとつ理解されていない戦争である。


19世紀は、帝国主義の時代と呼ばれる。

ヨーロッパの諸列強が世界各地に植民地を拓いて、帝国を築き、覇権を争い有利な利権分配を求めて世界を分類しあった時代だ。

世界分割が一通り終わったところで、利害の調整問題から、グループにわかれて、世界全体が戦いあう世界大戦が20世紀に二度も起きたことはよく知られる通りだ。


だがこの世界大戦、突然、火のないところに起きたわけではない。

第一次大戦が起こる前に、その前哨戦ともいうべき、もうひとつの世界大戦が起きていた。

それがクリミア戦争である。

別の言い方をすれば、決着が付かなかった小世界大戦(クリミア戦争)を、大々的に展開したのが第一次世界大戦といってもいいのかもしれない。


第一次世界大戦はある意味で、数百年間にわたって中近東世界を支配してきたオスマントルコの崩壊過程でもあったが、その最初のきっかけが、クリミア戦争であったという言い方もできる。

クリミア戦争は、黒海に突き出たクリミア半島をロシアが軍事化し、ここの黒海艦隊を置き、それまでの国会の覇者トルコ艦隊を打ち破ったのがはじまりだ。

それによってロシアは黒海に待望の不凍港(セバストポリ)を持った。


ロシアがトルコに戦争をしかけた主たる理由は、ギリシア正教の庇護者をもって任じているロシアが、トルコ帝国の一部であるキリスト教の聖地エルサレムの、それまでギリシア正教が保持していた管轄権(特にキリストが十字架にかけられたゴルゴタの丘の聖墳墓教会の)を、フランスの求めに応じて、トルコがカトリックに譲り渡してしまったことに異をとなえたからである。


はじめロシアの黒海艦隊がトルコ艦隊を打ち破ったのに、ロシアの強大化を警戒するフランスとイギリスがトルコに加担して、黒海に艦隊をいれ、ロシアの基地セバストポリに軍を上陸させて、壮絶な白兵戦の果てに難攻不落とうたわれたセバストポリ要塞を陥落させた。


この戦争に自ら志願して従軍し実録を書いたのが、19世紀ロシア最大の国民作家トルストイ(当時砲兵少尉)だった。

彼の「セヴァストーポリ物語」は、たちまち大評判になり、早速これを読んだツルゲーネフは友人への手紙に

「『セヴァストーポリ物語』を書いたトルストイの文章ーーーあれは奇跡です。私はあれを読みながら涙を流し、萬歳(ウラア)を叫んだ…」

と激賞した(米川正夫訳昭和16年刊の解説)。

それまでほとんど無名の作家だったトルストイは、これ一作で、たちまち大作家になった。


この作品は、「12月のセヴァストーポリ」「5月のセヴァストーポリ」「8月のセヴァストーポリ」の三部作からなり、それぞれ手法がみなちがう(第一部は特別の主人公もいないルポタージュ。第二部、第三部は多数の登場人物が出る小説だが、それぞれ心理描写法も客観描写法もちがう)という不思議に現代的な作品である。


クリミア戦争から兵器は一層破壊力を増し、戦場は残虐さの度合いを増した。


トルストイさんの作品からの抜粋が


戦場の生々しさを伝えるもので


いくつかここで引かれておられるが


カットさせていただきます。


微に入り細を穿った記述に、戦場の全容が描き尽くされていく。

あらゆる階層の人物が登場し、あらゆる心の内が解剖されていく。


「セヴァストーポリ物語」はロシア人に広く読まれ、この作品を通して、クリミア戦争は万人の体験になった。

これを読むことでロシア人はクリミアと一体化した。

前線を巡閲する大将が、「諸君、死んでもセヴァストーポリを渡すまいぞ」と叫ぶと、兵士達が答える。

「死のう。ウラアー」読者もここで心の中でウラアーと叫んだのだ。

ツルゲーネフのごとく。


しかし結局ロシアは、クリミア戦争で大敗した。

敗北の主因は、イギリス、フランスの先進国に比してロシアの救い難いほどの後進性にあるとロシア人は上(皇帝)から下(庶民)まで自覚した。

そして、官民をあげて、急速な近代化が始まった。


クリミア戦争から15年、1870年には、ロシア中に鉄道が敷かれ、モスクワからセバストポリまでの直通列車すら走るようになった。


社会全体の近代化が、社会の階級構成を変え、社会思想を変えていく。

セバストポリへの直通列車が走るようになってから半世紀もたたないうちに、ロシア革命が起きた。

クリミア戦争百年はとっくにすぎ、今年(2014年)は第一次大戦百年。

もうすぐロシア革命百年だ。

クリミアには百年以上の民族の記憶が詰まっていることを知るべきだ。


この随筆は、今のウクライナ戦争を


単純な侵略戦争ではないのではと


考えさせられる。


とはいえ、とうてい容認できるものでは


ないのは明らか。


じゃなんなのよ。


自分なぞが考えても及びもつかないけれど


考えてしまう。


ロシア国内でも多くの人がプーチンを


支持しているのが、なんとなく分かっていたが


これでさらに少し分かった。


にしても、ロシアは振り上げた拳を


速やかに下げれるような理由を


仲介できる国なのか国とは異なる組織なりが


見つけてあげるしかないと思うし


それを本当は望んでいると思う。


難しい問題を孕んでいるだけに


ハードルがかなり高くリスクある外交だから


誰もやりたがらないのは自明だけれど。


内政干渉ってことでプライドが許容できず


国民も納得できないってことなのか。


内政干渉の件は、昨日もニュースで


タリバンが女性への自由を抑制していることが


報道されていたけれども。


 →アメリカ政府がタリバンと協議 女性教育の復活など求める 2023年8月1日


  From BBC


今は2023年ですぜ、なんとかならんものなのかな。


人間の感情や情動は普遍だという表れなのか。


余談で言いたいだけだけど


立花さんの読書からの思考はすごい。


トルストイの出世作まで読んでおられる。


トルストイってこういうことしか自分は知らない


さらに本物の余談、ロシアが近代化を


進めなければ鉄道が敷かれてない可能性あり


(いつかは敷かれただろうけど)


大瀧詠一さんの名曲もうまれてなかったかと


思うと心中複雑なんてのを考えるのは


アホな自分だけだろうなと一笑に付しますな。


 


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グールドさんの代表作から疑う事を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2000/03/01
  • メディア: 文庫

表4の紹介文から。

帯には椎名誠さんも絶賛されている。


1909年、カナダで5億年前の不思議な化石小動物群が発見された。

当初、節足動物と思われたその奇妙奇天烈、妙ちくりんな生きものたちはしかし、既存の分類体系のどこにも収まらず、しかもわれわれが抱く生物進化観に全面的な見直しを迫るものだった……100点以上の珍しい図版を駆使して化石発見と解釈にまつわる緊迫のドラマを再現し、歴史の偶発性と生命の素晴らしさを謳いあげる、進化生物学の騎手グールドの代表作。


序言および謝辞 から抜粋


私のいちばんきらいなスポーツからの例えを使うなら、歴史の本質という、科学が取り組めるものとしてはもっとも幅のある問題へのタックルを敢行したのが本書である。

ただし、ここでは、果敢な中央突破ではなく、じつに驚異的な事例研究の細部を経由してエンドラン攻撃を試みている。

そうするにあたって採用した戦略は、私が一般書を書くときのいつものやり方と同じである。

詳細だけを述べたてても、それほど深くは突っ込めない。

私にはかなわないことだが、詩情をせいいっぱい盛り込んだところで、せいぜいみごとな”自然讃歌(ネイチャー・ライティング)”をものすることができるくらいだからだ。


しかしそうかといって一般性に正面攻撃をかければ、退屈なものか偏向した代物になるのは目に見えている。

自然界の美は細部に宿っている。

理想は、両方のアプローチを兼ね備えていることであり、私が知る最上の戦術は、選りすぐった各論に素晴らしい原理を語らしめるというものである。


私があえて選んだ話題は、あらゆる化石産地のなかでもっとも貴重で重要な、ブリティッシュ・コロンビア州のバージェス頁岩(けつがん)である。

その発見と解釈にまつわる、ほぼ80年間におよぶ人間ドラマは、文字どおりの意味ですばらしい。

軟体性の動物を完璧に保存しているこの最古の動物群を1909年に発見したのは、最高の考古学者にしてアメリカの科学界において最高の権力を握った行政官でもあった人物チャールズ・ドゥーリトル・ウォルコットである。


しかし、伝統的な思考に縛られたウォルコットがその動物群に下した解釈は、生命の歴史に新しい観点を開くことのない陳腐なものだった。

そのため、そこで見つかった比類のない生物たちは大衆の目から遠ざけられてしまった。

生命の歴史を解き明かす手がかりとしては、恐竜をはるかにしのぐというのに。


そして、この仕事は自分しかできだろうと


いうことなのですな。


なかなか興奮されただろうことは想像つく。


このテーマを着想したときは。


最初の文はスポーツに無理くり繋げてるけど


これはドーキンスさんとか他論敵への牽制球なのかな?


それはともかく、人間が傾けた努力や解釈の修正などよりもはるかにすばらしいのが、バージェス頁岩から見つかる生物そのものである。

とくに、正確を期して新たに復元されたそれら生物の常軌を逸した奇妙さがすごい。

五つの眼と前方に突き出た”ノズル”をもつオパビア、当時としては最大の動物で円盤のようなあごをもつ恐ろしい捕食者アノマロカリス、幻覚(ハルーシネイシヨン)という意味の学名にふさわしい形状をしたハルキゲニアなどである。


本書の書名は、二重の驚嘆(ワンダー)の念を込めたものである。

すなわち、生物そのものの美しさに対する驚嘆と、それらが駆り立てた新しい生命観に対する驚嘆である。

オパビニアとその仲間たちは、遠い過去の不思議な驚嘆すべき生物(ワンダフル・ライフ)の一員だった。

それらはまた、歴史における偶発性というテーマを、そのような概念を嫌う科学に押しつけずにはおかない。

それらはまた、歴史における偶発性というテーマを、そのような概念を嫌う科学に押しつけずにおかない。

偶発性が歴史を変えるというのは、アメリカでもっとも愛されている映画の一番

記憶に残るシーンの中心テーマである。

ジェイムズ・スチュアートの守護天使が、彼の登場しない人生の録画テープを見せ、歴史のなかの一見無意味な出来事がその後の歴史にとてつもない影響を持ちうることをまざまざと示す、あのシーンがそれである。


科学は、偶発性という概念を扱いあぐねてきた。

しかし、映画や文学は、常に偶発性の魅力を見出してきた。

映画『素晴らしき哉、人生!』(It’s a Wonderful Life)は、本書の主要なテーマを象徴していると同時に、私が知る限りではもっともみごとに例示している。


その映画は昔の同僚の後輩から


勧められて何年か前に観た。


名作と言われているだけあって単純に面白かった。


あの時代に守護天使がああいう役割で出てくるってのも


びっくりしたのだけど、グールドさんがいうと


もう一度見たくもなりますな。


ちなみに「羅生門」も進化論の本質は


藪の中と言わんばかりに


メタファとして使われていた。


文庫版のための訳者あとがき


渡辺正隆 から抜粋


「バージェス」というキーワードを、インターネットの検索にかけてみる。

するとなんと、バージェス動物の仮装博物館が、日本も含めた世界中にたくさん開設されているではないか。

『ワンダフル・ライフ』日本版が出版された7年前には想像もできなかったことだ。


なぜ、バージェス動物はそれほどまでに人々の関心を呼んでいるのだろう。

最大の理由は、進化の謎解きという要素が楽しめる素材であり、しかもどの生物も見かけが妙ちくりんで、その多くは絶滅して子孫を残していないことかもしれない。

恐竜が人気のある理由として、大きくて絶滅しているからだという見解がある。

バージェス動物の大半は、せいぜい数センチ程度ときわめて小さいが、世に流布しているのは奇怪な生き物の拡大図や拡大写真である。

恐竜はわれわれの想像力を駆り立てるが、バージェス動物も、小粒ながらなかなかどうして、といったところなのだろう。


バージェス動物とは、カナディアンロッキー、スティーヴン山に連なる山系の高度2400メートルの斜面に露出しているカンブリア紀中期の頁岩(けつがん)層(バージェス頁岩)から見つかる化石動物群である。

この動物群のすごいところは、固い殻をもたないため普通ならば化石として残りにくい生物(本書では「軟体性動物」と訳した)が、精緻な構造をとどめた化石として保存されている点である。

しかも、それらの生物が生息していた時期は、さまざまな多細胞生物の爆発的出現(「カンブリア紀の爆発」)が起こった時期の直後にあたる。

したがってこの化石層が見つかったことで、それ以前は固い殻をもつ動物化石(三葉虫など)だけで語られていたカンブリア紀の爆発の規模が、実はもっとすごいものだったことが判明したのだ。


本書『ワンダフル・ライフ』では、バージェス頁岩の発見とバージェス動物のドラマチックな研究史、そして生物の進化劇を解釈するにあたってこの大発見がもつ意味が解き明かされている。

世界的に著名な古生物学者、進化生物学者、著述家であるスティーヴン・ジェイ・グールド博士は、本書を執筆するに至った動機を、自分の専門分野においてなされた大発見の興奮を、一人でも多くの人に知ってもらいたかったからと述べている。


しかしそこにはもう一つ、秘められた意図(公然の秘密?)があった。

それは、生物進化の歴史における個々の生物グループの栄枯盛衰は、必然的な結果ではなく、むしろそのほとんどは偶然のなせるわざだったという自らの進化観、そして科学的な研究は必ずしも客観的な真理の探究ではなく、そこには科学者の主観や先入観の混入も避けがたいという科学観を喧伝する上で、バージェス動物をめぐる物語以上の題材はないとの判断である。


とはいえ、この後新たな発見もあり、


この書の表紙に書かれている


超印象的な動物イラストの


「奇妙奇天烈動物ハルキゲニア」が上下逆さまだったと。


どっちがどうなのかよくわからないけど、静止画だと。


他にもグールドさんは『八匹の子豚』23章、24章で


アップデートしたものをご披露されている模様。


未読ですがそれさえもさらに新しい発見や


誤りもありそうで、なんともはやではございますが。


これら『ワンダフル・ライフ』以後の研究動向とグールドに対する反論に関しては、バージェス見直しの立役者三人衆の一人で、現在はケンブリッジ大学教授となっているサイモン・コンウェイ・モリスの著書『カンブリア紀の怪物たち』(講談社現代新書、1997)に詳しい(ただし、この日本語版のカバーでも、英語版ーーーThe Crucible of Creation,1998ーーーのカバーでも、アノマロカリスはまだ水中を悠然と泳いでいる)。


コンウェイ・モリスといえば、あのハルキゲニアの発見命名者であり(ただしご本人は、Hallucigeniaを英語式に「ハルシジーニア」と発音している)、『ワンダフル・ライフ』の中では、とんだやんちゃ坊主として描かれている御仁(ごじん)である。


彼にしてみれば、とりあえず分類不能動物用の”がらくた箱”に入れておいた妙ちくりん生物を、すべて新しい門かユニークな節足動物として独立させられ、生物の異質性はカンブリア紀の時点が最大で、あとは偶然に翻弄されるままに減少してきたというグールドの進化観に都合の良いように利用されたのだから、おもしろいわけがない。

コンウェイ・モリスに言わせれば、我田引水もいいところだろう。

いきおい、口をついて出る批判も辛辣になるわけである。


しかし、コンウェイ・モリスも述べているように、バージェス動物にはまだまだ正体不明のものが多く残されており、それらの処遇に決着がつくのは当分先のことになりそうである。

また、コンウェイ・モリスの前掲書に関しては『ワンダフル・ライフ』にも批判的な同業者たちから、主張や考え方に独特の癖があって偏っているとか、そもそも最初におまえが分類をまちがえたのが悪い、所属不明動物をやたらにつくりすぎたせいだという批判も寄せられている。

グールドやドーキンス、カール・セーガンなど、ベストセラー作家となった科学者は、やっかみ半分も手伝って、とかく揶揄されがちだが、『ワンダフル・ライフ』のおかげで一躍有名人となったコンウェイ・モリスも、有名税を免られないようだ。


グールドとドーキンスは相反する進化論(グールドは偶発性も重視する断続的進化論者、ドーキンスは自然淘汰の作用を最大限に重視する漸進(ぜんしん)的進化論者)の持ち主で、言わずと知れた宿敵同士である。

そのドーキンスは、最新作(Unweaving the Rainbow,1998)でコンウェイ・モリスの「バージェス本」を賞賛し、『ワンダフル・ライフ』に関しては、科学を語るには詩的創作力も必要だが、これは自らの歪んだ進化論をことさら大げさに謳い上げた悪い詩の典型であると酷評している。

ただし、ドーキンスの進化論にも問題があると評するコンウェイ・モリスは、なるほど食えない御仁である。


なんだかなあ、生物学者さんたちの世界というか。


”生物学者”っても厳密には異なるのかもしれないけど。


いろんな言い分があるのだろうけども。


それをビジネスにしている出版社もいるわけで


それを楽しんでいる輩もいて、


自分もその一人なのかもしれないので


まあ、いいっちゃいいんだけども。


深い世界なのだなあ、と。


ここで新たにコンウェイ・モリスさんという


自分にとっては未知なお方が出てこられまして


悩ましいところですけど。


コンパクトなバージェス本を上梓したコンウェイ・モリスは、『ワンダフル・ライフ』を冗長だと評している。

しかしそうだろうか。

ハルキゲニアやアノマロカリスの化石がいかに復元され、紆余曲折を経ていかにその正体が暴かれたかという研究者の悪戦苦闘の様子まで第三者のペンでビビッドに描かれているからこそ、『ワンダフル・ライフ』は大勢の読者から歓迎されたのではなかったか。

恐竜は、復元図や骨格標本を見るだけですごいが、化石の発見や復元にまつわる研究史を知ると、恐竜への関心はさらに募る。

『ワンダフル・ライフ』は、いまだに読み応えがあるし、読む価値があると思う所以である。


訳者渡辺さんは、1993年に


カナディアンロッキー


バージェス頁岩を想い、


聖地巡礼の旅をされたと。


その時の顛末も書籍があれば読んでみたい。


話戻って、グールドさんの書籍は


かなりマニア度が強く全てを読み通すのは


かなりしんどくて、現時点ではできなかった。


それだけが原因の全てではないけれど。


モリスさんの言い分もなんとなく


わかる気もするのだが、


椎名誠さんが絶賛するだけあり


ピュアで愚直なところも興味深く、


他の書籍も読みたくなる。


余談だけど、この本読んで、恐竜って


そんなに魅力的かなあと思いつつも


小さい頃、アメリカだかどこかで


恐竜の卵の化石が見つかったという本を読み


すぐさま近所の草むらに自転車で出かけ


探索していたのは遠い昔であったことを


思い出した次第でございます。


 


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三木成夫先生を本人以外の文から考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


内臓とこころ (河出文庫)

内臓とこころ (河出文庫)

  • 作者: 三木 成夫
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2013/03/05
  • メディア: 文庫


話されていた書を読んでみた。

単行本増補版解説 広がる三木成夫の世界


後藤仁敏 から抜粋


「胎内に見る四億年前の世界」は、ヒトの発生初期の胎児の顔面形態の変化に、脊椎動物5億年の進化の歴史の再現を見た、その感動の体験を述べたものである。

受胎32日から38日までのわずか一週間に子宮の中で起こるその劇的な変化を描いた三木氏のみごとな胎児顔面の写生は、「個体発生は宗族発生の象徴劇である」とする氏の思想を圧倒的な説得力で理解させている。

それは、本書の「質問に答えて」のなかで、氏が予告した「胎児の世界」のエッセンスである。


また、「忘れられた25時ーーバイオリズムと眠りのメカニズム」は、本書の「胃袋感覚」と「夜型の問題ーーかくされた潮汐(ちょうせき)リズム」で萌芽的にふれている人間のバイオリズムと健康の問題を、さらに深く論じたものである(一部に同じ図が重複して掲載されているが、読者の便宜のために再録した)。


私たちのからだには、24時間の「昼夜リズム」だけでなく、25時間の「潮汐リズム」がその深層に存在しており、それがさまざまなからだの不調の原因となっている。

前の文で述べた子宮の中での上陸劇こそ、私たちが「潮汐リズム」との深いきずなを持っていることを物語るものであり、出生後の乳児の哺乳のリズムの変化のなかに「潮汐リズム」から「昼夜リズム」への移行が起こるのである。

私たち人間にみられる「夜行性」や「冬眠」体質は、海に起源した生命40億年に及ぶ長い進化の歴史に根ざしたものなのだ。

そして、このように根の深い不調への対策として、からだのリズムを充分に理解したうえでの”愛の鞭”をタクトとしてふることが大切である、と結論している。


私は、この二つの文のなかに、三木氏の人間存在への根源的追求と、からだの不調に悩む子どもたちや若い学生たちへの深い愛情を感じる。


動物が体内時計として25時ってのは


なんとなく知っていたのだけど


人間もそうなのか。


人間も動物であるということで


近代化した脳化社会で比較的都会に


暮らすとそういうことを忘れてしまうもので。


といった流れで養老先生の解説でございます。


文庫版解説 情が理を食い破った人


養老孟司 から抜粋


久しぶりに三木先生の話を読んで、先生の語り口を想いだした。

三木先生の語り口は独特で、それだけで聴衆を魅了する。

東京大学の医学部である年に三木先生に特別講義を依頼したことがある。

シーラカンスの解剖に絡んだ話をされたが、講義の終わりに学生から拍手が起こった。

後にも先にも、東大医学部の学生を相手にしてそういう経験をしたことは他にない。


三木先生の話は、そういうふうに人を感動させるものだった。

ご本人の表現によれば「はらわた」の感覚で話をされたからであろう。

聴衆はまさに「心の底から」動かされるのである。

それに対して通常の講義は「体癖系の脳」から出るから、「はらわた」に沁みないことが多い。

つまり「理に落ちて」しまう。

この本が文庫の形で手軽に読めるようになったことで、先生の話が「はらわた」に沁みる読者が増えることを望まないではいられない。


本書は保育園での講演が中心となっている。

三木先生自身の子育ての記録ともつながっており、こうしたスケールの大きな子育て論は類を見ないと思う。


父親が子育てに関与するのが当然になってきた世の中だが、三木先生が子どもを見ていたような目で、子どもを見ているだろうか。

なにげない子どもの動作を、ここまで理解してみている親を私はなかなか想像できない。

自分のことを考えてもそうである。

そうした子どもの発育段階を、むしろ当然のこととして、そのまま見過ごす。

それが普通ではないか。

そんな気がする。

それは男親が子育てに具体的に関与するとかしないとかいう問題ではない。

子どもの成長に男親がどこまで本気で関心を持っているか、なのである。


私もときどき子育て論に参加させられることがある。

そういうときには、もっぱら三木先生に頼る。

われわれの祖先が背骨を持って陸に上がってから5億年、子育てをあれこれ考えるホモ・サピエンスの脳ができてたかだか20万年。

体壁系の脳などという新参者のいうことが、どこまで信用できるのだろうか。

しかしその子どもの成長は、三木先生によれば、胎児の時代を含めて、この何億年の歴史を短く繰り返すのである。

そもそも子育てが意識で左右可能だという、考えともいえない考えが通るほうがヘンだというしかあるまい。

それでもお母さん方は「じゃあ、どうしたらいいんですか」と尋ねるのである。


一次産業がまったく振るわないことと、子育てが問題になることとは、同根である。

自然のものに手入れをするという感覚が、身に付かなくなっただけであろう。

こういう世界が長続きしないだろうということは、「はらわた」感覚ではだれでも理解しているはずである。

ただ個人当たりにして自分が生産する量の40倍という外部エネルギーに依存する巨大な社会システムを構築してしまったから、そこから出ようにも出られないという「現実」に直面しているだけである。

それを具体的にいちばんよく示しているのが、原発再稼働問題である。


放射能を恐れて遠くに引っ越してみても、この社会システムから逃れるわけにはいかない。

放射能と同じ問題が別な形で降ってくるだけである。

放射能ははっきりしているからいわば一次払いだが、引っ越したところで、それが月賦払い、年賦払いになるだけのことであろう。

ある程度歳を経れば、当面の逃げは問題の解決にならないことなど、身に沁みてわかっている。

だから「考える」のだが、それが体壁系に止まるかぎり、実効性はない。

だから、三木先生に戻る。


三木先生の話が心を打つのは、そこに強い情動があって、それを理性がよく統御しているからであろう。

お子さんのことを書いている部分でも、そんなことは一言も書いていないのに、親としての愛情が強く伝わってくる。

まさに「指差し」だけなのだが、そこに愛情が見えるのである。


思えばこういう情の持ち方は、私より年長の世代の人に多かったという気がする。

誕生日のプレゼントだとか、そういう形に見えることはしないのだが、なにかの折りに強い愛情を感じる。

私自身にそれが欠けがちだから、逆によくわかったのかもしれない。


情理ともに兼ね備えることはなかなかむずかしい。

理に落ちてはつまらないし、情が先走っても困る。

漱石が書いたとおりで、情に働けば角が立ち、情に棹させば流される。

自然科学は理性一本ということになっている。

でもじつは裏にさまざまな情があって、そこに人間の品格の問題が隠されているように思う。

品格を決めるのは、たぶん情理そのものではない。

両者のバランスであろう。

学者としての三木先生はそこのバランスが見事な人だった。

むろんあそこまで行くには、さまざまな苦労があったに違いない。

普通の科学者なら、情は徹底して押さえ込んでしまう。

でも三木先生はそこをいわば情が食い破った人なのである。

だから書くことや言うこと、つまり表現がホンネとなって、人を打つ。

この講演でもシモの話がよく出てくるが、聞いているほうは素直に笑っている。

品の悪い話にはならないのである。


現代社会では、理の話は腐るほどある。

でもそれを上手に動かす情が欠けている。

シラけるとは、それをいうのであろう。

シーラカンスの解剖のような、日常とまったく縁のない話をしているのに、聞いている学生がその話に吸い込まれてしまう。

まったくシラけない。

これはいったいどういうことか。

当時の私はよくそう思ったものである。

そのシーラカンスと現在をつなぐものが、三木先生の情である。

子どもさんへの愛情と同じで、シーラカンスやそれが象徴する生命の長い歴史への先生の愛情が、表現の隅々から伝わってくる

その生命の中には、むろん生物としての現在の自分も含まれている。

それを単なる理屈で語らないところが、三木先生なのである。


以下は老婆心である。

この本を読むときに、現代の生物学の本を読むようなつもりで読まないで欲しい。

生きものとわれわれをつなぐものは、ただ共鳴、共振である

それを三木先生は宇宙のリズムと表現した。

共振はどうしようもないもので、同じリズムで、一緒に動いてしまう。

三木先生はおそらくその根拠を追求し、長い生命の歴史のつながりを確認したのである。

21世紀の生物学は、おそらく生きもののそうしたつながりを確認する方向に進むはずである。

またそうなって欲しいと思う。


三木先生はゲーテのメタモルフォーシス、生物学でいう変態にも、強い関心を持たれていた。

昆虫の完全変態とは、じつは寄生性の昆虫と、ホストの上手な合体ではないかという現代の仮説を紹介したら、三木先生は大いに喜ばれたに違いないと思う。

私がそう説明したときの、三木先生のホーッという顔が目に浮かぶような気がする。

そうだろう、そうでなくてはいけない。

間違いなくそういわれそうな気がするのである。

これも実際にそうだとすれば、生きもののつながりの典型的な一例である。

19世紀以来の生物学は、ルネッサンス以降の西欧文明の常識を背景にしてきたから、生きものそれぞれの個に注目してきた。

しかし当然ながら、生きものはそれ単独で生きているわけではない。

かならず生きものに囲まれて生きているのである。

その感覚がなくなったのは、水田や杉林を見慣れている現代人だからであろう。

杉だって稲だって「それだけで生きている」とつい思わされてしまうのである。


まもなく三木先生の時代がまたやってくる。そんな気がしてならないのである。


自然回帰の祈願、五感重視せよってことなのか。


だとして、それに気づいている人たちも


増えてきている気も昨今する。するだけかも。


三木先生の言葉は、平易でとっつきやすく


かつ例としてして差し込まれる図画と


そのキャプションがユニーク!


独特の三木ワールドとでもいうか。


またご自分で図を書かれていて


この書の表紙もそうなのだけど異様に上手い。


あまり関係ないと思うけれども、20年くらい前


木下杢太郎先生の原図で熱海で妻と見たことが


あるのだけど、それに匹敵する驚きだった。


昔の学者さんって今の朝ドラの


牧野富太郎先生もそうだが


みんな絵が上手いという印象あるのは偏見か。


話を三木先生にもどしピュアな語り口や素朴な


驚き方がなんとなく岡本太郎さんのそれと似ている。


これじゃ、生徒の心は鷲掴みなわけだよ


普通と違うもの、熱とか見えてるものとかが。


ものすごい知識量で話しているのは


きっとすごい読書家なのだろうなあと。


それを自分の中に取り込むスポンジ力は


凄まじいものがあるのだろうなあ


余談だけどセミが遠くで合唱を始めた


木曜の朝夜勤中にAmazonで購入した8冊の本が


今日届くことになっているのだけど


今日も夜勤で仕事前に来るか、を


心配している平和な自分でございました。


 


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グールドさんの随筆から”遺伝子”と”環境”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


嵐のなかのハリネズミ

嵐のなかのハリネズミ

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1991/08/01
  • メディア: 単行本

 から抜粋

書物は、学者としてのわれわれの生活の源泉であり中心である。

そのような源泉に対する論評は、できるかぎり発展的で啓発的なものであらねばならない。

それが、学問の基礎をなす生産物を尊重している証しというものである。

ところが、実に多くの書評が、狭量で、衒学的で、近視眼的かつ画一的である(これらカ行の言葉に限らず、読者は、たとえば偏狭で、平凡で、不満たらたらといったハ行の言葉を並べることも可能なはずである)。

そのせいで、尊敬に値するジャンルであるべきものが、恐ろしく鼻持ちならないものといしょくたにされている。

その事実は私を打ちのめすが、この悲しむべき状況を逆転させる望みがないわけでもない。

他人の著作に対する論評が、エッセーの領域に入ってもいいはずである。


私は、一貫性は純粋な天恵であるとか、錯綜したこの世における美徳たり得るものだとは考えない。

それは、使い古された(それでいて基本的には説明不能な)アフォリズムにおけるハリネズミの役割を引き受けさせるものである。

それはそもそもアルキロコスに帰せられるアフォリズムなのだが、エラスムスからアイザイア・バーリンにいたる知識人たちによって時代を超えて伝えられてきたものである。

「キツネはたくさんのことを知っているが、ハリネズミは大事なことを一つ知っている」。

多様で危険に満ちた世界にあっては、キツネが備えている融通性の方が大きな利点かもしれない。

例えばコルテスやピサロといった、歴史の中の実在のハリネズミたちが、近代的な破壊の技術を手にしていたなら、何をしでかしていたか考えてみるがいい。


私は、夏はジョーンズ・ビーチで泳ぎ、古無脊椎動物学を専攻したニューヨーカーとして、海の生物に偏執的な愛着を抱いている。

かねがね私は、英語でウニのことをなぜ「海のわんぱく坊主(シー・アーチン)」と呼ぶのか不思議に思ってきた。

ウニと街路にたむろするいたずらっ子たちとでは、どこも似てないではないか。

ウニがそう呼ばれる理由がわかったのは、ヨーロッパではハリネズミが「わんぱく坊主(アーチン)」と呼ばれており、球形でトゲのはえたウニの姿が、ハリネズミの防御姿勢とそっくりだということを知ったあとのことだった。


書名にある「嵐」は、あきらかに否定的な意味を持つものである。

しかし、丸くなるというハリネズミのやり方は、退却や降伏ではない。

敵に対してはがんじょうな背中側を見せ、鋭い針を立て続けつつも、危険が去ればふたたび体を伸ばしてすばらしい陽射しを全身に浴びるのである。


書名については、”訳者あとがき”でも


解説というか元ネタがございます。


グールドさんのこれだけだと


いまいち分かりにくいような。


いったん、グールドさんの書評というか


エッセーでございます。


 


第3部 生物学的決定論


第7章 頭脳の遺伝子


チャールズ・L・ラムズデン、エドワード・O・ウィルソン著


『プロメテウスの火ーーー精神の起源についての考察』


(邦題『精神の起源について』、思索社)に対する書評


から抜粋


大発見には、大言壮語(たいげんそうご)が添えらえて然るべきである。

アルキメデスがシラクサの通りを走り抜けながら「ユリーカ」と叫んだことや、てこの支点をすえる場所さえあれば地球を動かしてみせるとうそぶいたことに、誰が異を唱えるだろう。

しかし、大言壮語は、意識的か否かにかかわらず、失敗を隠蔽するためになされる場合のほうがはるかに多い。

意識的になされる場合、その策略は厚顔無恥もはなはだしいと言うべきだ。

無意識になされる場合には虚な響きがする。


ラムズデンとウィルソンの共著の書名とその内容は、無意識になされた失敗を物語っている。

彼らは、人類の精神の起源後の歴史を理解する鍵、人類進化にとっての”プロメテウスの火”を発見したと主張し、次のように宣言している。

その鍵は

「われわれが遺伝子と文化の共進化と 名付けた、ほとんど未知の進化過程である。それは、生物学的な指令によって文化が生み出されかたちづくられる一方で、文化的な革新に呼応した遺伝的進化によって生物学的な特性も同時に変更されるという、複雑で魅惑的な相互作用なのである」。


ウィルソンが1975年に著した『社会生物学』の最終章で提唱された人間社会生物学は、乱暴な遺伝的決定論を採ることで文化を無視したと言う批判を浴びた。

それに応える形でラムズデンとウィルソンは文化を発見し、人間の精神の進化にまつわる本質をすベて説明するために、正のフィードバック・ループを構成する半分の要素として文化ーーー残る半分の要素は遺伝学ーーーを用いている。


要するに、われわれ人類の歴史と現状を規定する三つの重要な観点と言えるかもしれないことがらが、この、ちっとも異例ではないーーーしかも新しくもないーーー進化様式で説明できると言うことを長々と論じた書が『プロメテウスの火』なのである。

その重要な観点とは次の三つである。


ラムズデンとウィルソンの重要な観点その01
人類の進化の歴史において精神を起源させる引き金となったのが、遺伝子と文化の共進化だった。それによって、生命の歴史における主要な出来事のなかでも、おそらく他に類例を見ないほどの速度で脳の大型化という進化が促進された。

ラムズデンとウィルソンの重要な観点その02
重要な人間行動の普遍的側面の多くは遺伝的基盤に根ざしており、文化に制約を加える後成的規則を提供している。

ラムズデンとウィルソンの重要な観点その03
人類文化のあいだに見られる差異は、比較的最近に起源し、往々にして表面的なものを考えられてはいるが、遺伝的影響をまぬがれてはいない。それは、遺伝子と文化の共進化という効果的な過程によって形成されているか、少なくともその強い影響を受けているのがふつうである。

野望を高く掲げたラムズデンとウィルソンにとっては残念なことに、第一の観点は確かに正しい指摘ではあるが、彼らがはじめて提唱した考え方ではない。

それは、ダーウィン以来、精神は進化によってどのように起源したかをめぐる推測の中核をなす考え方だった。

第二の観点も異論のないところではあるが、少なくとも現時点でわかっている例に関してはありふれた指摘である。

それに対して第三の観点は異論の多い指摘であり、確証されれば革命的な発見とさえ言えるが、それが全般的に見られる現象であるというのはもちろん、その現象が多く見られるという主張さえ、ほぼ間違いなく誤りである。


すごい一刀両断っぷり。


かのウィルソン氏でさえも。


というか自分の自信ある分野なら


誰であろうとも、ということで


かつウィルソンさんは知らない仲では


ないわけだからね。


私は、”氏(天性)か育ち(環境)か”大論争においては、”育ち派”と見なされている。

しかし、私は、人間の行動が生物学的な影響を受けているという考え方に大騒ぎする理由など何もないと思っている。

ただ、すでにいろいろな人たちが幾度となく繰り返してきたことではあるが、このことだけは今一度はっきりとさせておくべきだろう。

すなわち、このカテゴリーはばかげており、”氏か育ちか”論争なるものなど存在しないのだ。


人間の社会行動は生物学的影響と社会的影響が分かちがたく複雑に混じり合ったものであるということは、すべての科学者にとどまらず、良識を備えた人なら誰もが知っていることである。


氏と育ちのうちいったいどちらが人間の行動を決定するのかということが問題なのではない。

この二つは不可分なものだからだ。

社会組織がとりうる形態に生物学的資質が課す約束の程度、強さ、性質が問題なのである。


生物学的な普遍性が存在することは誰も疑わない。

われわれ人間は眠り、食べ、年を取らねばならないし、子づくりを断念したいとは思わない。

人間社会の制度のほぼすべては、そうした避けられない命令の影響を受けている。

従って、ラムズデンとウィルソンが列挙している命令の簡単なリストも、彼らが規定した後成的規則の細目も、”氏派”偏重の弁護や社会生物学の擁護とはならない。

そうではなく我々が問うべきは、普遍的と特定できるものはどのようにして形をなし、拘束を課しているのかである。

少なくともラムズデンとウィルソンが列挙したリストから得られる答えでは、まったくだめである。

そういうわけで私は、社会的行動の決定要素としてことさら遺伝を引き合いに出す彼らのやり方を、ありふれた、論じるに値しないものと見なしている。


いや、そうだとしたら書評しないだろう。


これは論じているうちに入らないということなのか?


近親憎悪みたいなものなのだろうか。


社会生物学の前提 から抜粋


細分化と適応論に部はこれだけの致命的な欠陥があるにもかかわらず、ラムズデンとウィルソンは、社会生物学社としての自分たちの将来になおも自信を持っているようである。

彼らは次のように書いている。


人間社会生物学は、初期の分子生物学とほぼ同じ立場である。

すなわち、鍵となるメカニズムがいくつか特定され、基本的な現象を以前よりも正確な新しいやり方で説明できるだけの状態にある。

この分野はいまだ未熟な状態にあるが、生物学と文化の両方を考慮に入れなければならないとしたら、これが進むべき唯一の道であるように思える。


私には、ラムズデンとウィルソンは分子生物学と人間社会生物学との決定的な違いを見落としているように思える

分子生物学にとって、還元論的な研究プログラムは実際にうまく機能したし、大成功を収めた(ただし、ゲノム全体の凝集力を考える段になって、今や限界にぶつかっている)。

早い話、分子生物学はその大部分が化学である

しかし、化学では通用する還元論的なやり方は、人間の文化に関してはうまくいなかいだろう。

恋に落ちることを化学反応の一形式として説明するにしても、それは隠喩として語っているだけである。

それは、詩人にとっても科学者にとっても大きな間違いである。


訳者あとがき


渡辺正隆 1991年7月 から抜粋


いささか異色なことではあるが、本書は書評集である。

しかし、安直な新刊案内を寄せ集めたものと早合点していただきたくない。

ここに集められているのは、いずれも書評に名を借りたエッセーだからである。


著者であるハーヴァード大学比較動物学博物館教授スティーヴン・ジェイ・グールドの科学エッセーの邦訳は、すでに4冊が早川書房から出版されている。


ダーウィン以来』『パンダの親指』『ニワトリの歯』『フラミンゴの微笑』の4冊である。


本書の『嵐のなかのハリネズミ』という書名について触れておくべきだろう。

著書の序でも述べられているように、これはギリシア時代の詩人アルキロコスの詩の断片として知られている「キツネはたくさんのことを知っているが、ハリネズミは大事なことを一つ知っている」ということばに由来している。

この謎めいた断章については、古来さまざまな解釈があるらしいのだが、グールドが書名の由来をこのアフォリズムに求めるにあたっては、1909年にラトヴィアに生まれ、オックスフォード大学に学んでそこの教授となった政治哲学者アイザイア・バーリンの1953年の著書The Hedgehog and fox(『ハリねずみと狐』1973年)という著書に負うところが大きい。


この本には、「トルストイの歴史観をめぐるエッセー」という副題が付されており、『戦争と平和』に見るトルストイの歴史哲学を考察した小著である。

その中でバーリンは、作家、思想家、人間一般をハリネズミ族とキツネ族に分類し、「いっさいのことをただ一つの基本的ヴィジョン、いくらか論理的に、またはいくらな明確に表明された体系に関連させ、それによって理解し考え感じるような人々

ーーーただ一つの普遍的な組織原理によってのみ、彼えらの存在と彼らのいっていることがはじめて意味を持つ」(引用はすべて日本版の河合秀和氏の訳文による)人々が前者で、

「しばしば無関係でときには互いに矛盾している多くの目的、もし関連しているとしてもただ事実として、何らかの心理的ないし生理的な理由で関連しているだけで、道徳的、美的な原則によって関係させられていない多くの目的を追求する人々」が後者であると定義している。


そして大胆な二分法を適用するならば、

ダンテ、プラトン、ルクレティウス、パスカル、ヘーゲル、ドストエフスキー、ニーチェ、イプセン、プルーストがハリネズミ族、

ヘロトドス、アリストテレス、モンテーニュ、エラスムス、モリエール、ゲーテ、プーシキン、バルザック、ジョイスがキツネ族だとしている。

では、トルストイはどちらなのか。


バーリンがこの本で提出している仮説は、トルストイは本来はキツネだったのに、自分はハリネズミであると信じていた、というものである。


グールド自身はみずからハリネズミを自認し、生物界の多様性とそれを生んだ進化の歴史的偶然性を一貫して尊重し続けると同時に、遺伝的決定論、適応万能論、通俗的社会生物学、還元主義などに頑なに異を唱え続けている。

吹き荒れる嵐の中で、ただただ身を固くして針を立て続けているハリネズミに自分のイメージを重ねた結果が、この書名というわけである。


また、原題ではハリネズミという単語にUrchinをあて、それよりも一般的でバーリンの書名にも使われているHedgehogを使っていないのは、前者の単語には「わんぱく坊主」という意味があることを踏まえた上でのようだ。


バーリンさんの二分法が面白い。


グールドさんはハリネズミか、


ならばドーキンスはキツネなのか。


おおやけにはそう見えるかもしれないけど


結局二人は同じ、ハリネズミなのだろうなと。


余談だけど、自分はどちらだろうかと考える。


曰く言い難しではあるけれど、自分は多分


キツネに強烈に憧れている


ハリネズミなんだろうなあ、と


夜勤明け、頭が少し痛いけれど


早く朝食とって風呂洗いしないと


トイレ掃除は一昨日やってますので


ってどうでもいいこと報告しております。


 


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続・マット・リドレー氏の書から進化を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


進化は万能である 人類・テクノロジー・宇宙の未来 (早川書房)

進化は万能である 人類・テクノロジー・宇宙の未来 (早川書房)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2016/09/30
  • メディア: Kindle版

前回投稿でエピローグから引いたのに

今回は戻ってしまっての


第1章からってのもなんなんですが


ここが自分にとってはこの書の肝だった。


第1章 宇宙の進化 から抜粋


「スカイフック」とは、空から物体を吊るしているという、架空の装置のことだ。

第一次世界大戦のさなか、同じところに1時間留まれと命じられたある偵察機のパイロットがむかついて、皮肉を込めて返した言葉のなかで使われたのに端を発する。

「本機はスカイフックに吊るされてなどいない」と応じたわけだ。

哲学者のダニエル・デネットは、生物はある設計者が存在する証拠だという主張の比喩にスカイフックという言葉を当てた。

彼は、スカイフックの対極にあるのがクレーンだというーーー前者は解決法、説明、あるいは計画を高いところからこの世界に押し付ける。

対する後者は解決法、説明、あるいはパターンが地面から上に向かって出現するのを助ける。

自然淘汰はまさに後者である。


”スカイフック”は、過日読んだデネット氏


書にもあったが、ここではさらに


”クレーン”というのが対比として使われている。


第4章 遺伝子の進化 から抜粋


何故ならば、原子は鋭敏な智を以って、夫々が各自の順序に、意識的に自己の位置を占めるようなこともないのは明らかであるし、また夫々が如何なる運動を起こそうかと、約束し合っているわけでもないことは明らかであるからである。

ただ、原子は数が多く、かつあらゆる工合に変化をうけ、無限のかなたから、打撃をうけて運動を起こし、宇宙中を駆り立てられて飛んでいるが故に、あらゆる種類の運動と結合の仕方を試みることによって、ついに現在、物のこのような総和が生まれ成立するに至ったこの配置に、はいるのである。

ルクレティウス、『物の本質について』第1巻より


現在わかっていないことでとくに魅惑的なのは、生命の起源である。

生物学者は自信たっぷりに、複雑な器官や生命体は単純な原子細胞から発生したのだと唱えているが、最初の原子細胞の発生はまだ暗闇(くらやみ)に包まれている。

そして人は途方に暮れると、たいてい神秘論による説明に頼りがちだ。


あの筋金入りの唯物論科学者で分子生物学者のフランシス・クリックが、1970年代に「バンスペルミア」ーーー生命は宇宙のどこかで始まり、微生物が地球にやって来て種を蒔いたのではないかという考えーーーを検討しはじめたとき、彼はやや神秘論に傾いていると心配する人が大勢いた。

実際には、彼はただ可能性について論じていたのだ。

宇宙の年齢と比較して地球が若いことを踏まえると、地球より前にどこか他の惑星で生命が生まれ、別の太陽系に影響を及ぼした可能性は高い、というわけだ。

むしろ、彼はこの問題の手強さを強調していたといっていい。


生命は、エントロピーと無秩序への流れを、少なくとも局所的に逆転させる能力、すなわち、情報を利用して、カオスから局所的な秩序をつくり、そのためにエネルギーを消費する能力である。

この三つのスキルにとって欠かせないのが、とくに三種類の分子、すなわち情報を保存するためのDNA、秩序をつくるためのタンパク質、そしてエネルギー交換の媒体としてのATPである。


これらがどうして集まったのかはニワトリが先か卵が先かの問題である。

DNAはタンパク質がなければできないし、タンパク質はDNAなしにはできない。

エネルギーに関していえば、一個の細菌は一世代で体重の50倍のATP分子を消費する。

初期の生命はもっと浪費家だったに違いないが、エネルギーを効果的に利用したり保存したりするための今の分子機構はなかっただろう。

いったいどこで十分なATPを見つけたのか?


この三つのを適所に配置する役割を果たしたクレーンはRNAであろうと思われる。

RNAは今も細胞の中でいろいろと重要な役割を果たしている分子であり、DNAのように情報を保存することも、タンパク質がするように触媒として反応を促進することもできる。

さらに、RNAはATPと同じように、塩基とリン酸とリポース酸からできている。

したがって、RNA遺伝子を有するRNAの体からなる生き物がRNAの成分をエネルギー通貨として使う「RNAワールド」がかつてあった、というのが有力な説である。

問題は、このシステムもものすごく複雑で相互依存しているため、何もないところから生まれたとは想像し難いことだ。

たとえば、どうやって散逸を防いだのだろう?

どうやって細胞膜による囲いなしに、成分が離れ離れにならないようにして、エネルギーを集結させたのか?

チャールズ・ダーウィンが生命の起源として思い描いた「温かい水たまり」の中では、生命はたやすく溶解してしまっただろう。


でもあきらめてはいけない。

最近まで、RNAワールドの起源はおいそれと解けそうもない問題に思われたため、神秘論者に希望を与えていた。

ジョン・ホーガンは2011年の《サイエンティフィック・アメリカン》誌に、

「シーッ!創造説論者には内緒だけど、科学者は生命の起源について手掛かりがつかめていない」

と題した記事を書いた。


しかしそれからわずか数年後の現在、答えがぼんやりと見えて来ている。

生命の系統樹の根元にあるのは、ほかの生物のように炭水化物を燃やすのではなく、二酸化炭素をメタンまたは有機化合物の酢酸塩に変換することによって、自分の電池を効率的に充電する単純細胞であることが、DNA配列からわかるのだ。


40億年前の海は二酸化炭素で飽和していて、酸性の状態だった。

噴出孔からのアルカリ性の液体が酸性の海水と出会うところでは、噴出孔に形成される細孔の鉄とニッケルと硫黄でできた薄い壁の内外で、プロトンの急勾配があった。

その勾配には、現在の細胞内のものとよく似た規模の電位差である。

このような無機物でできた細孔の内側では、化学物質がエネルギー豊富な空間にはまり込み、そのエネルギーを利用してさらに複雑な分子ができあがった可能性がある。

それらの高分子がーーープロトン勾配によるエネルギーを使って偶然自己複製するようになってーーーしだいに適者生存パターンの影響を受けるようになる。

あとは、ダニエル・デネットの言葉を借りれば、アルゴリズムである。

要するに、生命の起源の創発説に手が届きそうなのだ。


すべてクレーン、スカイフックなし から抜粋


先ほど述べたように、生命の特徴は秩序をつくるためにエネルギーを得ることである。

これは文明の特質でもある。

人が建物を建て、装置をつくり、アイデアを生み出すのにエネルギーを使うのと同じように、遺伝子はタンパク質の構造を作り出すためにエネルギーを使う。

一個の細菌がどれだけ大きく成長できるかは、各遺伝子が利用できるエネルギーの量に制限される。

なぜなら、エネルギーは細胞膜の向こうにプロトンを汲み出す事によって膜のところで得られるが、細胞が大きくなればなるほど、その体積の割に表面積が小さくなるからだ。

裸眼で見えるくらいにまで大きく成長する細菌は、内部に巨大な空の液胞を抱えているのだけである。


ところが生命が誕生してから20億年ほどたったころ、複雑な内部構造を持つ巨大な細胞が現れはじめた。

それは真核生物と呼ばれるもので、私たちは(動物だけでなく植物、菌類、原虫も)その仲間である。


ニック・レーンは、真核生物の(革命的)進化は融合によって可能になったと主張する。

細菌の一団が古細胞(別種の微生物)の細部内部に住みつくようになったのだ。

現在、この細菌の子孫はミトコンドリアと呼ばれており、私たちが生きるのに必要なエネルギーを生み出している。

あなたが生きている限り刻々と、あなたの体内に何千兆というミトコンドリアが細胞膜の向こうに無数のプロトンをくみ出し、タンパク質、DNA、その他の高分子をつくり出すために必要な電気エネルギーを獲得している。


ミトコンドリアにもまだ独自の遺伝子があるが、数は少なく、私たちの場合は13個だ。

このゲノムの単純化がカギを握っていた。

そのおかげでミトコンドリアは、「私たちのゲノム」の仕事をサポートするための余剰エネルギーをはるかにたくさん生み出すことができるようになり、そのおかげで私たちは複雑な細胞、複雑な組織、そして複雑な体を持つことができている。


その結果、私たち真核生物では、遺伝子一個当たりが利用できるエネルギーが何万倍も多く、各遺伝子の生産性がはるかに大きくなっている。

そのため、私たちの細胞は大きくなっただけでなく、より複雑な構造にもなっている。

私たちはミトコンドリアにたくさんの内膜を取り入れ、そのあとその内膜の土台となるゲノムを単純化することによって、細菌細胞に課せられていた大きさの制約を克服したのである。


これと驚くほどの類似点が産業革命に見られる

農耕社会では、家族は自分たちが食べる食物をぎりぎりつくることはできるが、他人を養うためのものはほとんど残らない。

したがって、城や、ビロードのコートや、武具など、つくるのに余剰エネルギーが必要なものを持てる人はごくわずかだ。

牛、馬、風、水を利用すれば、わずかな余剰エネルギーは生まれるが、あまり多くない。

木は役に立たないーーー熱は生むが仕事はしない。

そのため、資本ーーー建造物と物資ーーーという点で、社会がどれだけつくり出せるかには恒久的な限界があった。


そのあと産業革命(による進化)が起こり、石炭のかたちでほぼ尽きることなく供給されるエネルギーが利用されるようになった。

炭鉱労働者は小作農と違って、自分たちが消費するよりはるかにたくさんのエネルギーを生み出す。

彼らは採掘すればするほど、採掘がうまくなる。

最初の蒸気機関によって熱と仕事の境界が破られたため、石炭のエネルギーが人の仕事を拡大できるようになった。


真核生物の(革命的)進化が遺伝子一個当たりのエネルギー量を飛躍的に増大させたのと同じように、産業革命(による進化)は労働者一人当たりのエネルギー量をいきなり飛躍的に増大させた。

その余剰エネルギーによって、私たちの生活を豊かにする住宅、機械、ソフトウェア、道具類ーーー資本ーーーが構築された(いまもされている)と、エネルギー経済に詳しいジョン・コンスタブルは論じている。

アメリカ人はナイジェリア人の10倍のエネルギーを消費しており、それはつまり10倍豊かであるといっているようなものだ。


真核生物による余剰エネルギー生成の進化も、産業化によるエネルギーの進化も、計画なしに突然生じた現象である。


だが話が脱線した。

ゲノムに戻ろう。

ゲノムはひどく複雑なデジタルコンピュータプログラムである。

ほんのささいなミスが、(人間の場合)二万個ある遺伝子の発現パターン、量、または配列を変化させるか、あるいは遺伝子をオンオフする何十万という制御配列の相互作用に影響し、結果的に悲惨な奇形を生んだり病を引き起こしたりする事になる。

たいていの人の場合、80年から90年というとてつもなく長い歳月、このコンピュータプログラムはほとんど問題を起こすことなくスムーズに作動する。


システムを動かし続けるために、あなたの体内で時々刻々と起こっているはずのことについて、考えてみよう。


あなたの体には、そのかなりの部分を占めている細菌は数に入れずに、数十兆個の細胞がある。

これらの細胞それぞれがつねに数千個の遺伝子を転写しているが、この手順には、数百個のタンパク質が特定のかたちで集まり、何百万とある塩基ペアそれぞれのために何十もの化学反応を触媒する必要がある。

そうして転写がひとつ行われるたびに、何千というアミノ酸がつながったタンパク質分子が一個生成される。

そのために投入されるリボソームとは、何十という動くパーツからできていて、立て続けに化学反応を触媒できるマシンだ。


タンパク質そのものは次に細胞の内外に散開して、反応を速め、物質を運び、シグナルを伝達し、構造を下支えする。

この非常に複雑な事象が、あなたの体内であなたを生かしておくために、1秒に何億何兆回と起こっていて、しかも間違うことはほとんどない。

まるで世界経済のミニチュア版だが、もっと複雑である。


そのようなコンピュータがそのようなプログラムを実行するには、プログラマがいるはずだという空想を追い払うのは難しい。

ヒトゲノム計画の初期の遺伝学者は、下位配列を指揮する「マスター遺伝子」についてうわさしていた。

しかしそのようなマスター遺伝子は存在せず、もちろん賢いプログラマなどいない。

すべては進化によって少しずつ出現したことであり、しかも民主的に運営されている。

各遺伝子は小さな役割を果たしているだけで、全体の計画を把握している遺伝子はない。

にもかかわらず、これらのさまざまな緻密な相互作用から、比類ない複雑さと秩序が自発的にデザインされる。

秩序は監督者が誰もいないところに出現しうるという、啓蒙運動の理想が妥当であることを示す、またとない好例だ。

配列が決定したゲノムは、管理なしでも秩序と複雑さがありうることをはっきりと証明している。


進化はなにも”生物”に限ったことではい。


宇宙、道徳、文化、経済、テクノロジー、


心、人格、教育、人口、リーダーシップ、


政府、宗教、通貨、インターネット、


そして未来。


遺伝子に関していうと


何かにデザインされたものなのか?


構造がわかればわかるほど良くできている。


自然にしちゃ不自然だとでも言わんばかりに。


すごい難しい、詩的な哲学みたいだ。


このあと、「誰のため?」になり


ドーキンスさんの利己的な遺伝子にも


たどり着くという。


めっちゃ長くなりそうなのと


理解できなくなってきた夜勤明け、


家族でくら寿司に行ってきて


一休みさせていただく


休日前なのでした。


 


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マット・リドレー氏の書からポジな進化に共感す [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

 



進化は万能である 人類・テクノロジー・宇宙の未来 (早川書房)

進化は万能である 人類・テクノロジー・宇宙の未来 (早川書房)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2016/09/30
  • メディア: Kindle版


長谷川眞理子先生が推薦されていたので


読んでみた。


エピローグ から抜粋


20世紀の物語には、語り方がふた通りある。

一連の戦争や革命、危機、伝染病、財政破綻について述べることもできる。

あるいは、地球上のほぼすべての人の生活の質が、ゆっくり、しかし確実に向上した事実を示すこともできる。

所得は増え、病気は打ち負かされ、寄生虫は一掃され、欠乏はなくなり、平和の接続時間はしだいに長くなり、寿命は延び、テクノロジーは進歩した。

私は後者の物語でまる一冊書き上げ、そうするのがなぜ独創的で意外に思えるのか、首を傾げた。

世界がかつてないほど、はるかに、はるかに良い場所になったことは、どこから見ても歴然としていた。


それにもかかわらず、新聞を読むと、私たちはこれまで災難から災難へとよろめき進んできて、避けようもないさらなる災難に満ちた未来に直面しているかのように思えてくる。

学校の歴史のカリキュラムを眺めると、過去の災難、そして未来の危機ばかりではないか。

楽観と悲観がこのように奇妙なかたちで背中合わせになっている状況に、私はどうしても納得がいかなかった。

悪いニュースを果てしなく提供する世界で、人々の暮らしは良くなる一方なのだ。


今ではそれがよく理解できた気がする。

そして、その理解を深めるのが、本書の目的の一部だった。


私の説明を、この上なく大胆で意外な形にまとめるとこうなる。

悪いニュースは、歴史に押し付けられた、人為的で、トップダウンで、意図的な物事にまつわるものだ。

良いニュースは、偶発的で、計画されておらず、創発的で、徐々に進化する物事にまつわるものだ。


うまくいかないのはたいてい、意図されたことだ。


訳者あとがき


2016年8月訳者を代表して


柴田裕之


から抜粋


本書『進化は万能である』は、『赤の女王』『ゲノムが語る23の物語』『徳の起源』『やわらかな遺伝子』といった、進化や遺伝、社会についての作品を手掛けてきたイギリスのベストセラー作家マット・リドレーが、前作『繁栄』に続いて昨年発表したThe Evolution of Everything: How New Ideas Energeの全訳だ。


『繁栄』では、「昔はよかった」というノスタルジーや、「それに引き換え今は」という嘆き、「先が思いやられる」という不安がじつは事実無根であるとし、その主張を裏付けるデータをたっぷり紹介し、「今は昔に比べて、けっして悪くはない。いや、これほど良い時代はかつてなかった」という結論を導いた。

合わせて、現在の繁栄に至るまで人類の進歩を促した要因として、交換(交易)と分業(専門化)を挙げた。

そして厭世(えんせい)論や悲観論に毒されがちな私たちに、共有や協力、信頼、自由、秩序が普遍化したボトムアップの民主的な世界という未来像を提示して、元気づけてくれた。


本書でも、そのボトムアップという概念と歴史的方向性に着目し、今度は進化という切り口から物事を眺め、今後も進歩が続くという明るい展望を与えてくれる。


ただし、「進化」といっても、自然淘汰による生物学的進化にとどまらない。

進化は私たちの周りのいたるところで起こっている、というのが著者の主張だ。


前作の核心である交換と分業による人類の進歩と繁栄もこの「進化」に含まれる。


この見方を取れば、ダーウィン説は「特殊進化理論」にすぎず、「一般進化理論」も存在することになる(ちなみに著者も認めているように、「特殊進化理論」という用語は著者独自のものではなく、イノベーション理論家のリチャード・ウェブの言葉だ)。


前作『繁栄』も生物学や進化、歴史、社会、経済など実にさまざまな観点に立っていたが、今回は原書のタイトルで、「The Evolution of Everything(万物の進化)」と謳うだけあって、取り上げる分野は宇宙、道徳、生物、遺伝子、文化、経済、テクノロジー、心、人格、教育、人口、リーダーシップ、政府、宗教、通貨、インターネットと、ますます多様になった。


なにしろ、著者に言わせれば「人間の文化に見られる事実上すべてのものの変化の仕方を、進化によって説明できる」からだ。

そして前作同様、当を得た事例を多数挙げて説得力ある主張を展開する。


著者の言葉を挑発的、過激と感じ、そこまで、ムキにならなくても、と思う方もいらっしゃるだろうし、全てに進化の観点を当てはめることには多少無理を見て取る方もいらっしゃるかもしれない。


それでも本書を著(あらわ)したのは、 「ニセ科学」が横行し、それに迎合する人々がいる現状への憤懣(ふんまん)に加えて、根拠のない思い込みを抱いたり、事実に反する主張を鵜呑みにしたりしがちな私たちの目を、事実に対して開きたいという強い願いがあればこそだろう。


それゆえ著者はいうのだ。

「みなさんがデザインという幻想を見透かして、その向こうにある創発的で、企画立案とは無縁で、否応もなく、美しい変化の過程を目にできるようになってもらいたいと願っている」と。


訳者の方が言うほど過激な感じは受けなかった。


ただ取り上げる事象などが、斬新な切り口というか


ジャンル分けというかで、それがしかも


じつは前から自分も思っていたんだよ、みたいな


質の高い着眼点というか、論考というか


寄り添い型の言説を展開されるのは


一言で言えば、文才の力のなせる技なのだろうか。


話替わって、この書のタイトルはちと疑問で


訳者さんのあとがきにある「万物の進化」では


いけなかったのだろうか?


この書にこのタイトルはなんかそぐわないような気も


するのだけど。


余談だけどリドレーさんの学説には


爽快であると同時にポジティブなのが


特徴なのですな。


コロナ・戦争を経ての新しい論文が


期待されてしまうのは


なかなか辛い仕事のようにも思えるのだけど


こちらも洗濯物が溜まって今洗濯機を回しており


明日朝早いので早く食事して仕事に備えようと


思っているところでございます。


 


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三木成夫先生を医学知識ゼロで初めて読んでみた [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


三木成夫 いのちの波 (STANDARD BOOKS)

三木成夫 いのちの波 (STANDARD BOOKS)

  • 作者: 成夫, 三木
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2019/12/13
  • メディア: 単行本

養老・近藤先生の対談にございましたが

三木先生の書籍を拝読してみた。


内蔵波動より


いのちの波 から抜粋


すべて生物現象には”波”がある。

それは、個々の動きを曲線で表すと、そこには多少にかかわらず波形が描き出されることを意味する。

山があれば谷があり、谷があれば山があり、というように両者はなだらかに移行しながら交替する。

これは、上り坂があれば下り坂がある、といいかえてもよい。

そこには、だから当然、一つの繰り返しがある。

山なら山の形が、少しずつ形を変えながら僅かに異なる周期でもって繰り返される。

ふつう繰り返しというと、同一物のそれが連想されるが、自然界にはそのようなものはない。

どんなに似通ったものにも、両者のあいだには必ず微妙な違い、ニュアンスがなければならない。

あの水面に立つ波模様を見ればいい。

ここではまず、生物現象に見られる各種の波についてふりかえってみる。


初めに、細胞を見よう。

たとえば神経細胞の活動状況を電気的に調べると、それが一個の場合は「細胞波」、集団の場合は「脳波」としてそれぞれ記録される。

もちろん、秒以下の周期でもって、前者は簡単な波形を、後者は複雑な波形を描き出す。


次に、臓器を見よう。

その平滑筋をもったものは収縮を繰り返す。

血管は目に見えぬ幅で律動する。

心臓は生きていることの唯一の証しのように不眠不休の拍動を続ける。

鰓呼吸も同様だ。

肺呼吸にない力強さがある。

この鰓の母体をなす腸管は蠕動(ぜんどう)する。

胃袋も膀胱も、そしてあの子宮も、すべてが波を打つ。


これは個体についてもいえるだろう。

その活動と休息の波はとりどりの周期でもって現れる。

それは睡眠と覚醒の波であったり、好調と不調の波であったり、さまざまだが、これが種の次元となると、もっと大規模だ。

魚の回游と鳥の渡り、これはもはや地球的な往復運動ではないか。

このほかに、種の興亡の波があり、体形の周期的な変化がある。

たとえば大和民族は数百年の周期で長頭と短頭を交替させるというが、それは頭蓋骨のゆるやかな搏動か。

しかもそれと歩調を合わせるかのように、その身長もまたゆるやかに伸び縮みするという。


万物流転ーーーリズムの本質


から抜粋


生を象徴する「波」ということばは、もちろん水波から来たものだが、それは波頭の巻き込みが物語るように「渦巻き」の連なりから説明され、分解していけば、ついには「螺旋(らせん)運動」に行き着くのであろう。

この運動は、古来、東西の人びとからひろく宇宙形成の原動力としてとらえられてきた。

ゲーテもその一人であるが、最晩年の論文「植物の螺旋的傾向」にもあるように、「天ノ命」として教えられた植物の生態からこの世界への道が拓かれたという。


植物の生長は垂直の方向に螺旋を描いておこなわれる。


それは、動物の毛流の描き出すゆるやかな渦がヒトの頭の天辺でにわかに急となり、つむじを巻いて終わるのと同じであろう。

こうして動物にも数多くの螺旋の形象が現れる。

植物と同じように、そのからだからのびる構造物はみな渦を巻くのである。


一方、両端で固定された内蔵の管も渦を巻く。

たとえば、口と肛門の両端で固定された腸管は、途中で左巻きと右巻きに捻転を起こし、また肝臓と鰓で固定された心臓の管も左右に捻れながら肥大していく。

こうした捻れは卵管や精菅にも起こり、しかもこれらの管のすべては、その壁がたがいに交織しながら螺旋状に走る繊維層でしっかり固められる。

腸管を裏返した樹木の各層も当然これと同じだ。

そしてこの行き着く極致の構造として、染色体の二重螺旋が待ち受けているのであろう。


江戸の俳人宝井其角(たからいきかく)は、交尾を終えたカマキリの雄が、そのまま雌にかじられていく光景に、稔りを終えた草が葉を枯らせていく光景をダブらせて、「蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな」の句を詠んでいる。


食から性への位相転換は、動物には親の死を、植物には葉の枯れをそれぞれにもたらす。

そこでは、だから、蟷螂の死が、あたかも枯れるがごとき尋常の姿として映し出される。

ただ位相が変わったそれだけだ。

しかもこれが、四季の流れに沿った永遠回帰の一コマとして描き出される。

「いのちの波」の本質をこれほど端的に示した世界はあまりないだろう。

(1983年57歳)


養老先生と同じで、偉人の言葉が随所・頻繁に


出てくるのはやはり相当な読書家であり、


それを咀嚼して考える人なのだろう。


そらそうだよ、東大の教授なんだから!


でも、まだ一冊だけなのでよくわからない。


肉声も聞いて、少し理解深めてみて。


さらに、かの吉本隆明先生の言葉


大変興味深く、さらに理解が深まったです。


顔の文学


2脱肛と魚のエラ――三木成夫の考え方


から


専門的に言うと解剖学者というのか、脳生理学者というのかわかりませんけれど、養老さんの先輩筋に当たる三木成夫さんという人がいまして、僕はものすごく偉い人だと思っています。もう数年前に亡くなりましたけれども、この人は顔というのをどういうふうに規定しているかというと、人間の体の発達史に即して人間の顔とは何なのかということを言おうとしているわけです。


つまり、機能の面からではなくて、動物から人間に発達してきたものとしての人間の顔とは何かということを三木さんは言っているわけです。


三木さんの言い方をしますと、人間の顔というのは形から考える考え方をすれば、人間の食道まで通っている腸管がちょうど内側から外側へめくれ返ったものだ。肛門で言えば脱こうというのがあるでしょう。


つまり、痔の病気に脱こうというのがある。この脱こうと同じで、要するに脱こうの上のほうに付いているのが人間の顔だというのが三木さんという人の考え方です。


腸管の延長線が頭のところに来て、それが開いてしまっているというのが人間の顔だと考えれば大変考えやすいし、発達史的に言いますとそのとおりで、そういうふうに考えると人間の顔の位置付けができると、三木成夫さんという人はそういう説き方をしています。


この説き方はとてもおもしろいので僕なんかの好きな説き方です。

つまりこれを発生史的な説き方といいます。人間が発達してきて、それで人間にまでなったという言い方が、あるいはもっと、人間の定めだったのだ。


定めだったんだけど、だんだん陸に上がってきて哺乳類になって、それで人間になったのだという発達した過程というのがあるわけです。

その過程から言いますと、つまり過程からいう考え方というのをこの人はよく非常に綿密に、非常にわかりやすく、しかも非常に一貫した考え方をとっていて、結構腸管が上のほうでめくれているというのが人間の顔だと考えれば妥当だし、一番よいと言っています。


もう一つ解剖学的に言うと、魚にえらというのがあるでしょう、人間の顔というのはえらと同じ、えらが発達したものだと考えると大変考えやすいと三木さんは説明しています。


顔ということを、あるいは表情をしている顔全般ということを、筋肉も含めて全般ということを、魚のえらが発達したものだと考えると考えやすいということを言っています。


今言いましたように、腸管の延長線が人間の顔の表情、顔ですから、顔の表情の内臓感覚というのがここにきているということになるわけです。


三木さんの説明の仕方をすると、口にとっての舌というのだけは内臓感覚だけではなくて、いわゆる感覚器官的なと言いますか、内臓ではなくて、外臓、外臓というのはおかしいですけれど、外とつながった、つまり感覚器官と同じような感覚が舌と唇には入っていて、そこが一番顔の中で敏感な箇所であるという説明をしています。

ですから、人間の舌というのは要するに喉の奥から出ている手だと考えるとものすごく考えやすいのだ、そういうふうに考えると非常にわかりやすいのだということを説いています。


僕が知っている範囲では、人間の顔についての二つの説き方というのは、人間の顔の機能と役割と解剖学的な性質について説かれている説き方というので、大別してその二つがあると思います。その二つで大体において、顔についての考え方は全部尽きていると言ってもいいのではないかなと思います。


内蔵が身体であり、顔に、


そして心にもなるのだって


自分だけの拡大解釈か。


しかし、なんか深い、深すぎる。


追求の余地がありすぎて夜勤明けには


大変良い意味でも辛さがあるのだけど


いったん夏休みをいただきましてまた研究しよう。


 


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村上龍さんの未来への慧眼を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


「超能力」から「能力」へ―宇宙的な未知の力を身近なソフトウェアに (講談社文庫)

「超能力」から「能力」へ―宇宙的な未知の力を身近なソフトウェアに (講談社文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1997/05/01
  • メディア: 文庫

過日、ブックオフにて単行本で

この書を見かけたのがきっかけで


文庫を図書館から借りてまいりました。


<序章 村上龍の特殊エネルギー体験>


リラクゼーションと集中のための「超能力」


から抜粋


私は戦後民主主義が健康状態を保つ時に生まれ育ち、両親が二人とも科学的な思考をする教師であったことから、超常現象や霊魂やUFO、そして宗教的な救済ということに拒否反応があった。

「超能力」など存在するわけがない、と固く信じているというわけではない。

直接的にも間接的にもそういうものを必要としていないというだけだ。


自分にとって大切なこと、つまり小説を書いたり映画を撮ったりすることに、「超能力」は関係がないし、欲しいとも思わないし、大切なのは考え抜く能力だと思ってきたし、今もそう思っている。

さまざまな神秘主義には興味があるが、それはあくまでも作品の題材としてである。


以前大いに騒がれた高塚光氏にもお会いしたことがあって、氏は私の目の前で車のキーをまるで紙細工のように丸めて見せてくれた。

工具を使っても曲がるとは思えない外車のキーを、手も触れずに曲げたのだ。

そういう超能力に関わることを小説や映画のテーマにすることはあるだろうが、私個人とは無関係だと今も思っている。


冴えている状態で思うこと


から抜粋


小説家に限らず、どんな職種の人にも「リラクゼーション」と「集中」が必要だと思う。

私達は、リラックスできていなくては集中できないし、集中できる対象があって初めてリラックスできる時間を見出すことができるからだ。


山岸さん本人は、対談を読んで貰うとわかるが、神がかったところなどまったくない普通のまともな人で、「超能力」を「能力」へと還元する努力を日々続けている。

その「能力」とは何か、理解や証明は今のところ不可能だと思う。

とんでもない期待を抱かせてしまう、という危険性も含んでいる。

だが私は確実な効果があると判断し、今回こうやって本にまとめ、紹介することにした。


超能力という言葉の持つ曖昧さを努力不足の言い訳に使いたがる人々は本書を読んでもムダである。

宗教的な救済をこの本に求めるのも筋が違う。

この本は、身心の痛みと傷を抱えながら充実と解放へと至る道を探している人々への小さな手助けになればという目的で編まれたものである。

1995年3月13日 NYにて 村上龍


ものすごい決心と覚悟だぞ、というのが


読み取れるのは自分だけだろうか。


ユングさんが『空飛ぶ円盤』を


書いた時のようなパワーを感じました


 


<第二章 対談「超能力」から「能力」へ>


村上龍 山岸隆


超能力、その不信から確信への道程(みちのり)


試みとしての手かざし から抜粋


▼村上

そういう能力、いわゆる超能力と呼ばれる能力を持った人って、他人にその能力を渡そうとは思わないじゃないですか、普通。

スプーンを曲げる人とか、空中浮遊する人とか、未来が見える人がいたとしても、それを皆ができるようにしようという考えは持ちませんよね。

自分の能力を伝えていこうなんて、まず、絶対に考えない。

山岸さんはそういうところが全然違うと思うんです。


▼山岸

僕はね、能力というのは、変わっていくというか、どんどん進歩していくものだと思うんです。

スプーンが曲がりましたと言っても、そこから先がない人、もしくは先を見ていない人の場合は、能力を人に渡す必要がないのかもしれませんね。

僕の場合は新しい技術を開発したとしても、人に渡してしまって構わないんです。

渡せばまた新しいものができるし。


▼村上

それは、山岸さんの中に能力や情報というものを伝えたい、という欲求があるんじゃないですか。


▼山岸

ありますよ、それは。


▼村上

それは、非常に健康的な欲求ですよね。


▼山岸

それに自分だけで持っていると、ストレスが溜まるでしょう。

何かを求められたとしても自分がそれをやらなければならない。

自分だけしかできないんですから。

たとえば、病気の人が来たとしても、僕しかできないとなると……。


▼村上

面倒臭いときもあるでしょうね。


▼山岸

面倒臭い(笑)。

能力をあげるから自分で治しなさいよ、となってくる。


▼村上

誰かに何かを伝えたいという欲求は、動物と人間との違いのひとつだと思うんです。

イルカとか蜜蜂とかにも伝達はあるんですが、新しい情報を確実に伝えたいというのとは違いますよね。

なぜ、僕が小説を書くかというと、結局は伝えたい欲求があるわけですね。

山岸さんの中にそういう伝えたいという欲求が最初からおありになったということ自体が、超能力の枠を超えて”能力”へと進んだ始まりだった気がするんです。

最初は、今はやっている手かざしのようなこともおやりになられたんですか。


▼山岸

やりました。

僕自身は手かざしというもの自体を知らなかったんですが、試しにしてみようということになって、実験してみたんです。

やってみて、確かに影響があることが分かって、それからイエス・オア・ノーとか、答えを導き出すとか、いろいろなことを始めたんです。


▼村上

何かの質問に対してイエス・オア・ノーを答えるとしても、未来が見えるというわけではないんですよね。


▼山岸

未来はないんですよ(笑)。


▼村上

存在していないんですか。


▼山岸

存在してないんだろうと思うんです。

未来が存在している、それが確定しているのであれば、現在はいらないと思うんですよ。


▼村上

予知能力みたいに未来がイメージとして見える人は、絶対に気がおかしくなると思いますね。

僕もそういう能力を別に欲しいとも思わないし。


▼山岸

もし、自分の未来が見えてしまって、大金持ちになって、昔のアラブの王様みたいな生活をするというのが分かったら、もう努力する必要はないわけですからね。

決まっているんですから。

でも、そんなのつまらないじゃないですか。


▼村上

僕も、決まった未来というのはないと思うんですよ。


▼山岸

情報の扱い方のような部分で、現在はこんな状況であるから将来はこんな状態になるだろう、というようなことはいえると思います。

順列組み合わせじゃないけれどずっと計算して、10年後はだいたいこんなことになるだろうということは、コンピュータ予測みたいにして有り得るだろうと思いますけれど。


▼村上

シミュレーションみたいなものですね。


未来について分かってたら


それは未来じゃなくて過去だろう、


と言ってたのは


池田清彦先生の言葉でした。


同質のものではないかもしれないけれど


似ているなと。


<超能力は人に伝えてこそ価値がある>


から抜粋


▼山岸

ずっと昔の日本では、お坊さんが非常にもてはやされていた。

なぜかというと、彼らはいってみれば超能力者みたいなものだったんです。

人は癒せるし、いろいろな判断はできるし、そういう特殊な能力を持っていたから、日本に仏教として受け入れられたわけですね。

それなりの価値があったわけです。

ところが、だんだんそういうものが忘れられてしまった。

その頃に唐から鑑真和上がやって来たんです。

二回渡航に失敗して、失明しながら3回目にやっと日本に着いたわけですが、なぜ、わざわざそんなにしてまで来なければならなかったかというのが非常に不思議だったんです。

当時の日本には、お坊さんが大勢いたんですから。


で、東大寺で古い文献を調べてもらったことがあるんです。

狭川普門(さがわふもん)さんというお坊さんが調べたところ、昔は皆、能力を持っていて、なかでも鑑真和上というのは自分の能力を人に伝えることができる人だったということが分かったんです。

だからわざわざ彼を呼んだんですね。

唐へ行って能力を貰ってくることはできるけれど、それを人に伝えられる人がいなかった。

能力を他の人に渡すことのできる優秀なお坊さんが必要だったんです。

東大寺にきた鑑真は戒壇院(かいだんいん)というところで能力を授けていたんです。

失明してもそれはできたんですね。

お坊さんたちは修行をして、体力や精神力、そして人格を鍛え上げますよね。

そうした修行が終わって、もうお坊さんになってよろしいという儀式があって、そのときに鑑真和上から特殊な能力をいただく、ということだったんだそうです。


▼村上

それは山岸さんのやり方と似ているかもしれませんね。


▼山岸

そうですね。けれど、今は現代だし、僕はしゃべるのが下手だし…。


▼村上

好きじゃないということでしょう(笑)。


▼山岸

そうです、面倒臭いんです(笑)。

いろいろと説明しても説明し切れるものではないし、いろいろな人にこの能力を持って使ってもらったら、どういうものかわかるし。

それに、僕一人がどんなに頑張ったって、一生の間にできることなんて高が知れてますよね。


鑑真和上のエピソード、やっぱりな、と思った。


手塚治虫先生の『ブッダ』にも


釈迦はなんらかの超能力があった的なのが


書いてあったのを思い出した。


それは手塚先生の創作とはとても思えなかった。


<文庫版あとがき>から抜粋


「癒し」が相変わらずブームだ。

どうすれば、人は受けた心の傷から回復できるか、多くの専門家がそれについて発言する。


「癒し」の問題については、二つの視点が欠けているようなきがしてならない。


一つは、国家的な、根本的な価値観の喪失が明らかになった、ということである。

日本という国は、理念や価値観を持っていないことがはっきりしてしまった。

誤解のないように言っておきたいが、それは過去には存在して現在消滅してしまったわけではない。

昔は貧乏だったし、戦争とかバカなことに忙しくて、単に曖昧にごまかしが聞いていただけである。

全体としての理念がないところで、個人的に生きていく価値観を勝ち取るのは簡単ではない。

たとえば父親は、働く意義を見いだせない中で、どうやって家庭の尊敬を得ればいいのだろうか。


もう一つは、からだと心の問題を、純粋にフィジカルに捉えるということだ。

「病は気から、だから、元気だと思えば脳内代謝も活発になりますよ」

というような意見に代表される、一種の精神論だけがもてはやされているような気がする。


山岸さんが考える、一種の超能力を使って、私たちの脳細胞や筋肉にピンポイントでエネルギーを「補充」しようというコンセプトは、従来のこの国には欠けていた視点を含んでいると思う。


それは、非科学的なエネルギーを科学的な方法論の中に捉えるという現実的な努力であり、また、国家的な価値観より自分のからだの潜在的な自然治癒力を信じるという個としての肉体性の見直しである。

そういう考え方はこの国では人気がない。

この国の人々はどういうわけか、「苦行」を好む。


パーフェクトハーモニー(なんと楽天的で、天真爛漫なネーミングだろう)は、「苦行」の場でも、「盲信」の場でもない。

太古の昔には人類すべてが無意識のうちに持っていたはずのエネルギーを、意識的に、しかも楽しみながらもう一度手に入れようという、科学的な試みである。


ただし人生のすべてが一瞬に好転したり、突然神の光に包まれたりするわけではないので、誤解のないように。

何か偉大なるものを信じよ、と山岸さんは言っているわけでもない。

あなた自身の能力を、もう少しでいいから信じてあげてはどうですか、と問いかけているのだ。

その問いかけに答えるのは、あなた自身である。

村上龍


まるでカンブリア宮殿の編集後記さながら。


スピリチュアルというのとは少し趣きの異なる


ここでいうところの「能力」。


この頃からまだまだ進展しているのだろうなと。


ひとまず継続を確認しましたゆえ


また縁があれば探究してみたいテーマだと


正直まだよく判断つかないところ多いけど


暑すぎる休日は読書に限ると思った


関東甲信越からでございました。


余談だけれど村上龍さんの興味深い動画が


あったのでメモでございます。


 


▼利根川博士との対話


日本とアメリカ教育の違い、親の仕事


前編後編(2000年ごろ)


 


▼日本の女子高生の価値観は何がベースになっているか


近代化、価値観について


徹子の部屋出演時(1997年ごろ)


 


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