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中根先生の52年後の続編から日本社会を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


前回投稿時に続編があることが

わかったので購入して読んだら

姉妹編もあるようで、エンドレスなのかこれは

と集中が削がれる為、それはいったん忘れよう。

52年後の続編ってすごい世界でございます。

 

タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)

  • 作者: 中根千枝
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: Kindle版
  •  

プロローグ 日本の先輩・後輩関係

先輩・後輩の関係ーー集団構成と人間関係

から抜粋

前著において、日本においてみられる機能集団構成の特色は、その人が持っている個々人の属性(資格)よりも「場」(一定の個人が構成している一定の枠。テリトリーとは違い、「場」はよりスタティックなもの)によることを指摘した。

ここではとくにキー・コンセプトとして、先輩・後輩の秩序の認識について述べてみたい。

 

とにかく集団が形成されることになる場に最初に着いた者(A)を頂点とし、次のBはその下位になる。

Bの次はCとなり、これがいわゆるタテの関係で、変更を許さないシステムを生む集団構成の原則となる。

話をわかりやすくするために、職場にあてはめていえば、6、7人ほどの組織があるとして、そのなかでいちばんの古株が頂点となり、その「場」に在籍する時間の短い者が最も下位となる。

いつ、その場に入ったか、その順番が大事なのである

先輩・後輩の典型ともいえるのが、軍隊における「古参兵」である。

かつての軍隊には、長い間在籍している古参兵がいて、彼らが権力をもっていたとしばしば言われる。

現在でも、スポーツの世界などで、先輩と後輩の関係が強固なのはめずらしくないだろう。

こうしてできる小集団は上位の大集団に統合される体制であってもそれ自体の機能はもちつづける。

企業や政党のなかの派閥を想定してもらえばわかりやすい。

前著の姉妹編『タテ社会の力学』において述べたように、この小集団は封鎖性という特性を持つ。

タテのシステムにより新入社員ほど低い位置におかれ、その責任者(上司)からはときにきびしい態度をとられる。

ひどい場合は不合理なノルマを負わされたり、パワハラ、セクハラなどを受け、いじめにさらされたりする。

その結果ノイローゼとなり、ついに自殺してしまうケースもある。

小集団はそれ自体封鎖性を持つものなので、やられるほうは社内でも相談する相手もなく一人苦しむことになる。

先輩・後輩の関係は「長幼の序」とは違う

重要なのは年齢ではなく、その場にいつ入ったか、という順番である。

たまたま先輩が後輩よりも年上ということもありうるが、その反対の場合もある。

「長幼の序」はそもそも中国のもので、実年齢の順であり、韓国でも同様だが、少しでも自分より年上と思われる人を優先するのは、日常生活でもみられるものである。

したがって、長幼の序の社会では、年を取ること、とくに「老」はプラスの意味を持つ

中国の有名な社会学者、費孝通(フェイ・シャオトン・1910~2005年、著書に『中国の農民生活』『中国の奥地』など)は教え子のみでなく、知人からも「老費(ラオフェイ)」とよばれていた。

この中国語の発音はそれ自体尊敬と親愛の情をもち、なかなかよいものであった。

日本では「老」はどちらかといえばマイナスで、「お年だから」はまだよいほうで、「老いぼれ」とか介護の対象などとなりやすい。

会社においても、定年になると、「場」から外れ、哀れを伴う。

この中国と日本の違いは、中国のほうが歴史的に豊かであったということに由来しているのであろう。

このような、中国の長幼の序とは異なって、日本の先輩・後輩の関係は、年齢には重きが置かれない

その「場」に来た順番が大事になってくる。

実際、英語や中国語などで先輩、後輩という言い方が使われることはあまりない。

近年世間を賑わせた、大手広告代理店の新入社員の自殺、学校のいじめ、日本的組織における女性の地位などは、まさに、こうした「タテ」のシステムと大いに関係がある。

こうした出来事から見えてくる日本社会の姿を読み解くのが本書の目的である。

「長幼の序」というのは刺激的な言葉で、齢五十を過ぎて

初めて知ったような、聞いたことあるような。

としても、中国での使われ方は良いと感じた。

先週TVのニュースで韓国の飲み会の風景をレポートしてて

目上の人と飲む時のマナーで、対面に座ってた場合

アルコールグラスを持って

身体を捻り横を向いて飲むらしい。

正面でグラスを上げて飲むことは失礼に当たるという。

 

日本の場合は、そういうのはないなと。

女性がお酌するとか、若手は積極的に

食事をとりわけするとかが

評価軸になったりするというのは一昔前まで

あったような。今はわかりませんけれども。

 

話は逸れ、20年くらい前の話だけど

女性社員は、忘年会でサンタのコスチュームを着せられ

赤いミニスカートでお酌させられてたのを思い出し

あれはなんだったのだろうといにしえの記憶へ想いを

馳せてみたりしたのだった。

今はあり得ないだろうなあ。わからんけど。

 

第四章

これからのタテ社会

見えにくい日本の貧困

から抜粋

これまで日本の社会構造について述べてきました。

タテのシステムには、多数にとっての安定性など長所があります。

しかし一方で、タテならではの弊害があります。

理論的にいえば、日本では皆、小集団に属しています。

しかし、経済状況が悪化したりすると、小集団の機能が弱まり、小集団の保護を受けられない人びとが生まれてきます。

深刻化する貧困問題は、その典型です。

貧困に陥った人びとに、いかに手を差し伸べるかは、重要な問題です。

現在、日本では七人に一人の子どもが貧困状態にあると言われています。

少し前になりますが、貧困家庭の子どもについて取り上げた番組がありました。

着るものを見ても、生活の様子を見ても、一見しただけでは貧困かどうかは分からない。

おそらく身なりが他の人と違うことに、抵抗があるのでしょう。

収入が少ないなかで、衣服代などにかなり出費せざるをえず、ますます生活は苦しくなるはずです。

インドでは、貧しい身なりでも不幸には見えません。

市場で、魚、肉、野菜を、みんなが買う。

魚や肉のにおいのついた汁が台に残っている。

インドの最貧困の人たちは、市場が終わる頃にそれをもらいに来る。

身なりも貧乏とすぐわかるけれども、見ていてもまったくおかしくない。

また、彼ら貧しい人たち同士の連帯があるから、貧しくても、日本みたいに取り残されたような悲劇は感じられない。

インドでは、貧しくてもお互い助け合うという習慣があるのです。

日本では、NPOやボランティア活動が盛んになってきているといわれますが、貧しい人とともに連帯しようというつながりは、インドなどとくらべると少ない

タテが基軸となっていて、連帯がないために、貧困に陥っても助けを呼べず、こぼれ落ちる人が出てきてしまう。

その結果ひとりぼっちになってしまうのです。

ヤングケアラーという社会問題。

本当に若者だけの問題なのだろうか。

どうしても若年層だけと思えないのは自分だけなのか。

 

インドの連帯感ってのは、ちと想像つかないのだけど

日本も世界で比べると助け合っているのかと思いきや

タテ社会が阻害しているのか、格差を生み出している

要因の一つというのは目から鱗級なものだった。

 

エピローグ

場は一つとは限らない

「二君にまみえず」から抜粋

これまで、「タテ」というシステムについて、そして、現在起きている事象について考えてきました。

長時間労働や、あるいはいじめの問題などが報じられるため、私は「タテ」の強固さを感じていました。

「タテ」には良いところがあります。

しかし一方で、タテのもつ封鎖性が現実に問題を引き起こしています。

日本人は会社や学校などで「場」に所属しています。

会社、学校にできる場というのは、家(ウチ)をより大きくしたものではなく、もう一つのウチです。

この二つのうちはしばしば拮抗関係にありました。

学校の友人や会社の同僚とのつきあいを大事にすれば、家族が犠牲になる、というように。

日本社会において、二つ以上の集団に同様なウェイトをもって属するのは困難です。

ヨーロッパ中世の封建制においては、「二君にまみえず」という道徳は存在していません

ヨーロッパでは、二君、三君と主従関係をもつのが常でした。

そうすることで、突然主を失うリスクをできるだけ避けようとしていたのです。

一方の日本では、「二君にまみえず」が理想とされていました。

戦国時代には、主君を変えて何人かについた人びとが少なくなかった、と言う人がいますが、日本では同時に二人以上の主君を持ちませんでした。

それは、このタテの関係でいえば、実行することがたいへん困難だからです。

同一主君に仕えていても、長年仕えてきた人と、途中から仕えた人とでは、後者は圧倒的に不利なのはおわかりでしょう。

それは今日の雇用においても同様です。

「二君にまみえず」というのはよく分かるな。

一君に仕える、というのはいかにも日本の伝統のような。

若い頃からダブルワークで生計立ててれば別でしょうが。

 

長時間労働も悪き文化のようなものだけども

残業代出るだけ今はマシになりましたよって

おじさんのぼやきでございます。

 

一つだけの「場」からの転換

から抜粋

しいて二種類の所属をもっている人を探してみると、何世代にもわたって住民のコミュニティが形成、維持されている下町の商店や開業医、寺の住職などかもしれません。

彼らは村・町の一員であると同時に、別の村・町に散在している同業集団の一員なので可能なのです。

最近、若い人たちが趣味などに没頭して、好きなことでコミュニティを職場以外でつくっていこうという動きがあると聞きます。

タテとは異なる関係をつくろうと思ったら、やはりそれぞれが努力をしないとできません

ただ座っていたのでは、一人のままですから、連帯は重要なのです。

日本のタテ社会は、どうしてもネットワークの弱さを抱えています。

その弱さをいかに補完していくか、複数の居場所をいかに見つけていくか、高齢化が進む現在、そうしたことを考える時期にきていると思います。

「連帯」というと弱い気もする、今の日本。

隣は何をする人ぞ的な関係が薄い付き合い方で

小津安二郎監督の頃に見られる

昔の日本家庭同士の付き合いというか

お醤油の貸し借りができる間柄では今はもうないからね。

深くなるためには煩わしいと思われるような諸々を

クリアしないとならないですからね、現代は。

 

インドやイギリスでは、階層のネットワークがあり、

一人にならない他人との関係を作る方便を知っていると。

ゆえに、会社を定年になると「場」を失い孤独になる。

そうなる前に小集団以外で関係を作る事を推奨されるが

これがなかなか難しいそうと感じるのは、

今の日本人の一人だからだろう。

 

前作と比べると、当然だけどアップデートされているので

格段に読みやすく、共感するところが多かった。

 

1953年にインドにフィールドワークに行くことを

多くの人が反対する所、今西錦司先生が

「女性でも大丈夫」と推されていたとか。

インドに留学中、女性講師が講義をする際、

受講する生徒さんが来なかったと言われるような

圧倒的に男性優位の時代、

ご自分が日本で教鞭をとった最初の講義をされる時の

不安などの葛藤も記され、「タテ」のみならず

「女性差別」についても言及・論考される。

 

「タテ社会」という言葉は筆者の造語ではなく

編集者作であるとのことだけど、

現在では普通に使われ、

(最初に提示されたのは中根先生で、

「タテ」と「社会」をくっつけたのは編集さんとの事)

その言葉だけではなく、概念を詳らかにされ

分析・考察・他国との比較検証され

50年以上前に論考されていたのは、驚くべき事だと感じた。

社会人類学のなんたるかに少しだけ触れた気がした。

 


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2冊から来たるべき社会を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

今西錦司さんが、吉本隆明さんとの


対談にて日本社会に触れた時


引かれていた方の書を読んでみた。


ちなみに女性で初の東大教授だった模様。



タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)

  • 作者: 中根千枝
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: Kindle版

初出は1967年。


まえがき


から抜粋


本書は、現代の日本社会を分析するものであるが、日本の近代化の過程、それに伴う変化といった、従来の日本社会を扱った論文・評論の常道とは性質を異にするものである。

著者の目的とするところは、現代の日本を、社会人類学的立場に立って分析すると、どのような解釈が成り立ち、それをどのような理論構成にもっていくことができるか、という試みにある。

すなわち、日本社会の説明ではなく、日本の社会構造を材料として、社会人類学でいう「社会構造」の比較の上で、日本の社会がどのように位置づけかれるかという、社会構造の分析に関する新しい理論を提出しようとするものである。

したがって、日本の近代化はどのような問題を扱うものではない。

しかし、著者の立場が理論的なものであるために、叙述もできるだけ客観性を高めることにつとめているので、かえって本書はどのようにも扱われるだろう。


本書は『中央公論』(昭和39年・1964年5月号)に発表した論文「日本的社会構造の発見」を加筆・修正し、発展させたものである。

しかし、著者の基本的理論は少しも変わっていない。

右論文を発表して以来、多くの読者から反響があり、また、大学・研究所・企業経営・人事管理・教育研修などの各方面の諸機関・諸集会から、本論文に関連したセミナーや講演の依頼を受け、多くの方々から有益な意見を聞くことができた。


また、右論文に提出した「タテ」「ヨコ」の概念、考察方法は、すでに常識のごとく多くの人々に使われるようになり、著者としては喜びにたえない。

1966年12月 中根千枝


57年前にこのような日本の人間関係の考察を


されていたというのは稀有だったのだろうな。


(続編があるのをさっき知る、一旦おいといて)


 


今だと比較的当たり前で、こういうことを


身に持って知っておかないと世間を


渡っていけないというような基本の所作


だったりするのだけど、時は1966年だからねえ。


ビートルズ来日の年って、うーん。


あんな不良な音楽に、武道の伝統を行う場所で


コンサートなぞとんでもない!という時代だからね。


当時の知識人って。


知識人って言葉嫌いだけど


面倒くさいのでまあいいか。


何ともはや、曰く言い難し。


 


おわりに


から抜粋


本論において言及された日本社会の諸現象の多くは、断片的には、多くの人々がすでに指摘したり、また十分経験したりしていることである。

しかし、本論の主題は、そのように、諸現象を「日本的」と指摘することではなく、これら諸現象があらわれる論理的必然性、いいかえれば、日本社会に貫かれている統一された(驚くほど論理的な)メカニズムというものを提出することである。


もちろん、近代国家においては、どの社会でも共通な制度・組織をもっている。

たとえば、学校・行政機関・官僚制・企業対組織といったような。

しかし、これらは、はっきりと制度化され、誰でも明確にとらえられるものであるーーーこれをフォーマル・ストラクチュア(formal structure)と呼ぶーーー。

これに対して、一方、顕在的には表れていないが、実際の人間関係を規制するのに重要な役割をもつ、見えない潜在的な組織ーーーこれをインフォーマル・ストラクチュア(informal structure)と呼ぶーーーがあって、これこそ、その社会の機能の原動力となり、その社会の特色を出してくるものと考えられる。

現実には、このインフォーマル・ストラクチュアはフォーマル・ストラクチュアに交錯して存在しているのであるが、本書では、実は、特にこのインフォーマル・ストラクチュアを探求したのである。

このインフォーマル・ストラクチュアの追及を通して把握される、本書に提示したような日本社会の特色というときはのは、決して日本人が本質的に他の社会の人々と比べて異なっているということではない。


それでも、古い歴史を持つ文明社会においては、長い間にその社会独得の慣習を発達させ、結晶させるもので、他の社会のそれと比べると、別人種、異民族という感を深く抱かせ、その文化的な違いがあたかも決定的な生物的な生物学的な違いであるかのようにさえ感ぜられるものである。


しかし生物学者が指摘するように、いずれも「人類」という動物の一「種」である。

どの社会の人々も、人間という「種」として本質的に同様な特質を持つばかりでなく、これほど文明が進んだにもかかわらず、一定の条件に対しては、個人としても集団としても、他の動物に共通した反応を示すことも十分指摘できるのである。


したがって、日本人は…である、という前に、一定の同一条件を与えられた場合。日本人でなくとも、どこの国の人間だってこのように反応するのではないかと、疑問をもってみる必要がある。


著者がとくに力説したかったのは、こうした一定の「条件」というものを考慮して、日本人、日本社会の問題を考察することであった。

著者のいうこの「条件」とは、とくに社会学的条件である。

社会学条件とは、その社会の長い歴史をとおして、政治的、経済的、そしてもろもろのん文化的諸要素の発展、統合によってつくられてきたものである。

こうして形成された既存の社会組織(フォーマルおよびインフォーマル・ストラクチュアすべてを含む)自体も今日のときは日本人の行動をかたちづくる重要な条件なのである。


したがって、一定の「条件」というものは、実験室で簡単につくりうるようなものではない(実はこの点にこそ社会科学としての社会人類学的アプローチのむずかしさ、複雑さがあるのである)。


しかし、日本社会の場合、この条件を支えている一つの大きな特色が存在する。

それはいうまでもなく、社会の「単一性」である。

現在、世界で一つの国(すなわち「社会」)として、これほど強い単一性を持っている例は、ちょっとないのではないかと思われる。


この日本列島における基本的文化の共通性は、とくに江戸時代以降の中央集権的政治権力にもとづく行政網の発達によって、いやが上にも助長され、強い社会的単一性が形成されてきたものである。

さらに近代における徹底した学校教育の普及が人口の単一化にいっそう貢献し、特に戦時の挙国一致体制、そして、戦後の民主主義、経済の発展は、中間層の増大拡大という形をとりながら、ますます日本社会の単一化を推進させてきたものといえよう。


以上の考察によってもあきらかなように、本書は「日本人の特質」ではなく、あくまで「単一社会の理論」と呼ぶべきものである、というのが著者の立場である。


日本人だから…という感覚は、ありますけれど


内容的な面で隔世の感は否めないところ多々あれど


基本構造はまだまだあるような気もしつつ


だから現代でも増刷され2015年で115刷ですからね。


 


中国・イギリス・インドでの日本人の


人間関係の在り方の異なる点や


日本人の「哲学」「宗教観」について触れられ


「みんながこういっているから」


「他人がこうするから」で行動を規制していて


宗教的な規範ではない、価値の尺度を指摘されている。


今もあまり変わっていないようにも


思うところもあった。


これでちと思い出したのが、



だんだんわかった

だんだんわかった

  • 作者: 仲井戸 麗市
  • 出版社/メーカー: 阪急コミュニケーションズ
  • 発売日: 1992年
  • メディア: 単行本

この書籍じゃないかも知れず違ってたら、


申し訳ない。


ロックミュージシャンの仲井戸麗市氏が


フランスの空港で、奥様(カメラマン)が撮った


フィルムを荷物検査のエックス線に通すことになり、


それをするとフィルムがオシャカになってしまうため


拒否すると空港の黒人職員が高圧的に実施、


大揉めに揉め、乱闘になりそうになり


フランスが嫌いになりそうだったが


あれは国というよりも人の問題なのだろう、という


随筆を思い出したりした。


仲井戸さんは黒人音楽にルーツを持っているので


余計このエピソードは自分には響いたものでした。


 


話は逸れづつけて、養老・池田先生対談


空港の検査なぞ、やめちまえ、時間の無駄


ってのもあったな。


 


話は中根千枝さんの書に戻り、思うに


国民性というのもグローバル化が進み、


益々単一化社会となっていくと予想され


〇〇国の人だから…とかいうよりも


〇〇さんだから…ということが多くなるのだろう。


 


コミュニケーションする上で


人格を磨いていくことは必須として


他国の人間であればその国の


また自国の人ならその人の背景・歴史も


知っておくと人間関係がスムーズになるのか


と思うとめっちゃめんどくさいけれど


その反面、面白いかも、とも思ってしまう


アンビバレンツに悩まされ


でも時代はAI、これからシンギュラリティだよ


と思いながら陽当たりの良い


庭を見ながら考えている午前中でした。


 


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2冊の本から未来は安堵できるのか考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


シンギュラリティは近い [エッセンス版] 人類が生命を超越するとき

シンギュラリティは近い [エッセンス版] 人類が生命を超越するとき

  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2016/04/26
  • メディア: Kindle版

第一章 6つのエポック


から抜粋


迫り来るシンギュラリティという概念の根本には、次のような基本的な考え方がある。

人間が生み出したテクノロジーの変化の速度は加速していて、その威力は、指数関数的な速度で拡大している、というものだ。

指数関数的な成長というものは、つい見過ごしてしまいがちだ。

最初は目に見えないほどの変化なのに、やがて予期しなかったほどに激しく、爆発的に成長する。

変化の軌跡を注意深く見守っていないと、全く思いもよらない結果になる。


シンギュラリティとは、われわれ生物としての思考と存在が、みずから作りだしたテクノロジーと融合する臨界点であり、その世界は、依然として人間的ではあっても生物としての基盤を超越している。


シンギュラリティ以降の世界では、人間と機械、物理的な現実と拡張現実(ヴァーチャルリアリティ・VR)との間には、区別が存在しない

そんな世界で、間違いなく人間だと言えるものが残っているかと問われれば、ある一つの性質は変わらずにあり続ける、と答えよう。

それは、人間という種は、生まれながらにして、物理的および精神的な力が及ぶ範囲を、その時々の限界を超えて広げようとするものだ、という性質だ。


こうした変化に対して、否定的な意見を述べる人たちがいる。

シンギュラリティ以降の世界に移行すると、人間性のなくてはならない面が失われてしまう、というのだ。

だが、こうした意見が出てくるのは、テクノロジーがどのように発展していくかが誤解されているからだ。

これまでに存在した機械は、人間特有の生物としての性質に必須な繊細さが欠けていた。

シンギュラリティにはさまざまな特徴があるが、それが指し示すもっとも重要な点は、テクノロジーが、人間性の粋(すい)とされる精巧さと柔軟さに追いつき、そのうち大幅に抜き去る、というものだ。


6つのエポック


から抜粋


進化とは、増大する秩序のパターンを作り出すプロセスのことだ。

本説では、パターンという概念に注目したい。

パターンが生まれ進化してきたからこそ、この世界の究極的な物語ができあがったのだと、わたしは考えている。

進化は間接的に作用する。

つまり、それぞれの段階、すなわちエポックでは、その前のエポックで作られた情報処理手法を用いて、次なるエポックを生み出す。

以下に、生物およびテクノロジーの進化の歴史を、6つのエポックに分けて概念化した。


シンギュラリティはエポック5で始まり、エポック6において、地球から宇宙全体へと広がっていく。


第四章


人間の知能のソフトウェアを実現する


ーーー人間の脳のリバースエンジニアリング


脳のリバースエンジニアリングーーーその作業の概観


から抜粋


人間レベルの知能と、コンピュータがもともと得意な、速度、精度、記憶共有の能力を組み合わせれば、ものすごいことになるだろう。

だが、今のところ、人工知能「AI」の研究や開発のほとんどには、必ずしも人間の脳の機械をベースとしていない工学手法が用いられている。

その理由は単純で、人間の認知能力の詳細なモデルを組み立てるのに必要な、ふさわしいツールを手に入れていないから、というものだ。


脳のリバースエンジニアリングを行うーーー脳の内部をのぞき込み、モデル化し、各領域をシミュレートするーーー能力は、指数関数的に伸びている。

最終的には、われわれ自身の思考の全域にわたって根底を支えている作用の原理を理解して、そこで得た知識から、インテリジェントマシンのソフトウェアを開発するための強力な手順が作られるだろう。

生物のニューロン内部で起こっている電気科学的な処理よりもはるかに強力なコンピューティングテクノロジーにこうした技術を用い、調整し、改良し、能力を拡大していくだろう。

この壮大なプロジェクトから得られる大きな利点は、われわれ人間の仕組みを正確に理解することができるようになることだ。

さらに、アルツハイマー病や、脳卒中、パーキンソン病、知覚障害などの神経学的な問題に対処する新しい強力な手法を手に入れ、究極的には、われわれの知能を大きく拡大することができるだろう。


病気の解明には期待したいのだけど


なんだか恐ろしいような世界に突入しそうというのは


古い価値観の人間だからだろうか。


確かに、仕事の面でも、説明する際


脳にUSBメモリのようなものを差し込んで


抜き出し、「これ読み込んどいて」っていう方が


正確で無駄がない、と考えたことはあったし、ある。


映画「マトリックス」や「エリジウム」なんかでも


これが未来なのかなあなどとも思った。


しかし本当にそのような世界が来るのだろうか


そしてそれが本当に人類・地球に良い方向に


行くのかなあというのは


生物学者の池田先生の随筆が頭をよぎる。


日本の政治主導による


高齢者医療制度にもの申しつつ


以下のように始められる書籍から。



病院に行かない生き方 (PHP新書)

病院に行かない生き方 (PHP新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2022/03/16
  • メディア: 新書


はじめにーーー必要以上に介入してくる社会


から抜粋


一度何かが決まってしまうと、その制度を前提としたビジネスで大儲けしている人たちが世の中には大勢いるからだ。

県や市の健康福祉部の高齢化支援にかかわって儲けている企業は必ずあるし、人間ドックも含めた日本の健康診断市場は9000億円以上だといわれている。

そこに金の匂いがする限り、あと戻りなどできるはずがない。

その一方、コロナ禍においては必要な医療が受けられず、自宅療養という名の自宅放置で多くの人が命を落とすことになった。

医療サービスを受けたいのに受けられないといったことはあってはならないことだけど、このような医療崩壊の原因の一つは、厚労省が2015年以降、毎年全国の病院数を減らすことに腐心したことであり、それもまた、経済効率を優先するための判断だったのである。

つまり、国というのは人々の健康に口出しはしてくるけれども、それを本気で守る気などさらさらない。

本当に守りたいのは、利権の確保や経済効率、つまりカネなのである。


なんでもビジネス、利権がらみにしないと動かない人々。


それが主ではない人もごく僅かかもしれないが、


いると自分なぞは感じておりまして、その人たちが


良き方向に行くようナビゲートできないだろうか


というのは他力本願の他人任せすぎ、かつ、


ちと宗教的だろうか。


お互いにとって良いところを引き出す仲間みたいな


関係になれないだろうか。


人間とAIは。


金儲けの手段という低いレベルの話に終始せずに。


資本主義だから仕方ないのか、この流れは。


無謀な権力に巻き取られたくないなんてのは


青い考えなのだろうか…。


でもって話はカーツワイルさんに戻りまして。


エピローグ  人間中心主義


から抜粋


一般に、科学は人間のみずからに対する思い上がりをつねに是正してきたと見られている。

古生物学者のスティーブン・ジェイ・グールドも言う。

重要な科学革命すべてに共通する特徴として、人間中心の宇宙という信念の台座から、傲慢な人間を一段ずつ引きずり下ろしてきた、ということがあげられる

しかし結局のところ中心にあるのは人間だ。

脳内でモデルーーーヴァーチャルリアリティーーーを作り出す人間の能力は、見た目には地味な親指の機能とあいまって、技術という進化の別形態を導くのに充分なものだった。

こうした技術の発展によって、生物進化と共に始まった加速ペースが持続されてきたのだ。

この加速は宇宙全体がわれわれの指先の意のままになるまで続くだろう。


昨今、ざわつかせているChatGPT。


 《グーグル、チャットGPT対抗の「Bard」を米英で一般公開(3.22配信)


カーツワイルさんも絡んでいるのだろうか。


昨日のニュースも興味深いところではあるが


古いニュースを読んでみると


やはり無関係ではなさそうな気もして。


 《2022年はシンギュラリティ元年!「進化するジェネレーティブAI」と「変化する暮らし」とは?(2022.12.30配信)


新しいものは、良い面・悪い面あるのは、


仕方ないのだけど、良き方向に使われてほしい。


でも、学生さんたちは勉強する意味がわからなくならないだろうか。


老婆心ならず、老爺心ながら思う。


中学の時の英語の先生が


「勉強とは覚えること、


学校は勉強の方法を教わるところ、


そして、勉強は家でするの!」


って言ってたけど完全にアナクロニズムに


なってしまった気がするのだよなあ。


覚えなくていいし、場所選ばないし、


時間だって節約できるし。


そういう視座での心配も昭和的なのかなあ。


余談だけど、その中学の先生は良い先生で、


おかげで英語が嫌いにならず


洋楽に入っていけたのは


感謝してますので、disっているわけでは


ありませんので。


齢50をとうにすぎて他人をdisっても


意味ないすからね、と


静かすぎる早朝で鳥の鳴き声が聞こえ始めました。


 


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知性の巨人の対談から進化と社会を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


ダーウィンを超えて (中公文庫)

ダーウィンを超えて (中公文庫)

  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1995/10/01
  • メディア: 文庫

対談自体は1978年。


なんとなくAmazonを見てたら


出てきたこの書籍。


早速入手して読んでみた。


当時、今西先生76歳、吉本先生54歳。


第一章 ダーウィン


生活条件と遺伝


から抜粋


■吉本

それと関連することだと思うんですけれども、『種の起源』を見ますと、生活条件が変異性に及ぼす影響には限度があって、それよりも種自体というのか、遺伝的要素の方が重大なんだと考えているように受け取れるんですけれども、それはそうでしょうか。


■今西

それは結局ダーウィンもはっきりしたことはよういわなんだ。

ダーウィン以前に、フランスで、19世紀のはじめにラマルクという人が進化論を発表しています。

そのラマルクの進化論というのは、用不用説というのと獲得性質の遺伝説という二つが柱になっておりまして、ラマルキズムから言いましたら、この二つは切り離せないものなんです。

生活条件といいますか環境の影響といいますか、それにたいする生物の側の適応が遺伝するならば、とういこれが獲得形質の遺伝になるわけでしょう。

ダーウィンも晩年には、ラマルキズムに非常に近い考えになっていくんです。

 

しかし、そのころドイツにワイズマンという人が現れて、この人が獲得形質の遺伝を否定したんです。

実験と理論の両面から否定しましたので、一般にはそれでラマルキズムというものは間違いである、というふうに認められて、今日まで来ております。

しかしセオリーはどうであろうと、進化の事実として、いちばん間違いのない証拠は化石である。

古生物学者が、ウマならウマの化石をずっと年代順に並べてみると、ひとつづきにつながっている。

少しづつ変わりつつつながっているんです。

これは獲得形質の遺伝ということがなかったらつながらへんですよ。

化石の示す事実からいえば、進化論としてのラマルキズムはまだ生きている、といえるのではなかろうか。

ところが化石を並べてといいますけれど、化石というものはそんな一年とか十年とかのオーダーで出てくるものやない。

万年単位くらいでぽつぽつ出てきたやつを並べると、続いているというんでしょう。

 

一方でワイズマンなんかの実験というのは、せいぜい五年か十年の実験でしょう。

だから、タイムスケールがまったく食い違っているのです。

実証主義も結構やけど、性急な実験によって悠久な進化という現象が、説明できたように考えたのは、ワイズマンの思い上がりでなかったろうか。

それにも関わらず、教科書にはラマルキズムは否定されたと書いてある。

 

そしておそらく突然変異と自然淘汰によって進化は進んできたという、いわゆる正統派進化論が時を得顔に記載されているにちがいないだろう。

しかし、これも一皮むいて考えてみると、非常に疑わしいものなんですね。


遺伝子が現代ほど明かされていない頃のため、


ダーウィンさんもなんとなくしか


つかんでいなかったのだろう、というのは


周知の事実。


化石がなくて立証に乏しいというのも


100分で名著でも説明していた。


それでも天才的な感覚はあったのだろうな


というのが養老先生の言説。


よく分からないところもあるけど、


いま発表しておかねば!


といった科学者としての矜持もあったのだろうなと


いうのはわたくしの勝手な推測。


 


独立発生=他元説


から抜粋


■吉本

『種の起源』を読んでみると、すべての生命が一ヶ所で発生して、そしてそれが全部空間的な分布と時間的な進化と、その両方で系統づけられると考えられています。

根本の考え方はそこから発していて、そこがいちばんの特徴のように思われますし、またいちばんの欠点のようにも思われるのです。

 

たとえば、地球上の一地域にだけ生命が発生する条件ができて、ほかの地域に類似の条件がなかったと考えることは科学的じゃないように思います。

確率統計論からいっても、どういう考え方を持ってきてもそうです。

たぶんそこが致命的なんじゃないか、またそこを疑わないかぎりは、ほかのことをいくら疑っても致し方ないんじゃないかと感ずるのですが。

 

■今西

いまおっしゃっているのはつまり事実の問題で、ダーウィンの進化論の問題ではないような気がする。

たとえば、32億年前の地球がどういう状態にあったかが、事実として明らかになれば、その中でどこがいちばん生物の発生に適当な場所であったかということも、おのずからわかってくるでしょう。

 

■吉本

つまり、この場合で言いますと、化石などからわかるのですか。

 

■今西

32億年前の化石はありませんけれども、たとえば現在の地球を例にとってみたら、高分子的な有機物が生物に変わるというような化学変化は、ある程度の高温度が要求されたのではないでしょうか。

そこで、地球上に極と赤道というものが32億年前でもあったとします。

すると、そのときの地球の赤道の海で、あるいはその波打ちぎわあたりで最初の生物が発生した、と考えられないこともない。

 

■吉本

それはいえると思いますね。

 

■今西

また、赤道といっても地球をぐるっと取り巻いているでしょう。

その赤道のすべてで、すべて同一の生物が発生したと考えるのも一つの考え方かも知れぬけれども、東の方と西の方では別々の種類が発生したと考えてたっていいんです。

一種類やったか数種類やったかというようなことは、いまのところまだお預けにしとかならんやろね。

 

■吉本

お預けにせんならぬということだったらわかるような気がするんです。

ダーウィンのこの考え方はとてつもない考え方のようにぼくには思えますね。

 

■今西

おっしゃることが、ちょっとよくわからんのですけれども。

ダーウィンの考え方は、当時有力だった伝播説に立っているというだけで、そうおかしいところはありませんよ。


一箇所から生命が発生って無理あるだろうという


吉本さんに対して、そこはそう目くじらたてんでも、他にポイントあるんやから、っていうのか今西先生。


でも、生物学的素人の自分も吉本先生のこだわりはなんとなくわかる気がする。


■吉本

第十三章の「生物の相互類縁。形態学。発生学。痕跡器官。」のところで、由来は胚の構造の共通性をいうので、成長した生体がどれだけ違っているかとは関係ないんだといっています。

それはそのとおりになりますね。

 

■今西

さっきも同じような問題が出されましたね。

由来というのは進化の道すじといっても良いし、系統といっても良いけれど、たとえば、人類とゴリラとは、千数百万年前に共通の祖先から分かれ、別々の道をたどって、一方は人類になり、他方はゴリラになった。

これが由来です。

 

いまでも系統と類縁関係をゴッチャにしてーー類縁関係からいえばゴリラやチンパンジーが人類にいちばん近いーーそのうちに現存のゴリラが人類に進化するような錯覚を起こしている人が、ないとも限らない。


40年前、小学校の時の担任が、


動物園の猿は進化しても人間にならないんだよ、


と言ってたのを思い出す。


ダーウィンや進化論を主とした対話では、


当然だけど今西先生の独断場で


吉本先生は完全に聞き役なのだけど、しばらく後


マルクスとエンゲルスに話が及ぶと


立場逆転のようで面白い。


というかこの対談全般的に面白くて興味深い。


 


第二章 今西進化論


実験室の還元主義について


から抜粋


■今西

たとえば起源なんていうことは、実験室ではわからへんですよ。

進化を実験室で明らかにできるかということですね。

実験室ではプロセスがわかるだけで、これはハウツーですよ。

我々が大学へはいった頃から、すでにそういう徴候が顕著でして、自然科学というものは、ホワイ(Why)を研究する学問じゃなくて、ハウ(How)を研究する学問だというてる人がありました。

 

それでプロセスがわかり、ハウがわかったら、ホワイは分からなくても、今後は人工的にモデルをつくるとか、あるいは工業生産に直結さすことができるとか、いうことになりますね。

よいか悪いかは別として、いまの自然科学は、そういうことに手をかしていますね。

 

そして、そういうことがやっぱりさっきいった、いまの自然科学の還元主義と結びついているのや。

恐ろしいことには、分子生物学でいろいろなことがわかってくると、早速遺伝子の操作とかそういうことを考えたがる。

これは一種の遺伝子工学ですな。

 

それができたからといって、遺伝子はいつどうしてできたかとか、生物はどうして定向進化するのかというようなことは、なにもわかってこないかも知れない。

いまの自然科学はもっと根本から批判されてもええのないか。

 

■吉本

実験室条件というのは自然条件とはまた質が違うということですね。

 

■今西

私がアメリカでサルを材料にしている実験室を訪問したとき、手足をしばられて実験台に上げられおったサルが口をパクパクさせているのや。

なにかいいたくて、それで訴えてとるのやね。

それは、こんなに苦しめされているのは耐えられないから、どうか解放してくれというているように、私には受け取れた。

そしたら案内してくれている人にも、情況がわかったんでしょうか、

「君にみたいにフィールドの仕事ばかりしている人は、こういうところを見たくないでしょうね」

といってくれた。


科学の闇の部分を指摘される今西先生。


科学者とそれを利用する人間のモラルについては


利根川博士も指摘されていたと記憶しております。


柳澤桂子先生もモラルの低下を危惧され僭越ながら


このブログで何度も書かせていただき大変恐縮です。


 


第三章 マルクスとエンゲルス


動物と人間


から抜粋


■今西

エンゲルスの著書に、『家族・私有財産及び国家の起源』というのがあって、広く読まれていますね。

そこで、この本の中に述べられていることと、私の理論とはどこが一致しておってどこが違うのか。

できたら、吉本さんからかなり突っ込んだところを聞いていただくと、面白いと思う思うんですが。

 

■吉本

エンゲルスの基本的な考え方はどこにあるかといいますと、人間も生物だが、他の生物とどこが違うかといえば、人間は自己意識を持った生物だということだと思います。

だから、人間の社会というものの現在、過去、未来を考える場合、生物としての人間は、いわば自然の流れの中で、それなりに進化したりしなかったり、種として停滞したりするだろうということが一つです。

 

さらに自己意識をもった生物であるということから、人間だけが人間社会というのを作っている。

つまり、生物としての人間というものの流れの歴史の上に、人間の自己意識の所産が作り上げた人間社会というものを構成している。

そこのところが人間が他の生物と違うところだというのが基本点だと思います。

 

そしてもう一つは、人間社会というものをどういうところでつかまえれば、あたうかぎり科学的につかまえられるかと考えると、経済社会構成というものを基本に見れば、いちばんいいだろうというのがーーーこれはマルクスの考え方でもありますけれどもーーーエンゲルスの考え方だと思います。


さらにもう一つエンゲルスの考え方の特徴は、人間は自己意識の自己展開としての精神の世界というものを、過去から未来にわたって生み出しつつある。

そしてそれはいってみれば、書物とか印刷物とかに現れない限りは目に見えない、一つの文化を構成しており、それは人間がつくっている人間社会の構成の上層にあるものだ。

 

エンゲルスは「上部構造」という言葉を使っていますけれども、上層にある構造だといっています。

だから、人間社会の現状および過去、未来をはかる場合には、その三つを考えなくちゃいけない。

つまり生物としての人間の歴史というものと、人間だけが固有につくっている人間社会の構成、さらにその上に、人間が自己意識を持っているために生み出された精神の文化というもの、その三つを考察しなければならないというのが、エンゲルスの考え方のいちばん基本にある点だ、というふうにぼくは理解します。

 

それに対して今西さんのお考えというのは、たとえばいま私が申し上げたことのどこに該当するわけでしょうか。


■今西

いちばん問題は、マルクスもエンゲルスもダーウィンよりちょっと新しい人で、いずれにしても19世紀の考え方に立脚している、ということですね。

その後百年以上たって、そのあいだにずいぶん科学が進歩したんです。

 

それを一つも踏まえずに、いまだに、マルクス、エンゲルスというて、そのままのものを受け継がれているのは、ちょうどダーウィンが百年前に、ダーウィン的な自然淘汰論を出して、それがそのまま受け継がれているのと同じである。

そういう点では全く現在にマッチしない理論が生きているというので、そこが非常におかしいんですよ。

 

エンゲルスの考えの三つの点をおっしゃいましたけれども、その中でいちばんの問題は、自己意識を持っているのは人間だけである、ということです。

これは独断なんです。

動物は自己意識を持っていないということを前提にしているわけでしょう、人間だけが持っているといえば。


■吉本

それはぼくの言い方が悪いだけで、エンゲルスの理解によれば、自己意識を持っているという意味合いは、違う対応概念、つまり精神文化の問題で言いますと、概念の表現である文節化された言葉というものを持っている。

しかも言葉を持っているというだけじゃなくて、言葉の展開を軸にした文化をつくっているということです。

そういうところが違うと思います。


■今西

進化というのは一つの歴史であって、言葉を使うとか道具をつかうとかいうことが、突然に起こるんでなくて、進化の結果として起こってくるわけです。

だからそれらがどの時点で発生したかということを知るためには、サルの時代から現代人までのあいだを一度つないでみることが必要なんですね。

ところが、そういうことが、十九世紀では行われておらぬのです。

当時は人間と言ったら、すぐ十九世紀の人間をそのままもってきて、それをサルなり他の動物と比較している。

その間の移りゆきはとばしている。

 

■吉本

それもたとえばエンゲルスはエンゲルスなりに、「サルの人間化における労働の役割」という論文で一応やっております。

 

■今西

やってますけれど、それは頭の中で考えたことであって、裏づける事実というものはもっておらなかった。

そこがわれわれから言いますと、科学的でないということです。

これはエンゲルスやマルクスの責任でなくて、ヨーロッパの思想というものは、一応人間とほかの動物とを切るんです。

動物といいましても、チョウやトンボを例にとれば、ある程度は人間と切れていますね。

しかし、動物はチョウやトンボばかりではない。

 

たとえば、われわれに血のつながりからいうていちばん近いのは類人猿です。

ゴリラとかチンパンジーとかですね。

これらの動物の生態あるいは社会生活というようなものは、ここ二十年くらいの間にわかってきたんです。

その知識に照らしてみると、当時の人のいったことには、当たっているところもある代わりに、また全然当たっておらぬこともある。


近代的知性について


から抜粋


■今西

ここで近代的人間の特徴を考えてみます。

人間とは意識があるゆえに動物でなくて人間なのだ、といいだしたのも近代的人間ですが、その意識尊重をさらに拡大して、理性万能というところへ持ってくるんですね、カントをはじめ、西洋哲学はみなこの傾向がある。


その点からいえば、資本主義社会であろうと、社会主義社会であろうと、みな同じ過ちを冒し、同じ行き過ぎにおちいっているのやないかと思うんです。

そしてこれを救うものは、政府でも文部省でもない

そうではなくて、一人一人の人間が、こういう社会では息苦しいとか、味気ないとかいう気持ちになってきますと、自然に変わっていくのじゃないですか。

さきごろ、中根千枝さんの本を読んだら、日本の社会は軟体動物やと書いてありました。

つまり、上からの指図とか、理性的な計画とかいうものによるものでなくて、自然に変わるということでしょう。

あるいは変わるべくして変わるということでしょう。

そういう軟体動物的な日本の良さが、そのうち次第に世界へ広がるのやないか


■吉本

今西さんの自然観というのは、19世紀人でいうと、ニーチェの考え方とともて似てるんじゃないかという気がするんです。

ニーチェは、生物的自然状態というのを含むのが最上の状態なんだと。

また思想というものも、屋外つまり自然の中を歩いていて、その歩いているリズムを実現してないような思想はだめなんだという考え方です。

だから、ヘーゲルというのはだめなんだと、ニーチェは口をきわめてヘーゲルを否定していますね。

ヘーゲルは逆に、自然状態に放置しておいたら、人間というのは強い奴はいくらでも強くなって、かならず不公正、不平等、あらゆることが起こる。

だから、それを理性と悟性で持ってカバーして、そして人間固有の社会を作っていくのが理想的なんだという考え方です。

 

また、エンゲルスというのはそうじゃなくて、生物状態がいいとはいわないんだけれども、原始状態がいいと入っておりますね。

「原始共産制」という言葉を使っているけど、国家以前の人類の状態、つまり新石器時代以前の人間の状態というものがいちばん理想的なんだ。

つまり生産手段を共有しておいて、それを分ける。

その分けるのも平等に分ける、こういうのが理想的なんだと考えています。

 

そして人間の歴史は一路堕落の道を走っていく。

とくにエンゲルス時代、19世紀の資本主義の無意識的な興隆は、もっとも堕落した状態だというのがエンゲルスの考え方です。

そこで、理想の社会としてエンゲルスが描いていたのは、原始共産制時代、つまり国家以前の国家、共同体以前の共同体です。


ニーチェはむしろ動物状態が理想だというふうに考えています。

ヘーゲルは、だんだん人間の観念が高度になってきて、国家を編み出し、法律を編み出し、宗教をつくり、そしてもっと高度な観念、絶対観念みたいなものを編み出していく中で、人間社会の理想を遂げていくという考え方を徹頭徹尾持っています。

 

しかしこれらの基本にあるものは、自然あるいは自然状態というもののどこに理想の原型を置くかで違ってくるような気がするんです。

ぼくは、いまの資本主義社会も社会主義社会も理想だとはちっとも思えないということでは全く同じなんです。

 

ただぼくは、理想の可能性も論理の可能性も、人間の知恵の可能性というのも、ちっとも絶対的ではないが、より良くなるだろう、あるいは、していくということはなんとなくあきらめがたいもののように思います。


■今西

ルソーも「自然に還れ」といいましたね。

キリスト教はよくわからんけれども、原罪とか最後の審判とかいうものが出てきますね。


吉本先生の言葉って平素でわかりやすいが


とてつもなく深い。何度も読みたくなるのです。


今西先生ご指摘の日本社会論なのか


中根千枝さんの書籍、読んでみたい。


吉本先生のニーチェの解釈


生物的自然状態というのを含むのが最上の状態」って


そんなことを言う人と思えなくて新鮮。


超人思想、永劫回帰ばかり目立つので。


余談だけれど、この書籍、最後に纏まっている


編集部作の注釈がわかりやすくて良いです。


『種の起源』について概要説明があっての


今西論の説明がわかりやすい、というのと


なぜこの二人の対談なのかも明確になった。


ダーウィンのこのセオリーにたいして、変異への着眼において個体主義に陥り、それに実証できない「自然選択」を結びつけたもので、それゆえダーウィンの進化論はドグマ(独断)に過ぎない

ーーーこれが今西氏のダーウィニズム批判の核をなすと言える。

今西進化論は、まず事実とセオリーは別にすべきだとしたうえで、種社会のレベルで進化をとらえるところに特徴がある。

ダーウィニズムはもとより、「進化」論をも超えて「社会」論へとすすむ性格をもつことは、本文でも十分うかがえる。


今西先生の理論って映像の方が


圧倒的にわかやすいのでご興味ある方は


こちらをどうぞ


って自分があるんだろう!って話ですな。


 


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2冊のゴッホの手紙から懐古する [’23年以前の”新旧の価値観”]

硲(はざま)伊之助さん版と


二見史郎圀府寺(こうでら)司さん版の


二つの翻訳本を一部抜粋し比べてみた。


 


比較した手紙は


第500信(1888年6月5日ごろ、ゴッホ亡くなる3年前)


 


(A)ゴッホの手紙 中:硲伊之助訳(1961年)


(B)ファン・ゴッホの手紙【新装版】: 二見史郎・圀府寺司訳(2017年)


 


(A)


親愛なるテオ

親切な手紙と同封の50フラン札とを有難う。

どっちみちゴーガンに手紙を書くとしよう。

旅行が厄介で悩みの種だ。

約束して後で都合が悪くなったら、困ってしまう。

今日ゴーガンに手紙を書いて、それを君に送ろう。

ここの海を見てきたいま、南仏に滞在するであることの意義を切実に感じる。

もっと色を強烈に使わなければーーーアフリカは近いのだ。


(B)


親愛なるテオ

親切な手紙と同封の50フラン紙幣をありがとう。

やはりゴーガンには手紙を書かねばなるまい。

厄介なのはいまいましい旅行の件だ。

彼に旅行を勧めた場合、あとになってそれが彼の気に入らなかったら、悪くとられるかもしれない。

僕は今日彼に手紙を書こうと思っている。

その手紙は君に送るとしよう。

 

ここの海を見た今、僕は南仏にとどまることが、また、もっと色彩の誇張を要するとあらば、アフリカも遠くないのだと感ずることが全く重要だと痛感している。


(A)


ドルトレヒトの馬鹿者たちの図々しさをみたか。

自惚れてるじゃないか。

誰一人見たこともないドガやピサロの作品まで欲しいらしいじゃないか、他の人のは別にしても。

でも若い連中が熱狂するのはよい傾向だ、おそらく誰か年寄りが勧めたのだろう。


(B)


君はあのドルドレヒトのあの馬鹿どもの厚かましさを見たかね。

あの思い上がりを見たかね。

彼らは、ほかの人たちについてもそうだが、まだ会ったこともないドガやピサロと対等につき合って下さるというのだから、ただ、あの若い連中がいきり立っているのはいい兆候だ。

それは多分作品をほめた年長者たちがいたのだろう。


(A)


たとえ物価が高くても南仏に滞在したいわけは、次の通りである。

日本の絵が大好きで、その影響を受け、それはすべての印象派画家たちにも共通なのに、日本へ行こうとしないーーーつまり、日本に似ているときは南仏に。

決論として、新しい芸術の将来は南仏にあるようだ。

しかし、一人でいるのはまずい、2、3人で互いに助け合った方が安く生活できる。

君が当地にしばらく滞在できるとうれしい、君はそれをすぐ感じとり、ものの見方が変わって、もっと日本的な眼でものをみたり、色彩も違って感じるようになる。

長い期間滞在するとすれば、確かに自分の性格も変わってしまうだろう。

日本人は素描するのが速い、非常に速い、まるで稲妻のようだ、それは神経がこまかく、感覚が素直なためだ。


(B)


たとえよそより高くつくとしても、南仏にとどまろうというのはーーーねえ、そうだろう、みんな日本の絵が好きで、その影響を受けているーーーこれは印象派画家ならみんな同じこと、それなのに日本へ、つまり日本の相当する南仏へ行こうとしないだろうか。

だから、なんといっても未来の芸術はやはり南仏にあると僕は思う。

ただ、二人もしくは三人で助け合って安く暮らせるのに、一人でここに住むのはまずいやり方だ。

君がここでしばらく過ごすといいのだが、そうすれば、このことがよくわかるだろう。

しばらくすると見え方が変わり、もっと日本的な目で見るようになり、色も違った感じがしてくる。

また、僕はここに長く滞在することによってまさしく自分の個性が引き出されてくるだろうという確信を持っている。

日本人は素早く、稲妻のように実に素早く素描する。

それはその神経がいっそう素朴だということだ。


お二人の「あとがき」的なところも引かせていただきます。


あとがき

硲伊之助

(1961年)

ゴッホの手紙…中と下…は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホから弟のテオドルへ宛てた手紙を訳すことにした。

この非常に仲のいい兄弟が取り交わした手紙の数は厖大なもので、文庫に入れる関係上、適当に取捨する必要があった。それで本書は、兄が弟を訪ねて突如パリに現れた時から、アルルで画室を整備してゴーガンが来るのを待っている時期までを纏めてみた。

下巻の方は、引き続いてゴーガンとの共同生活とその破綻から、最後の日々までの書簡を訳す予定になっている。

 

なお、上巻が出版されてからこの中身がでるまでに、長い時日を費やしてしまい、読者諸君と岩波書店には大変ご迷惑をおかけしてしまった点については、衷心からお詫び申し上げます。


硲伊之助先生は忙しかったのだろうね、陶芸の方で。


芸術家視線での言葉なので読んでて馴染みやすい気がした。


続きまして二見先生。


編者あとがき

二見史郎(2001年) から抜粋

 

これまで「神格化」されてきたファン・ゴッホの伝記を修正する研究が近年発表されてきている。

父親がフィンセントを精神病院に入れようとした「ヘール事件」そのほか、これまで伏せられてきた文章は公刊されてこの選集にも入れられている。

テオについての出版物も兄弟の往復書簡への手がかりを与えている。


売れない画家の兄は弟に依存したが、弟は兄の仕事を共同で進めるという一体感を強めていくーーーあつれきと感謝、不満と感動を縒(よ)り合わせる絆の物語がこの書簡集である。

これほど自分の気持ちをさらけだす文章はめったにない。


社会のしきたりと型にはまらないフィンセントは親を困らせた。

彼が描く木の根は人間の根につながる。

彼の根元(ラディカル)志向は人間が自然に寄生して生き、やがて土と化してゆく現実をまっとうなこととして受け入れる。


セザンヌもゴーガンも自然と都市文明の落差を敏感に意識したことでファン・ゴッホと共通するだろうが、日々の仕事、自然から受ける感動、女性や貧しく、恵まれぬ人びとやすぐれた人物の仕事への関心などを長文で語る目録さながらのフィンセントの書簡集はドキュメントとして、また記録文学として抜群の価値を持っていると思う。

 

 

また彼が浮世絵に強い関心を抱いたことだけでなく、一莖の草から宇宙に及ぶ自然への没入が日本の芸術家に見られるとして、その賢者を理想と考える面でも日本の読者はフィンセントになお深い親近感を覚えるのではないだろうか。


二見先生(圀府寺先生)版は


比較的最近出たため言葉が近い感じがして


ゴッホ・テオ以外、ゴーガンの書簡・素描や他の方の手紙もあり


有名な精神病院収監事件は


アルル在住民の請願書が残っているのを


池田満寿夫先生が30年くらい前、解説されていたので


知っていたけど父親もプッシュしていたとは。


その時の番組で手紙を朗読していたのは山崎努さんで


なぜかエンディング曲がストーンズだった。


 


結論、翻訳文としては自分はどちらも甲乙つけがたいが


新しさと、網羅的な資料価値という意味で


二見さんのものを推す感じでございます。


ただ重いのだよね、分厚くて。


 


余談だけど、自分が高校生の将来を考えるころ


絵が好きだったので


という単純な理由で画家になりたいと思ったりした。


そんな頃だったか父親の仕事場を見る機会があり、


プロダクトデザイナーを雇い入れていたのだろう


そのデザイナーの机を見せてもらった。


当時父親はウォークマンの類似品を


企画・設計・卸業・販売をしていた。


プロダクトは自分には向いてないと感じたが


デザインという仕事があることを身近に知った。


 


その後、グラフィックの道を探ることになった。


デザインの専門学校に通うことになり、時を合わせ


高校の先生からデッサンを勉強しろと言われ


美術部の先生にマンツーでデッサンの指導を


放課後卒業までの1−2ヶ月間してもらった。


絵で食べていくのは難しいぞ、と言われた。


その先生は確か銅版画家だった。


デザイナーを目指しつつ


画家になりたいと思ったのか


そんな話をしていた。


 


なんていうことを読書してブログを書いてて


ふと思い出してしまった次第でございます。


 


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2冊のオードリー・タン氏の言葉からデジタルを考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

過日、NHKで落合陽一氏と対談されていた


台湾のオードリー・タンさん。


台湾をデジタルで引っ張る姿に


興味あり2冊読んでみた。


(1)


私たちはどう生きるか コロナ後の世界を語る2 (朝日新書)

私たちはどう生きるか コロナ後の世界を語る2 (朝日新書)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2021/08/12
  • メディア: Kindle版


マルクス・ガブリエル、パオロ・ジョルダーノ、その他


第2章 分断を超えて


■オードリー・タン(台湾デジタル政務委員)


《 対立より対話で共通の価値観を見つけ


 憎悪の広がり回避を 》


日本との違いは から抜粋


 


 日本がマイナカードへの理解が


 遅れているのは個人情報保護の観点が


 クリアにならないからといわれるが


 日本よりも統制のとれている


 台湾ではどのようにしているのか、


 についての回答


個人情報をめぐる不安を払拭するには二つのことが重要です。

まず、誰がどんな時にカードにデータを書き込め、読み取れるのかを法制化することです。

例えば法律で許可されていない保険会社が読み取ることは違法です。

 

二つ目は、誰が内容を読み取ったのかを記録することです。

後で問題が起きた時、刑事責任を追及するのにも役立ちます。

台湾ではネット上で、自分の健康保険カードに誰がデータを書き込み、読み取ったのかを調べられます。

医師の診断内容だけでなく、X線やCT撮影の写真も見られます。

このシステムは官民の信頼を増すのに役立っていると思います。


 デジタル化の理想とは、


 についての回答


誰でもブロードバンドに接続できるようにすること。

社会や産業の革新を促し、議論の場を設けること。

利害が異なる各界の人との議論を通じ、共通の価値観を見いだせる統治方法をみつけること。

これまで政策決定に関与してこなかった人々や、デジタル技術を使うのが苦手な年配者、地方在住者や若者を巻き込むことの四つです。

デジタル環境を確実にして利用権を保護したうえで、社会の革新を促す。

官民で統治の規則を作り、将来世代を含む様々な人々が意見を述べ、、行政から説明を聞くことができるシステムです。


日本の場合、どうしても既得権益が邪魔をするような構造で


タンさんの言うようにはいかないのだよなあと。


だからこそ、「対立」でなく「対話」をと提言される。


インフォデミックを回避するには


から抜粋


デジタル技術が人々を結びつけた時、意見の相違から憎悪が生じることがあります。

言語の自由が保障された社会で、この傾向は顕著でしょう。

新型コロナウィルスのパンデミック(世界的流行)になぞらえ、インフォでミックと呼びます。

ウィルスのように感染していき、意見の異なる相手を人としてみなさなくなる。


大きな革新が次の革新を妨げかねないことです。

私は情報の集権化と呼んでいます。

行政機関や多国籍企業などに権力が集中してしまい、革新を試みるためにはそれから承認を得なければならなくなる状態です。


 それは解決できるのか、


 の回答


全社会の取り組みが必要です。

一つ目の課題で言えば、すでに多くの人々が自ら情報を発信するメディア的存在ですが、彼らは職業記者のような情報源の確認や複数情報の照合をしていません。

未確認情報が散布されています。

手を洗ってマスクをするのと同じく、人々が自らを守ためにメディアリテラシー(情報を見極める力)を向上させる必要があります

また二つ目については、人々が今より物事の決定権を持てるような革新でないとダメです。

人々に特定の価値観を押し付けるようなものでなく、説明責任も伴う革新であることが重要です。


こういう事を日本の政治家が言う姿が想像できないのだよねえ、残念ながら。


続いて2冊目でございます。


(2)


Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔 (文春文庫)

Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔 (文春文庫)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2022/08/03
  • メディア: Kindle版


はじめに から抜粋


私は政府のためではなく、政府とともに働いているのです。

人々のためではなく、人々と共に働いているのです。

チャンネルのひとつに過ぎない私が、政府のあり方に過激なまでの透明性を持たせることで、みんなは政府がどのように運営されているのかを知り、参加したり、意見を述べたりする方法を知って、政府への請願もできるようになるのです。


Q&A 唐鳳召喚 オードリーに聞いてみよう!


About Episode 7 : 未来の世界を想像する


から抜粋


日本ではネットでの誹謗中傷が問題になっていて


両刀の剣ではないかと言われるが、


についての回答。


ネットに対する私の基本的な考えでは、参加者数を減らして選ばれたメンバーだけを受け入れるような形態にすれば、それは結局ラジオを聴いたり、テレビを見たりするのと変わらないことになるので、インターネット本来の機能は果たせず、意味もなくなると思います。

 

大事なことは、情報のダウンロードとアップロードのバランスなのです。

ネットコミュニティからのダウンロードに対し、アップロードが多ければ多いほど、自分がインターネット上の「市民」であると感じられます。

 

逆に、何かあればすぐに情報を受け取るだけで、自分にとって何が必要かを判断できなかったり、「何をしてもどうせ意味がない」と、社会に対する無力感に支配されてしまったりすれば、それはどちらも受け身の状態です。


簡単に言えば、クリエイティブであれ、ということです。

クリエイティブであれば、いつも自分のアイデアについて考えていなければならず、もう他人の意見を「ダウンロード」して時間を浪費する必要はなくなります

 

何であれ、過剰なことは良いことではありません

情報の受け取りすぎは良くないので、すべては適切な量があればいいんです。


なかなかシビれます。


今を生きる最先端の人の意見というか。


天才というよりも、時代の寵児っていう印象の方が強い。


 


オードリー・タンが選んだ、人生で最も影響を受けた本


<日本語版>

老子』金谷治著(不明年)

論理哲学論考』ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著・丘沢静也訳(1921年)

哲学探究』ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著・丘沢静也訳(1953年)

真理と方法I<新装版>哲学的解釈学の要綱』ハンス・ゲオルク・ガダマー著・轡田收・他訳(1960年)

世界史の構造』柄谷行人著(2010年)

詩経』目加田誠著(不明年)

ファウンデーションの彼方へ』アイザック・アシモフ著・岡部宏之訳(1983年)

はてしない物語』ミヒャエル・エンデ著・佐藤真理子訳(1982年)

新版シルマリルの物語』JRR・トルーキン著・田中明子訳(2003年)

フィネガンズ・ウェイク』ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀訳

ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』エリック・A・ポズナー、E・グレン・ワイル著

遠藤真美訳・安田洋祐監訳

ジャーゴンファイル』Raphael Finkeil 著


バリバリのプログラマであり


俗にいう”Parl使い”の方であるため


思考法が”分岐”や”IF構文”というのもあるからか


忖度なく政治を行えているのかと


勝手に推測の上、感じた。


 


ちなみに落合陽一さんもプログラマなので


そこらで気が合うというのもあるのかも。


 


影響受けた本の中では


『ラディカル・マーケット』を読んでみたい!と思った。


 


ミヒャエル・エンデは『モモ』じゃないものを


選んだというのが気になった。


 


あとは『老子』以外知らなくて


これは良いテーマをいただきました。


どれも面白そうでございます。


 


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生態学の2冊から伊藤嘉昭先生を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

まったく自分の柄ではない領域だけど


昨今、進化系の書籍を読んでて


更に養老先生からの岸由二先生の書からの


伊藤先生を知り興味出てきて


勢いで関連書籍2冊を読んでみた。


  1冊目  

動物たちの生き残り戦略 (NHKブックス)

動物たちの生き残り戦略 (NHKブックス)

  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2023/06/25
  • メディア: 単行本

伊藤嘉昭・藤崎憲治・齊藤隆共著

はじめに 


1990年 著者一同


から抜粋


日本やアメリカの「グルメブーム」やカロリーのとりすぎの一方で、アフリカ、アジア、ラテンアメリカではいまも何百万人もの子供達が飢えて死んでいく。

この厳しい食糧事情をさらに悪化させたのが、1988年アフリカに起こった、サバクトビバッタ(飛蝗)の大発生である。

読者もテレビでその壮絶な光景を見たことがあろう。

動物の発生はなぜ起こるか?

これは「個体群生態学」という生態学の一分野の大きな課題のひとつである。

しかしこれを明らかにするには、動物の数の動態に関する徹底的な基礎研究が必要である。


著者の一人伊藤は、二十年前桐谷圭治氏と共著でこのNHKブックスの一冊として

動物の数は何できまるか』を出した。

旧著は野外における動物の数の動態を扱った本としては日本ではじめてのものだったと思うが、幸い何回も増刷でき、これを読んで個体群生態学に入ったという人も出てきた。

しかしこの分野でもその後の進歩は著しく、何年も前から完全な書き直しが必要になっていた。

たとえば同書のアメリカシロヒトリの生命表は、よく高校の教科書にも引用されるが、今日では成虫の羽化で打ち切られた生命表は、多くの場合、個体群動態の説明に不十分なことが常識である。


第三章 トビバッタの大発生


ーー相変異とその類似現象


から抜粋


読者の多くは、アフリカの大地で天を黒くして飛翔するバッタの大群を、テレビで見た記憶があるに違いない。

1988年11月28日のNHKニュース・トゥデイのトップニュースは

「サハラでバッタ異常発生、西半球移動中」であった。

なんともスケールが大きく嘘のような話であるが、これは事実であった。

アフリカ、サハラの半砂漠地帯(サヘル地帯)で大発生したバッタは、その一部が大西洋を超えてカリブ海諸島にまで到達したのである。

このようなバッタの大発生は、古くは旧約聖書の「出エジプト記」にも描かれているし、パール・バックの有名な小説『大地』のなかでも「イナゴ」の大群が飛来して、またたく間に田畑を食い尽くしてしまう状況が描写されている。

バッタの仲間はきわめて古くから現在に至るまで、大発生を世界の各地でくり返し、そのたびに農作物に対して甚大な被害を与え続けていきたのである。


8  日本におけるトビバッタ類の大発生と研究


日本でのトノサマバッタの大発生


から抜粋


日本でも昭和のはじめまでは、トビバッタの大発生と群飛がたびたび起こっている。

徳川時代の文人、大田南畝(おおたなんぽ)・(蜀山人・しょくさんじん)の文章に出てくる「螽(音読み=シュウ、 訓読み=いなご、きりぎりす、はたおりむし)」とは、トノサマバッタのことで、これは1771年の大発生を指したものであった。

これ以前にも1717年、1730年、1770年などに発生した記録がある(長谷川仁氏の調査による)。

明治に入ってからは、1878(明治11)年、1887〜88(明治20〜21年)、1898〜99(明治31〜32)年に千葉県で大発生したほか、1880〜84(明治13〜17)年から1928〜30(昭和3〜5)年まで計4回にわたって、北海道で大規模な発生と群飛が観察されている。


しかし、このような大発生は、後述する南西諸島におけるケースを除くと日本では起こらなくなったし、将来ともその可能性は低い。

かつての日本のトノサマバッタの大発生は、大きな川の下流の、しばしば水をかぶる広大な草原が旱魃に見舞われた時に起こったものであるが、開拓と治水の進歩は、日本からこのような広大な河口草原を消滅させてしまったからである。


第六章 まとめと追記


ーー生態学と人生


種間競争はあるか


から抜粋


個体群の動態における餌と天敵の問題については、不十分ながら取り上げてきた。

しかし、動物は近縁の種にとり囲まれていることも多く、そこでは種間の競争が起こりうる。

これは生物の群集を考えるときに避けて通れない問題であるし、応用にも深い関連を持っている。

たとえば、外国から侵入した害虫の防除のために原産地から天敵だけを選りすぐって導入するのと、できるだけ多くの種を導入するのと、どちらが良いか?

種間競争が重要なら前者の方が良いだろうが、そうでなければ後者の方が良いかもしれない。

しかし、種間競争の証明は難しい。

たとえば、戦後、本州の大都市周辺では、ヨーロッパ原産のセイヨウタンポポが増え、在来のニホンタンポポ(実際は地方によって数種に分けられるが)と入れ替わってしまった。

しかし、この原因は二種の競争かもしれないし、単にセイヨウタンポポがニホンタンポポより、大気汚染や環境破壊に強いためなのかもしれない(後者であれば、セイヨウタンポポが侵入しなくても、ニホンタンポポは都市からいなくなってしまっただろう)。

今西錦司氏は、種間競争は全く存在せず、種間のすみわけはそれぞれの種の性質によって生じたものだ、とくり返し主張している(『ダーウィン論』中央新書、1977年など)。


なんであんな多くの樹種が?


から抜粋


熱帯雨林は、なんであんなに多くの種の木が生えているのだろう?

植物は、太陽光線と二酸化炭素と水と少数の無機栄養に、大部分依存している。

いくら光線と水が豊富だといっても、すこしの種の木がうんと個体数を増やしても良さそうなのに、なんで何百種もの木が一緒に生えるのか?

長いこと熱帯雨林は、生物の種と個体数が、ともに飽和してしまった系だと考えられてきたが、それならば内部には激しい種間競争があるだろう。

では、なぜ弱い種が滅んで強い種だけにならないのか?

以前の説明は、降雨林では捕食動物がたくさんいて、植物同士の種間競争が起きないぐらい低い密度に抑えられていること、種間競争によって、親樹の下に稚樹が育ちにくいことなどの結果、多種の木の共存が維持されているというものであった。


最近の議論は、これとだいぶ違ってきている。

熱帯降雨林内やサンゴ礁海域の常設研究所で、何年も続けて研究してきた人達によって、これらの生態系は、決して完成し、生物が飽和した系でなくて、倒木や台風などによる、部分的な破壊と再生がたえず起こっている動的な系であり、そこでは競争はあっても、弱い種の排除には至らないといわれてきている。

この説の証拠は決して十分とはいえないが、新しい角度でたくさんの研究が行われる契機になりそうである。

もちろんこれは、こうした生態系の大規模な破壊を許す理由にはならない。

この説では、この動的なあり方そのものが、これらの系を極度にデリケートなものとしているのである。


これらのことは、日本では全くといって良いほど研究されていない。

それが、この本を個体群の話にしぼった理由のひとつであるが、その個体群の研究さえ、むしろ日本では先細り気味で、生態学の大変革に対応して強く進められているとはとてもいえない。

まして、日本が大きな責任を負っている熱帯降雨林問題などの基礎となるべき研究分野は、大幅に立ち後れているのである。

これではいくら地球環境問題の重視を叫んでも、口先だけのことになりそうだ。

人間が生存を続けられる地球を保持するために不可欠な生態学の強化を、どのようにして達成するか。

このことを真剣に考えねばならぬときがきている。


このほか、興味深かったのは、


第二章 集団と個


ーー野ネズミの社会


2 現象の意味


から、野ネズミの「子殺し」が起こる説が4つあるという。


(1)個体群密度の調整

(2)食不足を補う

(3)親による操作

(4)乗っ取りオスの適応度が増すことによって進化した


とされるが、そのどれもが決め手に


欠けてまだ不明だということだった。


2023年現在はもっと追及されているかもしれない。


 


書籍名の『動物たちの生き残り戦略』の


”動物”ってのは人類のことも”動物”の種として


指しておられるのだろうと感じた。


  2冊目  

農薬なしで害虫とたたかう (岩波ジュニア新書)


農薬なしで害虫とたたかう (岩波ジュニア新書)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/01/25
  • メディア: 新書

第一章 殺虫剤万能からの脱出


まえがきにかえて


から抜粋


この本で私たちは、戦争前に南方から沖縄県に侵入して定着し、大害虫となったウリミバエを

不妊中放飼法(ふにんちゅうほうしほう)」

という農薬を使わない方法で根絶した経験を紹介します。


じつはこの方法は、アメリカ農務省研究部のE・F・ニップリング博士の考案で、私たちの独創ではありません。

しかしこの方法が成功したのは1963年までで、そのあと世界各地で何十回も試されながら十数年成功例が一つもありませんでした。

私たちが成功するには、他の国で使わなかった新しい方法を自分たちでいくつも考えだして使わねばならなかったのです。

この過程をお話ししたいのが第一点。

ところでこの仕事は、東大や京大のような有名大学を出たのでない人たちが、夢中で独学でやり遂げました。

そのあいだの苦労や失敗を含めて「私記」のかたちとし、学歴偏重の日本で、こういう”頑張り方”のあることもお話ししたいというのが第二点です。


環境ホルモンの脅威


から抜粋


最近「環境ホルモン」という言葉が、新聞やテレビでも使われています。

ヨーロッパやアメリカで魚のオスの精巣が萎縮していたり、それを食べている鳥類に性行動の異常が見られたりしたことから、人間男性の精子の数が調べられ、デンマークで精液中のの精子すうが1940年には1ミリリットル当たり1億以上だったのが、1992年には平均6600万まで減ったことがわかりました。

アメリカでも調査がおこなわれ、女性で乳がんにかかる率が増加していることもわかりました。

日本でも多摩川の魚の生殖器に異常が見つかりました(オスのコイで精子がほとんどない個体が30%。雄雌同体の個体も発見された)。


さて、こうなると、どうしても殺虫剤の使用を減らさねばなりません。

しかしそれは、容易なことではないのです。


国や県の試験場のなかでの、農薬偏重への抵抗


から抜粋


日本農業の”農薬一辺倒”時代は、終戦直後アメリカ占領軍から、それまで日本人が知らなかった新しい塩素系殺虫剤DDTBHCを使うよういわれたときに始まりました。

これらの殺虫力はすごく、農家はびっくりしました。

ついでに有機リン殺虫剤(いまは禁止されたパラチオンや、いまも使われているスミチオンなど)も登場します。

そして「害虫防除といえば農薬散布」という時代が始まったのです。

1950年代、60年代に国や都道府県の「農事試験場」の害虫担当職員の大部分の仕事は、殺虫剤の散布試験でした。


食べ物から身体に入ってゆっくりと人体を害する慢性の毒があり、しかも土の中などに長く「残留」する塩素系殺虫剤が大問題だということがわかったのは、1962年にレーチェル・カーソンという人が書いた『沈黙の春』という本が出てからのことです。

この問題と取り組み、塩素系殺虫剤の早期禁止を訴えたのは、農業技術研究所の人たちや高知県立の試験場の人たちでした。

農業技術研究所の金沢純博士は、自分で釣ってきた東京湾の魚にはまわりの海水の何百倍もの濃さの農薬が入っていることを発表します。

魚が体内で農薬を濃縮するのです。

重要な発見です。

しかし氏は農林省から

「君は作物中の農薬を調べていればよいのに、魚などよけいなものを調べて発表するとはなにごとだ」と叱られました。


ともかく、こういうなかから、なんとかして農薬以外の害虫防除法を発展させ、農薬を全廃はできなくとも使用量や使用回数を減らそうという流れが出てきたのでした。

私たちがおこなった不妊虫放飼法の利用も、この流れのなかから出てきたのでした。


DDTについては、肯定論として


創られた恐怖』(1996年)という書籍で


自分は未読なのだけど


実情は分かりかねるところあり


人工のもの全てが悪いってわけでは


ないのかもしれないが


農薬についてはおおよそ害があるのだろう


という気が今はしております。


 


第10章 ウリミバエの配偶者選択と精子競争


配偶者選択とはなんだろう


から抜粋


生物の進化ーー私たち人間もその産物ですがーーを明らかにする研究に道をひらいたのは、イギリス人のチャールズ・ダーウィンだということは皆さんも知っているでしょう。


ダーウィンは『種の起原』がひろく受け入れられたのちに、自然には自分の考えと合わないように見える現象があることを心にとめ、なんとか説明しようと努力していました。

そのひとつに、なぜシカのオスは大きな角をもつのか、またなぜクジャクのオスはあんな美しい大きな尾をもつのか、ということがあります。


ダーウィンは1871年に出した『人間の由来と性選択』という本のなかで、これらは「配偶者を見つける」のに役立つ性質であり、これらの性質をもつオスがもたないオスよりよく子供を残せたのでこういう性質が広まったと考えました。

つまり、性を通じた選択(性選択)で有利なので、ふつうの自然選択では少し不利なのに進化できたと考えたのです。


この本の中で、ダーウィンは性選択を

(1)同性内性選択、(2)異性間性選択

の二つに分けました。


このうち(1)は、今世紀の初め頃には多くの生物学者に承認されました。

カブトムシのオスの角がそうです。

しかし、(2)が成り立つためには、メスが「どのオスの求愛も受け入れる」のではなくて、配偶相手を選ばねばなりませんが、「下等な動物なんかに配偶者の選択なんかできるものか」と考える学者が多かったためです。

世界で初めて配偶者選択を証明した研究といえるものは、スウェーデンのアンデルソンという人のアフリカのコクホウジャク(オスだけに長い尾がある鳥)の研究で、発表はごく最近、1982年のことでした。


第12章 農薬を減らすには:基礎と応用


不妊中放飼法


から抜粋


これまで書いたように、この方法は農薬を使わないこと、根絶に使えるほとんど唯一の方法であることが優れていますが、使える条件が極めて限られているであるととが問題です。

(1)大量増殖と不妊化が安価にまた生存と求愛への障害なしにできること、

(2)密度が低いのに害が大きい害虫であること(1ヘクタールに数十万匹いるのが当たり前のイネのウンカなどは、これを防除するのに必要な数の不妊中をつくることなど無理でしょう)なども必要ですが、

(3)対象地域が小さく隔離されていることも必要条件です。

この点では侵入直後の昆虫には適しています。

沖縄のミバエ大量増殖施設が、県のもので、日本中どこへの害虫侵入に際しても使える施設とならなかったのは残念なことでした。


伊藤嘉昭先生について


先月読んだ書と被るところあり


キャリアからの横ヤリ入られて


予定を狂わされた


壮絶な人生の自伝タイトルは


楽しき挑戦』じゃなくて、普通なら


恨みはらさでおくべきかエリートども』だろう


って書いたのだけど、今回読んだ本でも


あらためてよくわかったのだけど、


そんな恨み節で人生棒に振っている


暇や発想がなかったってことかなと。


フェアネスだと感じた。


 


自伝に書かれておられたけど、


悪いキャリアたち(全員ってわけじゃないよ)から


島流しのように梯子外された様を振り返り


この方が(研究メインの仕事従事したのは)


結果的に自分に合っていたっていうのは


器の大きさを窺わせる言葉だった。


 


不妊虫放飼法について、その施設の巨大さを


俯瞰写真で見て驚いた。


一大事業であったのだろうし、これからも


力を入れるべき所なのだろうと。


 


それから今日のニュースのひとつ。


ガラパゴス諸島に不妊化した


蚊10万匹放出 エクアドル(3/11(土) 12:55配信)


伊藤さんを知らなかったら


スルーするところだった。


 


余談だけど映像でも残ってないかと


探ってみたらやっぱりありました


良い時代になりましたねえ。


カンペなど読まずにスラスラと


自説をご説明する姿が最高です。


虫はちょっと気持ち悪いのだけど。


クワガタやカブトムシは好きです。


 


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2冊から養老先生のお母様を少し知る [’23年以前の”新旧の価値観”]

養老先生のお母様の自伝と


お母様の知人の女医さんと


養老先生の対談を読んだ。


 


バカの壁」で話題沸騰だった頃に


出版社から持ち込まれた企画なのかなあ


なんて思ったり。


それでもいいよな、と思わせる良書で


女性がひとり子育てしながら働くなんて


今も大変だけど、無条件に大変だった時期の


貴重なドキュメントで、かつ


愛溢れる随筆のような自伝だった。


 



ひとりでは生きられない ある女医の95年 (集英社文庫)

ひとりでは生きられない ある女医の95年 (集英社文庫)

  • 作者: 養老 静江
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: 文庫


第3章


ひとりでは生きられない


■愛する人へ


から抜粋


「僕は良い人間だから早く逝く。君はわがままな人間だから、なかなか死ぬことができないよ。

それを『業』というんだ。立派な仕事も持っているし、君なら大丈夫だと信じているーーー」

三十三歳の若さで病に倒れた主人の言葉がいまも蘇ります。

私のもとを永遠に去ったのは昭和17年11月のことですから、あれからかれこれ50年の歳月が流れたことになります。

「君はわがままな人間だから、なかなか死ぬことができないよ」

という『予言』はまさに的中しました。

私は94歳になりましたが、まさに『業』なのでしょう。

少女の頃は心に決めたように自由に生きて、今もまだ求めがあれば聴診器を手にし、こうして原稿用紙に向かっているのですから。


私はいまでも、毎朝、目が覚めると心の中で「パパ、おはよう」と元気よく挨拶します。

90を過ぎたおばあちゃんがってお笑いになるかもしれませんが、本当に、もう50年来の習慣なんです。

もっとも、主人は33歳のままですから、こんなおばあちゃんになってしまった私の朝のあいさつをどう思っていることやら、おい、もう恥ずかしいからやめてくれよ、あちらの世界で苦笑いをしているかもしれません。


若い時分に、「恋愛至上主義」という考え方が新しい風のごとく巻き起こった時代がありました。

女医を志して学問に励んでいた私には、そのときはまだ別世界の話でしたので、へぇ、そういう考えもあるのかといった程度のことでしたが、弁護士だった前夫との結婚、二人のこの出産と準備、私より10歳若い年下の「パパ」との出会いといくつものハードルを超えての結婚、三人目の出産、そして、最愛の人の死ーーーと、女性としての数々の喜びや悲しみを経験するうちに、「恋愛至上主義というのは、もしかしたら真実なのかもしれないな」と思えてきたのです。


「私という存在があるからこそ、山も河もあるんだ。好きなように生きることこそ、生きるということなんだ」


あらためて申し上げるまでもないかと思いますが、私の人生は、永遠に33歳の夫とともにあります。

戦後の私の物語もまた夫とともにあるのですから、なによりもまず、私にとって掛けがえのない夫について知っていただこうと原稿用紙に向かった次第です。


私にとっては忘れられない夫の思い出を記させていただきます。

ある日、秋の風にまかせて洗いざらしの髪を病室の窓際で乾かしていました。

ベッドで手招きする夫に誘われ、彼の片手に頬を寄せました。

夫は「君の髪、麦の香りがする」と洩らしました。

そして「かわいそうに」と。

夫が息を引き取ったのは、それからほどなくのことです。


誰か、これ、映画にしてください。


よろしくお願いします。


 



話せばわかる―養老孟司対談集 身体がものをいう

話せばわかる―養老孟司対談集 身体がものをいう

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 清流出版
  • 発売日: 2003年
  • メディア: 単行本


対談者(1997年7月収録)

大森安恵

東日本循環器病院・糖尿病センター所長

1932年高知県生まれ。

著書に『女医のこころ』『女性のための糖尿病教室』等。


“人間らしい生活”という価値観


■女性は実在、男性は現象


から抜粋


■養老

先生は母を知っているので少々やりにくいです。

 

■大森

実は知り合いの編集者の方が先生と同じ鎌倉にお住まいで、鎌倉に見事な山桜があると聞いたので遊びに出かけたのです。

あいにくの雨で山桜を見ることはできませんでしたが、お母様の昔話に花が咲きました。

先生は小さい頃、母に

「孟司、孟司、頭はでかし」

と言われた、秀才の誉れ高いお子さんだったそうですね(笑)。

 

■養老

そんなことはないんですよ。

小学校に入るころ、母に

「この子は知恵遅れじゃないか」

と知能検査に連れて行かれた(笑)。

「口を効かないからだ」と。

それは当たり前でね、何か言おうとすると母がしゃべっちゃう。


■養老

東京医科歯科大学解剖学の和気健二郎教授のお母様がやはり東京女子医大の出身なんですが、彼も三、四歳の頃まで全然口を利かなかったらしい。

女医さんの息子は言葉が遅れる(笑)。

 

■大森

私の先輩には素晴らしい先生がたくさんいらっしゃいます。

吉岡弥生先生もご苦労されたと思いますが、周りを支えた人たちがすごかったんですね。

その一人が養老先生のお母様。

とてもとんでいた方のようですね。

 

■養老

当時、寄宿舎は”姥捨山”と呼ばれていたとか。

その歳になったらお嫁に行けないと(笑)。

 

■大森

その歳といっても、二十歳前後ですからね。


お母様のこととはダイレクトに関係しないかもだが


興味深かったので以下も抜粋


■大森

医者という職業は女性に合っていると思うんです。

細かい仕事ですし、男の人よりいたわりの気持ちはあると思います。

こんなことを言ってはいけないかしら(笑)。

 

■養老

女性の方が体のことについては具体的できちんとしています。

男は抽象的ですね。

免疫の多田富雄先生と中村桂子先生と三人で話したんですが、いみじくも多田さんが結論的にポツンと言いました。

女は実在で、男は現象だ」と。

現象がウロウロしているわけです。

患者さんが頼りないと感じるのもわかります。


■医療の世界のフェミニズム


から抜粋


■養老

私の母なんか偉いとよく言われるけど、要するに変わった人ですよね。

実際、母はいろいろな意味で迷惑な人でしたし、そそっかしい人で、よく往診先から電話が来て「先生がゲタを片方間違えて帰った」と(笑)。

 

■大森

でもあの時代にきちんとした結婚観やご自分の意思をもっていたのは立派です。


■豊かな心で機嫌よく暮らす


から抜粋


■養老

最近はお医者さんも忙しすぎますよね。

余裕がない。

あれでは患者さんのためになりません。

女医さんも忙しいでしょう。

 

■大森

女性は出産・育児の期間もあります。

子供ができると現役を退いてしまう方が多いのが残念です。

でも、子育てをしながら一般医学界に遅れをとらないでやっていくというのは大変なことです。

 

■養老

男でも、フルに仕事をするのはよくないんじゃないか。その特徴が出ているのは受験戦争です。

全員がギリギリまでやろうとする。

でも結果は、全員が半分しかやらなかった場合と変わらないと思う。

できる人はできる、できない人はできない。

万事がそうです。

人口過剰の特徴ですよね。

ある意味で。

やらないと人に取られちゃうから。

でも、そんなケチな社会に暮らしていて人間幸せかということをそろそろ考えないと。

東南アジアの田舎などでは若いものが一日中、日なたぼっこをしている。

そういう人生もあることを日本人は頭に入れておくべきです。

悪いことだと考えてしまうんですね。

そして、動かないときをどう過ごすかは価値観の問題です。

 

■大森

お母様も開業医として忙しかったと思いますが、病気だけじゃなくて人間を治すという医療を実践されましたよね。

とても豊かな生活をした方だと思います。

 

■養老

ほとんど年寄りの話し相手でしたけれど、あれが重要なんでしょうね。

年寄りの話なんかだれも聞いてくれないから、みんなグチをこぼしに来ていた。

 

■大森

きちんと聞いてあげるのが素晴らしいです。


人口増加で問題になっていた頃、


高齢化社会に警鐘が始まった頃かな。


今では人口減少が新聞に出ており、


幸か不幸か、後期高齢者という


ネーミングも定着し


超高齢化社会だという。


 


自伝と知人の女医さんと


先生の対談を読んで


誠に僭越ながら思うこと


養老先生のお母様は、古風で人情味があり


そして本物の知性を備えた方、


事情あり再婚され愛する人と別れ


その最大の理解者の父親と


きちんと別れの挨拶を


できなかった4歳の養老先生は


なるべくして大成されたお方のようで


これも自然選択によるものなのかと


昨今ダーウィンを考察中のため


思ったり。


 


自伝は暖かい書籍で、いつまでもその風雅が


残るような良書だったと


夜の勤務先で思い出したことを


ご報告させていただきます。


 


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ダーウィンとウォレスの関係を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


幽霊を捕まえようとした科学者たち (文春文庫)

幽霊を捕まえようとした科学者たち (文春文庫)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2010/02/10
  • メディア: 文庫


2「科学vs宗教」の時代


■ウォレスの変節ーーー進化論は万能ではない


から抜粋


アルフレッド・ラッセル・ウォレスは1862年、イギリスに帰国するとすぐにこの論争に飛び込んだ。

ハクスリーのような当意即妙の答えを返す才能はなかったが、彼には彼なりの武器があった。

根気と、熱意と、誠意である。


ウォレスが粗末な小屋に暮らし、熱帯雨林で食物をあさっている間に、近代社会は工業的発展をつづけていた。

大量生産の紙袋、写真とスライド、安全なエレベーター、機関銃などは、みなそのころ発明されたものである。

光のとてつもない速度が測定され、金色に輝く夕焼けでさえ物理現象であって、人間の手で計算できるものだということがはっきりした。

しかし、イギリスを旅してまわるうち、ウォレスはしだいにこの輝かしい進歩の暗部に気づきはじめた。

彼の眼には、西欧社会の道徳は知識の発展に追いついていないように見えた。

例はいくらでもあげることができた。

汚水の悪臭が漂うロンドンのスラム、性倒錯者向けの売春宿(客を鞭や枝で打つのが専門の店もあった)、やむにやまれぬ場合はもちろん、おもしろ半分にも盗みをする、教育を受けていない子供たち。


十年以上もイギリスを離れていたあげく、ウォレスは故国の文明の方が、”後れ”ているはずの部族社会の文明よほど暴力的で、非情で、不作法だということに気づく。

「英国民の大部分はいまだに未開人の道徳を超えていないし、多くの場合、それ以下に落ちている」と彼は友人にこぼしている。


科学が信仰の喪失を早めている可能性はある、とウォレスは考えていた。

それに信仰をもたない社会は退化に向かう恐れもあると。

神がいなければーーー少なくとも神への信仰がなければーーー善悪を裏付けるもの、賞罰を保証するものがなくなってしまいかねない。


キリスト教式の世界解釈はもはや時代遅れで説得力もないと考えていたにもかかわらず、ウォレスは宇宙にひとつの道徳的な力が働いている可能性について考えるようになった。

そうした高次の力が存在する可能性まで科学が否定してしまえば、無道徳状態が広がって、社会構造を破壊してしまうのではないか。

自分たち科学者には、これまで事態を放置してきた責任がある。

ウォレスはそう考えはじめた。

そして、「自然の物理的側面だけでなく、道徳的側面をも」研究するのが科学者のつとめだと、強く思うようになった。


めまいがするほど過激な新理論を吟味するうちに、自分は科学と精神を統合する道を発見できるかもしれないと、そう思うようになった。


ウォレスの新たな考えとは、自然淘汰には少なくとも人類に関しては限界がある、ということだった。

肉体については、たしかに自然淘汰説で説明できる。

肌、髪、筋肉、心臓の鼓動、肺の伸縮、手の形、脊椎のカーブ、そういったものがすべてダーウィンの(ウォレスの)法則にしたがって進化したことは、彼も依然として信じていた。

だが、精神についてはちがうのではないか、と彼は言う。

もしかすると知性や、道徳や、心と呼ばれるこのはかないものは、別の道筋をたどって発展してきたのではないか。

われわれの良心は導きによって、まだ発見されていないなんらかの力によって、こしらえあげられたのではないか。

宇宙の目的とは、精神の進化を促進するようなものではないか。

「地球の物質的な不完全性」さえ、無作為ではなく目的があり、なんらかの高次の力によって計画されているのではないか。


「冬の寒風や夏の暑熱も、火山も、つむじ風や洪水も、暗い森も、すべてが”刺激”として働き、人間の知性を発達させ、鍛えてきたのではないか。その一方で、世界中のどこにでもつねに存在する抑圧と不正、無知と犯罪、悲嘆と苦痛は、正義や、あわれみや、思いやりや、愛といった、より高邁な感情を訓練して鍛える手段だったのではないか。

それらの感情は人間がみずからのもっとも崇高な特質と考えるもので、ほかの手段で発達してきたと考えるのはまず不可能である」

こういう見事な計画者が存在する証拠をみつけるには、超常現象の分野を調査するに限る。

ウォレスはそう思いついた。


初めてロンドンの降霊会に参加してみて、科学的証拠たりうるものは何もないのがわかった。

けれども、どの降霊会も、希望を持てる程度には不可思議だった。

何はともあれ、不可解なことが起きるのは見たと主張できた。

科学の法則ではこれまで説明できなかったーーーおそらくこれからもできないーーーことが起きるのは見たと。


本人の記すところによれば、ウォレスはあるテーブルの傾斜の実演にとりわけ印象を受けたという。

「テーブルがぶるぶると奇妙な動きを見せはじめた。まるで生きた動物が震えているかのようで、。振動が肘まで伝わってきた」


いくつかの現象は

「事実という確固たる基盤をあたえてくれた」

として、ほかの科学者たちにも自分とともに調査を続けるよう求めた。

「説明できないからといって科学が無視してきた」謎について、自分のように頭を悩ませている知識人は、ほかにも大勢いるに違いない。

彼はそう書いた。


ダーウィンはただちに、きみは自分たちを批判する陣営に誤ったメッセージを送り、霊の力というものに不当な信用を与えようとしている、とウォレスに警告した。

ダーウィンが危惧したのは、進化論の提唱者のひとりが科学を捨てて迷信に味方したという印象を、世間に与えてしまうことだった。


「きみはまるで(幼虫へと)変態した博物学者だ」

とダーウィンは強い調子で書いている。

「きみが自説をくつがえすことは私が許さない


しかし、ダーウィンは激昂のあまり重大な点を見逃していた。

アルフレッド・ラッセル・ウォレスが進化論に背を向けたことは、後にも先にも一度としてなかった。

ウォレスは進化論を普及させ、一生をかけてさらに磨き上げていく。

1882年に没するダーウィンをはるかに超えて、20世紀の声を聞くまで。

ウォレスは自分の理論を否定したわけではなかった。

ただ、満足のいくものではないと気づいたのである。

素朴な適者生存と、機械的な進化だけでは充分ではないと。


■ウォレスの孤独な闘い


から抜粋


1860年代末、みずからの心の眼にしたがって、アルフレッド・ラッセル・ウォレスは、著名な生理学者であり優秀な物理学者でもあるジョン・ティンダルをはじめとする評判の科学者たちに招待状を送り、自分の家でもよおす私的降霊会に参加して心霊現象を調査してみないかと呼びかけた。

ウォレスが期待したのは、T・H・ハクスリーに書いたようにそうした研究を「人類学の新部門」と見なしてくれることだった。


案の定、ハクスリーの断りの手紙は、ほかの誰よりも痛烈だった。

若いころ何度か降霊会に参加したことのあるハクスリーは、降霊術などばかげたものだと考えていた。


1869年4月、自然淘汰には限界があるのではないか、精神的行為や道徳的行為の進歩には「すべてを統(す)べる知性」が力をおよぼしているのではないか、という持論を展開した論文を発表した。


仲間の独善的な口調に、ダーウィンはさらに危機感を覚えた。

論文の初期稿を読んだあと、ウォレスにこう書き送った。

「そうと知らなければ、別人が書いたのかと思っただろう。

きみの予想どおり、わたしは悲しいほどきみと意見を異にするし、それがとても残念だ」


こうしてダーウィンとウォレスは、仲違いに至ってしまったわけですな。


ウォレスにはウォレスさんなりの、信念みたいなのがあったのだろうけれど。


そのあと、自説を裏付けるために奔走されたようで。


これもダーウィンさんは快く思ってなかったろうと想像できる。


しかし、ウォレスは残念だとは思わなかった。ダーウィンとその高名な盟友たちの説得には失敗したものの、もっと有望な人物を見つけていた。

大英帝国でも屈指の科学者の一人、化学者にして発明家のウィリアム・クルックスを説得し、いまだ得体の知れないD・D・ヒュームの、本格的調査を行わせることに成功していたのである。


■ダニエル・ダンクラス・ヒューム(1833-1886)

スコットランド生まれ、アメリカ育ちの物理霊媒。空中浮揚、どこからともなく聞こえる声や音楽、闇から突然現れる手など、さまざまな心霊現象を引き起こした。

ヨーロッパ各地で降霊会を開催、ナポレオン3世、ドイツ皇帝なども参加した。

ウィリアム・クルックスが研究対象としたが、いんちきは発見できなかったという。

晩年は自らいんちき霊媒の暴露に奔走した。


■ウィリアム・クルックス(1832-1919)

イギリスの化学者・物理学者。すぐれた実験家としても知られ、タリウムの発見、クルックス管(真空管電管)の発明、ラジオメーター(放射線測定器)の発明など、科学の発展に寄与した。

D・D・ヒュームを皮切りに数々の霊媒を研究、のちSPR会長を就任する。

英国学術協会の会長就任演説でも超自然の力を信じていると力説して周囲を驚かせた。


こんなことがあってのしばらくのち


ダーウィン亡くなって7年後に


『ダーウィニズム』(初版1889年)って


また読み返すと、ダーウィンの心中は複雑だったろう。


亡くなってるから心中も何もないけれど。


 


それにしても進化論、自然淘汰には


限界があるからって


スピリチュアルに傾倒される


ダーウィニズム”ってなんなのだろう、と


思わずにはいられない。


いくらトンデモ話が嫌いではない自分でも。


 


ダーウィンとウォレス氏の進化論への功績は


今もって揺らぐものではないのは事実だけど


発表された後、こんな紆余曲折があり、


人生悲喜交々なのだあと思う火曜の朝、


そろそろ仕事行ってまいります。


 


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ラジオと本からシンギュラリティを考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

過日、ドーキンスさんの書籍を紹介した時にも出てきた


シンギュラリティ。


カーツワイルさんとは異なる表現で使われたと


エクスキューズあったけれども


その他でも昨今たまに見聞きしていたのと


先日聞いた以下でも養老孟司先生も仰っていた。


 


Tokyo Midtown presents The Lifestyle MUSEUM_vol.591


 


2019年に開催された「虫展」の監修をされた養老先生。


ピーター・バラカンさんのラジオプログラムに


プロモーションで出演された時のもの。


大きく引き伸ばされた虫の写真を見て、


ピータさんが発した疑問から一部抜粋。


■ピーター・バラカン(以下PB)

不思議なのはその辺なんです。

ああいう、引き伸ばしたものを見て神様の存在はあるのかないのか、進化の存在を一度認めると神の存在がなくなってしまうという、この前『ホモ・デウス』という本を読んだんですけど、なるほど、そうなるのか、って今まであんまりそんな風に考えたことがなかったんですが。

僕は、宗教、何教でもなくて、特にこだわりはないんですけれど、神の存在ってあるのか、ないのか、どう思われますか?

 

■養老

あのー、それはですね、多かれ少なかれ、どこの国もそうだと思いますけれど、歳をとると、なんとなく宗教的になってきますね。

あのね、それ私、よくわかるような気がするんです、歳をとると。

てのはね、どんな社会にも、宗教、神みたいなのがない社会っていうのは多分ない。

ていうことは、人の中にあるんですね、そういう、傾向がある。

なにかしらそういう自分を超えた存在を求めるというか、求めるというと強すぎるかもしれませんが、それを感じるという。

それでね、今言われたように近代社会って、はっきりそれを消していくんですね。

一番はっきり敵対して消したのが例えば共産主義ですけど。

そうすると何が起こるかというと共産主義が宗教に変わっちゃう。

だから結局宗教はいるんだろう、って話になっちゃう。

 

■PB

うん、うん。

 

■養老

で、日本はかなり上手にやっていたと思うのは、あの、有名な西行(1118年〜1190年)の歌がありますね。

「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」

あれ、多分、伊勢神宮に行ったときなんだと思いますけど。

何事かにありがたいなと感じるという。

だけど、

「何事のおわしますかは知らねども」

って神様って誰だか知らねえよって言っている訳です。

そんなもの知らんって。

だけど自分の中にそういうものが生まれるんですね。

で、だから、それを理性は否定するんですね。

理性がそれを否定すると何が起こるかというと、奇妙なものが生まれてくる。

つまり、神様か悪魔が生まれてくるんですねえ。

私はそう思うようになりした。

オウム真理教、典型的にそうですけれど。

で、理科系って日本でそういうものを入れるときは、いっさいそういうものを入れてませんから、教育に。

そうするとそれが人間の中にかなり大きなものを占めているとすると、それが出てくるんですねえ。

あの場合は、ほとんど悪魔ですねえ。

そう思って考えてみたら、有名な『ファウストゲーテのモノローグがあるんだけど、あれは世界を隅の果ての果てまで知りたい、知的な好奇心でしょ?

それで、「やらずもがなの神学まで」って言ってるんですよね。

「神学」までって、そう言っているってことは神学なんて馬鹿にしているわけで。

でもまあ、そこまでやったけれど、ってモノローグが終わると、悪魔が出てくるんです。

メフィストフェレスが。

やっぱり、よく言っているなと。この歳になると。

若い時はこれは気がつかないんですよ。

(略)

特に今、AIの時代ですよ。

ああいうものも、あの中(コンピュータ)にいっさい、神様入ってないから(笑)。

あんまりコンピュータ拝んでいる人、見たことないんで(笑)。

 

■PB

(笑)いやあ、これからはどうかわかりませんよ。

 

■養老

そうそうそう、だから、実はシンギュラリティってのは宗教だっていう人がいますね。

つまり、コンピュータが自分で動きだして、自分で改良していくっていう、そういう風な世界を、夢見ている、っていう。

これは、宗教は天国って言ってたのと、近いんじゃないか。

そんなこと、いわゆる理性的に考えると「そんなことある訳ねえだろっ」って考えるのが、平たい、っていうか、普通の考えだと思うんですけど、いや、そんなことない、どんどん進んでってこうなるって。

それは宗教に近いですよね。


興味わいてきて、以下の書籍も読んでみた。


 



図説 シンギュラリティの科学と哲学

図説 シンギュラリティの科学と哲学

  • 作者: 野田ユウキ
  • 出版社/メーカー: 秀和システム
  • 発売日: 2019/02/07
  • メディア: Kindle版

サブタイトルが「AIと技術的特異点の未来予測!」


ってあり、そういう内容になっているけれど


AIにしてもシンギュラリティにしても


すでに始まっていて、どうなるか


(予測という「ふんわりさ」でなく)


という視点の方が自分的には興味がある。


2018年発行、5年前なので状況は


かなり異なると思うけれど。


 


目次前の序章的なところからの


加速するテクノロジーの幸福論


からの抜粋


レイ・カーツワイルはテクノロジーの進化に関する予言をこれまでにいくつも的中させている科学者です。

 

そのカーツワイルが、非常に賢くなって自分で何でもできるようになったAIについてのいくつかの予言をしています。

その中の一つは”シンギュラリティ”についてのものです。

シンギュラリティとは、AIの進化によって機械が人間全体の知性を上回る時点のことです。

シンギュラリティを超えると、AIはもう人間の考えが及ばない、我々には手のつけようのないモノになる可能性があります。

しかし、カーツワイルは楽観的です。

シンギュラリティは人間に、これまでにない素晴らしい進化を与えてくれる。

カーツワイルは、そう考えています。

AIを使えば、仏陀が悩んだ「生」「病」「老」「死」の苦しみから人間を解き放つことさえ可能だと言います。

 

カーツワイルの思い描くシンギュラリティ後の世界では、AIがほかのさまざまな科学を進展させます。

これによって、人間の体は機械の体に置き換えられるようになって、病気や老いから解放されます。

脳はコンピューターと直接、通信できるようになっていて、目を動かすのと同じようにして、ロボットを操作できます。

体内にはナノサイズのロボットが数十万個入っていて、病原体の除去や体の栄養管理などを行なっています。

学校や仕事場に移動することはほとんどなく、仮想空間につくられたスペースで勉強や作業を行うようになっているかもしれません。


カーツワイルが預言した、シンギュラリティ到達の時は2045年


2 収穫加速の法則


The Law of Accelerating Returns


2.4 エポック


6つのエポック 


から抜粋


カーツワイルは、開闢(かいびゃく)から未来に至るまで宇宙の進化を追っています。

それによれば、宇宙の進化はエポック(世代)を経るごとに成長する情報パターンと説明されます。

進化は、その前のエポックで作られた情報処理手法を用い、次なるエポックを生み出すとされます。

カーツワイル流の進化論では、シンギュラリティは、エポック5で始まり、エポック6において宇宙へと広がっていきます。


ベーシックインカムとは少し驚いた。


これからの社会の在り方というか


未来、という括りならば、ありなのか、とか。


 


5 衝撃の未来 The Impact…


5.8 ベーシックインカム


社会不安の防止策


から抜粋


カーツワイルは、シンギュラリティに向かう世界で起きる様々な社会的動揺についても予測しています。

経済的弱者と呼ばれる人々は、十分にITC進化の恩恵に浴することがないのではないか、という批判については同分野の指数関数的な成長によるコストパフォーマンスの低下によって危惧するには当たらないと言っています。

そうはいっても、シンギュラリティによる社会変革は(一時的にせよ)貧富の差を助長する可能性があります。

そうなったとき、すでに複雑化、肥大化している社会保障の効率を改善する試みとして、ベーシックインカムが注目を集めています。


・ベーシックインカムの特性

ベーシックインカムの考え方自体は18世紀末までさかのぼれますが、その実現としては、20世紀後半、地域を限定したベーシックインカムの議論および実験的実地がされるようになりました(アラスカ州のパーマネント・ファウンド、ブラジルのボルサ・ファミリアなど)。

多くは、地域振興や福祉政策、貧困層の救済が目的です。

ベーシックインカムには、次の5つの特性が必要であるとされています。


 1 定期払い

 2 現金支払い

 3 個人ベース

 4 支給要件はなく全員に支給

 5 仕事をする意識に関係しない


ベーシックインカムとは、一時的な補助金や生活保証、手当とは異なります。

子供手当、失業保険、年金などの社会保障を基本的に取り止め、その代わりとして、

「年齢や性別を問わずすべての国民に、無条件で、ある一定の現金を一律(同じ金額)で定期的に付与する」

というのがベーシックインカムなのです。


その歴史は案外古くからあったというのは新発見。 


疑問点として現時点で思うのは


それは実現可能なのだろうか? 何が給付と異なるのだろうか?


また、他国からの流入された方々はどのようになるのだろうか?


5つの特性の詳細を知りたい、


なんて政治家でも活動家でもないのに心配してもしょうがないのだけど。


 


6 キー・インテリジェンス


6.1 考察のためのキーパーソン


Key Intelligence of singularity


《シンギュラリティの鍵を握る頭脳たち》

 レイ・カーツワイル(Raymond Kurzweil)

 I・J・グッド(Iriving John Good)

 ゴードン・ムーア(Gordon E. Moore)

 アラン・チューリング(Alan Mathison Turing)

 マービン・ミンスキー(Marvin Lee Minsky)

 エリック・ドレクスラー(Kim Eric Drexler)

 フォン・ノイマン(John von Neumann)

 ジョン・マッカシー(John McCarthy)

 ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)

 スティーブン・ホーキング(Stephen William Hawking)

 イリヤ・プリゴジン(Ilya Prigogine)


このシンギュラリティの書籍は


2018年時点での「シンギュラリティ」を


考察するのに重要なファクターが並んでいるようだけど


これから何年かするとまた増減ありそう。


 


さらにキーインテリジェンスとして


挙げられている方たちにも興味あり


日本語版の書籍で入手しやすそうなのがあれば


読んでみたいと思った。


 


余談だけど、ここでも


ダーウィン『種の起源』のことが


出ていて、ダーウィンさんの


無意識かもしれないけれど先見性には驚くなあ、と。


ご本人もこんなに長く論争されると


思ってなかったろうなと


なぜか右足が痛くて引きずり気味に


立ち上がったりすると


子供から「歳だね」と言われてしまった


日曜日でした。


 


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2冊の内田・岩田先生の対談から対話と世間を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

長引くコロナ感染症、気がつけば3年経過。


こんなに長くなるとは誰も予想してなかっただろう。


ということがトリガーになった訳ではないが


内田樹・岩田健太郎先生の書籍2冊を読んだ。


岩田先生は年代が近いから


感覚とか言葉とかなんとなくわかる気がした。




コロナと生きる (朝日新書)

コロナと生きる (朝日新書)

  • 作者: 内田樹・岩田健太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2020/09/11
  • メディア: 新書


はじめに 岩田健太郎


から抜粋


一般的に、ぼくは対談が大好きで、対談の企画をいただくとたいていお受けしてしまいます。


なぜ、対談が好きかというと、「他者の言葉」に興味があるからです。

「他者」というのは、「自分と同じようなことを言わない、考えない」人のことです。

内田先生のお言葉は(あるいはその著書でも)「そうか、そういう考え方もあったのか」という驚きをしばしばもたらします。


ぼくは自分の専門外の本を読むのが大好きなのですが(その本は「他者」だから)例えば内田先生が傾倒されているレヴィナスの本などを読むとしばしば「迷子」になります。


<一切の現在、一切の再現可能なものに先だつような過去との関係は、他人たちの過ちないし不幸に対する私の責任という異常で、かつ日常的な出来事のうちに内包されている>

(E・レヴィナス/合田正人訳『存在の彼方へ』)

 

こんな文章を最初に読んだときは、それはもう迷走、迷子状態に陥ったものです。

しかし、迷子になるのはある種の快感を伴うものでして、それは自分が知悉(ちしつ)しているいつもの世界の殻を破る、一種の冒険のようなものなのです。

ぼくは、セルフ・エスティームが非常に低い人間ですので、自分の小さな世界の枠を刷新していきたいと、ついつい考えてしまうのです。


さて、話は変わりますが、アメリカでは科学の粋を極めたレベルの高い話、をするときにしばしば「ロケット・サイエンス」という比喩を用いて説明します。

「この理論を理解するには、とくにロケット・サイエンスが必要、というわけじゃないけどね…」

という使い方をするのです。

つまりは、ロケットの打ち上げに必要な自然科学的知見は、その他の自然科学の知見に比べると格段に高いレベルの知能、知性を必要とする、という意味です。

昔は米ソで盛んにロケット開発競争が行われましたが、それは一種の軍事競争であったと同時に

「どちらが自然科学界のヘゲモニーを握るのか」

の覇権争いでもあったように思います。


しかし、その科学の粋を極めたロケット・サイエンスを駆使しても、やはりロケット事業はときに失敗します。

しばしば打ち上げは不慮のアクシデントから延期や中止になりますし、墜落したり、パイロットの死を招くことすらあるのです。

さて、そのような問題が生じたとき、その問題はどのように克服されるのでしょうか。

それはやはり、ロケット・サイエンスによって解決・克服されるのです。


間違っても、経済学者や政治学者や生物学者や、あるいは医者とかが

「俺が正しいロケットの打ち上げ方を思いついたぜ」

と代替案を提示したりはしないのです。


どのような専門分野にも問題は生じ、失敗は起こります。

しかし、その専門領域そのものの内部にある問題は、専門領域が問題を看破し、解決していくほかはないのです。

そこは外的にはどうこうしようがありません。


ぼくは感染症のプロになる訓練をアメリカで受けました。

よって、ぼくをよく知らない人たちは

「イワタはアメリカかぶれだ。日本を全否定し、国益を損なうサヨクである」

と非難します。

ダイヤモンド・プリンセス号の実態を動画で告発したときも、

「イワタが日本の恥を海外に伝えた」と非難されました。

非難されるべきは、背広の官僚がアウトブレイク真っ只中のクルーズ船に総出で突入してしまう、その素人芸っぷりにあるのですが。


おわりに 内田樹


から抜粋


ふつう岩田先生くらいにシャープだと、ことの正否についてすぐに断言しそうな気がしますけれど、そうじゃないんです。

少なくとも僕が相手の場合には、僕がどんな変てこなことを言いだしても、岩田先生は最後まで黙って聴いてくれます。

いったんは「なるほど」と受け入れる。

そして、それを吟味してから、追加の質問をする。

その場では簡単にことの黒白の決着をつけない。

でも、これは臨床医としての基本的なマナーなんだと思います。


今回のコロナ・パンデミックでは、関連する書籍がたくさん出版されました。

これからも出版されると思います。

僕が願っているのは、本書がこの出来事に対処するときに役立ついくつかの実践的知見を含んでいることだけでなく、パンデミックが終息した後もできるだけ長くリーダブルであって、ときどき書棚から取り出してぱらぱらと気に入った頁を読んでもらえるような本であることです。

そういう本ができたらよいのですが。


少なくとも、私にとってはそのような


本となっております。


付箋を貼りまくっております。




リスクを生きる (朝日新書)

リスクを生きる (朝日新書)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2022/03/11
  • メディア: Kindle版

はじめに 岩田健太郎


から抜粋


いつのことだったかは覚えていないが、内田樹先生があるとき、

「ミリオンダラー・ベイビーは、あしたのジョーですね」

とおっしゃって「はあ?」となったことがある。


「こういうのはフッサールの<本質直観>なんかいな?」

と門外漢は素朴に考えちゃったりするのだが、あまりテキトーな素人談義を重ねるとボロが出るのでこのへんで止めておく。


おそらく、ほとんどの人は両者を直接的に比較することなんて思いつかないだろうし、しつこく指摘するしかできないのではないだろうか。

それができるんだから、本当に内田先生はすごいと思う。


折口信夫は人間の知性に「別化性能」と「類化性能」があると指摘したそうだが、個人的な意見を申せば

「別化性能」

ーーAとBのここが違う、あそこが違う、と指摘する能力ーー

よりも

「類化性能」

ーーAとBってこのへんは同じじゃね?と指摘する能力ーー

のほうがより高度な知性を要すると思っている。

「ミリオンダラー・ベイビー」と「あしたのジョー」の話を聞いて、僕はすぐにこの「類化性能」の話を思い出したのだった。

「類化性能」は、一見異なるバラバラに見える現象の羅列に、共通した「構造」を見出す能力、と言い換えても良いのではないか。

これはなかなかに難しい作業なのである。


僕ら、感染屋が日々やっているのも、この「構造」を見出すための努力である。

最も、僕らには「本質直観」みたいな強烈な武器はないので、実際にやっていることはとてもとても泥臭いものとなる。


そのような思考法を経ての


ひとつの仮説立てとして、と


それにほぼ同じ構造を


辿っているけれど


雑で短絡的な言い方とを比較される。


ご自分の仕事の限界点みたいなものを


虚しくお感じになられ、でも前を向く岩田先生の


気概が伝わってきます。


大胆にコロナを風邪のようなものとみなし、検査もせず、治療薬も提供せず、診察すら受けずに自宅で待機していただく

 

という選択肢は可能になる。

これは、

 

コロナなんて風邪みたいなもんだよ。ほっときな。

 

という全く勉強を経ずに条件も加味検討せずに

「シンプリスティックな断言口調で」論じてしまう、自称感染症に詳しい人がテレビで言いそうな言明とは全く似て非なるものなのである。


前者は複雑な現象からシンプルな結論を抽出し、後者は単に複雑な現象を無視してシンプリスティックに、(あまりにシンプリスティックに!)断定か増しているだけなのだ。


シンプリスティックに断定口調で喋るやり方は、例えばテレビ番組のコメンテーターやYou tubeのインフルエンサーの喋り方と同じである。

プロはたとえシンプルに喋っても、断定口調は回避しようとする(条件を加味しようとする)から、「絵的に」切れ味が悪い口調になる。

日本のテレビで「自称感染症に詳しい人」のほうが感染症のプロよりも重宝されるのは当たり前だ。


まあ、このようなことをいつも考えているのだけど、こればかりでは、だんだん気分が鬱々としてくるのは当たり前だ。

なので、本書作成のために数週間に一回のペースで行われた内田樹先生とのお話は、僕にとってはとても楽しく、また気持ちの安寧が得られる素晴らしい体験だった。


おわりに 内田樹


から抜粋


コロナについては、岩田先生も

「それは名前の問題ではなく、時間の問題なのだ」

という立場を最初から最後まで一貫してきたと思います。

僕もこの立場を強く支持するものです。

ウィルスがほんとうは何ものであり、どういうふるまいをするのか「わからない」。

それでも、経験的にわかること、実践的にできることはある。

別に全知全能でなければ感染症に対応できないということはありません。

限定的な知識、限定的な能力であっても、できることはある。

あれば、それをする。


岩田先生はこの本の最後の方で、

「医者は往生際が悪いんです」

と言われてましたけれど、これもまたみごとに医療の本質を言い当てた言葉だと思います。

薬石功なく」という状態になっても、最後の最後まで手元にある限りの医療資源を投じ続ける。

そういうときに

「どうせ死ぬんだから、無駄なことはするな」

というのはたしかに「正論」ですし、場合によっては合理的です。

でも、人情としては受け入れ難い。

この「往生際の悪さ」こそが実は医療者の真骨頂であり、実はその

「往生際の悪さ」

が累積して、それが医学の進化を推し進めてきたのだと思います。


内田先生の道場、凱風館でも


対談は行われた模様。


お二人は家も近いとのこと。


行ってみたい、凱風館。


何も武道系、できないけれど。


 


お二人とも世間からズレているから


気が合うのだろう。


そんなニュアンスが全体的に


伝わってくる書籍で


もしや自分も?なのかもしれないけれど


よくわからない。


家族の中では間違いなくズレている。


 


余談だけれど対談の中に出てくる、


古典芸能について


興味あり自分もやってみたくて


近くに教室があったけど


コロナ禍でクローズ中だった。


お金もかかりそうだし、いったん


今日の夜勤の準備を始めて再検討しよう。


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ダーウィニズム―自然淘汰説の解説とその適用例:アルフレッド・ラッセル・ウォレス著(2008年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


ダーウィニズム―自然淘汰説の解説とその適用例

ダーウィニズム―自然淘汰説の解説とその適用例

  • 作者: アルフレッド・ラッセル・ウォレス
  • 出版社/メーカー: 新思索社
  • 発売日: 2023/06/24
  • メディア: 単行本

原題は、英語だと

Darwinism:


An Exposition of the


Theory of Natural Selection


, with some of its Applications


:Alfred Russel Wallace


 


「Theory of Natural Selection」が


一番言いたいことのようで


中扉には「DARWINISM」の次に


大きくフューチャーされている。


「自然淘汰の理論」にこだわり続けた


ということなのだろうかね。


初版は1889年だという。


ダーウィン亡くなって7年、


ウォレス66歳の時。


 


第一版への序 


から抜粋


本書はダーウィンが用いたのと同じ一般的な手法にもとづいて種の起源の問題を論じたものである。

しかし、『種の起源』から30年近く議論を重ねたあとに到達した観点から書かれた本書には、豊富な新しい事実が紹介され、提唱された多くの新旧両方の理論が取り入れられている。


私はここで、広範な進化の一般的な問題をごく概略的にあつかおうとしたのではなく、聡明なダーウィンの業績について明快な理解を得、彼の偉大な原理の力とそのおよぶ範囲をいくらかなりとも会得できるように、鋭意、自然淘汰説の解説に努めた。

ダーウィンは『種の起源』を、進化の理論を受け入れず、由来の自然の法則にしたがって種から種が生まれることを主張するものを軽視する同時代の人々を目標に書いた。

彼はじつにみごとにそれをなしとげ、「変化による由来」は今や生物界における自然の摂理として、広く一般に受け入れられるにいたっている。

だから、新しい世代の博物学者たちは、この概念の目新しさとか、彼らの父親たちがそれについてはまじめに議論するよりも科学の異端として咎(とが)めるべきものだと考えていたことなど、すでにほとんど忘れかけている。


ダーウィン説に対する現在の批判は、種の変化がもたらされた特別な方法にのみ焦点があてられていて、変化の事実に対しては向けられてはいない。

異議を唱える人々は自然淘汰の作用は最小限にしかはたらいていないとして、その代わりに変異の法則、用不用の法則、知性の法則、知性の法則、遺伝の法則を適用しようとしている。

これらの見解や反論は、かなり強力にそして相当な自信を持って主張され、そのおおかたは今日の研究室の博物学者たちによって唱道されている。

彼らによって、種や特徴や区別のようなものは、その分布や親縁関係と同様、組織学や発生学の問題、また生理学や形態学の問題にくらべれば、ほとんど興味のないことがらである。

そうした分野における彼らの研究は、たしかにひじょうに興味深くきわめて重要である。

しかし、それらは自然淘汰の法則の作用にかかわる諸問題について、確実な根拠のある判断を下す助けとなるようなものではない。

自然淘汰の諸問題はおもに自然の状態における種と種の対外的で生死にかかわる関係におよぶものであって、器官の解剖学とか生理学の問題ではない。

これについてはゼンパーがいみじくも「生物の生理学」と名づけている。


第1章「種」とはなにか、またその「起原」の意味するもの


種の定義


から抜粋


ダーウィン氏の大著の題名は『自然淘汰すなわち生存闘争において恵まれた品種が保存されることによる種の起原』である。

この本の意図する目的と、それが博物学ばかりでなく、他の多くの科学の分野にもたらした変化をじゅうぶん理解するためには、「種」という言葉の明確な概念を確立し、ダーウィン氏の本が最初に出版された当時、一般の人々は種についてどのような考えを持っていたかを知り、種の「起原」を発見するとは、彼はどういう意味で言ったのか、そして一般にはどういうことを意味したのかを理解する必要がある。


こうした初歩的知識がないために、博物学者でない教養人の大半は、反対論者の唱える数限りない反対意見や批判や異論を、ダーウィン学説は不合理であることの反証として、一も二もなく受け入れられる傾向にあり、またそれが原因で、ダーウィンの理論が進化という大問題に関わる幾多の思想や意見全体にもたらした、大きな変化を認めるどころか、理解さえできずにいるのである。


「種」という言葉は、かの有名な植物学者ド・カンドルによってつぎのように定義された。

「種とは、他のいかなるものよりもたがいによく似ており、相互に受精することによって繁殖力のある個体を生むことができるもので、類似していることからそれらはみな一つの個体から発生したと推定される、自己の種を世代を継いで繁殖させていく、すべての個体の集合である」。

そして、動物学者のスウェインスンは、それにやや似たつぎのような定義をあたえた。

「通常、種とは、自然の状態で、形、大きさ、色、その他の細目の一定の特徴により、他の動物とは区別される一つの動物を意味する言葉として使われている。それは”本能にしたがって”両親と完全に似た個体を繁殖させる。ゆえに、その特徴は永続する」。


ダーウィンの影響による人々の意見の変化


から抜粋


ダーウィンは博物学のニュートンである。

ニュートンの万有引力の法則の発見と証明は、混沌を排して秩序をもたらし、星の世界に関する将来のあらゆる研究の確固たる基礎を築いた。

いっぽうダーウィンは、自然淘汰の法則を発見し、生存闘争における有用な変異の保存という偉大な原理を証明することにより、全生物界の発展の過程の解明に大きな光を投じたばかりでなく、この先のあらゆる自然の研究の確固たる基礎を築いたのである。


ダーウィンが自身の著作についてどう考えているか、そして彼一人の功績として認められるものはなにかを説明するにあたっては、『種の起原』の序文に述べられた結びの一節を注意深く読まねばならない。

それは以下のとおりである。

「多くのことがいまだあいまいであり、今後も長くあいまいのままに残るであろうが、私は自分でできるかぎり熟慮し、冷静に判断した結果、たいていの博物学者たちが今日までもちつづけてきた、そして私自身以前はいだいていた見解ーーすなわち、それぞれの種はそれぞれ創造されたーーという考え方はあやまりであるということには、なんの疑問もないと考える。私は、種は不変ではないこと、いわゆる同属の種といわれているものたちは、それらとは別の一般に絶滅した種の直系の子孫であって、それはある種の変種と認められたものはその種の子孫であるのと同じことであることを、じゅうぶん確信している。さらに、自然淘汰だけが変化の手段ではないが、それはもっとも重要な変化の手段であることも確信している」。


ダーウィンの研究に対する批判は、彼自身が「長くあいまいのまま残るであろう」と述べている多くの疑問点にもっぱら向けられたものであり、ここに断言されていることはすべて、今ではほぼ世界中で認められていることを、とくに心にとどめるべきであろう。


第15章


ダーウィニズムの人間への適用


音楽的、美術的能力の起原


から抜粋


美術的能力はすでに述べた他の能力の場合と似てはいるが若干異なる道をたどっている。

ほとんどの未開人はその発芽を人や動物の形を描いたり彫ったりすることで若干示している。

しかしほぼ例外なく、それらの図は粗削りで、芸術など解しない普通の子供が作ったようなものである。

じっさい、現存する文明化されない人々はこの点で、角や骨のかけらでマンモスやトナカイを表現した先史時代人とほとんど変わらない。

社会生活の技術になにか進歩があれば、それに応じた美術的技術と嗜好の進歩がある。

それは日本とインドの美術においてひじょうに高度に発達したが、ギリシア史の最盛期にみごとな彫刻において最高の極みに達した。

中世では美術はおもに教会建築と写本の装飾に開花表現されたが、13世紀から15世紀にかけて、絵画芸術がイタリアで復興して完成の域に達し、以降それに優るものは二度と現れていない。

この復興はドイツ、オランダ、スペイン、フランス、イギリスの美術家たちによって厳密に受け継がれ、真の美術的才能は一つの国家に属するものではなく、ヨーロッパのさまざまな民族のあいだに公平に分散していることが証明された。

美術の才能のこうした発達は、彫刻に現れようと、絵画に現れようと、個人の部族の存続や、国家の支配権や存続をかけての闘争における成功には、なんら直接的影響をあたえない、人間の知性の副産物であることはあきらかである。

ギリシアの輝かしい芸術は、国家がそれより後進のローマ人の支配に屈するのを防ぎはしなかった。

いっぽう芸術の復興がもっとも遅かったわれわれアングロサクソン民族自身も世界の植民地化を主導し、われわれ混成民族が生存にもっとも適していることを証明したのである。


数学的、音楽的、美術的能力が自然淘汰の法則にもとづいて発達したものでないことの独自の証拠


から抜粋


数学、美術あるいは音楽の才能に恵まれた人間の数は限られており、その発達の程度にはたいへん大きな変異がある。

すると、人間には本質的にそなわっており、人間と下等動物にほとんど共通な能力とは、これらの心的能力は大きく異なり、したがって自然淘汰の法則によって人間のなかで発達したものではないだろうと考えられるのである。


生物の発達には、なんらかの新しい原因や力が作用をおよぼさざるをえなくなった段階が少なくとも三つあることを指摘しておこう。

最初の段階は、最も最初の植物細胞が、もしくはその基となる生きた原形質が最初に現れた時の、無生物から生物への変化である。


つぎの段階はいっそう驚異的で、まったく物質やその法則や力による説明のおよぶところではない。

それは、動物界と植物界の根本的な区別をなす感覚ないし意識の導入である。

ここではこの結果を生み出したのはただ構造が複雑になったからに過ぎないという説はまるで話にならない。

原子の構成の複雑さがある一定の段階に達したときに、その複雑であることだけが原因で、必然的に《感じる》ことができて自己の存在を《自覚》する《自我》が存在し始めたと仮定することは、まったく不合理なことと思われる。

ここでわれわれは、たしかになにか新しいものが生じたことを知る。


第三の段階は、われわれがこれまで見てきたように、人間には、彼を野獣のはるか上の最高位に据え、彼にほとんど無限の進歩の可能性をあたえる。

多くのもっとも特徴的でもっとも高貴な能力が存在することである。

おそらくこれらの能力は、生物界一般の、そして有機体である人間の肉体の、進歩的な発達を決定したのと同じ法則によって発達したのではないだろう。


無生物界の物質から人間まで登り詰めるこの三つの異なる発達段階は、ある未知の宇宙の存在をはっきりと示している。

それは物質界が完全に従属する霊の世界である。

この霊の世界に、重力、凝集力、化学作用、放射能そして電気といった、われわれの知る驚くべき複雑な力は帰属しているとして良いだろう。

これらの力がなくては、物質界は今の形のまま一瞬たりとも存在することができないであろうし、たぶんまったく存在しないだろう。


結語


から抜粋


われわれは、我が英国のもっとも偉大な現存する詩人とともにこれを確信することが可能である。


 人生は価値のない金属ではなく、

 役立つ器を作るために、

 暗黒のなかから掘り起こして、

 燃え上がる恐怖であつく熱し、

 あふれ出る涙の槽(ゆぶね)に浸けて、

 運命の衝撃で鍛え上げた役立つ鉄である。

 (テニスン『イン・メモリアム』より)


かくしてわれわれは、ダーウィン理論は究極まで議論を突き詰めても、人間は霊的存在であるという信念に叛くものではないどころか、それに確固たる支持をあたえるものであることを発見する。

それは人体が自然淘汰の法則にしたがって下等動物からいかに発達してきたかを示している。

しかしまた、そのような発達を遂げたはずがなく、別の起原をもつにちがいない知的道徳能力を、われわれがそなえていることをも教えている。

そしてこの起原については、霊の見えざる世界にしか適切な原因を見つけることはできないのである。


晩年はこの流れの研究をされ


交霊会とか出ちゃったり


たま出版が喜びそうなネタに


加担してしまうが故に


浮かばれなかったってのは


あまりにも有名。


だけどなあ、霊っていう結語は


自分も嫌いではなくあり得る話とは思うけど


学術界でそれを言ってしまうとなあ、って


思いは禁じ得ない。


 


それはいったんおいておいて


ウォレスさんのお人柄って実は


看過できず興味ありなのだけど…。


 


訳者さんの解説にもあるけれど、


良い人すぎてダーウィンとの共著でもある


『種の起原』をあくまでも主は


ダーウィンの言説であり自分は


従のような意味合いが強く、


後年各方面から称賛(批判もあったようだが)


されながらも自身は


「自然淘汰説を体系的に解説した本書に、


みずからの造語である『ダーウィニズム』の


書名をあたえて、この学説は最終的に


ダーウィンのものであると宣言している。」


まさに謙虚そのもので、人としての見本だとの


思いは消せない。なので、


なんでスピリチュアルに傾倒したのかなあ…。


だからこそしたのだよ、という声も


聞こえそうだけど。


 


もしもこの先、霊というものが実証されたとしたら


ウォレスさんの評価ってガラッと変わるんだろうけど。


 


そんなこと自分がとやかく心配することじゃ


ありませんね。


自分は自分の仕事をきちんとやりませう。


失礼しました。


 


ちなみに「たま出版」馬鹿にしたわけでは


ありませんからね。


何冊か持ってましたし、


UMA系は今も好きだし


ネス湖もストーンヘンジにも


行ったことあるし。


幽霊はあまり興味ないのだけども。


人間の知らなくていいことも沢山あり


知っていることなぞ、わずかだって


思っておりまして、だからこそ


韮沢様、これからも頑張ってください。


応援しております。


何もお役には立てませんが。


 


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