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南方熊楠・水木しげる両先生の”リテレート”を知る [’23年以前の”新旧の価値観”]

過日読んだ熊楠さん関連として


ぜひに読んでみたかったものを読んでみた。


猫楠 南方熊楠の生涯 (角川文庫)

猫楠 南方熊楠の生涯 (角川文庫)

  • 作者: 水木 しげる
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2015/03/19
  • メディア: Kindle版

解題ーーなつかしい両生の奇傑の生涯


荒俣宏(博物学者) から抜粋


南方熊楠という人物をひとことで評そうなら、両生の奇傑、これ一語ではあるまいか。

すなわち、文明の窮まるところ倫敦(ロンドン)の学林(アカデミイ)で並いる学者を相手に一歩も退かぬ学術論争をたたかわすと思えば、熊野那智の森での幽霊やひだるを相手にあやかしの呪術合戦に及ぶ。


理性界と幽冥界。

この両方にふかくかかわって、なお、みずからは融通無碍(ゆうずうむげ)。

このような、半分に割いても平然とその生をつらぬけるオオサンショウウオのごとき大妖怪は、明治以後まったくこの大和島(やまとしま)に消息を聞かなかった。


ふつう、幽界に足をつっこめば、理性は溶けてなくなる。

理界に立てば立ったで、霊能は昨夕(ゆうべ)の風邪のようにケロリと吹っ飛ぶ。

まことに両生の知を保ちつづけることは、両刀づかいで千人を斬るよりも至難のわざだ。


いや、もうひとり、わが日本に異数の人物がいたのを忘れていた。

水木しげるさんもまた、妖怪跋扈(ばっこ)するジャングルの人々と、文明世界のリテレートたちとのあいだを行き来できる半理半妖の心やさしい魔王であった。


その水木さんが、逸話と謎に満ちた南方熊楠のどこをどう掬い上げてくれるのか、妖は妖を知るだけに、刮目して待たねばならなかった。


『猫楠』とは、これまたなんとすばらしい迫り方だったろうか。

熊という語は、あまりにも民俗学的な意味を担いすぎていて、熊楠自身、ときには気楽に生きたいと思うこともあったろう。

ハメが外れたときのクマグス、そこに彼の人格の愛らしさ、おかしさがあった。

それを「猫楠」なるタイトルに象徴させたところなどは、まことに心憎い構成である。


また、そのすてきな題名と同時に水木さんが選び出したのが、リテレートなる心踊るキーワードだった。

日本では久しく聞かなかったこの語は、<民間学者>をあらわし、<文士>を意味する。

それもただの学士や文士ではない。

飯の心配にわずらうことなく、学に遊び、しかも人に敬愛の情を抱かせずにおかぬ者。


これならば、ややもすると独善の匂いをただよわすエキセントリックなる語よりも、ずっと熊楠の本質を衝いている。

もちろん、理と識の妖怪は世界の諸相を理解するのではない

はじめから知っているリテレート)のだ。

これぞ<脳力>(リテレート)、と断じてよい

水木さんが描いたのは、そういう妖怪のなつかしい生涯なのである。


解題ーー天真爛漫な森の人


中沢新一(宗教学者)から抜粋


四谷怪談や番長皿屋敷のような、いわゆる都市ものの怪談に出てくる幽霊たちは、人間的な情念が強すぎて、なんとなくうっとうしい感じがしていた。

ところが、水木さんの描く妖怪たちは、情念なんかから解放され、まったくリラックスして、森や川や山や暗がりの生存を、楽しんでいる様子なのである。


なかには、カッとなりやすい奴とか、シツコイ性格の奴とかもいるけれど、そういう性格なら、動物の間にも、よく見かけることができる。

妖怪は完全に自然にフィットして生きている。

ユーモアが好きで(リラックスしている者は、誰だって卑猥なことが好きだ)、それに、純粋で、大のお人好しだ。


だから、僕は南方熊楠という人物がマンガになる時には、ぜひ水木さんに、この難しいテーマと取り組んでもらいたいもの、と思い続けてきたのだ。

南方熊楠という天才が、まさに水木さんの描き続けてきた妖怪たちと、同じような世界を生きたからである。

熊楠は、日本の自然の、もっとも奥深い神秘と親しくおつきあいしながら、あのユニークな思想を育てた人物である。

森の中にいると、彼はリラックスして、脳力という超能力が、フル回転し出した。

霊能者と同じように、幽体離脱したり、見えないものが見えるようになった。

町の中にあっても、天真爛漫な妖怪たちみたいに、すっ裸でその大ふぐりを風に揺らしながら歩いた。

卑猥な冗談がなによりも大好きで、まじめな論文の中でも、しょっちゅう猥談をかました。


彼は森の人として、日本の妖怪たちの世界を熟知していた。

そういう南方熊楠を描ける人といったら、それこそ水木しげるさん以外には、考えられないのである。


あとがきーー幸福学上よりみたる熊楠


水木しげる(幸福観察学会会長)


人生は”有限”のものである。

その有限の中で、人はどれだけ”幸福”であったのか、というのが、幸福観察学会(目下会員は一人)の研究テーマである。

奇人・南方熊楠氏は、若い時は誰のいうこともきかず、自分の思い通りの生活に進んだ。

長じて、リテレート(文士)なる生活、即ち”金”のために働かないという生活方法で、この人生の荒波を乗り切ろうとするわけだが、どうも晩年には、それがうまくいかず苦しむわけだ。


地上に生まれて、”エサ”を求めて歩き回るのが、生命をもつものの宿命なのだが、熊楠は、それをあまりやらず、自分の好きな”道”を驀(ばく)進した。

これは幸福なことで、人のこととか、家族のことなんか考えると、なかなかできないことだ。


また彼は、一生”童心”を失わなかった。

彼の行動をみると、昔のガキ大将を思い出すようなことばかりだ。

いずれにしても、名利にうとい人だけに、その”学問”はなかなか味わい深いものがある。


熊楠さんの印象はこの前の書から


変わってきたのだけどさらにまた変わる。


大英博物館勤務時代の豪胆っぷりは


めちゃくちゃすぎて、イカれすぎだろうとか。


ここまでの変人だったのだろうかという


疑問とともに、だとして


”スピリチュアル”なものとも通じていたのかも


と思ったり、だから水木さんなのか、と


中沢先生の解題に納得したり。


さらに考察を深めるために、


10年以上前に購入して以来


久しぶりに以下のも閲覧でございます。


ほとんど内容を忘れていた。



妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論 [DVD]

妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 製造中止
  • 発売日: 2006年

水木さん84歳の時の日常生活を


追ったTVプログラム。


調布にある自宅から事務所、蔵書倉庫へ密着、


奥様や関係者のコメントもあり。


最大の目玉は荒俣宏さんと二人で


パブア・ニューギニアまで行かれている。


そのときの表情はイキイキとされていて


日本にいる時の沈んだものとは異なるのが印象的。


熊楠さんとも共通するものを感じる。


普通では見えていないものが見えているかの


なんと言えばいいのか形容ができない人物で。


10年前に観た時とはかなり異なる感想が


湧き上がりつつ、昔の8ミリ映像も途中で


挟み込まれていたのだけど


ああ、昭和40年代はこんなだったなあ、とか


奥さん大変だったろうなあ、


家族は大切にしないとなあとか


感じ入る中、妻が具合悪いので夕食は外でと思い


バッテリー上がりの車が戻ってきたので


これから家族で出掛ける予定でございます。


 


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池田先生の3冊から”考えられない”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

先鋭すぎて震え上がるような


池田先生の3冊を読んでみた。


時系列で読んだけれど、以下の引用は


内容を考慮し入れ替えております。


%u5B64%u72EC%u3068%u3044%u3046%u75C5 (%u5B9D%u5CF6%u793E%u65B0%u66F8)孤独という病 (宝島社新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2022/12/01
  • メディア: 新書

 


はじめに


孤独は世界が恐る「現代の伝染病」から抜粋


いま日本人のだいたい4割くらいが、多かれ少なかれ、孤独を感じているという。

2022年4月、内閣官房孤独・孤立対策担当室が、全国の満16歳以上の2万人を対象に孤独感について調査をしたところ、「しばしばある・常にある」「時々ある」「たまにある」と回答した人は36.4%に上っている。

イギリスで同じような調査をしたところ、孤独感があったのは2割程度という結果だった。


実は世界的には、孤独というのは社会や人間の心身に悪影響を及ぼす「現代の伝染病」という恐怖の存在で、国家がどうにかして解決すべき問題ということらしいのだ。


人生の意味を考えるから孤独になってしまう


から抜粋


もともと人間には生きる意味などないので、絶対的な正解を見つけようと思うと、いつまでも満たされない。

それで、自分の人生は何だったのか、と虚しくなってしまう人が現れる。

虚しくなると、孤独を感じてしまう。

たくさんの人に囲まれて、日々の食べ物にも困らないという幸せを享受しながらも、心に大きな穴が開いてしまうのだ。


このようにないものねだりこそが、孤独というものの正体なのではないかという気がする。

そうだとすると、ないものねだりをやめるというのは孤独の処方箋になる。

つまり「人生なんてもともと意味がない」と認めてしまって、毎日生きるという事実だけを受け入れるのだ。

そうすれば、孤独かどうかなんてことは正直どうでもよくなる。


2022年12月池田清彦


第4章孤独の飼い慣らし方


「働くことは美徳」なんてプロパガンダに騙されるな


から抜粋


「意味という病」のなかでも最も厄介なのは、「人というのは額に汗水垂らして働くことがまっとうだ」というものだ。

これは非常に悪質な嘘で、「人生の意味」を捏造しているといっても過言ではない。


誰かが意図的につくり出した「意味」などという大嘘に惑わされないで、国家や会社のためにではなく、自分のためにいちばん心地よい行動をする。

実はこれこそが、最も効果的で、最も根本的な「孤独対策」なのだ。


ここまでドラスティックな考えをとれないのが


多いのではないでしょうかね。自分もですが。


でもそれを考えるから孤独になるってのも頷ける。


何も考えず黙々と、ってのが幸福度高いのだろうけど


そうするとこれは自論なんですが本を読む行為は


危険だよなあ、と思ってしまったり。


考えちゃうもの、こんな頭でも、って。


どんな頭なのか、自分でもわからないけど。


それに最近の若い人って、呆れるくらい


ほとんど意味を追求するからなあってのが実感です。



自己家畜化する日本人 (祥伝社新書)

自己家畜化する日本人 (祥伝社新書)

  • 作者: 池田清彦
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2023/10/02
  • メディア: Kindle版

 


はじめに から抜粋


地球上に存在したありとあらゆる生物のなかで、私たち人間ほど繁栄を遂げた種はいない。

野営動物と違って人間は言語を操り、高度な文明を発展させて、今やこの地上の支配者となった。

多くの人は無邪気にそう思い込んでいるかもしれない。


だが、人間が「強者」になりえたのは、単に賢かったり、道具を使ったりしたからだけではない。

人間に従順に飼いならされる家畜のように、自らを「家畜化」させてきたことによってこれほどまでの繁栄を遂げたのである。


ヒトはどんな動物よりも「家畜化」された種である


から抜粋


18世紀末、「人間は他のどんな動物よりも、はるかに家畜化された種である」と提唱する学者が現れた。

ドイツの人類学者であるヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハだ。


人間は超越的な「飼い主(主人)」ではなく、それどころか自らを家畜化(=自己家畜化)させてきたことで今日の繁栄を築いたと主張し、学会に論争を巻き起こした。


その後、19世紀半ばに『種の起源』で進化論を発表したチャールズ・ダーウィンもまた、人間の家畜化を検討している。


20世紀になると「ヒトの自己家畜化」という概念は、人類学の枠を超えて、生物学、社会学、心理学などの学問分野へと広がっていく。


横断的な研究が進むにつれて、人間の手によって長い時間をかけて家畜化された動物には、見た目においても、ある一定の共通する変化が見られることがわかった。

一方で、そうした家畜動物がたどってきた進化と同じような構造を、実は私たち人間もとたどってきていることもわかってきた。

そうさせた「飼い主」は誰か?

そう、他ならぬ人間自身である。


こうした潮流は国全体の未来を考えれば、決して望ましいとはいえない。

このまま自己家畜化が進んだ先の未来には、何が待ち受けているのか。

深刻化する「精神の自己家畜化」から、私たち日本人はどうすれば抜け出すことができるのか。

日本人の自己家畜化の歴史をたどりながら、一緒に考えていきたい。


2023年9月池田清彦


第4章移動できるメリットをフルに活かして能動的に適応せよ


から抜粋


結局のところ、人間は幸福や充実感を実感できるのは、「自分の才能を発揮できる場所」を見つけた時なのである。


ダーウィンの進化論は、「生物は環境に適応することで進化していくものであり、適応できない個体は淘汰される」という思想に基づいている。

これが「自然淘汰」の概念であり、環境への適応が種としての生き残りと繁殖に大きな影響を与えると述べた。


だが、私はこの説に全面的に賛同できない。

なぜなら、進化の過程では常にランダムに突然変異が生じ、その場所に適応的なものはその場所に残り、その場所に適応できないものは棲みやすい場所を求めて移動するに違いないからだ。

そもそも生き物には「動く」という機能が備わっているのである。

受動的適応よりも能動的適応のほうがメジャーなプロセスなのだ。


日本の国力の凋(ちょう)落が止まらない本当の理由


から抜粋


権力にとって日本の凋落はある時点(おそらくはっきり自覚し始めたのは第二次安倍内閣の時)から、実は望むところになったのだとしか考えられない。

国民が貧乏になってきたので、企業の製品を日本人に売って儲けようとするモデルを徐々に放棄して、なるべく安く日本人の労働者を働かせて、その成果(製品やサービス)を外国に売って儲けようと考えたのだ。


そのため国内の賃金を最低限に抑えて、儲けを最大限にして、その儲けを国民に還元しないで、権力と大企業とその取り巻きだけで分配するシステムを構築したのだ。


国力が上がらないほうが、自分たちの短期的な利益にとっては好都合なので、意図的に国力を下げる政策をとり続けてきたわけだ。


そう考えれば、赤字必定(ひつじょう)なオリンピックや万博を無理やり推進した(する)理由や、消費税を目一杯上げて、国民を反抗する余裕がないほどに貧乏にして搾取する理由もよくわかる。


自公政権が長年かけて行なってきた国民の奴隷化政策が功を奏して、精神的自己家畜化が進んだ国民は、唯々諾々(いいだくだく)と政権のいいなりになっている。


この言説が全てとは思えないけれど、


否定しきれませんゆえ、一旦受け入れるとしたら


腑に落ちること多いんだよなあ。


ここに引かせていただいたのは感情を相当


刺激するものなのだけど、他にも


多様性とか、これからの時代まだサバイヴしないと


ならない自分らに大切と思われるキーワードが


たくさんありすぎる。


それと”家畜化”という表現はかなり怖い。


自己家畜化されているからか?


精神的な家畜化というのはかなり興味深い。


余談ですがこの本の帯には、今までよくあった


養老先生のご推薦がなかったが、それは


余計なお世話で主たる話ではないからいいとして。


池田先生よくSNSでバトルされておられますが


無尽蔵な知識と鋭利な分析力を兼ね合わせた


池田先生に喧嘩を売るのは無謀です。


養老先生もそう書かれてました。


理論が正しいかどうかは一旦置いておいたほうが


身のためでございます。(これが自己家畜化なのか)


池田先生の読書術や本棚系の本をぜひ読みたい。


絶対、出さなそうだけれどね。(←池田先生風)



驚きの「リアル進化論」 (扶桑社新書)

驚きの「リアル進化論」 (扶桑社新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2023/09/01
  • メディア: 新書


はじめに から抜粋


進化論研究は私のライフワークで、これまでもたくさんの本を書いてきました。


進化生物学の揺るぎないパラダイムだと信じ続けている人が多いのが、19世紀の半ばにダーウィンが提唱した進化論にさまざまな修正を加え、また、それ以外のアイデアも融合させた「ネオダーウィニズム」という学説です。

ネオダーウィニズムというのは、進化はすべて「遺伝子の突然変異」と「自然選択」と「遺伝的浮動」で説明できるというものでした。


ただし今では、すべての進化がそれで説明できるわけではないことは、ネオダーウィニズムを信奉していた人たちも含めた多くの学者たちの一般的な認識になっています。

「すべて説明できる」と言っていたのに、「すべてが説明できるわけではない」ことを認めてしまっていること自体、なんだか変な話なんですけどね。


それでも相変わらず、ネオダーウィニズム的なプロセスが進化の主因だとの考えが、学界でそれなりに支配的なパラダイムの地位を守っていられる秘訣は、その高い論文生産力にあります。

学者として生き残るためには論文生産力の高いパラダイムに依拠していたほうが何かと有利だからという事情もありますが、論文がたくさん出る本当の理由は、ネオダーウィニズムが完璧に正しい理論ではないからです。

「すべてが説明できるわけではない」という不完全さが都合のいい方に転んでいると言ってもいいでしょう。


完璧な理論として確立して言える学説は、それ以上研究する余地が残されていないので、学問としてはもうそこで終わりです。

例えば、ニュートン力学は、マクロの運動を司る法則としてこれ以上ないくらい完璧な理論ですから、全くつけ入る隙がありません。

だから論文の書きようがないですし、書いたところで、「そんなの当たり前だ」と言われるのがおちでしょう。


けれども、ネオダーウィニズムのような隙だらけの理論であれば、話は別です。


そもそも「進化論」とはなんでしょうか?

何万年以上にもわたる地質学的な時間規模で、進化という「現象」を自分の目で見た人はこの世に誰もいません

誰も見たことがないものは「現象」ではありませんから、そういう意味で言えば「進化」は現象ではないということになります。

一方、「生物の多様性」というのは誰もが目にする「現象」です。

「世界初の進化論者」であるラマルクや「進化論の父」と言われるダーウィンが「進化」という仮説を思いついたのは、「生物の多様性」という現象を説明したかったからなのです。


もちろん現在は、種内の小さな進化(小進化)は観察することができます

この小進化という「現象」はネオダーウィニズムで説明できますから、そういう意味においては、ネオダーウィニズムが立派な進化理論であるのは間違いありません


1970年代ごろから遺伝子工学が発達し、DNAを切ったり貼ったりできるようになったことで、自然界では偶然に起こる「突然変異」やその積み重ねを、かなりのところまで、人間は再現できるようになりました。

ところが、その「結果」は予想していたものとは大きく違っていました


DNAを切り貼りして、人為的に突然変異を起こすことを繰り返し、自然界であれば長い年月をかけて起こるようなことを再現してみても、多少変わった形のものができるだけで、少なくとも別の種に変化するような大きな進化を起こすことはできなかったのです。


その事実ではっきりしたのは、種内のレベルでの小進化はともかくとして、もっとダイナミックで、生物の多様性に直結するような大進化は、ネオダーウィニズムが主張してきたようなメカニズムでは決して起こらない、ということでした。


この本では、進化論が2023年の今日までどのように変遷してきたかをたどりながら、ネオダーウィニズムの限界を改めて明らかにし、それを止揚※するアプローチである「構造主義進化論」についての話を進めていきたいと思っています。


※=止揚とは、ドイツ語で「アウフヘーベン」、


意味は、あるものを、そのものとしては否定しつつ、


更に高い段階で生かすこと。


矛盾するものを更に高い段階で統一し解決すること。


とのことなんだけど、これって、池田先生の言説


そのもののような気がしたのは気のせいか?


人為的な進化の検証は、やはり本当の進化とは


異なるのではないかなあ、と思うのは


当然ではなかろうかねえ。


って池田先生に喧嘩売ってませんよ、そう聞こえたら


誤解です、誤解です、と、2回言いました。


多分50冊くらい読んでるし相当数買ってますし。


理解しているかは別ですよ、池田先生を


なんとなれば”天才”って呼んでる方も


いらっしゃるし、自分も池田先生は


多分天才だろうって思っているし。


ってそれは置いといて、話戻させていただき


進化論の本が1番楽しそうな池田先生。


自分も読んでいてかなり爽快だった。


昔の言説・書籍よりも柔らかくて


(言ってることはあまり変わってないのだけど)


昔のは怖くて読んでいて閉じたくなるもの多し。


ネオダーウィニズムへは当然お譲りになられないが


正直言って自分の頭ではよくわからない現段階では。


ドーキンスさんグールドさんM・リドレーさんや


長谷川眞里子博士、日高敏隆先生も自分は好きで


それでまあいいんでしょうけれど。


養老先生仕込みの”両方を読んでバランスを”


とらせていただきたくさらに分析し、


日常生活に落とし込めればとかように考えて


連休最終日の早朝。


中東イスラエルやウクライナの動向に


目が離せないのが悲しい現実です。


 


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