SSブログ

③中村先生の書から”ヒトであること”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


科学者が人間であること (岩波新書)

科学者が人間であること (岩波新書)

  • 作者: 中村 桂子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/08/22
  • メディア: 新書

II 「専門家」を問うーー社会とどう関わるか


1大森荘蔵が描く「近代」


「近代的世界観」とは から抜粋


まず世界観とはなにか、大森の定義を見てみます。

知の構築とその呪縛』にこうあります。


「元来世界観というものは単なる学問的認識ではない。

学問的認識を含んでの全生活的なものである。

自然をどう見るかにとどまらず、人間生活をどう見るか、そしてどう生活し行動するかを含んでワンセットになっているものである。

そこには宗教、道徳、政治、商売、性、教育、司法、儀式、習俗、スポーツ、と人間生活のあらゆる面が含まれている」。


「この全生活的世界観に根本的な変革をもたらしたのが近代科学であったと思われるのである。

近代科学によって、特に人間観と自然観がガラリと変わり、それが人間生活のすべてに及んだのである」。


「文明の危機だとか、文化の変革期、といった言葉が何時でも叫ばれてきたのだ近代の性格の一つであろう。

それは生活と思想との変化のテンポが速くなってきたことを示すものかもしれない。

その変化には短期的な波、中期的な波、長期的な波があるだろう。

1980年代の今日、現代文明の変革を云々するときにわれわれが感じているのは、その最も長期的な波ではないかと私には思われる。

数千年のオーダーの波長を持った波ではないか、と。

私が考えているのは、西欧の16・17世紀頃に起こった科学革命が推し進めてきた現代文明が20世紀の今日一つの転回期(Uターン)にきたのではないか、ということである。

こういう最も目の粗い尺度で見るならば、東洋と西洋という対立は消えてしまう

だからしばしば安直に言われる、今こそ東洋的思想の出番だ、などという事もない。

西洋科学の分析的思考法と東洋の総合的直観的思考法などというコントラストも霞んでしまう。

その代わりに眼につくのが、洋の東西を問わずに、近代科学以前の世界観と近代科学に基礎づけられている近代的世界観のコントラストである。

この二つの世界観の交替が起きたのが西洋では先に述べた16・17世紀の科学革命であり、東洋、特に日本では幕末から明治にかけての西洋思想の流入期である。

そして現在この近代的世界観が西洋でも東洋でも問い直されているのである」。


この後、中村先生は”科学”を「役に立つ」という


視点でとらえずに、”文化”の一つとしてみなすことを提唱。


さらに、”科学”と”科学技術”は同じものではないと。


池内了先生の書でも同様のことが述べられていた、確か。


III 「機械論」から「生命論」へーー「重ね描き」の提案


1 近代科学がはらむ問題


近代科学の誕生 より抜粋


思想、科学(専門)、日常をつなげた考え方ができるようになったところで、いよいよ近代的世界観の問い直しです。


近代的世界観とは、16世紀から17世紀に起きたいわゆる科学革命に端を発しています。

ここで、近代科学という新しい学問が誕生し、そこには新しい世界観がありました。

しかもその世界観は科学という限られた学問に止まらず、社会の価値観を変えるという大きな影響力を持ったのです。

ここでの「社会」は、一地域に止まらず世界中を意味します。

科学はヨーロッパで生まれたものですが、それを支える世界観は世界中へ広がり、今やグローバルという言葉に象徴されるように、地球全体を覆っています。

その裏には進歩を求める価値観があり、それへ向けて皆が動いているわけです。

日本は幕末から明治維新にかけての変革期に、西洋からこうした価値観を積極的に取り入れました。


近代科学の誕生とともに生まれた近代的世界観は「機械論的世界観」と呼ばれます。

ここで、伊東俊太郎先生の『近代科学の源流』に基づいて、科学史の中でその誕生に関わった、重要な人物とその考えを簡単にまとめておきます。(表1)

表1 近代科学を支える「自然の見方」の、それぞれ中心となる考え方

機械論的世界観(17世紀)

ガリレイ 自然は数字で書かれた書物
ベーコン 自然の操作的支配
デカルト 機械論的非人間化
ニュートン 粒子論的機械論

ニュートンは光学でもプリズムによる分光実験によって太陽光が波長の異なる光から成ることを示し、みごとな成果を上げました。

美しい虹の科学です。


しかし同じ頃、ドイツで光に興味を持ち独自の色彩論を打ち出していて作家であり、自然の科学的理解に強い関心を抱いていたゲーテは、暗室でプリズムを用いて分析する英国のニュートンに対して、「自然を拷問にかけている」と非難したと言われます。

開いた自然の中でなく閉じた実験室での研究から自然を語ることへの違和感は、現代科学を否定するつもりはないけれど、そこに何か問題を感じる私の気持ちと重なるように思い、ゲーテには関心を持っています。


水木先生同様に、ここにきてゲーテか。


自分も研究したいと思っていた矢先でございました。


ってのはどうでもいいとして。


すべてのものを最小の構成単位へと還元して見ることで、あらゆる現象に普遍的な性質を探究する科学への道ができました。

そしてここから事柄は一意的、つまり決定論的に動くという見方が出てきます。

つまり、「還元性、普遍性、決定論」というのが、ここで生まれた科学の特徴です。

こうした明快な「自然観」と、それを証明していく「方法」を持つ近代科学は強力でした。

ここに生まれた「機械論的世界観」が世界全体に広がり、現在にいたっています。 


3「重ね描き」という方法


日常と併存する科学を求める から抜粋


ここで、これまで述べてきたことを復習します。

私たちは、人間、つまり自分自身が生きものであり自然の中にいるということを基本において世界観ーー知と暮らしーーをつくりあげ、その世界観の中で社会を組み立てるという方向を定めていました。

人間が生きものであるとはどのようなことか、生きものとしての人間の特徴は何かも見えてきました。

自然と向き合っていればこのような生き方は自ずとできます。

自然の中で新しい知を求め、豊かさを求めてきた歴史が人類の歴史であると言ってもよく、ここで述べていることは新しいことではありません。


けれども、17世紀に始まった科学の世界観は機械論であり、しかもそれこそが進んだ見方だと多くの人が思うようになり、この世界観に立脚した近代科学・科学技術が、世界中を席巻しました。


今、こうした科学や科学技術のあり方に疑問が出されていますが、残念ながらそれは、科学の本質を問い直すものではありません。

たとえば今回の原発事故のような出来事が起これば、単純に原子力発電を推進するか否定するかという図式の問いになってしまい、ひいては「もはや科学は全面的に否定すべきだ」という極端な結論にいたりかねないものです。


しかし、科学が明らかにする事実を否定する必要はありません。

そうではなく、気をつけなければならないのは、科学による理解が優れており、日常感覚での世界の理解は遅れていると受け取ることです。

この二つを縦に並べて優劣をつけることです。


科学が明らかにしてきた知は放棄しない

しかし同時に、大森の示したような二言論に基づく「科学」では、痛みや美しさの感じなどが語れないことは明らかなのですから、科学だけで世界を理解することはできないとする必要があります。


科学も日常も捨てないとしたらどうするか

自然に素直に向き合う日常と科学とを対立させるのではなく、一体化させる方法はないだろうか


「重ね描き」という提案


この問いに対して、大森がみごとな提案をしているのです。

「重ね描き」です。

ここに答えを求めようというのが本書の主旨です。

なんだかとても新しいこと、難しいことを提案しているように聞こえそうですが、そうではありません。


DNAやタンパク質のはたらきを調べるという生命科学の方法で見ているチョウは、花の蜜を求めて飛んでいる可愛いチョウと同じものであるというあたりまえのことを認め、両方の描写を共に大事にするということなのです。


この辺りからかなりハードルが


高次レベルに引き上げられて今の自分は


まだ飛び越せず、なんとなく読み飛ばさせて


いただきました…。


ただ興味深いことは深いのですが高すぎるです。


この後、iPS細胞、日本人の自然観の代表として


宮沢賢治と、まさかの南方熊楠教授が引かれておられ


最後に新しい知への道程が示される。


予想される問題点、伊東俊太郎先生の


「文明が文明たるための3つの最低条件」として


 ① 不殺生=暴力を否定
 ② 共存=文明間の相互作用の重要性
 ③ 公正(equitability)

そして大団円。


穏やかな中村先生が普段と異なるのは明らか。


おわりに から抜粋


「科学者が人間であること」とは、おかしなタイトルだと思われたのではないでしょうか。


筆を進めながら常に思っていたのは、あたりまえのことばかり書いているということでした。


けれどあの大きな災害から2年半を経過した今、科学者が変わったようには見えません。

震災直後は、原発事故のこともあり、科学者・技術者の中にある種の緊張感が生まれ、変わろうという意識が見られたのですが、今や元通り、いや以前より先鋭化し、日常や思想などどこ吹く風という雰囲気になったいます。


それどころか今、「経済成長が重要でありそれを支える科学技術を振興する」という亡霊のような言葉が飛び交っています。


ここには人間はいません。


経済成長とは具体的にどのようなことで、誰の暮らしがどのように豊かになるのか、幸せになるのかという問いも答えもありません。


したがって科学技術についても、イノベーションという言葉だけしかないところに大きな予算をつけることが「振興」とされ、その研究や技術開発によって人々の日常がどのようになるかということは考えられていません。


私たちって人間なんですというあたりまえのことに眼を向けない専門家によって動かされていく社会がまた始まっているとしたら、やはり「科学者が人間であること」という、あたりまえすぎることを言わなければならないと思うのです。


「生きていること」に向き合って「どう生きるか」を考えるというテーマに終わりはありません。

科学者だけが人間であり生きものであるわけではなく、すべての人がそうなのですから、同じ研究仲間はもちろんさまざまな分野の方の力を借りて考え続けようと思います。


中村桂子 2013年7月


ウクライナに軍事支援を続けるアメリカ。


さらにバイデン大統領はイスラエルを支持表明、


「あなた方は一人ではない」。


科学者や一般人にできることはないのだろうか。


考えても仕方ないのだけど、考えてしまう。


今できることは祈ることと本を読むこと


そして日常生活をキープできるよう努める


ことしかできない。


極東の片隅からお届けいたしました。


余談だけれど、伊東俊太郎先生はちょうど


1ヶ月前の先月20日に亡くなられたようです。


本日初めて存じ上げた次第ですが


ご冥福をお祈りいたします。


 


nice!(33) 
共通テーマ: