2冊の虹のエピソードから日高先生を想う [’23年以前の”新旧の価値観”]
- 作者: 日高 敏隆
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2015/03/10
- メディア: Kindle版
まえがき から抜粋
世の中にびっくりすることはいろいろあるが、もうずいぶん昔、あるオランダ人と虹の話をした時の驚きを、ぼくは今もよく憶えている。
「虹は七色だから…」とぼくが言ったら、その人は「え?虹は五色でしょ?」というのである。
ぼくはすぐに答えた。
「いや、七色ですよ。赤(せき)、橙(とう)、黄(こう)、緑(りょく)、青(せい)、藍(らん・あい)、菫(きん・すみれ)、これで七色でしょ」。
すると彼はいった。
「赤、オレンジ、黄、緑、青。これだけですよ」
「じゃあ、あいやすみれ色は?」
「それは青が濃いだけです」。
つまり、オランダでは虹は五色だというのである。
考えてみれば、光の色なんて連続したものだ。
どこで区分けするかはこちらの概念の問題である。
日本ではそこに七つの色を分けて見、オランダではあいもすみれ色も青に含めて五つに区分けしているだけのことなのだ。
それ以来ぼくは、ものの分け方とか区別とか、名前のつけ方とか、要するに人間があるものにどのような概念を与えるか、その根本にある論理はどういうものか、ということにますます興味を感じるようになった。
そのつもりで動物のことを見ているとじつにおもしろい。
たとえば人々はサケ(鮭)とマス(鱒)を区別する。
だがいろいろ調べてみると、そんなはっきりした区別はないのである。
ハリネズミはネズミではない。
ネズミとは全然ちがう食虫類という仲間である。
ネズミとは生き方の論理がまったくちがう動物である。
しかし人間は、ハリネズミはネズミの一種だと思っている。
ネズミのくせにミミズを食う、おかしなやつだと思っている。
こういう論理とか概念とかいう観点から動物を見たらどういうことになるか、それを試してみることにした。
やってみるとなかなかおもしろい。
それぞれの動物はそれぞれの論理で生きていて、その論理はしっかりしている。
それと対照的に、人間の論理はかなりあやしげなところもあることがよくわかった。
2001年春 日高敏隆
動物と人間
キリンの由来 から抜粋
進化論で有名なフランスのラマルクは、ダーウィンより早く「進化」という概念を抱いていたが、その進化のおこる理由をキリンの首を例にとって説明したので、キリンは進化論とは切っても切れないものとなった。
今さら詳しく説明するまでもないが、キリンは高い梢(こずえ)の先の木の葉を食べようとして、たえず首を高く伸ばしていたので、だんだん首が長くなっていき、それが子どもにも遺伝して、あのように長く進化したのであるという。
ラマルクのこの論法は、どことなく一般の人々を納得させるところがあるので、いまだに人々の心にとりついている。
これに対して、キリンには首の少し長いものも少し短いものもおり、長いもののほうがよりよく食物にありつき、より多く子孫を残していっただろうから、しだいに首の長いキリンが増えていったのだとするダーウィンの説は、今一つ分かりにくいものであった。
現在ではラマルクの説はいろいろな生物学的理由から完全に否定され、ダーウィンの説の方が妥当なものと考えられている。
それは、ある変化が、ある目的や意図によっておこるのか、それとも単に偶然の結果としておこるのかという、人間の相反する考えの闘いでもあった。
それが意図であったか偶然であったか知らないが、とにかくキリンは実在している。
そればかりか、キリンよりずっと背の低い、しかし体形はキリンとよく似たオカピという動物も実在している。
われわれ人間のさまざまな想像力をかきたててきたキリンの優美でふしぎな姿も、結局は偶然の産物であり、それがその住んでいる場所において、うまく生きていけるか、そして子孫を残していけるかという自然淘汰の中で生き残ってきたということに過ぎない。
けれどだからといって、キリンに対してわれわれが感じるふしぎさが、いささかも減じることはないのがふしぎである。
人間の論理
人魚幻想 から抜粋
人魚はずいぶんあちこちにいたらしい。
古いところでは紀元前八世紀のものと思われる半人魚の神、オアンネスの像がバビロニアで出土している。
ただしこのオアンネスは、ふつうわれわれが思うような下半身が魚の若い女ではなく、上半身が男、下半身が魚の海の神だそうな。
植物学で有名な荒俣宏氏が書いた平凡社大百科事典の「人魚」の項目をみると、じつにさまざまな人魚がいて、それらが次々にまた別の姿を生み出していったことがわかる。
東洋の人魚の姿はヨーロッパのとは少し異なっていたようだ。
たとえば、中国の人魚は四肢の生えた魚であり、顔や上半身の一部が人間である。
そして西洋の人魚に見られるような女の美しい乳房はない。
このように世界にたくさんいるさまざまな人魚のもとは、あるときはアザラシだとか、あるときはサメだ、エイだと言われている。
近年はもう少し「科学的」になって、ジュゴンとかマナティーのようなカイギュウ(海牛)類ではないかとされている。
ぼくはずいぶん昔、「怪物グレンデルの由来」という文章を書いたことがある。
グレンデルというのは、ご存知のとおり、古代英語で書かれた古いイギリスの叙事詩『ベーオウルフ』に登場する怪物である。
この怪物はどうやらワニのような動物で、水辺に住み、沼地の崖の下を住み家としているようである。
そして勇士ベーオウルフがこの怪物を退治するのであるが、ぼくにしてみればその物語はどうでもよく、この怪物グレンデルがどんな動物から想像されたものなのか、ということが気になったのであった。
いろいろと考えたあげく、ぼくが到達した結論は、それはナイル川のワニではなかったか、というものであった。
ベーオウルフが書かれたのは紀元八世紀頃とされている。
当然この時代の人々は、ギリシア・ローマ時代からのナイルのワニの話を聞いていたはずだ。
それが修飾されて北にまで達し。北欧やイングランドの暗い沼地に住みつくことになった時、それがグレンデルという姿になったのではないだろうか?
これは間違った推理ではないと、ぼくは今でも思っている。
けれど、今、人魚の由来を見てくるにつれて、ぼくはかなり揺らいでいる。
それは、ものがあってそれがことばを生みだすのではなく、概念があってそれがことばとしてものに与えられているのだ、というあのソシュールの言語学を思いおこさざるを得なくなったからである。
人魚は、はじめから男たちの幻想のなかにあったにちがいない。
人魚=海牛説などというものは、その幻想の源を海牛類に押し付けただけに過ぎないのではないだろうか?
日高先生は立花隆さんの対談でも感じたけれど
おもしろいです。
冒頭の虹の話がなぜか印象深くて
偶然借りてたそれ系の書籍にも
日高先生のことが書かれていた。
- 作者: 杉山 久仁彦
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/12/25
- メディア: 単行本
◆虹の科学の芽生え から抜粋
まず、「虹」に関する研究はどうなっているのか、詳しい研究者はいるのかなどから調べてみた。
すると意外にも、「虹」の研究に一生を捧げた研究者は一人も見当たらなかった。
つまり、これから登場する歴代の虹の研究者は、私の知る限り数学者、聖職者、天文学者、哲学者、物理学者、医者、画家、などが余技として「虹」を研究しているのであり、それゆえ虹に関する情報はあらゆる分野に分散している。
ギリシア・ローマ時代には色彩や視覚に関する文献が少ない割に、虹に関してはなぜか比較的多くの著作で取り上げられている。
原子論者のルクレティウスやエピクロスの文献では詩的な描写でしかないが、アリストテレスにおいては『気象学』の中で「鏡」の概念、「光線の反射と屈折」、「虹の曲線」、「視覚のピラミッド」などの科学的な説明が展開されている。
ローマではセネカ、ポセイドニオス、大プリニウス、アフロデシアスのアレクサンドロス、クレオメデスなど虹に関心を持つ学者の層が厚い。
◆虹の色数は何色か から抜粋
大学時代に大変お世話になった生物学者の日高敏隆先生が2009年の11月に永眠された。
実は、この本の原稿を仕上げたら巻頭言をお願いしようと考えていた。
その理由は日高先生は日本で初めて虹の色数に関するエッセーを書いたということになっているからだ。
この話は板倉聖宣(きよのぶ)先生の『虹は七色か六色か』で知った。
もちろん『犬のことば』は先生に送っていただいて読んではいたのだが、日本で初めて虹の色数に触れたエッセーだとは気づかなかった。
日高先生は「色」と「ことば」は文化に深く根ざしていることを示し、色数が多いことを特定の言語の表現力に帰属させるのは愚かなことであると言っておられるのだが、虹の色数に関しては何色であるべきかは書かれていない。
それは多分ご自分が決める必要はないと考えたのだろう。
上京して間もない私は日高先生の動物行動学の講義の中で、生物には世界がどう見えているかという話に触発された。
生物によって様々な視覚の世界が存在するという刺激的な講義は、本書を書くトリガーであったのかもしれない。
赤 | 橙 | 黄 | 緑 | 青 | 藍 | 紫 | |
日本 | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● |
オーストラリア
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● | ● | ● | ● | ● | ● | ● |
フランス | ● | ● | ● | ● | ● | ● | ● |
アメリカ | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |
イギリス | ● | ● | ● | ● | ● | ● | |
ドイツ | ● | ● | ● | ● | ● | ||
ロシア | ● | ● | ● | ● | ● | ||
ベルギー | ● | ● | ● | ● | ● |
「すみれ」というのは「紫」と同義語なのですね。
なのであやしげな香りがするのかってのは
どうでもいい感想でした。
この書はこの後、ニュートンはもちろん
レオナルド・ダ・ヴィンチなど、
虹にまつわる論考をされた方達の逸話で
熱く厚く、埋め尽くされる
凄まじい内容(デザインも)
なかなか興味深く特にレオナルドと
ドーキンスを結びつけて
考察されているのが興味深かったのです。
話は日高先生に戻り、ちょっと反骨精神っぽいような
世間のタームとは異なる感じがするのは
気のせいだろうか。
若干気になる休日の午後でございました。