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日高敏隆先生の書から”情報”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


生きものの流儀

生きものの流儀

  • 作者: 日高 敏隆
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/10/18
  • メディア: 単行本

5 生きる喜びと「いのち」


生きる喜び から抜粋


人間も他の生きものと同じく「生きる論理」をもっており、その倫理に従って生きている。

けれども不幸にも「死」というものを「発見」してしまったわれわれ人間の生きる論理は、死への対応という悩みの上に出来上がっているようにみえる。

そして人間はこの生きる論理の上に立ってさまざまなイリュージョンや美学を組みあげ、それによって「世界」を構築してきたように思われる。


人間は、「生きる意味」を問い、「生きがい」を求めている。

「生きる」ということについて書かれた本には、たいていこのようなことが述べられているようだ。


けれどわれわれ人間は、毎日そのように高邁なことを考えているだろうか?


職場に行けば、仕事がスムーズにはかどったらうれしい。

休み時間にかかってきた知人からのお礼の電話にひとしきり花をさかせ、いい贈り物をして良かったと、なんとなく心が温まる気持ちになる。


ほとんどが毎日このように過ぎてゆく。

そのどこに「生きがい」があり、「生きる意味」があるのだろう?


でも、われわれが何も求めていないと言ったら、それはどう考えてもうそになる。

人間は明らかに何かを求めて生きているはずなのだ。


われわれは何を求めているのだろう?


どうやらそれは、「意味」とか「価値」とかいう大袈裟なことではなさそうである。

われわれが求めているのは、おそらくもっとずっと単純なことではないだろうか?


人から髪型をひとこと褒められる、「よし、昼までに上げてしまおう」と思った仕事がちゃんと昼に仕上がった、そんな小さなことにも、われわれは「うれしさ」を感じる。

それはつまらないことにも思えるが、そのちょっとしたうれしさによって、われわれが勇気づけられているのも確かである。


そして人生を彩るもう一つの要素は、「悔しさ」ではないかと思われる。

「うれしさ」を求める気持ちを持っているからこそ、人間は無数の悔しさを積み重ねているのだが、その悔しさが、後になって振り返ると、何とも味わい深いものに感じられることがあるのだ。


人間にとって、うれしさや悔しさをまったく感じることができない日々は、感動も落胆もなく、味気のないものに感じられるだろう。

そしてそのように味気のない日が何日も続けば、自分は何のために生きているのだろうという疑いが生まれてきてもふしぎはない。


それは、そのように何ということもなさそうな、それこそとるに足らないと思われるかもしれない「うれしさ」や「悔しさ」が、じつは重大な意味と価値をもっているからである。


生きる喜びとは人類の幸福に役立つ何事かを成し遂げることでもなければ、学問の世界に名の残る立派な業績を苦労して仕上げることでもない。


その意味とか価値とは何だろうか?

少し大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、それは「生きる喜び」とでも呼ぶべきものなのである。


言うまでもないが、喜びとはそのような概念的なものではなく、自分が感じる気持ちそのものから生まれるものだ。


仕事の分類分けをすれば、ぼくは自然科学者と言うことになる。

曲がりなりにも科学者である以上、ぼくはこれまでにいろいろな研究をしてきた。


ではそれでどんな業績を残したか。

もちろん研究の結果は論文となって残っている。

けれど残念ながら、それらの論文の多くは日本の学会雑誌に載っており、『ネイチャー』とか『サイエンス』とかいう国際的一流雑誌に載っているわけではないから、今流行の業績評価では、あまり高い点はつかない。


しかしそれはぼくにとってあまり問題にはならない


そのような論文を書き、それが学会の雑誌に載ったことは、ぼくにとって喜びであった。

問題なのは、それらの論文にはぼくにとって何がうれしかったか、どんな喜びを求めてぼくが研究に熱中したか、どんな辛いことがあったかが何一つ書かれてないことである。

本来、論文とか報告書とかいうものはそういうものだ。


人が後世に残ると思うものには、その人のうれしさや悔しさが必ず込められているはずだが、それが実際に何であったかは記されていない。

いや記してはいけないのだ。


ぼくを研究に駆り立てていたのは、じつにつまらない「うれしさ」だった。

どこに卵を産むかわかっていない昆虫のあとをひたすら追いかけて、夜の話の中を歩き回る。


そして、何度も悔しい思いをしながら、あるとき、偶然にその虫が卵を産むところに出会う。

そのときのうれしさ!


論文にはそれは1行で記される。

「この昆虫はどこどこに卵を産む」。

それで終わり。

そしてそれは学問的には歴史に残る大発見でも何でもないのである。


ぼくは今ここで、動物学者という自分の職業について述べてきたが、同じようなことはどんな人にでもどんな職業にでもあてはまる。


人を業績で評価するという今日の風潮では、誰にでも同じようなことがおこっているのだろう。

評価の際に資料とされるのは、論文とか報告書とか、作品、製品といった、要するに情報化しうるものである。

しかし人間のしていること、感じていることは情報化できない。


それを無理して情報化しようとすると、NHKのTV番組やノーベル賞受賞者とのインタビュー記事のようなものになってしまう。


そこでは人が何かを求めて探ってゆく情熱や苦労、そしてその上での思いもかけぬ偶然の出会いとその喜びが語られる。

そういう話は本当に人々の心を打つので、これらの番組や記事は多くの人に好まれる。

このような報道が盛んになってきたのは喜ぶべきことではあるが、そこには大きな問題がある。


それはこれらで扱われるのが大きな業績に関わるものだということである。

何らかの意味での社会的認知、社会的評価があれば、そこに至る苦労やその上での喜びは報道に値するだろう。

けれど大多数の人々の「生きる喜び」は、そんな大きな業績とは関係がないのである。


京都市の青少年科学センターというところで、小学生に昆虫の話をしていると、そのことを切実に感じてしまう。


実際投影機を使ったり、現実の虫の標本を見せたりしながら、虫たちがどう生きているかをゆっくり話していくのだが、その中で子どもたちはいくつかの「発見」をする。

今さら何の発見でもないことだ。


けれどその小さな「発見」をしたことが、その子どもにとってどれだけうれしいことか、そしてその子の「人生」にとってどれだけ大きな意味のある喜びであることか!

われわれ人間にとっての「生きる喜び」は、今流行の「情報」とは異なる次元のものなのである。


日高先生の素敵な考え方や態度の塊の書だった。


やはり日高先生はこういう人だったのだなあ的な。


一方で、分子生物学とか動物行動学とか


最新の学問視点で見たとき、軋轢があったのでは


なかろうかという懸念あるけど


すでに亡くなられてしまっている方へ


余計なお世話を焼きたくなるところあり、かつ


自分が今のそれを熟知しているわけでは


もちろんないので、勘でそう感じるだけだけど。


バリバリのラボ現役学者からしたら


「日高先生はロマンチックだなあ」


と悪い意味で揶揄されるのではなかろうか。


だけどプリミティブな意味で言えばそこが


そここそが、大事なのだ、っていう気がして


ならばよくわかる、っていうこれは


昭和人としてのシンパシーなのか。


さらに思ったこととして、この随筆では


科学者の評価の”システム”というか”構造”に


疑問を投げかけておられるが、成果をあげた


科学者の領分ではなく、


成果に群がる経済しか考えてない輩のそれ


なのではなかろうか、と。


とはいえ、一理あると思うのが


小さな発見だと今のご時世、記事に


ならないのだものさあ、と。


かつて養老先生、メディアのことを講演で


指摘されていて、新聞やテレビニュースは


「今日は特別なことはありませんでした、


という日はなく絶対に作るんです」と。


話戻してそれはそれで、いったん置いておいて


今後の”情報”の進展がどうなるかは不明瞭だが


人間はそもそも情報じゃないんだよ、というのは


心に留めておきたい秋の早朝読書で本日は


古書店いきたいと目論んでいるパパなのでした。


 


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