3冊のマクリントック関連から”透明な心”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
ノーベル賞学者 バーバラ・マクリントックの生涯 ―動く遺伝子の発見―
- 出版社/メーカー: 養賢堂
- 発売日: 2016/08/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
まえがき から抜粋
本書では遺伝学者バーバラ・マクリントックを紹介する。
彼女のトウモロコシを使った遺伝実験は、遺伝子工学や抗生物質に対する細菌の耐性の獲得など最先端の科学技術の研究に貢献しており、今日に至るまで高い評価を受けている。
マクリントックは自分が選んだ世界に決然として臨み、一生を捧げた。
難問はいつしかやりがいとなり、彼女を虜にしたのであった。
そして、次第にドラマチックな発見と達成の物語を作り上げていった。
しかしその裏には常に「科学は女の仕事ではない」という当時の社会環境があった。
訳者あとがき から抜粋
マサチューセッツ工科大学(以下、MIT)の生物学部の教授であったナンシー・ホプキンスが、生前のマクリントックとかわした”Women is science(科学における女性)”に関する会話が載っている。
(投稿の日付は2006年1月23日、マクリントックの没後14年ほどのことである。)
ホプキンスによれば、彼女が大学院生、マクリントックが70代の時(おそらく1970年代初頭〜半ば)に、二人はコールド・スプリング・ハーバー研究所で出会ったのだが、彼女(マクリントック)が生きてきた時代が如何に女性研究者にとってつらい時代であったか、男性研究者ばかりの中で正当に自分の研究の場を確保すること、職を得ることがどれほど困難であったか、等などの思いを披瀝したのである。
一方、まだ元気溌剌、若いホプキンスは、生物学者としての自分の将来にバラ色の夢を描いており、そのような辛い経験は自分の人生に起きるはずもないと考えていたので、できることならそんな苦労話は聞きたくない気分になったようである。
数年後ホプキンスが学位をとり、博士研究員も終えて、いよいよMITに助教として職を得る運びになったとき、マクリントックがホプキンスに言った言葉は
”Don’t go to university,Nancy.The discrimination is so terrible,you will never survive it ”(ナンシー、あなた、大学に就職しない方がいいわ。差別がとてもひどいから、あなたが生き残れるとは到底思えない)というものであった。
そしてその後、さらに年月を経て、ホプキンスは生物学者として人生を歩むうちに、大学院生当時にマクリントックの気持ちをよく理解しなかったことに対して申し訳なかったと思うようになった。
同時に、彼女をより理解できるようになったとも述べている。
若い頃は、お年を召した方の苦労譚や
人生訓は今を生きる自分の時代には
さほど関連してないよというのは
自分に置き換えてもそうだったし
昨今若者との会話の中でも、
意識的ではないにせよ言わないように
している気がする。
つまり、ホプキンス女史の言っていることは
身につまされるエピソードでして、
後年すまない気持ちになるところも同様で。
それは経験値なんかのなせる技で
若い時には見えないものなんだろうという
歳をとったことの現れなのでしょうな。
ところで敬愛する養老先生は、
マクリントックというと中村桂子先生を
思い出すと桂子先生本の解説で
おっしゃっていたな。
この評伝本にはそのバイブレーションが
満ち溢れている。
女性科学者、研究、挑戦、熱量、
ファクトを積み上げるなど。
ここまで闘争的や厭世的ではないにせよ。
ホプキンス女史曰くマクリントックは
「世捨て人」だったと言ってるし。
(それが悪いってわけではないですよ)
さらに養老先生は茂木さんとの対談で
このように評しておられた。
から抜粋
養老:
バーバラ・マクリントックという女性の科学者の方がいるんですけど、あの人も、子供の時からものすごい集中力の持ち主なんですよ。
物事に集中すると考えるし、スポーツなんかでも集中力のある人が強いでしょ。
集中力を身につけるようにするということ。
もしかすると良い人生を送るための大事なことかもしれないですね。
周りが見えなくなる、てのはよく聞くし
自分もそのゾーンに入ることはたまにあるが
それそのものになる、っていう激しさや熱量を
キープしているってのはすごいなあと思う。
それはこの書を読むと時代背景もあったことが
分かりますが、ピュアな研究者資質がそうさせた
ことがなんとなく感じることができる。
第3章 動く遺伝子はウィルスだけではない
トウモロコシで見つけた動く遺伝子「トランスポゾン」
から抜粋
6年間、トウモロコシの遺伝子を観察した結果、生殖細胞が生まれる減数分裂の際に、遺伝子が染色体の中を移動していると考えなければ、この現象を説明できないということに気付きます。
1951年、マクリントックはシンポジウムで、本来はACという遺伝子が一個あるトウモロコシの位置が動いたという考え方を発表しました。
遺伝子の位置が動く、つまりトランスポジション(Transposition)があるというのです。
その時、会場内は「石のような沈黙」が広がったと言われています。
当時は、遺伝子は単純に複製されていくと考えられていたので、染色体の中で遺伝子が位置を変えたと言っている彼女の論文は奇想天外なものでした。
誰も理解することができなかったのです。
その後、分子生物学の技術が発展し、遺伝子をDNAとして解析できるようになりました。
その結果、ショウジョウバエの実験などで、遺伝子が動くことが分かってきたのです。
このような遺伝子をトランスポゾン(Transposon)と呼びます。
1983年、トランスポゾンの発見により、バーバラ・マクリントックは81歳で、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
受賞の報告を受けた彼女は、「あらまあ」と一言、いつものように、トウモロコシ畑へ出ていったというエピソードが、私は好きです。
一つの細胞の染色体の中で、位置を移す一塊の遺伝子、つまり動く遺伝子トランスポゾンは、トウモロコシだけ出なく、さまざまな生きものの細胞に存在する一般的なものと分かり、「遺伝子は動く」ということが、研究者の頭の中に入りました。
皆さんの頭の中でも、ダイナミックな遺伝子像ができあがりますようにと願っています。
”トランスポゾン”ということだと
過日投稿したO・サックス博士の書にも
「動く遺伝子」というマクリントック博士に
触れる箇所がありましたことを思い出した。
「動く」というか「移動」なのだね。
だから「動く」なのか。
それにしても欲やビジネスに目が眩まない
透徹した心をお持ちな方同士の
邂逅という気がしてならない
夜勤明け、休日の早朝でございました。
2冊の”人間機械論”を読んで考察に至らない件 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1932/11/20
- メディア: 文庫
人間は機械である。
また、全世界には種々雑多な様相化の与えられたただ一つの物質が存在するのみである。
これは問いと仮定とを積み上げたあげく打ち建てた仮説ではない。
偏見の産物でもなければ、予(よ)一個の理性の産物でもない。
もしも予の感覚が、いわば炬火(たいまつ)を振りかざして、予の理性の足もとを照らしつつ、予に理性のあとをついて行くように勧めてくれなかったならば、こんなに不確かなものに思っている案内人なんかは軽蔑したに違いない。
すなわち経験が理性の味方をして予に口をきいてくれたのである。
かくて予はこの二つをいっしょに結びつけたのである。
だが読者はつぎの点をお目に止められたはずである。
予は最も厳密な最も直接に引き出される推論をあえて用いる際にも、無数の科学的な観察の後で始めて行ったのであり、かかる観察はいかなる学者も異論をさしはさみえないものである。
しかも予が自分の引き出す結論の審判者として認めるものはかかる観察をおいて他にないのであり、これはすなわちすべての偏見を持った人間、解剖学者でもなければ、またここで通用する唯一の学問たる人体にかんする学問に通じてもいない人間を忌避する事である。
こんなしっかりした頑丈な檞(かしわ)の樹に対し、神学や形而上学や煩瑣(はんさ)哲学諸派の脆弱きわまる葦(あし)がなにごとをしうるというのか?
子供だましの武器である。
さてこれが予の説である。
というよりは、もし甚だしく誤りを冒していないならば、これが真理なのである。
短く簡単である。
さあどうかわれと思わん人は議論を戦わしてください!
機械である証拠に十項目を挙げておられるが
読んでみてもどうにも腑に落ちないものだった
のだけれども、そういうものなのだろうか。
時代背景から考え「霊魂」というワードも
出てきたりして一瞬ウォレスを思い出したりも。
1 生物は機械か
から抜粋
いまでは、
「人間は機械である」
と考える人はあまりないであろう。
むしろ、
「機械が生物並みになるのではないか」
を恐れる時代かもしれない。
しかし、それも、コンピュータやロボットの普及で、いささか取り越し苦労になってしまったようである。
たいていの機械が、日常茶飯事になってしまった。
生物が機械だという考え方を、何らかの形で最初に表明したのは、私の知る限りでは、さまざまな機械の作製においても天才的だった、レオナルド・ダ・ヴィンチである。
「おお、この我々の(人体という)機械の観察者よ、君は他人の死によって知識をもたらすからといって、悲しんではならない。むしろ、我々の製作者(である神)が、かくも卓越した道具に知性を据えつけてくれた事を感謝するがいい」
彼は、自分のスケッチの端にこう書き込んでいる。
レオナルドは特別だったかもしれないが、その200年後に、フランスの医者ド・ラ・メトリは『人間機械論』(1747)を書き、
「人間はきわめて複雑な機械である」
「人体は自らをゼンマイを巻く機械である」
などと述べた。
かれはヒトの精神もまた、とうぜん物質的基盤の上に成立すると説いたから、唯物論者とされている。
かれは、ヒトは時計だとも言ったが、この時代には、自分で動く機械といったら、時計ぐらいしかなかったことを考慮すれば、この言明が、それほど子供じみたものではなかったかもしれない、とご理解いただけるであろう。
哲学史では、ド・ラ・メトリの時代の思想が、ニュートンの機械論的自然観の影響を受けたと書く。
ニュートンが火をつけたか、レオナルド以来もともとあった小火(ぼや)が、ニュートンという風を得て大火となったかは知らない。
しかし、この機械論的自然観は、現代に至るまで、生物学にもきわめて大きな影響を及ぼすことになる。
ところで、生物が機械だ、という考えには、いろいろな違いがありうる。
こうした言い方は、すでに何度か出てきたが、けっきょく、ことばの定義に過ぎない。
このばあい、私は、機械は人間の一部だと考える。
機械は元来、ヒトが作り出したものであり、その意味では道具である。
道具は人体の一部だという考えは、古くからあった。
ヒトが作り出した道具が、人間の属性を帯びることに、じつは何の不思議もない。
そうならなかったら、その方が不思議である。
その意味でいえば、機械はもともと生物の一部であり、それを生きものと錯覚しても、考えようによってはあたりまえである。
機械とヒトの異同を考える人たちは、機械やヒトの中身について考えるのであろう。
機械は、その素材をみれば、無生物である。
しかし、純粋に形を考えるなら、素材は別に直接の問題ではない。
それは相似の項でも述べたとおりである。
そして、機械がヒトの一部だということは、素材は何でもいいことを、逆に示している。
こうした考え方が、じつは形を考える、ということなのである。
一般的にヒトと機械を論じるときに、その違いを考える議論がほとんど不毛だったのは、機械はじつはヒトなのだが、ただその一部にすぎない、という観点を落としたからである。
自分の手なり足なりを切り出して、はたしてこれが生物か、と議論してみても、おそらくムダだということは、たいていのヒトは理解するであろう。
だから、われわれは、機械を見るときも、人体を見る時と同じ観点から、観察する。
それを、そうでないと思うのは、相変わらず素材主義から抜けていないだけのことに過ぎない。
人間の身体の不気味さ、美しさというと
川端康成先生の「片腕」を思い出す。
文学にはそういうのが多くあると
ラジオの対談で養老先生おっしゃっていた。
だから、虫を気持ち悪いとかいうな
人間の身体だって十分きもいだろ
という文脈だった。
3 現代の機械論
から抜粋
ドーキンスに『生物=生存機械論』という書物がある。
これはいわゆる社会生物学を解説したものであるが、基本になっている考えは、遺伝子は生き延びるために、今までありとあらゆる手練手管(てれんてくだ)を使ってきた、というものである。
あらゆる環境をくぐり抜け、遺伝子は、じっさい、数十億年にわたって保存されてきたのだから、右のように表現したところで、それほど事実と食い違うとはいえない。
いまの世の中で、遺伝子にも意識があるのか、と疑問を発するナイーブな人が、そういうとも思えない。
この場合の「機械論」は、生物のある種の行動は、なんらかの前提、ここでは遺伝子の存続であるが、それをおくかぎり、まったく論理的に説明できてしまうというものである。
社会生物学は、その前提から、生物の利他行動というおかしな現象を、いとも数学的に、つまり没価値的に証明してしまった。
もっとも、このばあい、価値は、じつは遺伝子の保存ということに集約されている。
それが、自律的な機械という、古来の生物のイメージに、なんとなく反するところが面白い。
つまり機械論としての社会生物学の変わってる点は、個体の価値を「機械」的なものに置換したこと、つまり古くから暗黙の前提だった、「生きること」ではなく、「遺伝子の存続」のみに置き換えたところである。
従って、こうした「機械論」は、いわば目的論の変形であって、ここでいう物理化学的な機械論ではない。
初版は1986年なのだけどドーキンスの
『生物=生存機械論』とあるが、のちの
『利己的な遺伝子』でありまして
メトリ医師の言う「機械論」との関連性というか
類似性は養老先生曰く全く別のもので。さらに
人間=機械を最初に説いたのは、
かのダ・ヴィンチだったと。
気になることは養老先生が解いてくださった。
ちなみに、別の書になるのだけど
「解体新書」に流れを汲むもののようで、
杉田作の書はスケッチが線画で描かれていて、
その元となった図象が西洋の人体のスケッチは
デッサンのように精緻で養老先生はこれは
写真と同じだろうと指摘されてたのが
なぜか興味深かった。
そういう目と表現スキルを中世のヨーロッパ人は
持っていたということが。
話戻しまして肝心の「機械論」の根拠が
未だよく分からずこれは医学の知識がないかぎり
分からないのではなかろうか、みたいな気が
今更ながらしてきた休日の午後、
妻に子供の風邪が感染ってしまい、
ハウスハズバンドなひと時でございました。
昨年の5月の読書遍歴からの成果考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
2023年5月に読んだ本からキャッチしたもの
2年前の5月は何を読んでいたのかの成果考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
2022年5月に読んだ本と投稿した記事そして、人生はつづく:川本三郎著(13年)地球で生きている ヤマザキマリ流人生論(15年)小林克也 洋楽の旅:小林克也著(21年)正宗白鳥―何云つてやがるんだ:大嶋仁著(04年)文民統制の危機:立花隆(”文藝春秋”15年11月号)死後の世界:立花隆(”文藝春秋”14年10月号)知的ヒントの見つけ方:立花隆著(18年)音楽が終わった後に:渋谷陽一著(82年)久米宏対話集 最後の晩餐(99年)ぼくの鎌倉散歩:田村隆一著(20年)大人のいない国:鷲田清一・内田樹著(08年)音楽が聴けなくなる日:永田夏来著(20年)定本 作家の仕事場:篠山紀信著(96年)読まない力:養老孟司著(09年)安部公房全集29 (00年)
中村桂子先生の書から”業(カルマ)”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 作者: 中村桂子
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2017/02/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
から抜粋
科学とはどういうものだろうと考えた時、一つ興味深い見方に気づきました。
科学が生まれ、盛んになる前の社会は、宗教が人々の考え方をきめていました。
とくにヨーロッパでは、神様がすべてを決めてくださっているとしていました。
けれども、デカルトやガリレイに始まる科学は、世界は数学で書かれているものであってそれを自分で解いていかなければならないと考えました。
どのように書かれているかを私たちは知らないのですから、自分で考えなければなりません。
これは人間にとって大事なことですし、楽しいことです。
子どもはなんでも知りたがる。
これが人間の本性なのだと思います。
大人になると、こんなこと聞いたら恥ずかしいなどと思って遠慮してしまいますが、本当は知りたいことだらけです。
このようにして始まった科学は、世界を数学で理解しようとしたのですから機械論になります。
デカルトが生きものを機械として見る見方を出し、そこからラ=メトリの「人間機械論」にまでつながりました。
機械はすべて知ることができるはずです。
自然を解明していく科学の知識をふやすことによって、人間は自然を支配できるはずです。
こうして科学を基礎に置く現代社会は「進歩」を信じ、進歩することでよいことであると考えるようになりました。
進歩の具体は、科学を活用した科学技術によってより便利な社会をつくることです。
まさに今私たちはそのような考え方が主流の社会にいます。
すべてが神様の意志の表れであって決められた中で行動するという世界観に比べて、知らないことを自分で知り、前の世代よりは次の世代の方が進歩をすると信じて生きる方が、明るい未来をイメージできます。
すばらしいことです。
けれども、今これって本当かなという疑問が出ているのではないでしょうか。
世界全体を見ると基本的には先進国と開発途上国という格差がありますし、今やそれだけでなく先進国の中でも格差が出ています。
しかも、最先端科学技術は兵器の開発にも利用されますし、エネルギーの多消費による地球規模の環境問題も起きています。
どう見てもいのちが大切にされているとは言えず、生きものとしては暮らしにくい社会にどう見てもいのちが大切にされているとはいえず、生きものとしては暮らしにくい社会になっています。
なんとかしなければいけないと考える人が、環境問題を解決するための技術開発に努めたり、NGOやNPO法人を立ち上げて食事が充分とれない子どもたちのための食堂をひらくなど、いのちに向けての活動が行われています。
どれも大切な行動です。
ただ、「人間が生きもの」という視点を充分に活かそうと考えると、実は、現代社会を支えている世界観がそれに合わないのではないかと思えてきます。
それを考え直さなければ、いのちを大切にする社会をつくることはできないのではないか。
今考えていることはそれです。
思いきり個人的な柴谷論
から抜粋
柴谷篤弘先生と言えば反射的に思い出すのは、メモ差し出しのエピソードだ。
1945年8月15日は、もちろん太平洋戦争敗戦の日だが、日本の研究者にとっては英米の情報解禁の日だった。
そこで東大図書館(研究者の中ではアメリカンセンターと言われているが、柴谷先生のご著書にはこう書かれている)に届いた新しい論文を読みながら一人の物理化学者が「2600オングストローム」と呟いた。
近くにいた生物学者がこれに敏感に反応し、「私も同じ物質に強い関心を寄せています。後で話しましょう」
というメモをそっと差し出したというのである。
呟いたのが渡辺格、メモを書いたのが柴谷篤弘。
もちろん二人が注目したのは核酸である。
2600オングストローム(現在は260nmと言う)は核酸特有の紫外線吸収波長である。
この出会いが戦後日本の生物学の夜明けだったと言ってもよいだろう。
その後渡辺・柴谷は名古屋大学の生化学教室の江上不二夫、発生生物学研究所の大沢昌三らと共に医学を含むさまざまな科学の中で新しい学問を求めていた人たちを誘って「核酸研究会」を創設した。
1949年である。敗戦の混乱を考えると素早い立ち上げだ。
個人的な思い出を書かせていただくと、縁あって私は、渡辺・江上・大沢の三先生には一つ屋根の下で教えをいただき、その謦咳に接する幸運に恵まれた。
柴谷先生はそれがなかったのだが、少し違った形で最後まで教えをいただいたという意味では私の基本を支えてくださった存在である。
1971年、江上先生は「生命科学」という新しい概念を出し、「三菱化成生命研究所」を創設している。
ここでは、分子・細胞・発生・脳・地球(環境)・社会までを含めた総合的な学問が提案された。
細分化した専門分野に中で分析を進めていけば生命がわかるという時代は終わったこと、生きものの中には人間も入るのであり環境・社会などを視野に入れた生命研究が不可欠なことを意識しての提案である。
研究者が専門に閉じこもらず、社会の一員として考え行動する必要性も説いている。
ご一緒した九州出張の車中で、「水俣病は海を物理的に見て水で水銀を薄めると考えた。そこに生きものがいて濃縮が起きるという発想に欠けていた。技術の基本に生物学の知識が不可欠だ」と話された時の熱っぽさを思い出す。
この視点は柴谷先生の『反科学論』の内容と重なっているが、それを「生命科学研究所」として具体化したことが重要である。
しかもそれを民間、とくに三菱という資本の下で進めた決断は、当時の時代を考えると驚くべきことだ。
具体的な研究を進めるには、総合を目指しながらもまず分析を積み上げることが必要であり、『反科学論』の持つ勇ましさには欠けることになるのは仕方がない。
もちろん柴谷先生はそこは理解し、この活動を高く評価していた。
その研究所の中で、環境・社会を意識しながら新しい生物学を考える役割を与えられ、文字通りの暗中模索となった私は、江上先生から欧米の研究の現状を見てくるように言われ、その一つとして英国サセックス大学を訪れた。
1972年である。
当時イデオロギーとしては左寄りの雑誌『New Scientist』で活躍する研究者がおり、いわゆるSTS(科学・技術・社会)の議論が活発に行われていた場である。
そこで小さな会議に出席したら、なんと柴谷先生がいらっしゃった。
オーストラリアを拠点に世界中のその種の活動に参加していらしたのである。
『反科学論』はこのような議論を踏まえて書かれたものなのである。
以来、精力的に書かれる論文を次々送ってくださることになった。
一方、私の書くものはお送りしないのにすべて読んで感想を送ってくださる。
日本にいる仲間でさえ気づかないような場に書いたものまで感想が来るので、オーストラリアにいらしてどうやって見つけるのですかと問うたほどだ。
その問いには笑って答えなれなかったが、あらゆる文献に眼を通しているとしか思えない。
お化けみたいな方だ。
当時送られたものを読みながら感じたことは、柴谷先生の根っこにはやはり図書館での出会いの時に見せた新しい知の情熱、その始まりとしての分子生物学へのこだわりがあるということだ。
その後もお二人は付かず離れずお互いの仕事を
刺激し合いながら各自の領域でお仕事をされ
ご活躍されていくことになられるわけですが
何がどうなったのか本当のところは定かではないが
お互いの”知”に対する考えに齟齬をきたすような
難しい局面を迎えることになった模様で…。
柴谷先生的には”ゲノム”に何か
物申したいことがあったのだろうか。
それにしても、柴谷先生が私に接して下さったような形でもっと積極的に生命科学研究の中にいる次の世代、次々世代に知的刺激を与えてくださったらよかったのにと思う。
ここでシャガルフを思い出す。
大きな知の人でありながら、その仕事に適切に評価されなかったことから気持ちを閉じてしまい、ある時から自身の中にある大きな知を仲間と分かち合うことを止めてしまったのである。
柴谷先生にもそのようなところが見られた。
あれこれ言うのは止めよう。
とても大きな知の人であると同時に本当に優しい方だった。
柴谷先生と中村先生の関係というのは興味深い。
中村先生のポジティブパワーに照らされると
保護色のようになるけれども、個人単体だと
なぜか鋭利でダークな光になってしまう
ようにも見えてしまうような恐ろしさを
柴谷先生は、元から備えていたのか、
途中でそうなったのか、年齢のせいなのか、
私のようなものには到底わかるはずも
ございませんですが。
ここはさらに研究テーマが増えてしまった感あり。
話を本に戻して、多田富雄先生への追悼文もあり
2000年初頭ごろに中村先生の周りで起きたことや
宮沢賢治、まどみちおさんへの研究発表もされていて
今につながっているわけなのですが
ご自分でもあとがきで書かれているけれども
書き下ろしではないため、この書を
まとまりに欠けていると、
寄せ集め感があるものだけれども
逆に自分はとてもとても深さを感じたし
中村先生の中でも重要な本なのではないかと思った。
一つ一つが短くて図らずも今風な気もするのだけど
こういう方が得てして本質を炙っていることって
往々にしてあったりするからなあ、と
しみじみ思った夜勤前の読書でございました。
O・サックス博士の自伝から”偉人”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/12/24
- メディア: Kindle版
タングステン棒は私のマドレーヌ
から抜粋
私は19世紀の博物誌を読むのが好きだった。
どれも手記と科学書のブレンドだ。
とくに心をひかれたのは、ウォーレスの『マレー諸島』(新妻昭夫訳、ちくま学芸文庫)、ベイツの『アマゾン川の博物学者』(長澤純夫・大曾根静香訳、新思索社)、スプルースの『アマゾンとアンデスにおける一植物学者の手記』(長澤純夫・大曾根静香訳、築地書館)そして彼ら全員が(そしてダーウィンも)刺激を受けたアレクサンダー・フォン・フンボルトの『新大陸赤道地方紀行』(大野英二郎・荒木善太訳、岩波書店)。
ウォーレスとベイツとスプルースが全員、1849年の同じ月に、同じアマゾン川流域に互いに互いのたどった道を行き来し、追い抜きあい、しかも3人とも親友どうしだったと考えると楽しかった(彼らは生涯にわたって手紙のやり取りを続け、ウォーレスはスプルースの『一植物学者の手記』を彼の死後に出版することになった)。
彼らはみな独学し、自発的に活動し、組織に属していない、ある意味アマチュアであり、競争による動揺も混乱もないエデンの園のような平穏な世界に生きていたように思える。
しかしその世界が次第にプロフェッショナル化していくにつれ、殺伐とした競争(H・G・ウェルズの短編『蛾』(橋本・鈴木万里訳、『モロー博士の島』岩波文庫に所収など)に生々しく描かれているような競争)が目立つようになった。
ビジネスになると殺伐としてくる
ってのは今も昔も同じなのか哀しいけれど。
同時代の偉人たちに想いを馳せる
という構図は、とてもよくわかる。
シンパシーを抱く人たちというか
同好の士とでもいうのか、本人たちは
至って普通で、偉大になろうなんて
微塵にも思ってないというところも。
ひいては、オリヴァー博士たちも
その構図が当てはまります。
スティーヴン・ジェイ・グールドと議論する
から抜粋
博物学と科学史に対する深い愛情に通じ合うものがあったのは、スティーヴン・ジェイ・グールドだ。
私は彼の『個体発生と系統発生』(仁木帝都・渡辺政隆訳、工作舎)や毎月『ナチュラル・ヒストリー』誌に掲載されていた記事のほとんどを読んでいた。
とくに1989年の『ワンダフル・ライフ』(渡辺政隆訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)が気に入っている。
どんな動植物の種にも降りかかりうる純然たる運ーー幸運と悪運の両方ーーと、偶然が進化に果たす役割のとてつもない大きさを実感させる本だ。
彼が書いているように、もし進化を「やり直す」ことができるなら、そのたびにまったくちがう結果になることはまちがいない。
ホモ・サピエンスは特定の偶発性が組み合わさった結果であり、それで最終的に私たちが生まれたのだ。
彼はこれを「すばらしい偶然」(訳注:グールド『フルハウス』ハヤカワ・ノンフィクション文庫の渡辺政隆氏の訳を引用)と言っている。
私はグールドの進化観にとても興奮し、5億年以上前の「カンブリア爆発」で生まれた(カナディアン・ロッキーのパージェス頁岩に見事に保存されていた)驚くほど多種多様な生命のかたちを、さらにそのうちのどれだけ多くが競争や災難、あるいは単なる不運に屈したかを、彼は生き生きと描いていると評した。
スティーヴはハーバードで教えていたが、ニューヨークのダウンタウンに住んでいたので、私たちはご近所さんだったわけだ。
スティーヴにはじつにさまざまな面があって、いろんなことに情熱を燃やしていた。
散歩が大好きで、いまのニューヨーク市だけでなく、1世紀前にどんなふうだったかについても、建築に関する膨大な知識を蓄えていた(彼くらい建築に対する感性が豊かでなければ、進化論において適応を重視しすぎる立場を批判するためのたとえとしてスパンドレル(訳注:ゴシック建築などに見られる、丸屋根を支えるアーチとアーチにはさまれた三角形の部分)を持ち出すことはないだろう)。
そして大の音楽好きだ。
ボストンの聖歌隊で歌い、ギルバード・オサリバンを敬愛していた。
ギルバード・オサリバンの曲はすべて暗記していたと思う。
私たちがロングアイランドにいる友人を訪ねたとき、スティーヴは風呂に三時間入っていて、そのあいだずっとギルバード・オサリバンの曲を歌い、しかも同じ歌を繰り返さなかった。
彼は世界大戦期の歌もたくさん知っていた。
スティーヴと妻のロンダは衝動的に気前のいい行動をする友人で、誕生パーティーを開くのが大好きだった。
スティーヴは母親のレシピでバースデーケーキを焼き、いつも朗読用の詩を書く。
それがとてもうまくて、ある年、彼はルイス・キャロルばりの見事なナンセンス詩を作って、パーティで朗読した。
1997年 オリヴァーの誕生日にささぐ
この男、シダにほれ
世が世なら、バイクのCMスターかも
多様な多様性の王様だ
ヒップ!ハッピ・バースデー!
昔のフロイトを超えている
片足、片頭痛、色がない
火星で、目覚めて、帽子通
オリヴァー・サックス
いまも全力で生きている
泳ぎはイルカを超えている
スティーヴは私と出会う前、40歳かそこらのころに、死を覚悟するような経験をしていた。
非常にまれな悪性腫瘍ーー腹膜中皮腫ーーにかかったが、逆境に打ち勝つと決心し、とりわけ致死率の高いこの癌を克服した。
無駄にできる時間はない。
次に何が起きるかは誰にも分からないのだから。
20年後、60歳のとき、彼は前のものとは無関係と思われる癌にかかった。
しかし彼が病気に対して行った譲歩は、講義中に立つのではなく座ることだけである。
自分の最高傑作『進化理論の構造(The Structure of Evolutionary Theory)』を完成させるとの決意は固く、この本は『個体発生と系統発生』の出版25周年の2002年春に刊行された。
数ヶ月後、ハーバードでの最終講義を終えてすぐ、スティーヴは昏睡状態に陥り、息を引き取った。
まるで意志の力だけで自分を動かし続け、最後の学期の授業を終えて、最後の著作の出版を見届けたところで、ようやく手を引く気持ちになったかのようだ。
彼は自宅の書斎で大好きな本に囲まれて亡くなった。
サックス博士、グールド博士、そして
ギルバード・オサリバン。
なにか共通する気がするのは気のせいか。
カメラ好きってのも頷けるのだけど
どこかの街の小さな商店の写真に
グッとくるものがあるほどの腕前。
その他、バイク好きだった無頼漢な
1950年頃のアメリカの普通の若者の面もあり
多様性を帯びた性嗜好なども赤裸々に
綴られているけれど、その実どこまで
本当なのだろうかという”自伝”によくある
悪い意味での誇張やら記憶違いなども
含まれているよなあと感じた。
そういったことは抜きにこの書は
知性があれば相当楽しめるのだろうなあと
そこは置き去りになってしまう
我が身の哀しさを噛み締め
またの機会に随筆や小説も読んでみたいと
思わせるようなそれはもう深すぎる
作家であることは疑う余地を俟たない
5月真夏のような日差しで
汗をかいたため、Sptifyで
ギルバード・オサリバンを聴きながらの
入浴でございました。
O・サックス博士の随筆から受けた”既視感” [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
から抜粋
すぐさまダーウィンの想像力は目覚めた。
一対一という比率は、雄雌別株の種に期待される比率だ。
花柱が長い花は、たとえ両性花でも、雌花になる過程にあり、花柱が短い花は雌花になる過程になるのではないだろうか?
自分はまさに中間段階の形態、つまり進化の途中を見ているのだろうか?
楽しい考えだったが、説得力はなかった。
なぜなら、花柱の短い花、つまり雌花とされる花は、花柱の長い「雌」の花と同じだけの種子をつけていたからだ。
この場合、(友人のT・H・ハクスリーが言ったように)
「醜い事実によって美しい仮説が殺された」のである。
みんな大好きダーウィン、進化論。
サックス博士はそことはちと視点が異なり
植物への関心も忘れちゃならねえぜ
ダーウィンといえば、って言うのが
なかなか渋いなあと。
記憶は謝りやすい
から抜粋
1970年、ジョージ・ハリスンが大ヒット曲「マイ・スウィート・ロード」をリリースしたが、これが8年前にレコーディングされたロナルド・マック作の(シフォンズの「いかした彼」)にとてもよく似ていることが分かった。
問題が訴訟に発展したとき、法廷はハリスンを剽窃で有罪としたが、その判決には心理学的考察と共感が十分に示されている。
判事は次のように結論を下した。
「ハリスンは故意に「いかした彼」の曲を使ったのか?私は彼が故意にそうしたとは思わない。
しかしながら…これは法の下(もと)では著作権の侵害であり、たとえ無意識のうちに行ったとしても、同じ事である。」
ヘレン・ケラーも、たった12歳の時に剽窃で非難されている。
彼女はごく幼い時から耳と目が不自由で、6歳でアン・サリヴァンに出会う前は実際に言葉を知らなかったが、ひとたび指綴りと点字を学ぶと、たくさんの作品を書くようになった。
なかでも「霜の王様」という物語は、彼女が書いて友人に誕生日プレゼントとして贈ったものだ。
その物語が雑誌に載ることになったとき、読者はすぐにそれがマーガレット・キャンビーの児童向け短編物語「雪の妖精」によく似ていることに気づいた。
ケラーへの称賛は非難に転じる。
本人はキャンビー夫人の物語を読んだ記憶がなかったにも関わらず、剽窃と故意のうそで責められた(彼女はのちに、その物語を手のひらへの指綴りで「読んで」もらっていたことに気づいた)。
幼いケラーは冷酷で無礼な尋問を受け、そのことが生涯、彼女の心の傷跡を残した。
しかし彼女には擁護者もいて、そのひとりが剽窃された側のマーガレット・キャンビーだった。
マーガレット・キャンビーのこの逸話は
単に若年者への配慮だけとは思えない。
”創作”や”着想”のなんたるかをご存知だから
行った擁護であるのではないかと感じる。
ヒトの長い歴史をよくご存知だったからの
行動ではなかろうか。
自分は強くそう感じるのでございます。
暗点ーー科学における忘却と無視
から抜粋
私が論じている例から、何か教訓を引き出すことはできるのか?
私はできると信じる。
ここでまず時期尚早という観念を思い起こし、ハーシェル、ウィアー・ミッチェル、トゥレット、ヴェレによる19世紀の報告はなされるのが早すぎたために、同時代の構想に溶け込むことができなかったのだ、と考える人もいるかもしれない。
ガンサー・ステントは、1972年に科学的発見における「時期尚早」について考え、こう書いている。
「発見の内容が一連の単純な論理ステップによって、正統な知識や一般に認められている知識に結びつかないのであれば、その発見は時期尚早である」。
彼はこのことを、グレゴール・メンデルの古典的な例との関連で論じている。
メンデルの植物遺伝学に関する研究は、あまりに時代の先を行っていたのだ。
さらに、それほど知られていないのが非常に興味深い、オズワルド・エイヴリーが1944年にDNAを発見した例にも触れている。
この発見が見過ごされたのは、その重要性をきちんと評価できる人がまだいなかったからである。
ステントが分子生物学者ではなく遺伝学者だったら、彼は先駆的遺伝学者バーバラ・マクリントックの話を思い出していたかもしれない。
1940年代に、同時代の人々にはほとんど理解できない理論ーーいわゆる動く遺伝子ーーを展開した人物だ。
30年後、生物学がそのような概念を快く受け入れる空気になったとき、マクリントックの洞察は遅まきながら、遺伝学への根本的貢献として認められた。
マクリントックといえば養老先生が
中村桂子先生を評した時に引き合いに
出された人物だった。
確かトウモロコシの染色体を
研究してのノーベル賞ホルダーだが
そんなことは全く興味を示さなかったという
強者だったような。
それにしても、”動く遺伝子”ってなんだろうか。
解説 養老孟司
表現は難しく感じられるかもしれないし、またこれを日常的に体験する人は少ないであろう。
現代は情報化社会であり、情報はいったん固定化されると、まったく動かない。
だから我々自身が自分の記憶をそれに似たものと錯覚するのは当然かもしれない。
しかし何かを思い出すことは、新たに作り出すことでもある。
それを言葉の上ではなく、実感できるためには、おそらくその実体験が必要なのである。
フロイドは具体的な神経学者から精神医学者に変わった時、そうしたダイナミックな変化に気づいた可能性がある。
だからサックスはその時期のフロイドを論じるのである。
これを日常的な言葉で言えば、ヒトは変わる。
ただし、社会的存在としてのヒトは、むしろ変わってはならない。
昨日の私は、今日の私ではない。
そう主張して、昨日の借金を踏み倒すことはできない。
社会は「同じ私」を要求し、したがって進歩し、成熟していく私はしばしばストレスを受ける。
それが現代社会であろう。
自分自身を動的な過程として捉えること、それができることが真に「生きる」ことなのだが、昨日も今日も会社や官庁、組織に勤務していれば、なかなかそうは思えないのは当然のこととも言える。
サックスは私より4歳年上、ほぼ同年配と言っていい。
第二次世界大戦を子ども時代に経験した年代である。
彼が引用する書物、著作者には、私が親しんだものも多い。
いわば同じ世界の空気を吸って育った感じがする。
その世代は次第に消えて行く。
だからサックスの訃報を聞いた時には、寂しい思いがした。
本人に会ったことはない。
でも数多い著作を読めば、会う必要もない。
またまた完膚なきまでに叩きのめされた
清々しい書評というか人物評をされる
養老先生の解説は泣けるし、痺れる。
昔よりも優しい筆致な気がする。
組織社会の哀しさを指摘されるのは
ご年齢がそうさせているような。
それにしても養老先生のオリヴァー博士に
対する考察は本当にすごい。
病気や脳の知識と実務経験、それに拮抗する
知性を具備されているからこその
共感を示されていると自分などは僅少ながら
理解します。してるのか?してないよね?
自分は初読のオリヴァー・サックス博士は
かなり興味深く、既視感があったのは
昨今の読書文脈から考えるとまじ、
ありがたいことなのかもしれないと
思いつつもGW中日、今日だけ休日という
いつも以上に貴重な一日なので
図書館行って近場古書店でフィールドワーク
あとは家族と過ごしたいと
目論んでいるのでございます。
そろそろ朝ごはんたべようかと。