②ドーキンス博士『遺伝子の川』から”デジタル”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
文章を引きながら気がついた事。
ドーキンス博士の論説の書は、
一部を抜き出すってのは相当困難で
前後が関連しまくりのため長くなってしまう。
さらに無駄がなくて洗練されてて、かつ
ものすごく戦略的に書いているのが分かる
と言ったら語弊あるか。浅学な自分では。
この書の翻訳の仕事はかなり大変だよ、なんて
いらぬお節介でございました。
1 デジタルの川 から抜粋
ここで、川の比喩(メタファー)についてとくに注意しなければならない重要な点がある。
あらゆる哺乳類の川の分岐を考えるときーーたとえばハイイロリスにつながる川にひき比べてーーとかくミシシッピ川とミズーリ川といった大河を想像したくなる。
哺乳類の流れはいずれ分岐を繰り返してすべての哺乳類ーーヒメトガリネズミからゾウにいたるまで、地下のモグラから樹冠にすむサルにいたるまでーーをつくりだす宿命にある。
哺乳類の川は何千という重要な主要水路のもとなのだから、とどろき流れる堂々とした奔流ではないわけがあろうか?
だが、こうしたイメージは見当違いもはなはだしい。
現代のすべての哺乳類の先祖がそれ以外の動物の先祖と別れる時、その出来事はほかの分化と同様、大がかりなものではなかった。
たとえそのころに博物学者が居合わせたとしても、その出来事には気づかれずに終わっただろう。
分岐したばかりの川は水のしたたりのようなもので、そこに住む夜行性の小動物とその「いとこ」(後述するようにより広い意味での)にあたる非哺乳類とのちがいはほとんどなく、アカリスとハイイロリスの違いと同じ程度のものだったろう。
それより以前に、脊椎動物、軟体動物、甲殻類、昆虫、体節動物、扁形動物、クラゲなど、全ての主要な動物分類群の祖先が分かれていったときにも、やはりドラマらしいものはなかったと思われる。
一方の集団が軟体動物を、もう一方が脊椎動物を次々と生んでいくなどとは、誰にも考えられなかっただろう。
二本のDNAの川は分かれたばかりで小さな流れにすぎず、二つのグループの動物たちがほとんど見分けがつかなかった。
動物学者はこうしたことを熟知しているのだが、軟体動物と脊椎動物のような本当に大きな動物群について考察しているようなとき、ふとそれを忘れることがある。
動物学者がそのような考えちがいをしたくなる理由は、彼らが、動物界の大きな分岐の一つ一つに、何か非常に独特なものーードイツ語で「バウプラン(Bauplan)」と呼ばれるものーーが準備されているといった畏敬に近い信念の中で育てられてきたからである。
この言葉は「青写真」という意味にすぎないが、それは専門用語として認められるようになってきており、私は英語の単語のように語形変化させることにする。
専門的な意味では、バウプランはしばしばファンダメンタル・ボディ・プラン(基本的体制)と訳される。
「ファンダメンタル」という単語(つまり、気取ってドイツ語由来の言葉を使うことで知的な深みを出そうとしている点は同じ)が害をなしている。
それがもとで動物学者たちはひどい間違いをおかすことになるのである。
たとえば、一人の動物学者は、カンブリア紀(約六億年から五億年前)の進化は、のちの進化とはまったく種類の異なる過程だったにちがいないと示唆している。
だが、動物界の主要なバウプランは共通の起源から徐々に漸進的に分岐したのである。
実の話、進化がどの程度まで漸進的だったか、あるいは「飛躍的」だったかについてはさかんに議論されて、わずかながら意見の不一致がある。
とはいえ、誰も、本当に誰一人として、進化が一足飛びにすべての新しいバウプランをつくりだしたほど飛躍的だったとは考えてはいない。
先に引用した動物学者が書いたのは、1958年だった。
今日では、明確に彼の立場をとる動物学者はほとんどいないのだが、おりにふれてそれとなく彼の立場を取る学者はいる。
そして、主要な動物群は偶発的な地理的隔離のあいだに祖先の個体群が分岐したのではなく、あたかもゼウスの頭からアテーナーが生まれたように自然発生的に、そして完全なかたちであらわれたかのごとく語るのである。※
※スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ワールドーーバージェス頁岩(けつがん)と生物進化の物語』はカンブリア紀の動物相をみごとに解説したものだが、読者がこれを参照されるときには、これらの点に留意されるのがよいだろう。
いずれにせよ、分子生物学の研究によって、大きな動物群同士は以前考えられていたよりもはるかに近しいことがわかった。
遺伝暗号は辞書のように読めるもので、そのなかでは一つの言語の64の単語(4つのアルファベットのうちの3つを組み合わせたトリプレットが64個)が別の言語の21の単語(20のアミノ酸と終止マーク)に対応する。
同じ64対21という対応がもう一度起こる確率は、10の24乗回に一度少ない。
それにも関わらず、観察されるすべての動物、植物、細菌の遺伝暗号は、実際、文字通り同一である。
地上の生きものはたしかに唯一の祖先から出た子孫なのである。
それに疑問をはさむ人はいないだろうが、いまや遺伝暗号そのものだけでなく遺伝情報の詳細な配列が調べられるようになって、たとえば昆虫と脊椎動物の驚くほど密接な類似が明らかになってきた。
昆虫の体節構造には非常に複雑な遺伝的メカニズムが対応しているが、哺乳類にも恐ろしいほどこれによく似た遺伝機構の部品が発見されているのである。
分子的な観点からすると、すべての動物はたがいにかなり近い親戚であり、植物とさえも親戚なのだ。
遠い「いとこ」を見つけたかったら、バクテリアを調べなければならないし、その場合でも遺伝暗号そのものはわれわれのそれとまったく同じである。
そのような精確な計算が、バウプランの解剖学に基づいてではなく、遺伝暗号に基づくことで可能になる理由は、遺伝暗号が厳密にデジタルだからであり、デジタルなら正確に数えることができるからである。
遺伝子の川はデジタルの川であり、私はここでこの工学用語が何を意味するかを説明しなくてはなるまい。
ここから”デジタル”と”アナログ”について
CDとかレコード、コンピュータや電話通信などを
例にとられての説明なのですが
わかるところとわからないところとあり
本当に”デジタル”なのよ遺伝暗号は、という説明が。
自分のキャパでは無理なのか、とか。
幼いころに、私は母から人間の神経細胞が体の電話線なのだと教えられた。
だが、それらはアナログ式だろうか、それともデジタル式なのだろうか?
その答えは、奇妙にそれらが入り混じったもの、ということになる。
神経細胞は電線には似ていない。
それは細長い管で、その管を化学変化の波動が伝わってゆく。
地面の上でシューシューと音をたてる導火線のようだが、導火線とはちがって、神経細胞はまもなく元の状態に戻り、少し休息したあとまたシューシューと動きはじめる。
振幅の最大値ーー火薬の温度ーーは神経を走るあいだに変動するかもしれないが、これは関係ない。
コードはそれを無視する。
化学的パルスがそこにあるか、あるいはないかのいずれかであって、デジタル式電話の異なる二つの電位と同じことである。
この程度に神経系はデジタルなのである。
だが、神経インパルスはむりやりバイト、つまり二進法数字の集まりへとまとめられることはない。
それらが集まって個別の暗号数字になることもない。
そのかわりに、メッセージの強さ(音の強さ、光の明度、たぶん感情的な苦しみまでも)がインパルスの速度として記号化される。
これはエンジニアたちにパルス周波数変調として知られており、パルス符号変調が採用されるまでは彼らに重宝がられていた。
パルス速度はアナログ的数量だが、パルスそのものはデジタルである。
それらはそこにあるかないかのいずれかであって、中間というものがない。
そして、神経系がこれから得る恩恵は、ほかのデジタル・システムが受けているものと同じである。
神経細胞の働く仕組みのために、増幅器と同じものが、1000マイルごとではなく、1ミリメートルごとにーー脊髄から指先までに800個のブースター局がーーある。
もし神経インパルスの絶対エネルギー量ーー火薬の衝撃波の強さーーが問題ならば、メッセージはキリンの首はもちろん、ヒトの腕の長さを伝わるあいだに、認識できないほど歪められてしまうだろう。
増幅されるたびごとに、各段階で偶発的なエラーが入ってくるだろう。
それはちょうどテープレコーダのテープからテープへと800回もダビングしたときに起こるのと同じだし、あるいはゼロックスで複写したものをまたゼロックスにかけるのと同じだと言ってもよい。
このあと、1953年に二重らせん構造を
発見したノーベル賞ホルダーの
ワトソンとクリックに話は及ばれる。
ワトソンとクリック以後、われわれは遺伝子そのものが微小な内部構造に関するかぎり、純粋にデジタルな情報の細長い連鎖をなしていることを知っている。
遺伝暗号はコンピュータのような二進法暗号でもないし、一部の電話方式のように8個の電位レベルの暗号でもなく、4個の記号をもつ四進法暗号である。
遺伝子の機械語は奇妙なほどコンピュータ言語と似ている。
われわれの遺伝子システムは、地球上のあらゆる生命に普遍的なシステムだが、徹底的にデジタルである。
逐語的な正確さで新約聖書のすべてを暗号化して、ヒトゲノムのうちで現在は「無用な」DNAーーつまり、少なくとも普通のかたちでは身体が使っていないDNAーーが占める部分に書き込むこともできる。
身体のすべての細胞には膨大なデータを入れたテープ46本に相当する情報が含まれていて、同時に動く無数の読み取りヘッドを介してデジタル文字をよどみなく読み取っていくのである。
すべての細胞のなかで、これらのテープーー染色体ーーには同じ情報が含まれているのだが、細胞によって異なる種類の読み取りヘッドがデータベースの中から自分たちの専門用途に沿って異なる部分を探し出す。
だからこそ、筋肉の細胞は肝臓の細胞とは異なるのである。
精神につき動かされた生命力もなければ、どきどきと脈打ち、上下にゆれて群がる、原形質の神秘なゼリーなどもない。
生命はデジタルな情報のバイト、バイト、バイトにすぎないのだ。
そう言われれば、そうなのかなあ。
遺伝子の塩基配列のことでしょう?
そこまではわかるような気もするけど
デジタルなのかなあ、とか。
デジタル=ロボットとかを想定してしまうが
そうではないってのはわかるのだけども。
でも”機械論”のようにも書いているから
結局はロボットみたいなものなのか。
人間の神秘というのはいずれ科学で
すべて説明つくっていう利根川博士に
行き着いてしまうのだけども。
だとしても”質の高い宗教は必要”と説かれる
柳澤桂子先生の言葉も浮かぶのだよなあ。
関連しているのか、これらのことは。
みんな本当に納得されて読んでいるのだろうか
みたいなことを思ってしまったり。
グールドさんとの論争もなかなか興味深い
進化の分岐は左程ドラスティックじゃないよってのも
分かるのだけど、”デジタル”ってのにつまづいて
ここがひっかかると先に行けないのだよなあ。
とはいえドーキンス博士の書は疑問ながらも
ついつい読んでしまうっていうのが特徴でして
表現とか洒落てるし、ざっくりいうと西洋の
知識とか文化を浴びせかけてくるので
なんか読んでしまうのは心地良いからなのだろうな。
ドーキンス博士の存在自体が”ミーム”そのもので。
余談だけどこの前テレビで星野源さんがトーク中に
”ミーム”って使っててドーキンス博士のいうのと
少し違うようだけど調べると語源は同じようで
それは新しいのか古いのか、はたまた
そういうレベルでの捉え方のものでははないのか
とか考えてたら疲れてきたので明日は仕事早いしで
夕食の準備をしないとって思っている
ところでございました。
①ドーキンス博士『遺伝子の川』の”つかみ”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2014/04/02
- メディア: 文庫
また一つの川がエデンから流れ出て園を潤した。『創世記』(2・10)
まえがき から抜粋
自然、それはゲームの通り名か。
何十億、何千億、何万億もの粒子が
あちらこちらで、彼方こなたで、ぶつかりあう
無限につづくビリヤード・ゲーム。
ピート・ハイン
ピート・ハインが描いているのは古典的な意味での原初の物理的世界だ。
しかし、原子のビリヤードの玉が何かのはずみに、一見どうということもなさそうなある特性を持つ物体を作り出すとき、宇宙にはきわめて重大な変化が起こる。
その特性とは自己複製の能力である。
つまり、その物体は自己を取り巻く物質を利用して、自らとそっくりな複製をつくることができるのだが、それにはコピーするときに起こりがちな些細な欠陥の写しまでも含まれるのである。
宇宙のどこにせよ、この類まれな出来事のあとに続くのが、ダーウィンの言う自然淘汰(自然選択)であり、それによってこの惑星に、生命と呼ばれるおどろおどろしい狂騒劇が生じる。
これほど多くの事実がこれほどわずかな仮定で説明されたことはいまだかつてなかった。
ダーウィンの理論はこの上ないほどの説得力をもっているだけではない。
この説明のむだのなさには、引き締まった優雅さ、世界中の創世神話の中でも、最も忘れがたいものにもまさる詩的な美しさが備わっている。
私が本書を執筆する目的の一つは、ダーウィンの生命観に関する現代のわれわれの理解が、霊的といっていいほどすばらしいものであることを認識してもらうことである。
ミトコンドリア(エヴァ)には、その名の由来となった神話の主人公以上に詩的な雰囲気がある。
私のもう一つの目的は「生存の仕方」が「DNA暗号で書かれたテキストを未来に伝える仕方」と同義であることを読者に納得のいくように解き明かすことである。
私のいう「川」とは、地質学的な時間を流れながら分岐していくDNAの川であり、個々の種の遺伝子によるゲームを閉じ込めている険しい川の土手という比喩は、説明のための工夫として驚くほど説得力に富み、便利である。
とにかく、私のこれまでの著書はすべて、ひたすらダーウィンの原理がもつ無限といえるほどの力ーー原始の自己複製の結果が発現するだけの時間があればいつ、どこでも放出される力ーーを探求して、くわしく説明しようとするものだった。
本書『遺伝子の川』も、この使命に沿うとともに、それまでささやかだった原子のビリヤード・ゲームに複製という現象が注ぎ込まれたとき、その結果として起こる間接的な影響の物語を地球大気圏外で起こるクライマックスまで導こうというものである。
ダーウィンのことはやはり
リスペクトの対象なのですな。
遺伝子のコピーで個体の継承ではないのよ
ってのは相変わらずというか通貫される
言説でございます。
でも”霊的”な”すばらしさ”ってのは
どういうことなのだろか。
それとこの後に出てくるが”デジタル”という
ドーキンス先生の定義はなにかが興味深い。
昨今ちまたに溢れている”デジタル”とは
異なるのか、同じなのか。
1 デジタルの川 から抜粋
すべての生物がすべての遺伝子を、祖先と同世代で失敗した者からではなく、子孫を残した祖先から受けついでいる以上、あらゆる生物は成功する遺伝子を持つ傾向がある。
彼らは祖先になるのに必要なもの、つまり生き残って繁殖するのに必要なものをもっていることになる。
だからこそ、生物が受け継ぐ遺伝子はおおむね、うまく設計された機械ーーまるで祖先になるために奮励努力しているかのごとく活発に働く身体ーーをつくりあげる性質をもっている。
だからこそ、鳥はあれほど上手に飛び、魚はいかにもすいすいと泳ぎ、猿は木登りが得意で、ウイルスは広がるのがうまいのだ。
われわれが人生を愛し、セックスを好み、子供を可愛がるのも、それゆえである。
それはわれわれすべてがただ一人の例外もなく、成功した先祖から途切れることなしに受け継がれてきたすべての遺伝子をもっているからにほかならない。
一言でいうと、それがダーウィン主義なのである。
もちろん、ダーウィンはもっとはるかに多くのことを言っているし、今日ではさらに多くにことがいえる。
本書がここで終わりにならないのもそのためである。
とはいえ、いま述べた一節には、無理からぬとはいえきわめて有害な誤解を招く余地がある。
祖先が成功したのであれば、彼らが子孫に受け渡した遺伝子は、結果として祖先が自分の親から受け継いだ遺伝子に比べてよりすぐれたものになってしまっていると考えたくなる。
成功にかかわった何かが彼らの遺伝子に影響を与えたからこそ、その子孫たちはあれほどに飛翔や水泳、求愛が上手なのだ、と。
これは間違い、大間違いである!
遺伝子は使うことで改善されるものではない。
それらはただ伝えられるだけで、ごくまれな偶然のエラーを別とすれば、まったく変わらないのだ。
成功がすぐれた遺伝子をつくるのではない。
すぐれた遺伝子が成功するのであって、個体が生きているあいだに何をしようと、それは遺伝子に何の影響も与えない。
すぐれた遺伝子をもって生まれてきた個体は、大人になって首尾よく祖先になる可能性がきわめて高い。
したがって、すぐれた遺伝子は劣った遺伝子よりも後代に伝えられる可能性は高くなる。
各世代はフィルターであり、。篩(ふるい)なのである。
すぐれた遺伝子は篩の目から次の世代へ落ちてゆく。
劣った遺伝子は若死にするか、繁殖しないで死ぬ身体のなかで終わりを迎える。
劣った遺伝子も一世代か二世代ぐらいは篩を通り抜ける可能性があるが、それはおそらくたまたま運に恵まれて、すぐれた遺伝子と同じ身体を共有したからである。
ところが、1000世代もの篩を一つまた一つとつづけ様に通り抜けていくには、運以上のものがなくてはならない。
1000世代にもわたってうまく通り抜けつづけた遺伝子は、たぶんすぐれた遺伝子だろう。
それは真実ではあるが、一つ明らかな例外があって、混乱をきたさないように、まずその点をはっきりさせておきたい。
個体のなかには間違いなく不妊でいながら、自分たちの遺伝子を将来の世代に伝えるのを手伝うようにつくられているらしく見えるものがある。
アリやシロアリのワーカー(働き蟻・働き蜂)たちは不妊である。
彼らは自分が祖先になるためではなく、普通は姉妹や兄弟といった近縁で繁殖力のあるものを祖先にするために働く。
ここで理解しておかなければならない事が二つある。
第一に、どんな種類の動物でも姉妹や兄弟は同一遺伝子のコピーを共有する確率が高いこと、第二に、たとえば個々のシロアリが繁殖個体になるか不妊のワーカーになるかを決定するのは環境であって遺伝子ではないということである。
すべてのシロアリは、ある環境条件によっては不妊のワーカーに、また別の環境条件でによっては繁殖個体になりうる遺伝子をもっている。
繁殖個体は不妊のワーカーの世話を受けながら、不妊ワーカーと同じ遺伝子のコピーを子孫に伝えるのだ。
逆にいうと、不妊のワーカーたちは遺伝子の影響を受けてせっせと働くが、その遺伝子のコピーが繁殖個体の体内に収まっているのである。
ワーカーが持つこの遺伝子のコピーは、繁殖個体が持つ自らのコピーが世代の篩を通り抜けるのを助けようと努力しているのである。
シロアリのワーカーは雄雌ともありうるが、アリやハチ、スズメバチの場合、ワーカーはすべて雌である。しかし、それ以外の点では原理はまったく同じだ。
彼らほど顕著ではないにしても、この原理はある程度まで姉や兄たちが幼いものの世話をする(ヘルパーと呼ばれる)数種の鳥や哺乳類をはじめとするほかの動物たちにもあてはまる。
要するに、遺伝子は自らの宿る体が祖先になるのを手助けするだけでなく、近縁者の体が祖先になるのを手伝うことによって、世代の篩を通り抜けおおせることができるのである。
この本の表題でいう「川」はDNAの川であり、空間ではなく時間を流れる。
それは骨や組織の川ではなく、情報の川である。
体をつくるための抽象的な指令の川であって、体そのものの川ではない。
情報は体を通り抜けながら体に影響をおよぼすが、その際に体から影響を受けることはない。
この川は流れていくあいだに成功した体の経験や業績の影響を受けないだけではない。
見たところ、この川の汚染源としてはるかに強い可能性を持つと思われる性の影響すら受けないのである。
あなたの細胞の一つ一つのなかで、母親の遺伝子の半分が父親の遺伝子の半分と肩を擦り合わせている。
だが、遺伝子そのものは混じりあうことはない。
混じりあうのは遺伝子の影響だけである。
父親の遺伝子と母親の遺伝子が混じりあうことはなく、それぞれ独立に組み換えられる。
あなたのなかの特定の遺伝子は母親から伝わったか父親から伝わったかのどちらかである。
それはまた、あなたの四人の祖父母の一人から、ただ一人から伝わったものであり、八人の曾祖父母の一人から、ただ一人だけから伝わったもの、というぐあいに祖先へさかのぼっていく。
深い。さすがドーキンス先生。
混じりあうのは遺伝子の影響だけ、
篩を通り抜けるのものあるってのは
隔世遺伝のことも含めてのことなのかなあ。
それにしても要諦だけを抜粋、のつもりだとして
ここまででなんとまだ15ページ。
最初に感じたなぜ”デジタル”なのか
すらもたどり着けない。
”川”というメタファーは
どうしても『方丈記』を浮かべてしまうのだけど
ドーキンスさんの場合は、
遺伝という情報というのに重きを置かれて
でもゆく川の流れの無常感は共通するような。
(鴨長明の時代に遺伝子があるわけないからね)
この書、決して疲れはしないし
軽妙洒脱なタッチなんだけど
含まれている情報があまりにも膨大すぎて
なっかなか読めないのが難点。
しかし、それが面白くてエキサイティングなのは
それがドーキンス先生なのだろうなと思うし
古本で100円で買ったんだから
がたがた御託並べてんじゃねえよと
夜勤明け、急に寒くなった雨スタートな
せっかくの休日、読書といきますか
と思っております秋の早朝でございます。
あ、でも同じ書でハードカバー版も持ってます。
Amazonで300円だけど。
垂水先生の文庫版あとがきが気になって
100円のも買っちゃいましたけど。
(そんなんだから本が増えるんだよ!)