災害・パンデミック・戦争の考察は難しい [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
現代を生きる自分たちにとって
逃げることのできない三つについての書を読み
ほんの少しだけ、考えてみた。
から抜粋
もうすぐ関東大震災から69年になる。
教科書や新書判の科学書を読むのはちょっとという方達にも、少しでも日本列島の活動の仕組みを知っていただけたら、そして、もっと日本列島のことを学んでみたいと思っていただけたら、と願っている。
6 東海から南海へ
繰り返す巨大地震
から抜粋
1年ほどメキシコで地震学の指導をして1991年の末に帰国した京大防災研究所の入倉幸次郎氏によると、メキシコでは大地震の起こるところはわかっていて、大地震から30年も経てば、また起こることがわかっているから、専門家の地震予知に対する考え方が、日本の専門家とはかなり違うという。
彼らは、とにかく社会を耐震化するのに専念することになる。
それに引き換え、日本の東海・南海地域の大地震についての計算結果を見ると、一つの大地震の後、次の大地震の発生確率は数十年後から少しづつ上昇し始めることになる。
繰り返し起こる現象を考える時、その現象の平均的な繰り返しの時間間隔と、人の一生の長さとの関係が、防災の心構えなどに重大に影響を及ぼす。
一生の間に二度あるいは三度、大地震を目の当たりに見るメキシコの人たちと違って、東海・南海地域の人々は、のちの世代に大地震の恐ろしさを一生懸命語り伝えることによって、次の災害を防がなければならないのである。
から抜粋
東北地方の太平洋沖で発生した巨大な地震の直後から、世界の人々が映像を通して東日本を注視してきました。
たくさんの映像で情報が共有されましたが、私たちは自分の目で、東日本の人々の暮らしを、そして地球の本当の姿を、見つめていかなければなりません。
そのためにはやはり、日本列島の大地の仕組みについての基礎知識が必要です。
21世紀を生きる人々にとって、資源、エネルギー、地球環境など、考えるべき課題は色々あります。
地球のことを知らずにこれらの問題を考えても無意味です。
また、今急速に進みつつある生命の科学を学ぶときにも、それが生まれた地球のことを知らずには理解できません。
本書では、地球科学の知識の蓄積をもとにした自然科学者の視点で、そしてできるだけ普通の言葉で、今回の巨大地震の仕組みを解説したいと思います。
5 日本の巨大地震
から抜粋
このように日本列島での巨大地震の例はたくさんありますが、それぞれに個性があり、地震の起こり方には多様性があります。
大規模地震の起こる場所が、時間と共に系統的に移動するという現象があります。
例えば東京大学地震研究所の教授であった茂木清夫さんは、1968年の論文で、世界の大規模な地震の起こり方を詳しく分析しました。
その結果、1933年の三陸沖大地震の前後における数年間の地震の移動や、1935年から30年間にわたる、例えばインドネシアから日本、カムチャッカ、アラスカへというような、世界的な大地震の移動を見つけました。
このような現象の原因は、まだはっきりとわかっていませんが、その仕組みを考えることも重要だと思います。
もう一つ、興味深い現象が知られています。
地震の発生する季節が偏っているという報告です。
大地震の季節性というのは重要な視点です。
そのうちに、季節変動が存在する仕組みの、明快な説明ができるようになると思います。
その仕組みの中に、きっと重要な情報が含まれているに違いないと思っています。
おわりに
から抜粋
テレビに出る情報で、「この地震による津波の心配はありません」という発表がいつも気になっています。
なぜ津波の恐れがないかという理由を付けてほしいと、気象庁の幹部にお願いしたことがあります。
小さい地震だからか、陸の地震だからなのか、深い地震だからなのか、どれかの理由を繰り返し聞くことによって、伝えるメディアも視聴者も、だんだん知識が身についていくと思います。
災害を軽減するためには、現象の仕組みを理解している市民が、一人でも多くなることが重要です。
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 作者: ユヴァル・ノア・ハラリ
- 発売日: 2020/10/07
- メディア: Kindle版
協力と情報共有
から抜粋
パンデミックはグローバル化の時代よりもはるか昔から起こっています。
中世には、飛行機もなければ大型のクルーズ船もありませんでした。
それにも関わらず、黒死病のような、格段に深刻なパンデミックが発生しました。
要するに、パンデミックに対する現実的な対策は、遮断ではなく、協力と情報共有です。
新型コロナウイルスに対する私たち最大の強みは、ウイルスにはできない形で協力できることです。
中国のウイルスは、アメリカのウイルスに、どのように人間に感染するかや、どのように人間の免疫系を避けるかについて、情報を提供することはできません。
しかし、中国の医師は、アメリカの医師に助言することができます。
両者は、ウイルスに対してどのようなグローバルな闘いを展開するかについて、共通の計画を立案することができます。
これはウイルスに対する人間の最大の強みです。
もしこの強みを活かさなければ、現在の危機は格段に深刻なものになるでしょう。
前にも述べた通り、世界のどこの国で感染症が広まっても、全人類が危険に晒されてしまうことを、人々は認識するべきです。
私は科学に頼ることで恐れを克服しています。
つまるところ、もし私たちが科学を信頼すれば、この危機を容易に乗り越えることができるでしょう。
反対に、もしあらゆる種類の陰謀論に屈してしまえば、私たちの恐れが煽られるだけで、人々は不合理な行動に走るでしょう。
つまり、心を開き、科学的で合理的な目で状況を眺めれば、私たちはこの危機を脱する道を見つけられるのです。

憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言 (岩波ブックレット657)
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/08/03
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
すべての戦争は「守るため」に始まる
から抜粋
戦争も突き詰めれば、外交手段の一つです。
9条の主旨はつまり、武力による外交手段を放棄する、というものですね。
ということは、武力に頼らない外交手段を、あらゆる手を尽くして模索する、という宣言でもあるんです。
つい10年くらい前までは、直接の戦争体験者がたくさんいたので、自民党だろうが、共産党だろうが、戦争の現実を知っていた。
戦後ずっと自分たちが守ってきた、その枠組み。
その中に育ち、戦争を知らなくても、普通の考え方をしていたら、死ぬのがイヤなら、殺すのもイヤだと思うはず。
そのあたりは、人の命の尊さについての感覚が希薄になってきているんじゃないでしょうか。
安全性だとか、防犯だとかいうことには、過敏になってとやかくいうのに、そのおおもとの、命を大事にする、という憲法をないがしろにしている。
議員も含め、自分さえよければいい、という奇妙な考え方のように思えてならない…。
そういうことを放置しておいて、つまり自分の国もきちんと治められないのに、外に出て行きたい、国際貢献をしたい、というのも疑問ですね。
軍事力を備え、戦争で何が達成できるか、というと、目先の利害にすぎないのです。
あるいは、ちっぽけな民族的な誇りだったり。
アメリカの作ったものの押し付けだからとか、いろいろなことが言われますが、日本があの憲法を受け入れたのは、何より、大きな大きな犠牲を払った上に築いた、一つの結論を、簡単に崩していいのでしょうか。
深すぎる言葉に返す言葉がございませんし
これら三つについて壮大すぎて
思考がまとまりませんで失礼致しました。
ひとつだけ思うこととしては
もう国単位での施策では狭量なのではないかと
いう事でして。誰もが感じているかもだけれども。
先日焼肉屋さんの隣のテーブルのおばさんたちも
アメリカ大統領選について同じことを仰っていた。
というか、これらの難題に明快に答えられる人物は
そうそういないだろうと思う夜勤明け
天気は良かったが部屋の片付けをしたので
引き続き思考を深めてまいりたいと
いつものことながら誰に言っているのか
よくわからないかなり冷える休日なのでした。
経済効率・生産性についての考察の端緒 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
福岡博士と養老先生と対談は
非常に興味深かった。
主に”動的平衡”が主たる内容なのですが
養老先生がネットで叩かれているという
のが意外だったし、それを読んで
原理主義には注意、ってのを実は
指摘されていた養老先生の凄みを逆に
感じてしまった。
- 作者: 福岡 伸一
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/10/28
- メディア: 文庫
IV 養老孟司さんと
一瞬の平衡状態
から抜粋
養老▼
効率ばかりを追求すると効率が悪い、つまり部分的合理性が全体的合理性と合わないということに多くの人が気づき始めていますね。
福岡▼
新幹線や携帯電話が人間を自由にしたかというと、難しいところですよね。
「効率化すると自分の時間が増えますよ」というような本がもてはやされますが、増えた時間をどうするんでしょう?
そもそもが、効率をよくするためにエネルギーを使っていて、時間が増えているかどうかも怪しい気がします。
エネルギーの反作用として、必ず弛緩時間が出てくるので、少し時間軸を長くとれば動的平衡なのでトントンになってしまいます。
あがったところだけを見て、私は効率がいいですと言っているだけのような。
養老▼
効率的に生きるなら、早くお墓に入ればいいのに(笑)。
やることやって早く死ぬのが一番効率がいいですよ。
福岡▼
死は最大の利他行為ですからね。
稲垣足穂が、おむすびを食べるのはまどろっこしいからトイレへ行ってポンと捨てればいいと冗談で言ったと言いますね(笑)。
養老▼
くだらない結論だけれど、意識はどうやって発生するかわからない。
しかし動的平衡について考えていたら、要するに脳全体の物理学的なプロセスの中で、ある動的平衡状態が成立した時の機能が秩序なんですね。
”動的平衡”に関する深い論考であるのですが
今の自分に刺さるところとしては
時間を効率的に、という世の風潮に
物申されている福岡博士の発言に共感した。
短い期間しか思い至らない現代への警告のようで
その昔アポロに乗っていたバズ・オズドリンさんも
来日した時、現代の哀しい性みたいなものとして
「Short term thinkg」って指摘してたのを思い出した。
今の米国、日本、世界がそうなっているような。
養老先生は農業をテーマに
”生産性”というキーワードで
内田樹先生との対談で指摘されていた。
他にもこのテーマは色々ありそうと思い
思わずメモさせていただきまして
そろそろ夜勤の準備をさせていただきたく
寒いが天気の良い関東地方でございました。
福岡博士の高揚感が伝わる書や動画たち [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
ピーター・バラカンさんのポッドキャストに
福岡博士の回があり本のプロモーションと
思われるものを拝聴し興味が湧き
旅行記であるこの書を本格的に読んでみた。
この旅行では動画も同時に撮られたようで
読んだ後に視聴してみた。
福岡博士の書は全て読んでいるわけではないが
この本がダントツにワクワクした。
旅行自体の文章ももちろん楽しいのだけれど
自然の中での都会化された人間の弱さ、とか
ガラパゴス・ダーウィンに対する横溢した想い
若かりし頃の科学への発火し始めた情熱
メディアとの軋轢ややり取り
作家への道筋をつけられた恩師の助言
から始まり、5泊6日の小型客船
マーベル号とスタッフたち、船上の食の事情や
トイレ事情などなど、博士の目も眩むほどの
生物科学の知識と下支えされている読書からの
高度な文章力を縦横無尽に楽しげに
発揮されているように勝手ながら
お見受けいたしました。
自分も読んでる間だけでもガラパゴスに
連れて行ってもらっているようなそんな
錯覚におちいる良書だったことは間違いないです。
そんな中でも特にダーウィンへの考察は
本当に深いと思わざるを得なかったのでした。
ISLA SANTIAGO
3月8日 サンティアゴ島
ガラパゴスの好奇心
から抜粋
どの生物も、手を伸ばせば届くほどの距離に近づいても逃げようとしない。
そのまま指先で捕まえられそうなほどなのだ。
ダーウィンもまずこのことに驚いた。
彼はこんなふうに描写している。
ある日のこと、私が横になっていると、マネシツグミが一羽やってきて、陸ガメの甲羅でこしらえた水瓶のヘリに止まった。
とてもおとなしく水を飲み始めるのだ。
鳥はそのまま陸ガメの甲羅のへりにとまったままでいた。
私はこの鳥の脚を捕まえようと、何度も手を出した。
あと少しのところでうまくいくところだった。
昔は、鳥たちがもっと人を恐れなかったことだろう。
(『ビーグル号航海記』)
様々考察した結果、ダーウィンは次のように結論した。
(『ビーグル号航海記』の記述を福岡博士が要約)
1.
鳥が人を恐れるのは本能である(なので、本能的に恐れない鳥もありうる)。
この本能は、人間に対する用心深さを学習によって身につけること、それが世代を超えて伝わることとは別のものである。
2.
1羽1羽が迫害されても、その恐怖心が蓄積され、遺伝的な性質となることはほとんどない。
つまり、野生動物において、後から獲得された知識が子孫に遺伝する例は滅多にない。
3.
結局、鳥が人を怖がるのも、先天的な遺伝的習性としか説明できない。
遺伝子の本体がDNAであることも、何らかの形質が遺伝的に伝達されるためにはDNAに変化が起こらなければならないこと(突然変異)も、まだわからなかった時のことである。
弱冠30歳のダーウィンがここまで正確に、遺伝的形質(本能的性質)と獲得形質(個体が学習によって得た形質で、その一代限りのものとなる形質)について、明晰に区別して考えていたことはとてつもない慧眼で、これがのちのち、彼の進化論的考察につながっていくことの萌芽とみることができる。
人間を恐れないガラパゴスの生物たちの不思議な行動様式は、もう少し多面的な考察が必要だと思う。
(またダーウィンはこのように付記している。)
一方、私たちが飼っている動物はわりと簡単に新しい知識が身につくし、その本能が遺伝することは身近に見慣れた現象だ。
(『ビーグル号航海記』)
私は今回のガラパゴスの旅で、この地の生物が、ただ本能にしたがって行動しているという以上のものがあることを強く印象づけられた。
ガラパゴスの生物たちは人間を恐れないだけではない。
人間に興味を持っているのだ。
好奇心さえ持っているといっても良い。
それはたまたまだからではない。
ガラパゴスという環境が、ガラパゴスの生物をして、そうさせているのではないか。
獲得形質、DNA、淘汰、突然変異など
昔よりは解明されつつあるけれど
福岡博士流にいうなら
”ロゴス”として理解できても
”ピュシス”はわからない
”人工”と”自然”の違い、とでもいうのか
それにダーウィンは本能的に気がついて
いたのかなあ、と勝手に思ってみたりもして。
それとガラパゴスとは全く関係ないんだけれど
博士の他の動画を拝見していて
ハラリ先生の『サピエンス全史』への言及が
自分にとっては白眉だったのでございますが
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの見識や
進化にまつわる変異の説明がジャンプしすぎ
というのは生物学を追求している方ならではだし
歴史においてのコミュニティによる
「認知(ブランド)」「虚構(フィクション)」と
いう考え方は新しくないのではなかろうかと。
60ー70年代には吉本隆明先生が、
80年代には岸田秀先生がすでに述べていた
ってのはなんか読んでて既視感があることを
腹落ちさせていただいたが実は自分夜勤明け
朦朧としておる寒い関東地方からでございます。
あ、いやでも、ハラリ先生の書ものすごく
面白いんですけれどもね、3月の新刊も
楽しみにしてますし。
って最後福岡博士から離れておりますが
福岡博士からも目が離せませんです。
NHKの最後の講義も最高でした。
尾池先生と池上先生の書から大地震を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
どうしたってこの国に住んでいたら
気になってしまう”南海トラフ”。
兼ねてより読んでみたかった書でございました。
から抜粋
巨大地震が起こるのは間違いないとしても、その21世紀の南海地震が具体的にどのような姿をで起こるかは、それほどはっきりわかるわけではない。
この南海地震で強い揺れが各地に発生するのは間違いないし、大津波が発生することもまちがいないが、それぞれの町がどれだけ揺れ、どれだけの津波がくるかということを予測するには、いろいろのケースを想定して計算しておかなければならない。
一つや二つだけのモデルの計算結果をもとに被害を想定し、防災対策を進めていると、思わぬ方向に結果が外れてしまうこともあるだろう。
今確実にいえることは、次の南海地震は、これからの近い将来に確実に起こることがわかっている巨大地震であり、その発生までに何をすればいいかをよく考えてみなければならない地震だということなのである。
南海地震にまつわる謎 前兆現象の仕組み解明を
から抜粋
南海トラフの地震に関して不思議なことがある。
南海トラフの巨大地震が起こる月は、9月から3月にかけて冬に多いという季節性があるという事が前から知られていて、私も「日本地震列島」(朝日文庫)に詳しく紹介した事がある。
この性質に関して国立天文台教授の日置幸介さんの論文がある。
毎年8月から10月にかけて、太平洋沿岸の潮位が、平均して20センチほど高くなり、その重みがプレート境界を押し付けるので、地震の発生を抑制することになるという考えである。
潮位が元に戻りはじめると重みが減って地震が起こりやすくなるという。
安政時代の1854年の二つの巨大地震も、1944年と1946年の昭和の二つの巨大地震も11月に起こった。
このような季節性の仕組みが解明されると、南海トラフの巨大地震に対する震災軽減対策にも参考にすることができるだろう。
毎年秋からは緊張が続くが、半年をなんとか乗り切ると、ほっとして桜の季節を迎えるということになる。
ただし地震はいずれ起こることは間違いなく、遅くなるほど規模が大きくなることを忘れてはならない。
もう一つの課題は、歴史上まだ史料が発見されていない未知の南海地震があるかもしれないということである。
地震考古学という分野がこの問題に挑んでいる。
地震に対する”季節性”については
本日購入した池上彰先生の書にあった
戦争と復興に挟まれ軍の情報統制により
消されて忘れられてしまったという
四つの地震の発生月を調べてみた。
終戦前後に起きた4大地震
それでも日本人は立ち上がった
から抜粋
1943年(昭和18)鳥取地震 →9月
1944年(昭和19)昭和東南海地震 →12月
1945年(昭和20)三河地震 →1月
1946年(昭和21)昭和南海地震 →12月
尾池先生の”9月から3月にかけて冬”に、というのと
昨年の能登半島、30年前の阪神淡路共に1月だったし
’11年の東日本は3月だったのは偶然なのだろうか。
南海トラフのプレートとは異なるのか
までは調べてないが、
潮位がプレートを押さえ込むという共通性が
あるのかが気になった次第でございます。
池上先生の書も興味深いのだけれども
尾池先生の書に話を戻させていただきまして
養老先生が日本を変えるには「地震待ち」しかない
と頻繁に指摘されるのはこの書が元になっておられ
田原総一郎さんとの対談本や動画でも仰っていた。
ちなみに尾池先生が南海トラフの地震を危惧する
大きな要因として奥様と出会った場所であり、
親戚や知人も多いのが高知県だとされていて
何かを発する方たちの”動機”というか”きっかけ”は
その言を強くするということをしみじみ感じた。
阪神・淡路大震災以後
から抜粋
地震学者の島崎邦彦さんの指摘から抜書きします。
「地震災害の特徴は、低頻度で激甚災害。巨大災害は扱いにくい。経験が蓄積されにくい。無視されたり、忘れられたり、比較的軽い震災は頻度が高いので、こちらが経験となる。
1000人以上の死者を大災害というと、日本では12年に一回、過去200年で、陸の地震で20年に一回、海の地震で30年に一回。
昔に比べて今の方が安全とは限らない。
中央防災会議によれば、首都直下型で1万人を超える死者が、大阪直下の上町断層の地震で4万人の死者が想定されてる。」(ウェッジ、2009年)
ここに、地震災害の要点がほとんど尽くされています。
地震の起こり方が変わらなくても、また将来、日本の人口が減少するとしても、都市化は進み地震が起こった時の災害の規模は巨大化します。
そのことを念頭に置いて、将来の災害対策を考えていかなければならないのです。
この書は、災害の多い国土を嘆くではなしに
それを備え地形を敬ってきた歴史や文学を紹介され
分析され、また尾池先生の主宰されていた
ジオパークのお考えも盛り込まれていて
滋味深いものでございました。
話変わりまして私個人の活動としましては
いったんとある試験勉強もひと段落したので
これからまた本が読める!と思いつつも
戦争や震災やパンデミックなど気の抜けない
日々が続くと夜勤明け、しんみり疲れが
身体に染み込む寒い冬でございます。
3冊から信頼と安心を考察する [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
長谷川眞理子先生はかねてより
読んでおりましたがかなり前に購入していた
以下の対談本を昨年末読んでみた。

きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」 (集英社インターナショナル)
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2017/02/24
- メディア: Kindle版
明らかに異なる二人の論説から興味が湧いて
山岸先生の他の書を手に入れて読んでみた。

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点 (集英社インターナショナル)
- 作者: 山岸俊男
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2019/05/31
- メディア: Kindle版
武士道精神が日本のモラルを破壊する
人類のモラルには二種類がある
から抜粋
さて、おそらくこれからも人類社会は安心社会と信頼社会の二本立てで進んでいくのではないかと予測できるわけですが、こうした二種類の社会がそれぞれ独立した「モラル体系」を作り出していることを初めて指摘した人がカナダ人の学者ジェイン・ジェイコブズでした。
彼女は都市論や経済学など、さまざまな分野で優れた著作を何冊も遺して、つい先日亡くなったのですが、その彼女が書いた本に『市場の倫理 統治の倫理』という本があります。
ジェイコブズは古今東西の道徳律を調べていく中で、人類に二種類のモラルの体系があるということを発見しました。
それが「市場の倫理」であり、もう一つが「統治の倫理」です。
市場の倫理とは分かりやすく言うならば「商人道」、統治の倫理とはすなわち「武士道」だと理解しておけば、まず間違い無いでしょう。
今こそ商人道を!
から抜粋
統治の倫理(武士道)と市場の倫理(商人道)の違いについて語ろうと思えば、いくらでも語ることができるのですが、その最大の違いはどこにあるかといえば、統治の倫理が「権力者のモラル」であるのに対して、市場の倫理がものを作ったり売ったりする「大衆のモラル」の体系である点だと私は考えています。
武士道に代表される統治の倫理とは、結局のところ、社会体制を維持するために権力者が守るべき道徳律に他なりません。
これに対して市場の倫理とは、権力に頼ることなく、お互いに繁栄していくためにはどう行動していくのがいいのかと考えたときに生まれたモラルの体系であると言えるでしょう。
共存共栄のためには、お互いが嘘をつかず、信頼し合い、利益を分かち合う姿勢こそが必要であると説くのが商人道であり、市場の倫理であると言えます。
大事なのは正直者であることが損にならない社会制度を作っていくことであって、そうした社会制度をきちんと整備することができれば、あとは「正直に行動し、他人を信頼する事が結局は自分のためになるのだよ」と言う世の中の現実を教えさえすれば、商人道は自ずから普及していくのでは無いでしょうか。
から抜粋
書き終わった本書を眺めながら、ふと北風と太陽の話を思い出した。
そして、7年前に『社会的ジレンマのしくみ』を執筆して以来、筆者がずっと考えてきたのは、社会心理学を北風の学問から太陽の学問へと転換させることだったんだ、と言うことに気がついた。
筆者が「裏のメッセージ」と呼んでいる「進化ゲーム・アプローチ」は、太陽のアプローチである。
太陽は旅人に何も強制しない。
旅人が自分から進んで服を脱ぐための「誘因」を提供しているだけである。
多分、誘因という言葉は、心理学者には耳障りな言葉だろう。
人間の心をあまりにも単純化しているように思われる経済学的な人間観を思い起こさせる言葉だからである。
しかし、誘因は必ずしも、これまで経済学者が前提としてきた合理的人間像と不分離の関係にあるわけではない。
それどころか、進化心理学的な視点に立てば、誘因こそが、人間の非合理性を理解できる鍵である。
人間の心を理解するためには、心そのものの内側から出発するのではなく、心おおかれた環境から出発する必要があるという視点は、心理学の新しい潮流を形成しつつある。
筆者が本書で試みたアプローチは、人間の心のあり方の基盤を、心を持った人間が作り出す誘因構造である社会的環境(あるいは文化)に求めるアプローチであり、広い意味で、この心理学の新しい潮流の一部をなるものと考える事ができる。
信頼と安心は一般的によく見聞きするが
山岸先生の言説はそれへの厳しい提言となり
山岸先生独特の言い回しとしての
商人道と武士道、はもとより
ジェイコブズ博士の市場の倫理と統治の倫理から
くるもので非常に興味深かった。
国家とか政治と相入れないような。
これは平川克美先生の言っている
商いのスピリットとどのように関係するのか
それとも無関係なのか、など
夜勤明けではない休日にでももう少しクリアな
頭になったら考察してみたいと思った
今のところ最も信頼している家族という
コミュニティで近くの焼肉屋さんにて
食事してきた新年会の意味も込めた
夜なのでございました。
文化や知性や感性は眼に見えないの考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
渋い書でございます。
とある試験勉強も休憩しながらの読書でございます。
読まざるを得ないくらいの良書だった。
まえがき
から抜粋
一般的にいえば、まじめな読者にとっておもしろい本にふたつのタイプがある。
特定の知識の体系を伝達すべく構成され、方向づけられた内容のものと、構造すなわち事象がどのようにオーガナイズされているかを扱ったものとである。
ある本の著者が自分が今どちらのタイプの本を書いているかをコントロールしているかどうかは疑わしいけれど、彼がこの二つのタイプの違いを意識していることは望ましいことである。
同じことは読者にも当てはまる。
読者の満足は彼の口にはだされない期待に大きく左右されているからである。
我々がみな、多くの情報源からのデータに圧倒されている今日の世界では、人々がなぜ自分の専門とする分野においてすら発展に追いついていけないと感じがちなのか、容易に理解することができる。
誰でも感じているように、世界全体との関わりが失われているという意識も、次第に強くなりつつある。
この関わりの喪失の結果、照合の枠組みをオーガナイズして、人間が対応してゆかねばならぬ大量の、しかも急速に変化する情報を統合してゆきやすくする必要が、ますます増しつつある。
この『かくれた次元』という本は、まさにこれを提供することを目指している。
2つのタイプというのが興味深いです。
”知識の方向”とそれを”オーガナイズ(組織)”とは。
いわれてみると心当たりあるけれど
いつもそんな論理立てて読書するわけでもないが
何とはなしにひっかりました。
異なる文化システムの間に軋轢が生じるのは、国際関係だけに限られたことではない。
このことは、今日ますます明らかになりつつある。
そのような軋轢は我々自身の国の内部でも大きな比率を占め、都会の人口過剰によってますます激化してきている。
なぜならば、一般の信念とは反対に、アメリカを作り上げている多くの異なった集団は、それぞれの独自性を驚くほど強固に維持していることがわかってきたからである。
表面的には、これらの集団は皆似たようにみえ、似たように聞こえるかもしれない。
けれどその表面の下には、時間、空間、物質、関係を構造化する際の、多様な、表面に現れず、形式にも現れない差異が横たわっている。
このことがわれわれの人生に意味を与えるのではあるけれども、それは同時に、文化の異なる人々が作用し合うとき、善意の意図にもかかわらず、意味にゆがみを生じる原因となることがしばしばなのである。
人間が自分自身と友人との間に保っている空間、自分の家庭やオフィスで自分のまわりにきづいている空間ーーーこのような空間を人間がどのように利用しているかについての私の研究を述べてゆく目的は、当然のことと思われている多くのことを意識のもとにもたらすことである。
それによって、自己の意識を増し、体験を強め、疎外を減らすことができるのではなかろうか。
ひとことでいえば、自己を知る道に小さな一歩を進めて、人間に人間を紹介し直す一助としたいのである。
第13章 都市と文化
から抜粋
世界の人口がいたるところで都市へ流入することによって、一連の破壊的な行動のシンクができているが、これは水素爆弾よりも恐ろしいものである。
われわれは連鎖反応に直面しているが、そのもととなる文化の原子構造についてはまったくといっていいほどに無知なのである。
この人々の適応は、経済生活のみではなく暮らし方全体に関わるものである。
それに加えて、不馴れなコミュニケーションの組織、性に合わない空間、活発に膨張をつづける行動のシンクなどを取り扱わなければならないので、問題はますます複雑になる。
第14章 プロクセミックスと人間の未来
文化を脱ぎ捨てることはできない
から抜粋
この本で述べたことをできる限りつづめていえば、人間はどんなに努力しても自分の文化から脱げ出すことはできない、ということになる。
なぜなら、文化は人間の神経系の根源にまで浸透しており、世界をどう知覚するかということまで決定しているからである。
文化の大部分はかげにかくれていて、意識的な制御の外にあって、人間の存在の縦糸と横糸になっている。
たとえ文化の小さな断片が意識にのぼってきたとしても、それらを変化させることは困難である。
それらがきわめて個人的に体験されるものであるからばかりでなく、人間は文化というメディアを通してしか意味ある行為も相互作用もできないからである。
人間とその延長物とは一緒になって、一つの相互に関連しあったシステムを作り上げている。
人間が一つのものであり、彼の家や都市、技術や言語がもう一つのものであるかのように扱うのは、最大級の誤りである。
人間とその延長物との相互関係からみても、我々は我々がどのような延長物を創りだしているかにもっと注意を払うのが義務である。
それらの延長物はけっして我々自身のためにばかりあるのではなく、他のもののためにもあるのであり、しかも彼らにとって延長物が適当でないかもしれないのだ。
人間とその延長物との関係は、一般の生物とその環境との関係の、単なる連続であり、その特殊な形にすぎない。
けれど、ある器官やプロセスが延長されたとき、進化は急速にスピード・アップされるので、延長物が追い越してしまうこともありうる。
これが今日、我々の都市やオートメーションにみられる事態であり、人間の脳の一部の特殊な延長物であるコンピューターに数々の危険を予見したノーバート・ウィーナーが語っていたところのものである。
民族の危機、都市の危機、そして教育の危機は、すべて互いに関連しあっている。
包括的に見るならば、この三つはさらに大きな危機の異なる局面と見ることができる。
その大きな危機とは、人間が文化の次元という新しい次元を発達させたことの自然的な産物である。
文化の次元はその大部分が隠れていて眼に見えない。
問題は、人間がいつまで彼自身の次元に意識的に眼をつぶっていられるかである。
空間を高次元で考察され独自見解論考の書で
時代をとび超えていると感じた。
言葉の選び方などで時の流れを感じる所も
あるけれどそこで止まってはこの書の本質は
残念ながら見えてこない。
といっても眼には見えませんよ、当然ながら。
だからって、ないことにはならないのです。
かぶる気がするのは気のせいか。
もちろん各博士のポジションが異なり
特色を生かしつつのそれだというのは分かるとして。
といいつつ、何だか自分が
わかっている風だけど実は1ミリくらいしか
わかってないと思っておるんでございますが。
60年近く前の書でデジタルの捉え方が
今と大きく異なる時代にも予見されるものが
あったのだろうなということに驚くのだけど。
訳者あとがき 日高敏隆 佐藤信行
1970年9月
から抜粋
この本の著者であるエドワード・T・ホールについては、『沈黙のことば』ですでにお馴染みの読者も多いと思う。
著者は第二の書であるこの『かくれた次元』で、前書で論じられた問題をさらに発展させ、空間の利用が文化によっていかに影響されるかについて独自の見解を詳しく述べている。
『沈黙のことば』にもみられるようないささか単純にすぎると思われる一般化(例えば日本における番地の付け方のように)が散見されるけれど、著者の着想にはなかなか興味深いものがあり、今後ますます重要になってゆくであろうこのジャンルの問題に、いろいろ手掛かりを与えてくれると思われる。
訳者らは、動物学・文化人類学の立場から、このような空間の問題にかねがね興味を持っていたので、出版社の勧めもあって、翻訳・紹介することにした。
なお、原本では距離その他の単位として、インチ、フィートなどが用いられているが、メートル法には換算しなかった。
一升瓶を1・8リットルびんとするがごとき、奇妙な正確化になるからである。
因みに、1インチは約2・5センチ、1フィートは約30・5センチ、1ヤードは約91・5センチ(で)ある。
因みに最後の”(で)”は自分が一文字
挿入させていただいました。
必要なかったかもしれないと思いつつ。
それよりも、日高先生たちが仰っている
単位の表記についてを読み思い出した事があり
リアルタイムでの経験ではなく後追いですが
尺貫法の問題があったのがふとよぎり
巨大組織が物事を統一しようとする際の
何かに通底するものを感じてしまいまして。
いや、反抗する意思はございませんよ
そのように感じただけでございまして。
マイナンバーとかと同じだなあ、なんて。
いや国家に楯突こうなんて気は
さらさらございませんでございます、へえ。
そもそもまったく違う質のものかもしれないし。
しかしこの”訳者あとがき”からそんなことを
想像するのはアホの極みの自分だけだろうなと
思いつつも、この書のきっかけはこちらでして
こちらで養老先生が空間についての話題になった時
引かれていたからでございまして
自分とは対極の知性の持ち主であることは
言わずもがなでございます。
ちなみに、こちらでもこの書の事に
触れておられたのを読みますと
- 作者: 養老孟司
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2017/11/24
- メディア: Kindle版
ドーキンス・ハミルトン博士とは
あまり関連がなく、如何に自分の
読書感想は自分バイアスが
かかっているか希望的観測の読書だよなあと
反省しきりで穴があったら入りたいという事を
付記させていただきたく存じます。
”延長された表現型”を違う視座で考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
から抜粋
国家とは、多くは不自然な境界線で周囲をぐるりと囲まれた土地のことである。
ジョセフ・ヘラー『キャッチ=22』
動物が作る構造物はあちこちにある。
いや、そこら中にあると言っても良い。
地面を掘った簡単なトンネルや、小さな石の山のように粗末なものから、見事なものまで色々だ。
本書は動物が作る構造物について記した本であるが、広く生物学・進化生物学・生態学の分野の興味の対象である以下の問題についての本でもある。
このような構造物は、作り手の動物にとって外部のものとみなすべきなのか、それともその動物の一部と考える方が妥当なのか?
私は後者の見方を支持しているが、本書ではもうひとひねりして、動物が作る構造物は生理的器官とみなすべきだという主張を展開する。
つまり、腎臓・心臓・肺・肝臓といった通常の定義による器官と基本的には少しも異ならず、生体の一部となっているという見方だ。
外部構造が作り手の動物の一部だという考えは、実は新しいものではない。
リチャード・ドーキンスがいみじくも「延長された表現型」と呼んだ概念は、生物学ではすでに確立していて、万人に受け入れられたとは言えなくとも、立派な考えとして通っている。
私が本書で目指すのは、この概念に生理学的な客観性を与え、できればリチャード・ドーキンスのようなダーウィニズムの考えを補完することだ。
進化生物学者は延長された表現型を、生物の外側の境界を超えて遺伝子の作用が及ぶものととらえ、遺伝子の次世代への伝達をこれらの延長された表現型がどのようにして助けるかを問う。
しかし生理学者は延長された表現型を装置という観点からとらえ、装置の働く仕組みや、生物内および生物と環境間の物質・エネルギー・情報の流れがそれによってどう変わるかを問う。
これら二つの観点は確かに補い合うものだが、生命の本質について多少異なる結論へ導くものでもあることを示したいと思う。
訳者あとがき
2007年1月 滋賀陽子
から抜粋
著者もまえがきで述べているように、これは少し変わった視点から眺めた生物の本である。
数十年前には本書と同様に、動物とその環境の関わり合いや、動物同士の相互作用といった観点から捉えた生物の本がいくらでもあったように思うのだが、近年、生物学は内へ内へと進み、対象が一個の生物から器官へ、組織へ、細胞へ、分子へと、限りなく小さくなり、目に見えなくなってしまった。
もちろん分子レベルでの研究から多くのことが解明されてきた。
たとえばDNAの塩基配列路からさまざまな生命現象が説明され、ゲノムの比較解析から生物の進化の経路が明らかにされる。
つい最近も、ネアンデルタール人と現代人の分岐が37万年前であることがゲノムの比較からわかったと報じられた。
また応用面でも、病気の治療や作物の改良など、その恩恵は計り知れない。
しかし現在の多くの研究では、分子レベルで解明された事柄を再び一個の生物の中に戻して考え、体全体あるいは生物と環境との関わり合いの中で位置付けるという、大きな視点が抜け落ちてしまっているように思われる。
本書は視点が独特であるだけではなく、取り上げられている体外構造の例が実に面白い。
海底を彩る珊瑚や、土いじりで日常的にお目にかかるミミズの作る構造物にそんな意味があったのかと改めて感心させられる。
実は原著のタイトル(The Extetded Organism)と紹介文を見たとき、動物の作る体外構造に生理作用があるというなら、体温調節を助ける人間の衣服や家屋、眼鏡や補聴器にだって生理作用があるといえるのではないかと、少々反発を感じた。
しかし読み始めてみるとそんな反発はすっ飛んでしまった。
著者は見事に生理器官として機能している体外構造を、あくまで生物の生理学に立脚しながら探っていく。
下等だと考えられていたカイメンや珊瑚、小さな虫の何と賢いことか!
圧巻は水生昆虫の作る空気の泡だ。
泡を抱え込んだある種の昆虫は、水面に浮かび上がって呼吸をする必要がまったくなく、他の用がない限りずっと水中で暮らせるという。
泡の酸素はどうしてなくならないのだろうかと非常に不思議に思われ、その巧妙な仕組みに感嘆した。
昆虫の用いる方法を応用すれば、海で遭難したときに溺れずにすむ簡単な救命器具が作れるのではないかと本気で考えてしまった。
最後の章で著者は、生物間の相互作用、生物と環境の相互作用を押し広げていくと、それは地球全体に広がり、ガイア理論に至ると言及している。
しかし「ガイア理論」に懐疑的な読者も多いことと思う。
その主な理由は、地球が「生きている」という表現、生物の遠隔共生、生物圏による地球規模の生理作用などに疑問を持たれるからだろう。
だがこの「生きている」というのは比喩であって、意志を持っているはずのない遺伝子の振る舞いをリチャード・ドーキンスがわかりやすく「利己的な遺伝子」と表現したように、ガイア理論を提唱したジェームズ・ラヴロックも地球の振る舞いを、わかりやすく「生きている地球」と表現したに過ぎない。
遠隔共生に関しては、著者は物質やエネルギーの流れの視点から説明を試みている。
地球規模の生理作用となるとあまりに大きくて捉えどころがないように思われるが、食物連鎖のつながり、花と昆虫の共進化、動物と植物の二酸化炭素と酸素のやり取り、様々な物質の生物間でのリサイクルなどなど、地球上では全生物が関わり合い調和を保って生きている。
本書を読み進むうちに、体外構造を作り出す生物の素晴らしい能力・体外構造の不思議な生理作用に感嘆し、彼らを愛おしく思い、全生物が協調して住むこの地球の環境を人間の手で乱してはならないと感じてくださったら幸いである。
滋賀先生が指摘されるように
かなり変わった書だという印象を受けた。
以前読んだハミルトン博士とも近しいような
気がするのは気のせいだろうか。
ターナー博士曰く、ドーキンス博士の言説には
生理学の視座が抜けていると指摘されていた。
しかし”表現型”が”ガイア理論”と繋がるのか…。
”ガイア理論”は滋賀先生はジェームズ・ラヴロック
のみを挙げておられるが、ターナー博士は本文で
リン・マーギュリス博士も挙げられていて
そういえば養老先生が中村先生の例えで
引き合いに出されていたのを思い出しまして。
話を戻しまして、この大部な書の本質は
自分如きでは深い部分までは理解できず
やっぱり難しかったのだけれど
昨今読み散らかしているサイエンス系や
ドーキンス博士の書とリンクしているため
内容よりも出てくる沢山のキーワードが興味深い。
研究に関することだけでなく哲学者とか
他の書とかの比喩とか言い回し自体も
高圧的でなく淡々としていて素敵な書だった。
延長された表現型自体は、中原先生は
釘をさされているけれども。
また時期を深めて読み直すと理解度を増すかも
しれないといつもと同じ読書感想で
ございますとともに、昨日夕方は
妻とともに家の障子を張り替えていて、
難解だから読まずに返そうと思ったこの書を
図書館にかえし損なって良かったというのと同時に
”この障子も延長された表現型なのだろうか”と
思った夜勤明けなのでございました。
昨年の11月は何を読んでいたのか [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
ギリギリ間に合った11月最終日
去年あるいは一昨年の今頃何読んでたかシリーズで
ございますゆえ本人以外には意味のあるものと思えず
さっと踵を返して他のことをされるよう
今すぐこのページを閉じることを強く
奨励させていただきたく存じます。
▼凡例
・・・投稿した日付・・・
投稿タイトル
読んだ本タイトルとその画像
ー
・・・2023-11-30 14:14・・・
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科学者の卵たちに贈る言葉-江上不二夫が伝えたかったこと (岩波科学ライブラリー)
- 作者: 笠井 献一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2015/06/18
- メディア: Kindle版
・・・2023-11-29 17:21・・・
・・・2023-11-26 20:30・・・
・・・2023-11-25 18:53・・・
・・・2023-11-24 18:05・・・
![]()
わたしの今いるところ そしてこれから (生命誌年刊号vol.100-101/2019)
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2020/11/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「ふつうのおんなの子」のちから 子どもの本から学んだこと (集英社単行本)
- 作者: 中村桂子
- 出版社/メーカー: 集英社クリエイティブ/集英社
- 発売日: 2019/03/01
- メディア: Kindle版
・・・2023-11-23 20:23・・・
・・・2023-11-20 14:33・・・
・・・2023-11-17 11:28・・・
・・・2023-11-14 06:41・・・
・・・2023-11-12 12:44・・・
・・・2023-11-11 07:18・・・
・・・2023-11-09 06:55・・・
・・・2023-11-07 21:57・・・
・・・2023-11-06 20:50・・・
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あそぶ 〔12歳の生命誌〕 (中村桂子コレクション・いのち愛づる生命誌(全8巻)第5巻)
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2019/01/26
- メディア: 単行本
・・・2023-11-05 07:48・・・
・・・2023-11-04 07:56・・・
・・・2023-11-03 09:15・・・
日高敏隆先生、中村桂子先生、養老孟司先生から
近代文明、ゲノム、生物、進化論の興味が爆発
明確に読書の目的地が固まってきたかのような
明文化するとそうなのだけど、そこまで
理論立てて触手を伸ばしているわけではない
乱読っぷりだなあと思ったり。
村上龍先生と中村桂子先生が対談してたのかと
思い、人のつながり、興味はまさに系統樹だなあ
と感じ入ったりもしていたのでしたな。
それにしても昨年の今頃はすごい投稿量でして
今も読書熱が冷めているわけではないのですが
今よりも時間があったのは確かで。
仕事と仕事に関する勉強を最優先していると
1日の時間配分がどうしても読書に割きずらいけれど
昨今の読書に対する態度はこの頃が端的な現れで
”密度の高い”というか”意義のある”という
説明になってないかもしれないが
今後もそういう読書をしていきたいよなあ
と豊富を誰に語ってるんだかなあと
思った師走直前の土曜の夜なのでございました。
たまには”トンデモ本”を読み、息抜きとしたり
いわば反対側の考えも取り込む架け橋としたりって
これも養老先生仕込みの思想なのでございました。
ドーキンス博士の書から受けた不似合いなセンチメンタリズムを考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2004/04/23
- メディア: 単行本
2004年3月 垂水雄二
から抜粋
本書は、ドーキンスの初めての本格的なエッセイ集である。
本書の表題の出典は本文にも述べられているように、ダーウィンがフッカーに出した手紙である。
この「悪魔に仕える牧師」というのが誰を指していたか、ドーキンスが触れていないので補足しておくと、反国教会運動によってケンブリッジ大学を追放されたロバート・テイラーである。
自分もテイラーのような目にあうのではないかという怖れが、ダーウィンの進化論の公表を遅れさせた一因であった(詳しくは、デズモンド/ムーア著・渡辺政隆訳『ダーウィン』参照)。
もちろん、本書で、ドーキンスを「悪魔に仕える牧師」に擬していることは言うまでもない。
本書には、ドーキンスのこれまでの著作に比べて特筆すべきところが2点ある。
一つは、科学啓蒙書という立場を鮮明に押し出していることであり、もう一つは、自伝や交友関係に関わるエッセイを通じて、ドーキンスという人間の人となりが開示されていることである。
第一の点は、科学的知識、合理的な判断の擁護を掲げ、あらゆる迷信、伝統や、権威への徹底的な批判を広く大衆に向けて語るという形をとる。
第二の点に関しては、僚友ハミルトンやダグラス・アダムズら親しい人の死に寄せた弔辞からなる第4章、多数の啓蒙的な著作によって生物学好きだけでなく、人文系の読者にも広い人気を誇るスティーヴン・ジェイ・グールドの著作に対する書評を集めた第5章、出世の地であるアフリカへの深い思い入れを語った第6章に、これまであまり知ることのなかったドーキンスの交友や、人となりを知ることができる。
ここでは記載されていないけれども、自分は
最終章の娘さんに宛てた
第7章娘のための祈り
7−1 信じてもいい理由と信じてはいけない理由
が無条件に響いた気がする。
ドーキンス博士は不幸にも娘さんと
離れて暮らしていたようなので
切実な思いが込められていた。
子供であるが故に社会的な力を持ち得ないため
何を指針にすれば良いのか優しくも厳かな意思で
語るところが博士の書を知っている範囲で言うと
他にないと感じた晴れた午後
夜勤勤務に備えて昼食をと思っておる次第です。
来年三月でSSブログ終了かあ、そちらも
センチメンタルにならざるを得ないし
そろそろ12月ってのもでございます。
余談だけれど、これ、別にセンチメンタルを
考察してないよね?ご笑納ください。
新旧3冊から穏やかならざる”遺伝子乗っ取り”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2023/07/14
- メディア: 単行本
生命と記号論※
室井尚から抜粋
※=日時:2020年11月14日(土)13時半〜15時
会場:京都大学稲盛財団記念館・セッションI 「生命と記号論」
さらにこれは意外にもあまり言及されていないのですが、ドーキンスは近い将来、もしかするとミームが遺伝子にとって代わり、DNAやRNAにまったく依存しない生物が現れるのではないか、つまりミームによる「遺伝子乗っ取り」(ジェネティック・テイクオーバー)が起こるのではないか、とその可能性にまで触れています。
この遺伝子乗っ取りという概念は、化学者・生物学者であるA・G・ケアンズ=スミスがそのタイトルからして衝撃的な著作、『遺伝子乗っ取りーーー生命の鉱物起源説』(1988年)の中で述べたものですが、ここでケアンズ=スミスによると、生命の起源は、自然界で生命以外に唯一自己複製を行う「結晶」であるとの考えが提示されています。
つまり、生命は鉱物から生まれたというわけです。
一部の結晶はまるでデータベースのように、その情報を周辺の炭素分子を含む粘土層に転写しますが、そのテープレコーダーのテープのように転写された情報が自立して、つまり道具(テープ)にすぎなかった粘土が自立して遺伝子乗っ取りを果たしたものこそが現在の炭素系生命の起源である、というのがこの『遺伝子的乗っ取り』のストーリーというわけです。
落ち着いて考えてみると、自己複製する情報、つまり自己複製子としての情報こそが遺伝子なわけですが、確かに自然界では、自分で増殖する自己複製子というのは結晶しかありません。
結晶の本体は自分自身の情報、つまり分子の配列です。
そしてそれは文化も同じだといえるでしょう。
すなわち鉱物から生まれ、遺伝子に支配されているわれわれ炭素系生命体が、今度はミームによる新しい生物に乗っ取られるのではないか、という可能性です。
これだけ聞くと違和感があるかもしれませんが、これは議論の的になっています。
それは何かというとAIやロボットです。
ちょうど同じ頃ドーキンスとともにAL(アーティフィシャル・ライフ、人工生命)学会の創設に関わったロボット学者のハンス・モラヴェリックは、『電脳生物たちーー超AIによる文明の乗っ取り』(1991年)という本を出しています。
モラヴェリックはこの本の中で、AIは50年以内に人間の脳の処理能力を追い越して、スーパー頭脳にロボット身体を持った新しい生命体が生まれるだろうと主張しました。
どこかで聞いたことのある話のように思われるかもしれませんが、それはGoogleの技術顧問であるレイ・カーツワイルが2045年にシンギュラリティ、すなわち「技術的特異点」が到来して、AIすなわちコンピュータの知能が人間の脳をはるかに超えていく、という主張を展開しているからでしょう。
ミームが遺伝子に取って代わるって
遺伝子あってのミームなんじゃないのかなあ
と思いつつも、ここで室井先生の話されたいた
書を取り寄せ軽くですが拝読させていただきました。
本書の中心となる考え方は、地球上の最初の生物は、われわれと全く異なった生化学的仕組みを持っていたということであるーーーそれら最初の生物は、固体状態の生化学的仕組みを持っていた。
この考え方は、生命の起源についての私の最初の論文(1966)において、要約の第一行目にすでに次のように述べられている。
「地球上の生命は、無機物の結晶から自然淘汰によって進化したと考えられる」と。
このような考え方は奇妙に思われるであろう。
しかし、私はこれを文字通り述べた。
そして私は現在もそのように考えている。
しかし、生命の起源についての私の他の考え方はいくぶん変化してきた。
特に最初の有機分子がどのように合成されたのかという問題については、私の以前の本(1971)では、生物の有機分子の最初の供給源は、非生物的な過程を通して作り出された”原始スープ”であったという一般的な考え方をとっている。
この時以降の論文や著作(文献を見よ)では、私はこの考え方を次第に捨て、生物の有機分子の一貫した供給源は、大気中の二酸化炭素を用いた光合成であったという古風な考え方をとるようになった。
本書では、このような光合成は常に生物によることを強調したい。
すなわち、生物の有機分子は、生物によって以外は決して作り出されなかったーーーこの点においては、どのようなものであれ、地球上の生命は常に現在と変わりがなかった。
このような考え方が妥当なものと見なされるようになるまでには、数多くの反論を打ち破らなければならない。
最初の生物がなんらかの有機分子を持つ必要はないという事を、私は説得しなければならない。
現在の生化学物質のいくつかは原始地球上で非生物的過程によって合成された事を立証する目的で、数多くの実験が行われている。
これらの実験結果を再解釈しなければならない。
進化の初期の時期に、ある一つの種類の集中的な制御機構を持った生物が、どのようにして全く異なった制御機構を持つ生物に転換していったのか(これが遺伝的乗っ取りである)について、少なくとも論理的に、そしてできるだけ具体的に説明しなければならない。
そして、なぜ進化はそのような回り道を通って開始されなければならなかったのかについても説明しなければならない。
全体の見通し
から抜粋
地球上の生命の起源についてのより限定された問いは、いくつかの内容に分けられる。
例えば次のように。
1
生命発生以前の状態
最初の生物が出現した時、地球はどのような状態であったのか?
2
生命の起源
まだ進化していなくて、これから進化できる最初の系はどのようなものであったのか?
それらは何から作り出されていたのか?
それらはどのように出現したのか?
3
生命の出現
巧みに設計されたように見える、協同的に機能する系が出現してきたのは、初期の進化のどの段階であったのか?
その時の生物は、何からできていたのか?
4
われわれの生化学的な系の起源
現在のように、進化が核酸と蚤白質に依存するようになったのはいつで、またどのようにしてか?
われわれの生化学的な仕組みの中心部は、現在では強固に固定されているが、かつては進化しつつあるものだった。
進化の間に、生化学的仕組みの構成要素は新しい構成要素に置き換わり、恐らくいくつかのものは数回置き換わった。
特に蛋白質は比較的新しい方法である。
蛋白質は、それ以前のいくらか手際の悪い分子的制御方法に置き換わった。
核酸は蛋白質よりもわずかに古いものである。
ある機能が、異なった他のものによって担われるようになることは、非常に一般的に生じ、現在でも進化の過程の一部としてわれわれは目にすることができ、現在では目にすることができない初期の生化学的な進化過程においても同様に想定できる。
そして、このような切り替えによって、最も重要な制御物質ーー遺伝物質ーーの乗っ取りが可能になる。
先にあげた四つの問いに対する回答は次のようになろう。
1
最も望ましい生命発生以前の地球上の状態は、陸地と海と循環する風化作用が存在し、窒素と二酸化炭素を主要な成分とする大気が存在する状態だった。
2
最初の生物は、開放系の中で連続的に形成される。
コロイド状態の鉱物微結晶の一部だった。
3
これらの鉱物生物は、生き残り増殖する方法を発達させた。
これらの方法は巧みに考案されたもののように見えたであろう。
すなわち、それらは生命の一形態となった。
4
最初の生物から進化したいくつのものは、光合成によって有機分子を作り出し始めた。
これによって、無機的な遺伝子と有機的な遺伝子の両方を持った生物が生じた。
最終的に、それらの生物自身の合成の制御は有機的な遺伝子(核酸)に完全に受け渡された。
それまでに有機的な遺伝子は蛋白質を合成して働き始めていた。
プロローグ
から抜粋
何十億年も軍備拡張競争の悪循環を続けた末、我々の遺伝子は、とうとう自分たちで自分の首を絞めるようになった。
敗者ばかりか勝者をも破滅させるくらい強力な兵器を作ってしまったのである。
それは水素爆弾のことではない。
広範囲に及ぶ核兵器の使用はただ、すでに設計されるもっとずっと興味深い崩壊を遅らせるだけであろう。
ケアンズ=スミスの理論によると、最初の遺伝的乗っ取りが起こったのは、ある種の粘土の結晶が、活発なダーウィン的競争の間に、ある遺伝情報を外部の長い炭素分子の中に符号化し始めた時である。
長い炭素分子(重合体)は安定しているため、ずれのパターンのように簡単に壊れることはなく、重合体をさらに高度に利用した有機体は再生の成功率も高い。
こうして炭素分子がますます多く利用されるようになると、初めは結晶に基づく化学機構に完全に依存していた再生過程が、だんだん結晶に依存しなくなっていった。
やがて単純な結晶の足場はまったく消え失せ、その進化の航跡に複雑で相互依存的な有機体機構の体系ーーわれわれが生命と呼ぶものを残した。
それから数十億年を経た今日、世代から世代へどう情報を伝えていくかという点で、再び変化が起きようとしている。
人類は有機遺伝子にほとんど全面的に規定されている有機体から進化した。
しかし今では、われわれは莫大で急速に成長する文化的情報の集団にも依存している。
それらの情報は遺伝子以外のところ、すなわち神経系、図書館、そして最近ではコンピューターの中に作りだされ、貯えられている。
我々の文化はまだ生物学的人類に完全に依存しているが、その文化の主要な産物である機械が、年々、文化の維持と発展に大きな役割を担うようになっている。
遅かれ早かれ、我々の機械は人間の力を借りなくても、新しい遺伝的乗っ取りが完了する。
我々の文化は人間の生態とその限界から離れて進化できるようになり、ずっと有能な知的機械がそれを世代から世代へと受け継いていく。
我々の生物学的遺伝子とそれによって作られる肉と血の体は、この新しい体制の中で急速に重要性を失っていくであろう。
しかし、文化が生まれた源である人間の心もこの革命の中で失われるのだろうか。
おそらく、そうはならないであろう。
死すべき肉体の束縛から離れた人間の思考について考えるのは簡単であるーー死後の世界があると信じている人はたくさんいる。
しかし、自由な思考の可能性を受け入れるのに、神秘的あるいは宗教的立場をとる必要はない。
コンピューターは最も熱烈な機械論者にも一つのモデルを提供してくれる。
死すべき体から救い出された心が効果的に作動するには、多くの修正が必要であろう。
はかない死すべき有機体は、突然変異や自然淘汰といった外的過程を通じて、環境に適応していく。
一方、不滅性を切望する心は、それがもともと死すべき人間から生まれたものであろうと、全く人工的につくったものであろうと、常に内部から環境適応していけるようにできていなければならない。
おそらくそのような心は、繰り返し若返りを経験しなければならない。
子供時代のように、定期的に新しいハードウェアとソフトウェアを獲得するのである。
自己改良型の思考機械に支配されるポスト生物学的世界は、生物の世界とは全く違ったものになるだろう。
束縛されない心の子供たちで構成された世界はなかなか考えにくいものであるが、その世界で起こるいくつかを、これから何とか考えてみよう。
6 脱出
これからの道
から抜粋
われわれは物事の秩序において非常に新しい何かの出発点にいる。
現在に至るまで、われわれはダーウィン的進化の見えざる手によって形作られてきた。
ダーウィン的進化は過去から学ぶ強力なプロセスであるが、未来に対しては盲目である。
多分、偶然にだが、進化はわれわれが欠けていた視野をいくらかは持てるように設計してくれた。
我々は自分自身の目標を選択でき、忠実にその目標を追求できる。
目標があるので短時間のロスなど将来得る巨大な利益のことを思えば気にならない。
我々が進む道はぼんやりとしか見えないーー我々の想像をはるかに越える困難、驚き、それに報酬が隠されている。
遠くのどこかに山々があって、登るのは難しいかもしれないが、その頂上からの眺めはさらに豪快であろう。
リチャード・ドーキンスの比喩では、我々は盲目の時計技師の手作り品である。
しかし我々は今や部分的な視力を獲得し、その気になれば、我々の視野を使って時計技師の手を誘導することができる。
本書で私は、その手をさらに改良された視野の方向にそっと押してゆくことをめざして論じてきた。
あたらしい世界はそのようにして我々の視野の中に、我々の手が届くところに姿を現すだろう。
”遺伝子乗っ取り”すなわち、
”ジェネティック・テイクオーバー”とは
穏やかならざる言説でございまして
昨今の”人工知能”や”生成AI”を
とっさに思い浮かべるのだけれども
何となく感覚的でしかないのだけど
それとは違うのではないかなあと
若干違和感を感じるのは読み込みが浅く
また浅さが己の質によるものなのだからか
よくわかりませんでございました。
特にケアンズ・スミス博士の書の
難易度はものすごく高いです。
最初の生物は必ずしも有機分子ではないとか
鉱物が、ってのは興味深いのだけれども。
モラヴェック博士の最後の締めは
楽観的すぎるのではなかろうかと思ったのは
偶然仕事場で読んだ昨日の朝刊の
読売新聞一面にあったハラリ先生や
E・マスク氏らがAIの開発は規制を、
というのも影響している気がしておりまして…
識者「ツケを払うのは一般市民」(読売新聞11/21)
これを読む限り脅威を感じているからなのでは
なかろうかと思えてくるのが
ちょっと嫌だな、いや、大分嫌だなと
思った寒い休日でございました。
蛇足ではございますが
穏やかならざるといえば
先ほど気が付きましたがSSブログは
3月終了ですか。残念至極でございますなあ…。