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柳澤桂子先生の好きなもの [’23年以前の”新旧の価値観”]


柳澤桂子―生命科学者からのおくりもの KAWADE夢ムック

柳澤桂子―生命科学者からのおくりもの KAWADE夢ムック

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2001/01/30
  • メディア: ムック

わたしの好きなもの My Favorite things から

▼本

ヘルマン・ヘッセシッダールタ

志賀直哉城の岬にて

小林秀雄の作品

田辺聖子の作品


▼音楽

ヴェルディーシモン・ボッカネグラ」「椿姫」「海賊

プッチーニラ・ボエーム

ベルリーニノルマ

ワグナートリスタンとイゾルデ

ベートーヴェン弦楽四重奏曲

ブラームス弦楽四重奏曲


▼好きな演奏家

カルロ・マリア・ジュリアーニ

カーム・ベーム

グレン・グールドブラームス・間奏曲

パブロ・カザルス鳥の歌

ディヌ・リパッティショパン・ピアノコンチェルト第一番

ジャクリーヌ・デュ・プレ 

ダニエル・バレンボイム 

イツァーク・パールマン 

ピンカス・ズッカーマン 

ズビン・メータシューベルト・鱒


▼好きな声楽家

ヘルマン・プライシューベルト・冬の旅

ホセ・カレーラストスティ・歌曲

モンセラート・カヴァリエノルマ

キャサリン・フェリアバッハ・マタイ受難曲


▼好きな画家

シャガール

田淵俊夫


▼好きな花

ばらとるこききょうあじさい


▼食べ物

なるべく手を加えていない生もの、魚のあら、和菓子、洋菓子


美しいものはなんでも好きです


自分とほとんど被るところがなくて、


同じと思ったのは今のところ


”小林秀雄”と”あじさい”だけだった。


音楽に関していうならロックという


ジャンルはお好きではないのだろうか。


少し世代が上だったのだろうか


60年代の黄金時代は。


自分が世代が下なのに60年代にハマって


しまったのがおかしいのだろうけど。


あらためて時間のあるときに


検証させてください。


どうかよろしくお願いいたします。


かしこ


 


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2冊の書から”軍産学の科学と近代日本”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか

科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか

  • 作者: 池内 了
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2019/05/25
  • メディア: 単行本

のっけから余談で恐縮ですが、


”みすず書房”って装丁や書体が


とても味わい深いし内容も興味深い。


社内外に目利きが全部じゃないだろうけど


多くいるような気がしていて、


骨太な出版社だと感じていてリスペクトしています。


”筑摩書房”や”講談社学術文庫””や岩波文庫”も


一目置かせていただいております。


序章 新しい科学者倫理の構築のために


から抜粋


これまで多くの科学倫理に関する本が書かれてきたが、本書はおそらく「科学者は軍事研究に手を染めるべきではない」と主張する最初の本になると思っている。

言い換えれば、これまでの科学倫理に関する書物は、科学研究における不正行為や研究費の不正使用がいかに倫理にもとるかについて述べることを主眼とし、そのために従うべき倫理的な科学研究とは何かを説くものばかりであった。


科学に多くの資金が投じられるようになるにつれ、必然的に不正な手段で利益を得ようとする科学者が多くなり、それを防止するために、科学者に対し科学倫理を説くことが求められたためである。


それはそれで必要なことだが、このような科学倫理の書だけでは、決定的に欠けているテーマがあった。

科学者及び技術者が軍事研究に手を染め、戦争で人間が効率的に殺戮するための手段の開発研究に深入りしている問題で、これこそ問われるべき科学者・技術者の倫理問題と言えるはずである。


アメリカの場合 から抜粋


アメリカの軍事予算は60兆円以上で国家予算の20%以上を占め、日本の軍事予算の10倍以上である。

軍事開発の研究費は全分野の研究予算の半分以上を占めていて、8兆円を超している。

いずれも世界一である。


これからもわかるように、アメリカはいわば軍事国家であり、科学者が軍事研究することを当たり前とするお国柄なのである。


アメリカは技術者の倫理(工学倫理)が強く叫ばれ、技術者の社会的地位を高めるという意図もあって、厳しい「技術士資格」が確立している。

ところが、技術士資格試験においては技術の軍事利用に関する倫理的考察や行動規範は考慮の外で、軍事開発は重要な技術の応用先の一つとか考えられていない。


実際、アイゼンハウワー大統領が離任演説で警告したように、アメリカにおいては「莫大な軍備と巨大な軍需産業との結びつき、つまり軍産複合体が大きな影響力を行使することで自由や民主主義が危険に曝される」ことが問題とされてきた。


そのような状況が続く中、最近は「軍産学複合体」と呼ばれるようになっている。


「軍と産」の結びつきに「学」を引き込むことが不可欠となってきたのである。


実際、ミサイルや核兵器の開発のみならず、AIを用いた無人戦闘機や殺人ロボットなどの開発、サイバーセキュリティと呼ばれるコンピューター管理、対テロ戦争を想定した生物・化学兵器対策、電磁パルス弾のような新兵器の検討など、進展する技術を応用した最先端の武器開発を行うために、「学」を動員することが当然視されるようになってきている。


日本の場合 から抜粋


日本においても科学(者)倫理に関わる本において、軍事研究に携わることは科学(者)倫理に反すると明確に書いているものはまだなく、おそらく当分現れないだろう。

その理由として日本には誇るべき特殊事情があった。

日本の大学を始めとする「学」セクターは、戦争前及び戦争中、国家や軍の意向ばかりを尊重して、世界の平和や人々の幸福のための学問という原点を失っていた。

敗戦後、そのような科学者集団であったことを反省して、日本学術会議は1950年に「戦争を目的とする研究には絶対従わない」という声明を決議した。


これは日本国憲法の平和主義の精神に則った決意表明で、軍事研究を当然とする世界においては稀有なことであった。

おそらく、1947年に軍を持たないことを決議して、今なお軍事予算ゼロを貫いているコスタリカを除いて、こんな国はなかっただろう。


もう一つの理由は、科学者の軍事研究の問題には、日本の安全保障について意見が分かれることが多く、これがせいかいだとなかなか一意的に示すことができないことがあった。

日本国憲法第9条で規定されている「戦争の放棄」と「戦力不保持」を堅持して、一切の武器を持たずに平和外交に徹すべきとする立場もあれば、自衛権まで放棄しているわけではないから自衛のための戦力保持と自衛戦争は可能とする立場もある。


前者の立場を立つと、たとえ自衛のためであっても科学者の軍事研究に反対することになるが、後者の立場では自衛のための軍事研究は当然許され、むしろ激励すべきことになる。

とすると、科学者の軍事研究への参加については自分の立場を明確にしないと意見が述べられず、そこまで踏み込んで倫理を説く人間が現れなかったのである。


科学の二面生 から抜粋


本書で問題とするのは、いま各国で競われている科学技術の軍事利用である。

すべての科学技術の成果は、人々の生活を豊かにし環境条件を向上させるため(民生利用)にも、戦争で敵を殺傷し戦術・戦略を効率的にするため(軍事利用)にも使うことができる。

これをデュアルユース(軍民両用技術)という。

複数の電波源からの電波を受信することによって、潜水艦やミサイルや軍の部隊の現在位置を正確に定めるGPS(軍事利用)が、自動車に搭載されて目的地に向かう自らの位置を確認するためのカーナビ(民生利用)に使われるのが、一例である。

GPSは軍事利用が先で、その後に民生利用された。


インターネットがまさに”デュアルユース”だよなと。


”ドローン”や”AI”もそうか。


”センサー”や”ロボティクス”も含まってしまうのか。


あとがき から抜粋


本書は科学者になることを目指す若者に読んで欲しいのだが、読書習慣をあまり持たない若者である場合には、周辺の人々(肉親や友人や大学の教員や事務官・技官など)が本書を読んで、科学者と軍事研究の関わりについて知るとともに、若者と対話するための材料としてもらえれば幸いである。


近代日本を考察するときって


世界を見ないとならない。


特にアメリカ抜きには語れない。



決定版 日本という国 (よりみちパン! セ)

決定版 日本という国 (よりみちパン! セ)

  • 作者: 小熊英二
  • 出版社/メーカー: 新曜社
  • 発売日: 2018/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


まえがき から


 


「日本という国」。

この本の読者は、ほとんどがこの「日本の国」に住んでいる人(日本国籍ではない人も含めて)だと思う。

この国のこと、そのしくみや歴史を知り、いまの状態がどうやってできてきたかを理解する。

そういうことはめんどうくさいけれど、必要なことだ。

なんといっても、私たちはこの国に生きていて、この国が進む方向によって、自分の運命も左右されかねないのだから。


あとがき から抜粋


この本が最初に出版されたのは、2006年でした。


日本社会についていえば、「格差社会」という言葉が流行語大賞にあがったのが、ちょうど2006年でした。

それから世界金融危機がおこり、政権交代があり、震災と原発事故がおきました。

2006年には、スマートフォンも発売されておらず、YouTubeもできたばかりでした。


また日本の国際的位置も、変わりました。

たとえばドルで換算した中国のGDPは、2000年には日本の約4分の1でした。

それが2010年には日本を抜き、2017年には日本の3倍近くなりました。


しかし、日本の社会や国際的位置は大きく変わったけれど、変わっていないことがあります。

それはこの本であつかった、明治からの近代化のあり方と、アメリカとの関係です。

明治からの近代化のあり方は、今でも日本に影響を残しています。

西洋に追いつき、追いこせ、植民地にされないために、強く豊かにならなくてはいけない。

一言でいえば、これが日本の近代化の動機だったといってもよいでしょう。


この近代化のあり方は、植民地化を逃れ、周辺地域を勢力圏に収めたあと、戦争に負けることでいったん挫折しました。

しかしその後、復興と経済成長によって、1980年代には経済大国とよばれるに至りました。

しかし、経済大国になったあと、日本は目標を失ってしまったようでした。


強く豊かになったあと、どうするのかまでは考えていなかった。

そんなふうに、他国からは見られていたようです。


考えてみれば、軍事的な強さも、経済的な力も、それじたいは目標になりえません。

軍事力や経済力を使って何をするのかのほうが問題なのです。

それを考える余裕がなかったのが、明治以降の日本だったといえるかもしれません。


戦後の日本という国は、いろいろな意味で、アメリカとの関係の中で形づくられてきました。

象徴的なのが、日本国憲法と日米安保条約です。

この二つは、アメリカの存在と大きく関係しています。

そして、この二つが奇妙にからみあったかたちで、日本のあり方を決めています。


敗戦直後の状態から、高度成長やバブル経済などを経て、日本社会が変化していっても、この二つは変わりませんでした。

冷戦が終わり、他のアジア諸国が経済的に成長して、世界が大きく様変わりしても、この二つは変わりませんでした。


私としては、この本の最後に書いたように、アジア諸国と新しい関係をつくり、そしてアメリカとも新しい関係をつくれば、日本経済にかげりが出て、中国が台頭すると、ますますアメリカとの関係をかつての形に保とうと望んでいる人も多いようにさえ見えます。

それはまた、「もういちど強く豊かになろう」という、かつての目標にこだわり続けていることとも重なっているようです。

つまり、明治からの近代化のあり方と、戦後からのアメリカとの関係は、今でも日本に大きく影響しているといえるでしょう。


「もういちど強く豊かになろう」というのは


小泉さんや亡くなられた安倍さんが


思いつくのだけど今でも継承されている気が。


「豊か」にはなってほしいが、


「強く」なる必要はないと思うし


さらに「豊か」というのは


”経済”とイコールではないと感じるのは


自分だけだろうか。


必要なものを必要なだけっていう


世の流れと逆行していると思わざるを得ない。


今すぐに変えるってのは難儀な事なのだろうが


まずは疑問を持つ人が増えてほしいなと


科学やアメリカ、日本を考えてたら


なんかシリアスになってしまい、


プライベートなことで複数の友人から


暗いメールが続き惨憺たる有様になりつつも


今夜は仕事なので準備をしっかりして


挑みたいと殊勝に考えている


秋の早朝読書でした。


 


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平川克美さんの書から”有縁と無縁”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]

21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学


21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学

  • 作者: 平川克美
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2018/01/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 


久しぶりに平川さんの書を拝読。


思えば、昨今の読書欲のチャクラが


全開なのは平川さんから始まったのだ


ということを思い出した。


まえがき から抜粋


一年前に、会社を一つ畳んだ。

そのために、会社が借り受けていた銀行やら政策金融公庫からの借金を一括返済せねばならず、家を売り、定期預金を解約し、借り入れ全額を返済し、結局、全財産を失った。


同じころ、肺がんの宣告を受け、入院、手術で、右肺の三分の一を失った。

もう失うものがあまり残っていない。

まあ、とにかく還暦をすぎて何年も経て、そんな状態に陥ったわけである。


そのことに対して、特段の後悔も、もちろん満足もない。


人間というものは、こうやって、すこしずつ持てるものを失っていって、最後には空身であっち側へ行くというのが理想なのかもしれないとも思う。

ひとの生涯というものは、意思だけではどうにもならない。


自分で意識して生活を変えたわけでもないのだが、金が無くなり、体力がなくなれば自然と生活も変化する。

で、どのように変化したのかといえば、1日の変化が少なくなるように、変化したのである。

これを、流動性の喪失というらしい。


1 生きるための負債ーーー人間関係の基本モデル


貨幣とは、非同期的交換のための道具である


から抜粋


現代のほとんどの等価交換は、貨幣と商品の交換という形式をとっています。

しかし、もし、交換物が使用価値という尺度によって計算されるのならば、この交換はどんなに大雑把に見ても等価交換とはいえないでしょう。


一方は何かの役に立つ商品であり、一方は何の役にも立たないただの紙切れなのですから。

では、いったい何が交換されたのでしょうか。


交換が成立するのは、貨幣というものは、それを受け取ったときに交換した商品と同じ価値のものを、いつでも、どこの市場でも買い戻すことができることが約束されているからです(あるいはそう信じられている)。


ですから、この交換(貨幣と商品の交換)で行われたことは、本来の交換(等価物の交換)の延期の契約だというべきなのです。

いつまで延期するかは、貨幣を受け取った側の裁量で決まります。


すこし別の譬(たと)えでお話しします。


インターネットの草創期に、わたしは、インターネット評論家のような仕事をしていたことがあるのです。

(今のわたしからは、想像もできないでしょうが、モザイクというインターネットブラウザが出現したころ、シリコンバレーのエンジニアたちと頻繁に交流することがありました。会議を開いたり、勉強会をしたり、インターネットの未来について論じ合う機会がありました。それで、講演も頼まれてやったのです。乏しい知識とその場限りのはったりでね)。


もう、場所も、相手の名前も忘れてしまったのですが、あるカンファレンスで、インターネットエンジニアがわたしに言った言葉だけは今でも、覚えています。


「ヒラカワ、インターネットがすごいのは、ブラウザじゃないんだ。メールなんだよ。これがどんなにすごいことかお前にわかるか」


そのときに彼が言った言葉がasyuchronous communicationというものでした。

翻訳すると、非同期コミュニケーションです。


わたしは何がすごいのかよくわかりませんでした。

かれの自慢気な態度もちょっと気に入らなくて、そんなに頻繁にお手紙をやりとりしてどうするんだよ、ヤギさんじゃあるまいし、という気持ちだったのです。


当初は、わたしも、まあ、電子メールも、これは電子的に置き換えただけじゃないかと考えていたのです。


ところが、かれは、これはそうした手紙とはまったく違うものだというのです。

インターネットがない時代には、同じ場所で対面して話をするか、郵便ポストの前で何日も待たなくてはならなかったけれど、電子メールでは、いつでも、どこでも、読みたいときに相手の手紙を読むことができるし、読みたくなければゴミ箱に捨てることもできる。


この電子メールの出現によって、非同期的なコミュニケーションが可能になったのだということなのです。

コミュニケーションの実行日を自由にずらすことができる


もうお分かりかもしれませんが、貨幣というものの大きな特徴も、この非同期性にあるということが言いたいのです。

貨幣交換とは、非同期的交換であり、貨幣の出現によって、同じ場所に交換物を持参して、対面で相手の品物を吟味しながら交換するなんていう面倒がなくなったのです。


電子メールの出現によって、社会のコミュニケーションが爆発的に増加したのと同じように、貨幣の出現によって、社会のモノの交換は爆発的に増加することになりました。

非同期的交換を可能にしたことこそ、貨幣というものの大きな功績であり、ある場合には害悪でもあるのです。


もっともやっかいなのは、貨幣以前は、交換物は腐ったり、劣化したりしたので、賞味期限がありました

それらの交換物は、消費した時点でなくなりますし、保存には限りがあります。

しかし、貨幣のもうひとつのNatureは、それが腐らず、劣化しないというところにあります。

それゆえ、ひとは、貨幣を安心して保存するということを覚えることになるのです。


すなわち、これが財の退蔵であり、資本蓄積のはじまりだったのです。


貨幣、競争社会、責任について、とか


政府、政治、モラルについて、とか


社長というかドンには2タイプいて、


①自分の金儲けのことしか考えてない派と


②まとめて面倒みよう派がいて、これを


”①合理的選択論者”と”②贈与交換論者”とされ


後者は失敗する典型だという様々な対比等々


興味深すぎて、矢継ぎ早に貼りすぎて


ポストイットがなくなってしまった。


Twitterや株式会社の公共性や、


「無縁」と「有縁」からの


ディザースター・キャピタリズム(災害便乗型資本主義)、


日本は世界一100年以上続く企業が存在するが


非上場で顧客第一の経営者の哲学があるところで


株主利益などに左右されず信頼蓄積型だから等


一回読んで済ますにはもったいなさすぎる。


エスキモーの文化が”交換”ではなく


”贈与”が常識という生活習慣や


世俗にまみれてないご友人の画家さんとの


世間意識のズレっぷりのエピソード類。


それを噛み砕く豊富な読書遍歴からの分析力。


元翻訳会社社長であられたから


グローバル感覚も注入されつつ


大学講師でもあり、内田樹先生テイストもあり


難解なことでも平易に読ませる筆(談話)力。


でも、すみません”楕円幻想論”のくだりが


自分にはまだよくわかりませんで…。


初版は2018年ということなので


コロナ禍をくぐっての平川さんの


社会論というか言説を読みたいと思うのだが


そこにはご興味がすでになさそうな


昨今の新刊状況のご様子のようで。


それはそれで、読んでみたいのだけど


部屋中に山積みになっている読んでいない


大量の本たちに顔向けできないため


そちらを優先したいと思っている


秋も深まる夜なのでした。


 


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養老先生関連の2冊から”母親”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


からだの見方 (ちくま文庫)

からだの見方 (ちくま文庫)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/12/01
  • メディア: 文庫


解説から本文を考察できることもあり


よく最初に読んでしまいます。


場合によっては、それだけ読んで本文は


拾い読みで終えてしまったり。


内田春菊さんはこの頃、『ファザーファッカー』で


名を馳せていた頃で。自分もその頃若かったから


かなり衝撃的な内容だったと記憶してます。


インザネームオブ解説 内田春菊 から抜粋


まずお名前が覚えやすいのが良い。

育ち盛りの若者に限らず、あの有名居酒屋チェーンののれんをくぐったことがある人は少なくないはずだ。

それからあの髪の毛の多さ。

今でもあんなに多いんだから思春期にはさぞかし髪型に困られたことと想像される。

あれだけ頭をつかってる人があんなに豊かだと、薄くなっているほうは立場がない。

さぞかしねたまれていることだろう。


そしてあの芸術とも言えるあの早口。

人と違う時間軸で生きているのかもしれないと思わせるほどだ。

養老さんの脳こそが他の解剖学者に狙われているに違いない。

あのローテンションの早口のまま真顔で冗談をおっしゃるので、初対面の人間はほとんど笑うきっかけを逃す(と思う)。

これから養老さんと対談する予定のある人は<笑>と書いたプラカードを持っていって、これは冗談だと気づいたら急いで出すといいかもしれない。


最近、マザコンもいいものだと思うようになった。

漫画の業界では言えば、あの時代に医師の資格を持ちながら漫画家を職業に選ぶことの出来た手塚治虫さんを一番支えたのはお母様ではなかったか。

養老さんのお母様は開業医でいらっしゃるそうだ。


2度目の結婚で生まれた養老さんは、他のご兄弟とは一人だけお父様が違うという。

それも、養老さんを残してお亡くなりになったと聞く。


養老さんはご自分が子供のころぜんそく持ちだったことを「まあ育て方が悪いんですね」とおっしゃっていたが、息子を一人残して夫に死なれたらただでさえ可愛い末っ子を冷静に育てるのはかなり難しい。


養老さんは一見ぶあいそだが、しばらくするとチャーミングなのがよくわかる。


お母様がどんなに養老さんを愛したかがオーラが出ているのだ。

私は手塚治虫さんとはついにお話しする機会がなかったが、それに近い空気を出しておられたのではないかという気がする。


養老さんと対談したことを誰かれかまわず自慢していたら、頼みもしないのに養老さんのお母様の著書を送ってくれた人がいた。

まだお母様の書かれた部分は読んでいないが、そこに寄せた養老さんの文章を読んで転げ回ってしまった。

これこそマザコンを克服した息子の書いた文章だ。

子どもを産むと人生には面白いことが増える。


子どもを愛情持って育てるとってことですよね。


だとすると同意だし、パパの立場でも


何かのレベルみたいなのが上がる気がするので


面白いことは確かでございます。


正確にはものの見方が”深く”なる、か。


正確性を追求しなくても全然いいんですが。


そしてまたもや勝手な推測だが養老さんは恋に弱いと思う。

回りから見ても絶対わからないだろうが、きっとしょっちゅう恋しているはずだ。

あのいつもの表情を変えないままで、たとえば大学で相手とすれ違うと高校生みたいにどきどきしているに違いない。


それから、ああなんでこんな気持ちになるんだ、これはいったい脳の中でどんなことが起こってこうなるのだと思いながら解剖したりしているのだ。

きっとそうだ。

でなければあんなに髪の毛が多いはずはない。


だから女性のみなさんは養老さんがどんなに冷静な顔で自分のかばんからプラスティネーションの贓物などを取り出しても、けして無理して「素晴らしいですね」などと言わず、きゃーっと叫んで養老さんに抱きつくのが礼儀だ。

みんながそうして養老さんを予定より長生きさせるべきだ。

私もそうする。


最後の件は言い得て妙な気がして


つまり、この頃の養老先生は


子どもみたいだということだろう。


今はご病気もされ、違うかもしれないが。


三島由紀夫さんも学生さんから、小説家なのに


ボディビルやヤクザ役で映画出演等を揶揄され


「なぜ嫌われるようなことを率先してやるんだ」


と聞かれて


「あえて嫌われることをやる、それがダンディズム」


と笑いながら答えている音声がございましたが


養老先生が臓物をとり出す心境はそれに


近いのではなかろうか。


 


内田春菊さんに話もどし、米原万里さんが


養老先生の印象を語ってらしたのを思い出した


それと、笑い転げた初版のまえがきは


自分はほとんど覚えてないのだけど


昨日のフィールドワーク(古書店巡り)で


購入した文庫本には養老先生の解説が


ございました。



ひとりでは生きられない ある女医の95年 (集英社文庫)

ひとりでは生きられない ある女医の95年 (集英社文庫)

  • 作者: 養老 静江
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: 文庫

解説 養老孟司 から抜粋


この本が最初に出版されたとき、母は存命中だった。

単行本初版の「まえがき」に、「こういう文章は、母親が死んでから、書くものであろう」とのっけから書いてしまった。

20年前に母は死んだので、今後は解説を書けという。

余計なことを書かなきゃよかった


親のことは知っているようで、知らない。

子を知ること、親に如(し)かずというが、親を知ること、子に如かずとは聞かない。

だから客観的な解説など、できるはずがない。

以前、九州の叔父の家を訪ねたことがある。

「お前のお父さんとお母さんの恋文がミカン箱いっぱい残っているが、持っていくか」と言われた。

冗談じゃない。そのまま逃げかえってきた


亡くなって20年というと、ぼちぼち母親を客観化出来そうだが、そうはいかない。

なぜって、その人が亡くなると、考える機会も無くなるからである。

母の思い出は固定してしまって、断片的な光景がときどき出てくるけれども、意味がわからない。

まことに「去る者は日々に疎し」である。


要するに親は親であって、それはどうしようもない。

良いも悪いもないし、受け入れるしか仕方がない。

母親が私の人生に与えた影響は大きいが、だからといって、どうこういうこともない


思えば、変な親だったかもしれない。

明治生まれの女医だから、教育には熱心だった。

でも私に何か教えたこともない。

自分で教える暇がなかったのかもしれない。

小学校から家庭教師をつけられた。

でも学校の勉強ではない。

家庭教師をしてくれたのは、義兄の旧制高校の同級生で、東洋史の専門家だったから、『十八史略』の白文を読まされただけである。

小学生にそんなものを読ませやがって

漢文なら四書五経が普通だろうが


えっと。養老先生って元東大教授でしたよね。


ならずものじゃないですよね?


母の人生は母のもので、私はそのほんの一部にすぎない。

私が50歳を超えて、医学部の教授をしていても、「お前がいちばん心配だ」といっていた。

どこか、母親bの価値観に合わない生き方をしていたからであろう。

こちらは小さい頃からそういう言われ方に慣れているから、なんとも思わなかった。

「また言っている」と思っただけである。


ただ母が死ぬ前年に私がオーストラリアで虫を採るというテレビの番組に出たのを見て、

「子どもの頃と同じ顔をしていたから安心した」といった。

親というのは、そういうものらしい。

たしかに現役の間は、私も多少は無理をして生きていたのである。


お前が幸せなら、それでいいんだよ。

子どもに向かって本音でそれをいう母親だった

だから私が無理をしているのを見ると、イヤだったのであろう。

でもまあ、世間で生きていれば、多少の無理は仕方がない。

そういえば、つい最近、大学の同級生が死んだ。

最後の電話が「お前も無理をするなよ」だった。

父親の遺言も「十できるものなら、六か七にしておけ」だったと母親がいっていたのを思い出す。

やっぱり人生、無理はいけないんでしょうなあ


母親とはそういうものなのだろうね。


子ども時代の面影が消えてたら心配でしょう。


それを消し去るのが大人になると勘違い


しがちですからね、子供というのは。


母との関係性っていつまでも


釈迦の掌という構造ですな。


自分も母を亡くして早13年だけど


同じような気がするなあ、と。


この書自体は過日投稿したが本当に良書です。


しかしこの解説、最後の一文は明らかに不要です。


あれ、これ池田清彦先生にも同じことを


書いた記憶が


お二人はかなり似ているんでしょうなあ。


余談でかつ僭越で、これは自分で


いうべきことではないかもしれないが、


かくいう自分も、”同類”なのだろうなと、


偏差値はまるで似ていないのが残念至極な


残暑厳しい秋の休日、図書館へ行こうと


目論んでいるところです。


 


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偉人達の3冊から”眼の進化”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


脳の見方 (ちくま文庫)

脳の見方 (ちくま文庫)

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/09/20
  • メディア: Kindle版


 


II 解剖


眼を創る から抜粋


眼がどのようにして成立したかは、面倒な問題である。

『種の起源』の中の「自説の難点」という章で、ダーウィンは言う。

「さまざまな距離に焦点をあわせ、種々の量の光をはいるようにさせ、球面収差や色収差を補正する、あらゆる種類の無類の仕かけをもつ目が自然選択によってつくられたであろうと想像するのは、このうえなく不条理のことに思われる、ということを、私は素直に告白する」(八杉龍一訳、岩波文庫)


眼のように「極度に完成化し複雑化した器官」が「自然選択」によって、どのようにして完成するかを、ダーウィンは考えあぐねたらしい。

ダーウィンの考えは、微細な変異が長い間に選択されて、大きな変化を結果として生じるという、いわゆる漸進(ぜんしん)説である。

漸進説では、途中のいちいちの微細段階が、それぞれ有利でなくてはならない。


この説は、眼のような場合に、困ることが多い。

中途はんぱな完成度を示す眼が、進化の過程でなぜ有利だったか。

歪んだレンズが、しだいに完成度を高めて、歪みが減少してくることになるのだが、そもそもレンズの原基(もと)のようなものを、どうやって、ほぼ網膜に像を結ぶような位置に最初に持ってくるのか。

その後は、「自然選択」によって、位置を漸次(ぜんじ)修正すると考えるにしても、である。


三葉虫も立派なレンズを持つが、その中には、レンズの形が、デカルトおよびホイヘンスがそれぞれ設計した、収差なしのレンズと同じ形をしているものを含む。


実際、生物というのは、考えてやっているのか、ダーウィンのいうように、まったく無考えでやっているのか、私は知らないが、このように立派な、考えようによってはおかしなことをするのである。


こういうレンズであれば、次第に収差が無くなるように進化したというのも、考えられぬことではない。

実際に、顕微鏡でもレンズは次第に進化したからである。

しかし、それにしても、動物は、間違ったレンズを、進化の途中でいちいち確かめ、修正したのだろうか。


眼の進化でふつう忘れられているのは、光の役割である。

光が無くては、眼があっても仕方がない。

だから、眼の進化には、光がまず最大の役割を果たしたはずである。


細胞の水準では、光と受容体の関係は、はっきりしている。

同じように、光が無くてはどうしようもないものは、葉緑体である。

これは、ご存知のように、光合成を行う。

植物細胞に住みついているが、たいへん古い昔にはおそらく、独立の原核生物だったのではないか、と想定されている。

このくらいの小さなものであれば、光との直接交渉があり得ること、だれにでも理解できる。


光があることが、細胞の集合体であるとはいえ、眼の進化にも大きな役割を果たしたことは、間違いあるまい。

その意味では、光が眼を創ったのである。


養老先生の言説だと、なぜ眼は進化したかは


ダーウィンの説をとりつつ、


ダーウィン自身がお手上げとのことで


考察するに”光”が重要な役割を


というのは間違いないだろうと。



脳が考える脳―「想像力」のふしぎ

脳が考える脳―「想像力」のふしぎ

  • 作者: 柳澤 桂子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2023/09/27
  • メディア: 新書


第4章ものはなぜ見えるか


第1段階ーー網膜 から抜粋


視覚情報の入り口は、眼球の一番奥にある網膜です。

網膜には、視覚情報の伝達に関与する五種類の細胞があります。

その中で光に感ずる神経細胞は視細胞と呼ばれ、網膜の一番奥に並んでいます。


視細胞には、桿体(かんたい)と錐体(すいたい)と呼ばれる二種類の細胞があり、これらの細胞が並んで視細胞層をつくっています。

桿体と錐体は、特殊な色素を含んでいて、光があたると、この色素の化学構造が変化します。

桿体の含む色素はロドプシンと呼ばれ、特に光に敏感に反応します。

一つの眼には一億個以上の桿体があり、弱い光にも感じるようになっています。

錐体は、光に対する感受性は弱いのですが、色には敏感に反応します。

一つの眼には、600万個くらいの錐体があり、網膜の中心部に集まっています。

網膜の中心には、中心窩と呼ばれるくぼみがあります。

中心窩には約3万個の錐体があって、普通、ものを見るという機能は、ほとんどこの錐体によっておこなわれています。

ですから、私たちは像がこの小さなスポットに結ばれるよう、たえず眼球を動かしているのです。


桿体と錐体の色素が可視光線を吸収すると、その色素の化学構造が変化します。

色素の構造が変化すると、一連の化学反応を通して光のエネルギーが電流に変えられます。

この電流によって、桿体や錐体と網膜内の他の細胞との間のシナプスが活性化されます。


このように生じたインパルス(一個の細胞が出す電気信号)は、網膜の細胞間で相互作用してインパルスのパターンを生じます。

このパターンが網膜のいちばん手前にある神経節細胞に送られ、この細胞から出る視神経を通って脳へと伝えられていきます。


視細胞(桿体や錐体)が強い光を受けてたくさんの光エネルギーを吸収したときには、インパルスの頻度が高くなります。

このインパルスは神経節細胞に伝えられるので、脳は、おのおのの神経節細胞の出すインパルスの頻度の増加あるいは減少という信号を受け取ることになります。


脳までの視覚情報の伝達の様子が


なんとなくわかります。


でもだんだんにむずい領域に入ってきています。


”光”と”色”で部門が異なるってことなんですな。


さらに進化して”奥行き”とか”量”の把握が


できるようになり”知覚”ということなのか。



喰らう読書術 ~一番おもしろい本の読み方~ (ワニブックスPLUS新書)

喰らう読書術 ~一番おもしろい本の読み方~ (ワニブックスPLUS新書)

  • 作者: 荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: ワニブックス
  • 発売日: 2014/06/09
  • メディア: 新書

第3章 世界と人生を解読する「読む考古学」のすすめ

地質学で地球の時間を体験する から抜粋


まずはじめに、私たちの眠った頭をどやしつけたショッキングな本、スティーヴン・ジェイ・グールドという進化論学者が書いた『ワンダフル・ライフーーバージェス頁岩(けつがん)と生物進化の物語』です。

グールドという人は、学者にしておくのがもったいないほど博学で、文章もうまい「作家」でした。

彼の著作はシロウトが読んでも、おもしろさのあまり、ウーンと唸ってしまいます。

現代人必読の本ではないでしょうか。


なかでも話題を呼んだのが、1983年に出版されたこの一冊でした。

進化論的に見る生命の歴史は、大きな節目になったのが、いまから5億4200万年ほど前の古生代カンブリア紀だったといわれます。

このときに三葉虫など多様な動物が爆発的に生まれて、地球が動物だらけになったわけです。

ここが時代の境目であり、その大爆発以前を「先カンブリア時代」と呼びます。

動物がほとんどいないように見えた時代ですね。


ならば先カンブリア期は何年つづいたかと申しますと、よくわかりません。


地球上で一番古い岩石は、ウラニウム同位元素がゆっくり放射性崩壊して鉛の同位元素になる現象を使って測定すると、45億年前後だそうです。

しかしアポロ11号が持ち帰った月の石にはそれよりも古いのがあったので、月が地球から分かれたとすると、誤差の最大値をとって46億年前くらいにはなるでしょう。


こうなりますと、先カンブリア時代は最長40億年つづいた計算になります!

なんと、生き物なんか何もいそうにない時代が、生命発展時代の10倍以上になってしまいます。

私たちが古生代だ、中世代だ、などと言っていた生命のいる地質年代は、地球全史から見たらわずか10分の1の歴史に過ぎなかったのです。


それでは、カンブリア紀にいったい何が起こって地球が動物だらけになったのか。

これが探る手がかりになったのが、カナダにあるバージェス頁岩の地層で発見された「奇妙奇天烈」な化石動物群でした。

とにかく現代の目からは考えられないような奇妙な動物だらけでした。


この発見により、古代になるほど生物が単純で多様性も低いとされた常識がひっくり返りました。

絶滅している動物も含めると、5億年以上前のほうが生物多様性が大きかったといえるのです。

しかも化石を調べると、現在いる全動物門がすでにカンブリア紀に出そろっているので、絶滅という事件も偶然によるものだった可能性が強まりました。


つまりグールドの本は、動物をメインに置いた生命史の眺めを一気に変更したのです。

古い生物は単純で下等、しかも種類も少ないというイメージが破られ、現在にもいない動物がうじゃうじゃいた古代、という新イメージに置き換えられたのでした。


ではなぜ、この時代に動物の多様性が大爆発したのでしょうか。

最近のプレートテクトニクス理論によると、カンブリア紀の開始から、3−4億年前に成立したパンゲア大陸にテートス海という割れ目が入って大陸が分断されるまでに、生物の大爆発が起きたといいます。


大陸の変動は大きな出来事ですから、理解しやすいのですが、問題はそれだけではありません。

カンブリア紀の場合でいえば、大陸形成よりも前に、動物に「目」が誕生したことが大爆発の引き金だとする仮説が出ています。


今から5億年ちょっと前に、地球に当たる太陽光線の量や強さが増えたことで、水中がいっせいに晴れ、光線が海に差し込みました。

光線は、これを有効に使用するための感覚器官「目」を急発展させ、目に映じた像をはっきりとした色彩立体として知覚させる画像創出装置「脳」を、動物に与えたというのです。


そういえば、動物が持つ脳と目は、植物にはありません。

藻類に始まった生命史に、目と脳を持つ動物が参入したことで新段階にはいった、ということができるでしょう。


そのような理論を「光スイッチ説」といいますが、その代表が、第1章で「目から鱗」の落ちる本として紹介したアンドリュー・パーカー著『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』でした。


生物の進化に一役買ったと。


突然変異に拍車をかけ劇的な進化、分岐の派生を


促進したというグールド氏を後押しする


「目」の出現と発展。


なかなかに興味深いのだけど、その後


この言説がどうなるのかも興味深い。


余談だけれど、自分は目からの情報に


惑わされないように、電話の時など


集中して端的に正確性を欠かないことを


心がけるために目を瞑るのだけど


それと”眼の進化”とはあまり関係なさそうで


いいたいだけの久々の連休、


自宅の古くなった浄水器の交換技師待ちを


自宅待機で早く古書店巡りという名の


フィールドワークに行きたいと


思っているところでした。


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柳澤先生の書から”科学”の一端に触れる [’23年以前の”新旧の価値観”]


脳が考える脳―「想像力」のふしぎ

脳が考える脳―「想像力」のふしぎ

  • 作者: 柳澤 桂子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1995/01/20
  • メディア: 新書

はじめに から抜粋


科学者には、おおきく分けて二つのタイプがあるように思えます。

その一つは、まったくわけのわからない混沌とした現象に興味をもつタイプです。

これを夢想家タイプと呼んでおきましょう。

もう一つは、ある程度謎が解けかけた現象を細かく解析していくことの好きなタイプです。

これを理論家タイプと呼びましょう。


科学の謎ときはジャングルを切り拓くようなものです。

まず、ヘリコプターで上から眺めて、どこから切り込むかを考えます。

ブルドーザーで木をなぎ倒して運び込む道をつけます。

この辺りまでが夢想家タイプの研究者の好むところです。


理論家タイプは、このあとを引き継ぎます。

木を切ったり、道を舗装したり、あるいは広場の草を一本ずつ抜き取るような作業もあるかもしれません。


どちらのタイプがよいというのではなく、両方のタイプがあるから、研究がうまくいくのでしょう。


私は典型的な夢想家タイプで、どこから手をつけてよいかわからないような問題に出会うとわくわくします。


1950年代からの生命科学は、夢想家にとってたいへん幸せな時代でした。

次から次へとヘリコプターの出動を要請されるような場面がありました。

ところが今やほとんどの問題は理論家たちの手に渡り、最後に残ったのは脳の問題だけになってしまいました。


脳の問題が、専門家以外の人にとっておもしろい点は、私たち自身の経験として謎を実感できることです。


たとえば、遺伝暗号の解読の問題は、生命科学のハイライトの一つでしたが、これを自分の経験として実感できる人はいないでしょう。

自分のからだの中で、DNAを鋳型(いがた)にしてタンパク質が合成される過程を感じることはできません。


ところが、脳の問題は、なぜ、ものが見えるかとか、記憶とは何かとか、私たちにとって非常に身近に感じられるはずです。


このような経験をもとにして、夢想家遊びをしてみませんか?


イメージというのは、視覚と深い関係のあるものです。

そのような視点から、眼を通して外部の情報がどのように脳に取り込まれ、その情報がどのように統合されて全体像となるかということをまず探ってみたいと思います。


イメージというのは、また、記憶と深く関連しているということも、経験的に納得していただけるでしょう。

記憶のないところにイメージはあり得ません。

視覚したものがどのように記憶されるかということを知ることも、イメージについて考える上で何かのヒントをあたえてくれるかもしれません。


さらに、イメージは、人間が生まれつき持っている思考傾向の影響を受ける可能性があるという考えがあります。

そのようなことを知るためには、人間の思考形態が、どれくらい遺伝的に決定されているかということも考えなければなりません。

それには神経系がどのようにして形成されていき、その過程に遺伝子がどの程度関与しているかということを、考えなければなりません。


さらに、一つの言葉が形、色、感触、音、匂いなどのイメージを同時に産むことを考えると、いろいろな器官を通して知覚され、脳に記憶された情報が同時に思い起こされる機構を考える必要があります。


たとえば「桜」という言葉を聞いたときに、あなたが思い起こすものを考えてみてください。

桜という言葉のもとにいろいろな情報が統合され、それらが同時にイメージとして浮かんでくることがわかると思います。


また、イメージというと夢との関連が気になります。

本題と少しずれると私は思いますが、夢が人間の無意識層のあらわれとして、精神科医療に使われてきたことなど考えて、夢についても少し触れてみました。


この本の中では、言語とイメージの関係についてはっきりした結論は述べていません。

現在の脳の科学の進展の段階では、まだはっきりした答えに至ることは難しいでしょう。


けれども、かなりのことがわかっていて、それを素材にして、いろいろと考えて楽しむことができるところまで到達できると私は思います。

夢想家にとっていちばん楽しい時期です。

皆さんもいろいろと考えて、考える喜びを味わってみてください。

そして、自分の仮説ができれば、これからの脳科学の進展を見守るのがずっと楽しみになります。

そのつど自分の仮説を修正していかなければならないでしょう。

あるいは、修正の必要のないほどうまく合う場合もあるかもしれません。

そのようにして、はっきりと自分の仮説といえるほどのものを作れない方でも、科学の思考のおもしろさを感じとっていただければよいと思います。

 

平成6年11月 柳澤桂子


おわりに 


「わからない」喜びと「知る」楽しみ から抜粋


さて、この本では、視覚を例にとって外部からの情報がどのようにして取り入れられ、統合され、記憶されるかということをお話ししてきました。

また、そのために必要な神経回路がどのようにして形成されるかということも述べました。

けれども、イメージとは何かということに対するはっきりした答えは得られませんでした。

言語につきまとうイメージは、どのような脳の機構によって想起されるのかという問題は依然として謎のままです。


科学では、たくさんのわからないことが混沌としています。

そこに小さなスポットを当てて、見えた断片をつなぎ合わせていきます。

その断片と断片の間はイマジネーションでつなぐのです。

誰も思いつかない断片どうしをつないでうまくいったときには大発見になります。

大発見というほどでもなくても、うまく断片をつなげたときの喜びは、言葉で表現できないほどすばらしいものです。


けれども、ここで気をつけなければならないことは、混沌としたものにスポットを当てたとき、私たちは、自分たちの脳の回路を使ってものを見ているのだということです。

私たちの脳とはちがった認識機構をもった生物が研究したら、まったくちがった見え方になるかもしれません。


私たちの科学は、私たちの認識の枠にしばられています。

そのような意味で、科学上の発見はすべて仮説です。


私たちは営々として仮説の積み木を積み上げて、そのことに喜びを見出しているのです。

そして、その一部を、科学技術として応用しています。


科学には、知識とか技術のイメージがつきまといますが、科学の本来の姿は、生物を含めた宇宙の法則を探っていくことです。

宇宙の法則は大変美しいものです。

それを、なぜ美しいと感じるかということは、また大きな問題ですが、とにかく美しいと思います。


そして、私たちは美しいものを知ること、見ることに大きな喜びを感じます。

まして、自分でその法則を見つけだしたとしたら、その喜びはいかばかりでしょう。


星空をイメージしてみてください。

明るく光るたくさんの星のように、私たちはたくさんの発見をしました。

けれども、その背後に広がる大きな宇宙のように、私たちがまだ知らないことがたくさんあります。


「ほんとうに知る」ということは「知らないことがいかに多いかということを知る」ことであると私は思っています。


素晴しすぎて形容しようがありません。


という形容を僭越ながらさせていただきます。


知っていることなぞ、ほんの一部


謙虚に臨まなければ何事も見えてこない。


柳澤先生のこの書を支えている書籍たちを


参考文献としてあげられておられる。


興味あり自分のテーマとリンクした時


ぜひ読んでみたいと思った秋の夜でした。


パシュラールの詩学』及川馥 法政大学出版局(1989年)

ソシュールの思想』丸山圭三郎(1981年)

知識と想像の起源』J・ブロノフスキー(1989年)

音楽と言語』T・G・ゲオルギアーデス(1994年)

『抒情の源泉』武川忠一(1987年)

はじめにイメージありき』木村重信(1971年)

『最新脳科学』矢沢サイエンス・オフィス編(1988年)

記憶は脳のどこにあるか』坂田英夫(1987年)

妻を帽子とまちがえた男』O・サックス(1992年)

神経成長因子ものがたり』畠中寛(1992年)

脳の進化』J・C・エックルス(1990年)

夢見る脳』J・A・ホブソン(1992年)

夢を見る脳』鳥居鎮雄(1987年)

眠りと夢』J・A・ホブソン(1991年)

本能と研究』N・ティンバーゲン(1975年)

神話の力』J・キャンベル/飛田茂雄訳(1992年)

無意識の心理』C・G・ユング/高橋義孝訳(1966年)

『夢って(ホントは)なに?』E・ドルニック(1991年)


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柳澤先生の書”生命の奇跡”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


生命の奇跡―DNAから私へ

生命の奇跡―DNAから私へ

  • 作者: 柳澤 桂子  
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1997/07/04
  • メディア: 新書


前回、M・リドレーさん


各章の前に挟み込まれていた


いろんな時代の偉人たちの言葉を


集めてみて全体を俯瞰するというのを


柳澤桂子先生の書でもやってみたく存じます。


「はじめに」と「おわりに」は


柳澤先生ご自身の言葉を引かせていただいて


おります。


それはもう、言葉に尽くせないくらい


でございます。


はじめに から抜粋


年齢を重ねるということは、不思議なことである。

外面的な変化は誰の目にもあきらかであるが、内面的な変化は自分にしかわからない。

私にとって、年をとるということは、「何かがよく見えるようになる」ことであった。


比較的若い時代、おそらく30歳代には、自分と他との関係がよく見えるようになっていくことを強く感じていた。

自分と周囲の人々、自分の空間的な位置、時間との関係、これらのことが次第によく見えるようになっていった。

どこまで見えるようになるのか、おそろしく感じられることもあった。


やがて、見えるものの質が少しづつ変化していくのを感じた

自分との関係の次に見えるようになってきたものは人間そのものであった。


人間の存在、人間の内面、芸術、宗教

これらのものが人類の歴史のなかに位置づけされて、悲しいまでに浮かびあがってきた


人間のかたちはどのようにしてできるか。

生命の歴史のなかで人間はどのようにして生まれたのか。

人間の脳はどのようにしてでき、どのようにして働いているのか。

自己とは何か。

言葉とは何か。

生物学的な死と人間にとっての死とは何か。

芸術とは何か。

科学とは何か。

神とは何か。


これらのテーマについて、生命科学にもとづいて考えたことをできるだけわかりやすく、しかも正確さを失わないように考えていきたいと思う。


第1章 DNAからヒトへ


いとおしく清らかな理想の姿が

私の目と心を捕らえて離さない

彼女の眼差しと声に魅了された

私の全存在をつらぬく何という夢!

(プラウほか/歌劇「ウェルテル」より<訳著者>)


第2章 「火の玉」から「生命の星」へ


星があった。光があった。

空があり、深い闇があった。

終わりなきものがあった。

水、そして、岩があり、

見えないもの、大気があった。

 

雲の下に、緑の樹があった。

樹の下に、息するものらがいた。

息するものらは、心をもち、

生きるものは死ぬことを知った。

一滴の涙から、ことばがそだった。

 

こうして、われわれの物語がそだった。

土とともに。微生物とともに。

人間とは何だろうかという問いとともに。

沈黙があった。

宇宙のすみっこに。

(長田弘/「はじめに…」)


第3章 心が生まれる


光る地面に竹がはえ、

青竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より繊毛(せんもう)が生え、

かすかにけぶる繊毛が生え、

かすかにふるえ。

(萩原朔太郎/「竹」より)


第4章「私」が生まれる


火星が出てゐる。

 

おれは知らない、

人間が何をせねばならないかを。

おれは知らない、

人間が何を得ようとすべきかを。

おれは思ふ、

人間が天然の一片であり得る事を。

おれは感ずる、

人間が無に等しい故に大である事を。

ああ、おれはみぶるひする、

無に等しい事のたのもしさよ。

無をさへ滅した

必然の瀰漫(びまん)よ。

(高村光太郎/「火星が出てゐる」より)


第5章 言葉が生まれる


わがあゆみゆくところ

ながるる にほいのことばあり

みちほそくして

草たわわなれど

ああ

この わがゆくところ

おほひなる ひとつの言葉あり

(大手拓次/「にほひの言葉」)


第6章 死を思うとき


死はいろいろの言葉で語る

死は歓びの声をもつ

死は天の青春である

死は枝の炎である

死は寂しい夏である

死は一個の卵である

(中村雅夫/「ある価値」より)


第7章 芸術と科学の営み


冬日さす南の窓に坐して蟬を彫る。

乾いて枯れて手に軽いみんみん蟬は

およそ生きの身のいやしさを絶ち、

物をくふ口すらその所在を知らない。

蟬は天平机(てんぴゃうづくゑ)の一角に這ふ。

わたくしは羽を見る。

もろく薄く透明な天のかけら、

この虫類の持つ霊気の翼は

ゆるやかになだれて迫らず、

黒と緑に装ふ甲冑をほのかに包む。

わたくしの刻む檜の肌から

木の香たかく立つて部屋に満ちる。

時処をわすれ時代をわすれ

人をわすれ呼吸をわすれる。

この四畳半と呼びなす仕事場が

天の何処かに浮いているやうだ。

(高村光太郎/「蟬を彫る」)


第8章 人はなぜ祈るのか


鬱蒼としげつた森林の樹木のかげで

ひとつの思想を歩ませながら

仏は蒼明の自然を感じた

どんな瞑想もいきいきとさせ

どんな涅槃にも溶け入るやうな

そんな美しい月夜をみた。

 

「思想は一つの意匠であるか」

仏は月影を踏み行きながら

かれのやさしい心にたづねた。

(萩原朔太郎/「思想は一つの意匠であるか」)


おわりに から抜粋


これからますます科学技術や医学は進歩するであろう。

21世紀は特に脳の科学が進歩して、人間の理解が進むであろう。

その反面、薬で人格をコントロールできる可能性が生じ、社会問題になるのではなかろうか。


人口問題をふくめた南北問題、民族紛争、環境問題など、問題は山積している。

しかし、どの問題をとってみても、一人ひとりの意識が改革されなければ、ほんとうの意味で解決したことにならないと私は考えている。

それは回り道のようではあるが、結局、それしか解決がないと思えるのである。

ここでも、情報の力は強いはずである。


そのような気持ちで、私は今日もペンを執る。

何というはかない歩みであるかと思いながら、私にできることはそれだけしかないのである。


人類はいずれ絶滅するであろう、いつの日かーー。


けれども、その最後の日までに、この地球に生存した生物の一種として、少しでも精神的な高みに登っていてほしいと願う


また、私たちは自分の意志でこの世に生まれてくるのではない

そして、必ず死ぬ運命を負わされている

考えてみれば、これは非常に不合理なことであるが、これからも人間は生まれつづけるであろう。

子どもを産まずにはおけない遺伝情報までもたされているのである。

ここに、生命世界の残酷さがある


100年に満たない人生のなかにはたくさんの喜びもあるが、悲しみも苦しみもある

私達とおなじ運命を負わされ、私たちのあとに生きる人たちが、少しでも幸せな生を送れるように、社会を住みよくしておきたいというのが私の心からの願いである。


大変僭越ではございますが、わたくしも


同意させていただきたく存じます。


この書は素晴らしい”良書”でございます。


以下の著作は柳澤先生がこの書の


参考にされたと書かれておられる。


『生命の神秘』レナルト・ニルソン

ヒトはいつから人間になったか』R・リーキー 馬場悠男訳

記憶は脳のどこにあるのか』酒田英夫

乳幼児の世界』野村庄吾

 

子どもとことば』岡本夏木 


柳澤先生の言葉に触れるとなぜか


謙譲語になってしまうのだよね、自分は。


初版は1997年の世紀末だったため


21世紀を慮っておられる書きっぷりなのですね。


21世紀に入ってから、また直近の


コロナ禍、戦争をどのようにご覧になって


おられるのだろうか。


 


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M・リドレー氏の書から”楽観論”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2013/07/10
  • メディア: 文庫


各章立ての前にその章を象徴するような


文章を引かれているのが印象的。


ドーキンスさん始め三島由紀夫先生や、


多くの作家さんがよくやる手法でもあるけれど。


それを仮に”イントロ”と呼ばせていただくとして


それだけ集めて全体俯瞰してみたら、


何か見えるのだろうかと。


表紙をめくって最初のイントロから


ーーアダム・スミス『国富論』より

分業からじつに多くの利益が得られるのだが、そもそもこの分業が始まったのは、それによって世の中全体が豊かになることを人間の叡智が見越してその実現を意図したからではない。

それほど広範な恩恵に与(あずか)れるなどとは誰も思っていなかった。

分業は、人間の持つ、ある性向(=物事の傾向)のせいで、きわめてゆっくりと、わずかずつではあるが、必然的に達成されたのだ。

それは、物と物とを交換するという性向である。


プロローグ


アイデアが生殖(セックス)するとき


のイントロから


ーーアダム・ファーガソン

『市民社会史』より

ほかの動物の場合、個体は幼少期から成熟期あるいは高齢期へと進みながら、一生のうちに己の本質が到達しうる最高峰をきわめる。

これに対して人間は、個体ばかりではなく種(しゅ)としても進歩を遂げる。

どの世代も、それまでに築かれた土台の上に新たなものを積み上げていくのだ。


第1章 より良い今日


ーー前例なき現在ーー


のイントロから


ーートーマス・バビントン・マコーリー

「サウジーの『対話』の批評」より

私たちが来し方を振り返ったときに進歩しか目に映らないというのに、行く末に目を転じたときに凋落(ちょうらく)しか予測できないとは、これまたいかなる原理に基づいているのか?


第2章 集団的頭脳


ーー20万年前以降の交換と専門化ーー


のイントロから


ーーイアン・マーキュアン

『土曜日』より

彼はシャワーの下に立った。

四階から無理やり送り込まれてくる人口の滝。

この文明が崩壊し、ローマ人たち(今回のローマ人たちが誰であれ)がついに去り、暗黒時代が始まったら、これなど早々に消えてなくなる贅沢の一つだ。

やがて、泥炭(でいたん)の火の脇にしゃがんだ老人たちが、信じられないという顔で耳を傾ける孫たちに語るのだろう。

真冬に裸になって清潔なお湯の噴流を浴びたこと、香りのついた石けんのこと、琥珀色や朱色のどろっとした液体を髪に擦り込んで艶を出し、実際以上にボリュームを持たせたこと、加湿棚に用意されていた、トーガほどもある真っ白な厚手のタオルのこと。


第3章 徳の形成


ーー5万年前以降の物々交換と信頼の規則ーー


のイントロから


ーーニーアル・ファーガソン

『マネーの進化史』より

お金は金属ではない。そこに刻まれた信頼だ。


第4章 90億人を養う


ー一万年前以降の農耕ーー


ーージョナサン・スウィフト

『ガリヴァー旅行記』より

誰であれ、これまでトウモロコシの穂が一本、あるいは草の葉が一枚しか育たなかった土で、2本、あるいは2枚出すことに成功した人は、もっと人類の称賛を受けてしかるべきであり、すべての政治家が束になったもかなわないほど、国に対してきわめて重要な貢献をしている。


第5章 都市の勝利


ーー5000年前以降の交易ーー


ーーP・J・オローク

『国富論解説』より

輸入はクリスマスの朝、輸出は一月に届くマスターカードの請求書。


第6章 マルサスの罠を逃れる


ーー1200年以降の人口ーー


ーーT・R・マルサス

『人口論』より

重大な疑問が今のところ未解決である。

人類はこれから加速度的にこれまで思いもよらなかった無限の向上へと進むのか、それとも、幸福と惨状のあいだを永遠に行ったり来たりすることになるのか。


第7章 奴隷の解放


ーー1700年以降のエネルギーーー


ーースタンレー・ジェヴォンズ

『石炭問題』より

石炭があれば、ほぼどんな偉業も可能である、というより容易である。

石炭がなければ、以前の難儀な貧困にあと戻りだ。


第8章 発明の発明


ーー1800年以降の収穫逓増(ていぞう=少しずつ増えること)ーー


ーートーマス・ジェファーソン

アイザック・マクファーソン宛ての書簡より

私のアイデアに共鳴して受け入れるものがあっても、私のアイデアが減るわけではない。

それは私のロウソクから火をもらうものがあっても、私のロウソクが減らないのと同じである。


第9章 転換期


ーー1900年以降の悲観主義ーー


ーージョン・スチュアート・ミル

人間の「無謬(むびゅう=誤りのないこと)性」に関する演説より

余人が絶望するとき希望に燃える人より、余人が希望を抱くとき絶望する人が広く賢人と讃えられるのを、私は目にしてきた。


第10章 現代の二代悲観主義


ーー2010年以降のアフリカと気候ーー


ーーH・G・ウェルズ

『未来の発見』より

過去のすべての始まりの始まりであり、いま起きていることも、これまでに起きたことも、ひとつ残らず夜明けを告げる。

暁(あかつき)の光にすぎないと信じることは可能だ。


第11章 カタラクシー


ーー2100年に関する合理的な楽観主義ーー


ーーボブ・シール&ジョージ・デイヴィッド・ワイス

「この素晴らしき世界」より

赤ん坊の泣き声を耳にし、その成長を目にする。

この子たちは私よりはるかに多くを学ぶだろう。

そして私は思う。

なんてこの世は素晴らしい!


訳者あとがき


訳者を代表して 柴田裕之


から抜粋


マット・リドレーといえば、『赤の女王』『ゲノムが語る23の物語』『徳の起源』『やわらかな遺伝子』といった、進化や遺伝、社会についての邦訳で、日本でもすでによく知られている。


そのリドレーが、

「過去20年間に、人間とほかの動物の類似性について4冊の本を書いた。だが、本書では人間とほかの動物の違いに取り組む」

と宣言し、

「人間が自らの生き方をこれほど激しく変え続けられる原因はどこにあるのだろう?」

と問い、生物学や進化、歴史、経済などじつに多様な観点に立って著したのが、この『繁栄』だ。

原題はThe Rational Optimist: How Prosperity Evolvesで、そのまま訳すと『合理的な楽観主義者ーー繁栄はどのように進化するか』とでもなろうか(原書や著者についてご興味ある方は、著者の英語サイトをご覧ください)。


過去を振り返るときに人はともすると感傷的になり、昔の良い面や今の悪い面にばかり目が行くが、本書(とくに第1章第9章)に挙げられた膨大な証拠を見ればはっきりする。

そう、答えは、ノーだ。

今は昔に比べて、けっして悪くはない

いや、これほど良い時代はかつてなかった。

人類全体として見れば、世の中は多くの面で確実に改善されている。


では、その進歩の原動力とは何か?

読者はプロローグ冒頭の写真を覚えていらっしゃるだろうか?

あの石斧とマウスの対比が、著者の言わんとしているところを鮮やかに象徴している。

煎じ詰めれば、交換と専門化だ。


その付近にあった石を拾い、自ら加工して仕上げた石斧。

多くの場所から多くの人が集めた多くの材料を、無数の人が蓄積・交換・発展・専門化させてきた知識やテクノロジーを駆使して加工し、仕上げたマウス。

この交換と専門家が人類の発展にどう寄与してきたかを、著者は石器時代から現代まで、証拠を積み重ね、鋭い分析を繰り返し、壮大なスケールで検証する。


その過程で、どれほど多くの知見が得られ、定説や常識が覆され、誤解が解かれることか!

農耕の発展、都市化、人口変動、エネルギー変遷、有益な知識の加速度的生産ーーそのすべてに交換(交易)と専門化が重大な要因として絡んでり、社会の水準の向上に貢献していることが示される。


続いて、未来に目を転じるとどうなるか?

これまでずっと悲観論がもてはやされてきたが、過去になされた悲観的な未来予測の多くは完全に外れた

リドレーに言わせれば過去のたんなる拡大版として未来を予測するから悲観的になる。


知識は無尽蔵で、アイデアや発見、発明が枯渇することなど理論的にもありえない。

これが著者の楽観論を支える最大の理由だ。

交換や専門化が妨げられなければ、良い思いつきがひょっこり生まれたり想像もできないような解決策が出てきたりする。


著者は悲観的なことばかり言う社会で育ったが、気づいてみると、現実には社会は良くなっていた。

だから、世界が良くなると誰も教えてくれなかったことに怒りを覚えていると言う。

そういう背景があったからとはいえ、相変わらず悲観論者が幅を利かせ、楽観論がさげすまされる世の中にあって、堂々と合理的な楽観論を打ち出す著者の勇気と、その楽観論を支える証拠をよくぞこれほどと思うほど集めた努力は、やはり称賛に値する。


本書は今の世を、大きな歴史の流れの中で客観的に見つめ直し、共有や協力、信頼、自由、秩序が普遍化したボトムアップの民主的な世界という未来像を提示して、私たちを元気づけてくれる。


不合理な楽観主義に染まり、これまでたどってきた繁栄への道のりを逆行するのではなく、合理的な楽観主義者として、経済発展やインベーション、変化によって、全人類の生活水準のさらなる向上を目指すべきだという著書の主張は、たとえ異論があろうと真剣に考慮する価値がある。


悲観論の方が、ビジネスになりやすいという


これまた悲観的な事実。


M・リドレーさんはそこが圧倒的に異なるのは


前にも何冊か読んでいたのだけど


今回思ったのは、自分の悪い癖で


なぜそうなのだろう、ということ。


そして、だから自分は自伝や


その人の近くの人が書いた評伝を読み


考察を重ねてしまうのかということ。


それは全くの余談なので、どうでもいいですが


第9章のR・カーソンの件。


本当にレイチェルの予測は外れたと


言えるのかという疑問。


だとしても彼女の功績は少しも曇るものではないが。


それと少し外れるがM・リドレーさんと


翻訳の柴田さんのリレーションシップは


成熟していると言わざるを得ない。


私の度重なる質問に一つひとつ根気良く答えてくれた


っていうのは、なるべく正確に日本の読者に


伝えたいということの現れなのだろうなと。


第10章に日本の人口増加のロジックなどまで


調べ上げて、気候変動の話の時、よく出てくる


IPCC”のバックデータのあやふやさなど


指摘されているのだけど、ここからも


日本が重要なマーケットであると


考えておられるのだろう。


それを”あざとい”などと称する輩もいるかもしれんが


リドレーさんは学者であると同時に作家なんだから


そんなところを気にするんじゃないよ!と言いたい。


って誰も言ってないかもしれないなあ、と


天気の悪い休日の朝、今日は大人しく


本の整理や読書で過ごし


明日は晴れるだろうと楽観的に考えるのでした。


 


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荒俣宏先生の読書本から”シンクロニシティ”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


喰らう読書術 ~一番おもしろい本の読み方~ (ワニブックスPLUS新書)

喰らう読書術 ~一番おもしろい本の読み方~ (ワニブックスPLUS新書)

  • 作者: 荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: ワニブックス
  • 発売日: 2014/06/09
  • メディア: 新書


 


"読書"についての本も自分は好きで


特に興味ある人の読書術は看過できない。


興味なくても読書術みたいのがあると


つい読んでしまうのだけど、荒俣先生のは


圧倒的に前者で、僭越ながら同じ匂いを感じ


読んでいて声をあげて笑ってしまいました。


はじめにーーー読書はおもしろいはずだが、実際はつらい


から抜粋


読書する習慣はどうやったら身に付くか。


私自身、いま読書することは暮らしの「一日常」になっており、食堂でご飯がくるまでの待ち時間に本をひろげたり、風呂につかりボーっとする間も、バスタブに板をして、その上に本を置いて読んでいます。


ただし、正直に申しますが、本気で読書が好きになると、いろいろとデメリットも発生してくるのを覚悟しなければなりません。

まず、家庭をお持ちの方なら、本の置場に困ります。

といって、電子書籍がそれを解決するというのは、大きな勘違いだと思います。


本を真剣に愛し、読み込むならば、現状に流布している電子書籍の完成度では、とうてい満足できなくなってくるからです。


はっきりもうして、今の電子書籍は本の歴史に例えれば「グーテンベルク以前」の状態に過ぎません。

まずだいいちに、いま買える電子書籍は、紙の本の電子コピー、すなわち書写しにすぎないからです。


ですから、本好きとは、まだ数十年のあいだは、紙の本を愛する人を意味する言葉として流通していかざるをえません。


私がこの本でおすすめすることは、読書を終生の友とし、この有益な友を出来る限り有効に活用するための、基本的な心構えを考える、と言うことに尽きます。

いろいろデメリットやつらいこともあるけれど、それを上回る楽しさがある、ということなのであります。


ところで、現代は人と本との距離が大きく広がった時代であるように思えてなりません。

まず、個人の家に本が置かれなくなりました。

本が邪魔者になり、家具としてはおろか、シンボルやインテリアとしてもパワーをなくしてきたようなのです。

ちょうど、身の回りに昆虫や鳥がいなくなってしまい、それを見るためには動物園に出かける必要が出てきたのに近いと思います。


これでは、本との付き合いも親身になりませんし、ましてや「座右の書」といった感覚も醸成されません。


たとえば、同居する家族がたくさんいるのも、いいところがある代わり、ウザくなるところもあるのです。

しかし同居していればこそ味わえる喜びや悲しみが、そのデメリットを耐え忍ばせていたのです。


しかし、私たち団塊の世代あたりから、今度は逆に家族同居の暮らしのメリットを切り捨てる暮らしが選ばれるようになりました。

その結果起きたのが、今の社会の問題点でしょう。


知の世界にも同様のことが発生しているのではないでしょうか。

楽な本ばかり読んでいるうちに、なんだが「利口・バカ」みたいな人が増えてきました。

そうではなく、何年も手許(てもと)に本を持ち続けるという、腰をすえた付き合い方が、じつはその人の人生を頑丈にする要因の一つになるのではないか、ということがこの本の提案です。


そういう意味で、本書は、身の回りにいつも本を置く生活のノウハウをお示ししたいと思っています。

その最大のポイントは、


本を読むという手間を惜しまない

本棚には読まなくても本を並べる楽しみがある

・真の読書は、読むことに直接の利益を期待しないことである


それでも、読書は、それを日常実践せずにいられなくなるような意味も、価値も、あると思います。

まるで、毎日決まった時間に食べるご飯のようなものだからです。


で、書名につながるとおっしゃる荒俣先生。


読書=人生そのもの、基本同意でございます。


電子書籍についての見解、自分は主に


立ち読み程度に捉えています。


電子も買ったりもしますが愛着は


紙ほど持てないのは確か。


しかし、一言でいうなれば”便利”なのですよねえ。


「本好き」が数十年「紙の本」を指すというのは


ちとわからないとは思います。すんません!


で、ここがいちばん、読者のみなさまには気にかかるところでしょうが、そんなに毎日読書をして、お前はいったいどんな偉い人間になったのだ、という疑問が残りますね。

正直に、はっきり申します。


聖人にも、悪人にも、また偉い物識(し)りにも、なれません。

ただ一つ、メリットといえば、人生に退屈せずに済んだことです。


ただし、実績ではなく、可能性ということに目を向ければ、読書には大きな可能性が秘められています。


私には、まだ知りたいこと、したいことがたくさんあるからです。

それが実現する方向へ手助けをしてくれるのが、この厄介で場所塞ぎだけれども、手許に置いて大事にするべき本の山である、といってよろしいかと思います。


仲良くなった本は、自分をどこかに導いてくれる「先達」にも変身出来る、ということでしょう。


本は借りるのも、まあいいけど


買ってこそだ、とおっしゃる。


興味深くユニークだと思ったのは


読書よりも”体験”が一番、というのは


よくある話。他人の体験を味わえるというが読書


ってこれまたよくある話。ここからが荒俣先生節。


「脳は実物とヴァーチャルを識別しない」と。


「他人の体験も自分の体験のように扱える」、


そこが脳の怖いところだ、とも。深い深い。


さらに、本にまつわる人との悲喜交々が。


荒俣先生の上をいく読書マニアの方や


つのだ☆ひろさんや松岡正剛さんとのエピソードも。


まったくの偶然で松岡さん主催のサイト


閲覧中のWebのタブを開いてて放置中だった。


まさにこのタイミングで読んだこの書は


養老先生が虫屋をあらわす言葉を借りるなら


「感性が近いので感度が拾う状態」かと。


それを人は”シンクロニシティ”と呼ぶのかも。


確か養老先生とも対談されてたな。


余談だけど、松岡さんは存じ上げてましたが


よく知らず、NHKのサブカルチャーの番組


深い示唆を教示されていた哲学者然とされてて


興味が出てググったのでした。


荒俣さんとは関係ないが親交がおありだった


日高敏隆先生とのエピソードも興味深かった


というこの良書とは全然関係ないなあーと思いつつ


今日も暑いのかなー、


早く涼しくなればいいのになあ


と虫の声が微かに聞こえる


秋の初めなのでございます。


 


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橋本治さんの随筆から”軍需産業”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


思いつきで世界は進む (ちくま新書)

思いつきで世界は進む (ちくま新書)

  • 作者: 橋本 治
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2019/02/06
  • メディア: 新書


8年前の橋本治さんの随筆が


とても興味深い。


秩序と国家(2015年4月)


から抜粋


ウクライナ紛争をなんとかしなきゃ」で各国のリーダーが集まった時、ロシアのプーチン大統領は会見で「ソ連崩壊後に西側諸国が作り上げた秩序をなんとかしたい」というようなことを言っていた。

私の記憶が曖昧なせいでなんのことやらよく分からないのかもしれないが、「秩序」という言葉を使ったプーチンが、「ソ連が崩壊した後、ロシアは仲間はずれにされている」と思っていることは確かだ。


ソヴィエト連邦を形成していたロシア以外の国は、ほとんど西側に走ってしまった。

ソ連邦が崩壊し、ロシアの国内がボロボロになって、「進歩派」だけど無能でアル中のエリツィン大統領の片腕となった20世紀末以来、プーチンは世界のリーダーの中で長い間、指導者のポジションにいる。


各国離反の中で「ロシアをなんとかしなくちゃ」と思っているプーチン大統領は「西側的秩序」に行く手を塞がれている、最も孤独なリーダーだろう。


結局のところ「軍事大国」でしかなかったソ連邦中のロシアは無器用で、中国のように「世界の工場」にもなれず、経済発展を武器にしてうまく立ち回ることもできない。


「秩序」という言葉は、今の時代のキーワードでもあるんだろうなと思った。

でも「秩序」という言葉は、簡単に侵略のための用語にもなるものだ。

日本だって昔、「東亜の新秩序建設」と言って、アジアの侵略を進めたし。


「秩序」が「守れ」という意味と「攻めろ」という意味の両方の顔を持つのは、なにを基準にして「秩序」が求められるかということがあるからだ。

既に出来上がっている「全体」の中で「自分の取り分」を得るのは「秩序を守る」で、「自分」を中心にして「自分の取り分」を取って行くのが、「新しい秩序を作る」だ。


時代は今、いろんなところで「新しい秩序を作るんだ!」という方向に動いているらしい。


中国の海洋進出とか、ウクライナ紛争とか、「イスラム国」とか。

「規制の打破!」っていうのも、「新秩序の建設」ですね。


20世紀を通して、革命というものがあまりいい結果をもたらさないものだということははっきりしてしまった。


重要なことは、悪い支配者を倒すことではなく、悪い支配者を反省させることで、

「あなたが反省しなければ、あなたのいる世界が滅びる」ということを理解させることだが、そんなことはもちろん難しい。


子供の理屈のようなものだけれど、「子供の理屈」の正しさを考えるべき時なのかもしれない。


上には引きませんでしたが、


”「物事を解決させるために戦車を出動させる」


というのが過去のものになってしまい”とされて


ロシアはニッチもサッチも行かなくなったことを


指摘されているが、それは8年前は誰しもが


そう思っていたので問題とは思えない。


問題と思ったのは、戦争・軍需という産業を


この時代に世界に確認させてしまったことで


さらに怖いのは軍需産業に関わっていないはずが


結果的に加担していた、なんてことが誰にも


あり得るのではなかろうかと訝しく思う次第。


ついでに言うならば「秩序」の在り方も。


昨日のニュース、北朝鮮とロシアの会談を見て


この随筆に出会い、ふと考えてしまう嵐の夜の


関東地方からでした。


 


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M・リドレーさんの書から”中村先生”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


やわらかな遺伝子

やわらかな遺伝子

  • 出版社/メーカー: 紀伊国屋書店
  • 発売日: 2004/04/28
  • メディア: 単行本

M・リドレーを期待されてた方いらしたら、

このブログの読者様、僅少と思うけれど


まずはお詫び申し上げたく存じます。


訳者のお二人のあとがきを読んだら


本文への興味が若干低下してしまった


感じがございまして。


お二人とはこの書の紹介文から抜粋。


中村桂子

1936年生まれ。東京大学理学部化学科卒業。三菱化成生命科学研究所部長、早稲田大学教授などを経て、現在、JT生命誌研究館館長。

ゲノム解読から生命の歴史を読み解く生命誌を提唱。著書に『自己創出する生命』『ゲノムを読む』『生命誌の世界』『「生きもの」感覚で生きる』などがある。


斉藤隆央

1967年生まれ。東京大学工学部工業化学学科卒業。化学メーカー勤務を経て、現在は翻訳業に専念。

訳書にリドレー『ゲノムが語る23の物語』(共訳)、ファーメロ編著『美しくなければならない』、レビー『暗号化』、サックス『タングステンおじさん』などがある。


斉藤さんは初見。


中村桂子先生はかねてより自分が心から


私淑させていただいております柳澤桂子先生や


養老先生との対談を読んだ程度。


この”あとがき”はなんとく中村さんが


主の仕事ではなかろうかと。


訳者あとがき


2004年3月


今年は桜が早そうだというニュースを聞きながら


中村桂子 斉藤隆央


Nature vs Nurture.「生まれか育ちか」という言葉は、英語の場合とくに語呂もよいからだろう、日常語としてしばしば使われてきた。

また、人間を対象とする遺伝学、心理学などの学問の中でも論争のタネであった。

ところで、近年の生命科学研究所がDNA分析を始めたところから、この言葉は、サラリと軽く語ってはいられなくなり、生まれとはなにか、育ちとはなにかを学問の言葉として、より正確に捉え、両者の関係を考える必要が出てきた。


たとえば、死因の上位が、感染症から、がんや心臓病や脳血管疾患に移り、病因を体内に、つまり遺伝子に求めることになってきた結果、ヒトの持つ遺伝子のすべて(ゲノム)を知ることによって病因を徹底的に探り、予防・診断・治療に活用しようという考えが生まれた。


2003年にヒトゲノムの塩基配列解析が終了し、今では、がん、糖尿病、高血圧、アルツハイマー病など多くの病気の遺伝子が解明されている。


1980年代、がん細胞に特有であり、それを導入すると細胞ががん化する遺伝子が、初めて米国で発見された時の、研究者の興奮を今でも思い出す。

10年もすればがんは克服できる…多くの人が考えたが、事はそれほど簡単ではなかった


どの病気についても、それに関係する遺伝子が発見されたからといって、遺伝子と病気が一対一で対応するものではないことがわかってきた(特定の遺伝病を除いて)。

一方で、食べものや運動などいわゆる育ちが病気に及ぼす影響も明らかになりつつある。


近年国が、前述した、がんや糖尿病などの病気を生活習慣病と呼ぶことにしたことでもそれはわかる。

今では、「生まれか育ちか」は、「遺伝子か環境(や生活習慣病)か」という言葉になり、当面は、生まれも育ちも(Nature and Nurture)という、誰もがそうだろうと納得する一方、あいまいとしか言えないところに落ち着いている。


ここで著者の登場である。

Natureが遺伝子として具体的に解明されてきたというのに、生まれも育ちもではあまりにもあたりまえでなさけないではないか。

そこで、研究の現場でなにが起きているかを徹底的に聞き歩いて、両者の関係を明確にしようというわけである。

その結果出てきたのが、本書の原題となっているNature via Nurture,「生まれは育ちを通して」なのである。


この場合、対象は先に例にあげた病気だけではなく、性格、知能など、より複雑なものも含めてのことである。

それにしても、人々はなぜここまですべてのことに結着をつけたいのか私のようにいい加減な人間は、こういう話はどちらもというところがあってもよかろうにと思ってしまうがーーということは本書のよい読者ではないのかもしれないがーー生まれと育ちをめぐる論争は、科学が進歩したがゆえに、以前にも増して盛んであることが本書を読むとよくわかる。


著者のタイトルは考え抜いて、執筆の意図を表現するものを選ぶものであるから、訳書もできるだけそれを生かすのが著者への礼儀だと思うが、今回はあえて「やわらかな遺伝子」という題に決めた。

英語ではNatureとNurtureおよびvsとviaの両方の語呂が洒落た感じを出すのだが、日本語にしてしまうとそれがうまく生きないこと。

生まれという言葉には、すでに遺伝子決定論の匂いがついており、本書で扱っている”環境に対応して柔軟にはたらく遺伝子”というイメージはこの言葉からは生まれそうもないこと。

この二つの理由からである。


遺伝子のやわらかさは、あらゆるところに見てとれる。

研究の現場ではこのことに気づいている人がふえつつあると思うのだが、通常の「遺伝子」のイメージはまだ「○◯の遺伝子」であることが多い。

この本にあげられているたくさんの例から、ぜひ融通無碍(ゆうづうむげ)ともいえる遺伝子の働き方を読み取ってほしい


DNAの二重らせんの発見以来半世紀、生命現象全般、そして最近になってとくに人間の病気や性格や能力などをDNAで解明しようという研究が積み重ねられてきた。

その結果、理解が大いに進んだとも言える一方、これまでの科学の方法でなかでの課題が解けるのだろうかという問いも生まれているように思う。


科学の時代、「生まれか育ちか」という問いを立て、「生まれは育ちを通して」という答えを出すまでの長い物語を綴ってきた著者は、最後を「万歳!」で締めくくっているが本当にそうなのだろうか


そんなことをあまり気にせず暮らしていた頃をなつかしく思い出しながら、著者の基本にある現代科学ですべてが理解できるという信念をそのまま受け止めるのは、ちょっとおあずけにしておきたいという気持ちがある。

生命、人間、宇宙などが研究の対象になってきた今、恐らくそこから新しい知が生まれてくるだろうと思うからだ。


これからの社会での生命観についてはそのような知の探究とそこから得られたことを基盤にしてゆっくり考えていく必要があると思っている。


M・リドレーというサイエンス・ライターは、ていねいな取材で手にした材料を、みごとに料理して、これみよがしではないけれどちょっと洒落た風合いに仕上げてみせる腕を持っており、読んでいて楽しい


著者の考え方に全面的に賛同するか否かは別にしてこのような明確な問題意識を持ち、メッセージを出し続けるライターは、今とても大事な存在だと思っている。

考えるための一級の素材を提供してくれるのだから。


最後に著者を持ち上げられるけれど、


学者である厳しい眼が”訳者あとがき”にも


現れていて本当に素敵です。


優しさはそのまま強さに、


言いたいことは柔らかく。


いや、リドレーさんの本文も素敵で読んでますよ。


かのドーキンスさんの激励文もグッと伝わるし


第9章「遺伝子」の7つの意味なぞ興味炸裂で


深い着眼点や洞察力だあ、と。


実際、夜勤勤務の時にこの書を計2回も持参、


いや、休憩中ですよ、もちろん仕事に支障なき程度に


仕事の質は落とさないように努めつつって感じで…。


でも過日読んだ「進化は万能である」の方が


読みやすいのかなあとか正直思ってしまったことは、


まあいいでしょう。こちらの方が前の出版だし。


余談ですが今日は妻も仕事軽めで


自分は休みだから子供の英語の参考書を購入しに、


その後二人でランチでもした後に


届いている本を取りに図書館に行って参ります。


 


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佐藤優さんの書から”還暦”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


還暦からの人生戦略 (青春新書INTELLIGENCE 622)

還暦からの人生戦略 (青春新書INTELLIGENCE 622)

  • 作者: 佐藤 優
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2021/06/02
  • メディア: 新書


まえがき


から抜粋


2020年1月18日、私は還暦を迎えた。

それから1年と少したって、生活に変化が起きたことを実感する。


第一に、しばらく連絡が途切れていた高校時代の友人と会ったり、電話で話したりすることが増えた。


「佐藤、再雇用になり3ヶ月経って気づいたんだけど、貯金が目減りしていく。こうして少しずつ自分の貯えを切り崩していくのが今後の人生なのかと思うと、何とも形容しがたい不安に陥る」といわれた。

高校教師だった友人からは、

「講師として週5回勤務すると、教えている内容は変らないのに、給与は現役時代の6割、週4回だと4割になる。

それと、担任を持たないので生徒との関係が希薄になり、寂しい」

という話を聞いた。


本書で私が提示する処方箋は、そのような環境で強く生き残っていくためのものだ。

それには、できるだけ早い時期に周囲が決める他律的評価で生きることをやめ、自律的価値観を持つことが重要だ。


第二は健康だ。還暦を過ぎるとほとんどの人はどこかに身体の不調を抱えている。

私の場合は慢性腎臓病が進行し、末期腎不全の状態になっている。

いずれ人工透析が視界に入ってくると思う。

しかし、これは気分の持ちようで、人工透析がなかったひと昔前なら末期腎不全になれば尿毒症で完全に死んでいた。


私は猫を七匹飼っているが、そのうちの1匹が最近、腎不全で死んだ。

老衰もあったが、猫に人工透析が可能ならまだまだ生きることができただろう。

人間に人工透析があることのありがたさを皮膚感覚で実感した。

人工透析によって伸びるであろう寿命を、自分と社会のために極力有益に使いたいと思う。


50歳になったときにはやりたいことが100くらいあった。

あれから10年経って、やりたいことを10くらいに絞り込まなければなくなり、人生の持ち時間がいよいよ限られてきたことを実感する。


第三は家族との関係だ。


家族に関しては、既に孫がいる人、子どもが大学や大学院に通っていて多大な財政支援を続けなくてはならない人、子どもがいない人、あるいはシングルで還暦後の生活をすごさなくてはならない人などさまざまだ。

これらすべてのケースについて網羅的な処方箋を示すことはできないが、お金の使い方、取り分けの仕方については詳しく記した。

各人の状況に応じて臨機応変に活用してほしい。


イエス・キリストは「隣人を自分のように愛しなさい」(『マタイによる福音書』22章39節)と述べた。

それには、まず自分自身を愛することだ。

そのうえで、自分を愛するのと同じ気持ちで、他者に何らかの具体的奉仕を見返りを求めずに行うことが重要だと思う。

一人一人の小さな勇気と善意の集積が、コロナ禍で閉塞した状況に置かれている日本を着実に善い方向に変化させていくと私は信じている。

2021年5月10日、曙橋(東京都新宿区)の仕事場にて

佐藤優


第1章


還暦からの「孤独」と「不安」


環境の激変を受け入れる力


から抜粋


60歳をすぎてからのビジネスパーソンは、大きく2つの精神的な問題と向き合うことになります。

それは環境の変化によって生じる不安感と孤独感の2つです。


だいたい55歳になるころ、多くの企業では役職定年があります。

そこから一般職となり数年後に定年を迎え、さらに希望すれば再雇用、というのが一般的な流れでしょうか。


55歳を超えれば、誰もがどこかで一線を退くことになる。


ただし、頭では分かっていても、気持ちが追いついていないという人もいます。


再雇用で月収が20万円程度しかもらえなくなったというケースもあると聞きました。

年収250万ほどで、役職についていたことの5分の1、6分の1です。


頭では分かっていても、現実として収入が減っていくことの不安は深刻です。


環境の変化、特に収入の激減が不安となってのしかかってくるのが60代です。


50代までの生き方をシフトチェンジする


から抜粋


過去の自分がどんなに華々しく勢いがあったとしても、それはあくまで過去の話。

今の自分と自分が置かれた立場や環境をしっかり見すえる。

そのうえで、過去と違った価値観で、違った生き方をする必要があります。


これを言い換えるなら、「リセット」という言葉がふさわしい。

それまでのものを一度リセットして、新たな気持ちと視点で人生を再スタートするのです。


私自身は、その価値観と人生の転換=リセットの時期が他の人よりも早く来たという感覚があります。

それはご存じの通り、2000年に背任と偽計業務妨害という容疑で逮捕され、512日間勾留されたあと、裁判で7年間争って外務省を失職したことが契機となりました。


それまでの外交官という職業を離れ、作家として第二のスタートを切ることになったとき、自分の中で一度いろんなものをリセットしたのだと思います。

リセットせざるを得ない状況でもありました。

もし、それが上手くできていなかったら、わが身に降りかかった不遇や世の不条理をいつまでも嘆いたり、恨んだりして、負のスパイラルに陥っていたでしょう。

そうなっていたら、今の私はなかったはずです。


私の場合はイレギュラーなケースですが、一般的には60歳、還暦を迎える前後で価値観と人生のシフトチェンジが求められます。


肉体と健康に完璧を求めない


から抜粋


「リセット」というのは、言い換えると「捨てること」であり、「あきらめ」や「諦観」に近いものかもしれません。


それまでの自分が積み上げてきたものを一度白紙に戻す。

言葉で言うのは簡単ですが、実践するのはなかなか難しい。

人間は、自分のこれまで置かれてきた環境にどうして固執してしまうからです。


仏教では執着ことがすべての苦しみの根源であるとして、その克服を説きます。


もちろん、若い頃は欲望や願望を叶えるため、競争に勝ち抜くために色々なものにこだわり、執着することが原動力だったでしょう。

しかし60歳を過ぎて同じように執着していたら、現実との埋めがたいギャップに苦しむだけです。


例えば肉体の衰えもその一つ。


実は私自身の肉体にも危険信号が点滅しています。


いわば爆弾を抱えたような体ですが、今さら嘆いたり暗くなったりしていても仕方ありません。

人工透析にかかる時間や労力などを今から頭に描き、私自身の余命を冷静に考えて、仕事や生活、家族との時間のすごし方を考えています。


こういう問題には感情に流されず、淡々と向き合うのが一番です。


リセットすること。

そして新たな価値観と視点で人生のゴールに向けて再スタートを切る気持ちが大事だと思います。


第3章


還暦からの働くことの意味


「体が動く限り働き続ける」が当たり前


から抜粋


リタイアして悠々自適、旅行や趣味に時間をとってのんびり暮らすーー。


今となっては遠い昔話のようです。

現在、どれだけのビジネスパーソンが「老後にはのんびり悠々自適な生活が待っている」と考えているでしょうか?


それどころか、退職金も年金も心もとない。

地震や疫病など、突然の厄災がいつ何時襲ってくるかわからない…。

貯金を減らさないように、できるだけ長く働いて収入を確保し続けたい。

そう考えている人の方が多いでしょう。


「時給850円の自分」を受け入れる


から抜粋


正規雇用で雇われる人はまだいい方です。

非正規雇用として働いた場合、年収はもっと減るでしょう。


仮にパートやアルバイトといった時給計算なら、地域によって多少の違いはあるのでしょうが、850円から1000円くらいの間。

たまに条件のいいもので1200円くらいといった感じでしょうか。


それまで時給換算でその数倍以上の収入を得ていたような人でも、これが現実です。


還暦からの仕事、5つのパターン


から抜粋


 

①キャリアを生かして正規雇用を狙う
→民間人材バンク、縁故、求人サイトなど
②キャリアを生かしてスペシャリストとして働く
→民間人材バンク、求人サイトなど
③キャリアに関係なく業務委託、非正規雇用として働く
→シニア人材派遣登録、求人サイト、求人広告など
④趣味と興味を生かした仕事で働く
→求人サイト、求人広告、ネット通販など
⑤ネットを利用して働く
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還暦からの仕事にこそ働く喜びがある


から抜粋


還暦後は目線を変えて仕事と向き合うことで、かつては感じることのできなかった仕事の楽しみや喜びを味わうことができる。

実はこれこそが本当の労働の喜びであり、仕事の本質なのかもしれません。


付録


池上彰 x 佐藤優


リタイア後、「悪くない人生だった」と言えるかどうか


仕事に継続性がある人は幸せ


から抜粋


▼池上

会社人生を考えたとき、リタイアしたあと、前の職場や自分を全否定しない働き方をすることが大事ではないでしょうか・

「結局、そりゃ失敗もいろいろあったし、イヤな思いもいろいろしたけど、全体としてはまあ良かったよね」と言えるような働き方をしたいものです。


▼佐藤

よくわかりますね。

池上さんはNHK職員時代の前半と、独立した後の後半の二つの時代があって、仕事の方向性に乖離(かいり)がないのは素晴らしいことです。

たとえばNHKを辞めた後にNHKを叩く人、朝日新聞を辞めた後は朝日新聞を叩くのに残りの人生を賭ける人がよくいる。

それが残りの人生ということになると、あなたの前半の人生はなんだったの?って話になる。


▼池上

そう思います。

佐藤さんは前半と後半であれだけの”断層”があっても、やっぱり外交や国益を一番に考えている。

これは大事なことですよ。


▼佐藤

自分の前半生を否定する人は、後半の人生も否定することになると私は考えます。

それはさみしいことです。

ロシアのプーチン大統領は、「インテリジェンスの仕事をする者に、元インテリジェンス・オフィサーは存在しない」というのです。

つまりその仕事についたら、終生その職業的良心からは離れることはできないのだと。


▼池上

どんな仕事であれ誠実に向き合った人はそうなるでしょう。

そうやって自分の仕事に真摯に向き合えた人こそが、幸せになれるのだと思います。


佐藤優さんの書は何冊かあるのだけど


しっかり読んだのは初めて。


この時期にプーチンをポジティブの視座で


引かれるのはある意味すごい。


ところで佐藤優さんの本への


きっかけはいつものように養老先生でした。



〈自分〉を知りたい君たちへ 読書の壁

〈自分〉を知りたい君たちへ 読書の壁

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞出版
  • 発売日: 2022/02/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


世界を読み解く方法論


地球を斬る


から抜粋


著者の佐藤優は、その作品が今日本で一番読まれている著作家の一人であろう。

インテリジェンスという言葉を一般に普及させ、その重要性をあらためて認識させたについては、著者の功績が大きいといって良いと思う。


本書はさまざまな国際的なできごとについて、新聞紙上でその背景を解説し、インテリジェンスとはなにかを具体的に説明したものである。


佐藤優という現象は、日本の近代が抱える本質的な問題を象徴している。

評者にはそう見えるのである。

(2007年6月24日)


元外交官であることと背任で逮捕され


いわば挫折された視点で、


世界や現代日本の病巣を眺めて


持論を展開できる人はほぼいない。


”インテリジェンス”という語は、そういえば


養老先生ご指摘のように佐藤優さんが


オーバーグラウンドで活躍されてからで


日本での知的な貢献度合いは甚大です。


余談だけど、養老先生のおっしゃる


近代日本が抱える”本質的な問題”とはなんだろう。


本文では後藤新平と関わりがあるとご指摘。


こちらも自分は現在研究準備中。


養老先生が取り上げると俄然興味が沸くという


”癖”のようなものを抱える自分にとって


また新たなテーマにぶつかったなあ、と


いくら時間があっても足りないと悲しいのか


喜んでいるのかわからない夜勤明けの


ボーっとした頭で併読してみたのでした。


 


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