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①日高先生の対談本から”ルーツ”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

70年代の対談本。日高先生がお若い。


教育者然・学者然としていなくてかっこいい。


40代ですか、これは当時新しい価値観の


人だったろうなと想像つく。


装丁は対談相手の一人の安野光雄さんで


これも時代を反映されたデザインだなと。



動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

  • 作者: 日高 敏隆
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1978/04/20
  • メディア: -

あとがき から抜粋


動物雑誌『アニマ』の編集部から、今西錦司先生のあとをうけて1977年の連載対談をやりませんかという話をもちかけられたとき、まずぼくの頭に浮かんだのはこのことであった。

動物の雑誌だから動物学者を集めて動物の話ばかりしていれば良い時代ではなかろう。

それにその方面については、その前年に今西先生が堂々たる今西動物学を展開しておられる。


そこでぼくは、『動物学の内と外』として、一見動物学とは関係ない方々の話をうかがうことにした。

こうして、ジャズ・ピアニストに始まり歌手に終わる対談が、動物の雑誌『アニマ』の1977年1月号から12月号にわたって連載されることになった。


でたらめをつくる 山下洋輔


ふと思いつく から抜粋


日高▼

それであるとき、またその山へ採集に行こうというとき…、それもどうしてそういうふうに思いついたか、全然わからないんだけれども、これはきっと今まで温度を一定にして飼ってたのが悪かったんだとふと思いついた。

そこで山の上へ自記温度計を持ってって温度を記録したら、昼間は日当たりでは輻射温度が35度から40度近くもある。

夜は温度が5度まで下がる。

帰ってきて早速実験室の飼育箱をこの山頂の温度に似せて振らせてやったら実によく生きたわけです。


山下▼

ふと思いつくというのは、まるで科学的じゃない言葉だなあ。


日高▼

全くそうですよ。


山下▼

そうすると、小松左京さんが『日本沈没』の中で、科学は直感だというのは当たってる…。


日高▼

当たってますよ


山下▼

じゃ、科学者像っていうのを、完全に変えていいわけですね。


日高▼

変えて欲しいですね。

じゃないと、ぼくらは女の子にモテない(笑)。

だけど科学は直感だなんてことは、たいていは、それもシラフのときはとくにいいたがらないし…。

それにもう一つ言わないことがある。

つまり、直感っていうのは教育するときに困るんです。

一応工業国家である日本で、工学部に入った学生がみんな直感、直感なんて言いだしたら工業国家は潰れちゃうわけですよ。

国家的にいったら、ごく一部の直感のすぐれた人が何人かいて、その人が出してくれた直感を、直感に頼らないような、こつこつやる人が現実化してくれた方が、ずっとありがたいわけでしょう。

そういうこともあるんだろうと思うんです。


わかりっこない から抜粋


山下▼

直感という話とある程度関係があるんだけど、以前、ブルースの成り立ちに興味を持っていたんです。

ブルースはアメリカの黒人が作り出した音楽だといわれている。

すごく簡単な節回しなわけで、ジャズとかロックに乗って、世界中の人間が聞けば、ああ、あれはブルースの節だってわかるわけです。

ところが、その節がどこから出てきたかが問題で、アメリカでできたんだという説と、アフリカからもたらされたんだという説があったんです。


日高▼

へーえ。音楽解説書にはわかりきったように書いてあったように思ったけど…。


山下▼

その節の中で、独特にぐらぐら動いてもいいという音があるんです。

その音を今までの研究者は、ドミソドとかの和音の中で、その音をつかまえようとしてたわけだけど、ぼくはどうもそうじゃなくて、和音とは全く別の原理で、節だけが成り立っていると考えた。

それとは別に、最近の話ですが、あるとき、アフリカの音楽のテープを聴いていた。

それはタンザニアの牛追い歌で、それを聞いたら、まるでブルースの節であることに気づいた

普通は、ブルースのもの悲しいような節は、アフリカにあまりなくて、アフリカの音楽は、どっちかというと、サンバみたいな音なんだけど、その牛追い歌は、追分節みたいな、民謡みたいな感じだったんです。

これはどうもブルースだっていうんで、ギター弾きを一人連れてきて、この節に合わせて、ブルースの和音進行をあわせた

つまり、牛追い歌の節の中心の音はある。

その中心音に西洋の和音のドを重ね合わせて、そこに和音を乗せて、ブルースのコードを弾いたんですね。

そうしたら、もののみごとに誰に聞かせても、ブルースになっちゃったんですよ。

言葉がアフリカの言葉なだけなんです。


日高▼

なるほど。

そりゃそういうもんかもしらんな。

日本にも長唄のように、独特の節回しがあるでしょう。

それと西洋音楽が結びついて…。


山下▼

それは明治以来できてて、一つは小学唱歌、もう一つは歌謡曲、演歌ですね。

長唄もこちらに入ると思いますが、いずれも、日本の節に西洋のコードをくっつけちゃった。


日高▼

他の民族でも、その民族の音楽に西洋のコードをくっつけた例はあるんでしょう?


山下▼

たくさんありますね。

たとえば、インドの歌謡曲なんていうのもそうなんです。

いかにもインド的なんだけど、和音の進行だけは、なぜか、西洋の300年ほど前にできたものを使うんですよね。


日高▼

西洋の和音形式がなぜそんなにくっつきやすいんですか?


山下▼

あれが流行ったっていうのは、いちばん単純にしたから流行ったんで。


日高▼

なるほどね。単純なものは流行りやすいからな。


山下▼

ほんとの音楽はあんな単純なものじゃないんです。

それぞれ複雑な、もっとデリケートないい回しをみんな持っているんだけど、あの和音進行はものすごく簡単で、理論的で、覚えやすくて、伝えやすい。

つまり、ちゃんと教育できるようになっているから、どんどんよその国へ入っていっちゃう

そして、自分のところのメロディーをのせちゃうんですね。


いたずらをする 安野光雅


えっしゃあ から抜粋


安野▼

エッシャーの作品には、大きく分けて二つの面がありますね。

無限階段のようにありえない世界をかいたものと、いまひとつ、エッシャー流の模様の世界と。

私は模様のほうに興味がありますが…。


日高▼

無限階段の方はあまりに理づめになりすぎて、トポロジーそのものになるきらいがありますね。

例えば、手(A)を描いている手(B)がある。

描かれている手(A)は手(B)を描いている手である。

これは非常に面白いが、いつ見ても驚くというわけにはいかない。

さっき話したネコみたいに、鏡に驚くのは一度だけといった感じがありますね。

その点、アンノの階段の方がいろいろとおもしろい要素があるし、わかりいい。


安野▼

そういってくれる人もありますが、やはり、エッシャーは先人ですしね。

私はエッシャーに刺激されて『ふしぎなえ』を描いたようなものですから。


日高▼

先人にはまた先人がいて、その先にまだ先人がいる。

原点というものはなくなるんですよ。

原点でなくちゃ創作でないような言い方をする人があるけれど、それでは創造もなくなってしまいます。


大瀧詠一さんの領域になってまいりました。


この路線でどなたか追及してくださらんでしょうか。


音楽の起源。


誰かすでにやってそうだけれども。


『アニマ』という雑誌、存じ上げませんでしたが


エソロジーの方達はここで自由闊達な言論を


交わされていたのだろうか。


こういった対談がのるってことは


かなり先鋭的な編集部だったのではないか。


日高先生のようないわば学会のメインストリーム


から外れたアウトローを起用なんていうのは、


その当時の若いスタッフが新しい感性で


作ろうとした証のような。


なんて、動物にも虫にもあまり興味はないのが


もはや残念ですが、それを対象として”ヒトをみる”


さらにそれが興味ある人たち、だったとしたら


かなり面白いなあ、とか、でも、ヒトはヒト、


動物は動物という昨今の考えもあるなあ、とか


70年代といえばもう50年前かよお、と思った


風の強い早朝読書、寒くなってまいりましたが


そろそろ仕事行ってまいります。


 


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