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中村桂子先生の自伝本から”プロセス”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


生命科学者 中村桂子 (こんな生き方がしたい)

生命科学者 中村桂子 (こんな生き方がしたい)

  • 作者: 大橋 由香子
  • 出版社/メーカー: 理論社
  • 発売日: 2004/01
  • メディア: 単行本

はじめに から抜粋

2003(平成15)年4月、ヒトゲノムの解読完了というニュースが世界中に流れました。

人間の遺伝子情報であるヒトゲノムが解読されたのですーーー

そう聞いてもピンとこないという人でも、遺伝子組み換え食品、バイオテクノロジー、DNA、クローン人間といった言葉は、豆腐や納豆のパッケージ、映画などで目にしますね。

むずかしそうな科学の出来事は、じつは私たちの日常に入り込んでいるのです。


中村桂子さんは、大学で化学を学び、そのころ発見されたDNA二重らせん構造を知って興味を抱き、生物化学に進みます。

大腸菌を使った研究ののち、生命科学という新しい学問をつくる作業をにない、やがて、ゲノムから生きものを見る生命誌研究館をスタートさせました。

子どもが生まれて研究所勤めを中断した時期もありますが、育児と研究を両立させた女性科学者の先駆者でもあります。


こう紹介すると、科学一直線のようですが、中村さんは小さいころから文学少女、音楽もスポーツも好き、いろんなことに興味を持つタイプでした。

理系の科学者・研究者ときくと、子ども時代は昆虫採集に夢中、試験管や顕微鏡をのぞくのが三度の飯より大好きで、という人物を思い浮かべますが、ちょっと違うのです。


「好きなことだといっぱい話しちゃうから誰も信じてくれないけど」

と笑い、実は話すのが苦手で、黙って人の話を聞いているほうが好きだという中村さん。

高校時代にお父さんが買ってくれた古いピアノのある部屋ですてきな庭を見ながら、あるいは大阪の生命誌研究館で食草園に目をやりながら、ご自身の半生を熱心に語ってくれました。


第3章 DNAから世界を見る


もうひとりの恩師、そして結婚 から抜粋


無事に大学院の前半である修士課程を終えました。

種類の異なるアミノ酸を運ぶt-RNAは構造が違うことを示した研究で論文を出しました。

後半の博士課程に進むにあたって、そのまま東大で学ぶなら先生を変える必要があり、江上不二夫先生に師事することになりました。


江上先生の口癖は「自分のものを大切にして、へたな競争はしない」でした。


「実験が思いどおりにいかなかったら、喜びなさい」。

シュンとした学生をなぐさめるためにか、先生はよくこうも言いました。

人間が考えることなんか、たかだ知れているよそれより自然が教えてくれることのほうが、はるかに大きい。予想通りの結果が出なかったのは、自然の中に君の考えを超えた、おもしろい新事実が隠されていることを示しているんだと思いなさい。」

その後、さまざまな場面で思い出す言葉です。


第4章 生命科学に導かれて


恩師からの呼びだしーーー生命科学ってなに?


1970(昭和45)年のある日、江上先生から電話がかかってきました。

いつものように翻訳の仕事かなと思いながら、研究室へ出向いてみると、ちょっと様子が違います。

「新しい研究所を始めるんだ。しかもそれは、とっても新しい。生命科学というのをやろうと思うんだ。その仕事を手伝ってくれないか」


「これまでの社会は、あまりにも物理や化学の知識を使った技術に頼りすぎてきた。

それが生物を無視して、生命を軽視する風潮につながってしまった。

これからは生物の研究が非常に大事になる。そして、生物を基礎にした新しい技術や新しい価値観をもった社会を作ることが要求される」


「今の世の中を見ていると、生きもののことを考えなきゃいけない時代になったのに、大学の研究は縦割りになっている。

生きもの全部のなかで人間と科学、生きものにとってのよい科学を考えなきゃいけないのに、そういう場はどこにもない。

本来は国や大学がやるべきだけど、できる段階じゃない。

だから、民間で始めようと思うんだ」


「5年もたったから、もういいでしょ。そろそろ仕事をした方がいいよ」

たしかにそうです。

上の子を見ていると、下の子は赤ちゃんでも、だんだん手が離れていくのが予想できます。

新しい研究所も今は赤ちゃんでも、だんだん手が離れていくのが予想できます。

調整すべきいろいろな事柄が、一瞬のあいだに頭のなかを駆け巡りました。

家族にも納得してもらう方法を考えられそうです。

「はい、ぜひ」

気がつくと、桂子はそう答えていました。


ここで江上先生の構想をもう少しくわしく見てみましょう。

生命科学の柱は三つあります。


ひとつは、人間を理解するための総合生物学にすること。

生物の単位である細胞などの基本的な研究から、発生や分化、脳神経の働きなど、難しい課題を研究しながら、異なった分野の研究者同士が、おたがいに話し合い、関連づけて、タコツボ化しないようにするということです。


二つめは、研究の成果を人間の暮らしに役立てるようにすること

これまでの科学や技術は、人間が自然と対決し、自然を征服するという考え方で進められてきました。

とくにヨーロッパやアメリカではこの傾向が顕著です。

でも、これからは、自然は征服するものではなく、限りある地球のなかで、生態系をこわさないで生きていけるような科学技術が必要になります。

そういう技術を研究しようということです。


三つめは、科学と社会の関係を考える分野にすること

科学にかぎらず、学問というのは大学という象牙の塔に閉じこもっていてはいけない、社会とのかかわりの中で研究はなされるべきだということです。


生命科学は、アメリカで生まれたライフサイエンスの日本語版ではなく、江上先生独自の構想です。

江上先生は、日本だから考えられるもの、けれど世界に通用する「生命科学」を作り、世界に発信しようとしていました。


当時は世界中で、公害の被害者になった住民たちが中心にした反公害運動、ベトナム戦争に反対する運動、大学の在り方に異を唱える学生運動(スチューデント・パワー)など、それまで当然とされてきたことや社会現象に批判的な眼を向ける活動が盛んになっていた時期でした。

江上先生も、そうした学生たちの運動に共感を寄せていました。

生命科学の三つめの柱、科学と社会の関係などは、当時の大学闘争のテーマと重なるところもあります。


こうした体制に反対する運動においては、民間企業というのは利潤を追求するあまり、人々の健康や幸福を踏みにじる存在と見なされてきました。

実際、水俣病は、排水処理にお金をかけることなく、工場から毒を含んだ汚水を垂れ流し続けるために起きた公害です。

しかも、科学者の一部は、そういう公害企業を弁護するために、科学的な事実をねじまげる研究成果を発表することもありました。

公害に反対する住民運動の立場からは、企業(産業界)と大学(学問)の癒着は「産学協同」と批判されていました。


そんな時代に、江上先生は財閥系の企業である三菱化成の出資で、新しい生命科学の研究所を作ろうとしたのです。

弟子たちの中には、内容ではなく、このスポンサーのことを批判する人もいました。


正しいことは正しい、やるべきことはやる!という意気込みで、江上先生は民間で生命科学研究所を立ち上げることを決意したのです。


「私のやりたいことに近そうだ」という直感を頼りに、民間の研究所に勤めることに決めます。

34歳の時でした。


第6章 生命誌研究館の館長として


科学のコンサートホールをつくろう から抜粋


年末にベートヴェンの第九交響曲を聞くことが、いつの間にか日本の年中行事になりました。

暮れも押しつまったある日、桂子も目白にある東京カテドラルに出かけました。

小澤征爾のチャリティー・コンサート、曲目は第九です。


第四楽章の合唱が始まると、ふっと涙が流れてきました。

コンサートホールは、音楽の感動を伝える場です。

演奏者は作曲家の楽譜を自分なりに解釈しながら表現し、聴いている人と音楽の美しさを共有します。

これと同じことができるはずだ」。


科学者が専門用語で論文を書いていても、DNAのらせん構造の美しさは一般の人には伝わりません。

自然のすばらしさや生命の不思議を、プロとアマチュアが共に感じとれるような場がほしい。

生命科学という概念にはおさまりきれなくなっていた思いと、それを伝えるための手段とが一緒になって「生命誌研究館」という六文字がひらめきました。

「生命誌」と「研究館」は、つながっています。


「自分がおもしろいと思った生きもののおもしろさを、専門家だけでなく、いろいろな人と共有したい。

1匹の虫を見て研究するのが科学者。作曲するのが音楽家。

気持ちは同じですね。

研究は楽譜のようなもの。

普通の人は譜面を見ても面白くない。優れた音楽家が上手に演奏して、はじめてみんなが感動できるでしょう。

上手に伝えれば、科学も音楽と同じように楽しめるはず」


生命誌の「誌」には、自然が語ってくれる物語を読みとって記していこうという思いがこめられています。

一つの生きもののゲノムをさかのぼっていくと、そこには、38億年の生きものの歴史が書きこまれています。

気の遠くなるような長い時間の流れを感じ取れるように、「生命誌」と表現しました


「生命誌研究館」というアイディアを見つけた以上、形にしたい、実現させたいという思いが、日に日に強くなります。

三菱化成にも、打診してみました。

趣旨はよくわかるけれど、ひとつの会社でふたつの研究所を作るのは難しい、と言われました。


そのとおりだと思いました。でも、あきらめきれません。

立ち上げの時から20数年間過ごした職場には愛着もあり、周囲の人にも恵まれていましたが、「生命科学研究所で一生を終えるわけにはいかない」と退職を決意します。

1989(平成1)年、53歳の決断でした。


20代のころって、何かやろうとするときに、先に無限の時間があるみたいに思って計画する。

40代まではほとんど同じだった。

それが50歳を過ぎたら、急に時間というのは有限なんだと思い始めた。

50歳になって本当の自分のやりたいこと、やるべきものが見えるようになってきた

だから若返りたいとは思いませんよね。こまるのは物忘れだけ(笑)。」


中村先生の幼少時からのエピソードが川となり、


生命誌にたどり着いた様や考えの流れが


少しというか、なんとなくつかめた。


他、印象的なのは、ご自身の親の死に立ち合い


死は瞬間ではなく、過程(プロセス)だと


実感された件。ご臨終と言われてもそこから


死が始まるわけではないという、その前後から


すでに体験していることなのだ、という。


最近自分も病気の高齢者さんと触れ合う機会が


多いのでこれはものすごくよくわかる。


この書の他で気になる点、子育ての日々からの気づき、


やポイントポイントでの多くの有意義な出会い。


そこからの勝手解釈、一見無為と見えても


有意義に変えてしまうバイタリティというか。


ものすごく興味深い内容の書籍で


やはりこういう人にはこういう経験や思いが


下支えになってるのか、と思ったり。


実際の「生命誌研究館」にも足を運んでみたいな


と思ったり。公式で出ている関連資料をDLしてみたり。


研究館を東京生まれの中村先生が


関西圏に作ったことにも、一極集中への


物申しがありという考えが反映されてのこと。


恐れ入りました、素晴らしいですの一言です。


余談だけれど、昨日夜勤で仕事して帰宅して


体力弱ってるところに仕事場では風邪ひきさんが


何人かいたことにより伝染してしまったのか


本日は休日で雨なので、家にこもっているという


これも原因と結果というか


ひとつの”プロセス”なのだと感じ入る、


NHKで見た”ハナレグミ”さんという


音楽家さんの曲を聴きながらの投稿でございました。


 


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