6人と養老先生の昔の対談から現代を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
(1)見える日本、見えない日本(2003年)
無意識に身を任せる(1996年)
対談者・水木しげる
■水木ところで、最近、私は”癒し”ということを考えるんです。もちろん医療も同じですが、それをも含んだ大きな力としてです。よく絵や音の力で癒すと言いますね。夜中に精霊を呼ぶときに感じるのですが、何か目に見えない癒しの力が絶対にあると思うんです。私はラバウル戦線で怪我をして左腕を切断しました。けれど、向こうの医者は何もしてくれず、「自然に治るんだよ」と毎日ガーゼを換えてくれただけでした。■養老医療というのは、根本的には患者本人の手助けをするだけで、医者が治しているわけじゃない。■水木例えば車を運転している人が自分で運転していると思い込んでいても、それは目に見えない何かが動かしているのかもしれない。70歳以降は悠々自適な生活をする予定だったのに、私がいまだに働いているのもそういう自分以外の目に見えない何者かがいて、それが私を突き動かしているとしか思えないんです。■養老まさに無意識ですね。それは意識にならないから説明のしようがない。ただ、想像していたことと違う結果が出た時は、助手席に座っている無意識がバイアスをかけていると考えられます。■水木例えば、結婚にも無意識が関与しますよね。■養老結婚相手の選択なんて意識的にやっているはずがない。意識的に選んだら完全に迷っちゃって、まず結論は出ないでしょう。■水木神秘ですよ。なぜ結婚相手が家内だったのか。私は鳥取生まれですが、なぜ出雲出身の家内と結婚しなくてはならなかったのか。もしかしたら八百万の神が関係しているんじゃないかと(笑)。でも、意識したらすでに無意識ではないわけですね。■養老意識できればね。でも、意識できないことの方が多い。わからないですからね、自分自身なんかも。■水木意識している自分だけが自分だと思うのは間違いですね。■養老現代人はほとんどそう思っています。意識が自分だと思っている。若い人は特にそうで、「自分の中に無意識がある」という意識はない。■水木なかには妙に干渉してくる無意識もいるわけで、背後霊というのはそれですね。■養老そうでしょう。普通の人はそういう体験をあまりしないからわからないだけでしょう。人間が目に見えることから影響を受けるのは40パーセントくらい、多く見積もる人でも半分くらいと言っています。私は鎌倉に住んでいますが、神社やほこらが多い地域です。ほこらなどのあるところには、それらしき雰囲気が確かにありますね。■水木人間の行動にはかなり無意識が関与しているわけですね。■養老むしろ無意識が強いんじゃないでしょうか。
自分は水木さんが描いた『方丈記』が素晴らしくて
購入したのだけど養老先生もよく鴨長明を
引き合いに出されてたので
感性が似てそうだなと思った。
ユーモアのあるところなんかも。
意識と無意識、フロイトは無意識を「抑圧された意識」と
定義されてたというのも興味深かった。
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魂の復権 対談者:横尾忠則(1997年)
自然や魂を排除して成立した”近代” から抜粋
■養老信任教師の研修で講師をする機会があって、ディスカッションで聞いたのです。「楽しい学校にする」だとか「個性を尊重」とか、言っていることの根本は人間関係なのです。以前、いじめにあった子が大人になってから書いた手記を読みましたが、そこには自分、友だち、先生の行動や反応ばかりが詳細に書かれていた。最後まで花鳥風月は出てこなかった。教師の話を聞いて合点がいきました。いまの教育がそうなのです。都市は人間が作っているもので、そこで変化するのは人間だけ。人間だけを相手にしている集団がみごとにできあがりつつある。■横尾僕の考え方は、古典的というか前近代的に思われてしまう。「ややこしいからあいつは横に置いておけ」という感じで。居心地は悪いが、逆に自由な立場です。■養老僕もまったく同じです。教師の話を聞いて「なるほど、僕が世の中に合わないわけだ」とよくわかった。彼らは子どもの頃から、どうすれば集団でうまくいくかだけを考えてきた。「いじめにあったら、家にいて、好きなものを見て、絵でも描いてなさい」という指導は絶対に出てこない。■横尾われわれが子どものことにもいじめはありましたが、いまのような陰湿なものではなかったですね。■養老当時は、人工の世界と自然の世界の二つがあり、それぞれにプラスとマイナスがあったわけです。ところが自然が消え、いまは世界が半分しかない。友だちと仲良くする、先生に褒められるなどの人工のプラスと、いじめられたという人工のマイナスだけになっている。だから、世界の中でいじめのウエイトが倍になってしまった。■横尾自然を排除すると自我が強くなりますね。自然には自我がないでしょ。自然が破壊されると、”私”を主体とした近代主義的な自我ばかりが増幅されるのではないでしょうか。■養老その自我に対して「わがままを言ってはだめ」という形で、集団で適応する日本的なやり方で飼い慣らそうとするから、無理が出てくるわけです。■横尾僕は”わがまま”というのは我の儘だから自然体だと思っています。この場合私利私欲の伴わない、より純粋なわがままのことを言っています。■養老生理ですね。■横尾そうです。生理とは感情よりも本能寄り、もう少し言えば、魂寄りのものだと思います。■養老確かに感情的必然という言葉はないですね。■横尾医学では魂の存在をどう考えていますか。■養老一切はずしてしまっている。無視することで近代医学は成り立っているのです。■横尾芸術の分野も同じです。おそらく二十世紀芸術はほとんど魂というものを問題にしない。■養老僕は”たましひ”という文字で表現します。この魂には、日本の古典的な使いかたでは「生きている」という意味もある。心はむしろ情緒的で、魂はもっと元にある生命エネルギーのようなものを含んだ概念でしょうね。
「ものごとの見方はいろいろある」から抜粋
■養老7月にベトナムに行きました。飛行機から下を見たら実に乱雑な風景があり、「地面を引っかいた」という感じでした。日本に帰ってきて成田空港を飛んだ瞬間に驚いたのです。山林は山林、畑は畑と極めて整然としていた。日本の社会で暮らしていると生きにくくて仕方がない。約束ごとは多いし、気を遣うし。考えてみるとその結果が空から風景にあらわれているのではないか。日本のアートもそうじゃないですか。■横尾理路整然としている。グラフィックは世界的にもトップクラスだけれど、美術では主導権がとれない。■養老どの分野でも同じですね。科学でも、純粋科学ではなく、技術ではトップクラスです。■横尾よく野球選手が肘の手術にロサンゼルスに行くでしょう。日本ではできないのですか。■養老できない以前に考え方としてやらないのでは。だいたいそんなに無理して野球の選手をやらなくても。■横尾僕もそう思う。野球がダメでもなんとかなるさと頭を切り替えれが良いと思うのですが。日本は八百万の神様がいる国ですし、これがダメならこれがあるみたいな、僕は常にそう思っていますけれど。■養老それはわれわれの世代だからではないでしょうか。終戦でガラッとひっくり返ったから。まあそんなもんだと思っている。ものごとを一つには見られない。若い人によく言われます。「どうしてそういろいろなものの見方ができるのですか」と。見方が勝手に変わるだけなのですが。■横尾そのほうが正直だと思います。■養老いまの若い人たちは落ち着いた世の中に育っているから、世の中は動かないものと思っている。だから案外堅いのです。きちんとしていて、自分は正しいと疑わない。■横尾僕は自分の性格の多面性を知っていますから、その都度都合の良いものを一つ取り出してくる。だから「これが私です」というアイデンティティは持てない。■養老僕もそうです。よく生徒からは「先生、昨日言ったことと違います」と言われる(笑)。だから「人間、昨日と今日でいうことが違って当たり前なんだ」と。■横尾われわれの世代は理屈が通らない時代を経験していますからね。昨日まで軍国主義で、今日から民主主義に変わった。教科書を墨で塗らされた。変わり身も実に早い。昨日まで”鬼畜米英”なんて言っていたのに、今日は進駐軍にガムやチョコレートをせがんで追いかけていった。子どもの頃の経験で、変わり身に抵抗がなく、当たり前みたいになっていますね。■養老最近思うのだけれど、どうも僕らは少数派のようです。世の中、はるかにまじめな人が多い。
横尾さんと養老さんは感性が似てる!
横尾さん確かご自分のお子様の学校の教育方針にご立腹され
学校を辞めさせておられていたような。首尾一貫しているなー。
教育制度についてはお二人物申すことがこの頃からあったのですな。
しかし養老さんご指摘されてるけど
世代間ギャップなのかなあ、横尾さんたちの感覚って。
それだけでは済まないものがありそうで
良いところは残していくのが得策と思うのだけどなあ。
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混ざる文化・混ざらぬ文化(1999年)から抜粋
荒俣宏(作家・翻訳家)
■養老東大を辞めて日本を回っていると、やはり日本は多様で広いなと思う。閉じ込められていた東大時代が前世のような気がします。(笑)今はラオスに二週間行っても、誰も文句を言いませんから。私の勝手なのです。■荒俣勝手がどんなに楽しいか。最近はやや変化してきたけれど、大学というのはどうも勝手な研究をしてはいけないらしい。不思議なもので、勝手をやると必ず排斥されたり、クレームがついたり。指導があったりする傾向がある。生物学で言えば、これはテリトリーの問題かなと思っていたけれど、どうもそれだけでもないらしい。■養老現象的には我慢大会です。全員で我慢している。ですから、我慢していない人がいると我慢できない。■荒俣なるほど。自己矛盾ですね。(笑)自主規制もすごいんでしょう。■養老まさに日本は自主規制ですよ。権力規制をやると嫌われる。「研究は先生方の自由です」、その代わり…。■荒俣自由だけれども予算はつかない。(笑)つまり日本の職業的学者にとっては、研究費がつかないと生殺しみたいなことになる。予算は”世のため、人のため”という市民権を得ている研究にはつくけれど、そうでないものにはまずつかない。博識学には絶対つかないんです。■荒俣ところで、少し風水の話をしますと、風水の極意は”同じことを繰り返すこと”なんですね。最近は幸せになる方法だと勘違いしているようなのですが、風水は、朝飯でいえば、おいしいビフテキをたらふくたべることより、ご飯と味噌汁で一生食いつないでゆく方法なのです。そのために、これなら一生困ることなく暮らせるという丸適マークの場所を探す。でもこれは決して幸福な状態ではなくて、同じことを繰り返すのですから、面白くもないのです。■養老流行っているようですが、そうなのですか。■荒俣風水を作った中国人の理想は不老長寿。つまり仙人になることで、生きていておもしろいとか、つまらないことととかは別問題です。『薔薇の名前』にも出てきますが、修道士を何十年もやった男が、確かに人格高潔になったけれど、たった一つの後悔は「人生がおもしろくなかったことだ」と言っていますよね。風水も全く同じで、逆にいうと、おもしろいことを求めてはいけない。まさに我慢大会に通じます。しかし、考えてみると、同じことを繰り返せる文化というのはすごい。マイマイカブリに通じます。制度にしても、主義にしても、みんなの幸せを求めて何か理想を掲げていったものは、だいたい短命です。もし本当に長生きしようとしたら、我慢とは言わないまでも耐えられる限界でやること。このただの繰り返しに意味がもてれば、きっと何か悟りの境地に達するはずだ、と。でも、これは西洋人の認識ではないんですね。つまり東洋では、半分死んでいることが生きていくことになる。
風水って、そういう感じなんだなあ。
自分は、幸せを呼ぶ法則みたいに思ったのは
ほんの上っ面、メディアに踊らされてただけだったのか。
まあ、良いことだけ信じてればいいか。
(2)話せばわかる!身体がものを言う(2003年)
人は何を表現するのか
山本容子(1999年)
「肖像画は似ていてはつまらない」から抜粋
■養老伺っていると、僕はずっと解剖をやっていたから、正反対のところがありますね。解剖は逆にイマジネーションを消していく。「このおっさん、肩にパットが詰まっているから、何年、天秤を担いできたのだろう」などと、感心していたら仕事になりません。■山本そうですね。でも、楽しいですね。■養老そう思えば、楽しいです。■山本「死体はしゃべらないから良い」と、何かに書いていらっしゃいましたね。■養老だから、逆に想像力は働くのです。「この人はなぜいまここにいるのだ」と考え出したら、際限無く広がってしまう。先ほど、「リアリティー」と言われたでしょう。それはまさに的確な表現ですね。いつも疑問に思っていて話すことですが、「リアリティー」と言う単語はおかしい。「リアル」とは”現実”ということでしょう。では、「リアリティー」とは何か。なぜ”現実”が抽象名詞になるのか。だなのから、抽象名詞の「リアリティー」は、具体的に訳せば、「真善美」になると、僕は思っています。「この絵はリアリティーが高い」は、「より本当に近く、より良いもの、より美しいものだ」と言った方が、ピタリとくるのです。■山本なるほど、そうでしょうね。私の気持ちでは「より本物だと思われる嘘」、嘘というと語弊がありますが。■養老その場合の嘘とは「抽象化」ということですね。嘘ではないが、人間は一番の真実が、つまり、その辺りから来るわけですからね。ラスコー洞窟の表現者たち から■山本三年前に、ラスコーの洞窟壁画の本物を見たことがあるのです。(略)本物を見るとわかるなと思ったのは、薄暗い中で目を凝らして見ると、内部は石灰岩で真っ白でした。そこにコントラストの強い黒と黄色と赤の顔料を使って描かれているんです。牡牛が5メートル、それが二頭、中空で向き合っている。いまにも動き出しそうな迫力に。寒イボが出る思いでした。(略)私はどうやって描いたんだろう?道具は?足場は?光源は?……と学芸員の方にいろいろ質問したのですが、一番不思議に思ったのは、1万7000年も前に「なぜそこまでして描きたかったのか」ということでした。狩猟に関する儀式とか呪術、祈りのためだろうと言われているようですが、それだけでは収まらないものを感じたのです。■養老収まらないというのは、どういうことですか。■山本いまの研究では、動物たちの絵はおよそ5000年にわたって描き継がれてきたものだそうですが、その間、スタイルの変化が見られない。普通、動物を描けば木や風景も描きそうなものなのにそれもない。とすると、やはり信仰に類した理由でとも思うのですが、5000年の間、本当にそれだけだったのだろうかと。絵に上手下手はあっても、技法を見ると例えば牡牛は、背中はモシャモシャと毛が立っていて、喉はスーッと鋭利な線になっている。モシャモシャは石や手などをこすりつけて描く。だけど喉の鋭利な線は、紙版画のように何かを当てて、顔料を口に吹き付けて描いたに違いない。つまり、これは描写になっているのです。描画力が優れている。■養老表現になっているわけですね。■山本はい、単に形を描くことが目的だったのではなくて、描きたかったということではないかと。■養老非常に良い話を伺いました。要するに、過去の人類と現在の人類の一番大きな違いは、僕は”表現”だと思うのです。ホモ・サピエンス以前の段階には、実用の道具はあっても表現行為は見られない。それがいつの間にか表現になってくる。きれいになってくる。石の斧やナイフなどの道具を見て、新しい時代ほど洗練されてくるのがわかる。けれど、驚くのは絵なのです。突然、描き出すという感じなのです。■山本ネアンデルタール人には、そういう能力がなかったんでしょうか。■養老あったにしても社会的に認知されないとか、だれにもわかるような絵になっていなかったのではないか。■山本おもしろいですね。私がラスコーの表現で特に感心したのは、彼らが形遊びや見立てをやっていたことです。洞窟の凹凸を利用して描いた牛のお腹は、横から見ると迫り出しているし、石のムラの上に描かれた鹿は川を渡っているように見える。ちゃんと遊んでいる部分がある。■養老やはり、アーチストがいたのではないですか。■山本結局はそういうことですね。でも、このような真っ暗のところに、誰に見せようと思って描いたのかが不思議なのです。聖霊的なものとか何かになるのでしょうか。表現とはたぶん、見せる行為ですから。
アーチストが太古からいたって、不思議ではないよな。
誰かに見せるとかじゃなくて、書きたいから書くという
本来の意味の「仕事」だと別の対談で
指摘してたのは村上龍さんでした。
貴重とか希少とかでなく
そういう視点でラスコーの壁画を見ると本当に面白い。
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(3)脳が語る身体(1999年)
サルから見えるもの、死体から見えるもの
対談者・河合隼雄・立花隆(1994年)
■河合ヒト化の条件を大局的に見ると三つ取り上げてはどうか、と僕は思っているんです。一つは自然という立場から、直立二足歩行するという、運動形態ね。それから、社会的な立場から、家族という社会的単位を持つということ。三つ目は、文化的な立場から見て、コミュニケーションの手段として言葉(音声言語)を持つ。これは、まさにシンボルを操るという能力が背景になるわけです。この三つの条件を備えた高等なサルをヒトと呼んだらと、僕は思っているんです。それら三つともそろわんとあかん。■立花ロボットがちょうどそこで苦労してますね。二足歩行がなかなかできないし、自然言語処理ができない。■養老私も、しょっちゅう人間とは何かということを考えるんですけど、外側から考えると、いま河合先生がおっしゃったようなことになると思うんですが、もう一つ認知という問題があるんですね。種を定義するとき、お互いに同種と認める、というか、お互いに生殖行動に入る集団を「種」と認めればいいというふうにラジカルに主張する人がいます。普通、種というのは支配する集団ですが、交配ということをさらに絞っちゃうと、認知。お互いに人間だと認めるのが人間だというふうな定義が一つはできると思うんですね。それは、私の職業自体が、その定義に密接に関係しているからなんです。例えば死んだ人は人でないのか、あるいは、どこまで体が壊れていくと人でなくなるかというようなことを、私はしょっちゅう具体的に考える。普通の方はお考えにならないですけれども、われわれは考えざるをえない。私にとって、死体は人です。死んだ人も、人であると見た目で認知できる以上、それは人だという考え方を私はとっている。私の場合には、認知的な定義として、人が人であると思うものは人だと考えたい。■立花コロンブスの後、スペイン人がどんどん新世界に進出してインディオに出会いますね。そして、インディオが人間かどうかで大論争が起きるんです。とうとう「人間である」と主張する派と、「あれは人間じゃないんだ」と主張する派が国王や大司教の前で大論争をやった。人間じゃないと主張する派には、奴隷に使いたいという経済的理由が動機としてあるんですが、現実問題として、例えば白人がアフリカに行って原住民に最初に出会った時、これは人かサルかという迷いは心理的に結構あったんじゃないかという気がしますね。■河合人間とは神の子であるといった観念が小さいときから形成されていて、その枠組みの中にはめて考えますからね。■養老僕、中学・高校でイエズス会の学校に行ってました。まず習ったことは、人間とは理性と自由意志と良心を持つものであるということでした。僕は、その三つを多少とも欠くのが人間じゃないかと思っているんですが(笑)、これは文学的定義ですね。ただ、人間をポジティブに定義するなら、さっきおっしゃったシンボリックな体系を持つかどうかが一番いいんじゃなかろうか。例えば数の勘定とか、言葉、それもある程度複雑な言葉ですね。あるいは将棋などのゲーム。チンパンジーが将棋をさすようになれば、人間であると認めてもいい。もっともこれを決めているのは脳の大きさですから、絶対的なものではないということは間違いない。それを言い出すと、非常に多くのものが連続的なんです。生死の問題もそう。具体的に見ているとどこで死んだかわからないということが必ず起こる。ただ、われわれの認知形式はほとんど言語に頼ってますね。最終的には。その言語は、どうしても連続しているものを切ってしまいます。言語を使うから切るんであって、言語を使わなきゃおそらくあいまいなままです。例えば自然の中で暮らしているとき、チンパンジーにばったり会ったり、黒人にばったり会ったりする。それを人間である、つまり自分の仲間とみなすか、みなさないか。これは、その場の状況で、その人によって決まるわけで、多分、簡単な答えは出ませんでしょう。
知の巨人たちの対談、3人だと鼎談っていうのか。
情報量がものすごい。
河合さん・立花さんもすでにお亡くなりになってしまったので
そういう意味でも貴重だけど。
この中で、立花さんの発言で
経済生産性のために、奴隷に人権を与えたがっていた
っていうのって
西洋化した近代社会のロールモデルなのか、と深読みしてしまうな。
それから、養老さんの今もおっしゃる主張
人間も動物であり、自然の一部だという主張は四半世紀前から
一貫してたのだな。