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中村桂子先生の書から”ゲノム”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


自己創出する生命―普遍と個の物語 (ちくま学芸文庫)

自己創出する生命―普遍と個の物語 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 中村 桂子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/07/01
  • メディア: 文庫

この書を手に取った経緯は

過日のブログにもチラっと書いたのですが


哲学書房という出版社から出ている


「私」はなぜ存在するか―脳・免疫・ゲノム


を読み中村先生曰くこの鼎談の理解を深めるなら


免疫の意味論(多田先生)』や


唯脳論(養老先生)』と、


この書を読んでおいてほしい、というような


主旨のことを書かれておられたからでした。


序章 発端の知ーーゲノムから何が見えるか


自己創出する生命が見えてくる から抜粋


「ゲノム」。

これは前にも述べたように、ある生物の細胞内にあるDNAの総体を指す。

ヒトであればヒトゲノム。

チンパンジーであればチンパンジーゲノムを持っている。

ヒトゲノムとチンパンジーのゲノムは大変よく似ているが、ヒトはヒトであって、決してチンパンジーではない。

しかも、同じヒトでも一人一人が皆異なるゲノムを持っているのである。

つまり、ゲノムという単位をとることによって、細胞、個体、種というような、DNA研究が始まる以前の生物学で重要な役割を果たしていた単位が呼び戻されることになる。

分子生物は、DNA研究によって、すべての生物を普遍的に理解するという素晴らしい手段を手にいれた。

しかし、生きものについての素朴な問いは、ヒトはなぜヒトであり、チンパンジーはなぜチンパンジーなのかというところにある。

普遍では終わらないのである。

これまではDNA研究は普遍を追求する手段、多様性については、マクロの生物学におまかせというように二つの分野が分離していた。


しかし、ゲノムを通して見れば、普遍性だけでなく多様性へもアプローチできる。

普遍性と多様性とが、ゲノムという全体を表現するものでありながらそれを構成しているのはDNAという完全に分析可能な物質であることがわかっている。

恐らく、DNAの全てを解析すれば、ゲノムの全体像が見えてくるだろう。

つまり、普遍と多様、総合と分析というように、これまで二項対立的に見えていた事柄がゲノムを通すとひとつのものとして見えてくる。

これが最も重要な点である。


人間の知の中では、常に普遍と多様への関心が絡み合ってきたのではないだろうか。

生きものの場合、それは明確で、生命という普遍的な本質を知りたいという気持ちと同時に、眼の前にあるもののひとつとして同じでなく豊かにたようであることの不思議をそのまま多様なものとして知りたいという気持ちがある。


著名な物理学者ハイゼンベルグは、「理解するということ」と題して、「”多様”を”一つ”にできた時にわれわれはわかったというのだ」と言っている。

確かにそうだが、それだけでは身のまわりの自然については、その一面をわかっただけで「一つだけれど多数なのはなぜか」という問いは残されたままなのである。

これまで科学は、前者を主としてきたが、最近の環境問題などは、統一的理解を深めることが多様な自然の把握につながらなければ無意味であることを呈示している。


科学が特別視され、社会から遊離した存在になってしまっている理由の一つはここにあると思う。

普遍と多様への関心は日常的なものであると同時に、これまでの知の歴史の中で大きな問いを立てた人々がひとしく問うたことでもあった。

Unityとdiversity。

アリストテレスは、これを一つのキーワードとしている。


先日たまたま観たレオナルド・ダ・ヴィンチの展覧会場の入り口には、彼の関心は、統一性と多様性の結合にあったと書かれていた。

日常から学問まで貫いて、普遍と多様という問いがあり続けたのだ。

その中で、統一性の方だけ向いている学問が大きな意味を持てるはずがない。

もちろん、科学がこれまで取ってきた、普遍・客観・分析・還元という視点の有効性は認めた上で、科学が知の中での位置を確立するには、そこから踏み出す必要がある。


「ゲノム」は柳澤桂子先生の書でも


深く出てきたのですが、いかんせんなかなか


ハイレベルで、難しいのだけど


なんとなく自分なりに咀嚼しての理解。


それにしても30年も前からすでに


”多様性・ダイバーシティ”など使われていて


さすがだなあと見上げさせていただく。


さらにこの書から感じたこと、


「生命誌」を図として考え作成、その説明や、


表がすごくわかりやすい。


表については、”基本理念”を


①生命(神話)、②理性(ギリシア、中世、近代)、


③生命(新しい生命)の三つとし、その3点から


”知の体系”の自然とのかかわりが


”技術の性格”に展開されていて


ヒトがいかに自然から離れてしまい


今どこにいるかが分かるというもので。


(表を文字で説明する不毛さを痛感するな、これ


もしくは自分の表現力の限界)


その表以外にも、中村先生は図解が多く


グラフィック出身の自分なぞは助かる。


余談で、この書の終わりにも書かれているが


今はない出版社”哲学書房”というところの


中野さんの一声で書籍を思い立ったという。


遡ること中村先生の処女作『生命誌の扉をひらく


というのもあり、それも同じ編集者さんとの


仕事の一つでWikiによると中野さんは07年に63歳で


亡くなられ「印税0=中野モデル」というのを確立し


今も継承している学術系の出版社があるということが


関係者さんのブログに書かれていた。


ビジネスで「印税0」なんて成立するの?という反面


だから質の高い執筆者や書籍が揃っているのかと


なんとなく納得しそこから曲解のような思考に至る。


つまり”本質”という”ゲノム”抜きに


物事を語れねえぜ、ってなぜか吉本隆明先生風に


夜勤中に思った事それはそれで一旦置いといて


中村先生の書に話を戻してこの一冊で”生命誌”の


なんたるか、を理解したとは全くもって言い難く


何度も読み返したり類書を紐解きながら近づく事に


なりそうだと思ったのと、哲学書房の初版で読んだ


この書の著者近影の中村先生がお綺麗で


とても素敵だなあと思った2023年10月最終日、


最近は今日はハロウィーンの日って事なんですかね、


兎にも角にも明日から11月で仕事場の


運用システムが変更される為実際どうなるのだろう


と内心ビビっている火曜の夕刻でございました。


 


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佐藤・斎藤両先生の50代本から”時間”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

唐突ですが最近頓に感じることで


ございましてそれは、生きる上で


一番大切なのは日常生活をキープすること、


そのための努力、なのですけれども、


その中でも最も意識したいことは


”時間”でございましてそれを考察するのに


余りある書を読んでみた。


といっても単に読んだだけで、


それで”分かった”って事じゃないすから、


ひとえに考える”よすが”にさせて


いただいたってことでございます。



50代からの人生戦略 (青春新書インテリジェンス)

50代からの人生戦略 (青春新書インテリジェンス)

  • 作者: 佐藤 優
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2020/01/07
  • メディア: 新書

第1章50代からの「残り時間」

時間をコントロールしようとしすぎない から抜粋


時間を管理するのと同時に、「時間は完全にはコントロールできない」と認識しておくことも大切です。

どんなに綿密に将来のプランを立てても、計画通りに進むことはまずありません。

不測の事態で予定の変更を迫られる、想定外の時間をとられるのが常です。


キリスト教では、人の一生は神によってあらかじめ定められていると考えます。

ですから、人間が限りある知恵でいくら未来を計画しても、神の意志によって変えられてしまう。

『梟(ふくろう)の城』という司馬遼太郎の小説があります。


豊臣秀吉の暗殺を狙う忍者が主人公なのですが、若いときは忍者として縦横無尽に活躍する。

しかし、天下の支配者の命を狙うという忍者としての務めを果たしたあとの晩年は、山中で連れ合いとひっそりと暮らし、ささやかな世界で生きるという話です。


いまの時代でも、大企業でバリバリ働いていたような人物が早期リタイアして、田舎で農業をしながら奥さんとひっそり暮らす、というようなことがあります。

一見すると小さな世界へ逃げ込んだように見えるかもしれません。

しかしその限定された世界に、それまで想像していなかった幸せを発見する。

むしろ、大企業で働いていた自分は、世の中の尺度に踊らされ、自分を見失っていただけかもしれない…。


功名心のある若いときは見向きもしなかった生き方かもしれませんが、晩年になってくると、ささやかな暮らしの素晴らしさや奥深さに気づく。

中年期以降の生活は、若いころには、まったく想定していなかったものになることもあるのです。


私自身の人生がまさにそうでした。

それまで外交官としてロシアとの交渉の最前線に立ち、まさに新たな時代を切り開く寸前までいっていた。

それが急転直下、犯罪者として逮捕、起訴され、512日間勾留されたあげく外務省を追われたのですから。


人生にはこのようなことが往々にして起こる。

もちろん特捜検察によって逮捕されるなどということは稀でしょうが、転機となるような出来事は人それぞれ形を変えて起こるもの。

地震や台風などの甚大な被害で、ある日突然、多くを失ってしまう人もいます。


人生における時間やイベントを完全にコントロールしようとすると、その挫折が致命的になり、落ち込んでうつ病になってしまうこともあります。

もちろん人生設計は大事ですが、同時に不可知なもの、予期せぬことが起こるのが人生だと割り切ることも必要です。


「流れる時間」と「感じる時間」


2002年、私は鈴木宗男氏に絡む疑惑に連座する形で特捜検察に逮捕され、外交の大きな舞台からははじかれました。

しかし、それによって作家というもう一つの舞台に立つことになりました。

これにより、私の人生は潮目が劇的に変わります。

それまでまったく想像もしていなかったことです。


人は、自分が立とうと思っていなかった舞台に突然立たされる時がある。

キリスト教徒である私は、やはりそこに神の意志をみます。

もちろん神の存在を信じない人もいるでしょうが、それでも人には計り知れない流れ、コントロールできない流れがあることを多くの人が実感しているのではないでしょうか。


こうした経験を経て、私が大切だと思う人生に対する姿勢は、「急ぎつつ待つ」ということ。

人生には時があり、タイミングがある。


一方でそのタイミングが訪れたときは、”急いで”それをとらえなければならない。

人生のチャンスをチャンスとして認識し、その尻尾を捕まえなければなりません。

無自覚にすごしていると、チャンスはすぐにどこかに消え去ってしまうのです。


ある程度までは運命に身を委ねる。

しかし”そのとき”が来たら急いでそれに応える。

時間の使い方の極意と言えるのが、この”時を捕まえる”ということだと思います。

それには、普段から時間というものについて、考えておく必要があるのです。


古代キリスト教の神学者アウグスティヌスは『告白』という著書の中で、時間について、

「私はそれについて尋ねられないとき、時間が何かを知っている。尋ねられるとき、知らない」

と書きました。時間とは何か?


時間には、時の針の動きで示される「客観的な時間」と、自分がどう体験したかによる「主観的な時間」という二種類があります。

たとえば50代にもなると、月日がたつのが異常に早く感じられる。

歳をとると、1年が風のようにあっという間に過ぎてしまうようになってきます。


「好きな人とすごす時間」はあっという間にすぎるものの、「イヤな人物と一緒にいる時間」はとても長く感じる。


このように、時間は”主観”で長さが変わるものです。

10歳の子どもにとって1年は10分の1ですが、50歳の人にとっては50分の1。

つまり歳をとると分母が増える分、時間が短く感じられるのでしょう。


”終わり”を意識して生きる から


西洋の時間概念の根底にはあるのは、時間は有限であり、終わりがあるという考え方です。


それに対して、日本などの東洋では仏教的な時間解釈が中心です。

すなわち輪廻転生のように永遠に時間が繰り返される。

ルース・ベネディクトが著書『菊と刀』で、日本人の時間感覚には目的論が抜け落ちていると指摘したのにはそうした背景があるのです。


行動に目的が伴っていなくても、とにかく一生懸命にがんばる、あげくに心身を病んでしまったりするのには、そんな時間概念が関係しているのかもしれません。

時間の本質を見極めること。

時間とは何かをとらえ直すこと。

自分のなかで時間に対する認識が変わることで、生き方自体が変わってくることもあるのです。


第6章 逆境でこそ時の流れを見定める から


人生の壁や転換点、逆境に直面したとき、キリスト教に限らず、宗教書や哲学書をひもとくことで、救いを得られることがあります。

聖書に違和感があるなら仏典でもいいし、孔子の教えである論語でもいい。

古典には、何千年と変わらない人間の普遍的な真理が説かれています。


ちなみに、仏教の考え方は基本的に「因果論」です。

原因があって結果がある。

だから幸福も不幸もそれまで本人が積んできた行いが”業”となり、その報いがいま現れていると考えます。

ですから仏教の考え方には、自分の行い次第で運命を変えられるという”自力の精神”がどこかにある。


一方、キリスト教では神の国に入る人、入らない人は最初から神によって決められています。

つまり「決定論」です。

人間は運命を決められない。

だから、運命の全ては神に委ねるという他力の考え方です。


これからの人生を前向きにチャレンジしたいと考えている人なら、仏教の因果論を信じるかもしれません。

今大変な逆境に陥りどん底にあえいでいる人は、キリスト教的な決定論を信じることで救いが得られるかもしれません。


私自身、鈴木宗男事件に連座する形で逮捕・勾留され、外務省を辞めることになって、一気に人生のどん底へ突き落とされたわけですが、そんなときに大きな支えになったのが旧約聖書の「コヘレトの言葉」です。


何事にも時があり

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

生まれる時、死ぬ時

植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時

破壊する時、建てる時

泣く時、笑う時

嘆く時、踊る時

石を放つ時、石を集める時

抱擁の時、抱擁を遠ざける時

求める時、失う時

保つ時、放つ時

裂く時、縫う時

黙する時、語る時

愛する時、憎む時

戦いの時、平和の時。

人が労苦してみたところで何になろう。

私は、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。

神は全てを時宜(じぎ)にかなうように造り、

また、永遠を思う心を人に与えられる。

それでもなお、神のなさる業を始めから

終わりまで見極めることは許されていない。

(コヘレトの言葉3章1節から11節)


私が事件の渦中にいるとき、同志社大学神学部研究科で指導を受けた恩師の緒方純雄先生が、直筆の丁寧な文字でこの言葉を書いて私に送ってくれました。

緒方先生にお礼の電話をすると「いまはつらくて大変だろうが、時の流れは必ず変わる。その時を正しく見定めることが、佐藤くんにはできる」と励ましていただきました。


緒方先生から送っていただいたコヘレトの言葉は、私の座右の銘となっています。


佐藤先生の書では、壮絶な人生の悲喜交々


大切な人からの支援あっての復活、さらに


西洋での有限の”時間”、東洋の繰り返される”時間”


の事をご指摘される。


併せて斎藤孝先生の書も読んでみた。



55歳からの時間管理術 「折り返し後」の生き方のコツ (NHK出版新書)

55歳からの時間管理術 「折り返し後」の生き方のコツ (NHK出版新書)

  • 作者: 齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2019/05/10
  • メディア: Kindle版

第4章 55歳からの時間管理術②

好きなだけ趣味と教養に没頭する から抜粋


水木しげるさんの幸せになるための知恵55歳からは、生きている意味を実感することがテーマになります。

この世に生きてきて良かったと思える瞬間を増やしていくことが大事です。

そのためには、できるだけ〝力のあるもの〟に出会うこと


水木しげるさんは、

「何十年にもわたって世界中の幸福な人、不幸な人を観察してきた体験から見つけ出した、幸せになるための知恵」として、「幸福の七カ条」をまとめています。


第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

第二条 しないではいられないことをし続けなさい。

第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。

第四条 好きの力を信じる。

第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第六条 なまけものになりなさい。

第七条 目に見えない世界を信じる。

『水木サンの幸福論』2007年


これらはすべて「好奇心を持ちなさい」ということだと思います。

水木さんにとって、その好奇心の対象の最たるものが妖怪だったのです。


第5章 55歳からの時間管理術③


雑談力を磨いて社交を楽しむ


レビューサイトは社交サロン から抜粋


私自身はレビューを書き込むことはありません。

こうして見ているだけで、私の精神に充足がもたらされます。

レビューを見る深夜は、私にとってたいへん重要な時間です。


私は各サイトを覗いていて、いろいろなレビューを見て回るのですが、これはネットサーフィンをしているというよりは、サロンに顔を出している感覚といった方が近いでしょう。

私にとってインターネット上のレビューサイトは、もはや社交の場になっています。

社交とは、「そうだよね!」という気持ちを伝え合える、同じ趣味をもった仲間を見つけることでもあります。


その中には外国人の方もいます。

英語は少しでも理解できれば、その国の人特有の考え方を知ることもできるでしょう。

素晴らしく、孤独にならない空間が、すぐ目の前に広がっているのです。


主要参考文献 から抜粋


・荒木繁、池田廣司、山本吉左右編注

『幸若舞3 敦盛・夜討曽我』平凡社東洋文庫、1983年

・ハイデガー著、熊野純彦訳『存在と時間』岩波文庫、2013年

・齋藤孝訳『論語』ちくま文庫、2016年

・西郷隆盛著、山田済斎編「南洲翁遺訓」

 『西郷南洲遺訓附手抄言志録及遺文』岩波文庫、1991年

・デカルト著、谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫、1997年

・安藤貞雄訳『ラッセル幸福論』岩波文庫、1991年

・ニーチェ著、手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』

 中公文庫プレミアム、2018年

・俵万智『サラダ記念日新装版』河出書房新社、2016年

・黒田夏子『abさんご』文藝春秋、2013年

・森敦『月山』河出書房新社、1974年

・谷崎潤一郎「幇間」『刺青・秘密』新潮文庫、1969年

・ドストエフスキー著、亀山郁夫訳『罪と罰』

 光文社古典新訳文庫、2008年

・小林勝人訳注『列子』岩波文庫、1987年

・宮沢賢治「虔十公園林」『新編風の又三郎』

 新潮文庫、1989年

・宮沢賢治「雨ニモマケズ」『新編宮沢賢治詩集』

 新潮文庫、1991年

・片田珠美『無差別殺人の精神分析』

 新潮選書、2009年

・福沢諭吉『学問のすゝめ』岩波文庫、1978年

・福澤諭吉著、斎藤孝訳『学問のすすめ現代語訳』

 ちくま新書、2009年

・トマ・ピケティ著、山形浩生、守岡桜、森本正史訳

 『21世紀の資本』みすず書房、2014年

・梶原正昭、山下宏明校注『平家物語』岩波文庫、1999年

・古川薫全訳注「留魂録」『吉田松陰留魂録』

 講談社学術文庫、2002年

・美輪明宏、齋藤孝『人生讃歌──

 愉しく自由に美しく、又のびやかに』大和書房、2004年

・水木しげる『水木サンの幸福論』角川文庫、2007年

・小林弘幸『なぜ、「これ」は健康にいいのか?』

 サンマーク出版、2011年

・村上和雄『スイッチ・オンの生き方』致知出版社、2011年

・西尾実、安良岡康作校注『新訂徒然草』岩波文庫、1985年

・安田登『疲れない体をつくる「和」の身体作法──

 能に学ぶ深層筋エクササイズ』祥伝社黄金文庫、2011年

・夏目漱石『草枕』岩波文庫、1929年

・奥田昌子『欧米人とはこんなに違った日本人の「体質」

 ──科学的事実が教える正しいがん・生活習慣病予防』

 ブルーバックス、2016年

・三好行雄編『漱石書簡集』岩波文庫、1990年

・下村湖人『論語物語』講談社学術文庫、1981年

・中島敦「弟子」『李陵・山月記』新潮文庫、2003年

・中村元訳『ブッダ最後の旅──大パリニッバーナ経』

 岩波文庫、1980年

・中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』

 岩波文庫、1978年

・尾形仂『座の文学──連衆心と俳諧の成立』

 講談社学術文庫、1997年

・貝原益軒著、石川謙校訂『養生訓・和俗童子訓』

 岩波文庫、1961年

・ドナルド・キーン『私が日本人になった理由──

 日本語に魅せられて』PHP研究所、2013年

・齋藤孝『成熟力──「45歳から」を悔いなく

 生きる人生のリスタート!』パブラボ、2013年

・齋藤孝『退屈力』文春新書、2008年

・齋藤孝『雑談力が上がる話し方──

 30秒でうちとける会話のルール』

 ダイヤモンド社、2010年


斎藤先生の参考文献の量がすごすぎて


取捨選択・吟味している時間が


ないのでございますが、それはそれとして


今日もブックオフで10冊以上も購入してしまい


そちらはそちらで読む”時間”が本当に


ほしいのでございました。


 


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舛添さんの書から松井孝典先生の理論を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]

舛添要一の先見対談―時代を創る11人のキーパーソン


舛添要一の先見対談―時代を創る11人のキーパーソン

  • 出版社/メーカー: コア出版
  • 発売日: 1992/09/28
  • メディア: 単行本


地球はなぜ”地球”なのか?


松井孝典

東京大学理学部助教授

1946年生まれ。東京大学理学部、同大学院修了。

現在、東京大学理学部助教授、惑星科学専攻。


舛添▼

今年は環境問題が流行で、ブラジルで国連主導の地球サミットが開催され、大変話題になっていますけど、そもそも地球環境問題とは何なのか。

例えば炭酸ガスによる温室効果とか酸性雨の問題など、地球を専門に研究なさっている立場から見て、環境破壊の問題は何であるのか。

誤解している面もあるんではないかと思いますので、ざっくばらんにお伺いしたいと思います。


松井▼

地球環境問題というと、何となく地球が危ないとか、地球にやさしいとか出てくるでしょう。

この言い方はおかしい気がしますね。

地球環境はおそらく、人類がいなくなればすぐにもとに戻るんですよ。

別の惑星みたいになってしまって、生物が住めなくなるようなことは、今のところ考えられない。

そういう意味では地球環境というのは安定なんです。

何が問題かというと、人間がその環境の中でいかに生きていくかという意味の環境、つまり人間環境問題というべきなんです。


舛添▼

単純にいうと54億いる人間が30億に減れば、問題は解決するということですか?


松井▼

そうですね。

例えば、今のわれわれみたいな人間というのがなぜ存在するのかといいますと、一万年くらい前に人類は農耕牧畜を始めたわけですよ。

地球を利用することで自ら繁栄する、豊かになるという道なんですよね。

そういう道を選択したわけです。

その前、何百万年間人類というのは生きていたんですが、それは本当に地球にやさしく暮らしていた。

地球の物質循環の閉じた形のなかで、人間も含めて生きていたんですね。

ところが、一万年ほど前に農耕牧畜を始めるということは、自然の生態系の代わりに、自分たちに都合のいい生態系を導入し創り出した。これはもう人工なんですよ。

その時から地球というものを食いつぶすことで、自らが豊かになるという存在になったわけです。

それ以前は地球の人口なんて、おそらく上限として一千万人くらいですよ。

それが、地球を利用するということを始めたから人口が増え始めて、今現在54億の人がいるわけでしょう。


舛添▼

その人口が2020年には80億とか、2050年には100億を超えるといわれていますけれど、昔は戦争があったりペストがあったりして、まあ今はエイズはありますけれども、自動的に人口調整機能ができていた。

それから変な話ですけれども、間引きなんてことでも誰も文句をいわなかった。今は人権思想がありますから。一方で人口が増えていうことを前提にした上で対策を立てざるをえないんでしょう。


松井▼

だから今、本当に環境問題を議論しようと思うんであれば、21世紀には確実に100億の人が地球上に住むわけですよ。みんな豊かに暮らしたいでしょう。

100億の人が豊かに暮らす地球というのは、どういう地球なのかということを考えなければいけない。その中で、環境というのはどうあるべきかと。

ところが環境というものがあって、これは変えちゃいけないんだと。なおかつ人間が、100億の人たちが豊かに暮らすなんて無理です。答えがないわけですよ。

だからそういう意味では、今いっている議論のほとんどがおかしい議論をしているわけです。


舛添▼

地球サミットもあまり役にたたないというわけですか。


松井▼

だって、地球って何かを知らない人が、地球環境問題を議論しているわけですよ。


舛添▼

ただ普通の人の感覚でいって、工場がどんどん煤煙をまき散らして、それで森林が枯れていく。

そこで酸性雨対策をやるというのはいいんですか。


松井▼

それは当然やるべきですね。だから地球環境といった時に、全部いっしょにして地球環境というから、おかしくなってしまうんです。

地球環境といった時に、例えば地球のように海が存在する惑星、その海が存在するという条件、こういう環境は変えたら困るし、変わらなかったんですよね。

では大気の成分についてはどうなのかといったら、地球の歴史を観てもわかるように、これは大きく変わっているわけですよ。


舛添▼

オゾンホールが南極で発見されるというような、フロンガスのオゾン層破壊の問題がいわれていますが、フロンガスは止めないといけないですか?


松井▼

これは温暖化の問題とかいろんな問題がありますけれども、僕は人間にとって脅威なのは、フロンガスのオゾン層破壊ということが、一番の問題だと思う。


舛添▼

それは大気の成分が変わるということですか?


松井▼

紫外線が入ってきてしまいますからね。

紫外線というのは生きてく上でものすごく短期的に、例えば今から20年後とか30年後にどうなるという話ですね。これは大変な問題で、手を打たなければいけない。

じゃあ、特定フロンの生産を止めたらそれで済むかというと、そういう問題じゃないんですよね。

というのは、また新たな特定フロンに変わるものを開発するわけですよ。

それは、今の知識では何にも環境に影響はないと思っているけど、歴史を見てみればわかりますが、フロンだって最初は人類が発明した人工物質で、これほど無害で安全なものはなかったといわれたぐらいですよ。


舛添▼

スプレーに使ったり、クッションに使ったりね。


松井▼

ところが今の知識でいくと、それが溜まって成層圏まで上ってくると、いろんな連鎖反応を起こして、オゾン層を破壊しているということがわかってきたわけです。

われわれの知識が増えていくと、われわれが生きていくうえで必ず出る廃棄物があるわけですよね。人工物質を作り出すだとか、そういうものが地球の物質循環の中に入ったら、どういう影響が出るということを議論できるほど、われわれは地球のことを知らないんですよ。

今の時点で安全だからといって、それで問題が済むかというとそうではない。


舛添▼

例えば炭酸ガスの温室効果、温暖化してると、極端に言えば北極と南極の氷が溶けて、水面下に沈む土地がある。ということは、やはり問題じゃないですか。

今、CO2対策というのを地球サミットでもそうですが、環境税作るとか、炭酸ガス、化石燃料などの使用料を国ごとの限界を設けて制限する、そういう政策をとろうとしているんですが、その点はいかがですか?


松井▼

やるにこしたことはないんですが、さっきいったように、われわれが豊かに暮らしていきたい。

いろんなライフスタイルを議論しないで、そういうことだけ議論していくと、答えはないと思うんです。

環境税にしても何にしても、では経済というものが、本当に発展できるのかというようないろんな問題があるわけでしょう。

もうちょっと問題を変えて、どういう問題が温暖化の問題なのか考えてみると、今おっしゃったように、地球が暖かくなって水面がどんどん上がってくるということですが、これはもし地球上に国境がなかったら、人類にとってどうかと考えると、それほど悪いことではないはずです。


舛添▼

逃げて行けばいい。高いところへ。


松井▼

そう、その海岸沿いの所からまた新たな所へ移る。

あるいは、温暖化すると、今寒冷で人が住めないような冷たいところが暖かくなるわけですね。

高地が増える。

もし国境というものがなかったことを考えたら、温暖化するということはさほど問題ではないはずなんです、人類にとって。

むしろ地球の歴史をみたら、そういう時代はいくらでもあって、その時代は生命というものが繁栄しているわけですよ。

何が問題かというと、温暖化の問題というのは、この地球上の大陸の上の国境という見えない線で区切って、われわれが生きているというライフスタイルが問題なんですよ。


舛添▼

むしろ政治の問題なんですね。


松井▼

政治の問題なんですよ。

だからそれは、無尽蔵にいろんな環境を変えるようなことをやればいいといっているわけじゃないですよ。

しかし、われわれが自分の生活水準を下げて満足できるのかといったら、それはそうじゃないでしょう。


舛添▼

豊かな生活と環境の保護をどうやって両立させるかと。


水が存在するからこそ「地球」から抜粋


舛添▼

地球を知らないやつは地球のことを語るな、ということをおっしゃったんですが、なぜ地球は地球なのかということなんですが。

例えば他の星と比べてみて、どうお考えですか?


松井▼

地球というのはご存知のように、海があって大陸があって、それで水蒸気の雲があるわけですね。

金星は一面雲に覆われている。

この雲はどういう雲かというと水蒸気の雲じゃないんです。これは硫酸の雲なんです。


舛添▼

水はないんですか?


松井▼

水は全くないんです。大気中にごく微量、ほんのわずかあるだけで、地表には全く水はないし、そもそも地表の温度が摂氏でいったら500度近い。


舛添▼

絶対に生物は住めない。


松井▼

さっき温暖化という話が出ましたけど、なぜそんなに熱いかというと大気がCO2でできている。

CO2が非常に多くなると、地球だってこうなるんですよね。

極端な暴論をいえば地球がいずれこうなると。


舛添▼

金星になると。


松井▼

地球の未来はね。


舛添▼

ここで金星までのまとめをいうと、とにかく地球というのは水があるということが、金星と比べた時の大きな違いということですね。

次は火星は地球とどこが違うかということと絡めながら、地球は人間が住める奇跡の惑星だということの理由を説明していただきたいと思います。

地球が地球であるための条件ということを考えたいんですが、とにかく地球のことを知らないと、環境も何も語れないということなので、最初に金星と比べていただいて、金星には水がないということがわかりました。それでは火星と地球と比べて、今度は何が違うんでしょうか?


松井▼

火星は地球と同じように両方あるんです。


舛添▼

水と二酸化炭素とですか。そうすると人類が住める可能性があるわけですか?


松井▼

水があって、二酸化炭素があって、そこに太陽がふりそそいで、そこで生命というのが存在しているわけね。

そういう意味では、条件的には火星もうまくやれば生命が存在できるはずなんです。


舛添▼

いつも松井さんは、火星はいまから有望だと、ここにきっと生命が生まれる可能性があるとおっしゃってますよね。


松井▼

これはどういう理由かというと、火星もかつて地球と同じように温暖で雨が降って、水が溜まっているところがあって、そういう時期があった証拠がたくさん残されているんですよ。

ということは、地球上で生命が発生したんなら、火星上だって生命が発生したっておかしくないわけです。

そうすると今、地球の生命の起源なんて何も実証できないけど、火星に行って最初の生命みたいなものが化石であったりしたら、これ生命の起源を解く上でものすごく重要でしょ。


舛添▼

松井さんの惑星に関する理論ですけれども、とにかく地球物理学でノーベル賞を取るとすると、次は松井さんだといわれているくらいなんですが、普通の人にわかるようなかたちで松井理論のユニークさ、今までと違う考え方はこれだとか、ちょっとわかりやすく説明していただけますか。


松井▼

それはまさにね、地球がどうして地球なのかというと、海が存在する。

水惑星だということです。


舛添▼

水と炭酸ガスでしたっけ。


松井▼

炭酸ガスはともかくとして、海がなかったら地球にならないんです。

地球にならないという意味は、われわれも含めてすべての生命は海の中で生まれたわけで、海がどうして存在し得たのかということが重要なんですね。

海がどうやって生まれて、どうして維持されているのかということを考えるということは、非常に重要な問題なんだけど、これは今まで全く理論がなかったわけ。

それをどう考えたらいいかという考え方の枠組みを提示して、実際にこうじゃないかという理論を示す。

その詳細を言い出すと限りがないので省きますが、そういうことをやったわけです。


舛添▼

そうすると、その理論に当てはめて考えれば、地球と同じ惑星というのはあり得るんですか?


松井▼

そういうことをやると地球という星が宇宙の中でも、この地球しかない非常にユニークな星であって、こういうことは二度と起こらないんだと考えてしまうよりも、星が生まれてその周りに惑星系が生まれるとすると、あるところには地球みたいな水惑星が必ずできると、理論的には予想できるわけです。


舛添▼

太陽系に限らないんですか?


松井▼

太陽系に限らない。

しかも、宇宙には太陽みたいな星が宇宙にある星の半分近くはある。

さらにもっと似ている星というのはそのうちの80パーセントなんですよ。

そういう星の周りで、ある条件を満たすと惑星系がうまれるわけですが。

惑星系が生まれれば、ほとんど水惑星も生まれるんですよ。

だから広い宇宙、われわれと今生きているこの時代に、そういう他の第二の地球と…。


舛添▼

人間ももちろんいるわけでしょう。


松井▼

そりゃあもう、その上で進化すれば材料物質も同じだし、条件も同じでしょう。

そんな変なこと考えなくたって、地球型生命と非常に似たようなものが生まれて、いずれ知性を持つような生命が生まれたとすると、われわれみたいなものだろうと考えられています。

だけどそれがよく、宇宙人とかいう話になりますけど、宇宙人が地球に来るかということは、宇宙というのは非常に広大だし、時間も経っているわけだし、そういうことはない。

だって地球にテレビができたのは、今から50年くらい前でしょう。

その時から宇宙へも電波がもれていっているわけ。

その電波が今どこまで行っていると思いますか。

まだ50光年ですよ。

一番近い星だってもっとずっと先なんだから。

なかなか交信しようとしたってできないってことは、考えてもわかるでしょう。

だけどわれわれが1億年もこの先、こういう文明を維持できるというならそれは可能性があるかもしれませんよ。

そういうことは多分ないでしょうけどね。


帰還したら自分の国がない!から抜粋


舛添▼

理論でいうと、無限の可能性ということが考えられるはずなんですが、宇宙の中でソ連の宇宙飛行士がとり残されて300日もいて、その上帰ってきたら自分の国がなくなっていた。

ということがあるんですが、私なんか国際政治の立場から見ると、ソ連邦の解体というのが核兵器の拡散の問題も含めて問題が多いんですが、地球物理の立場でみたときに、あれだけの能力、宇宙飛行士を打ち上げるだけの能力をもったソ連邦がなくなると相当ダメージじゃないですか。


松井▼

いや、これはもう大変なことですよ。

というのは、舛添さんは国際政治が専門だから社会主義とは何だとか、そういう実験が70年かけて行われた意味とか、いろいろ考えてられるでしょうが、多分見逃していることがひとつあると思うんですよ。

僕は社会主義という国が、そういう実験をやったことの最大の成果というのは、人類が宇宙に出る道を切り開いたということを考えるんです。

今から30何年か前になりますけど、スプートニック、それからガガーリンが宇宙に飛んだでしょう。


舛添▼

女性だとテレシコワ。


松井▼

それがあったからアメリカが頑張って、アポロ計画で追いかけてきたんですよ。

アメリカは資本主義でしょ。

経済効率みたいなことばかり考えていたら、宇宙になんか絶対出ないですよ。

ところが全体主義国家っていうか、計画経済というか、そういうところはある理念のもとに、いろんなことをやってくれるわけ。


舛添▼

国の威信のためにはそれこそ何でもやるわけですからね。

財政赤字が年間三千億ドルですから、こんなもの抱えていて、とても宇宙予算なんか捻出するわけにいかないでしょうからね。


松井▼

だけど今現在だって、ソビエトが先ほどのミールから降りてくる宇宙飛行士が云々という話が出たけれども、人類が宇宙に出ていって、一年も住むなんて実験をやった国は、ソビエトをおいて他にない。

そこに膨大な量のその種の資料の情報が貯えられてる、知識の集積が。

こういうものは、人類の財産なんですよ。


舛添▼

だけど今のロシア含めて旧ソ連は、そういうことをやる能力もお金もないでしょう。

CIS支援なんてわれわれがいうときには、経済問題、民族問題、核兵器の問題、こういうことしかやっていないんですね。


松井▼

だから、アメリカもヨーロッパもソビエトも今だってやっているわけですよ。

これをさらに継続していくためには、日本がそれにどう関わるかだということが重要だと思うんです。

特に日本が対ソ支援というか、対ロシア支援の時に、宇宙というものを支援していくということを明確にして、それなりのことをやるとアメリカも無視できないし、ヨーロッパも無視できない。

みんなそれぞれに国際協力でそれをやり続けましょう、ということになるんです。

このことが人類にとって非常に大事なことだと思います。


今から30年くらい前。


今も示唆を多く含んでいると感じつつも


世界情勢も大きく変わり


その後、世界の宇宙への見方はどうなるのだろうか。


松井先生の理論はどのようになったのか。


自分としては新テーマを見つけてしまったものの


残念ながら今年3月に亡くなられてしまわれた模様。


過日NHKで宇宙には各国で飛ばした衛星の


ゴミ(スペースデブリ)で飽和状態で


衝突する可能性大という危険な状態という。


それと合わせると今起きている世界情勢、


国のメンツなぞかけて戦争している


場合なのだろうか。


一転して、日本は一昨日の朝、


千葉の港で猪が暴れて警察官が多く出動し


確保したってのをテレビ報道していたけれど


ニュースはそれが仕事なんでいいのだけど


世界のカオスや秩序のパラドックスなどを思うと


涙が出そうになる、やるせない午後で


ございました。


もちろん事は簡単じゃないってのは


わかるのだけれどもなんともやるせなさすぎる。


 


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三木成夫先生の書から”インスピレーション”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想


海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想

  • 作者: 三木 成夫
  • 出版社/メーカー: うぶすな書院
  • 発売日: 1992/09/01
  • メディア: 単行本

 


いのちについて ーー自然と人間


”あたま”と”こころ”” から抜粋


以上で、人間の”いのち”に対する態度に、じつは二種類あるのだということがはっきりいたしました。

そのひとつは自然の意に逆らってでも「生存期間」を延ばそうとする態度

もうひとつは生命の波を通して、そこに、ひとつの”おもかげ”といったものを観得しようとする態度

この二つであります。

それがはじめに述べました”いのち”の二つの意味にそれぞれ相当するものであることはいうまでもありません。


ところで前者の態度というものはあくまでもわれわれの”あたま”で考える世界であります。

これに対し後者のそれは、われわれの”こころ”で感ずる世界でありましょう。

おなじ”いのち”といいながらじつは、”あたま”で考えるそれと”こころ”で感じるそれとの間に、これほどの差が出てくるのであります。


”あたま”とはなにでしょう

われわれ人間は日常生活においてこの”あたま”をいろいろと働かせるものです。

自然を利用して衣食住の生活を営むのもこの”あたま”をいろいろと働かせるものです。

綿花から木綿をつくる。羊の毛から毛糸をつくる。

また稲の品種を改良し、野菜を栽培し、果樹園を耕す。

そしてさらに木を切り倒し石をけずって家をたてる…。

などなど、これらのどのひとつをとっても、それはすでにわれわれ人間の”あたま”の働きによるものであることはいうまでもありません。

しかしこの働きはこれだけではない。


今日のように、たとえば、石油からプラスチックや着物をつくる。

そして肉までもつくったりする。

そこではただ石油の持っている化学的な成分だけが問題となるのです。

ひとびとは、この成分の組み合わせについて、ひたすら考えをめぐらせるわけであります。

こうして石油というものを、たんに燃料としてだけでなく、それをとことんまで利用し尽くそうとするのであります。

そしてこのやり方は自然のすべてのものに及ぶ…。

地下資源、電力資源などなど地球上で手のとどく範囲のものは、なんでも、こうした人間の欲望を満足させるための手段となってしまうのであります。

そしてついには人的資源ということばまでが登場してくる。

そこでは人間のひとりひとりが機械の歯車に見えてくるわけであります。

自然を雑草・薬草あるいは害虫・益虫と分けて、おのれの気に食わぬものは全部撲滅してしまう、というこのやり方は、けっきょくここから出てきたものでありましょう。


いま、これらを振り返ってみますと、初めはあくまでも自然の持ち味といったものをうまく生かし、それ以上の敷居をけっして超えることなくこれらと共存してきた、そのような人間の生活態度がうかがわれるのであります。

そこでは、自然と人間との間に温かい”こころの交流”といったものが見られた。

つまり、われわれの”こころ”でもって自然のこころを汲みとることがすべてに優先していた、といえるのでしょう。


ところが、このような生活態度はいつの間にか大きく崩れ去ってくる。

そこでは、いったいどういうことが起こったのか、それはもうすでに述べた通りであります。

いったい自然をこのような機械として眺めるところに、はたして”こころ”の世界というものは見られるのでしょうか…。

そこにあるのは、ただ”あたま”の独走だけであります。


今日、叫ばれております自然破壊というもののこれが舞台裏ではないでしょうか。


ここから、われわれは”あたま”と”こころ”との関係についてひとつの道が開かれてまいります

それはここに示しました象形文字に、端的に示されているのではないかと思います。(参照


これは漢字の”思”ですが、上半分は脳を上から眺めたところ、下半分は心臓のかたちで、これは”あたま”が”こころ”の声に耳を傾けているところを象(かたど)ったものといわれています。

”あたま”というものはいってみれば切れるものです。

どれくらい切れるか、これは各自持って生まれた素質によってきまるもので、ある人はカミソリぐらい切れるしある人はナタのように、絶対に刃は折れないけれども細かいことはできない…などなどいろいろあるででしょう。


しかしこれが凶器となるか、あるいは利器となるかは別問題です。

カミソリのような、そういった頭がもし凶器になれば、これは本当に大変なことです。

しかし、これが利器となった瞬間、そこには快刀乱麻の素晴らしい切れ味が展開される。

いわゆる”毒にも薬にもなる”とはこのことをいったものでしょう。


いったいこの岐れ目はどこからきたのか?「思」の象形がこの問題にみごとな回答を与えてくれるのではないかと存じます。

”もの思う”という性能ーーまさにこれこそわれわれ人間の人間たるゆえんのものではないでしょうか。


われわれ大和民族は、歴史的に眺めてどんな民族の中でも”こころ”の豊かさにおいて傑出したものを持っているといわれています。

われわれの祖先は自然というものを無欲に、そして理屈をつけないで、ニュートンの力学がどうであろうと、アインシュタインの相対性原理がどうであろうと、こうした自然を静かに眺め、そのふところに抱かれて生活してきた。

これが、この民族の本来の姿のように思われるのです。

もちろん、明治100年というものはあわただしかった。

それはいわゆる国際的な立場から”あたま”の方を磨くことに専念しないではいられなかったからでしょう。

しかしもうこのへんでそろそろ、われわれの本来の姿にかえる、その時がやってきたのではないかと思っているところであります。


幼稚な表現しかできないが、なんか深い。


理解できてないと思うけれど


なにかが共振してしまうというか。


三木先生の話というか文は概ねそうだが


平易で難易度高くはないのだけど引き込まれ


深いと感じ、これを支えているのは


なんなのだろうと畏怖の念を感じます。


養老先生が、間も無く三木先生の時代がくる


と仰る意味がなんとなく分かる書だった。


解説 三木成夫について 吉本隆明


から抜粋


三木成夫の著書にであったのは、ここ数年のわたしの事件だった


この著者にはふつうわたしたちが断層としてみている植物と動物と人間の構成のあいだに、進化の連続性の流れがみえている。


なぜある有機体は植物になり、また別の有機体は動物になり、また人間になっているのかが、内臓や筋肉や神経の成り立ちや構造に則して、つながりや相違や対応性としてはっきりとつかまれている。

わたしの無知な思い過ごしかも知れぬが、これはほんとに驚きだった。


この方法をはっきりと記述している例を、人間の対象化行為(労働)と価値の論議のばあいのマルクスと、国文学の発生についての折口信夫と、この著者三木成夫のほかにわたしは知らない

また方法的な自意識としていえば、この三人のほかいないのではないかとおもえた。


この方法をかりに初期論的な方法といっておけば、これは初期という枠組みを仮定して、その内部の構造と、展開の方向と、反復の方向と、反復の仕方の組み合わせとして、事象が膨らんでいく過程を位置付けることだ。


たとえばマルクスの価値形態の論議には、アダム・スミスの労働価値の説が「初期」として含まれている。

スミスは野原の一本の木になったリンゴの実の価値はなんだろうかという考察からはじめる。

木に近づいていって、幹にのぼり、そのリンゴの実をもいで木からおり、戻ってくる。

そのあいだに支払った労力がリンゴの実の価値だということになる。

そしてここには商品の価値の初期の萠芽があるとみなせる。

商品は運動し、価値も運動する。

だが価値の源泉は野性のリンゴをもぐための労力にあることをマルクスはてばなさなかった。

折口信夫もまた、日本語の言葉が自然の景物に当たりをつけ、それを描写する仕方が、こころを叙する唯一の方法だと知るようになったとき、こころの暗喩としての自然の景物描写が、詩の発生をうながしたとかんがえた。

この初期状態からはじまって、こころをじかに叙する叙情詩時代がくるまで、自然の暗喩を言葉が組み換えてゆく過程はつづいたとみなした。


三木成夫はこの本のなかで植物と動物をおなじ方法で位置づけ、ふたつのかかわり方を解剖している。

それをいってみれば、動物のからだから腸管をとってきて管の表と裏をめくり返し、露出して外側になった粘膜に開口した無数のくぼみを、外にひっぱり出したものが植物に対応すると述べている。

このひっぱりだされたくぼみは、植物の葉っぱと根っこにあたる。

言いかえれば植物は動物にとって初期だとみなされる。


この対応はもっとさきまでゆく。


アダム・スミスも折口信夫さんも興味深い。


価値、労働というのも看過できないです。


そういう本来の価値を意識させないのが


自然を隔離してしまった今の”都市化”であり


”脳化”された社会なのか、とどうしても


養老先生寄りの考えに近づいてしまうのだけど、


それは偶然ではなくて必然なのだろう。


<こころ>とわたしたちが呼んでいるものは内臓のうごきとむすびついたあるひとつの表出だ

また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよい。

わたしはこの著者からその示唆をうけとったとき、いままで文字以降の表現理論として展開してきたじぶんの言語の理念が、言語以前の音声や音声以前の身体的な動きのところまで、拡張できると見とおしが得られた。

もちろん内臓系の<こころ>のうごきはわたしの定義している自己表出の根源であり、体壁系の感覚器官のはたらきは指示表出の根源をつくっている。


この著者への頌辞(しょうじ)になるかどうかわからないが、知識に目覚め始めた時期に、もっとはやくこの著者の仕事に出あっていたらいまよりましな仕事ができていただろうに、そんなすべのない後悔をしてみることがある。

ひとりでもおおくの読者が、こんな後悔をしないように、とこの解説をひきうけた。


解説を読み宮沢賢治の詩のようだと思った。


ここで言われる”初期”っていうのワードは


具体的にはなにを指すのだろうか。


自分の側に寄せての解釈ってことなのだけど


”発想”とか”着想”となる”きっかけ”とか


そのプロセスを指すのか。


吉本先生独特の展開にミクロ視点での疑問が。


悪い癖で、”木”を見て”森”をみず。


では”森”として感じるのは、


”裏を無視して表は語れねえ”ってことで。


”やっぱり内臓はこころだぞ”、


”腸管をおろそかにするんじゃねえぜ”って


聞こえるのだけど、全然違う?浅すぎかい?


と誰に聞いてるのかわかりませんけれども。


それにしても吉本先生、素敵すぎます。


しびれるなあ、もう。


”いまよりもっとましな仕事”って…。


戦後最大の思想家なのに、などと感じ入る


バス通勤中と歩きながらの


秋の読書なのでございました。


 


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橋爪大三郎先生の書評を”真剣”に読む [’23年以前の”新旧の価値観”]

書評のおしごと―Book Reviews 1983‐2003


書評のおしごと―Book Reviews 1983‐2003

  • 作者: 橋爪 大三郎
  • 出版社/メーカー: 海鳥社
  • 発売日: 2005/09/10
  • メディア: 単行本

書評を書くということ

あとがきにかえて から抜粋


書評の仕事をするときには、いつも、襟を正すような気持ちになる。


書評の書き手は、たいてい、本の著者。

つまり、自分も書評される側の人間だ。

本の著者たちが、そうやって順番に、読者となり評者となって、互いの本について意見を述べあい、共同で評価を確立していく。

その一つのやりとりが、書評なのだ。


著者がどんなに著名で、権威があろうと(あるいは、なかろうと)、知り合いだろうと、誰だろうと、今度書かれた本の中身に即して、その本から言えること(だけ)をはっきりのべる。

こうした公開の応酬が、それぞれの本の価値を明らかにしていく。


書評は、いわば法廷での証言のようなもの。

嘘いつわりがあってはならない。

筆を曲げてはいけないという、緊張に導かれている。

その緊張をよくたどれたときに、書評の背筋が伸びるような気がする。


では書評は、ただ正確な批評をめざせばいいのだろうか。

私は、書評は、必ず褒めることにしている。

さもないと、読んで楽しくないだろう。

著者の言いたいことの核心を、評者が取り出して、読者のもとに届けるという、書評の伝達の径路も見えにくくなる。

褒めるとは、共感するということ、好きになるということだ。

著者の意見に賛成であろうと、反対であろうと、ともかく著者の側に立って、この本が書かれたことを喜ぶ。

そして、そのことに、嘘いつわりがあってはならない。


だから、褒めることがむずかしい本の書評は、原則として引き受けない。

なにか理由をみつけて、断れるなら断ってしまう。

褒めることと、公正、公平、正確、率直であることとは、矛盾しそうにみえる。

よく考えてみると、必ずしも矛盾するわけではないが、微妙なバランスを要する。

だからここにいちばん神経を使う。

うっかり褒めすぎれば、すべてがぶち壊しになり、著者にも失礼な結果になるのだ。


ところで、書評の特徴は、短い事である。


私が想定する書評の読者は、まず、その本の著者である

書評を書くとき、著者本人に読ませるつもりで書けば、できるかぎり正確に、公正に、公平に書くことができる気がする。

それでも、私の書評が、著者を100パーセント満足させることなど、まずあるまい。

なぜここを紹介しないのか、ここを書かないでどうするといった、不平や不満が聞こえてくる。

原稿の分量が限られているので、ごめんなさい、と内心で言い訳して、許してもらっている。

書評が短いというのは、だから、助かることなのだ。


というわけで、書評は、書き慣れるということがない。

書評はむずかしい。

もしも書評が、別な本の昔書いた書評と似てしまったら、それはマンネリである。

一回一回、本を最後まで丹念に読む。

そして、耳を澄ます。

聞こえてくるかすかな響きを手がかりに最初の1行を探ろうとする

これに、書評の作業の半分くらいの時間がかかると言ってもよい。


書評を書いてみる機会は、ふつうの読書家には多くないかもしれない。

だが、実は絵画のデッサンのように、勉強にはとてもよい方法だ。

最近は、ネット書評のような場も増えている。

気軽に、一般読者の目にふれるかたちで書評を書いてみる事もできる。

本書が機縁になって、さまざまな書評の書き手が増えてくれれば嬉しい


ものすごく真っ直ぐな文書で、頭がさがる。


かなり高次なアカデミックな印象を受けて


とっつきにくいのか?と思いきや


平たい印象を受けるものもあったりして


親近感が湧いてきたりと不思議な魅力を


備えておられる”本物のインテリジェンス”な方と感じた。


次の文章なぞ、インタビューということもあり、


口語体ということと高校生向けに優しく語っている為


肉声に近いからかもしれないけれども。


解説・論文とブックガイド


高校生のための「名著講読ゼミ」


インタビュー『進研ニュースVIEW21』1999.9


から抜粋


私は仕事柄、人の文章もよく読むわけ。

そうすると、思想や学問を扱った文章ってやっぱり斜に構えたものが多いんだね。

「俺はこんなことも知っているぞ、お前はこんなことも知らないだろう」とかね。

逆に十分分かっていないのに言い訳したり、隠したり。

余計なものがたくさんついているわけです。

私はそういう本を読む度にすごく腹が立った。

同じ書き手としても余計なものを外せば、もっと親しみやすいものができるはずだって思うようになったんです。


だから、88年に書いた『はじめての構造主義』という本では、そういう手練手管を一切外して、ものを書くように努めました。

これも頼まれたからやった仕事ではあるんだけど、若い人たちに向けて、易しく読めるということをかなり意識してやれたのではないかと思います。


本というものが、読めば読むほどお利口になるものだというのは幻想。

うまく読まなきゃだめなんだ。

だからただ読めばいい、というものでもない。

私だって仕事では読むけれど、読まなきゃいけない本を読んでるかどうか…。

ただ、読まなきゃいけない本かどうかは、読んだ後でしか分からないんですよ。


それでもあえて読書を勧めるなら、自分のこと、自分が考えてきたことを他人が書いていると思って読むとか、あるいは全く他人のこと、自分とは違う人の考えが書いてあるとか思って読めば楽しい。

いろんな読み方をしてみるといいんじゃないかと思いますね。


ルイス・キャロル(柳瀬尚紀訳)『不思議の国のアリス』ちくま文庫

小堀憲『大数学者』新潮選書

吉本隆明『改訂新版 共同幻想論

サミュエル・ベケット(安堂信也・高橋康也訳)『ゴドーを待ちながら』白水社

橋爪大三郎『はじめての構造主義』講談社現代新書

つげ義春『ねじ式』小学館文庫 


世界を読むから抜粋


金儲けがすべてでいいのか

金儲けがすべてでいいのか

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2002/09/27
  • メディア: 単行本

『現代』2002.12から抜粋


天才的な言語学者チョムスキーが、経済のグローバル化を徹底非難する評論集

9.11テロ後にぴったりの内容だが、出版は1999年だ。


チョムスキーが反対するのは、新自由主義(ネオリベラリズム)という名の怪物である。

これは弱肉強食の、19世紀の帝国主義が再来したもの。

当時の帝国主義と違うのは、民主主義の装いをとっていることだが、そのなかみは「同意なき同意」にすぎない。

大企業がメディアを通じて繰り広げるプロパガンダに、人びとが操られているのが実態だ、という。


新自由主義は、ひと握りの金持ちがますます金持ちになる市場万能の政策で、大多数の人びとの人権は無視される。

そればかりか、アメリカの企業は利益を求めて世界に進出し、独裁政権を支持したり、第三世界の貧困を拡大させたりしている。

アメリカに対する全否定が、本書の基調である。


チョムスキーは、アメリカが世界の人びとを貧しくすると言う。

だが、もしもアメリカとその工業力が崩壊すれば、まっさきに生存が危うくなるのはその貧しい人びとなのだ。

60億を超える世界人口は、アメリカに象徴される高度な工業力なしに支えられない。

この現実を認めるなら、アメリカを非難し攻撃するより前に、アメリカの行動原理を丁寧に少しずつ組み換えるのには、どういう種類の忍耐強い努力が必要なのかを考えるほうが大切だ。


解説・論文とブックガイドから抜粋


「聖なる分離」の儀式


「『買ってはいけない』は買ってはいけない」所収 1999.10から抜粋


『買ってはいけない』という本は、その名の通り、これこれの商品は有害だから買わないように、というメッセージの本である。

有害なのは、主成分が毒物だったり、添加物が人体によくない作用を及ぼしたりするからだという。

このメッセージが広く受け入れられ、またたく間に百万部を越す売れ行きとなった。


ほんとうにそれらの商品が有害であるかどうか?

これは、科学的に検証するしかない問題である。

検証は、専門家に任せよう。

私は、その代わりに、「買ってはいけない」というメッセージが何を意味するか、考えてみる。


同じメーカー批判でも、『暮らしの手帖』の場合は徹底していた。

私は子どものころ、毎号読んでいたので覚えている。

洗濯機、掃除機、ベビーカー、…。

家電製品を中心に各メーカーの商品を集めて、毎号のように実験をする。

性能、安全性、価格、デザイン。

さまざまな要素が多角的に比較検討され、評価が下される。

買ってはいけないと評価される場合でも、厳格な実験データの裏付けがある。

なるほどと納得できる。

メーカーから文句が出たという話は聞かない。

これが、科学的な権威というものだ。


『買ってはいけない』は、実験をしない。

よそのデータを孫引きしているだけである。

メーカーがマスコミで一方的に商品広告をするのはけしからんというが、一方的な商品批判を商品として流通させている自分たちとどれだけ違いがあるのか。

これは、科学ではなく、政治ではないのか


私に言わせれば、何を「買ってはいけない」か気にする感覚は、いま地球上の人類をとりまく現実とあまりにもかけ離れている。

食品添加物の取り過ぎで死んでしまった人間が、何人いるだろうか。

それ以前に、食品そのものが手に入らないで飢餓線上をさまよっている人びとが、約10億人もいる


インターネット鼎談書評 から抜粋


■小林恭治

作家。1952年生まれ。

作品に『ゼウスガーデン衰亡史』『電話男』『モンスターフルーツの熟れる時』ほか。


■広瀬克哉

法政大学法学部教授(行政学)。

1958年生まれ。

著書に『官僚と軍人』『インターネットが変える世界』ほか。



夫婦茶碗(新潮文庫)

夫婦茶碗(新潮文庫)

  • 作者: 町田康
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2001/05/01
  • メディア: 単行本

読売新聞1998年4月27日


橋爪▼

たいへん面白かったです。

まずなんといっても、文体の妙。

切れそうでだらだら続く饒舌体というのは、会話を模したものだという説もあるそうですが、私は平安文学を思い浮かべてしまいました。


広瀬▼

「町田康風饒舌体」と呼ばれているそうです。

頭の無駄な回転の妙な過剰さというのか、切実なだらしなさというのか、力の抜けた勢いみたいなものに流されて一気に読み切ってしまいました。

『夫婦茶碗』の結びの、<わたしは負けない。茶柱。頼むよ。立ってね。茶柱。/わたしは夫婦茶碗に茶柱を立てる。/立ててこます。>なんか、よくこんなフレーズが出てくるなあ、と感嘆する。


小林▼

こういう、端的にプロットをたてず、文章の流れに忠実に話を進行させてゆく形式は、1970年代に仏で流行したヌーボー・ロマンの系譜だと言えます。

ヌーボー・ロマンは一時期脚光を浴び、日本の多くの詩人が多くそれ風の習作を発表しています。

元歌手・詩人の町田氏は、そのあたりでこの技法を習得したのではないか。

筒井康隆さんの小説の影響もかなり顕著な気がする。


橋爪▼

町田さんの年代から言うと、むしろ私が「影響あるかも」と思ったのは、(しゃべるように歌う)ラップです。


広瀬▼

町田さんは62年生まれで、70年代末頃までにはパンクロックのバンド活動を始めているというから、まだまだヌーボー・ロマンにかぶれた世代に近いのでは?とはいえ、町田さんはバブル時代末期ごろからしばらく図書館の本を全部読むというような生活をしていたそうですから、あまり時期とか世代にこだわっても、的外れになるかもしれません。


橋爪▼

私はこの本に、ストーリーのにおいを嗅ぐ思いがした。

パンクは若者の言葉にならない感情・体感のようなものをリアルタイムで言葉にします。

それはラップに受け継がれていると思う。

町田さんは小説という形式を借りて、そのナマのラップをやっているんじゃないか。


小林▼

町田氏が物語の解体という流れに乗っているのは確かで、それの始まりとなったのが、ヌーボー・ロマンであると考えれば、両者の血縁関係はやはりあると思います。


ある意味で、ひじょうによくこなれたポストモダンが町田康の小説なのではないかと思います。

その意味ではラップもまた、こなれたポストモダン音楽なのでしょう。

そのこなれたポストモダンがパンクロッカー出身の小説家から登場したのは象徴的だと思います。


橋爪▼

興味ぶかいのは、そのポストモダンの小説が、コンビニ世代の卑近な日常と完全にマッチしている点です。

この小説の根本にあるテーゼは、世界は自分の意思通りにはならないという偉大な事実の確認だと思う。

消費社会がふりまいた幻想は嘘っぱちだと町田文学は言う。

私はそこにリアリズムを感じる

バブル以降の90年代特有の、この社会の水脈をつきあてている部分があるように思ったのです。


小林▼

ヌーボー・ロマンもリアリズムを否定してません(ロブ・グリエは例外)。

町田氏がリアリズムを獲得しているのは、小説形式というより彼の才質、作品の質の高さによっていると思います。

リアリスティックにみえるのは、それだけの作品だという証明でしょう。


知の前線を読むから抜粋


分類という思想 (新潮選書)

分類という思想 (新潮選書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1992/11/01
  • メディア: 単行本

産経新聞1992年12月10日


注目の構造主義生物学者・池田清彦氏の新著である。

《現在、生物分類学の分野では分岐分類学と呼ばれる学派が世界的に流行している。

しかし私には、この学派の方法論が合理的であるとも科学的であるとも思われない。…本書は現代生物分類学批判の書》(「はじめに」)である。

生物学にまるでうとい私だが、引き込まれるように読み終えてしまった。


本書はまず、分類とは何かを考えるところから始まる。

素朴に考えればそれは、種々のものに名前をつけて整理(分類)することだ。

だが、よく考えればそう単純でない。

名前のつけ方も分類も、人間の恣意的営みにすぎない。

人間が勝手に名前をつけるから、動物や植物といった実体があるように思えるだけである。


次に池田氏は、アリストテレス、リンネ、キュヴィエらの古典的な生物分類法の考え方を吟味する。

分岐分類学は、もともと進化論と関係なかったリンネの階層分類と、進化の系統にもとづく分類とを折衷したもので、矛盾だらけというのが著者の見解だ。


生物を、進化の道筋を規準に分類しようと考えるのはいい。

しかし、進化の道筋を見た者がいない以上、それは推定するしかない。

推定は、生物の形態を手がかりにする。

要するに、生物の形態を手がかりに分類しているだけなのだ。

しかも、分岐分類学は「再節約原理」という方法を用いるが、そこから得られる結論が、実際の進化と一致する保証はない。


著者の批判は論旨が明快で、説得力がある

本書から私が強く感じるのは、健康な知のラディカリズムの躍動だ。


ものを考える場合に、ことがらの根本にさかのぼって、既存の思考の枠を乗り越えようとするのが、知のラディカリズムである。

池田氏は、人間がものをみる態度の根本に、分類という活動をさぐりあてた。

科学もこの態度の延長上にあるほかない。

分類が「思想」であると氏が言うのは、そのことを指している。

その上で池田氏は、生物の「科学的」な分類は、われわれの自然な分類と齟齬をきたさないものであるべきだと言う。

《①自然分類群は、それを認識したり命名したりする人間(別に分類学者でなくともよい)がいて、はじめて存在する。②自然分類群は自然界に自存するものではないから、我々が創造すべきものである》(217頁)。


言われればその通りであるが、われわれはつい、学校で習った通りに、哺乳類や軟体動物といった実体が、自然界に存在すると思いがちだ。

それが「思想」にすぎないことーーーそれがきちんと腑に落ちれば、われわれは科学の呪縛から解き放たれるのかもしれない。


養老先生の書評も説明できないけど


”凄い”ものがあるけれど


橋爪先生のも違う”凄さ”があると感じる。


こういうのが”書評”なのだろうなあ。


真剣勝負のような切れ味で迫ってくる。


かと思えば、『BT美術手帖』に掲載された


「とんでもない人びとのどうしようもない3冊」という


書評があったのだけど、それは怒り心頭で


申し訳ありませんが大爆笑させていただきましたが


ここには引かないでおかせていただきつつ


本日も早番ですでに起床時刻から


12時間以上経過しているがゆえ


瞼が重く、空腹感に襲われつつも真剣に


タイピングさせていただき


読書の楽しさを満喫させていただいている


今日この頃を思う次第でございます。


 


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③中村先生の書から”ヒトであること”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


科学者が人間であること (岩波新書)

科学者が人間であること (岩波新書)

  • 作者: 中村 桂子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/08/22
  • メディア: 新書

II 「専門家」を問うーー社会とどう関わるか


1大森荘蔵が描く「近代」


「近代的世界観」とは から抜粋


まず世界観とはなにか、大森の定義を見てみます。

知の構築とその呪縛』にこうあります。


「元来世界観というものは単なる学問的認識ではない。

学問的認識を含んでの全生活的なものである。

自然をどう見るかにとどまらず、人間生活をどう見るか、そしてどう生活し行動するかを含んでワンセットになっているものである。

そこには宗教、道徳、政治、商売、性、教育、司法、儀式、習俗、スポーツ、と人間生活のあらゆる面が含まれている」。


「この全生活的世界観に根本的な変革をもたらしたのが近代科学であったと思われるのである。

近代科学によって、特に人間観と自然観がガラリと変わり、それが人間生活のすべてに及んだのである」。


「文明の危機だとか、文化の変革期、といった言葉が何時でも叫ばれてきたのだ近代の性格の一つであろう。

それは生活と思想との変化のテンポが速くなってきたことを示すものかもしれない。

その変化には短期的な波、中期的な波、長期的な波があるだろう。

1980年代の今日、現代文明の変革を云々するときにわれわれが感じているのは、その最も長期的な波ではないかと私には思われる。

数千年のオーダーの波長を持った波ではないか、と。

私が考えているのは、西欧の16・17世紀頃に起こった科学革命が推し進めてきた現代文明が20世紀の今日一つの転回期(Uターン)にきたのではないか、ということである。

こういう最も目の粗い尺度で見るならば、東洋と西洋という対立は消えてしまう

だからしばしば安直に言われる、今こそ東洋的思想の出番だ、などという事もない。

西洋科学の分析的思考法と東洋の総合的直観的思考法などというコントラストも霞んでしまう。

その代わりに眼につくのが、洋の東西を問わずに、近代科学以前の世界観と近代科学に基礎づけられている近代的世界観のコントラストである。

この二つの世界観の交替が起きたのが西洋では先に述べた16・17世紀の科学革命であり、東洋、特に日本では幕末から明治にかけての西洋思想の流入期である。

そして現在この近代的世界観が西洋でも東洋でも問い直されているのである」。


この後、中村先生は”科学”を「役に立つ」という


視点でとらえずに、”文化”の一つとしてみなすことを提唱。


さらに、”科学”と”科学技術”は同じものではないと。


池内了先生の書でも同様のことが述べられていた、確か。


III 「機械論」から「生命論」へーー「重ね描き」の提案


1 近代科学がはらむ問題


近代科学の誕生 より抜粋


思想、科学(専門)、日常をつなげた考え方ができるようになったところで、いよいよ近代的世界観の問い直しです。


近代的世界観とは、16世紀から17世紀に起きたいわゆる科学革命に端を発しています。

ここで、近代科学という新しい学問が誕生し、そこには新しい世界観がありました。

しかもその世界観は科学という限られた学問に止まらず、社会の価値観を変えるという大きな影響力を持ったのです。

ここでの「社会」は、一地域に止まらず世界中を意味します。

科学はヨーロッパで生まれたものですが、それを支える世界観は世界中へ広がり、今やグローバルという言葉に象徴されるように、地球全体を覆っています。

その裏には進歩を求める価値観があり、それへ向けて皆が動いているわけです。

日本は幕末から明治維新にかけての変革期に、西洋からこうした価値観を積極的に取り入れました。


近代科学の誕生とともに生まれた近代的世界観は「機械論的世界観」と呼ばれます。

ここで、伊東俊太郎先生の『近代科学の源流』に基づいて、科学史の中でその誕生に関わった、重要な人物とその考えを簡単にまとめておきます。(表1)

表1 近代科学を支える「自然の見方」の、それぞれ中心となる考え方

機械論的世界観(17世紀)

ガリレイ 自然は数字で書かれた書物
ベーコン 自然の操作的支配
デカルト 機械論的非人間化
ニュートン 粒子論的機械論

ニュートンは光学でもプリズムによる分光実験によって太陽光が波長の異なる光から成ることを示し、みごとな成果を上げました。

美しい虹の科学です。


しかし同じ頃、ドイツで光に興味を持ち独自の色彩論を打ち出していて作家であり、自然の科学的理解に強い関心を抱いていたゲーテは、暗室でプリズムを用いて分析する英国のニュートンに対して、「自然を拷問にかけている」と非難したと言われます。

開いた自然の中でなく閉じた実験室での研究から自然を語ることへの違和感は、現代科学を否定するつもりはないけれど、そこに何か問題を感じる私の気持ちと重なるように思い、ゲーテには関心を持っています。


水木先生同様に、ここにきてゲーテか。


自分も研究したいと思っていた矢先でございました。


ってのはどうでもいいとして。


すべてのものを最小の構成単位へと還元して見ることで、あらゆる現象に普遍的な性質を探究する科学への道ができました。

そしてここから事柄は一意的、つまり決定論的に動くという見方が出てきます。

つまり、「還元性、普遍性、決定論」というのが、ここで生まれた科学の特徴です。

こうした明快な「自然観」と、それを証明していく「方法」を持つ近代科学は強力でした。

ここに生まれた「機械論的世界観」が世界全体に広がり、現在にいたっています。 


3「重ね描き」という方法


日常と併存する科学を求める から抜粋


ここで、これまで述べてきたことを復習します。

私たちは、人間、つまり自分自身が生きものであり自然の中にいるということを基本において世界観ーー知と暮らしーーをつくりあげ、その世界観の中で社会を組み立てるという方向を定めていました。

人間が生きものであるとはどのようなことか、生きものとしての人間の特徴は何かも見えてきました。

自然と向き合っていればこのような生き方は自ずとできます。

自然の中で新しい知を求め、豊かさを求めてきた歴史が人類の歴史であると言ってもよく、ここで述べていることは新しいことではありません。


けれども、17世紀に始まった科学の世界観は機械論であり、しかもそれこそが進んだ見方だと多くの人が思うようになり、この世界観に立脚した近代科学・科学技術が、世界中を席巻しました。


今、こうした科学や科学技術のあり方に疑問が出されていますが、残念ながらそれは、科学の本質を問い直すものではありません。

たとえば今回の原発事故のような出来事が起これば、単純に原子力発電を推進するか否定するかという図式の問いになってしまい、ひいては「もはや科学は全面的に否定すべきだ」という極端な結論にいたりかねないものです。


しかし、科学が明らかにする事実を否定する必要はありません。

そうではなく、気をつけなければならないのは、科学による理解が優れており、日常感覚での世界の理解は遅れていると受け取ることです。

この二つを縦に並べて優劣をつけることです。


科学が明らかにしてきた知は放棄しない

しかし同時に、大森の示したような二言論に基づく「科学」では、痛みや美しさの感じなどが語れないことは明らかなのですから、科学だけで世界を理解することはできないとする必要があります。


科学も日常も捨てないとしたらどうするか

自然に素直に向き合う日常と科学とを対立させるのではなく、一体化させる方法はないだろうか


「重ね描き」という提案


この問いに対して、大森がみごとな提案をしているのです。

「重ね描き」です。

ここに答えを求めようというのが本書の主旨です。

なんだかとても新しいこと、難しいことを提案しているように聞こえそうですが、そうではありません。


DNAやタンパク質のはたらきを調べるという生命科学の方法で見ているチョウは、花の蜜を求めて飛んでいる可愛いチョウと同じものであるというあたりまえのことを認め、両方の描写を共に大事にするということなのです。


この辺りからかなりハードルが


高次レベルに引き上げられて今の自分は


まだ飛び越せず、なんとなく読み飛ばさせて


いただきました…。


ただ興味深いことは深いのですが高すぎるです。


この後、iPS細胞、日本人の自然観の代表として


宮沢賢治と、まさかの南方熊楠教授が引かれておられ


最後に新しい知への道程が示される。


予想される問題点、伊東俊太郎先生の


「文明が文明たるための3つの最低条件」として


 ① 不殺生=暴力を否定
 ② 共存=文明間の相互作用の重要性
 ③ 公正(equitability)

そして大団円。


穏やかな中村先生が普段と異なるのは明らか。


おわりに から抜粋


「科学者が人間であること」とは、おかしなタイトルだと思われたのではないでしょうか。


筆を進めながら常に思っていたのは、あたりまえのことばかり書いているということでした。


けれどあの大きな災害から2年半を経過した今、科学者が変わったようには見えません。

震災直後は、原発事故のこともあり、科学者・技術者の中にある種の緊張感が生まれ、変わろうという意識が見られたのですが、今や元通り、いや以前より先鋭化し、日常や思想などどこ吹く風という雰囲気になったいます。


それどころか今、「経済成長が重要でありそれを支える科学技術を振興する」という亡霊のような言葉が飛び交っています。


ここには人間はいません。


経済成長とは具体的にどのようなことで、誰の暮らしがどのように豊かになるのか、幸せになるのかという問いも答えもありません。


したがって科学技術についても、イノベーションという言葉だけしかないところに大きな予算をつけることが「振興」とされ、その研究や技術開発によって人々の日常がどのようになるかということは考えられていません。


私たちって人間なんですというあたりまえのことに眼を向けない専門家によって動かされていく社会がまた始まっているとしたら、やはり「科学者が人間であること」という、あたりまえすぎることを言わなければならないと思うのです。


「生きていること」に向き合って「どう生きるか」を考えるというテーマに終わりはありません。

科学者だけが人間であり生きものであるわけではなく、すべての人がそうなのですから、同じ研究仲間はもちろんさまざまな分野の方の力を借りて考え続けようと思います。


中村桂子 2013年7月


ウクライナに軍事支援を続けるアメリカ。


さらにバイデン大統領はイスラエルを支持表明、


「あなた方は一人ではない」。


科学者や一般人にできることはないのだろうか。


考えても仕方ないのだけど、考えてしまう。


今できることは祈ることと本を読むこと


そして日常生活をキープできるよう努める


ことしかできない。


極東の片隅からお届けいたしました。


余談だけれど、伊東俊太郎先生はちょうど


1ヶ月前の先月20日に亡くなられたようです。


本日初めて存じ上げた次第ですが


ご冥福をお祈りいたします。


 


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②中村先生の2冊から”科学と自然”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


科学者が人間であること (岩波新書)

科学者が人間であること (岩波新書)

  • 作者: 中村 桂子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/08/22
  • メディア: 新書

1「生きものである」ことを忘れた人間

自分の感覚で生きる から抜粋


近代文明をすべて否定するのでなく、生きものとしての感覚を持てるようにするところから転換をはかろうとするならば、生物学に大事な役割りが果たせるはずであると考えています。

なぜなら私自身この分野で学んだがゆえに、とくに意識せずに「生きものである」という感覚を身についてることができ、日常をそれで生きていけると実感するからです。


簡単な例をあげるなら、購入した食べ物が賞味期限を超えてしまったような時でも、それだけで捨ててしまうことができません。

まだ食べられるかどうか、自分の鼻で、舌で、手で確認します。


鼻や舌などの「感覚」で判断するとはなんと非科学的な、そんなことで大丈夫なのか、もっと「科学的」でなければいけないのではないかと言われそうです。

科学的とは多くの場合数字で表せるということです。

具体的には冷蔵庫から取り出したかまぼこに書かれた日時をさすわけです。

衛生的な場所で製造されお店に出されていると信じ、安全性の目安として書かれている期限を見て、その期限を見て、その期間に食べているわけです。


こうした判断のしかたは、私には、自分で考えず科学という言葉に任せているだけに思えます。

「科学への盲信」で成り立っているように思います。


もちろん、「感覚」だけではわからないことがたくさんあります。

科学を通じて微生物による腐敗や毒性の生成などの危険性を知り、それに対処することは重要です。

しかし、賞味期限内であれば危険はなく、それと過ぎたら危険と、数字だけで決まるものではありません。


うっかり期限の過ぎたかまぼこをすぐには捨てず鼻や舌を使うという小さなことですが、一事が万事、この感覚を生かすとかなり生活が変わり、そういう人が増えれば社会は変わるだろうと思うのです。

常に自分で考え、自身の行動に責任を持ち、自律的な暮らし方をすることが、私の考える「生きものとして生きる」ということの第一歩です。


「一極集中」と多様性 から抜粋


地球儀の中での日本列島を眺めると、なんと自然に恵まれ、可能性に満ちた場所に私は生まれたのだろうと思います。

ぜひ一度眺めてください。


独立した島としての特徴を生かした国づくりを考えると、次々とアイデアが浮かぶ場です。


そんな呑気なことを言っていては、現代の国際社会において立ち後れてしまうと言われるでしょう。

もちろん、国際社会の一員であることは重要ですが、グローバルであれと言って、そこで動いている政治や経済のみから生き方を決めていくことのほうが、もはや、後れた考え方だと思います。


そうではなく、この列島の「自然」にふさわしい生き方を考えたうえで、そこから世界に発信し、世界と交渉し、世界に学び、尊敬される国として存在していくことを考えられる、私たちの国はそんな豊かな地盤を持った国だと思うのです。


特に東日本大震災を体験し、今後も太平洋プレートの動きは大型の地震の発生を予測させると言われる今、日本列島で上手に暮らしていく方策を考えるなら、生きものであることを実感できる、新しい豊かさを求めていくことが不可欠でしょう。


生きものの基本は多様性であり、さまざまな視点があることです。

「人間は生きもの」という考え方は、多様性を大事にしますので、さまざまな場にある自然、暮らし、文化が織りなす社会を求めます。

その方が一極集中型より柔軟性があり、その結果強い社会になると思います。


日本の近代化は西欧からの科学を主とする知や社会制度の導入で始まったのですが、ヨーロッパなどいわゆる先進国とされる国は実は分散型であり、食べ物の自給もしています。


今後、土地、水などの不足と人口増加、経済成長が重なって食糧不足が心配される中での食べ物づくりの選択を考える時です。

少なくともこのままでは、日本は先進国ではないと言わざるを得ません

社会制度や経済の専門家ではないのでこれ以上のことは分かりませんが、生命誌の立場から、一極集中は改めなければならないと言えます。


東日本大震災の少し後の書だから


今と異なるところあるだろうが基本的に


憂いておられた事は現実になろうとしている。


経済学から得たヒント から抜粋


もう一つ、「生きもの」の視点から見た場合に、現代社会の経済のありようが気になります。


便利さと欲望を叶えることを最優先する考え方が社会を動かしていることは、誰の眼にも明らかです。

ことに金融資本主義経済全盛となってからは、経済は生活者の暮らしという現実から遊離し、「実体」を離れたものになりました。

現代社会は、コンピュータ操作で動きまわる巨大な「お金」に翻弄されています。


こうした経済のあり方には、経済学、社会学など社会科学の中からも批判は出てきています。

たとえばロナルド・ドーア著『金融が乗っ取る世界経済』では、いわゆる「カジノ資本主義」を、格差の拡大・不確実性と不安の増大・知的能力資源の配分への影響・信用関係の歪みなどを引き起こす、憂うべきものとして批判しています。

この言葉を書き移しているだけで気が滅入ります。


あきらかに非人道的(非生物的)なものであるにもかかわらず、金融リテラシーこそ人間にとって最重要課題であるかの如くに言い、小学校で株の取引の教育をしようという動きがあったことが思い出されます。

さすがにリーマンショック以来、それを言う経済学者や経済評論家はいなくなりましたが、それを聞いた時、おなじカブなら畑で蕪を作るほうが良いのにと思ったことも思い出します。


ドーアさんは、GDPの大きさを競うのでなく、格差の少ない、教育・医療・福祉がそこそこ整っている社会、住みやすさの感じられる社会をつくることを選ぼうと提案しています。

そして、GDP競争をするのは小人、住みやすさを選ぶのが君子と言っているのです。

人間を生きものとして捉えることは、このような社会への道筋をつけることだと考えており、社会科学からこの提案が出されていることにホッとします。


ここで経済学の祖と読んでもよいアダム・スミスが同じことを言っていることを思い出しました。

大阪大学の堂目(どうめ)卓生さんから教えられたものです。


「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、…他人の不幸を…自分にとって必要なものだと感じるのである。

…われわれが、他の人びととの悲しみを想像することによって自分も悲しくなることがしばしばあることは明白であり、証明するのに何も例を挙げる必要はないであろう」


「もちろん最低水準の富は必要だが、それ以上の富の追加が、幸せと比例すると考えるのは私たちの中の”弱さ”である

一方、私たちには真の幸福は、徳と英知がもたらすものであることを知っている賢明さもある。

「財産への道」と「徳の道」が矛盾した時は徳の道を優先させれば、社会の秩序は維持され、繁栄する

(『道徳感情論』)


つまり、お金の額(具体的にはGDP)を暮らしやすい社会づくりの基本として考えるのをやめようと言う考え方は、経済の軽視ではなく、経済の本来の姿を大事にすることなのです。

あまりにもお金に振り回される社会であり過ぎ、株価や為替レートに取り囲まれている状況に疲れ、経済を否定的に見てしまいますが、まさに経済は国、社会を支える活動であり、その本来の姿を取り戻すことが大事なのです。


これは、科学技術についても言えます。

原発事故で痛い目に遭ったからといって、科学技術の全否定に走るのは違うでしょう。

科学技術はどうあるべきなのか、それを「人間の側から」考え直すことが必要なのです。


社会経済思想の佐伯啓思さんが『経済学の犯罪』でこの問題をみごとに解析しています。

最近の大学の経済学部では市場競争中心のミクロ経済、マクロ経済、とくにその応用や各論しか勉強しておらず、ケインズ理やマルクス理論が体系的に学生の頭に入っていないことを知って驚いたと著者は語っています。

市場競争中心のアメリカ経済学はさまざまな学派の一つにすぎず、しばらく前の経済学の中ではむしろ批判の対象だったのに、ということです。


同時に、アダム・スミスやケインズやハイエクには「思想」があり、それがなければ本当の経済学者ではないとも書かれています。

効率性、経済成長、成果主義、能力主義などを過度に追求することは、私たちの生活を著しく不安定化し、人間関係をたいへん窮屈なものにしてしまうということであり、その極限にグローバルな市場競争主義があるという考えで書かれた本です。

生きものという視点から考えたことと、まったく同じことが経済学そのものから出てきているのです。

経済学も生活を大事にするところから生まれた学問のはずですから、同じになるのは当然なのかもしれませんが、とても心強く思います。


経済学のなんたるかも分かってもいないのだけど


中村先生指摘のような「生活を大事にする」には到底


今の世の中、思えず、”経済を優先”と感じるのは


自分だけの気のせいだろうか。


経済とははなれるが、さらに悩ましいのが


昨日の桜島の噴火や宮古島付近の地震の


自然災害や、はたまた自然とははなれるが


引いてみると世界は二つの戦争をしていて


なんとも言葉に言い尽くせぬ状況なのだけれど。


全然話変わったようで変わらずだけど


グローバルについて感じたことがございまして


本日は休みの為、妻と上野・秋葉原に出掛けたが


ここはどこの国だというくらい人種のカオスで


その要因であろう日本という国の魅力は


内側からだと気づきにくいけれのだけれど


変な方向でのグローバル価値の均等化は


避けてほしいと切に願う次第でございます。



ゲノムの見る夢 中村桂子対談集 増補新版

ゲノムの見る夢 中村桂子対談集 増補新版

  • 作者: 中村桂子
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2015/06/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


増補1 いま、なぜ「科学的思考」がたいせつか


茂木健一郎(2014年)


科学的思考は、人を自由にします から抜粋


茂木▼

科学的な考え方は、平和にもつながっていくと思うんです。

領土問題なんかもね、自然界を見ていると、ばかみたいってことになるんですよ。

たとえばチンパンジーには、隣り合う群れ同士の活動が必ずぶつかるところ、オーバーラップゾーン(重複域)というのがあって、それを知ると人間も、歴史上、こっちの人とあっちの人の活動がかぶってくるのは当たり前だな、と思える。

科学的にものを考えていくことは、平和貢献にもつながっていく。

まあ一方では原爆も作ったりもするから、危険もあるのですが。


中村▼

とくに自然や生き物を見ることは、人間社会を理解するのに役立ちますね。

もちろんハチやアリなどの社会と人間の社会は違いますし、そのまま持ってくるとこれまた危険です。

そうではなく、おお、こんな生き物がこんなことをやっているという驚きを持って理解していき、そこから学ぼうとする。

動植物から学ぶことはいくらでもある。

それを科学と思ってほしいんです。


茂木▼

科学を知っていると、自由になれるんです。

ぼくは途中で法学部に行ったのですが、同じ問題を考える時でも、科学的な素養がある人は、より自由になれる気がする。

国境線の問題を、国際法でどうのこうのというよりも、動物のテリトリー争いと比較してみる方が、断然面白い。

オーバーラップゾーンの他に、レジデンシーエフェクトという有名な研究もあります。

チョウが縄張り争いをするときには、もともといたチョウが後から来たチョウに勝つ確率の方が高いのだそうです。

人間もまさにそうじゃないですか。

先に土地をとった方が、優勢になる場合が多い。

チョウも人間もそんなに変わらないなと思うと、国境問題だって、マジに争ったってしかたないじゃん、となる。

科学的思考は人を自由にするんです。


増補2 「縮小時代」の復興ーー新たな価値観を求めて


鷲田清一(2013年)


一人の人間として科学者も語るべき から抜粋


鷲田▼

大阪大学総長時代、震災直後に卒業式があり、学生にどんな式辞を贈ったらいいのかと悩みました。

そこでいろいろ調べたのですが、愕然としたのが、「日本原子力工学会が存在しない」という事実です。

「日本原子力学会」という団体があるにはあるんですが、電力事業者の人が数多く学会理事の仕事をしている。

つまり、アカデミックな学会ではなく、社団法人なんです。

「原子力工学者」という肩書きにしても、「あなたのご専門は?」と聞くと、「電気関係です」「制御システムの〇〇です」「放射能医学が専門です」という答えが返ってくる。

専門が細分化されていて、一人の科学者として、原子力工学もしくは原発全体を見ている人がいないんですね。


中村▼

どの分野もそうですね。


鷲田▼

科学者はごく限られた自分の専門以外は知ろうとしない。

むしろそれが美徳とされる。

でも、ある原子炉が爆発する可能性を科学者がたとえば0.01%だと判断して、だから安心していいのか、逆に原発を即刻停止すべきか否かという判断を、科学者が下すことはできません。

科学者と科学者でない人たちが、同じ土俵で議論し、複合的な要因を考えに入れて決めていくしかない。


中村▼

そうです。

そのときに「科学者と普通の人」と分けるのではなく、科学者も日常の部分を持ち合わせた一人の人間として語るのでなければ、意味がないわけです。


鷲田▼

それは、すごく納得できます。

企業人について言えば、最近よく言われる「ワーク・ライフ・バランス」という言葉も、誤解されているような気がします。

企業での職業人としての生活と、帰宅後のプライベートライフを両立させるというんだけど、そんなのどっちもプライベートじゃないですか


中村▼

その通りです。


鷲田▼

それよりも重要なのは、個人生活を大切にすると同時に、地域の一員としての公共的な生活も大切にするということです。

プライベートライフを大事にするだけでは、世の中は変わらない。

地域や社会の一員としての役割を果たすためにしっかりと時間をとることが大切です。

その意味では、「ワーク・ライフ・バランス」という言葉も、よく考える必要があると思います。


茂木・鷲田先生、中村先生含めて、


かっけえなー。


あ、すいません、雑な言葉で。


いい歳して。


そうは感じない方もおられるとは思いますが。


余談だけど、鷲田先生の指摘される


”ワークライフバランス”って最近聞かないなと。


”QOL”の方がよく見聞きする気がしますが。


”ワーク”なんとかとか”働き方”なんとかって


なんとなくお上が言いたいだけで


実態分かってねえなと思わざるを得ないのですが。


いや、全部ってわけではないすよ、


自分が多分無知なだけで、もちろん


きちんとしたものもあろうかと存じますが


全然、国家に楯突く気なぞはありませんよ。


グローバルキャピタリズムにロックオンされて


それに振り回されなければいいなと


少し気になっただけでして。


まずは自分にできる所からってのは言うに及ばず、


一刻も早く2つの戦争が収束する事を祈り


自然や生きもの全般を意識した生態系や


食物連鎖を取り戻せるような生活をしていきたいと


願い思い行動したい次第でございます。


簡単じゃないだろうけれどもね。


 


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①中村桂子先生の関連書4冊から”人間”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

中村桂子先生を存じ上げたきっかけは


二年くらい前、図書館に通い始めた頃に


リユースコーナに置かれていた


多田富雄・養老孟司先生との


鼎談の書を持ち帰ったのが始まりです。



「私」はなぜ存在するか―脳・免疫・ゲノム

「私」はなぜ存在するか―脳・免疫・ゲノム

  • 出版社/メーカー: 哲学書房
  • 発売日: 1994/09/01
  • メディア: 単行本


 


その時は全く読めない(理解できない)と


思ったもののなにかひっかるものがあり


ステイしておりましたが昨今の読み散らかし後


先日軽く読んでみたらスッと読めた。


(まだ全部読んでないけど)


そして昨今の自分のテーマというか


”サイエンス”や”自然”などの流れから


中村桂子先生単体のこの書を


仕事前に図書館で借りて読みいたく感動し


仕事後にブックオフに寄ったらあったので


購入した次第です。(って前置きが長いよ!)



科学者が人間であること (岩波新書)

科学者が人間であること (岩波新書)

  • 作者: 中村 桂子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/08/22
  • メディア: 新書

はじめに

大地震のさなかで から抜粋


2011年3月11日の大地震と津波、それによって引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所の事故は、日本列島に暮らすものとしての生き方を考えることを求めるものでした。


その一瞬前まで誰もこんなことが起きようとは思ってもいなかったのです。

実は私はその時、東京大学構内での会議に出席していました。

これまで体験したことのない揺れに外へ飛び出し、地盤が安全だと言われて安田講堂の前に行きました。

講堂の脇にある地震研究所からも研究者が出てきて、大地震の最中に、まさに専門家のただなかにいることになったのです。


とは言え地震直後は何も情報がないので専門家も私たちと変わりません。

地震がいつどこで起きるかという問いに対して学問ができることは、得られる精度最高のデータを用いて確率計算ですが、一方、被害に遭った人たちにとっては、地震発生は百パーセント起こってしまった出来事です。

これは病気についても同じで、ゲノム(遺伝情報)や生活習慣を調べてがんや糖尿病などになる確率は出せても、ある個人がいつどの臓器のがんになるかはわかりませんし、すでに病気にかかってしまった人には、確率は役に立ちません。

ここが、学問が日常と接点を持つことの難しさです。

けれども、だから学問は無意味ということではなく、この違いを分かったうえで学問を生かしていかなければならないのだと、震災後さまざまな場面で強く感じました。


よく科学は難しいと言われますが、日常私たちが何気なく接している自然や人間ほど難しいものはないわけで、科学はむしろその中から考えやすい、やさしいところをとり出して扱っているとの言えます。

それなのに社会の側では、科学は進歩しているのだから答えを出してくれるはずと、自然や人間そのものとも言える地震や病気についての判断(とくに予測)をここに期待し、科学もそれに答えようとしてしまうのです。


この書を書かせたのが未曾有の


大災害だったという事実が切ないのだけど


自分としてはこの書は本当に興味深い。


ここではこの書のきっかけしか引けないけれど


近代社会の歪みなど指摘されている点と


中村先生の分析の礎となる書物が多く掲載されている。


という流れから、中村先生個人にも興味が湧いて


最近の書も読ませていただきました。



老いを愛づる-生命誌からのメッセージ (中公新書ラクレ, 759)

老いを愛づる-生命誌からのメッセージ (中公新書ラクレ, 759)

  • 作者: 中村 桂子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2022/03/09
  • メディア: 新書

はじめにから抜粋

いつの間にか年を重ねて、本年86歳。

正真正銘の老人です。

「老い」という言葉にはどこかマイナスのイメージがあり、よい意味に受け止められてはいません。

なぜマイナスかといえば、一つは、人間には寿命があり、老いるということは死に近づいていることが明らかだからでしょう。

そしてもう一つは、能力が落ちていき、これまでできていたことができなくなることが少なくないからでしょう。


老いをマイナスとしてばかり捉えるのでなく、なかなか面白いところもあると思っている気持ちを語ってみたくなりました。

それだけでなく、私の場合、生きているってどういうことだろうという問いに正面から向き合い、しかもそれを小さな生きものたちが生きている姿に学ぶという生命誌の研究を続けてきましたので、そこから生まれる思いを語りたい気持ちもあります。


それは人間を生きもとして見るということです。

他の生き物を見るのと同じように。

そうすると、生まれる、育つ、成熟する、老いる、死ぬという自分の一生をちょっと離れたところから見ることができるようになるのです。


私はたまたまこのような分野の勉強をしたのですが、年を重ねるにつれて、生き物としての自分を外から見る気持ちになれるのは面白いなと思うようになりました。


中村先生のライフワーク”生命誌”にも


強く興味引かれる。そして自分にとって


天界の対談ともいえるくらい神々しい


柳澤先生との対談もそれを後押ししてくれる。


柳澤桂子―生命科学者からのおくりもの KAWADE夢ムック

柳澤桂子―生命科学者からのおくりもの KAWADE夢ムック

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2001/01/01
  • メディア: ムック

生物学のロマン時代に出会って

対談 柳澤桂子 中村桂子


1秒と35億年 から抜粋


中村▼

私たちの社会は二項対立というのか二者択一で考えがちですが、こっちもあっちもあるということなんですよね。


柳澤▼

生命の歴史が35億年、宇宙の始まりからですと150億年。

それを思うと人間の一生なんて本当に短い。

だからといってメチャクチャに生きていい、というとやはりそうではないと思います。

長い長い時間の中の今、しかも人間として生きているという、その奇跡を考えたら、1秒だって大事ですもの。


中村▼

そう、そう。

と同時に、あまりあくせくすることもないじゃないかと、おおらかな気持ちになれますよね。

その二つは両立できるのではないでしょうか。

私は生き物は矛盾を上手にのみこんで、矛盾のままに生きるシステムを開発してきたものだと思うんです。


柳澤▼

矛盾に耐えてきたものだけが生き残ったとも言えるでしょうね。

私たちは直線でものごとを考えがちですよね。

でも、直線ではなく、サークルで考えた方がいい場合もあると思うんです。

無限大と無限小はつながっている、1秒と150億年は環になってつながっていると考えたらどうでしょうか。


中村▼

ウイルスは1番下等なものと昔は考えられていましたよね。

でもよく調べてみると、遺伝子をあちこち動かしたり、まるで世界を支配しているような面もあるわけ。

ですから1番高等と言われてきた人間より上にいて、まさに環になっているとも言える。


柳澤▼

ウイルスみたいに図々しくて調子のいい生き物はいませんものね。

人に頼って、自分だけ殖えようとするんだから。

その点では最も進んだ生き物といえるかもしれません。


中村▼

環で考えると、高等とか下等という概念も無くなりますね。


柳澤▼

環をどこで切るのかを人間が決める限りは、生き物の本性として、人間を高等にしたがるでしょうけど。


中村▼

複雑さで言えば人間が1番。

それから1番最後に生まれてきたことも確かでしょう。

でも高等かどうかは…。


柳澤▼

地球を汚すという点では1番下等と言うこともできますね。


興味深すぎて、夜勤明けの頭では


受け取れきれないものあり、


そもそも地頭悪いからって話もございますが


ここにきてまた新たなテーマというか、


元からあったテーマとリンクしたというか


本が増えるので困ったなあ、とか、


読む時間がないなあ、とか、ぼんやりと


思いながら最近はもう歩きながらも


読書している始末でますます養老先生の


読書術が参考になってしまい


まあいいんですけれども、と思いつつ


急に寒くなってきた関東地方、体調管理しながら


仕事、読書に励みたいと思う秋の夜なのでした。


 


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水木先生の汲めども尽きぬ”知的好奇心”を観察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

水木先生は下品なことも平気で口にされるけど


実は底知れぬ知性に支えられている


苦労人だというのは周知の事実。


いまさら言うに及ばずなのだけど


昨今の自分のテーマとリンクするところも


ありやなしやという感じでして。



ゲゲゲのゲーテ (双葉新書)

ゲゲゲのゲーテ (双葉新書)

  • 作者: 水木しげる
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2016/04/08
  • メディア: Kindle版

水木しげるインタビュー

「ゲーテはひとまわり人間が大きいから、読むと自分も大きくなった気がするんです」


水木サンの80パーセントがゲーテです から抜粋


はじめてゲーテに触れた音はいつ頃ですか。


水木▼

手に取ったのは10代の終わり頃です。

よく読んだのは、20代、30代。

それ以降はあまり読んでいない。

二十歳に近づき、戦争も厳しくなってきて、いつ招集になるかもしれなくなった。

それまでは哲学なんてものとは無縁に生きてきたわけだけど、死の恐怖を克服するために、どうしても読むようになりました。


哲学書は、ゲーテ以外には誰の著作を読まれましたか。


水木▼

いろんな本を読みましたけどね。

カントだとかヘーゲル、ニーチェ、ショーペンハウエルだとかも、良さそうなので読みましたけど、やっぱりゲーテは全体的に大きくて、頼りになるって感じでしたね。

カントとかヘーゲルは学者ですし、あんまりね。

ゲーテは(ワイマール公国の)宰相ですし、人間として大きいですよ。

普通の人間よりひとまわり大きい。


それで、なによりもまずゲーテに学ぶべきだと考えたわけですね。


水木▼

ゲーテはひとまわり人間が大きいから、読んでいると自然に自分も大きくなった気がするんです。


数年前からニーチェがブームになって読まれていますが、ニーチェ哲学はどう思いますか。


水木▼

他の連中は思考して、考えたことを吐露するという感じだけれど、ゲーテの場合は人生とか、人間とか、全てを含んだ発言なんです。

幅が広いから参考になるわけですよ。

そこへいくとニーチェなんかは特別なときの言葉が多かったように思いますね。


ニーチェはゲーテのファンだったから、ゲーテ哲学に大きな影響を受けているのではないでしょうか。


水木▼

そうでもないです。

ゲーテは人生をじっくりと味わった言葉ですよねえ。

ショーペンハウエルやニーチェとかは、ケンカ腰で喋るような感じで(共感できなかった)ね。

日本ではニーチェ的な考え方はあまり上手くいかないのと違いますか。

ニーチェというのは他人に勝たなければいかんという苦しい考え方をして、大騒ぎをしているからねえ。


他人に勝つ必要はないですか。


水木▼

他人と比べるから不平不満を感じるわけですよ。

本人が納得して満足すればそれが幸せってことになるんじゃないですか。

出世して自分だけいい思いをしようと思ったら、ニーチェの思考ですよ。

水木サン(水木は自分のことをこう呼ぶ)にとって、ニーチェは怖いね。


ゲーテの著作は全て読まれたのですか。


水木▼

ほとんど読んだねえ。

ファウスト』や『イタリー紀行』なんかも何回も繰り返し読んだけど、最も愛読したのはエッカーマンが書いた『ゲーテとの対話』です。

水木サンはゲーテの作品よりも、ゲーテ本人に興味があるんです。

だから、『ゲーテとの対話』を何回も読んで、ゲーテの言葉を暗誦してましたよ。


世の中の99パーセントは馬鹿です。 から抜粋


ゲーテは「芸樹には、すべてを通じて、血統というものがある」といっていますが、水木先生の妖怪画は鳥山石燕(せきえん)などに立脚して、よりグラフィカルな具体性を提示しているように見えるのですが。


水木▼

そうそうそう。

石燕は参考にしました。

あれは立派なもんです。

日本の妖怪に関しては石燕の妖怪画が基準になってるんじゃないですか。

石燕は尊敬できますよ。

ノーベル賞なんかをもらうべきです。

妖怪は伝承があるから、創作しちゃいかんのです。

妖怪は感じるものです。

で、感じるものは世界共通です。

日本人があっと驚くものを、エスキモーの人もやはり同じように感じる。

妖怪というのは空白に見えて、実はそこに居るんです。


漫画を描く上で、つきあっていて影響を受けたり、参考になったりした人物は居ましたか。


水木▼

居るにはいましたが、それほどでもないねえ。

99パーセントは馬鹿だから、話せる人は百人に一人ですよ。


性に合わない人間ともつきあうべきだ、というようなことをゲーテはいっていますが、水木先生もそんな人たちともつきあってきましたか。


水木▼

馬鹿な編集者が来てもマネーのためにOKして、向こうがいっていることを理解してやるわけですよ。


馬鹿な編集者が多かったですか。


水木▼

多いんじゃないですか、給料をもらっている人間の多くは餓死する心配がないから、あまり努力はしないし、自分を解放する技術というものがない。

編集者に限らず、サラリーマンの8−9割が馬鹿なんじゃないですか。


ではそういう馬鹿は、どうやって生きていけばいいのでしょう。


水木▼

自分を理解することが大事ですよ。

自分のことを正しくみられない人っていうのは勘も鈍いし、成功や幸せとは縁遠い。

水木サンのように、ゲーテを暗記するまで読むことはいいことです。


知識ではなく教養を身につけないといけないわけですね。


水木▼

そうすれば水木サンのように頭が進みますよ。

勘が鈍くて馬鹿なグループからひとりでも脱出できれば、世の中が良い方向に進むんじゃないですか(笑)。


ゲーテの言葉【死について】


私が人生の終焉まで休みことなく活動して、

私の精神が現在の生存の形式では

もはやもちこたえられないときには、

自然はかならず私に別の生存の形式を

与えてくれる筈だ

『ゲーテとの対話 中巻64ページ』


ゲーテはあの世の存在を信じ、死後もなんらかのカタチで魂は継続すると考えていましたが、私も同感です。

世界のあちこちの「あの世」について調べたことがありますが、考え方はさまざまです。

思うに、死後、カタチがなくなるのではなく、カタチが変化するのだと私は思っています。

人間の目には見えないカタチに変化する。

それが神様なのか妖怪なのかはなんともいえない。

ふわふわっとしたものだと想像しています。


ゲーテと水木先生という組み合わせは


フィットしている気がするのは気のせいか。


いうほどゲーテを知っているわけではないが


養老先生がちらっと仰っていて気になった。


余談だけど、その流れで


ゲーテの『ファウスト』に興味があるが


どうしても読める気がしない。


まずは外堀を埋めて、時が来たら読もうかと。


来るのか分かりませんが。



方丈記 (小学館文庫―マンガ古典文学)

方丈記 (小学館文庫―マンガ古典文学)

  • 作者: しげる, 水木
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/04/05
  • メディア: 文庫

第13章『方丈記』成る


のセリフから抜粋


建暦2(1212)年3月

『方丈記』成る。

鴨長明58歳であった。

『方丈記』は”無常”すなわち、あきらめの心情に最初から貫かれている。

水木サンは若い頃…出征する前に『方丈記』を読んで、大いに共感を覚えた。

死に行く者はあきらめの境地にならなければならなかったのだ。

しかし今の時代、すべてを容認してあきらめずに困難に立ち向かう姿勢こそが大事なのかもしれない。


その頃の長明は、『無名抄』や『発心集』を記している。

『無名抄』を読むと、ある種の郷愁のようなものが感じられるね。

また、「発心集』の仏教説話なんかは、長明の感じる”無常”の心が反映されているのだろう。


長明が死んだのは建保4(1216)年閨6月10日という。

享年62歳であった。


世を恨んで出家した長明の心には、都を捨てたと言いつつも、都の生活を惜しんでやまない気持ちがあったと思う。

最後は、方丈の庵で人知れずひっそりと死んでいったのだろうな。


長明の”無常感”は、若い頃の災害や挫折の経験が大きかったのだろう。

21世紀の現在でも、大いなる災害などの問題を抱えている…

この閉塞感は『方丈記』で語られる”無常”と無縁ではないだろう。


この書はコロナ禍の最初期に深く読んだ。


”方丈記”と”鴨長明の人生”は切ってもきれない事が


とてもよく分かり興味深く拝読。


水木先生とは若干解釈が異なるのだけど


それは、長明さんはさほど世を恨んで


いなかったのではないかという点で。


もっとドライに自己の境遇を捉えていての


”無常感”なのではなかろうかという所でして。


一旦それは置いておいてこの書は


かなり忘れ難い一冊でございます。



ゲゲゲの娘日記 (角川文庫)

ゲゲゲの娘日記 (角川文庫)

  • 作者: 水木 悦子
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2022/06/10
  • メディア: 文庫

ゲーテの母国ドイツへ家族で行ったり


遠野物語の柳田國男の連載を開始とか、


水木先生の知的好奇心の深さを窺い知ることができる。


そんな水木先生を支えたのは家族だったという。


父と家族 から抜粋


父は家族が大好き。

家族と一緒にいるのは父にとって心安らぐ時間だった。

晩年は特にそれを感じた。

いつも父の隣には母。

母と一緒にいるときの父は、本当に幸せそうだった。

一緒にテレビを見ていて不意に母の頬をつまんでみたり、わざと変顔を近づけて母に怒られたり。

子供みたいにはしゃいで、母と一緒にいることが心から嬉しいようだった。


赤貧洗うが如しの人生を間近にご覧になっていた


ご家族の貴重な証言で奥様の書は有名だけれど


自分と同年代の娘さんの視点での書は


同時代の空気が漏れ伝わり読みやすかった。


あの時代に”漫画家”なぞやっていたら


さぞや大変だったろうなあと


ご苦労が偲ばれるものの


自分も本日は朝4時台から起きて仕事のため


そろそろ頭がスリープ状態になってきたことを


ご報告させていただきます。


 


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南方熊楠・水木しげる両先生の”リテレート”を知る [’23年以前の”新旧の価値観”]

過日読んだ熊楠さん関連として


ぜひに読んでみたかったものを読んでみた。


猫楠 南方熊楠の生涯 (角川文庫)

猫楠 南方熊楠の生涯 (角川文庫)

  • 作者: 水木 しげる
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2015/03/19
  • メディア: Kindle版

解題ーーなつかしい両生の奇傑の生涯


荒俣宏(博物学者) から抜粋


南方熊楠という人物をひとことで評そうなら、両生の奇傑、これ一語ではあるまいか。

すなわち、文明の窮まるところ倫敦(ロンドン)の学林(アカデミイ)で並いる学者を相手に一歩も退かぬ学術論争をたたかわすと思えば、熊野那智の森での幽霊やひだるを相手にあやかしの呪術合戦に及ぶ。


理性界と幽冥界。

この両方にふかくかかわって、なお、みずからは融通無碍(ゆうずうむげ)。

このような、半分に割いても平然とその生をつらぬけるオオサンショウウオのごとき大妖怪は、明治以後まったくこの大和島(やまとしま)に消息を聞かなかった。


ふつう、幽界に足をつっこめば、理性は溶けてなくなる。

理界に立てば立ったで、霊能は昨夕(ゆうべ)の風邪のようにケロリと吹っ飛ぶ。

まことに両生の知を保ちつづけることは、両刀づかいで千人を斬るよりも至難のわざだ。


いや、もうひとり、わが日本に異数の人物がいたのを忘れていた。

水木しげるさんもまた、妖怪跋扈(ばっこ)するジャングルの人々と、文明世界のリテレートたちとのあいだを行き来できる半理半妖の心やさしい魔王であった。


その水木さんが、逸話と謎に満ちた南方熊楠のどこをどう掬い上げてくれるのか、妖は妖を知るだけに、刮目して待たねばならなかった。


『猫楠』とは、これまたなんとすばらしい迫り方だったろうか。

熊という語は、あまりにも民俗学的な意味を担いすぎていて、熊楠自身、ときには気楽に生きたいと思うこともあったろう。

ハメが外れたときのクマグス、そこに彼の人格の愛らしさ、おかしさがあった。

それを「猫楠」なるタイトルに象徴させたところなどは、まことに心憎い構成である。


また、そのすてきな題名と同時に水木さんが選び出したのが、リテレートなる心踊るキーワードだった。

日本では久しく聞かなかったこの語は、<民間学者>をあらわし、<文士>を意味する。

それもただの学士や文士ではない。

飯の心配にわずらうことなく、学に遊び、しかも人に敬愛の情を抱かせずにおかぬ者。


これならば、ややもすると独善の匂いをただよわすエキセントリックなる語よりも、ずっと熊楠の本質を衝いている。

もちろん、理と識の妖怪は世界の諸相を理解するのではない

はじめから知っているリテレート)のだ。

これぞ<脳力>(リテレート)、と断じてよい

水木さんが描いたのは、そういう妖怪のなつかしい生涯なのである。


解題ーー天真爛漫な森の人


中沢新一(宗教学者)から抜粋


四谷怪談や番長皿屋敷のような、いわゆる都市ものの怪談に出てくる幽霊たちは、人間的な情念が強すぎて、なんとなくうっとうしい感じがしていた。

ところが、水木さんの描く妖怪たちは、情念なんかから解放され、まったくリラックスして、森や川や山や暗がりの生存を、楽しんでいる様子なのである。


なかには、カッとなりやすい奴とか、シツコイ性格の奴とかもいるけれど、そういう性格なら、動物の間にも、よく見かけることができる。

妖怪は完全に自然にフィットして生きている。

ユーモアが好きで(リラックスしている者は、誰だって卑猥なことが好きだ)、それに、純粋で、大のお人好しだ。


だから、僕は南方熊楠という人物がマンガになる時には、ぜひ水木さんに、この難しいテーマと取り組んでもらいたいもの、と思い続けてきたのだ。

南方熊楠という天才が、まさに水木さんの描き続けてきた妖怪たちと、同じような世界を生きたからである。

熊楠は、日本の自然の、もっとも奥深い神秘と親しくおつきあいしながら、あのユニークな思想を育てた人物である。

森の中にいると、彼はリラックスして、脳力という超能力が、フル回転し出した。

霊能者と同じように、幽体離脱したり、見えないものが見えるようになった。

町の中にあっても、天真爛漫な妖怪たちみたいに、すっ裸でその大ふぐりを風に揺らしながら歩いた。

卑猥な冗談がなによりも大好きで、まじめな論文の中でも、しょっちゅう猥談をかました。


彼は森の人として、日本の妖怪たちの世界を熟知していた。

そういう南方熊楠を描ける人といったら、それこそ水木しげるさん以外には、考えられないのである。


あとがきーー幸福学上よりみたる熊楠


水木しげる(幸福観察学会会長)


人生は”有限”のものである。

その有限の中で、人はどれだけ”幸福”であったのか、というのが、幸福観察学会(目下会員は一人)の研究テーマである。

奇人・南方熊楠氏は、若い時は誰のいうこともきかず、自分の思い通りの生活に進んだ。

長じて、リテレート(文士)なる生活、即ち”金”のために働かないという生活方法で、この人生の荒波を乗り切ろうとするわけだが、どうも晩年には、それがうまくいかず苦しむわけだ。


地上に生まれて、”エサ”を求めて歩き回るのが、生命をもつものの宿命なのだが、熊楠は、それをあまりやらず、自分の好きな”道”を驀(ばく)進した。

これは幸福なことで、人のこととか、家族のことなんか考えると、なかなかできないことだ。


また彼は、一生”童心”を失わなかった。

彼の行動をみると、昔のガキ大将を思い出すようなことばかりだ。

いずれにしても、名利にうとい人だけに、その”学問”はなかなか味わい深いものがある。


熊楠さんの印象はこの前の書から


変わってきたのだけどさらにまた変わる。


大英博物館勤務時代の豪胆っぷりは


めちゃくちゃすぎて、イカれすぎだろうとか。


ここまでの変人だったのだろうかという


疑問とともに、だとして


”スピリチュアル”なものとも通じていたのかも


と思ったり、だから水木さんなのか、と


中沢先生の解題に納得したり。


さらに考察を深めるために、


10年以上前に購入して以来


久しぶりに以下のも閲覧でございます。


ほとんど内容を忘れていた。



妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論 [DVD]

妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 製造中止
  • 発売日: 2006年

水木さん84歳の時の日常生活を


追ったTVプログラム。


調布にある自宅から事務所、蔵書倉庫へ密着、


奥様や関係者のコメントもあり。


最大の目玉は荒俣宏さんと二人で


パブア・ニューギニアまで行かれている。


そのときの表情はイキイキとされていて


日本にいる時の沈んだものとは異なるのが印象的。


熊楠さんとも共通するものを感じる。


普通では見えていないものが見えているかの


なんと言えばいいのか形容ができない人物で。


10年前に観た時とはかなり異なる感想が


湧き上がりつつ、昔の8ミリ映像も途中で


挟み込まれていたのだけど


ああ、昭和40年代はこんなだったなあ、とか


奥さん大変だったろうなあ、


家族は大切にしないとなあとか


感じ入る中、妻が具合悪いので夕食は外でと思い


バッテリー上がりの車が戻ってきたので


これから家族で出掛ける予定でございます。


 


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池田先生の3冊から”考えられない”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

先鋭すぎて震え上がるような


池田先生の3冊を読んでみた。


時系列で読んだけれど、以下の引用は


内容を考慮し入れ替えております。


%u5B64%u72EC%u3068%u3044%u3046%u75C5 (%u5B9D%u5CF6%u793E%u65B0%u66F8)孤独という病 (宝島社新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2022/12/01
  • メディア: 新書

 


はじめに


孤独は世界が恐る「現代の伝染病」から抜粋


いま日本人のだいたい4割くらいが、多かれ少なかれ、孤独を感じているという。

2022年4月、内閣官房孤独・孤立対策担当室が、全国の満16歳以上の2万人を対象に孤独感について調査をしたところ、「しばしばある・常にある」「時々ある」「たまにある」と回答した人は36.4%に上っている。

イギリスで同じような調査をしたところ、孤独感があったのは2割程度という結果だった。


実は世界的には、孤独というのは社会や人間の心身に悪影響を及ぼす「現代の伝染病」という恐怖の存在で、国家がどうにかして解決すべき問題ということらしいのだ。


人生の意味を考えるから孤独になってしまう


から抜粋


もともと人間には生きる意味などないので、絶対的な正解を見つけようと思うと、いつまでも満たされない。

それで、自分の人生は何だったのか、と虚しくなってしまう人が現れる。

虚しくなると、孤独を感じてしまう。

たくさんの人に囲まれて、日々の食べ物にも困らないという幸せを享受しながらも、心に大きな穴が開いてしまうのだ。


このようにないものねだりこそが、孤独というものの正体なのではないかという気がする。

そうだとすると、ないものねだりをやめるというのは孤独の処方箋になる。

つまり「人生なんてもともと意味がない」と認めてしまって、毎日生きるという事実だけを受け入れるのだ。

そうすれば、孤独かどうかなんてことは正直どうでもよくなる。


2022年12月池田清彦


第4章孤独の飼い慣らし方


「働くことは美徳」なんてプロパガンダに騙されるな


から抜粋


「意味という病」のなかでも最も厄介なのは、「人というのは額に汗水垂らして働くことがまっとうだ」というものだ。

これは非常に悪質な嘘で、「人生の意味」を捏造しているといっても過言ではない。


誰かが意図的につくり出した「意味」などという大嘘に惑わされないで、国家や会社のためにではなく、自分のためにいちばん心地よい行動をする。

実はこれこそが、最も効果的で、最も根本的な「孤独対策」なのだ。


ここまでドラスティックな考えをとれないのが


多いのではないでしょうかね。自分もですが。


でもそれを考えるから孤独になるってのも頷ける。


何も考えず黙々と、ってのが幸福度高いのだろうけど


そうするとこれは自論なんですが本を読む行為は


危険だよなあ、と思ってしまったり。


考えちゃうもの、こんな頭でも、って。


どんな頭なのか、自分でもわからないけど。


それに最近の若い人って、呆れるくらい


ほとんど意味を追求するからなあってのが実感です。



自己家畜化する日本人 (祥伝社新書)

自己家畜化する日本人 (祥伝社新書)

  • 作者: 池田清彦
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2023/10/02
  • メディア: Kindle版

 


はじめに から抜粋


地球上に存在したありとあらゆる生物のなかで、私たち人間ほど繁栄を遂げた種はいない。

野営動物と違って人間は言語を操り、高度な文明を発展させて、今やこの地上の支配者となった。

多くの人は無邪気にそう思い込んでいるかもしれない。


だが、人間が「強者」になりえたのは、単に賢かったり、道具を使ったりしたからだけではない。

人間に従順に飼いならされる家畜のように、自らを「家畜化」させてきたことによってこれほどまでの繁栄を遂げたのである。


ヒトはどんな動物よりも「家畜化」された種である


から抜粋


18世紀末、「人間は他のどんな動物よりも、はるかに家畜化された種である」と提唱する学者が現れた。

ドイツの人類学者であるヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハだ。


人間は超越的な「飼い主(主人)」ではなく、それどころか自らを家畜化(=自己家畜化)させてきたことで今日の繁栄を築いたと主張し、学会に論争を巻き起こした。


その後、19世紀半ばに『種の起源』で進化論を発表したチャールズ・ダーウィンもまた、人間の家畜化を検討している。


20世紀になると「ヒトの自己家畜化」という概念は、人類学の枠を超えて、生物学、社会学、心理学などの学問分野へと広がっていく。


横断的な研究が進むにつれて、人間の手によって長い時間をかけて家畜化された動物には、見た目においても、ある一定の共通する変化が見られることがわかった。

一方で、そうした家畜動物がたどってきた進化と同じような構造を、実は私たち人間もとたどってきていることもわかってきた。

そうさせた「飼い主」は誰か?

そう、他ならぬ人間自身である。


こうした潮流は国全体の未来を考えれば、決して望ましいとはいえない。

このまま自己家畜化が進んだ先の未来には、何が待ち受けているのか。

深刻化する「精神の自己家畜化」から、私たち日本人はどうすれば抜け出すことができるのか。

日本人の自己家畜化の歴史をたどりながら、一緒に考えていきたい。


2023年9月池田清彦


第4章移動できるメリットをフルに活かして能動的に適応せよ


から抜粋


結局のところ、人間は幸福や充実感を実感できるのは、「自分の才能を発揮できる場所」を見つけた時なのである。


ダーウィンの進化論は、「生物は環境に適応することで進化していくものであり、適応できない個体は淘汰される」という思想に基づいている。

これが「自然淘汰」の概念であり、環境への適応が種としての生き残りと繁殖に大きな影響を与えると述べた。


だが、私はこの説に全面的に賛同できない。

なぜなら、進化の過程では常にランダムに突然変異が生じ、その場所に適応的なものはその場所に残り、その場所に適応できないものは棲みやすい場所を求めて移動するに違いないからだ。

そもそも生き物には「動く」という機能が備わっているのである。

受動的適応よりも能動的適応のほうがメジャーなプロセスなのだ。


日本の国力の凋(ちょう)落が止まらない本当の理由


から抜粋


権力にとって日本の凋落はある時点(おそらくはっきり自覚し始めたのは第二次安倍内閣の時)から、実は望むところになったのだとしか考えられない。

国民が貧乏になってきたので、企業の製品を日本人に売って儲けようとするモデルを徐々に放棄して、なるべく安く日本人の労働者を働かせて、その成果(製品やサービス)を外国に売って儲けようと考えたのだ。


そのため国内の賃金を最低限に抑えて、儲けを最大限にして、その儲けを国民に還元しないで、権力と大企業とその取り巻きだけで分配するシステムを構築したのだ。


国力が上がらないほうが、自分たちの短期的な利益にとっては好都合なので、意図的に国力を下げる政策をとり続けてきたわけだ。


そう考えれば、赤字必定(ひつじょう)なオリンピックや万博を無理やり推進した(する)理由や、消費税を目一杯上げて、国民を反抗する余裕がないほどに貧乏にして搾取する理由もよくわかる。


自公政権が長年かけて行なってきた国民の奴隷化政策が功を奏して、精神的自己家畜化が進んだ国民は、唯々諾々(いいだくだく)と政権のいいなりになっている。


この言説が全てとは思えないけれど、


否定しきれませんゆえ、一旦受け入れるとしたら


腑に落ちること多いんだよなあ。


ここに引かせていただいたのは感情を相当


刺激するものなのだけど、他にも


多様性とか、これからの時代まだサバイヴしないと


ならない自分らに大切と思われるキーワードが


たくさんありすぎる。


それと”家畜化”という表現はかなり怖い。


自己家畜化されているからか?


精神的な家畜化というのはかなり興味深い。


余談ですがこの本の帯には、今までよくあった


養老先生のご推薦がなかったが、それは


余計なお世話で主たる話ではないからいいとして。


池田先生よくSNSでバトルされておられますが


無尽蔵な知識と鋭利な分析力を兼ね合わせた


池田先生に喧嘩を売るのは無謀です。


養老先生もそう書かれてました。


理論が正しいかどうかは一旦置いておいたほうが


身のためでございます。(これが自己家畜化なのか)


池田先生の読書術や本棚系の本をぜひ読みたい。


絶対、出さなそうだけれどね。(←池田先生風)



驚きの「リアル進化論」 (扶桑社新書)

驚きの「リアル進化論」 (扶桑社新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2023/09/01
  • メディア: 新書


はじめに から抜粋


進化論研究は私のライフワークで、これまでもたくさんの本を書いてきました。


進化生物学の揺るぎないパラダイムだと信じ続けている人が多いのが、19世紀の半ばにダーウィンが提唱した進化論にさまざまな修正を加え、また、それ以外のアイデアも融合させた「ネオダーウィニズム」という学説です。

ネオダーウィニズムというのは、進化はすべて「遺伝子の突然変異」と「自然選択」と「遺伝的浮動」で説明できるというものでした。


ただし今では、すべての進化がそれで説明できるわけではないことは、ネオダーウィニズムを信奉していた人たちも含めた多くの学者たちの一般的な認識になっています。

「すべて説明できる」と言っていたのに、「すべてが説明できるわけではない」ことを認めてしまっていること自体、なんだか変な話なんですけどね。


それでも相変わらず、ネオダーウィニズム的なプロセスが進化の主因だとの考えが、学界でそれなりに支配的なパラダイムの地位を守っていられる秘訣は、その高い論文生産力にあります。

学者として生き残るためには論文生産力の高いパラダイムに依拠していたほうが何かと有利だからという事情もありますが、論文がたくさん出る本当の理由は、ネオダーウィニズムが完璧に正しい理論ではないからです。

「すべてが説明できるわけではない」という不完全さが都合のいい方に転んでいると言ってもいいでしょう。


完璧な理論として確立して言える学説は、それ以上研究する余地が残されていないので、学問としてはもうそこで終わりです。

例えば、ニュートン力学は、マクロの運動を司る法則としてこれ以上ないくらい完璧な理論ですから、全くつけ入る隙がありません。

だから論文の書きようがないですし、書いたところで、「そんなの当たり前だ」と言われるのがおちでしょう。


けれども、ネオダーウィニズムのような隙だらけの理論であれば、話は別です。


そもそも「進化論」とはなんでしょうか?

何万年以上にもわたる地質学的な時間規模で、進化という「現象」を自分の目で見た人はこの世に誰もいません

誰も見たことがないものは「現象」ではありませんから、そういう意味で言えば「進化」は現象ではないということになります。

一方、「生物の多様性」というのは誰もが目にする「現象」です。

「世界初の進化論者」であるラマルクや「進化論の父」と言われるダーウィンが「進化」という仮説を思いついたのは、「生物の多様性」という現象を説明したかったからなのです。


もちろん現在は、種内の小さな進化(小進化)は観察することができます

この小進化という「現象」はネオダーウィニズムで説明できますから、そういう意味においては、ネオダーウィニズムが立派な進化理論であるのは間違いありません


1970年代ごろから遺伝子工学が発達し、DNAを切ったり貼ったりできるようになったことで、自然界では偶然に起こる「突然変異」やその積み重ねを、かなりのところまで、人間は再現できるようになりました。

ところが、その「結果」は予想していたものとは大きく違っていました


DNAを切り貼りして、人為的に突然変異を起こすことを繰り返し、自然界であれば長い年月をかけて起こるようなことを再現してみても、多少変わった形のものができるだけで、少なくとも別の種に変化するような大きな進化を起こすことはできなかったのです。


その事実ではっきりしたのは、種内のレベルでの小進化はともかくとして、もっとダイナミックで、生物の多様性に直結するような大進化は、ネオダーウィニズムが主張してきたようなメカニズムでは決して起こらない、ということでした。


この本では、進化論が2023年の今日までどのように変遷してきたかをたどりながら、ネオダーウィニズムの限界を改めて明らかにし、それを止揚※するアプローチである「構造主義進化論」についての話を進めていきたいと思っています。


※=止揚とは、ドイツ語で「アウフヘーベン」、


意味は、あるものを、そのものとしては否定しつつ、


更に高い段階で生かすこと。


矛盾するものを更に高い段階で統一し解決すること。


とのことなんだけど、これって、池田先生の言説


そのもののような気がしたのは気のせいか?


人為的な進化の検証は、やはり本当の進化とは


異なるのではないかなあ、と思うのは


当然ではなかろうかねえ。


って池田先生に喧嘩売ってませんよ、そう聞こえたら


誤解です、誤解です、と、2回言いました。


多分50冊くらい読んでるし相当数買ってますし。


理解しているかは別ですよ、池田先生を


なんとなれば”天才”って呼んでる方も


いらっしゃるし、自分も池田先生は


多分天才だろうって思っているし。


ってそれは置いといて、話戻させていただき


進化論の本が1番楽しそうな池田先生。


自分も読んでいてかなり爽快だった。


昔の言説・書籍よりも柔らかくて


(言ってることはあまり変わってないのだけど)


昔のは怖くて読んでいて閉じたくなるもの多し。


ネオダーウィニズムへは当然お譲りになられないが


正直言って自分の頭ではよくわからない現段階では。


ドーキンスさんグールドさんM・リドレーさんや


長谷川眞里子博士、日高敏隆先生も自分は好きで


それでまあいいんでしょうけれど。


養老先生仕込みの”両方を読んでバランスを”


とらせていただきたくさらに分析し、


日常生活に落とし込めればとかように考えて


連休最終日の早朝。


中東イスラエルやウクライナの動向に


目が離せないのが悲しい現実です。


 


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小池昌代さんの2冊から”伝わる詩”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


文字の導火線

文字の導火線

  • 作者: 小池 昌代
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2011/07/09
  • メディア: 単行本


出演されていたのをきっかけに


ほぼ初めて拝読させていただきました。


普段詩はそれほど読まないのだけど


年齢のせいもあるのか深さが少しだけ


分かるようになってきた気がするのは


どうでもいい余談です。まずは書評本から。


海のリズムに育てられて


三木成夫海・呼吸・古代形象』(1992年)


から抜粋


この本の著者、三木成夫という人に触れる前に、その人を知るきっかけになった、詩人・思想家の吉本隆明についても書いておきたい。


三木成夫は、その吉本氏の本の中でたびたび言及されていた解剖学者で、胎児と人間の進化、生命の形態や「こころ」に関して、拓跋な研究をなした人として知られる。

人類の祖先は、えんえん、古生代中期の魚類にまで遡ることができるというが、胎児というのは、母親の胎内で、受胎後、32日目から一週間の間に劇的な変身をとげ、その間に、かつて人類が成し遂げた進化の過程を、ものすごい勢いでたどるのだという。


水中から上陸をはたし、魚類から爬虫類、哺乳類と進化していった頂点に、わたしたち人間がいる。

「だから海水浴はかれらの遠い故郷への里帰り」なのだと書いている。

誰もが記憶の古いところを、つんつんとつつかれたような思いを抱くのではないだろうか。


海のリズムと生命の記憶を重ねあわせて綴られていく本書は、読むというより、共鳴の体験だ。

自分の体内に、海の響きを探すこころみだ


著者自身の、さりげない経験から、書き起こされている箇所が多いので、学術書の息苦しさはない

なかでも、妻の乳がはって、母乳を吸う羽目になった三木氏が、その深遠なる味について書いている箇所は、忘れられない。

ここに引用はしないけれども、読みながら、文章からお乳を吸い、わたしが赤ん坊に一瞬、回帰した。

(うぶすな書院、1992年)


三木先生は養老先生とも交流のあった方で


懇意にされていたと。


似ているところがある気がするし


養老先生ご本人もそう書かれておられた。


世界の根本に立っていた人 


石牟礼道子 詩文コレクション6『父』


(2010年)


から抜粋


父上は、天草の海の潮で洗われたような、すがすがしい魂の持ち主だった。

まことに一家の主であった。

石工として、貧しくてもりっぱに生をまっとうし、感情豊かな人や生き物とつきあい、お酒をしこたま飲み、歌えば音痴、なんでも自分の手で作った。

住む家まで。


わたしはここに集められた文章を、最初に旅先のインド・コルカタで読んだ。

インドの旅のあいだじゅう、かたわらに石牟礼道子の文章があった。

読んでは揺さぶられ、ぼうぼうと泣いた


コルカタに行ったのは、そこで生きる人々をテレビ映像に収めるためであった。

なかには豊かな家族もあったが、ほとんどは貧しく、いかに食べるかが先決問題

狭い空間に、大家族が、体を寄せ合って明るく生きていた

みな、手を使ってものを作り、壊れても修理して使い続ける。


わたしたちは、そんな彼らの家にずかずかと侵入していった。

わたしは何をやっているのだろう、と思った。

仕事とはいえ、何をやっているのだろう、と。


ところが彼らは、そんなわたしの杞憂を理解せず、来てくれただけでうれしいという。

そうしていっそう、うちにも来てくれ、家族に会ってくれと、手をひっぱるのである。

コルカタと天草の人々が、次第に重なり合っていた


ちなみにこのエッセイには、石牟礼道子のキーワードとも言うべき、「世界の根本」というタイトルが付いている。

みっちんが小学校3年生のとき、石工の父は、廃材を使って家を建てた。

そのとき、水平秤で土地の傾きを調べたのだが、そこに立ち会ったみっちんに父は言う。


「家だけじゃなか、なんによらず、基礎打ちというものが大切ぞ。基礎というものは出来上がってしまえば隠れこんで、素人の目にはよう見えん。しかし、物事の基礎の、最初の杭をどこに据えるか、どのように打つか。

世界の根本を据えるのとおなじぞ。おろそかに据えれば、一切は成り立たん。覚えておこうぞ」


実は詩はちゃんと読んだことがない。


顔写真というかビジュアルから


なぜか気になる女性でした。


ロックスピリッツを体現して余りある


風格を醸し出されていたとでもいうか。


瑞々しくてやっかいな! 


長塚京三私の老年前夜


から抜粋


本書は俳優・長塚京三の、2冊目になるエッセイ集である。

複雑にして香気(こうき)高い、瑞々しい文章が並んでいる。

稚気とか幽(かす)かに触れ合うほどの、頑固なやっかいさが魅力である。


様々な場面で、著者は自分を、冷静に解体し吟味する。

時にその作業は、幼い頃の自己をあぶり出すが、還暦を過ぎた今現在と、一体どこが違うのか。

わたしの目には同じに見える。

七面倒臭くて複雑で、ゆれ動く内面を持った少年

幼年と今が、かくも直列に、激しく繋がりあっている。

奇妙に胸打たれる点である。


むしろ読み難い文章である。

独特の粘りとこらえ方がある。

だからわたしも、「こらえて」読んだ。

こらえるというのは我慢ではない

気持ちを溜めながら、ゆっくりということ。

稀有な文章に出会ってうれしい。

(2006年)


30年くらい前、テレビのトークで印象的で


「何も確かなものなどない」


「”いま”というのが最もそうだ」


みたいなことをおっしゃっていた気がして


哲学者みたいだなと思っててマーク。


ご子息の映画がつげ先生というのも


興味津々でございます。


読書でついた縄目の痕 


車谷長吉文士の生魑魅(いきすだま)』


(2006年)から抜粋


読書というものは、自分が本を読むことであるが、同時に本に、自分が読まれることである。

最近、つくづく、そう思う。

だから本について語ることは、どうしたって自己を語るに等しいということになる。

それはなかなか危険なことだが、その危険を冒していない書評の類には、これは自分のことを省みても、退屈なものになってしまう。


本をめぐる文章にわたしが期待するのは、読む人の魂と書いたい人の魂の戰いぶりだ。

その生のリングを、観戦したい

その意味で、本書ほど迫力のある一冊はなかなかないだろう。


読んでいると、著者は文学の「生魑魅」を、ものを食むように消化して精神の肉としてきたことがわかる。

最後の文士が語る文士の世界。

危険な読書案内である。


やばそうな香りがするので、読むのをためらいそうな。


この名前自体がもう、デンジャラスな気がするのは


バイアスかかりすぎなのだろうか。


生々しい「狂い」(2008年)から抜粋


深沢七郎の『楢山節考』(新潮文庫)には、四つの短編が収められている。

冒頭に、「月のアペニン山」という作品がある。

文庫本を買ったのは、随分昔のことだが、作家の出世作である「楢山節考」に気をとられて、この作品を見過ごしていた。


末尾に「ーーサスペンスの練習にーー(1957年作)」という作者の断り書きがある。

この作品がサスペンスの、しかも練習になっているのかどうか、わたしにはよくわからない。

ただ、この付言はとても印象的で、今となっては作品の一部と化している。


確かに漠とした不安があり、その不安の焦点がだんだんとあってくるところは、サスペンス的といっていいだろう。

だが、自ら、そう規定することで、逆にそこから、離れていくおかしみがある。

こういうものを、一生懸命創った作者の姿が思い浮かんで笑ってしまう。


ここに深沢七郎の体臭のようなものがにじみ出ている

怖いのにおかしい。

おかしいのに怖い。

感情が整理されてなくて、むずがゆくなる。

そうした特性はどの作品にもあるが、つまり一色でなく深く混濁しているのである。


東京は巨大な脳都市である。

そこに暮らすわたしたちも、脳一つで社会に浮かんでいる。

ネットのような媒体で、日々、妄想を膨らませながら。

わたしにもまた、「言葉が通じない」という、呆然とするような無力感と怒りを覚えた経験があるが、人間同士、話せば通じるというのは奇跡的なことだ。

半世紀も前の作品とはとても思えない。


さらにデンジャラスな人で、人類と闘っていた


作家の印象が強い。


埼玉かどこかの農場を営んでいた記憶あるけれども。


三島由紀夫先生とも接点あり歌の歌詞を提供した後


ビフテキも奢ってもらったのにディスっていたのを


覚えておりますが。


佐野洋子さんは怖い文章家だった 


佐野洋子シズコさん』(2008年)から抜粋


人が見ないふりをするところをさらっと真顔で書く。

文章全体にいつも心が丸裸という印象を受けた。

小さな頃から死をかみしめて生きてきた人だと思う。

普通の人がやる当たり前のことを当たり前にやって死ぬ

生きる方が大事で、文章なんか「嫌々」「ついで」に書くのである。

それが凄い芸になっていた。


『シズコさん』にかつての夫のことを「日本語を自分だけのものと思っているのか」と書いている。

数日前、偶然、ある雑誌で谷川俊太郎の詩を読んだ。

夜中にかかってくる無言電話のことを書いていて、沈黙が沁みる、いい詩だった。

かけている相手が誰かわかっているという設定で、それ以上は何も書いていなかったけれど、わたしは勝手に佐野さんだと思って読んだ。

佐野さんはもう死んでいなかったけれど。


妻が結婚前から好きな作家さんで


何冊か自分も読んだ。


そして自分も好きな作家さんの一人と


させていただいた。


無が白熱する迫力 


池田晶子暮らしの哲学』『リマーク1997-2007


(2007年)から抜粋


わたしの手元に、2冊の本がある。

いずれも著者である池田晶子さんが亡くなられた後、刊行されたものである。


一見、対称的な2冊であるが、どちらも池田晶子であり、語られている内容には少しの齟齬もない。

ただ、前者について言えば、書名を見たとき、「暮らし」という言葉に違和感を覚えた。

このぬくもった語彙は、本来池田さんには、あまりなじまぬように思ったのだが、もし、本人が選択したのだとすれば、このひとが、ついにこの「地べた」まで、降りてきたのかと、深い感慨を覚えずにはいられない。


著者の書くものは、すべて「生」、「死」、「存在」、「私」をめぐる形而上学で、本質的には最後まで変わらぬ一貫性があったが、微妙なところでは、進化し成熟した。

わたしには、身に染みる変化であった。

その変化に、池田さんの「生命」が、ありありと感じられた。


生命とは、移ろっていくもの、変化するものである。

なにがあっても生きたいという、「命根性」(著者の造語)を持たなかった人であるが、樹木が緑に燃え、やがて紅葉し、朽ち、散っていくように、自然現象のひとつとして、自分の老いを、書くもののなかに「変化」として鮮やかに表してくれた。

稀有なことだと思う。


いままで普遍の真理ばかりに夢中になっていた彼女が、本書では、この世の現象という、雑多で移ろいやすい、それゆえの豊かさに驚いている。

それは池田晶子という個人に訪れた変化であると同時に、わたしたちには、善なる魂を宿したひとりの女、ひとりの人間がたどった道筋として見えてくるものだ。


巻末に2007年2月からあと、刊行月まで、日付以外、何もない白紙の数頁がある。

その頁をめくり、空白を読みながら、わたしは池田晶子が、ここにいる、と思った。

何も書かれていない。

文字としては。

だからこそ、彼女はここにいる。

そこに在る。

そう感じる。


池田晶子さんは岸田秀さんの対談で初めて知った。


ビジュアルから入っても良さげなほど


美しい方で花あるのだけど、池田さんの場合は逆で


言葉からだった。


理由は説明できないけど、引っかかるものがある。



通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)

通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)

  • 作者: 小池 昌代
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2009/09/08
  • メディア: 新書

次の駅までーーはしがきにかえて


から抜粋


このあいだ、車のバッテリーがあがってしまい、立ち往生するという経験をした。

修理のおにいさんがすぐに来てくれて、充電するのを眺めていたが、自分の心臓を見る思いがした。

バッテリーが、あがりそうだ。

ちょっと無理して走ってる。

無理しないで、と人は言う。

でも生きるって、どこかでどうしても無理すること

誰かに無理を通されたこともあるし、無理のなかでもみくちゃになることではないか。


消耗した現代人が、詩の力をてことして、遠くへ飛翔し、深く、よく、生きることができたら

その願いも、本書を編んだ源にある。


もちろん、詩は、どこで読もうと、自由である。

だがこうして見てくると、電車のなかほど詩を読むにふさわしい空間は、他に見つからないというくらいの気持ちになってくる。


こんなおしゃべりをしているあいだに、待っていた電車が来たようだ。

本書を片手に、乗車しよう。次の駅まで、あと、数分。


詩の解説なぞ、蛇足だという向きもあろうが


この書は小池さんの選んだと思われる”詩”だちと


解説がつく。


これがまた流れるような詩になっていて


対のようにそこでいったん完結してるから


感心してしまう。


それと電車というキーワードもいいです。


それにしても、今日は秋晴れの関東地方


映画にでも行こうかと目論んでおりますが


物価高騰の折、取りやめにするかもしれません事


また、自分もバッテリー上がって立ち往生は


しなかったが代車をあてがわれておる都合上


あまり運転しないで済むようしております事


ご報告させていただきます。


 


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