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笠井博士の書から”江上先生語録”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


科学者の卵たちに贈る言葉-江上不二夫が伝えたかったこと (岩波科学ライブラリー)

科学者の卵たちに贈る言葉-江上不二夫が伝えたかったこと (岩波科学ライブラリー)

  • 作者: 笠井 献一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/06/18
  • メディア: Kindle版

1他人と戦わない

たくましい科学者でなくてよい


から抜粋


江上先生は研究室でもことあるごとに、

「私はたくましい科学者ではなくて、おとなしい科学者なんですよ。」とのたまった。

そのたびにみんなは大爆笑。

そのあまりの倒錯ぶり。

まさに「先生、ご冗談を」である。

先生はぬけぬけとこうおっしゃる。


私はおとなしい科学者なんですよ。

名古屋大学に理学部ができたとき、柴田雄次先生から、化学教室に有機化学の講座を作るから、そこの教授になるようにと言われたんです。

そのとき先生に私が言ったことは、あまり優秀な人を集めると、とかく一匹狼になって教室がうまく運営できない。

だから優秀かどうかは二の次にして、おとなしい人を集める方がよいので君を選んだ、ということです。

だから私はあまり優秀ではないが、おとなしいのがとりえなんです。


江上先生をおとなしいと評価した柴田先生の目は節穴同然。

おとなしいと自称する江上先生も、自己認識能力に大いに欠陥がある。

事実はまったくの正反対。

まずは物理的にやかましい。

普通の人よりも音程が一オクターブは高い。

それにアンプのボリュームつまみが壊れている。

目の前1メートルのところにいる相手に、講義室の最後列まで届くような大声でまくしたてる。

いったん口が回り出したら、マシンガンのように言葉と唾がほとばしる。


本や雑誌の企画で、対談とか座談会の記事がよくある。

人選が適切なら、なかなか有意義な記事になる。


江上先生が本領を発揮できるのは個人競技においてであって、聞き手を前にして一方的にしゃべりまくれる状況でなくてはならない。

対談や座談はいわば団体競技で、お互いに相手の言うことをよく聞き、流れをよく把握しつつ自分の意見も披露するなど、バランス感覚を保って協調してゆかなければならない。

ところが先生はいったんしゃべり始めたら、しゃべりたいことがあふれ出てくるので、たちまち独演会になってしまう。

これでは対談、座談なんか無理な話だ。


すごい興味深い人だ。隣にいたら嫌かも。


でもすごい成果をあげてるから


そのポジションをキープしていたり


お弟子さんがついていかれたのだろうことは


コウジカビが作るRNA分解酵素


リボヌクレアーゼT1のエピソードでも


なんとなくわかる。


その実験内容はよくわかりませんが。


先生は宝剣エクスカリバーを手にしたのだから、その気になればレースに参戦して勝者になれたかもしれない。

優秀な働き手ならいくらでも集められた。

でもそれはしなかった。

激戦地で手柄を立てようとすれば失うものも大きい。

自分が参戦しなくたって、参戦するたくましい科学者はいくらでもいる。

自分はおとなしい科学者として、優れた科学者を育てる仕事、今はまだ地味な分野を育てる仕事に徹しよう。

つまり、江上先生が言う「おとなしい」研究者とは、人がやらないような研究を意図的に取り上げる、あまのじゃくな研究者ということである。


たくましい研究者も必要かもしれないが、自分はそうしない


から抜粋


二重らせん』という本を読んだことのある読者も多いだろう。

フランシス・クリックとともにDNAの二重らせん構造を提唱したジェームズ・ワトソンが、この大発見の経緯を書いたものだが、関係者の人間関係まで含めた、時に率直すぎるほどの描写が大いに話題になった。


江上先生は日本の核酸研究の草分けだったので、日本語に翻訳してほしいと依頼され、弟子(で私にとっては先輩)の中村桂子さんとの共訳で1968年に日本語版が出た。

この日本語版はたいへんに読みやすいが、私の経験から推測すると、先生が訳したものではない。

中村さんがほとんどを訳している。

先生は名前を貸しただけ。

想像するに、出版社から翻訳を頼まれたとき、先生のことだからきっと、私は忙しすぎて自分で訳す時間なんかないが、私の弟子にこういう仕事に「最適任」の者がいる。

その人と共同で良ければ引き受けるよ、と提案したのだろう。

先生の名前を使わせてもらうために、出版社はその条件を受け入れ、先生は仕事の全部を中村さんに丸投げしたに違いない。

中村さんが丹精込めて翻訳を仕上げ、その原稿を先生に渡すと、多分その翌日くらいには点検が終わって「だいたい良いよ。だけど、こことここはこう直した方がいいかな」という言葉で感性となったのだと思う。

それが先生のいつものやり方だったから。


後で中村さんに、3ヶ月くらいかかったんですかと聞いたら、出版社から1ヶ月でやってくれと頼まれて、電車の中でまで必死になって訳したのだそうだ。


ところで先生は日本語版のあとがきにこんなことを書いている。


この本を読んで、やはり、日本の科学が世界の第一流になるためには、ワトソン、クリックその他この本に現れる科学者たちのようにたくましい科学者がでなければならないのだろうと痛感する。


先生の目にはワトソンやクリックがたくましい科学者、つまり戦う科学者に映った。

ワトソンは自著の中に実に率直に書いているが、DNAの立体構造をなんとしても一番乗りで解明したい、最大の競争者であるライナス・ポーリングには絶対負けたくない、という強烈な思いに駆られていた。


「そんなことやってもいいのかなあ?」

と言いたくなるようなこともやっている。


江上先生はワトソンのような、アメリカ型と言うべきか、競争意欲をバネにした研究者が出てきたことにやや戸惑っている。

自然を知りたいと素朴に願っているおとなしい研究者とは違って、闘争的で、競争して、他人を打ち負かして、発見一番乗りを果たしたい野心を隠すこともしない新しいタイプの研究者の出現を見た感触が、このあとがきを書かせたのだ。


科学の現実はこうなってきたのか。

それはそれで受け入れねばなるまい。

日本でもこういった科学者が増えてゆくのだろうし、それは日本の科学研究が欧米と並ぶためには必要なのかもしれない。

でも自分はワトソンとはまったく違うタイプで、戦う研究者にはなれない。

あくまでおとなしい研究者に止まるのだ。

自分はワトソンのように、他人に負けたくないということをエネルギーにして、攻撃的に研究を進めることはできない、と言っているのである。


先生は圧倒的な神懸かりパワーで多くの弟子を洗脳してしまったのだが、強制することは決してしなかった。

いつも弟子をあおりたて、けしかけたが、それを受け入れるかどうかは本人次第だった。


これはつまらない研究で、これは意義のある研究だなんて分けることはできないよ。

生命現象はみんな結びついているんだから。

つまらなそうに見えることだって、やっているうちに、どこかで本質とつながっていることがわかってくる。

今は重要でないと思っていても、いつか重要なこととの接点がきっと見つかるよ。


初めから重要だった研究なんてないよ。

今、重要だと思われている研究だって、みんな誰かが重要なものにしたんだから。


みんながやっているという理由で研究テーマを選ぶ人がいるけれど、流行に乗り遅れまいとあたふたしているだけだよ。

君たちは誰かが重要なものにした研究に便乗なんかしないで、まだ重要でない研究を、自分の手で重要な研究に育てなさい。


流行っている研究は君がやらなくても必ず誰か他の人がやるに決まっている。

そんなテーマをやってたってつまらない。

自分のやっている研究が一番面白いと思いなさい。

面白くないなら、君の手で面白いものにしてやりなさい。

そうやって君だけができる研究をやりなさい。


私の使命は研究者を育てることなの。

そのためには経験がない学生であっても、本人が興味と情熱と責任を持てるような、独立したテーマをやらせるべきなのよ。

指導者がやらせたいことをやらせたり、チームでやるような大きな仕事の一部を分担させたりするのは、科学者を育てるには有害きわまりない。

だから君たちにはでいるだけ大きな選択肢を与えようと思う。

その代わり、自分が選んだ以上、そのテーマに関しては君たち自身が全責任を持ちなさい。


実験が失敗したら大喜びしなさい。


君はこういう結果になるだろうと予想していたのに、そのとおりにならなかったので失敗だったと言っているけれど、それは君の予想の方が間違っていたんだよ。

それとも何か知られていない現象があって、それが原因なのかもしれない。

こんなことはまだ誰も見つけたことがない。

これは未解決になっているこれこれしかじかの問題を解く手掛かりになるかもしれない。

だから君の実験は大成功だったんだ。

君は大喜びしなきゃいけない。

もっといろんな角度から調べて、新発見だということを確実にしなくちゃ。

それにはこんな実験をやるのがいいよ。


自分の考えに固執する人、自信を持ちすぎる人は、指導者になったとき、部下が自分の期待と違う実験結果を出すと、こんなはずはない、お前が悪いのだと言って責めてしまう。

実験結果はいつも正しいのだから、自分の考えが間違っていたと謙虚に認めなくちゃいけないのにね。

自分の予想した通りの結果を出すように部下に圧力をかけると、部下も指導者の気に入るデータだけを報告するようになり、間違った結果が公表されることになるんだね。


私は君たちの学問上の先輩にすぎない。


自然は偉大だから、どんなに知識や経験が豊富でも、知らないことがいっぱいある。

だから先生も弟子もしょせんは50歩100歩だよ。

私が考えたり言ったりしたことが、君たちのものより正しいとは限らない。

実験をやってみなければわからないことなんだよ。


生命は人智をはるかに超えているんだから、人間の浅はかな頭で考えだしたことなんか、その偉大さ、神秘さには敵うはずがないよ。

自然から教えてもらうという謙虚な姿勢が、結局は真理の発見に繋がるんだよ。

自然と向き合っているとき、私の立っている高さは、君たちとほとんど違わない。

生命のとてつもない高さの前では、無視できるほどの差でしかないんだ。

だから私は君たちの学問上の先輩以上のものではないの。


前言撤回いたします。


こういう人が学問の場や、職場で隣にいたら幸せだと思います。


まえがき から抜粋


私は江上不二夫先生(1910ー1982)に科学者になるための指導を受けたが、その間にたくさんためになる言葉を聞いた。


私だけではない。

直接の弟子はもとより、付き合いのあった人、間接的に聞いた人まで含めて、先生の言葉に支えられて、幸せな科学者になった人がたくさんいる。

ただし江上語録という名前の本は存在しない。

先生の言葉を刷り込まれた科学者たちの共通の記憶という無形文化財である。

それが心に強く刻まれ、いつまでも影響を与え続けた。


しかし先生が他界して四半世紀以上、このまま放っておけば、聞いたことのある人々の退場とともに消えてしまう。

そんなことはもったいないので、きちんと書き残したいのである。


もとは生命を研究する科学者を相手に語られたもの、そここめられた見方、考え方、攻め方は、自然を知りたい科学者すべてに通じるものである。


自分はもう科学者になれるわけでは


ございませんが中村桂子先生を読んでて


興味が出てきて手に取ったこの書ですが


江上先生の言葉はなんか響くものがございます。


一般の仕事でも通用すると強く感じた


次第でございます寒くなってきて関東地方


明日からもう師走なんて時の速さは


とどまるところを知らなさすぎでございますと


感じ入る今日この頃です。


 


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養老先生のシンポジウム本から”普遍性”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


脳と生命と心―第一回養老孟司シンポジウム (養老孟司シンポジウム (第1回))

脳と生命と心―第一回養老孟司シンポジウム (養老孟司シンポジウム (第1回))

  • 出版社/メーカー: 哲学書房
  • 発売日: 2000/04/01
  • メディア: 単行本

養老孟司

世界観に開いた穴


まえがき:シンポジウムのいきさつと目的


柴谷篤弘氏の主催する構造主義シンポジウムが大阪の千里で行われたのは、もう10年以上前になる。

私もなぜかそこに出席した。

当時の生物学の常識ではあまり扱われない問題を積極的に評価したシンポジウムとして、歴史に残るものだと思っている。


とはいえこのシンポジウムは、とにかく妙な人の集まりだった。

日本側のメンバーの主だった人たちは、今回の私のシンポジウムにも名を連ねている。

要するにはっきりいうなら、集まった人たちは、学会のいわゆる常識にはまらない人たちだった。

招聘された外国人たちも、いずれも変な人たちだったと思う。

フランシスコ・ヴァレラも来たが、かれの話はいずれ脳につながる話だと思った。


柴谷氏が忙しくなったこともあり、同趣旨のシンポジウムがないのを残念に思っていた。

学会というところはどこでもそうだが、暗黙の常識という縛りがかかっている

日本ではそれに世間という枠がさらにかかっている

世間から出て暮らしている人はいないから、その縛り自体を意識化することはきわめてむずかしい


科学を疑問を追求する作業と規定するなら、学会というところはその疑問が正当であるかどうかを決めるように機能している。

私は学問上の疑問は個人のものだと思っている古いタイプの人間である。

それなら疑問を学会が正当かどうかを決めるのはおかしい。


まったく同じことが倫理にいえる。

倫理とは、取り返しのつかない決断をするときに、どういう原則をとるかという、個人的な問題である。

しかし現在の常識として、倫理は間違いなく手続きと見なされている。

倫理委員会というのが、典型的にその種の思考を示している。

あれは昔風にいうなら、倫理委員会ではない。

そもそも倫理は委員会で相談して決めるような問題ではない。

倫理委員会の実情は、ルールを策定する委員会である。

それなら倫理といわず、ルール策定委員会といえばいい。


科学の疑問もまた、基本的には個人の疑問である。

時代や文化によっては、幸福なことに、個人の疑問がそのままその文化や社会に属する人たちの一般的な疑問になりうる。

したがってそれに解答することは、社会的に有益なことだと見なされる。

しかし個人の疑問はしばしば、ただいま現在の社会にとって、かならずしも意味のある疑問とは見なされない。

疑問によっては、むしろ有害と見なされることもある。


疑問はじつは世界観に開いた穴である。

その穴に気づくと、人はかならずそれを埋めたいと思う

それが学問あるいは科学である。

既存の世界観にも、当然穴があることは、公式に認められる。

いわばその公式に開いた穴を埋める作業が、学会に正当だと認められる学問である。

しかし非公式な穴も、際限なく開いているという気がする。

そうした穴に気づいて、それを埋めようとするとき、非公式な穴については、ふつうそれをなにかで簡単に覆ってしまう。

適当な説明をとりあえずつけておく。

それがいわゆる俗説である。

あるいは問題をさまざまな方法で隠蔽する。

どことなく不安になるからである。

それを追求する作業が、公式の世界観自身を転倒させることを恐れるからであろう。


現在はマスメディアが発達している。

しかしメディアが発達したということは、語る内容が増えたことを意味しない。

いうことがないから、メディアはしばしば肝心の問題つまり非公式の穴を隠すために機能するようになる。

脳死問題が極端に大きく報道されるのは、その典型例である。

なぜそれが「大きく報道されなくてはならないか」、それについて報道関係者はまったく答えない。

「日本で初めてだから」を繰り返すばかりである。


私が平成7年に東京大学を退官したとき、パーティーの席上で柴谷氏が挨拶をしてくださった。

そのときに柴谷氏が語ったことは、日本のメディアのその種の態度についての話である。

当時はダイアナ妃の個人的行動に関する話題がメディアを賑わせていた。

英国のメディアでは、この話題はエリザベス女王亡き後の英国が、共和制に移行するか否かという問題の一部をなしている。

しかしその面を、日本のメディアはまったく報道しない。

柴谷氏はそう語ったのである。


私はメディアの悪口を言いたいのではない。

科学もまた、基本的にはメディアである。

”Publish or perish”という英語の台詞は、それをよく示している。

それならメディアと同じことが、体制的な科学、つまり正当と見なされている科学の、どこかの段階で生じていると思わなくてはならない。

それがいうなれば学会の機能である。

学問の世界にも、体制的な疑問と、反体制的な疑問がある。

この場合の反体制とは、体制に反対するという意味ではない。

体制が正統、適切、正当と見なすか否か、そういう問題である。

しかし疑問は単に疑問であって、正当性、正統性とは、本来なんの関係もない。

にもかかわらずある種の疑問は「尋ねてはいけない」のである。

ダイアナ報道はなぜあんなに大きいのか。

脳死報道はなぜあんなに大きいのか。

それを訊いてはいけない


ただしそれを放置すると、しだいにわけがわからなくなる

報道だけを読み、論文だけを読んでいると、ダイアナ問題とはなにか、脳死問題とはなにかの答えが出てこない。

いろいろなことについて、さんざんそう思ってきた。

だから素直な疑問をそれなりに考えよう

そういうつもりでシンポジウムをやりたかった

それだけのことである。


理路整然、シンプルな理由と言わんばかりだけど


この論理展開は先生ならでは、高次レベルと


言わざるを得ない。


誰しもがそこに到達できるとは思わないけれど


メディアと世間への”態度”というか、それらに対する


”疑問”とか”立ち止まり方”がなんか頷けてしまうのは


自分もそういう要素があるからなのか。


ひとつ言えることは、仮にそうだとしてもそれが


研究発表や会合など持りシンパシーを表すには


普通ならばなにかに忖度して成立するようなものを


養老先生たちならばそうならないようですな。


ただし費用その他を外部に求めると、素直な疑問を追求することがむずかしくなる。

どうしても遠慮や配慮が生じるからである。

それならなにもかも自前でやるのがいちばん簡単である。

やった結果は公表するが、元々一種の私的会合だから、なにをいおうと、別に誰からも文句をいわれる筋合いはないはずである。

さらにいえば、この国の憲法は、言論・出版の自由を確か保証していたのではないかと思う。


この書が普遍性を帯びているのは刊行から


20年以上経ていると思えないと


身体が感じる事から明らかではなかろうか。


他の論文発表者は以下で、併せて討議もされている。


・茂木健一郎

クオリアと志向性

「私」という物語ができるまで

 

・郡司ペギオ幸夫

クオリアと記号の起源

フレーム問題の肯定的意味

 

・澤口俊之

前頭前野の動的オペレーティングシステム

 

・松野幸一郎

<さすらう不都合>ということ

 

・計見一雄

精神分裂病と<肉体性を持つ言葉>

 

・池田清彦

同一性、記号、時間

 

・団まりな

物質の雑音状態


あとがき


シンポジウムの構成など


から抜粋


全員の問題意識が同じだったわけではない。

特定の主題もおいたわけではない。

しかし討議を終わってみて、私が興味を持った根本的な問題の一つはたえず変化していくものとして生物というシステムと、それ自体は変化しないという性質を持つ情報とが、どのように関係しているか、ということだった。

生命、時間、記号、伝達、そうしたものの基礎にある同一世と差異、これらはいずれもたがいに関係しあった概念でもある。

しかしそれを全体として意識化し、それぞれの専門的な議論をどこに位置付けるか、それはまだ考える余地が十分にある。

次回のシンポジウムでは、そうした点を私自身は追求してみたい。

そう思っている。

しかしもちろん、具体的な問題もたいへん面白い。

それはここに収録された論文や討論に見るとおりである。


茂木先生が世に出れたのは、


このシンポジウムのおかげだったと仰っていた。


池田先生は養老先生と深く付き合うきっかけは


このシンポジウムだと仰っていた。


養老先生の果たした役割はご本人の意識、無意識に


かかわらず多大であるといわざるを得ない、


なんてのは自分に指摘されるようなものでなし、


夜勤明け休日の本日、北野武監督『首』を拝見し、


日本の社会の縮図ってほぼ変わってないよなあ


約500年前から、とか、


これは西欧からしたら未開の野蛮人と


思われただろうなとか、


また別の視点からだけど、かなり重たいものを


突きつけましたなあ北野監督は、とか


北野監督と養老先生は似ている所多いのでは


とか思いつつ映画館からの帰り地元サイゼリアで


コーヒーをいただきながらの読書の冬本番


直前な午後でございました。


 


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村上龍氏と中村先生の対談から”無知の知”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

啓蒙的なアナウンスメント〈第2集〉世界の現状

啓蒙的なアナウンスメント〈第2集〉世界の現状

  • 作者: 村上 龍
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2003/03/30
  • メディア: 単行本
はじめに 
村上龍 から抜粋
わたしが主宰するメールマガジンJMMでメディア特集を企画して、この対談集に収められている女性ニュースキャスターとの対談・座談会を行なった。
だがそこで企画は途絶えてしまった。
内外の変化に適応する文脈の整備ということで、いつも問題になるのは教育とメディアだ。
教育とメディアは日本語に守られているために、たとえば金融や企業経営などに比べると適応が遅れているなどと指摘されることも多い。
JMMでは何度か教育の特集をした。
だが結局メディア特集を編むことはできなかった。
教育では、「症状」がわかりやすい形で発生しているのに対して、メディアに関してはほとんど症状がないという理由による。
日本のマスメディアは、症状を露わにするどころか、格差を伴った多様性を隠蔽する機能を持っていると思われる。
だがそれが日本に特有のものなのか、内外の変化に適応できずに没落する社会に共通の現象なのかはわからない。
わたしは繰り返し日本のマスメディアを批判してきた。
だがもちろんそれは「俗悪番組」の批判などではなかった。
いわゆる俗悪番組はどの国にもあるし、活力を失った国ほどそういったカタルシスを必要とするものだ。
わたしがマスメディアを批判するのは、すでにこの社会にある対立と格差を具体的に論議する前提をまったく探そうとしていないように見えるからだ。
当たり前のことだが、対立は日本社会だけではなく、世界中にフラクタルに存在する。
アメリカとイラクの対立、米英と独仏の対立、アメリカの政治・軍の内部にもあるだろうと予想される対立、イギリスの首相と議会、世論との対立、対立の数と種類はほとんど無限で、この世界は対立が基本となって成立していると言い換えることも可能ではないだろうか。
そういった世界に対し、「一丸」「一致団結」というキーワードで理解し、対応するのは難しい。
わたしはJMMにおいて、対立を基本とする論議の文脈を整備することを目標にしている。
この対談集の「啓蒙」にはそういったニュアンスがある。
生命科学・バイオビジネス
中村桂子(JT生命誌研究館館長)
May 2002
潤沢な予算をどう使うか から抜粋
村上▼
新聞紙上で対談したのは何年くらい前でしたかね。
対談の後からさらにDNAの研究は進んだようですね。
中村▼
最近はもうひとつ、細胞生物学と、それをもとにした再生医療へ向けての研究が急速に進んでいます。
ただ、進んでいるといっても研究には時間がかかるわけですが、今は生命科学を産業と結びつけようとする動きが大きいので、そちらからの期待が先行しているという感じもします。
村上▼
ミクロの再生医療というのは例えば、骨髄の細胞を培養したりすることも含まれるんですか。
中村▼
骨髄の場合、骨髄移植は実用化されていますが、型の合う人がなかなか見つからない悩みがあります。
そこで自分の細胞を取り出して、不足している遺伝子を入れて培養し、自分の体に戻すことを目指していますね。
骨髄細胞、血液細胞などは扱いやすいわけですが、最近の再生医療は体をつくる細胞すべてを対象にしはじめました。
そこで活用されるのは「ヒト胚性幹細胞」といわれるもので、通常はES細胞といって、体外受精に使うためにつくった受精卵の中から未使用なものを用いて、試験管の中で分裂させるという方法で手に入れます。
具体的には未使用の卵は冷結保存されており、体外受精に成功してもう不要というカップルの場合、破棄するわけです。
この卵をお願いして承諾を得られた場合、それを培養し、胚盤胞という時期の内部の細胞を用います。
これは、もし体内にあれば赤ちゃんの体をつくるはずの細胞ですから、体をつくる何の細胞にでもなる可能性を持っている。
村上▼
臓器などにもなるんですね。
中村▼
そう。何にでもなる。
試験管の中では人間にはなりませんが、ある条件のもとではさまざまな臓器になります。
心臓や肺や肝臓などの臓器は条件が難しいのですが、神経、目のレンズ、筋肉、血管などは試験管の中でも比較的つくりやすいのです。
将来はあらゆる臓器をつくって、今のような臓器移植ではなく、再生したものを使おうというのが再生医療の狙いです。
この分野はまだ始まったばかりで、技術の問題もこれから解決すべきことがたくさんありますし、社会的話題もたくさんあるので、細かいことはまたあらためてお話しします。
村上▼
そういった研究は、基本的にビジネス主導で進められているわけですよね。
中村▼
そうですね。そこはとても難しいところです。
この分野は、発生という生物学としてとても興味深い分野を背景にしており、生きものの体が出来上がる不思議を知る研究として多くの研究者が興味を持っているので、その研究がすすむことは皆望んでいます。
ただ、科学研究も自分のお金でやるわけじゃないですよね。
大学や公の研究所の研究を支えるのは、主として国のお金です。
ですから、国がどういう考え方でお金を出しているのかによって、研究の方向が決まるわけです。
今の日本の科学技術政策の目的ではっきりしているのは、世界の中で日本の科学技術の存在感を高めようということだと思います。
今は主としてアメリカがリードしていますから、アメリカを意識して負けないようにしようということになるわけです。
アメリカはビジネスのほうを向いて動いていますから、同じ方向を見て競争しないといけなくなります。
そうすると、科学とし面白いかどうかということではなくて、産業化に向くかどうかだけで研究予算が決まるわけです。
しかも、マスコミや企業は、表に見えるビジネスの側面だけで研究を見ている。
先日、名古屋大学の生命科学専攻部門の評価に行ってきたのですが、大学の研究はまだ研究として「面白い」という意識が基本にある。
当たり前のことですが、ちょっとホッとしました。
村上▼
中村さんは、大学の研究を評価するということもおやりになっているんですね。
中村▼
外部の研究者が評価する動きが高まっているので。
この間の名大など、学者として本当に面白いからやるという研究をしていながら、目的もはっきりしていて魅力的な生物学をやっていました。
結局はそういうところから、少し長い目で見れば技術としても面白く役に立つ成果が出てくるのではないかと思うのです。
大学の研究室よりも大きなお金で動いているプロジェクトはビジネスを向いて、そのための競争をしているのでそこが目立ちますが、10年後に、生きものを基本とした社会、科学技術をつくるための素材は、ビジネスに直結するところでないほうから出てくると思っているんです。
日本には健全というかそういうメンタリティを持って、いい仕事をしている人が十分いるとは感じています。
実は、一時期落ち込んだんです。
国の科学技術政策に沿って研究を進めるための委員会に参加していると、経済効果だけで成果を測る話ばかり出てくるので、嫌気がさして、目先だけでなく基盤をつくることも考えなければいけないのに、どうしようかと思ったんですが、いろいろな人の話を聞いていたら、基礎研究もきちんとあるので、そういうものを伸ばすことをやれば日本の力はあるはずだと。
でも、マスコミはあまりそちらには目を向けないでしょ。
そうなると、基礎づくりを支える力は弱くなるので危険です。
私は生きものの本質を知ろうとする研究を基本に新しい知を組み立てていこうとしている仲間たちと、それを育てることに少しでも努力しようと思うようになりました。
村上▼
そういう「面白い」というモチベーションの研究は、「ビジネス」主導の研究と分かれてしまっているんですか。
中村▼
「面白い」というと誤解を招くといけないので補足すると、生物学の流れの中で今これをやることに意味がある、次の流れをつくるという意味で学問的に面白いということなのですが、それとプロジェクトで進むものとはだんだんと区分けされてきてしまっているんです。
かつては研究費も、例えば数百万円というレベルで動いていたんです。
それが、ゲノム解析となりますと、解析機器やコンピュータなどの台数で研究スピードが決まる。
だから機械設備が必要になりますね。
それで研究の桁が違ってきました。
数十億円という費用が必要なプロジェクトなのです。
文部科学省の科学研究費での仕事も、数千万円とか数億円のプロジェクトが組める機会が昔に比べたらずいぶんと増えてきました。
これは生命科学に関心が持たれるようになったためで、いいことですね。
それだけ豊かな研究費で世界的レベルの研究ができるようになった。
一方、50億円、100億円という、直接政治や経済と結びつくプロジェクトは、本当にそこに投入することが最適かというチェックが専門的になされないので、やはり歪みも出る。
クローン人間をつくる合理性 から抜粋
村上▼
アメリカの科学ジャーナリズムは、冷静に現実を見つめ、解説・啓蒙書として優れているものが多いですね。
例えば中村さんが訳された『ゲノムが語る23の物語』(M・リドレー著)は、今生命科学の最先端で行われていること、そこですでに得られている知識を一般的に説明して、ゲノムと遺伝子の現状をわかりやすく書いています。
中村▼
あれはいかにもしゃれた感じのジャーナリストらしい本で、日本にはああいう本を書くジャーナリストが育っていないのが残念ですね。
日本では今、遺伝子ですべて決まるような話になっている。
「何でも遺伝子症候群」と呼んでいるんですが、専門外の方たちが遺伝子、遺伝子とお使いになり、性質から何から遺伝子で語る風潮がありますね。
遺伝子で説明できるはずのないことまで遺伝子で理由づけしようとする。
村上▼
アメリカがまず「犯罪者の遺伝子」というようなことを言い出したんですよね。
中村▼
アメリカは遺伝子で語るのが好きな国ですから。
昔から、双子の研究や犯罪者の研究などに関する遺伝の研究がたくさん行われています。
村上▼
優生学みたいなことを昔からやっていましたよね。
中村▼
そう、好きなんですよ。
二重らせんを発見したことでも有名になったジェームズ・ワトソンも所長を務めたことのあるコールド・スプリング・ハーバー研究所という、分子生物学では中心的な立場にある研究所があります。
そこはもともと、アメリカの富豪が優生学のためにお金を出してつくった研究所なんです。
それが今はDNA研究の中心になっているというのは象徴的です。
でも最近、双子の研究はかなり進んできましたが、遺伝要因なのか環境要因なのかという結論が、どんどんフィフティ・フィフティに近づいているんです。
まあ当たり前と思うんですけど(笑)。
やらなくてもそうだろうなと思うところに落ち着いています。
村上▼
もうひとつ日本のメディアが危険だと思うのは、バイオビジネスでアメリカにリードされているので、日本が追いつくことが国是であるという前提で科学面の記事をつくっているような気がするんです。
そして、それに対するカウンターはモラルしかないという点についてもアメリカを模倣してます。
中村▼
生命倫理、モラルでは対応できないと思うんです。
私は、生きものがどういうものかということを徹底的にわかれば、やったら危ないことと、やっても大丈夫なことがわかるだろうと思っています。
本当はそこからやるしかないと思うんです。
生きものを基本に置くことです。
村上▼
僕もまったくそう思います。
クローンにしても、神に反しているとかいうことではなくて、何が起こるかわからない。
リスクが確定できないということですね。
中村▼
そういうことです。
クローンについてはいろいろな考え方があり、『クローン、是か非か』という本にほとんどすべての場合が出ているのですが、どんな場合を考えても、生物学的に見たときに無意味なんです。
先日猫のクローンが生まれましたよね。
あれをごらんになれば分かるように、三毛猫のクローンなのですが、親と子の模様のパターンが全然違うんです。
クローンだけど違う。
三毛になるということは決まっているけれども、毛の生え方を決めるのは決して遺伝子だけじゃないことの証明ですね。
それは毛の色だからわかりやすいのですが、毛の色だけの問題ではありません。
あの猫を見れば、クローンは見かけさえ全然違うとわかります。
ペットのクローンが欲しいと思っても毛のパターンが違ったら何の意味もないでしょう。
村上▼
映画でよくありますけどね。ペットの代わりで。
中村▼
人間はもっと違うでしょう。
外見を見ただけで違うことがわかりますし、性格などすベて含めたらもっと違ってくると思います。
村上▼
でも、メディアではそういったニュアンスでは語られない。
例えば、人間のクローンをつくってどのような利益があるのかと考えて、「マイケル・ジョーダンが五人いるチームができる」と言ったりする。
中村▼
マイケル・ジョーダンがいきなり誕生するわけではなくて、赤ちゃんができるわけですから。
成長していく途中でひとりひとり違うことが起きるでしょう。
だから、どの例を考えても、クローンはまったく無意味だという答えが出るんですね。
神様の教えにもとるとかそういうことまで戻らなくても、生きものとして無意味なことはやめようということになるわけです。
村上▼
モラルで批判するのが簡単だ、ということなんでしょう。
中村▼
今のところ法律での規制ということになりますが、法律をつくってすべて防げるなら殺人事件もないはずでしょう。
法律をつくっても、やりにくくはなるでしょうけれど、防ぐことはできないと思うのです。
体外受精を認めるかどうかも、倫理を基本として議論していました。
ところが、ルイーズ・ブラウンという赤ちゃんが体外受精第一号として生まれたあとは、この子を否定できない。
技術を否定するとその子の存在を否定することになるし、かわいい赤ちゃんが生まれたということでとたんに議論がなくなって、あとはどんどん広がったのです。
倫理でとめている限りはそうなります。
だから、クローンだっていくら法律をつくってもひとり誰かがやるとすると、あとはとめられません。
生まれた赤ちゃんに、「生まれてきてはいけなかった」とは言えないですよね。
そうすると、クローン技術を肯定せざるを得なくなる。
村上▼
モラルで批判をすると、クローン人間が実現した時に、その子を死刑にするのかということになりますよね。
中村▼
世界の中でたったひとり生まれたという事実だけで、全部が壊れるわけでしょ。
村上▼
合理的かどうかで判断した方がいいと思いますね。
中村▼
こんなことをしても意味がないんだということですね。
村上▼
すでに生まれたクローンはどうすることもできないけれど、二番目、三番目とつくっても合理的ではなく利益もないという批判のほうが有効ですね。
それはアメリカのアフガニスタンへの攻撃への批判も結構似ていて、モラルの面から反対しても、じゃあ9・11はどうなんだと反論されると非常に弱いです。
そうではなくて、報復攻撃は非常にリスクが高くて、テロをなくすことはできないだろうというように、合理性で議論していかないと弱いんじゃないかと思うんですよね。
中村▼
攻撃で起きることのマイナスの大きさを考えると、そのことの無意味さを感じますね。
村上▼
モラルを持ち出さないほうがいいと思うんです。
中村▼
住民への影響のことを考えると、マイナスのほうが大きいですよね。
村上▼
モラルというのは耳に心地いいんです。
中村▼
宗教は宗教としての基準を持つのであって、例えばカソリックは、そもそも体外受精を否定するわけで、それはひとつの立場ですね。
でも、いわゆる倫理はそうではない。
今のような状況の中では倫理は弱いと思いますね。
だから新しい価値観をつくるしかないんじゃないでしょうか。
村上▼
アナウンスメントしなくちゃいけないと思うことは、生命に関していうと、いまだにわかっていないことが多いんだということじゃないかと思うんです。
中村▼
おっしゃる通りです。
遺伝子にしても再生医療にしても、生きものはまだまだわからないことだらけであって、機械のように思うように操作できるものではない。
生命操作というけれど、実は私たちにはまだ操作なんてできていないんだということだと思います。
子供の教育でやらなければいけないことは、「わからないことがいっぱいあるんだ」ということを知らせることですね。
今の学校は、すべてわかる子どもをいい子としているでしょ。
わかならいと言っている子供のほうが、いろいろなことを考えていたりするんですよ。
村上▼
そのほうがいろいろ知っていたりしますよね。
中村▼
わからないことがあるということをわかっているのは、一番大事なことですよ。
村上▼
情報や知識がないと、何がわからないかが、わからないんですよね。
かなり興味深いお二人の対談。
科学とビジネスの関係、クローンについての考え方
ものすごく分かる気もするのは気のせいだろうか。
2003年から時過ぎて20年経過した現在
お二人の変遷も興味深いものがあります。
日々もがいていての現在があるのだろうと察せられる。
かくいう自分もなんだけれど。
しかしどうして偉人のような人たちは
”無知の知”に辿り着くのだろうか。
本質だからとしか言えないのだけども。
知れば知るほど、遠ざかるみたいな。
読めば読むほど、わからなくなる
昨今の自分の読書に似ていて
そんなに壮大で高邁なものなんか?と
思ってみるのも無駄な時間、少しでも時間あれば
積まれた本を読めや、とどこかから聞こえてくる
朝5時おきで仕事だった本日は
寒さが厳しくなって冬到来を感じさせる
1日でございました。


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中村桂子先生の書から”逡巡”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


生命科学者ノート (岩波現代文庫 社会 9)

生命科学者ノート (岩波現代文庫 社会 9)

  • 作者: 中村 桂子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2000/03/16
  • メディア: 文庫

分子生物学の現在

遺伝子工学の展開についてのインタヴュー


分子生物学と動物行動学 から抜粋


編集者▼ 分子生物学という言葉がいまや一般にも通用し、最近では遺伝子工学とか、バイオテクノロジーという言葉もよく聞かれるようになってきているわけですが、まず、この新しい分野がどんなかたちで形成されてきたのかということがひとつですね。

次にいま現在はどんな状況であるかということ、そしてこれからはどのようになるのだろうかということ。


中村▼

これからのことは分かりません(笑)。


編集者▼ どこまでわかっているのか、どこまでできるのかというようなことですね。

それから最後に動物行動学のような領域との関連ですね。

例えば分子生物学における決定論的考え方と動物行動学におけるそれとの違いのようなこと…。


中村▼

この特集(=科学の最前線)の中に動物行動学の日高先生(日高敏隆氏)がいらっしゃいますね。


編集者▼ 日高先生にも同じことをお伺いしようと思っているんです。

中村▼

私は日高先生のところに時々伺うと、いつも楽しくなって帰ってきます。


編集者▼ 京都にはよくいらっしゃるんですか。

中村▼

それほど伺えませんが。

この間お目にかかった時は、タヌキを始めたけれどタヌキって面白いよと言われました。

コウモリやタヌキ、北海道のアシカ、いろいろなものを研究してらっしゃる。

どうしてそんなにさまざまなものをなさるのか聞いたら、学生が好きだというものを研究させるんですって。


編集者▼ それがやはり一番いいんでしょうね。


中村▼

ナマズを好きという方の論文を見せていただきましたが、ああいうのを見ると嬉しくなります(笑)。

その点分子生物学は面白くないかもしれません。


編集者▼ よく動物行動学は一種の擬人論だというように非難されたりするわけですが、そういう擬人論的な観点を決して否定なさらないわけですね。

中村▼

動物行動学はあまり擬人化せずにタヌキはタヌキとして見る方がいいとは思います。

私はもともとは生物学がそんなに好きではなかったのです。

小さいときに一日中蝶々を追いかけたという人種ではありません。

単純な人間なものですから論理的にすっきりと解明されるとスカッとするわけでそういうものが好きでした。

化学式などは、私向きだったものですから化学を勉強したのです。


化学式は物質の構造とその働きとの関係を考えますね。

そこで遺伝子DNAという物質を習って非常に魅力を感じたわけです。

そういう方面から分子生物学に入ったものですから、生物からではないのです。

ところがこの頃になって生物学が、好きになってきました。

最初は遺伝子という全生物を共通の言葉で説明できるものの魅力、むしろ普遍性に惹かれたわけですが、それが現実に表れているところではこんなに多様に表れている。

むしろそれが面白いし大事にしなければならないことだと思い始めたわけです。


なにもタヌキの研究は人間を知るための研究だなどと思う必要はなく、タヌキのことを知る喜びでいいと思うのです。

もちろん人間は生物のしっぽを引きずっている存在ですから、生物の行動学から学ぶことはたくさんあると思います。

この間もサルの行動学の専門の方のお話を伺いましたがお互いのかけひきなど面白いですね。

コウモリの親子の超音波によるコミュニケーションの話が出てくれば、人間の親子にもそういうつながりはあるんだろうと思ったりしますね。

ローレンツのように動物行動学を基礎に、人間に対して発言をする方もあるわけですが、あれは一つの警告として受け止めれば良いのではないかしら。

動物行動学を擬人化したらつまらない。

この世の中人間だけではつまらない。

自分と違うものがあって、それを理解する努力をすることが楽しく、理解できると好きになります。

わからなければ好きになれないかというと、そうではないでしょうが、わかると好きになるのは確かです。

子供の頃は生物が特に好きではなかったけれど、分子生物学という全然生物っぽくない方面から、生物のことが少しわかってきて、好きになった。

私は実を言うと、ウサギから採血するのなど苦手で、注射をするのでも目をつぶってやってたくらいダメなんです。

けれどいま、分子生物学を勉強してよかったなと思っています。

その中には、生物を見る眼がずいぶん変わってきたということもあるわけです。


編集者▼ 興味深いのは、最初は原理的な考察というか原理論に惹かれておられた…。


中村▼

私はスッキリわりきれるものに魅力を感じるたちなのです。

だからわけのわからないものに拒否感があった。

だから哲学や思想も、申し訳ありませんが、恐くてダメです。

常に単純明快なことしかわからない。


編集者▼ そういう原理的なものからむしろ逆の多様なものの方に関心が移ってこられたということですね。

分子生物学というのは世界の多様な生物界を簡潔な原理に還元しようとする情熱によって形成されてきたように見えるわけです。

しかし、それだけが強調されてはならないので、問題はむしろ、たとえばDNAの二重らせんという簡潔な構造がじつは生物のすばらしい多様性を生み出しているということであって、これで比重が逆になるわけですね。


中村▼

そこが興味の対象です。

複雑に、多様性に分かれている底に普遍性があること。

それが何にもなくて、説明もなにもできず、ネコとネズミは比べてもどうにもならないというふうになってたら、あまり興味を持たなかったかもしれません。

共通のものがあるのに、ネコはネコ、ネズミはネズミだということ。

だから一度分子生物学を通らなければならなかったんだと思います。

ただあれは、あくまでも基礎的理解で最後まで分子生物学ではいかないんでしょうね。


編集者▼ 一般には、分子生物学というとどこか高級で、動物行動学のほうは、なんとなく即物的すぎるというか、科学的に、論理的じゃないと思われがちではないんでしょうか。


中村▼

でも分子生物学をなんのために研究しているかといえば、ナマズのことを知ったりタヌキのことを知ったり、最後には人間のことを知るためでしょ。

確かに共通の概念で生物を捉えられるようになったということは、学問的にずいぶん進歩だったと思うし、分子生物学の功績は大きいと思いますけれど、生物の生物らしさや、生物学の生物学らしさは別のところにあるような気がします

動物行動学も、今遺伝その他の問題で、分子生物学と無縁でなくなっていますでしょ。

遺伝子の機能を理解した上で、ああいうところに戻っていくのが、生物学という感じがします。


遺伝子組み換えの意味 から抜粋


編集者▼ お話を伺っていますと、分子生物学に対して一般に抱かれているイメージと正反対のイメージが湧いてくるようです。


中村▼

そうですか。

でも、分子生物学者は今そう思っているのではないでしょうか。

ワトソン=クリックがつくった見事なモデルを中心にしたセントラル・ドグマで、大腸菌のような単純な生物の遺伝は確立しましたね。

10年ほど前までは、これは原理的な人間まで同じだと思っていたわけです。

そして世界中の分子生物学者が多細胞生物の研究に入ったわけです。


1984年のこのインタヴューではまだ


生命誌にたどり着く前の


中村先生の逡巡のようなものがあり、


どんなに聡明な方でも暗中模索というのは


あるのだなあと。


動物行動学や分子生物学がなんなのか、


よく分かってない上に自分は中年になってから


ゲノムを知ろうとしてもどうにもならんのでは


なかろうかという一抹の思いもなくは


ないのだけど、どうにも引っかかるのだよなと。


この書はこのインタビューが最高に自分には


響いたのだけどその他の随筆も素敵な


書籍でございます。


最後の「文庫ためのあとがき」は時を経て


初出から16年くらい後の2000年に書かれていて


もう生命誌研究館ができているので


ただいま現在仰っていることとほとんど同じ感じで


現在の経済優先の世の中に疑問を呈しておられるが


そこは中村先生流で「志」「分」という言葉で


諭される。


文庫のためのあとがき から抜粋


今は、物質的に豊かにしようというところに「志」があるとは思えない

私が人間にとってもう一つ大事だと思っている「分」について考えるべき時に来ているのではないかと思うのだ。

地球という限られた場の中で、他の生きものと一緒に生きるには人間にとっての適切な取り分があるだろう。

世界中にさまざまな国があり、大勢の人が暮らしている中で、日本という国の取り分も自ずと決まるはずだ。

一人勝ちしたり、石油などの資源をどんどん使う生活を当たり前と思うような暮らし方をするのをよしとして生きるのは美しい生き方とはいえない

そして、「私」の分もある。

ある節度を持つのが良い生き方なのではないだろうか。

このような分を身につけたうえで、すべての人が物質だけでなく心も豊かに暮らし、すべての生きものが元気に生きていける地球にしようという、新しい「志」を持って生きていきたい


真理なのだけどなあ。


なぜに人類はこういう発想にならないのだろうか。


新自由主義に毒されて生きてきてしまった自分は


こういう言説を聞くと身が引き締まる。


会社員だった頃はキャッチできなかったろう事


考えるとまだマシなのかもしれず


コロナ禍を経験したのも影響あるかもしれない。


1980年代からの警鐘が2023年のただいま現在も


鳴り響いているってのは実は憂うべきこと


なのだろうなと思ったり。


中村先生の最近の動画では、人間は生命誌絵巻の


上から物を申している、


中から目線にならないとと仰る。


人間も自然の一部だという当たり前の発想に


なぜ気がつかないのだろうかと。


特別なことを言っているように、


どうしても思えないのは自分が中村先生に


影響されすぎなのかなんかなのか


よくわからないけれど、


それはいったんおきつつ、といっても


中村桂子先生の研究(読書)は継続し深めつつ


自分の風邪が子供に感染ってしまったようで


発熱してしまって申し訳なく思いつつ


仕事帰りコンビニでビタミンC系か


野菜系の飲み物かを深く”逡巡”し


いずれにしても飲み物を買ってくるくらいしか


できず、今日は早朝5時起床で


仕事しているから自分も眠くなってきている


土曜日なのでございました。


 


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中村桂子先生の書から”恩師”に思いを馳せる [’23年以前の”新旧の価値観”]


わたしの今いるところ そしてこれから (生命誌年刊号vol.100-101/2019)

わたしの今いるところ そしてこれから (生命誌年刊号vol.100-101/2019)

  • 出版社/メーカー: 新曜社
  • 発売日: 2020/11/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

生命誌研究館」の名誉館長、中村桂子先生を


中心として発行されている『季刊生命誌』の


100号を記念して101号と合併のとてつもない書。


場所的になかなか行けないという


自分のようなものにとってこういう書や公式Webは


なかなかに有難い。


この書は「生命誌」という考えと共振される


先生方やスタッフの方たちの研究成果や思いなどが


詰まったもので経済至上主義とは無縁の良書。


どれも興味深いのですが特に目を引いたのが、


「生命誌が生んだ3つの表現」とあり


①1993年生命誌絵巻

②2003年新・生命誌絵巻

③2013年生命誌マンダラ


が26年間のあゆみの年表に添えられていた。


さらに中村先生の文章が圧巻でございました。


科学と日常の重ね描きを


ふつうのおんなの子のちから から抜粋


日常こそが学問を支えると考えてきました。

科学では対象を決め、知りたい現象を決めて考え、具体的な解明をしなければ研究になりません。

その過程で、自然や生きものや人間の持つ日常性を排除していきます。

研究ではそれをするしかないけれど、焦点をあてた外側を自分の中から捨ててはいけないと思うのです。

今の科学はそれを捨てさせます。

科学と日常を一人の人間の中で重ね描くことこそがとても大事だと考えています。


2018年に書いた本『「ふつうのおんなの子」のちから』はタイトルをみて、生命誌と関係ないと思われるかもしれませんが、「まさに生命誌」と思って取り組んだ仕事です。

読んでくださった方から「幸せってこういうことだ」と思ったいう声をいくつもいただき、「生命誌」はそれを願って始めたのだということに気づきました。

遺伝子でなくゲノムという総体を見よう、そうすることで機械論から生命論へと脱却しよう。

学問の世界としてはそうなのです。

でも、一人の生活者としての「生命誌」は、このまま進むと幸せから遠くなるのではないかしらという危惧から始まったのでした。


自分が本当に大事だと思うことを続けてこれたのは幸せです。

先日息子にもそれを言われました。

ただ、AIやゲノム編集などがもてはやされる今の社会に危機感を持っています。

AIは意味を理解しません。

意味こそ人間にとって最も大事なもののはずです。

「生きる」とはどういうことか。

人間とは何かを考えることがこれまで以上に大事になっている。

今改めて強く思うことです。

日常と学問の重ね描きをもう少し続けて幸せへの道を探していきます。


好きなものを追求し続けられるというのは


本当に稀有な事で望ましい状態だと思います。


自分も思うに若干その口なのかもしれないけれど


当然ながら先生ほどの知を持ち得てないので


次元の違う話であろうけれどもなどと思ってみた。


おわりに から抜粋


1970年に始まった生命科学は、あらゆる生物をDNAという共通の切り口で考えられる面白い分野でした。

ただ、その頃から科学研究はただ面白いと言っているだけではすまされない状況になってきたのです。

「科学と社会」「自然と人間」などという言葉で科学のありようを問われるようになりました。

社会に役立つという要求と、自然や人間に勝手に手を加えることへの疑問とが出されたのです。

今もその動きは続いています。


私はここにある「と」という両者を分ける言葉に引っかかりました

すべてが一体化した、全体を感じる世界を考えたい

当時はこの感覚を共有してくれる仲間はいませんでした。

1980年に、たまたま「人間」について徹底的に考える機会を与えられ、社会の中にある科学、自然の中の人間、芸術と共にある科学、など「と」のない知を創ろうと懸命に考えました。


そして生まれたのが「生命誌研究館」です。

もちろん頭の中だけで。

それ以降の事は本書のサイエンティスト・ライブラリーにある通りです。

すばらしい方たちの力で、頭の中だけの知が次々と現実になってきた26年間でした。

優れた仲間たちが更に本物にしていってくれることでしょう。

とても楽しみです。


もっとも気になることがないわけではありません。

社会はこの26年間に、生命誌が求める知や人間の生き方が存在しにくい方向へと動いています

2020年初めからCOVIC19のパンデミック、海水温上昇で生じた線状降水帯による豪雨などの自然界の動きも人間の行動の影響を考えなければなりません。

政治、経済、教育、科学技術の一つ一つをここで検討はしませんが、近年、すべての質が落ちていること、つまりは人間の質が落ちているとしか言えない事は、多くの人が認める所でしょう。

生命誌は次の世代、またその次の世代と未来の人々が生き生き暮らす社会を思い描く知です。

これを生命誌の新しいテーマとして考えていきます。


コロナ禍や線状降水帯の豪雨のことにも触れられて


”生命誌”というのはどこまでも現実とリンクしている


研究対象であると同時に中村先生いつも言われるのが


「生活者としての人間」を感じさせていて深いです。


昨日NHKでゲノムの番組をやっていたけれど


今は更に研究が進んでいて、


ノーベル賞を受賞した女性二人


躍進のおかげでDNAの再現性が高い研究が


進んでいるってのと、中国でデザインベビーが


作られたってのが、かなり気になった。


仕事しながらだったのできちんと


見れなかったのだけどその後どうなったのか?


良い方向に行くといいのだけれど、と懸念。


でもって本日家族でブックオフに行ったところ


偶然にも、中村先生の書があって購入


したのでございます。



「ふつうのおんなの子」のちから 子どもの本から学んだこと

「ふつうのおんなの子」のちから 子どもの本から学んだこと

  • 作者: 中村 桂子
  • 出版社/メーカー: 集英社クリエイティブ
  • 発売日: 2018/07/26
  • メディア: 単行本

「あとがき」に


を引かれ中村先生のいいたい事は

それなのだと記される。

壁の側は戦争で問題を解決しようとします。

卵は当然のことながら戦争は苦手です。

私は昭和11年1月1日生まれ、2・26事件の年です。

最近、戦争のことが気になって昭和の歴史を読み、まさに私が生まれた年から少しづつ怪しい雰囲気になっていったのだと実感しました。

戦争の体験は、小学生になってからの疎開や空襲ですが、実は生まれたてでフニャフニャしている間に、社会は不穏な方向に動いていたのでした。

そのときはどうにもできませんでしたが、大人になった今は、社会の動きをよく見て、今度こそおかしくならないようにしたいのです。

平時の経済戦争での過労死もいけません

歴史に学び、今をどう生きるかを考えたときに、内からわき上がってきたのが「ふつうのおんなの子」、その切り口で考え続けます

「ふつうのおんなの子」は女性だけでなく男性の中にもあると思っていますので、男性にもお仲間になっていただきたいと願います。


「おんなの子」を中心とした書物との


リレーションシップからなる中村先生の


書評本のような一風変わった本で、


先生ご指摘にように男性にもなかなか


読み応えのありそうですが、ちと初老の男として


不似合いなものなのかもしれませぬが。


余談だけれど、中村先生の誕生日は


1並びと書かれていて驚いた次第。


自分にはもう一人恩師と呼べるような人で


1月1日生まれの方がいまして


小学校の時の担任の男性で、


哲人ショーペンハウワーを愛読されていて


教師になる前、なぜか税務署に勤めてて


その職を辞めた理由が差し押さえのシールを


貼りに行くとその家族の子供が泣いてて、それに


耐えられず、って言ってたのを思い出しました事は


中村先生にまるで関係ありませんで、


いいたいだけの情報でした。


生まれ年までは11ではなかったのですが、


その先生の1980年初頭にしては差別のない


視座の高い言動と鑑みて「生命誌」とも


リンクしている先生だったなあと思った次第で


ございます。


 


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日高敏隆先生の書から”無知の知”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


ぼくにとっての学校―教育という幻想

ぼくにとっての学校―教育という幻想

  • 作者: 日高 敏隆
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1999/2/1
  • メディア: 単行本

 


 


前にも記したけれど”教育”にはあまり


関心がないのだけれど、ならばなぜこれを


選んだのか、もう忘れておりますが日高先生だからなのだろう。


実は以前に投稿しておる次第でその続きでございます。


これはなかなか看過できないと思いまして。


講義とはなにか から抜粋


大学院に行ってからは、多少お金がまわるようになって、アルバイトをせっせとしなくてもすむようになりました。

だけど、学部卒業のときは大変だった。

たとえば植物学科の単位をとっていなければいけない。

そういうものは講義をまったく聞いていないのです。

だから、卒業するときになって、先生のところへ行って、「申し訳ないけれどもこういうわけで、じつは講義に全然出られなくてなにも聞いてないんですが、単位をください」

と言った。

そうしたら、「はい、いいよ」とくれました。


東大に竹脇潔先生という先生がいて、その先生はものすごくよく勉強していた。

新しい論文まで皆読んで、それを講義でしゃべってくれる。

「一般動物学」だったかな。

アメーバに始まるいろいろな動物のグループについて、これはなんとかで、だれだれがこういう研究をしたという話を全部しゃべってくれる。

すごい講義でした。

その先生の講義は一年生の前期で、まだ大学へ行っていたときだったから、ちゃんと講義に出席してノートをとった。

そして、大学院に入ってしばらくして、ホヤのことを研究しようと思ったんです。


ホヤという動物は脊椎動物にかなり近い。

脳下垂体のようなものもある。

それがわれわれの脳下垂体のようにホルモンを分泌しているのか、どういう臓器をコントロールしているのか、まったくわかっていなかったので、研究を始めたわけです。


そこで、文献を探していろいろな論文を読んで、その話を、「おもしろいですね。こういうことがあるんですね」と昼食会のときに、竹脇先生にしゃべった。

そうしたら先生は、「ほう、ほう」と聞いている。

途中でふっと、「もしかしたら先生が講義でしゃべっているかもしれない」と思って、ノートを引っぱりだして見たら、なんと全部書いてあった。


これには、びっくりしました。

だけど、要するに講義というのはそういうものだなあと思った

ただ必死になってノートをとっている状態だと、聞いたことをまったく憶えていない。

だから、講義がいかに立派であっても、学生のほうはそれをすごい講義とは受け取らないし、なにも残らない。

しかし、自分で調べたときには、人にそれを話せるぐらいきちんと憶えている。

こうなった。だから、こうだ。

そういうことまで全部説明できる。

だから、受け身の講義というのはそこそこでしかないのだなということがよくわかりました。


今の講義のしかたも、それと関係があります。

非常に詳しくしゃべってたとしても、たぶん全部は受け止められないのだろうから、印象に残ることだけを言っておけばいい

この人の本はこう書いてある。

この人はこう言っている。

そういうことを言っておけば、もし興味があれば自分で読むだろう。

そうしたらちゃんと憶える

それでいいではないか。


もしぼくが非常な勉強家で、その先生のノートを家へ帰ってもう一度読み直したら、それは憶えたかもしれない。

しかし、それでも結局また忘れたのではないかな。

ぼくは時間もなかったし、あまり真面目に勉強をしなかったということが、逆を言うと、ものを考えさせてくれたのかもしれない

だから、学生時代になにをどう勉強するかというのは、試験がよくできることだけが、勉強していることにはならない、ということはよくわかりました。


今で言うなら、ドヤリングしたつもりが


じつはその人から、またはWebで


見た情報そのままだった的な気まずさ


とでもいうか。


自分がさも発見したかのような、ってのは


かなり多く経験しているし


大瀧詠一師匠も仰っていた。


発見なんていってもすでに誰かの


剽窃だったりするわけで。


それより日高先生のすごさは


そこに気がつきつつ、さらにその先に


行くところで。


普通なら気まずいなあ、反省。で終わるところ


講義というのはそういうものなんだなあ、と


さらにその先に行くのが先生たる所以です。


余談だけど情報の全てを受け取るのは、


そもそも難易度が高いものと思うし


リアルであればなおさらと感じる。


テキスト情報だけであれば


そもそも多くを伝えること自体、


酷なことなのかもしれないとも思う。


リアルは言葉だけじゃなくて


その他多くの情報を含んでいるから、


っていう解釈にもなります。


これも大滝師匠が新春放談で言ってたような。


大滝師匠と日高先生は近いのかもしれない。


それにしても寒くなってきたここのところ


風邪が治ってきたと思ったら、夜勤で


基礎体力落ちて少しぶり返したと思ったら


また治ってきた感じのする祝日でした。


 


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日高敏隆先生の周辺から”異端”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


日高敏隆の口説き文句

日高敏隆の口説き文句

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/07/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

過日、拝読した


日高先生の70年代の対談集


企画などの後方支援をされていた方からの証言。


日高先生との良いリレーションシップを窺がわせる。


先生が読んでいた本やその頃執筆されていた本の事


などにもお詳しい。


当時の反響などが分かり貴重かつ、面白かった。


雑誌「アニマ」の時代


澤近十九一(聞き手・小長谷有紀


澤近▼

60年代は公害問題が噴出した時代でした。

日本の自然は相当に壊れていましたから、「アニマ」を自然保護の雑誌にしようという意見もあった。

結局、今西さんが「(自然保護は)「アニマ」がやらなくてもよろし!」ということで、自然保護を直接お題目にすることはやめました。

結果としては良かったと思います。

自然保護について触れていないのに、「アニマ」は自然保護の雑誌と捉えられていた。


もうひとつがやっかいで、「アニマ」ではどのレベルの動物を扱うのか、という問題です。

個体レベルで扱うのか、種なのか、群れ、社会レベルなのか、結構まじめに議論しました。

そして種社会を中心にすることでまとまり、個体以下のレベルはやらない、という雰囲気だったのです。

その当時は、分子生物学全盛の時代で、分子生物学でなければ生物学にあらず、という雰囲気だったのです。

ですから、その反動として個体のレベル以下を扱おうとするのは、還元主義批判などを通じて、ある程度、理解できる時代の流れだった。

ところがそういう流れに対して、日高さんはかなり強く異をとなえたんです。


小長谷▼

安直なホーリズム(全体論)に安直に流れてはいけないと?


澤近▼

生物を理解する上で行動学や生態学だけで解決できることは少ない。

解剖学も必要だし、生理学も、分子生物学も欠かせないのだ。

というのが、日高さんの主張だった。


小長谷▼

階層性で捉える。


澤近▼

そうなんです。

日高さんが69年に訳したケストラーの『機械の中の幽霊』で、階層性の問題が扱われています。

あの本は日高さんにとって、重要な位置を占めています。

あの本の翻訳は大変だったと晩年になっても言ってましたね。


小長谷▼

「アニマ」の編集にかなり口を出した。


澤近▼

いえ。そういうことは全くありません。

逆に、編集部のほうが先生を無視できなくなったというのが正しいと思います。

「アニマ」が創刊されてからは、カメラマンも研究者もとどのつまり、動物たちをいかに生き生きと表現するかというテーマに取り組んだわけです。

そのために必要だったのが動物行動学。

日高さんが翻訳した本が、注目された。

スタートは、『動物のことば』にあると思いますが、多くの人が手に取ったのは、『ソロモンの指輪』ですね。

なにしろ、70年代になって、次々に話題作をあらわした。

裸のサル』、ローレンツの『攻撃』、ホールの『かくれた次元』、エヴァンスの『虫の惑星』などが、とても多くの人に読まれました。

他にも日高さんが勧めてくれたのは、ヴィックラーの『擬態』、トムソンの『生物のかたち』。

これらの本に描かれた視点を、カメラマンも研究者も取り入れたわけです。

動物行動学のブームが起き、「アニマ」の読者層も広がりました。


小長谷▼

澤近さんが編集長になってからの先生との関係は何か変わりましたか。


澤近▼

変わりましたね。

「若い研究者に原稿を書いてもらえ」「他の分野の人に書いてもらいなさい」

その一点張り。


小長谷▼

ご自分を売り込むことは?


澤近▼

全くなし。


小長谷▼

その頃、日高さんが連載対談をされましたね。

あれは私も面白く読ませていただきました。


澤近▼

日高さんは70年代に、具体的な動物の面白い本以外に、社会学の視点を含んだ翻訳本を出しています。

ローレンツの『文明化した人間の8つの大罪』、ユクスキュルの『生物から見た世界』、アイブル=アイベスフェルトの『愛と憎しみ』。ヴィックラーの『十戒の生物学』。

これらの本は動物行動学以外の人に多く読まれた。

日高さんも動物学以外の人たちとの接点の大切さを感じていました。

それを背景にして、「動物の目で見る文化」の連載対談がはじまりました。

山下洋輔さんに始まり、南沙織さんにおわる対談でした。

すごく反響があって、単行本になった時には載るべき書評欄にはほとんど載った。


小長谷▼

あの人選は誰がされたのですか。


澤近▼

ほとんど日高さんです。


日高先生との対談があったらさぞ含蓄やら


滋味ありのものすごいものになったろうなの


最高峰は自分なら、圧倒的に養老先生ですが


養老先生は高校生くらいの頃から


虫仲間のシンポジウムみたいので


海外の学者の通訳をされていたという


7歳上の日高先生を存じ上げておられたようで。


見栄えのする人だったとおっしゃる。


虫仲間でアウトローな教育者という


共通点は多そうだなと想像されるのです。


感覚で学べ


ーー『大学は何をするところか』読み直し


養老孟司(聞き手・小長谷有紀)


対象と方法


から抜粋


養老▼

虫を始めると切りがない。

日高さんもチョウが好きでしたが、一番面白いのはこの本にもあるチョウのサナギの保護色。

緑色のところに置けば緑色、茶色なら茶色になる。

それは僕らは子どもの頃から知っていましたが、なぜそうなるかという話をするとやたらにややこしい。

世間の人は単純だと思ってるけれども冗談じゃない

単純なのはお前の頭で、単純なことしか理解できないんです。

だから何か事件が起こるとすぐナイフを売るなとか、一段階でしか考えない

自然を扱っていると一段階では済まないことがよくわかります

そういう複雑さに耐えられなくなって来ている。

インターネットがそうでしょう。

世間がああいうものだと思われたら一番困る。


小長谷▼

実は複雑だということを知るチャンスが奪われているのですね。


養老▼

だから解剖をさせる。

頭で理解しようとしても、ややこしくて理解できないことがわかればいい。

工学系統と生物系統は全く違うんです。

工学系統は、限定された条件の中で、再現可能だとまず言っている。

藤井直敬という理研の若い研究者が、自分の研究の前提として書いていることの一つが「脳は2度と同じ状態をとらない」。

これを物理の学会に出したら即却下です。

2度と同じ状態を取らないものが、なぜ科学の対象になるのか。

実験の再現性がないわけでしょう。

でも実際はそうです。


小長谷▼

そうすると、科学自体ももうそろそろ変わっていかないのでしょうか。


養老▼

当然変わるんです。

古い科学の前提では、僕のように脳科学をやろうと思ってもできなかった。

例えば脳機能の研究でも、もともと脳にある機能なのか、それとも実験条件下で出来か調べようがない。

それはノーベル賞をもらったような仕事でもそうで、ヒューベル(David Hunter Hubel)とウィーセル(Torsten Nils Wiesel )の有名な仕事ですが、網膜の情報処理の研究で、ネコに麻酔して体を固定して網膜に光を当てると、実に論理的にきれいな結果が出る。

だからノーベル賞になるのですが、もしかしてその論理性はネコの網膜が持つ論理性ではなく、実験しているヒューベルとウィーセルが持っている論理性なのではないのか。

それは絶対に否定できない。

乗り越えられないところなんです。


小長谷▼

科学自体の枠組みを変えていかないと


養老▼

だから日高さんとか僕の話になるわけで、そういう常識で普通の学会に出ると干される


小長谷▼

そういう干される人が何人か出ると、科学自体の再検討も起こるでしょうか。


養老▼

それはまた言いにくいところがあって、前線で鉄砲を撃っている兵隊を後ろから撃つなと。

「この戦争は何のためにやっているんだ」とか言えないでしょう。

そこが難しい。だから象牙の塔だった。


解剖学をやればいい医者になるという保証はないけれど、最低の読み書きそろばんみたいなものです。

そういう体験は必要でしょう、それは国家試験の結果によく出ているでしょう、というのが僕の言いたいことなんです。

医療の現場では、無論理かつ無秩序にやってくる患者さんの病気をどう整理するかというノウハウを医者が自分なりに作っている。

それは完全に意識化はできない。

だから最後は、意識の問題になってきて、そこは日高さんと僕がたぶん違ったと思います。


意識とは、どんな自然科学でも使っている顕微鏡みたいなもので、解像力とかいったその道具の性質を知らなければ使えない。

だから科学にとって一番大事なのは意識の研究です。

意識は科学的に定義できない、だから科学では扱えない、というのが短絡的な科学主義者の意見だけれど、そうではないんです。

理屈があろうがなかろうが、現に意識という現象があるのは誰でも知っている。

その意識が学問を作っていて、性質を具体的に調べることがいる。

それが科学でしょう。


小長谷▼

意識という課題に対して、日高先生の場合は「幻想」と名づけて、行動から見ていらしたような気がします。


養老▼

一方、僕は解剖学だから。

Olgyがつく学問は沢山あって、医学で典型的なのは眼科学(Ophthalmology)、皮膚科学(Dermatolgy)など、つまり「扱う対象」です。

解剖は対象ではない。

方法です。


小長谷▼

解剖はolgyではないんですか。


養老▼

Anatomyです。tomyは切るという意味で、対象は決まっていないんです。

カエルだろうが人間だろうが解剖は解剖。

極端な話、僕がいつも言うのは永田町を解剖してもいいんだろうと。

それは方法論ということです。


小長谷▼

先生の場合は方法も二刀流。解剖学と博物学。切るぞと集めるぞのセットで。


養老▼

同じなんです。

もともとあるものは仕方がない。

どうでも何でも必要があればやるということです。

対象を調べるためには方法を身につけなければならない。

イギリスの有名な科学者はたいてい機械だって自分で作っています。

方法をまず見つける。

パスツールは、自然発生説を否定するのに、首の長いフラスコを作っただけじゃないですか。


小長谷▼

日高先生も道具を結構自作しておられた。


養老▼

この本に書かれているモンシロチョウの羽の紫外線反射率の測定の話が典型ですね。

光学の専門家は紫外線を当てて見ていた。

太陽光線を当ててどれくらい反射するか見て欲しいのに、通じていない。

生きものは自然状態の中で生きているのであって、実験条件の中に置いたら、それは「そういうもの」になってしまうんです。

だから僕は昔から実験が嫌いで、実験するくらいなら外に行く。


小長谷▼

観察型になる。


養老▼

そうすると学問じゃないと言われる。

そこから狂っちゃうんです。

早い話が論文にならない。


頭の回転が高速な養老先生。


返す方も相応に拮抗した知性がないと


対談として成立しないですよなあ。


それにしても日本での学会の話が


日本の社会そのもので興味深い。


はみ出ると干される。


それを指摘できない象牙の塔。


評価軸から外されると出世できないのが


普通なんだけど、お二人ともかなり


高い地位に鎮座されて好んでではないかもだけど


この二人ならば普通の評価軸では評価できない位


ハイレベルな仕事っぷりだったのでしょうな。


要は「あの人いないと困るわー」と周り中が


言うならばもう誰も文句言えないわけで。


この書の他の人の原稿にあったけれど


日高先生の講義はその頃、多忙を極めて


いつも休講だった、とあるのはその証かと。


休講だらけでも教師として成立してしまう


ってすごいな。どういう年間のカリキュラム


だったのだろうかと余計なお世話。


松岡正剛さんのコラムでも日高先生の凄さがわかる。


話を本に戻し、この書は日高敏隆愛が


横溢していて爽快な感じがした。


アウトロー烈伝みたいです。


先生は23ヶ国語も操れたらしい…


どういう頭をしているのだろう。


若いころ生活が苦しくて翻訳のバイトしてたって


以前読んだ本にあったけど、生活苦なら


勉強もする気がしないだろうと思うのだが。


”普通”じゃないんだろうな。


余談だけど、養老先生の本好きは有名だけど


翻訳本を選ぶ際、日高先生が手がけたものは


一つの指針となりお世話になったと


どこかで書かれてましたが、


我身に振り返りそういう読み方って確かにあるなと。


好きな海外の作家の翻訳者とか


その翻訳者の解説なんか、かなり読みますし


時には本文そっちのけだったりして。


共通言語、文化、習慣に接している方が


分かりやすいってのはあるからだろうからね、と


のどの風邪が治ってきた寒い冬のはじめです。


 


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中村桂子先生の自伝本から”プロセス”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


生命科学者 中村桂子 (こんな生き方がしたい)

生命科学者 中村桂子 (こんな生き方がしたい)

  • 作者: 大橋 由香子
  • 出版社/メーカー: 理論社
  • 発売日: 2004/01
  • メディア: 単行本

はじめに から抜粋

2003(平成15)年4月、ヒトゲノムの解読完了というニュースが世界中に流れました。

人間の遺伝子情報であるヒトゲノムが解読されたのですーーー

そう聞いてもピンとこないという人でも、遺伝子組み換え食品、バイオテクノロジー、DNA、クローン人間といった言葉は、豆腐や納豆のパッケージ、映画などで目にしますね。

むずかしそうな科学の出来事は、じつは私たちの日常に入り込んでいるのです。


中村桂子さんは、大学で化学を学び、そのころ発見されたDNA二重らせん構造を知って興味を抱き、生物化学に進みます。

大腸菌を使った研究ののち、生命科学という新しい学問をつくる作業をにない、やがて、ゲノムから生きものを見る生命誌研究館をスタートさせました。

子どもが生まれて研究所勤めを中断した時期もありますが、育児と研究を両立させた女性科学者の先駆者でもあります。


こう紹介すると、科学一直線のようですが、中村さんは小さいころから文学少女、音楽もスポーツも好き、いろんなことに興味を持つタイプでした。

理系の科学者・研究者ときくと、子ども時代は昆虫採集に夢中、試験管や顕微鏡をのぞくのが三度の飯より大好きで、という人物を思い浮かべますが、ちょっと違うのです。


「好きなことだといっぱい話しちゃうから誰も信じてくれないけど」

と笑い、実は話すのが苦手で、黙って人の話を聞いているほうが好きだという中村さん。

高校時代にお父さんが買ってくれた古いピアノのある部屋ですてきな庭を見ながら、あるいは大阪の生命誌研究館で食草園に目をやりながら、ご自身の半生を熱心に語ってくれました。


第3章 DNAから世界を見る


もうひとりの恩師、そして結婚 から抜粋


無事に大学院の前半である修士課程を終えました。

種類の異なるアミノ酸を運ぶt-RNAは構造が違うことを示した研究で論文を出しました。

後半の博士課程に進むにあたって、そのまま東大で学ぶなら先生を変える必要があり、江上不二夫先生に師事することになりました。


江上先生の口癖は「自分のものを大切にして、へたな競争はしない」でした。


「実験が思いどおりにいかなかったら、喜びなさい」。

シュンとした学生をなぐさめるためにか、先生はよくこうも言いました。

人間が考えることなんか、たかだ知れているよそれより自然が教えてくれることのほうが、はるかに大きい。予想通りの結果が出なかったのは、自然の中に君の考えを超えた、おもしろい新事実が隠されていることを示しているんだと思いなさい。」

その後、さまざまな場面で思い出す言葉です。


第4章 生命科学に導かれて


恩師からの呼びだしーーー生命科学ってなに?


1970(昭和45)年のある日、江上先生から電話がかかってきました。

いつものように翻訳の仕事かなと思いながら、研究室へ出向いてみると、ちょっと様子が違います。

「新しい研究所を始めるんだ。しかもそれは、とっても新しい。生命科学というのをやろうと思うんだ。その仕事を手伝ってくれないか」


「これまでの社会は、あまりにも物理や化学の知識を使った技術に頼りすぎてきた。

それが生物を無視して、生命を軽視する風潮につながってしまった。

これからは生物の研究が非常に大事になる。そして、生物を基礎にした新しい技術や新しい価値観をもった社会を作ることが要求される」


「今の世の中を見ていると、生きもののことを考えなきゃいけない時代になったのに、大学の研究は縦割りになっている。

生きもの全部のなかで人間と科学、生きものにとってのよい科学を考えなきゃいけないのに、そういう場はどこにもない。

本来は国や大学がやるべきだけど、できる段階じゃない。

だから、民間で始めようと思うんだ」


「5年もたったから、もういいでしょ。そろそろ仕事をした方がいいよ」

たしかにそうです。

上の子を見ていると、下の子は赤ちゃんでも、だんだん手が離れていくのが予想できます。

新しい研究所も今は赤ちゃんでも、だんだん手が離れていくのが予想できます。

調整すべきいろいろな事柄が、一瞬のあいだに頭のなかを駆け巡りました。

家族にも納得してもらう方法を考えられそうです。

「はい、ぜひ」

気がつくと、桂子はそう答えていました。


ここで江上先生の構想をもう少しくわしく見てみましょう。

生命科学の柱は三つあります。


ひとつは、人間を理解するための総合生物学にすること。

生物の単位である細胞などの基本的な研究から、発生や分化、脳神経の働きなど、難しい課題を研究しながら、異なった分野の研究者同士が、おたがいに話し合い、関連づけて、タコツボ化しないようにするということです。


二つめは、研究の成果を人間の暮らしに役立てるようにすること

これまでの科学や技術は、人間が自然と対決し、自然を征服するという考え方で進められてきました。

とくにヨーロッパやアメリカではこの傾向が顕著です。

でも、これからは、自然は征服するものではなく、限りある地球のなかで、生態系をこわさないで生きていけるような科学技術が必要になります。

そういう技術を研究しようということです。


三つめは、科学と社会の関係を考える分野にすること

科学にかぎらず、学問というのは大学という象牙の塔に閉じこもっていてはいけない、社会とのかかわりの中で研究はなされるべきだということです。


生命科学は、アメリカで生まれたライフサイエンスの日本語版ではなく、江上先生独自の構想です。

江上先生は、日本だから考えられるもの、けれど世界に通用する「生命科学」を作り、世界に発信しようとしていました。


当時は世界中で、公害の被害者になった住民たちが中心にした反公害運動、ベトナム戦争に反対する運動、大学の在り方に異を唱える学生運動(スチューデント・パワー)など、それまで当然とされてきたことや社会現象に批判的な眼を向ける活動が盛んになっていた時期でした。

江上先生も、そうした学生たちの運動に共感を寄せていました。

生命科学の三つめの柱、科学と社会の関係などは、当時の大学闘争のテーマと重なるところもあります。


こうした体制に反対する運動においては、民間企業というのは利潤を追求するあまり、人々の健康や幸福を踏みにじる存在と見なされてきました。

実際、水俣病は、排水処理にお金をかけることなく、工場から毒を含んだ汚水を垂れ流し続けるために起きた公害です。

しかも、科学者の一部は、そういう公害企業を弁護するために、科学的な事実をねじまげる研究成果を発表することもありました。

公害に反対する住民運動の立場からは、企業(産業界)と大学(学問)の癒着は「産学協同」と批判されていました。


そんな時代に、江上先生は財閥系の企業である三菱化成の出資で、新しい生命科学の研究所を作ろうとしたのです。

弟子たちの中には、内容ではなく、このスポンサーのことを批判する人もいました。


正しいことは正しい、やるべきことはやる!という意気込みで、江上先生は民間で生命科学研究所を立ち上げることを決意したのです。


「私のやりたいことに近そうだ」という直感を頼りに、民間の研究所に勤めることに決めます。

34歳の時でした。


第6章 生命誌研究館の館長として


科学のコンサートホールをつくろう から抜粋


年末にベートヴェンの第九交響曲を聞くことが、いつの間にか日本の年中行事になりました。

暮れも押しつまったある日、桂子も目白にある東京カテドラルに出かけました。

小澤征爾のチャリティー・コンサート、曲目は第九です。


第四楽章の合唱が始まると、ふっと涙が流れてきました。

コンサートホールは、音楽の感動を伝える場です。

演奏者は作曲家の楽譜を自分なりに解釈しながら表現し、聴いている人と音楽の美しさを共有します。

これと同じことができるはずだ」。


科学者が専門用語で論文を書いていても、DNAのらせん構造の美しさは一般の人には伝わりません。

自然のすばらしさや生命の不思議を、プロとアマチュアが共に感じとれるような場がほしい。

生命科学という概念にはおさまりきれなくなっていた思いと、それを伝えるための手段とが一緒になって「生命誌研究館」という六文字がひらめきました。

「生命誌」と「研究館」は、つながっています。


「自分がおもしろいと思った生きもののおもしろさを、専門家だけでなく、いろいろな人と共有したい。

1匹の虫を見て研究するのが科学者。作曲するのが音楽家。

気持ちは同じですね。

研究は楽譜のようなもの。

普通の人は譜面を見ても面白くない。優れた音楽家が上手に演奏して、はじめてみんなが感動できるでしょう。

上手に伝えれば、科学も音楽と同じように楽しめるはず」


生命誌の「誌」には、自然が語ってくれる物語を読みとって記していこうという思いがこめられています。

一つの生きもののゲノムをさかのぼっていくと、そこには、38億年の生きものの歴史が書きこまれています。

気の遠くなるような長い時間の流れを感じ取れるように、「生命誌」と表現しました


「生命誌研究館」というアイディアを見つけた以上、形にしたい、実現させたいという思いが、日に日に強くなります。

三菱化成にも、打診してみました。

趣旨はよくわかるけれど、ひとつの会社でふたつの研究所を作るのは難しい、と言われました。


そのとおりだと思いました。でも、あきらめきれません。

立ち上げの時から20数年間過ごした職場には愛着もあり、周囲の人にも恵まれていましたが、「生命科学研究所で一生を終えるわけにはいかない」と退職を決意します。

1989(平成1)年、53歳の決断でした。


20代のころって、何かやろうとするときに、先に無限の時間があるみたいに思って計画する。

40代まではほとんど同じだった。

それが50歳を過ぎたら、急に時間というのは有限なんだと思い始めた。

50歳になって本当の自分のやりたいこと、やるべきものが見えるようになってきた

だから若返りたいとは思いませんよね。こまるのは物忘れだけ(笑)。」


中村先生の幼少時からのエピソードが川となり、


生命誌にたどり着いた様や考えの流れが


少しというか、なんとなくつかめた。


他、印象的なのは、ご自身の親の死に立ち合い


死は瞬間ではなく、過程(プロセス)だと


実感された件。ご臨終と言われてもそこから


死が始まるわけではないという、その前後から


すでに体験していることなのだ、という。


最近自分も病気の高齢者さんと触れ合う機会が


多いのでこれはものすごくよくわかる。


この書の他で気になる点、子育ての日々からの気づき、


やポイントポイントでの多くの有意義な出会い。


そこからの勝手解釈、一見無為と見えても


有意義に変えてしまうバイタリティというか。


ものすごく興味深い内容の書籍で


やはりこういう人にはこういう経験や思いが


下支えになってるのか、と思ったり。


実際の「生命誌研究館」にも足を運んでみたいな


と思ったり。公式で出ている関連資料をDLしてみたり。


研究館を東京生まれの中村先生が


関西圏に作ったことにも、一極集中への


物申しがありという考えが反映されてのこと。


恐れ入りました、素晴らしいですの一言です。


余談だけれど、昨日夜勤で仕事して帰宅して


体力弱ってるところに仕事場では風邪ひきさんが


何人かいたことにより伝染してしまったのか


本日は休日で雨なので、家にこもっているという


これも原因と結果というか


ひとつの”プロセス”なのだと感じ入る、


NHKで見た”ハナレグミ”さんという


音楽家さんの曲を聴きながらの投稿でございました。


 


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③日高先生の対談本から”文化”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

  • 作者: 日高 敏隆
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1978/04/20
  • メディア: -

つっぱる 赤塚不二夫

負けた!から抜粋


赤塚▼

最近新聞を見ていると、漫画よりすごい事件がいっぱいあるのね(笑)。

漫画なんてほんとにチョロいもので、ぼくたちひどくショックを受けてるんですよ。

このあいだもおもしろい事件があったな。

マンションの6階に住んでいる男が、イヌを飼っていて、自分の息子のようにかわいがってた。

ご飯も一緒に食べた。

ところが、たまたま隣にホステスが住んでて、外から帰ってきたら、イヌがキャンキャン鳴くので、「うるさい!」と言って、イヌを6階から投げ捨てた。

イヌが死んじゃったんで、男が怒って、包丁でホステスを刺しちゃった。

それで警察に捕まって行ったら、その男が「息子ォ、かたきをとったぞっ」と言ったというんだよね(笑)。

それはもう、ただの人間じゃないね。


日高▼

そりゃ、どう考えても、バカボンのオヤジさんを上回るね。


赤塚▼

そういう記事を読むと「負けた!」という気がしますよ。


日高▼

映画やテレビで、サスペンス・ドラマなんかをつくっている人だって、大変でしょうね。


赤塚▼

テレビ・ドラマや映画よりおもしろい事件がいっぱいあるわけですよ。

こないだの「サムの息子」の事件にしても、早速映画化するという話もあるでしょう。

ウォーターゲート事件だって、『大統領の陰謀』という映画になったし、エンテベ空港の事件もそうですよね。

エンテベの事件なんて恐ろしい事件で、誰が考えてもあれ以上の迫力出せませんよ。

どんなに金かけて映画を作っても、あれにはかなわないわけ。

あれこそドラマですからね。

最近、つくづくと思うんですが、フィクションというのには、やはり限界があると思うんですね。


日高▼

それはそうなんだけど、人間がなしうる最大の迫力ある事件というのは戦争ですよね。

だから、戦争にまつわるフィクションというのもたくさんあるわけですよ。

エンテベの事件なんていうのは一つの戦争だけど、もっと大きな戦争だって当然考えられるわけだ。

つまり、迫力のある事件というのは、これからまだまだ出てくると思うんです。

それをタネにしてまたフィクションもできるんじゃないかなあ。


赤塚▼

すると、フィクションの世界もまだ見通しが明るい。


『1984年』から抜粋


日高▼

それともう一つ、ぼくたちは「1984年」までは先がみえていると思うんです。

つまり、ジョージ・オーウェルが書いている『1984年』の管理社会の恐ろしさ。

それまではイメージできるわけです。

逆に、それ以上をイメージすることは「1984年」を越さないと、その先はわからないんじゃないかあとも思う…。

つまりぼくがやっていることも、動物の話とひっかけながら、人間の本性がどうのこうのといいながら、法と秩序は恐ろしいものであるとかなんとかいってるわけですよ。

要するに、よく考えてみたら『1984年』の動物学版をやってるだけでもありますね。

そんな気持ちがしてしょうがないわけ。


赤塚▼

ギャグ漫画はそもそも管理されないものだと思うんです。

つまり管理されたらギャグなんておもしろくもおかしくもなくなっちゃう。

そんなところがギャグ漫画をはじめたきっかけになってるんです。

ところが、漫画で表現したギャグがギャグにならない。

というのは、世の中がますます管理されてきて、みんな画一化してるのに、事件だけは個的になって、ますます狂気の沙汰になっているわけですよ。

事件を追ってゆけば当然、ギャグ漫画になるんだけど、それは二重にばかばかしい。

もちろん、ぼくの画風にもよりますけど、自分の画というものはもう20年間、使い古した画ですから、ほかの人の画風と比べると、逆に大人しくなっちゃったわけです。

これじゃ何を表現しても迫力がない。

そうすると画をまったく変えるか…、変えるには五木寛之みたいに休筆宣言なんかして、3年間ぐらい沈黙をまもってまた出てくるという方法もあるけど、そうもいかない。

食っていかなきゃいけませんから。


日高▼

おもしろいことを表現するというけれども、おもしろさの基本的なパターンであるブラック・ユーモアを表現する自由というのは日本にはないでしょ。

話はちょっと違うけれども、タモリは赤塚さんの家にいたんでしょ。


赤塚▼

主人のような顔をした居候だった。

もとはといえば、山下洋輔さんが見つけてきたんです。

「九州にバカがいる、呼ぼうじゃないか」って。

そして呼んだら出てきた。


日高▼

2年ほど前かな、京都大学の11月祭に彼を招(よ)んできて、その後、ホテルで彼の話を聞いたわけ。

彼の話は実にきわどいから、公開の席ではできないものが多い。


赤塚▼

差別に満ちてて、ブラック・ユーモア解放同盟なんていってるんだから。

危ないよ(笑)。


日高▼

だから、公開にしたら面白くない。


文化論、漫画論になり


日本の漫画は世界最高レベルで外国のは


面白くない、さらに日本の漫画は個性が


より強いものとなりそのことに認識が


及ばない為、結局画一化されるのでは、と


危惧されて終わってます。なんか深い考察。


”個性”を意識されておられるところは


なんとなく70年代っぽいと感じた。


今だとなんだろう、言葉の違いだけかもだが


”キャラ”とかなんかな、と。


くらべる 南沙織


ON AGGRESSION から抜粋


日高▼

以前、沙織さんが大岡昇平先生と対談されたでしょう。

あれ、すごく面白かった。

その時に知ったんですが、沙織さんはローレンツの『ON AGGRESSION(攻撃)』を読んだそうですね。


南▼

そうなんです。

あの本とても面白かった。

でも、あれを読んだのはもう5年も前のことでしょう。

うっすらとしか憶えてないの。

昨日、聞いたんですけど、あの本、先生がお訳しになったんですってね。

知らなかったんです。


日高▼

どんなきっかけで、あの本を知ったの。


南▼

あのね。私がまだ調布のアメリカン・スクールに通っててときに、バイオロジーのクラスで先生がみんなに推薦してくれたんです。

それともう一人、ビヘイビアのクラスの先生が、テキストを使わないで『ON AGGRESSION』を使い、テストというと、その本から出すというわけなの。

二人の先生ともすごく推すので読んだのです。


日高▼

あの本はもともとドイツ語版で出てたんだけど、すぐに英語版で出た。

ドイツ語版の原書の題は『Das sogenannte Bose』つまり「いわゆる悪」というんです。

それで副題が「アグレッションのナチュラル・ヒストリーに向けて」とかいうのが付いているもんだから、英語版では『ON AGGRESSION』になったわけ。

ぼくはドイツ語版をフランスにいた時に読んで、すごく感激した。

しかも、その本が生物学者に広く読まれている。


南▼

でも、あれは政治家なんかに読むことをすすめているでしょう。

たしか、英語版はそう書いてある。


日高▼

そうそう。

英語版には書いてある。

が、ドイツ語版には何もそんなこと書いてない。

あたりまえといえばあたりまえで、あれを書いたローレンツ自身は動物学のつもりで書いている。

結局、日本では僕が怠慢で翻訳にずいぶん時間がかかったからいけないこともあるんだけど、ものすごくおくれて入って来た。

しかも、それを読みはじめたのは社会学に興味のある人で、生物学者じゃない。

生物学者関係の人はもっとずっと後のようです。


南▼

私が読んでた時は、日本では翻訳がされることを知らなかった。

でも日本にいるアメリカ人はすでにあれを読んでましたよ。


日高▼

やはりアメリカ人なんかのほうが、いろんなことを幅広くとらえようとするんだね。

動物学の話でも、そのほかの話でも、自分に興味のある話はどんどん取り込むでしょう。

それがすごくうらやましいと思うことがある。


南▼

そのへんはよくわかんないけど。


日高▼

『ON AGGRESSION』のどういうところに興味があった?


南▼

やっぱり人間という動物にいちばん興味があるじゃない?

自分自身を知ることにもなって、いちばんおもしろいわけ。

しかも、あの本では人間とほかの動物とを比べたりするでしょ。

あのなかで最高に注目したのは、人間はインスタントにほかの人を殺したりすることがよくあるけど、あの本を読んでいる限りでは、人間だけよね。

理由もなしに…。


日高▼

仲間を殺すというのは…。


南▼

そう。

そういうところにとくに興味をもったの。


FAITH FUL から抜粋


日高▼

動物は好き?


南▼

大好きです。


日高▼

何が好き、特に。


南▼

イヌなの。ネコって好きじゃないの、こわいの。


日高▼

ローレンツもネコが嫌いでイヌが大好きらしい。

彼が書いた別の本『ソロモンの指輪』だったかに描いてあるんだけど、ローレンツの家では彼と奥さんがそれぞれにイヌを一匹づつ飼ってるわけ。

で、夫婦ケンカをすると「お前の飼っているイヌはまるでネコじゃないか!」という。

それが相手に対する最大の侮辱の言葉になるらしいんだな(笑)。


南▼

すごく素敵なアグレッションだわ


日高▼

そうでしょう。

でも、ちょっと気になるのは、ローレンツという人は忠誠心というものを、人間の美徳として非常に買っているのね。


南▼

忠誠心?


日高▼

ある人に対してフェイスフルであるという。


南▼

イヌは人間に対してフェイスフルよね。とても…。


日高▼

ローレンツがイヌが好きなことと、フェイスフルであることが美徳と考えることが直接には結びつかないと思うけど、僕はフェイスフルということがとてもこわいんです。

たとえばヒットラーが出てきたとき、ドイツ人はフェイスフルに従ったでしょう。


南▼

ああ…。そういう部分がある。


日高▼

ね!だからフェイスフルであることを尊重するということは、なんかすごくこわいことだなあという気がするわけ。


南▼

一種のスレイブ(奴隷)だもんね。


日高▼

結局そうでしょう。

イヌはパック・ハンターだから、パックを作ってハントする。

たとえば、エスキモーのリーダーがいて、その下にイヌがずっとつき従っているわけ。

さらに、そのリーダーは自分のリーダーが人間だと思っているので、人間に従う。

そうすると、人間に従うリーダーに付いているイヌたちも、それに全部が従うわけね。

イヌはそういう感じがあるにで、ネコの方が安全だなあと…。


南▼

ネコは勝手気ままだから、とても可能性があるわよね。

それはわかるんだ。


日高▼

そういう意味で、僕はネコの方が好きだなあ。

それからネコってきれいだし、女性的でもあるし(笑)。


自分の世代では少し早いので


南沙織さんってよく知らないのだけど


この対談では流石に篠山紀信夫人で


あることを感じさせる知性の持ち主で


ただものじゃない気がした。


ローレンツに興味あるなんて素敵です。


日高敏隆 あとがきから抜粋


動物のことに関心をもつ人々が、最近はとくにふえてきているような気がする。

文学、哲学、芸術など、さまざまな分野の人々が、動物学のことをよく知っていて、はっとするようなことを述べているのを、しばしば耳目にする。

けれどこれは、べつに学際的とか境界領域とかいう問題ではなくて、じつに当然のことなのだろうと思う。


そう思うわけはすくなくとも三つある。

一つは、ぼくら人間がやはり動物の一種であって、その枠内で生きているのに、近代はそのことを故意に無視しようとしてきた。

その結果われわれの中に、何かそこはかとない不安や不信がかもしだされてきたということ。


第二は、いわゆる科学と芸術、科学と宗教、論理と感性などという二分法が、じつはほとんど意味をもたないのではないかという疑いの感覚が、多くの人々の心の中に芽生え、根着いてきたこと。

そして第三に、何らかの形の創造的活動には、分野を問わず共通したものがあるはずだということである。


日高先生、相変わらず深くて素敵でございます。


この本、調べても対談相手一覧がなかったので


今回引かせていただいた方含め以下でございます。


▼対談相手

山下洋輔(ジャズ・ピアニスト)

安野光雅(画家・絵本作家)

岸本重陳(大学教授・理論経済学)

矢川澄子(詩人)

長谷川尭(大学教授・建築史)

松田道雄(小児科医・評論家)

観世寿夫(能役者)

中根千枝(大学教授・社会人類学)

羽田澄子(記録映画監督)

坂本正治(音楽家)

赤塚不二夫(漫画家)

南沙織(歌手)


寒くなってまいりました11月の


関東地方、こたつからお届けいたしまして


夜勤明け、本日は休みなので


子供の絵が近くの公園で展示されている


ようなので妻と暖かくして出掛けよう。


 


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②日高先生の対談本から”時代”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

  • 作者: 日高 敏隆
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1978/04/20
  • メディア: -

 


70年代しているなあ。


テーマが、言葉が、雰囲気が。


うまくはいえませんが。


むだをする 岸本重陳


金は天下の回りもの から抜粋


岸本▼

動物の場合はどうなんですか。

個体差を識別するということはかなりあるのかしら?


日高▼

はっきり識別してる動物がずいぶんいますね。

鳥なんかのように人間が見ても区別できないものを、ちゃんと識別しているものもいます。


岸本▼

人間の場合、今までの階級社会における個体識別の重要なポイントは、経済面における貧富の差であったと思います。

その貧富の差によって、あそこの家はダメな家だからあんなのと結婚しちゃいかんというのに始まって、個体識別を非常に容易にしてたと思うんです。


日高▼

そうでしょうね。

ところで、貧富の差というのは、富が有るか無いかですよね。

動物の場合を見ていると、その富というのがよくわからないわけです。

たとえば、生態学では富の源泉というのは、太陽エネルギーしかない。

それに困ったことには、太陽エネルギーはだんだん蓄積されるのではなく、結局、宇宙空間に再び放出されるわけです。

つまり、太陽エネルギーが地球上でしばらくグルグル回っているうちに、いろんな動物が食べていく。

人間の場合でも、ーーもちろん人間も太陽エネルギーの流れの中にいるんだけどーーたとえば、金は天下の回りもの式な言い方をすると、どこからお金が入ってきて、金がひとまわりグルっとする間に食えるわけですね。

そうすると、生態学の場合と人間の場合では、どこがどう違うんだろう?

生物の場合では富が増大することはないけど、経済学の面では富が増大するわけですね。


岸本▼

実はね、「富」というものほど、経済学上、定義されてないものはないんですよ。

『資本論』にだって、その冒頭に「資本制的生産様式が支配している諸社会の富はーー」なんて書いてあるけど、その「富」というのはなにかという定義はひとつも出てない。


日高▼

たしかにそうだ。


岸本▼

だけど、客観的に見れば、経済学で「富」といっているのは、人間の生存手段でしょうね。

人間の生存手段は、生態学の立場からは順増にはなれないけれども、人間が支配下においたものと限定すれば、今まで支配下になかったものが、新しく支配下に入ってくるということで、増減を考えることができる。

そこで、富を増やすこと、生存手段を増やすことを生産というわけです。


日高▼

動物を研究している人でも、動物における生産を論じることがあるなあ。

なにしろ、人間の社会に起きていることを、動物に投影しないと気が済まない人が意外にたくさんいるんでね。

そこが実に面白いところなんだけれども…。


ばかされる 矢川澄子


ボーヴォワール から抜粋


日高▼

この頃、ボーヴォワールに関心を持つ人がなんだかまた増えているような気がするんだけど…。


矢川▼

そうかしら。


日高▼

僕の狭い印象だけなのかなあ?


矢川▼

ボーヴォワールよりもシモーヌ・ヴェーユあたりに関心を持つ人のほうがわりあい増えてきているんじゃないかしら。


日高▼

大学で学園紛争のあったときにはシモーヌ・ヴェーユが話題になったけれど、ヴェーユを口にした人はほとんど駆逐されましたね。

あとに残った人たちは、たとえボーヴォワールの名を口にしなくとも、どうも基本的にはボーヴォワール的な感覚を持っているように思います。


矢川▼

私は時代おくれだし、いわゆる女性論てのにあんまり興味がないので、彼女についてよう知らないのね。

なんだかお説教されてるみたいで、きらいなのよ。


日高▼

矢川さんが時代おくれなのでなく、ボーヴォワールがおくれていて、そのおくれる人の感覚がいまだに生きているってのが気になるんだな。


矢川▼

ボーヴォワールのような格好で生きようとしている女の人は、少なくなってるような感じがするけど。


日高▼

それがそうでもないらしいんだな。

ボーヴォワール式の考えを何かと持ち出す人というのは大抵、結婚してない人でもなく、子供を生んでない人でもない。

あるいはもっと若い人だったら、いずれはちゃんと旦那も欲しいし子供も欲しい。

そして実際にそうする人たちですね。


矢川▼

ずいぶんよくばりみたいね。

よほど体力だか生命力(バイタリティ)だかに自信があるのね。


日高▼

ある意味ではね。

で、おのれないしは女の生き方について公式な見解を求められると、男と女はそもそも平等で、まったく同じものである。

それが女になってゆくのは、社会的に女としてつくられるのだというようにバーンという(笑)。

公式にだからそういうのではなくて、本当にそう思い込んでいるらしいんだな。

だからできるだけ自分が女らしく振る舞おうとしている。


矢川▼

言えるってことはすでに救われた者のすることよね。

女であることの痛みをほんとにひっかぶって生きている人たちは、ほとんど無言ですもの。

ボーヴォワールって、健康人の日のあたる世界のことしかいってないみたいな気がするけど。


ならべる 中根千枝


カラスとネズミ から抜粋


日高▼

日本人の社会というのは、カラスの社会に似ているのかなあ。


中根▼

え!鳥のカラス?


日高▼

ええ。ローレンツの書いているカラスの話でおもしろいのがありますね。

カラスっていっても、日本にいるのとすこし違う、コクマルガラスという種類なんですけどね。

このカラスは、自分たちの群れの中では一応年長のものから順番にずっと並んでいるわけです。

これには雄雌の区別はない。

だから若いものは雄でも雌でも下になるんですが、若いものの中には、雌は雄の下につくことになっている。


中根▼

へえー。


日高▼

お互いに認知しているんですね、あれは何番だと。

いや「何番」なんてことは知らないでしょうけど。


中根▼

誰の次とか…。


日高▼

ええ。自分の次とか、下とか上とかいうのはわかっている。


中根▼

日本人だって自分はいちばん上から数えて何番かは知らないんだわ、どっちが上か下かで。

だいたいカラスと同じ(笑)。


日高▼

しかも面白いのは、同じ年齢だと雌は雄よりも常に順位が低いんです。

しかし、雌は自分より順位の低い雄とは絶対に結婚してつがいにならないし、雄は自分より順位が上の雌とつがってはならないんです。

だから、かならず雌の順位が結婚相手の雄の順位に上がるんであって、雄の順位が雌の順位に上がるということはないんです。


中根▼

ほ、ほぉー。それはすごいわね。


日高▼

だからカラス同士も大変いろいろ気をつかっているらしくて…(笑)。

つまり、自分より順位が下だった雌がいるわけでしょ。

なんだ、あんなもんかと思ってたのが、突如としてポーンと自分より順位の上の雄と婚約などされると「ははあ」って下がんなきゃいけない。


中根▼

どこかで聞くような話ね。


日高▼

そうなんですよ。

人間でも自分より若い女の子が自分の目上の人の奥さんなんかになったら、あんまり軽々しい口はきけなくなるでしょう。すごくカラス的…。


中根▼

一列に並ぶというのはカラスがそうだとすると、日本はカラスだわね。

それで、途中で順番が変わることはない?


日高▼

ほとんとないようですね。


中根▼

動物の世界というのは一列に並ぶものだけではないんでしょう?


日高▼

もちろんそうです。

ネズミなんか個体識別できないから、誰が自分より上か下かちっともわからないで、ごちゃごちゃしているんですね。

ただ、デスポット(独裁者)ができる。

「あれは偉い」というのだけは、どのネズミもわかっている。


中根▼

それはイタリア式よ(笑)。

イタリア人は完全にかなわないというものだけいうことを聞くのよ。

韓国もイタリア式ね。

それからフィリピンなんかもそうだわ。

だからマルコス大統領みたいな相当強いのがいるからまとまっているけど。

下の方はわあわあよ。


日高▼

韓国というのは割合に単一社会なんじゃないですか。


中根▼

まあ単一な方だけど、北の方はツングースが混ざっているし、南の方は倭人と似たような民族が混ざってるわね。


日高▼

日本もほぼ完全な単一社会だけど、日本の薩摩と長州なんてものではない?


中根▼

もっと違うでしょ。

だけど今はもう完全に混ざっちゃってるけどね。

でも歴史的には違うわね。


日高▼

日本以外に単一社会の国というのはないんですか。


中根▼

5000万以上の人口を持っている近代国家ではまずないわね。

2、30万ぐらいの社会だったら、結構あるけど。

ちょっと日本みたいに大きい社会ではないわねえ。


日高▼

単一性がないと「タテ社会」にならないわけでしょ?


中根▼

少なくとも、「タテ」のプリンシプルというのは、一つに統合されないと全体にあまねくゆき渡らない。

日本のようにきれいに「タテ」になるためには、やはり単一性が母体であることが重要になるといえるでしょう。

一つの社会のなかに、一つが上になり、他方が下になると階層ができるでしょう。

そうするといずれの場合も「ヨコ」の機能が強くなって「タテ」が部分的にしか機能しないし、全体としては「ヨコ」の機能が支配的になるわね。

日本列島には、北や南からいろいろな人々が入ってきて、長い間にそれが混交して日本人というものが出来上がったようですが、すでに、縄文時代から同じ文化が日本列島全体に見られるわけだから、単一性というものは相当古く、今日の我々にとって根強いものといえるわね。

たいてい国家ができてから異なる既存の集団が統合されて一つになるというケースが圧倒的に多いんだけど、日本の場合はもう奈良朝ができる前に相当な文化の単一性ができてしまっているから…。


かくどを変える 坂本正治


標本箱と三島由紀夫 から抜粋


坂本▼

分類学者はコレクターとして素養が必要だということだけど、生物学者というのはコレクターとは違うんでしょう。

知識だけをコレクトしようとしているような人もかなりいるようだけど。


日高▼

全然、違うんじゃないだろうか。

僕は昆虫学をやってることになっているけど、昆虫を収集する趣味はないし、虫についてありとあらゆる知識をできるかぎり集めようなんて趣味もないですね。

少なくとも、それが第一義ではない。

知識をコレクトしようとする人は、論文やら本やらを片っ端から集める。

僕にはそんな根性みたいなものはないな。

あくまで適当にしておく。


坂本▼

しかし、知識をコレクトしているだけの生物学者は多い。


日高▼

それは多いよ。

しかし、この問題は生物学者に限ったことではないでしょう。


坂本▼

そう。僕は三島由紀夫の文章なんか読むと、一種のコレクトマニアの標本箱を思い浮かべる。

彼の文章には日本人の美学が描かれているという人もいるけど、僕は実に薄っぺらいと思います。

標本箱にならべられたチョウと同じように、三島由紀夫の文章はできてくるプロセスが全然なくて、完成品なんですよ。


日高▼

まったく同感だね。

彼の作品をいくら読んでも、標本箱を見ているよう。

インテレクチュアルな感じはしない。


坂本▼

そうでしょ。

芸術家の中にもそれ派がいますよ。

テクニックが非常にあって、ある美しい世界を描き出す。

そしてその作品が市場価値を持って動き出すと、もうチョウのコレクションと似てくる。

純粋であるところも似てるし、あんまりインテレクチュアルじゃないところも似ている。


日高▼

なるほど。あらゆる分野にコレクターがいるわけですね。


坂本▼

いままでの高度経済成長時代というのは、特に進歩というのが信じられていたわけですね。

まあ、明治以降ずっと日本人は進歩を信じてたわけですけど。

ところが生物学というのはその進歩感に重要な役割を果たしてきたわけですね、人間はだんだん進歩していると。

野蛮人があって、文明人があって、という図式があったんです。

ところが、今それがチョウのコレクターとかなり似ているんじゃないかと。

人間は好きなものを集めて所有したがる。

ところが、好きなものは人によって違い、金を集めるもの、知識を集めるものなどがいる。

その人たちが近所迷惑も顧みず、進歩観に乗って、ただ懸命に”文明の象徴”を収集しつづけた結果が、今の日本列島だといえないこともない。

しかも、生物学から提案された進化とか進歩のイメージに忠実でない人たちが多くなってくると、進歩と調和して、シンボルだの、知識だの、お金だの、土地だのを収集していた人たちがそれぞれどのようなトータル・イメージを持つようになるのかが問題となりますね。

そこで僕が一番不思議に思うのは、生物を研究している人たちというのは、動物なら動物、植物なら植物を見るときに、どういうイメージを持って見ているのかということがわからないわけです。


日高▼

それは人によって違うんでしょうね。

たとえば、生物を研究している人が、どのくらい進歩発展の思想にのっているか、つまり、20世紀の近代主義思想にのっているか、いないかによって、生物を見るイメージも違いますね。

近代主義的な感覚の持ち主は、やはり生物に対してもそういう目を向けるからね。


坂本▼

どういう目を向けるんですか?


日高▼

やはり、生物学は進化、発展してきたものだという…。


坂本▼

いまでもそんなことを信じているわけですか。


日高▼

もちろんですよ。


坂本▼

そういう人はクジラより人間は偉いと思うわけですか。


日高▼

内心ではそう思っているんじゃないかなあ。

だからサブヒューマン・プライメイツ(subhuman primates)、つまり人間以下の霊長類なんていう言葉が、ひょいと出てくる。

そして、そのことについて、誰も対して不思議に思わない。


坂本さんというのは存じ上げませんで


WIKIで見るかぎり書籍もあまり出されてないようで


残念ですが、惹かれるものがあるような。


少し調べた感じだとかなりラディカルな印象。


イメージシンセサイザーってなんなのだろうか。


環境デザイナーとあるけれど、90年代に


「ワン・トゥ・ワン・マーケティング研究会」って


何をされようとしていたのかも気になるが。


この対談での日高先生が押され気味なのが


なんとなくすごい感じがいたします。


余談だけど、本日夜勤のためそろそろ


食事するのだけど一個レトルトカレーが


100円だった。時代も変わったものです。


 


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①日高先生の対談本から”ルーツ”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

70年代の対談本。日高先生がお若い。


教育者然・学者然としていなくてかっこいい。


40代ですか、これは当時新しい価値観の


人だったろうなと想像つく。


装丁は対談相手の一人の安野光雄さんで


これも時代を反映されたデザインだなと。



動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

  • 作者: 日高 敏隆
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1978/04/20
  • メディア: -

あとがき から抜粋


動物雑誌『アニマ』の編集部から、今西錦司先生のあとをうけて1977年の連載対談をやりませんかという話をもちかけられたとき、まずぼくの頭に浮かんだのはこのことであった。

動物の雑誌だから動物学者を集めて動物の話ばかりしていれば良い時代ではなかろう。

それにその方面については、その前年に今西先生が堂々たる今西動物学を展開しておられる。


そこでぼくは、『動物学の内と外』として、一見動物学とは関係ない方々の話をうかがうことにした。

こうして、ジャズ・ピアニストに始まり歌手に終わる対談が、動物の雑誌『アニマ』の1977年1月号から12月号にわたって連載されることになった。


でたらめをつくる 山下洋輔


ふと思いつく から抜粋


日高▼

それであるとき、またその山へ採集に行こうというとき…、それもどうしてそういうふうに思いついたか、全然わからないんだけれども、これはきっと今まで温度を一定にして飼ってたのが悪かったんだとふと思いついた。

そこで山の上へ自記温度計を持ってって温度を記録したら、昼間は日当たりでは輻射温度が35度から40度近くもある。

夜は温度が5度まで下がる。

帰ってきて早速実験室の飼育箱をこの山頂の温度に似せて振らせてやったら実によく生きたわけです。


山下▼

ふと思いつくというのは、まるで科学的じゃない言葉だなあ。


日高▼

全くそうですよ。


山下▼

そうすると、小松左京さんが『日本沈没』の中で、科学は直感だというのは当たってる…。


日高▼

当たってますよ


山下▼

じゃ、科学者像っていうのを、完全に変えていいわけですね。


日高▼

変えて欲しいですね。

じゃないと、ぼくらは女の子にモテない(笑)。

だけど科学は直感だなんてことは、たいていは、それもシラフのときはとくにいいたがらないし…。

それにもう一つ言わないことがある。

つまり、直感っていうのは教育するときに困るんです。

一応工業国家である日本で、工学部に入った学生がみんな直感、直感なんて言いだしたら工業国家は潰れちゃうわけですよ。

国家的にいったら、ごく一部の直感のすぐれた人が何人かいて、その人が出してくれた直感を、直感に頼らないような、こつこつやる人が現実化してくれた方が、ずっとありがたいわけでしょう。

そういうこともあるんだろうと思うんです。


わかりっこない から抜粋


山下▼

直感という話とある程度関係があるんだけど、以前、ブルースの成り立ちに興味を持っていたんです。

ブルースはアメリカの黒人が作り出した音楽だといわれている。

すごく簡単な節回しなわけで、ジャズとかロックに乗って、世界中の人間が聞けば、ああ、あれはブルースの節だってわかるわけです。

ところが、その節がどこから出てきたかが問題で、アメリカでできたんだという説と、アフリカからもたらされたんだという説があったんです。


日高▼

へーえ。音楽解説書にはわかりきったように書いてあったように思ったけど…。


山下▼

その節の中で、独特にぐらぐら動いてもいいという音があるんです。

その音を今までの研究者は、ドミソドとかの和音の中で、その音をつかまえようとしてたわけだけど、ぼくはどうもそうじゃなくて、和音とは全く別の原理で、節だけが成り立っていると考えた。

それとは別に、最近の話ですが、あるとき、アフリカの音楽のテープを聴いていた。

それはタンザニアの牛追い歌で、それを聞いたら、まるでブルースの節であることに気づいた

普通は、ブルースのもの悲しいような節は、アフリカにあまりなくて、アフリカの音楽は、どっちかというと、サンバみたいな音なんだけど、その牛追い歌は、追分節みたいな、民謡みたいな感じだったんです。

これはどうもブルースだっていうんで、ギター弾きを一人連れてきて、この節に合わせて、ブルースの和音進行をあわせた

つまり、牛追い歌の節の中心の音はある。

その中心音に西洋の和音のドを重ね合わせて、そこに和音を乗せて、ブルースのコードを弾いたんですね。

そうしたら、もののみごとに誰に聞かせても、ブルースになっちゃったんですよ。

言葉がアフリカの言葉なだけなんです。


日高▼

なるほど。

そりゃそういうもんかもしらんな。

日本にも長唄のように、独特の節回しがあるでしょう。

それと西洋音楽が結びついて…。


山下▼

それは明治以来できてて、一つは小学唱歌、もう一つは歌謡曲、演歌ですね。

長唄もこちらに入ると思いますが、いずれも、日本の節に西洋のコードをくっつけちゃった。


日高▼

他の民族でも、その民族の音楽に西洋のコードをくっつけた例はあるんでしょう?


山下▼

たくさんありますね。

たとえば、インドの歌謡曲なんていうのもそうなんです。

いかにもインド的なんだけど、和音の進行だけは、なぜか、西洋の300年ほど前にできたものを使うんですよね。


日高▼

西洋の和音形式がなぜそんなにくっつきやすいんですか?


山下▼

あれが流行ったっていうのは、いちばん単純にしたから流行ったんで。


日高▼

なるほどね。単純なものは流行りやすいからな。


山下▼

ほんとの音楽はあんな単純なものじゃないんです。

それぞれ複雑な、もっとデリケートないい回しをみんな持っているんだけど、あの和音進行はものすごく簡単で、理論的で、覚えやすくて、伝えやすい。

つまり、ちゃんと教育できるようになっているから、どんどんよその国へ入っていっちゃう

そして、自分のところのメロディーをのせちゃうんですね。


いたずらをする 安野光雅


えっしゃあ から抜粋


安野▼

エッシャーの作品には、大きく分けて二つの面がありますね。

無限階段のようにありえない世界をかいたものと、いまひとつ、エッシャー流の模様の世界と。

私は模様のほうに興味がありますが…。


日高▼

無限階段の方はあまりに理づめになりすぎて、トポロジーそのものになるきらいがありますね。

例えば、手(A)を描いている手(B)がある。

描かれている手(A)は手(B)を描いている手である。

これは非常に面白いが、いつ見ても驚くというわけにはいかない。

さっき話したネコみたいに、鏡に驚くのは一度だけといった感じがありますね。

その点、アンノの階段の方がいろいろとおもしろい要素があるし、わかりいい。


安野▼

そういってくれる人もありますが、やはり、エッシャーは先人ですしね。

私はエッシャーに刺激されて『ふしぎなえ』を描いたようなものですから。


日高▼

先人にはまた先人がいて、その先にまだ先人がいる。

原点というものはなくなるんですよ。

原点でなくちゃ創作でないような言い方をする人があるけれど、それでは創造もなくなってしまいます。


大瀧詠一さんの領域になってまいりました。


この路線でどなたか追及してくださらんでしょうか。


音楽の起源。


誰かすでにやってそうだけれども。


『アニマ』という雑誌、存じ上げませんでしたが


エソロジーの方達はここで自由闊達な言論を


交わされていたのだろうか。


こういった対談がのるってことは


かなり先鋭的な編集部だったのではないか。


日高先生のようないわば学会のメインストリーム


から外れたアウトローを起用なんていうのは、


その当時の若いスタッフが新しい感性で


作ろうとした証のような。


なんて、動物にも虫にもあまり興味はないのが


もはや残念ですが、それを対象として”ヒトをみる”


さらにそれが興味ある人たち、だったとしたら


かなり面白いなあ、とか、でも、ヒトはヒト、


動物は動物という昨今の考えもあるなあ、とか


70年代といえばもう50年前かよお、と思った


風の強い早朝読書、寒くなってまいりましたが


そろそろ仕事行ってまいります。


 


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3冊から”遺伝子”と”ミーム”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

自分にとって頂上対談と言える


中村・養老先生の対談を読んでみた。


ただいま現在の今のところ


これが最新なのかな、当時2000年頃。


かなり学術的な内容だけれど


お二人の話し言葉なのでとっつきやすい。


ので、何度も読みたい気になる。


そんな中、気になったドーキンスさんの


記述があった。



生命の文法―〈情報学〉と〈生きること〉 (哲学文庫―叢書=生命の哲学 (2))

生命の文法―〈情報学〉と〈生きること〉 (哲学文庫―叢書=生命の哲学 (2))

  • 出版社/メーカー: 哲学書房
  • 発売日: 2001/02/01
  • メディア: 単行本


第二章 情報が物質的ペースを得た


人間を考えるときにだけ、「個体」が 浮上する


から抜粋


養老▼

個体というのは非常に偶発的なもので、生物にとってそう本質的なものではないような気がしてきましたね。

なぜ個体が成立しなければならないのか。


中村▼

人間を中心に考えたときにだけ個体が大事になるんじゃないですか?

人間は「私は私だよ」ということがないと不安で、「個」や「私」が大事になるのだけれど、人間以外の生物の世界にとっては個体は別に大事なものではありませんね。

ただそこを強調しすぎると、「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」という、ドーキンスの利己的遺伝子説(注)の議論になってしまいますけれど。

人間を考える立場としては、ドーキンスとともにおおらかな気持ちになって、ああそうですねというところでは終わらない。

「私とはなんぞや」という悩みがあるのに、それを放り出して「関係ない」と言ってしまったら、学問としておもしろくなくなるので、「個」という問題も考えます。


養老▼

自意識の問題ですね、自己の問題。


注:利己的遺伝子説selfish gene ドーキンスはその著書『利己的な遺伝子』で「われわれは生存機械ーー遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ」と書く。

これまでは、まず生物個体が生物学者の意識にのぼり、遺伝子は個体が用いる仕掛けとみなされていたが、実は「生命が生じるために存在しなければならなかった、唯一の実体は、不滅の自己複製子(遺伝子)である」とこの本を結ぶのである。


この中村先生のご発言は、いかにも先生の


思想というか志向を現されているなあと思った。


もしこのドーキンス氏への解釈を世間が


展開されたなら、さまざまな誤解の


勝手解釈がなくて、まともな学者のストレスは


軽減されたろう。


まともな学者ってのもアレですけれども。


でもって、”ミーム”のことを科学的に


研究した本も読んでみた。



ダーウィン文化論―科学としてのミーム

ダーウィン文化論―科学としてのミーム

  • 出版社/メーカー: 産業図書
  • 発売日: 2004/09/01
  • メディア: 単行本


日本語版への序文


2004年9月 ロバート・アンジェ


から抜粋


日本語を話す方々がミームについて、さらに多くのことを発見される機会ができ、大変うれしく思います。

これはすなわち、情報の断片が社会的学習を通じて伝えられていくという考え方、さらには文化のダイナミクスについて、みなさまが思考をめぐらせる、ということでもあります。


本書をお読みいただければ、わかるように、ミームの考えかたは一般には非常にウケが良いのですが、専門家の間ではいまだに論争の対象になっています。

「心のウイルス」や「文化遺伝子」というものがどのように機能するのか、わかっていないからです。


序文 ダニエル・デネット


2008年 から抜粋


ミーム論者たちが同意するからもしれない意見があるとしたら、それは以下のようなものだろう。

ある考えが栄えることーーそれが複製して成功して心の的、倫理的な洗練度などーーに関係があるとしても、それは偶然であり不完全な関係でしかない

いくたの良い考えが消失してしまうこともあれば、悪い考えが社会全体に影響を与えることもある。

ミームという考えかたについて将来予想されることはこれらどちらの面においても定かではない

本書の目的は、ミームというミームの繁栄を確定することではなく、もし繁栄するとしたらそれは理由があってのことだと示すことにある。

この有意義な目標に向かって進むには、道しるべと軸足となる点が定められ、ドクトリンではなく証拠と方法論が確定すること、さらに、いささかなりとも共感する者が擁護者の間にも批判者の間にもてて定着し、この分野が進むべき方向についてのコンセンサスが情勢されることが必要だ。


何十年もの間、ミームを弁護する側・批判する側の双方において、あまり有効な活動は展開されてこなかったが、本書の元となったワークショップは、熱っぽくも建設的なものである。

そして本書によって、より多くの読者が一蓮托生となる。

これを皮切りに、類似の試みがどんどん続いていくだろうと予言しておこう。


”ミーム”が何かは、この書で書き尽くされていて


まあ、わかるような気にもなるのだけど。


”ミーム”自体が説明するのに難しい存在だから


学術的に説明しようとしても、


それはナンセンス・無理筋なのかもしれない。


デネットさんの文は興味そそられるのだけど。


そして思い浮かんだのが池田先生の書でした。



驚きの「リアル進化論」 (扶桑社新書)

驚きの「リアル進化論」 (扶桑社新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2023/09/01
  • メディア: 新書


おわりに から抜粋


私が、進化は「遺伝子の突然変異」「自然選択」「遺伝的浮動「性選択」ですベて説明できるという、いわゆる「ネオダーウィニズム」の理論に疑問を抱き始めたのは1980年代の初頭で、そのころの日本の生態学会は、ドーキンスに代表される極端なネオダーウィニズム一辺倒でした。

しかし、新しい分類群の出現といった大きな進化は、ネオダーウィニズム的なプロセスでは説明不可能なことは、私の目には自明であったので、やれ「利己的遺伝子」(ドーキンスらが提唱した「自然選択や生物を遺伝子中心の視点で見る理論」を表現するのに盛んに用いられたことば)だ、やれ「ミーム」(文化を形成する脳内の情報。他の脳にも複製可能で、遺伝子と影響し合いながら進化するとされる)だと能天気に浮かれている連中を憐憫の思いで眺めながら、私は、学会にも顔を出さずに、ひたすら「構造主義進化論」の構築に情熱を注ぎ込みました。


それから時は流れて、蓄積された科学的事実は徐々に「構造主義進化論」に整合的になってきました。

中には、「池田の言っていることは要するに『エピジェネティクス』で、そんなことは今では常識だ」という人まで現れました。

しかし、私がネオダーウィニズム批判を始めた1980年代の半ばごろに、そんなことを言っている人はほぼ皆無だったわけで、後出しじゃんけんで威張る人が現れたということは、「構造主義進化論」の優位性を雄弁に物語っています


孤高に屹立する池田先生ならではの言説で


すべて理解はもちろんできておりませんし


本当にここまで否定できるものなのかは


自分の頭では当然に難しいのだけど


もしも”ミーム”を追求しようとすると


無視できないご意見であることは確かと感じる。


なんと言っても”心のウイルス”なんて


誰も、どういう手を使っても、納得できる資料なぞ


出せないだろうと思うのだけど


それを議論しているのも面白いっちゃ面白い。


だからこれだけの論客たちが論争して本が


出ているのだろうなあとこのテーマは引き続き


ウォッチしてアナライズするだろう


予感がする寒くなってまいりました朝


今日は休みのため、図書館に


フィールドワークだなこれは。


 


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