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3冊から”遺伝子”と”ミーム”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

自分にとって頂上対談と言える


中村・養老先生の対談を読んでみた。


ただいま現在の今のところ


これが最新なのかな、当時2000年頃。


かなり学術的な内容だけれど


お二人の話し言葉なのでとっつきやすい。


ので、何度も読みたい気になる。


そんな中、気になったドーキンスさんの


記述があった。



生命の文法―〈情報学〉と〈生きること〉 (哲学文庫―叢書=生命の哲学 (2))

生命の文法―〈情報学〉と〈生きること〉 (哲学文庫―叢書=生命の哲学 (2))

  • 出版社/メーカー: 哲学書房
  • 発売日: 2001/02/01
  • メディア: 単行本


第二章 情報が物質的ペースを得た


人間を考えるときにだけ、「個体」が 浮上する


から抜粋


養老▼

個体というのは非常に偶発的なもので、生物にとってそう本質的なものではないような気がしてきましたね。

なぜ個体が成立しなければならないのか。


中村▼

人間を中心に考えたときにだけ個体が大事になるんじゃないですか?

人間は「私は私だよ」ということがないと不安で、「個」や「私」が大事になるのだけれど、人間以外の生物の世界にとっては個体は別に大事なものではありませんね。

ただそこを強調しすぎると、「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」という、ドーキンスの利己的遺伝子説(注)の議論になってしまいますけれど。

人間を考える立場としては、ドーキンスとともにおおらかな気持ちになって、ああそうですねというところでは終わらない。

「私とはなんぞや」という悩みがあるのに、それを放り出して「関係ない」と言ってしまったら、学問としておもしろくなくなるので、「個」という問題も考えます。


養老▼

自意識の問題ですね、自己の問題。


注:利己的遺伝子説selfish gene ドーキンスはその著書『利己的な遺伝子』で「われわれは生存機械ーー遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ」と書く。

これまでは、まず生物個体が生物学者の意識にのぼり、遺伝子は個体が用いる仕掛けとみなされていたが、実は「生命が生じるために存在しなければならなかった、唯一の実体は、不滅の自己複製子(遺伝子)である」とこの本を結ぶのである。


この中村先生のご発言は、いかにも先生の


思想というか志向を現されているなあと思った。


もしこのドーキンス氏への解釈を世間が


展開されたなら、さまざまな誤解の


勝手解釈がなくて、まともな学者のストレスは


軽減されたろう。


まともな学者ってのもアレですけれども。


でもって、”ミーム”のことを科学的に


研究した本も読んでみた。



ダーウィン文化論―科学としてのミーム

ダーウィン文化論―科学としてのミーム

  • 出版社/メーカー: 産業図書
  • 発売日: 2004/09/01
  • メディア: 単行本


日本語版への序文


2004年9月 ロバート・アンジェ


から抜粋


日本語を話す方々がミームについて、さらに多くのことを発見される機会ができ、大変うれしく思います。

これはすなわち、情報の断片が社会的学習を通じて伝えられていくという考え方、さらには文化のダイナミクスについて、みなさまが思考をめぐらせる、ということでもあります。


本書をお読みいただければ、わかるように、ミームの考えかたは一般には非常にウケが良いのですが、専門家の間ではいまだに論争の対象になっています。

「心のウイルス」や「文化遺伝子」というものがどのように機能するのか、わかっていないからです。


序文 ダニエル・デネット


2008年 から抜粋


ミーム論者たちが同意するからもしれない意見があるとしたら、それは以下のようなものだろう。

ある考えが栄えることーーそれが複製して成功して心の的、倫理的な洗練度などーーに関係があるとしても、それは偶然であり不完全な関係でしかない

いくたの良い考えが消失してしまうこともあれば、悪い考えが社会全体に影響を与えることもある。

ミームという考えかたについて将来予想されることはこれらどちらの面においても定かではない

本書の目的は、ミームというミームの繁栄を確定することではなく、もし繁栄するとしたらそれは理由があってのことだと示すことにある。

この有意義な目標に向かって進むには、道しるべと軸足となる点が定められ、ドクトリンではなく証拠と方法論が確定すること、さらに、いささかなりとも共感する者が擁護者の間にも批判者の間にもてて定着し、この分野が進むべき方向についてのコンセンサスが情勢されることが必要だ。


何十年もの間、ミームを弁護する側・批判する側の双方において、あまり有効な活動は展開されてこなかったが、本書の元となったワークショップは、熱っぽくも建設的なものである。

そして本書によって、より多くの読者が一蓮托生となる。

これを皮切りに、類似の試みがどんどん続いていくだろうと予言しておこう。


”ミーム”が何かは、この書で書き尽くされていて


まあ、わかるような気にもなるのだけど。


”ミーム”自体が説明するのに難しい存在だから


学術的に説明しようとしても、


それはナンセンス・無理筋なのかもしれない。


デネットさんの文は興味そそられるのだけど。


そして思い浮かんだのが池田先生の書でした。



驚きの「リアル進化論」 (扶桑社新書)

驚きの「リアル進化論」 (扶桑社新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2023/09/01
  • メディア: 新書


おわりに から抜粋


私が、進化は「遺伝子の突然変異」「自然選択」「遺伝的浮動「性選択」ですベて説明できるという、いわゆる「ネオダーウィニズム」の理論に疑問を抱き始めたのは1980年代の初頭で、そのころの日本の生態学会は、ドーキンスに代表される極端なネオダーウィニズム一辺倒でした。

しかし、新しい分類群の出現といった大きな進化は、ネオダーウィニズム的なプロセスでは説明不可能なことは、私の目には自明であったので、やれ「利己的遺伝子」(ドーキンスらが提唱した「自然選択や生物を遺伝子中心の視点で見る理論」を表現するのに盛んに用いられたことば)だ、やれ「ミーム」(文化を形成する脳内の情報。他の脳にも複製可能で、遺伝子と影響し合いながら進化するとされる)だと能天気に浮かれている連中を憐憫の思いで眺めながら、私は、学会にも顔を出さずに、ひたすら「構造主義進化論」の構築に情熱を注ぎ込みました。


それから時は流れて、蓄積された科学的事実は徐々に「構造主義進化論」に整合的になってきました。

中には、「池田の言っていることは要するに『エピジェネティクス』で、そんなことは今では常識だ」という人まで現れました。

しかし、私がネオダーウィニズム批判を始めた1980年代の半ばごろに、そんなことを言っている人はほぼ皆無だったわけで、後出しじゃんけんで威張る人が現れたということは、「構造主義進化論」の優位性を雄弁に物語っています


孤高に屹立する池田先生ならではの言説で


すべて理解はもちろんできておりませんし


本当にここまで否定できるものなのかは


自分の頭では当然に難しいのだけど


もしも”ミーム”を追求しようとすると


無視できないご意見であることは確かと感じる。


なんと言っても”心のウイルス”なんて


誰も、どういう手を使っても、納得できる資料なぞ


出せないだろうと思うのだけど


それを議論しているのも面白いっちゃ面白い。


だからこれだけの論客たちが論争して本が


出ているのだろうなあとこのテーマは引き続き


ウォッチしてアナライズするだろう


予感がする寒くなってまいりました朝


今日は休みのため、図書館に


フィールドワークだなこれは。


 


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