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続・吉川さんの書から良書の条件を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

理不尽な進化 増補新版 ――遺伝子と運のあいだ (ちくま文庫)


理不尽な進化 増補新版 ――遺伝子と運のあいだ (ちくま文庫)

  • 作者: 吉川浩満
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2021/09/24
  • メディア: Kindle版


第二章 適者生存とはなにか


お守りとしての進化論


キャッチフレーズの由来ーー「適者生存」の起源


から抜粋


ダーウィンは有名な『種の起源』において、生き物たちがみせる驚くべき精密さと多様性を「自然淘汰」(natural selection)の原理を用いて説明した。(※)

生き物は環境の変化からさまざまな影響を受ける。

ある個体が新しい環境と相性のよい能力や機能をもっている場合、その個体は生き延びるだろう。

逆にソリがあわなかった場合には死んでしまうだろう。

生物の精密さや多様性は、そうした「生存闘争における有利なレース」が積み重ねられた結果である。


※=ダーウィン生誕200周年『種の起源』150周年の2009年、『種の起源』の新訳(渡辺政隆訳)が光文社古典新訳文庫から刊行された。

簡潔な訳文でぐいぐい読ませる(もともと同書は学術書ではない。その分量と精緻な議論によって難物であることに変わりはないが)。

ほかにも『ビーグル号航海記』は荒俣宏による新訳が出たし、『人間の由来』という名でも知られる『人間の進化と性淘汰』は文一総合出版の『ダーウィン著作集』に収められている。

最晩年のミミズ研究をまとめた『ミミズと土』も味わい深い。

残るは岩波文庫でときどき復刻される1931年刊行の『人及び動物の表情について』だが、愉快な写真とイラスト満載のこの作品をより楽しめるような新訳がほしいところだ。

ダーウィン思想の解説では内井惣七『ダーウィンの思想』を推す。

伝記としては、まずは松永俊男『チャールズ・ダーウィンの生涯』、それにデズモンドとムーアの『ダーウィンーー世界を変えたナチュラリストの生涯』が決定版だ。


ダーウィンものは奥が深い。


まったく知らなかった書もあった。


進化論への独自考察もさることながら


ガイドブックとしても機能させていただきたく。


良書の共通して持っている特徴とでもいうか。


共振した作家さんの仕事の一つとでもいうか。


これに「適者生存」(survival of the fittest)というキャッチフレーズ、あるいはスローガンを与えたのが、スペンサーであった。

後にはダーウィン自身もそれを用いるようになる。

アルフレッド・ラッセル・ウォレスがその採用を強く薦めたともいわれている。

ウォレスはイギリスの博物学者で、ダーウィンとは独立に自然淘汰のメカニズムを見出し、ダーウィンとともに自然淘汰説の共同発見者となった人物だ。

結果として、ダーウィンとウォレス、つまり自然淘汰説の元祖と本家が、このスローガンにお墨付きを与えたことになる。


ちなみにウォレスがこのスローガンを推奨したのは、それによって”natural selection”の”selection”という語がもたらす誤解を回避したいと考えたからだという。

ちょっと想像できないかもしれないが、ダーウィンが自然淘汰説を発表した当時、”selection”、つまり淘汰/選択の行為を執り行うのは、結局のところ神ではないのかという議論が起こった。

「淘汰/選択」という言葉は、「誰が淘汰/選択するのか」という行為主体の存在を連想させるが、当時においてそうした主体の第一候補は神様だったのである。


『種の起源』第4章に付けられた章題「自然淘汰」は、ダーウィン自身の手によって、後に「自然淘汰すなわち最適者生存」と変更された。

また、「自然淘汰」という言葉が初めて出てくる第3章では、「しかしハーバード・スペンサー氏がしばしば用いている”最適者生存”の語はもっと正確であり、ときには同様に便利である」という一文が挿入されている。


スペンサーさんというのはダーウィンと


同時代を生きたイギリスの思想家とのこと。


「進化」を人類だけでなく、


神羅万象を紐付けた方らしい。


最近読んだ、マット・リドレーさん系列の


始祖といった感じなのか。


『種の起源』も読んで共鳴され支持しての


生物学原理』という書を書かれたと


この書でも引かれておられる。


ダーウィンの”功績”であり逆に


原理主義からすると”罪”ともいえる


人間の起源は神ではなく科学で立証できる


というものが、”淘汰・選択”であるならば


それは神が行なっている、というイタチごっこ


水掛け論の子どもの喧嘩の如しの


展開だったというのはこれまた興味深いけど


実際やるせない。


そんなこと言ったらキリがないではないか。


進化を”科学”だと気づかせたのも”運命”で


それは神の采配である、みたいで。


そういったその頃の世間の輩は何を言っても


交わらないのかもしれないなあと嘆息しか出ない。


こんな結果になったのは、ダーウィンの真意を理解できなかった一般大衆のせいなのだろうか。

そうとばかりもいえない。

学問の世界で起こったのも同じ非ダーウィン革命だったからだ。

当時の専門家の多くも、ダーウィンの真意を十分に理解することができなかった。

なかでもダーウィニズムの核心であるはずの自然淘汰説は20世紀前半には息絶え絶えの状態だったといわれている。

自然淘汰説が正しく理解されるには、現在の主流派である総合説(ネオダーウィニズム)が進化生物学を革新した1940年代を待たなければならなかった。

学問の世界でさえ、ダーウィンが正当な評価を得るには100年がかりの二段階革命を要したのである。


では、発展的進化論にたいするダーウィン進化論(ダーウィニズム)の革命性はどこにあったか。

いろいろな言い方ができると思うけれど、とりあえず大ざっぱにいえば、生物進化を自然主義的に説明する道を拓いた点にある。

自然主義的に説明するとは、神や形而上学に頼らず自然科学の手段のみを用いて説明するという意味だ。


先にも触れたように、次の三条件ーー個体間に性質のちがいがあること(変異)、その性質に伝えられること(遺伝)ーーがそろった場合に進化(遺伝的性質の累積的な変化)が起こるというのが自然淘汰説の要諦である。

そしてこれらはすべて自然主義的な解明の対象である。


さまざまな人たちの思想や経験則から


アップデートされたってのは読んだことがあるが


さらにそれを世間で揉まれてのダーウィニズム。


ダーウィンが今それを見たらなんと申すのだろうか。


「いや、私が言ったのはそうではなく…」と言ったりして。


リチャード・ドーキンスは、これまで人間が考案した進化学説は、煎じ詰めれば三つしかないと言っている。

すなわち、神学、ラマルキズム、そしてダーウィニズムである。

そのなかでダーウィニズムだけが、神学のように超自然的な存在や現象を想定したり、ラマルキズム(発展的進化論)のように形而上学的な原理を前提したりすることなく、あくまで科学的に生物進化のメカニズムを説明できるのである。


なお、神学や発展的進化論とダーウィニズムのちがいは、学説上の些細な違いではない。

帰結は重大である。

これによって生物世界にたいする見方が一変するからだ。

それは「存在の連鎖」から「生命の樹」へ、という転換である。


進学においても発展的進化論においても、あらゆる生物は「存在の連鎖」(chain of being)ーーーもっとも下等なものからもっとも高等なものまでもが連続的につながった述べたて階梯ーーーの一員であった。

これはプラトンの昔から長い間西洋の思想で影響力をもっていたイメージだ。

そこでは進化とは、共通のゴールへと向かう階梯を上昇していく過程にほかならない。

それぞれの生物種はその階梯における位置ーーーゴールからの距離や方角ーーーによって優劣を比較することができるし、あるべき未来の姿を予言することもできる。


それにたいして、ダーウィニズムにおいては共通のゴールなど存在しない。

そうである以上、ある生物種とべつの生物種の優劣を直接に比較することなどできなくなるし、あるべき理想の状態や未来の姿といったもの予言することも難しくなる。


「未来を予測するなら、現時点で大いに繁栄しており、ほとんど打ち負かされていないか、まだほとんど絶滅させられていないグループは、この先も長期にわたって増加を続けることだろう。

しかし、そのグループが最終的に繁栄するかは誰にも予測できない。

なぜなら、かつては大成功を収めていたグループで今は絶滅してしまっているものも多いからである。

(Darwin 1859-2009: 上222)」


その結果、ダーウィニズムがもたらす生物進化のイメージは、神学や発展的進化論が想定していた存在の連鎖ではなく、不規則に枝分かれする樹木のようなものになった。

それが「生命の樹」(tree of life)である。(※)

このようにして、ダーウィニズムは、生物の世界は整然としつらえられた存在の連鎖ではなく不規則に枝分かれする生命の樹であるという、従来とはまったく異なるい見方を提示することになったのである。


※=三中信宏・杉山久仁彦『系統樹曼荼羅』は、古今東西の系統樹の図像を蒐集・分類・理解した奇書。

読んでも眺めても楽しめる作品だ。

本書の関心からはとくに、美麗な系統樹をたくさん残したヘッケルと、単純なダイアグラムしか残さなかったダーウィンの比較が興味深い。

両者のちがいは、絵心の有無(だけ)ではなく、系統樹にたいする考え方のちがいからきていることがわかる。


自然淘汰、適者生存についての深い論考・研究。


よくわからないところも多々あるのだけど


第二章までとして、またあらためる。


その前に宿題というか気になった点。


・第3章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれたか


・終章 理不尽にたいする態度


では、ドーキンスとグールドの考察になり


ドーキンスの勝ちであるとされているとは


養老先生の解説から。


しかし、2章までの流れでは、


進化は偶然の要素が強くそれをベースにしていたのは


グールドさんだったはずで


なぜそうした対決結果になるのか?


それとも自分の読み方が浅いのか。


ちと、いや、かなり興味深い。


なんにせよ、グールドさんも


ただ負けた酔狂って訳では


当然なかったはずで、何を言いたかったのかを


ディープに検証されている模様で。


この書を深く読むためには


ドーキンス・グールドさんを


もう少し深めておきたく一旦この書を置きまする。


ちなみにこんな素敵なページも。


朝日出版社ウェブサイト


余談だけど、ここでまた新たな興味というか


すでにあったと言える三中先生たちの系統樹について。


さらにあとがきでは、著者に影響を与えた書として


言うに及ばず『利己的な遺伝子』と、


社会学者の真木悠介先生の『自我の起源』。


途中で鶴見俊輔さんの登場も忘れ難い。


なんかリゾームのようにうねうね広がっていく


興味の様自体が”系統樹”だよ、と悩ましい


残暑厳しい、9月の始まりでございます。


 


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