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ドーキンス博士の稀代の名著を読み始めたの記 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

利己的な遺伝子: 増補改題『生物=生存機械論』 (科学選書 9)利己的な遺伝子: 増補改題『生物=生存機械論』 (科学選書 9)


  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 1991/02/28
  • メディア: 単行本

ついにこの時が来ましたです。


この書を読み始めたのでございます。


前提知識がついたから読みやすいとはいえ


やはり難しいのだけれど


なぜ今読んでいるかというと2つ理由があり


Spotifyで解説しているポッドキャストがひとつ


そしてもうひとつ強力なのが


本日NHKで小網代(こあじろ)の魅力を伝える


昼の番組に岸由二先生が出ておられたからで。


まったくの偶然で思わず録画。


しかし、岸先生を観て、一体何人がドーキンスを


連想しただろうかと勝手に嘆きつつも


そんないわれは番組制作者も視聴者も


まして岸先生ご自身もないぜよと思ったりも


したけれど読み始めのきっかけになったのは


良かったと。


1976年版へのまえがき


から抜粋


この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい

イマジネーションに訴えるように書かれているからである。

けれどこの本は、サイエンス・フィクションではない。

それは科学である

いささか陳腐かもしれないが、「小説よりも奇なり」という言葉は、私が真実について感じていることをまさに正確に表現している。

われわれは生存機械ーーー遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。

この真実に私は今なおただ驚きつづけている。

私は何年も前からこのことを知っていたが、到底それに完全に慣れてしまえそうにない。

私の願いの一つは、他の人たちをなんとかして驚かせてみることである。


私は行動生物学者(エソロジスト)であり、これは動物の行動についての本である。

私は自分がトレーニングを受けてきたエソロジーの伝統に、明らかに多くを負うている。

とくに、ニコ・ティンバーゲンは、私がオックスフォードの彼のもとで研究していた12年間に、私にどれほどの影響を与えたか、きっとわかっていないに違いない。


「生存機械」という言葉も、実際には彼の造語ではないにせよ、おそらくそれに近い。

けれどエソロジーは最近、常識的にはエソロジーに関わりがあるとはみなされていないところから来た新鮮なアイディアの侵入によって活気づけられてきた。

この本は大幅にこのような新しいアイディアを基盤として出来上がっている。


想像上の読者たちは敬虔な期待と願望の目標とはなってくれるかもしれないが、現実の読者や批評家ほどの実際の役には立たない。

私にはどうも改定癖があって、メリアン・ドーキンスが毎ページ、毎ページの数限りない書き直しを読まされる羽目になった。

生物学の文献に関する彼女の莫大な知識、理論的な論争についての彼女の理解、そして彼女の絶えざる激励と精神的支持は、私にとってこの上なく大切なものであった。


1989年版へのまえがき


から抜粋


利己的遺伝子説はダーウィンの説である。

それを、ダーウィン自身は実際に選ばなかったやり方で表現したものであるが、その妥当性をダーウィンは直ちに認め、大喜びしただろうと私は思いたい。

事実それは、オーソドックスなネオ・ダーウィニズムの論理的な発展であり、ただ目新しいイメージで表現されているだけなのだ。

個々の個体に焦点を合わせるのでなく、自然の遺伝子瞰図的見方をとっているのである。

『延長された表現型(The Extended Phenotype)』の初めの数ページで、私はこれをネッカーキューブの例えを使って説明した


今私はこのたとえがあまりにも慎重すぎたと思っている

科学者ができる最も重要な貢献は、新しい学説を提唱したり、新しい事実を発掘したりすることよりも、古い学説や事実を見る新しい見方を発見することにある場合が多い。

ネッカーキューブの例えは、誤解を招く。

なぜならそれは、二つの見方が同じように妥当だと思わせるからである。

確かにこの例えは、部分的には正しい。

「見方」というものは、学説と同様、実験によって判断できるものではない。

検証とか反証とかいう、我々がよく知っている判断基準に訴えかけることはできない。

けれど見方の転換は、うまくいけば、学説よりずっと高遠なものを成し遂げることができる。

それは思考全体の中で先導的な役割を果たし、そこで多くの刺激的かつ検証可能な説が生まれ、それまで思ってもみなかった事実が明るみに出てくる。

ネッカーキューブの例えは、このことを完全に見逃している。

それは見方の転換というアイディアは表現しているが、その価値を正当に評価することができていない。

今ここでわれわれが語っているのは、もう一つの等価な見方への転換ではなくて、極端にいうなら、一つの変容(transfiguration)についてなのだ。


私は自分のささやかな貢献がそのように位置付けされることを、できるだけ早く放棄したいと思っている。

とはいえ、この類いの理由から、私は科学とその「普及」とを明確に分離しない方が良いと思っている。

これまでは専門的な文献の中にしか出てこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、難しい仕事である。

それには洞察にあふれた新しい言葉のひねりとか、啓示に富んだ例えを必要とする。

もし、言葉やたとえの新奇さを十分に追求するならば、ついには新しい見方に到達するだろう。

そして、新しい見方というものは、私が今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりうる。

アインシュタインはけっしてつまらない普及家ではなかった。

そして、私は、しばしば、彼の生き生きしたたとえは、後の人々を助けたという以上のものであったのではないかと、思ったことがある。

それは彼の独創的な天才を燃え立たせもしたのではなかろうか?


改訂した際に、12章と13章をまったく新たに


付け加えたと記され


13章にはこんなことが書かれている。


13章 遺伝子の長い腕


から抜粋


本書のいくつかの章では、実際に生物個体を、そのすべての遺伝子を未来の世代に最大限の成功度で伝えようと努める一つの担い手と考えてきた。

われわれは、動物の個体がさまざまな行動方針について、複雑な経済学的”擬似”計算をするかのごとく想定してきた。

しかし別の章では、根本的な理由づけは遺伝子の観点から提供された。

遺伝子の目で見た生物観なしには、生物がなぜ、たとえば、自らの長生きよりも、自らやその血縁者の繁殖成功度に「心を配る」必要があるのか、特別な理由がなくなってしまう。


この二通りの生物の見方のパラドックスを、どのようにして解消すればよいのだろうか。

それに関する私自身の試みは『延長された表現型』にくわしく書かれている。

この本は、私の学者としての生涯において達成した他のいかなる事柄よりも誇らしく、喜ばしいものである。

この章は、その本の二、三のテーマの簡単なエッセンスであるが、本当はほとんど、今すぐ読むのをやめて『延長された表現型』に切り替えなさいと言いたいくらいなのだ。


そこまで言われちゃあ、合わせて


読みたくなるでしょう、普通は!


一回ざっと読んだのを思い出したけれど


難解すぎて本文を覚えてない…。


日高先生の解説しか思い出せない。


さらに『ブラインド・ウォッチメーカー』と


ドーキンス博士初期の3冊セットで


読んでみたいと強く思ったのでございますが


財力と時間がないし、古書店にも


ドーキンス博士はほぼ見かけないのだよなあ。


それは置いといて、ひとまずここまでの


感想ですが、凄まじく文章に惹きつけられるのは


比喩が深く幅広く表現力が光り輝いているよう


感じるからで、天才なのだろうなあこれはって


そこは自分が言わなくてもみんな知ってるよ!


じゃなんなのよ、と問われれば深淵なる知性に


恐れおののき読んでてぶるぶるするわー、


でもローレンツ博士の『攻撃』への


反論の余地って?書いてはあるけども


と思っております夜勤明けなのでございました。


 


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池田先生・井上先生の書から”未来”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

池田清彦先生の書のどこかに


(どれか探せなくて申し訳ありません)


これからの日本は”ベーシック・インカム”で


MMT”を勉強して理解しないとあかん


とあったので気になっておりまして


井上先生の書を読んでみたのですが


結論から言うとこれは井上先生のMMTで


自分の皮膚感覚にまで落とせないなあと


一筋縄ではいかないと思ったのでした。


読んでわかろうとするなんざあ、


100年早い、100年人生とはいえ、


ということにも気がついた。


そことは別にこの書を読んで


もっとも驚いたこととして


平成の終わり、令和の初め、コロナ禍以前に


これを唱えてたのはさすがとしか


言いようがないです。



MMT 現代貨幣理論とは何か (講談社選書メチエ)

MMT 現代貨幣理論とは何か (講談社選書メチエ)

  • 作者: 井上智洋
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/12/11
  • メディア: Kindle版

はじめに から抜粋


平成の30年間は、失われた30年で終わりました。

この時代に私たちは、多くのものを失ってきました。

デフレ不況とそれに伴う政府支出の出し惜しみによって、少なからぬ国民が生活の安定や人生そのものを失いました。

企業はイノベーション力を、大学は科学技術力を、家計は消費意欲を、若者はチャレンジ精神をそれぞれ失いました。

我が国の国力衰退は、目を覆わんばかりです。


この国を再興するには、デフレ不況からの完全な脱却を果たす以外にありません。

そのためには「拡張的財政政策」を大々的に実施する必要があります。

「拡張的財政政策」というのは、税金を減らして財政支出を増やす事です。

そうすると政府の借金は増大します。

ですが、財政の拡大なくしてデフレ不況からの脱却はありません。

それを怠ったために、失われた10年は20年となり、30年近くにまで延長されました。


それにもかかわらず、2019年10月に消費税が増税され、政府支出の出し惜しみも続いています。

デフレ不況という長く暗いトンネルの出口には、まだたどり着けそうもありません。

ではなぜ、政府は経済を衰退させるような、こうした自滅的な政策を取り続けるのでしょうか?

それは日本が財政難に直面していると危惧されているからです。


ところが、「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)」、頭文字をとって「MMT」という経済理論に基づけば、過度なインフレにならない限り、財政支出をいくら増やしても問題はない(つまり、財政危機なるものは存在しない)と主張することができます。

MMTは、非主流派の経済理論、つまり一般的な経済学の教科書には載っていない理論です。

主流派の経済学者からすれば、MMT派は「異端派」ということになります。


私は、大学の講義で「ミクロ経済」とか「マクロ経済」といった主流派の経済学を教え、学術的な論文も主流派のフレームワーク(枠組み)にしたがって書いています。

しかしながら、主流派とか非主流派といった区分に本質的な意味があるとは思っていません。

私自身は、MMTに全面的に賛成でも、全面的に反対でもありません。

明確に賛成できる部分と疑問や違和感を抱かされる部分とが混在しています。

本書はそうした立場の経済学者から著されたものです。


個人的にものすごく悲しい、平成の括られ方。


自分は、働いた年から一次定年みたいな年齢までが


まさに平成だったので、そういう認識なのか?


と肩を落としたのは言いたいだけです。


そこで立ち止まってても仕方ないが。



自己家畜化する日本人 (祥伝社新書 688)

自己家畜化する日本人 (祥伝社新書 688)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2023/10/02
  • メディア: 新書

第4章 自己家畜化の行き着く先


日本の国力の凋落が止まらない本当の理由


から抜粋


2022年度の平均年収は韓国(20位)に抜かれて21位、大卒の平均初任給は20万6000円、韓国は約30万円で、実質賃金は1997年を100として2016年のデータで89.7、ドイツ、アメリカ、イギリス、フランスなどは軒並み115以上になっているので、日本は一人負け状態だ。

直接的な理由は、本文で繰り返し述べたように、横並びでルール至上主義の学校教育、上の命令に逆らわない自己家畜化、優秀な人材をスポイルするシステムの結果であるが、日本を統治する権力側の人間にとっても、このようなやり方では日本の国力が下がるのはよくわかっていたはずだ。


それにもかかわらず、日本の国力の凋落が止まらないのは、権力にとって日本の凋落はある時点(おそらくはっきり自覚し始めたのは第二次安倍内閣の時)から、実は望むところになったのだとしか考えられない。


国民が貧乏になってきたので、企業の製品を日本人に売って儲けようとするモデルを徐々に放棄して、なるべく安く日本人の労働者を働かせて、その成果(製品やサービス)を外国に売って儲けようと考えたのだ。


そのためには国内の賃金を最低限に抑えて、儲けを最大限にして、その儲けを国民に還元しないで、権力と大企業とその取り巻きだけで分配するシステムを構築したのだ。

国力が上がらない方が、自分たちの短期的な利益にとっては好都合なので、意図的に国力を下げる政策を取り続けてきたわけだ。


そう考えれば、赤字必定なオリンピックや万博を無理やり推進(する)した理由や、消費税を目一杯上げて、国民を反抗する余裕がないほどに貧乏にして搾取する理由もよくわかる。


転換点が来るとすれば、AIが限りなく進歩して製品を作ったりサービスを提供したりするコストパフォーマンスが、労働者を雇うよりはるかに高くなった時だ。

権力の本音としては、日本人は消費者としてもはや重要ではないので、労働者として役に立たなくては、いなくても良い存在になる。

はたしてそうなって飢えに直面した精神的自己家畜化の進んだ日本人は、ベーシック・インカムを要求して政権に圧力をかけることができるだろうか、それとも、歴史上初めての市民革命を起こして、政権をひっくり返すだろうか。

それとも、権力はそれまでに憲法を改悪して北朝鮮のような独裁国家を作って、国民を弾圧するようなシステムを作っているのだろうか。


私は生きていないので、結末を見ることはでいないのは残念だけれど、若い人たちは多少でも精神的自己家畜化から逃れて、上手にそして幸福に生き延びでほしいと思う。


怖すぎる、池田先生の言説。


僭越ながら本当かなあと訝しく思う一方


言われてみて、考えてみると


いろいろ符号してしまうので看過できない。


だとしてフランス革命のようなものが


この国に起こってしまうのだろうか。


そしてさらに怖いというか怖さの種類が


異なるがドライな井上先生の書の導入をば。



メタバースと経済の未来 (文春新書)

メタバースと経済の未来 (文春新書)

  • 作者: 井上 智洋
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2022/12/16
  • メディア: Kindle版


はじめに


から抜粋


以前から私は、経済のあり方を激変させる技術として人工知能(AI)に興味を持っていました。

メタバースもまた、AIと対になって経済のあり方を激変させるだろうと考えています。

そういう意味で本書は『人工知能と経済の未来』という、2016年に私が書いた本の続編な位置付けになります。


ではなぜAIとメタバースが相補的な関係にあると言えるのでしょうか。

AIは人間の頭脳の代替物であり、AIを組み込んだロボットとともに人間の労働に置き換わっていくと予想されます。

一方でメタバースは人間が暮らしている世界(環境)の代替物であるといえます。


遠くない未来に、人間の頭脳はAIに、身体はAIを組み込んだロボットに、そして世界はメタバースによってそれぞれ置き換わっていくというわけです。

そして、この三つが揃えば森羅万象すべてが機械化されデジタル化されるという、ある意味恐ろしい状況がもたらされるわけです。


AIが普及しても人間の仕事は部分的には残りますし、それと同様にメタバースが普及しても、実空間での人間の営みは部分的には残るでしょう。

これは技術の進展度合いにもよりますが、今の技術の延長上で考えれば、食事や睡眠、排泄、あるいは医療行為や介護など、人の身体を必要とする行為は実空間で行うしかありません。

ただ、それ以外の娯楽や仕事、教育といった多くの営みは、メタバース内に場を移していくだろうと思われます。


その時、経済活動はどのようになるのでしょうか?

私は、メタバース内の経済活動は、実空間とかなり性質が異なるものになるだろうと予想しています。


現在の資本主義では、機械設備の設置には莫大な資金が必要で、その資金を提供する資本家と労働力を提供する労働者が主な経済主体となっています。

マルクス主義が想定するように両者が対立しているかどうかは別にして、こういう形で資本主義は形成されてきたわけです。

ところが、機械設備が要らなくなれば、資本主義が消滅するわけではないものの、根底から変容してしまいます。


メタバースにおける経済の主な担い手は、資金を提供する資本家でもなく、モノを物理的に作ったり運んだりする肉体労働者でもなく、アバターやデジタルな洋服をデザインするクリエイターです。


これまでも「AI時代にはクリエイティブ・エコノミーが到来する」といった未来予測がよく口にされてきましたが、メタバースの普及とともに、クリエイティブ・エコノミーはますます加速していくでしょう。


しかしそれは、ユートピアとは言えないかもしれません。

誰もがクリエイターになれるわけではないし、クリエイティブな仕事をしていても十分に暮らしていけるだけの収入が得られるとは限らないからです。


ではどうしたらいいのでしょうか?

その問いに答えるためにも、メタバース内の経済とはどのようなものか、メタバースの普及によって資本主義がどのように変容するかを理解する必要があります。

それこそが本書のテーマです。


興味深すぎる井上先生の書で。


60年代のフラワーチルドレンの行末とか


斎藤幸平先生へ意を唱えているあたりも


立体的に考察したい自分にとって深い本で。


それにしてもお二人の書を拝読し


コロナ禍を経て、デジタル化も加速し


ヒトの営みも変容するのだとすると


今後のグローバル社会や日本は


どうなるのだろうかと考えざるを得ない。


昨日投稿した日本人の洗脳がなんなのか


(なんとなくはわかる気もするが)


を実感した上で各自考えて行動していくことで


日本の凋落は止まるのかもしれないが


そもそも何を幸福とするかという


養老先生のおっしゃる”ものさし”で


自分流の勝手解釈の”前提”のようなものの


意識合わせが必要なのではなかろうか。


これだけ多様化している社会において


そこが相当ハードル高くて見えないくらい


なので政治家になりたがる人が


減少してるのだろうなあ


また政治家の知性が問われるところだよなあ


では自分は何ができるのかなあ、などと


夜勤前に思っておるところでございます。


 


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加藤典洋先生のいない2冊から”日本”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


本当のことを言ってはいけない (角川新書)

本当のことを言ってはいけない (角川新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2020/01/10
  • メディア: 新書

V 短絡的正義がもたらすもの


加藤典洋『戦後入門』を読む


元同僚の死


から抜粋


ご存知の方も多いと思うが、加藤典洋は2019年の5月16日に亡くなった。

亡くなる2ヶ月前に見舞いに行ったとき、根を詰めてcontroversial(論争の的になる)本(『9条入門』)を書いてストレスが溜まったのが、病気の原因だと思うと言い、これからは池田清彦みたいに軽く生きるつもりだ、と笑っていた。


退院したら、志木(しぎ・加藤さんの住んでいるところ)の家に、俺の持っている一番いい酒を持って遊びに行くよ、と言って、握手をして別れたのが最後になってしまった。

加藤典洋と握手をしたのは後にも先にもこの時だけだ。

握手なんかするもんじゃねえな。


戦後日本の非常に奇妙な状況


から抜粋


B29による大規模な空襲も非人道的な虐殺であることに違いはないが、とりあえずこれは措(お)くとして、戦争末期、このままでも日本の敗戦は時間の問題であった時期に、広島と長崎への原爆投下は、勝敗に関係のない無意味な虐殺であったにもかかわらず、日本政府は原爆投下直後こそ、原爆投下は国際法違反だとの抗議声明を出したが、GHQに占領されて以来、公的な抗議をしておらず、アメリカもまたほおかぶりをして、公的な謝罪をしていない。


不思議なことに被爆者も一般国民もまた、アメリカへの怒りを口にすることはほとんどなく、52年に広島市の平和公園に作られた原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれているだけである。


あいまいな言葉で責任をうやむやにするのは、日本人の得意技とはいえ、原爆投下に関する限り、過ったのはアメリカに決まっているのにね。


3・11の原発事故もそうであったが、余りにも大規模な人為的な被災に対して、日本人は怒りを感じない民族なのかもしれないと思いたくもなる。


戦争に負けた日本人のほとんどは、なぜアメリカへの報復の炎を滾(たぎ)らせることがないのだろうか。


一つの答えは、長く続いた15年戦争の結果、多くの日本人は戦争疲れで疲弊しており、戦争が終わって内心ほっとしていたので、今更アメリカの原爆投下を非難しても始まらないという思いがあったのではないか。

これは加藤も指摘している。

それに、私見を付け加えれば、この戦争は元はと言えば、日本が仕掛けたものだという幾分後ろめたい気持ちもあったに違いない。


しかし、加藤の見立てでは、もっと大きな原因は、ある大きな力の下で、批判が封じ込まれたのではないかというものだ。

加藤の論点を私なりにざっくり言うと、日本の降伏は本当は無条件降伏ではなかったにもかかわらず、アメリカは原爆投下とセットで一切の文句を言わせない無条件降伏と言いなして、占領中は原爆の投下を含めて、アメリカへのあらゆる批判を封じ込めた。


日本が形式的な独立を遂げた後も、日米安保条約とそれに付随した日米地位協定により、実質的に日本を属国の地位に留めるとともに、経済的な成長を助けて、日本の不満が噴出しないように腐心した。

この辺りの事情を説明するために加藤が提出した仮説は「戦後型の顕教・密教システム」で、この仮説は見事に日本の戦後の状況を言い当てていて、『戦後入門』の白眉(はくび)である。


加藤によれば、戦後型の顕教とは、日本と米国はよきパートナーで、日本は無条件降伏によって戦前とは違う価値観の上に立ち、しかも憲法9条によって平和主義の上に立脚しているとみる解釈、密教とは、日本は米国の従属化にあり、戦前と戦後はつながっており、しかも憲法9条のもと自衛隊と米軍基地を存置しているとみる解釈を意味する。


具体的には、国民全体に対しては、日本は平和主義の独立国家であるとの認識をゆきわたらせ、権力が国政を運用する秘訣としては、対米従属の下、戦前と戦後は繋がっているという政治的感覚はとりあえずカッコに入れて、自衛隊と米軍基地によって軍事的負担を減らして、もっぱら経済大国化を目指すという、ダブルスタンダードシステムこそが、日本の戦後を支えてきたというわけだ。


アメリカの属国から抜け出す方法


から抜粋


このシステムのおかげで、日本は経済大国になることができ、多くの国民は、日本がアメリカの属国であるという事実を忘れて、経済的繁栄を謳歌することにより、民族的自尊心を満足させた、というのが20世紀の終わり頃までの日本の状況であった。

しかし、ここに来て、このシステムを支えていた日本経済の繁栄は音を立てて瓦解してきた。


加藤典洋の見立てのように、化けの皮の剥がれた安倍政権(20年当時)が続くと、日本会議の路線に沿って、対米独立を果たし、軍事大国の道を目指して世界の孤児になるか、あるいは徹底的にアメリカに従属して奴隷国家の道を選ぶかの選択をいずれ迫られることになるだろう。

前者の道は経済的な疲弊をもたらし、後者の道では国民の自尊心は全く満たされない。

いずれにせよ国民が不幸になることに変わりはない。


そこで加藤典洋の提案は、憲法9条を改正して、自衛隊の一部を国土防衛と災害救助に当て、残りの全戦力を完全撤退しても、国際的には孤立しないはずであるし、日本人の自尊心も担保できると言うわけだ。

いかにも真面目な加藤典洋らしい提案だ。

現実的でないと言って冷笑を浴びせる人が恐らくいっぱいいるだろう。

しかし、革新的な提案は、どんなものでも最初は現実的ではないのだよ。


もしこの案が実現したら『戦後入門』は21世紀初頭の古典として、長く語り継がれるだろう。

人は死んでも本は残る。

さよなら、加藤さん。ごきげんよう。


池田先生が珍しくしんみりしているようで


それはあまりにも不似合いなのだけれども


本当に残念な思いが滲んでいるように感じた。


池田先生の言葉を信じるのならば


加藤先生は最後の書を生命を賭して


書かれたと言えるのだろう。



この1冊、ここまで読むか! 超深掘り読書のススメ (単行本)

この1冊、ここまで読むか! 超深掘り読書のススメ (単行本)

  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2021/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

第6章

『9条入門』


憲法と戦後史を改めて考える


高橋源一郎 X 鹿島茂


「考える」とはどういうことか


から抜粋


高橋▼

若い世代に憲法のことを伝えることを考えても、九条だけ注目していてはダメなんですよね。

僕は大学で教えていますが、若い人や子どもたちも九条のことを教えようとすると、すごく時間がかかって遠回りになるんですよ。

なぜかというと、これは大人たちも同じなんですが、みんな社会的に洗脳されているからです。

10年、20年、30年かけて、社会的に教えられる言葉や概念をそのまま内面化している。

それを解きほぐすのは容易じゃありません。


もちろん、いまのこの対談のように、単体のテーマとして説明に時間をかけることもできますが、それ以前に、「物事を考えるとはどういうことか」とか「人の意見を疑う」とか「なぜ嘘を吐いてはいけないか」とか、そういう話から始めなければいけない。

これは教育の問題なのですけれど、それを含めて、そんなに長いわけではない人生の中で、物を考えるのは大変だけど大切だし、しかも楽しいということを、いわば愚直に語っていく。

その延長上に九条があるんですよね。


目の前で九条を改悪する話をされれば「そんなバカなことがあるか」と焦りを感じたりもしますが、そこだけで焦っていたのでは、僕たちの足元が揺らいでしまう

だから、これには二面があるんです。

じっくり時間をかけて考えるという悠長なことをやると同時に、何か起こったらデモに行くとかね。

緊急性と永遠性の両方が必要なんですよ。

そういうスタンスで対処していくしかないですね。


日本人の多くが洗脳されているから


9条に短絡的にデリケートになっていると。


確かに「憲法改正」=「9条」=


「戦争を企む輩の思惑」みたいな


公式が暗黙にあるような気がする。


それはちと一旦置いといて気になるのが


洗脳とは具体的に何を指すのか。


洗脳されている自分にはわからないため


今後のテーマにしたいと存じます。


加藤典洋先生と高橋源一郎先生の対談


一度昔読んだのだけどその時はスルーだが


これで俄然興味が湧き出ずるものに。


対談相手を経由して戻る、と言うのは


自分にしてはよくある話なのだけれども


と言いつつも、テーマが非常に重たく、


しかし切実な国土防衛というか。


国の自衛のあり方、来し方とでもいうのか、


なのでちと二の足を踏みそうだけれども


鹿島先生の対談は高次レベルの学がないと


しんどいなあ、捻り方も相当なものだし


とも思ったりもする低い学の身分とは


あまり関係のないと思いたい


いつも以上に地震が心配な日曜出勤


なのでございました。


 


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③河合隼雄先生の論評”ゲゲゲの鬼太郎”と”マカロニほうれん荘” [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

書物との対話


書物との対話

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 1993/12/10
  • メディア: 単行本

II

水木しげる


『ゲゲゲの鬼太郎』


異常な誕生の背景


から抜粋


伝説や昔話に登場する英雄(ヒーロー)は、桃太郎の例をまつまでもなく、異常な誕生によることが多い。

われわれの主人公ゲゲゲの鬼太郎の誕生は、とりわけ異常な物語となっている。

人類の誕生以前から住んでいた幽霊族は、人類によって圧迫されて地下に住んでいる。

ところがそれも絶滅に近づき、最後に残された夫婦も死亡する。

墓に埋められて三日後、妻のみごもっていた子が生まれ土のなかからはい出してくる。

これが主人公の鬼太郎である。

それと不思議なことに、鬼太郎の父親の目玉が生命力を持ち、鬼太郎につきそってくるのである。


圧迫され、忘れ去られた存在として何万年も生きてきた幽霊。

墓の中から生まれた子ども。

これらのことから誰しも連想することは怨念ということではなかろうか。

ところが、鬼太郎という子どもはまったく可愛い顔をしているし、怨念のかげりをどこにも見出せない。


このパラドックスを解く鍵として、作者が凄まじい戦争体験を持ったという事実が役立つであろう。

極限状況に追い込まれた中で作者のもった諦観は、ゲゲゲの鬼太郎の強い支えとなっている。

おそらく作者は、極限の世界の中で、生と死、あちらとこちら、敵と味方など、何かを明確に区別する隔壁(かくへき)が崩れ落ち、そこに全体としての何かが存在するという体験をしたのであろう。

怨念はそのような体験の前に力を失ってしまう。

しかし、それは消滅したのではない。

鬼太郎ファンの大人達は、おそらく、圧迫されたものの悲しみや虐げられたものの叫びを、その作品のなかから感じ取っていることであろう。


光と影の対比


から抜粋


隔壁をとっぱらった全体性の諦観はこの世のルールを無視してしまうところがある。

いろいろな妖怪と戦うが、鬼太郎は必ず勝つ。

鬼太郎は勝つために、トリックや超能力を使用するが、それはこの世のルールを簡単に無視して考えだされたものが多く、作者は申し訳なさそうに、超能力やトリックについての説明を書き入れる。


鬼太郎は必ず勝つという安心感は、少年達をひきつけるであろうが、それではあまりに平板になってしまう。

そこで、お馴染みのねずみ男が登場する。

ねずみ男という影の部分を持って、光の部分のみを代表する鬼太郎の像が立体化する。


それに、「父親の目」という極めて象徴的な存在を加えることによって、話は面白さを増してくるのである。

ねずみ男は欲に絡んで敵についてみたり、まったくへまなことをしてみたり、敵の術中におちいってしまうことも多い。

人間はいくら諦観を持っても煩悩は消滅しない。

煩悩のはたらきは諦観に磨きをかける。

いや、ひょっとしたら、ねずみ男の方が悟っているのかもしれない…。

『ゲゲゲの鬼太郎』ファンの中には、案外、ねずみ男ファンも多いのではなかろうか。


『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する多くの妖怪は、鬼太郎も含めて。ファンタジーの世界の住人ではない。

それは、かつ現れ、かつ消え、流転しつつも永遠に不変である。

日本人の心の仲野「自然」の顕現であるように思われる。

妖怪の姿をとっているが、本質的に花鳥風月の世界を描いているのである。

西洋人とあれほどまで戦った体験をもっても、われわれの魂はそこに帰ってゆくのだろうか。


鴨川つばめ


『マカロニほうれん荘』


奇想天外を超越


から抜粋


奇想天外と言っても、自転車で空を飛ぶなどは序の口で、風呂で洗いすぎて骨だけになってしまったり、自衛隊から(黙って)借りてきた戦車で登校したり、というようなことが次々と起こる。

しかも、話のテンポが速く、話の流れはどこに飛んでゆくかわからない。

どこからでも大砲の弾丸が飛んでくるような感じである。

トボケもフザケも今までのものを一段と超えていて、思わず吹き出す時がある。


漫才を映像化


から抜粋


最近ではマンガの表現も残酷さや性描写に随分とすさまじいものがあって、マンガ通でないとついてゆけないとも言われる。

筆者のようにあまりマンガを見慣れないものは、確かに一見してとまどいを感じるが、そのマンガの持つ独特の世界に入り込んでゆくと、相当な表現も気にならなくなるものである。

ところで、この『マカロニほうれん荘』は、その発想の奇抜さで若者の間に人気を博していたと思うが、われわれ老人でも案外その世界に、スーっと入ってゆきやすいものである。


いったいこれはどうしてだろうかと考えてみて、筆者はこれが漫才の手法によっていることーーー作者はおそらく意識していないと思うがーーーに気がついた。

そう思うと、二人の主人公は往年の漫才の名手エンタツ、アチャコになにやら似ているようである。

漫才はストーリーの構成ではなく、連想の流れの面白さで勝負する。

『マカロニほうれん荘』は、連想の世界を大胆に映像化している。


『マカロニほうれん荘』は、マンガの技法としては新しいものであるが、漫才という伝統的なものによっているだけに、心情的には古い味を持っている。

「203高地」などという昔なつかしい言葉がでてくるのも、このためであろう。

現在の状況は、漫才マンガが漫才を駆逐した感じだが、マンガの方は生きた人間が演じている味というものを捨象(しゃしょう)してしまったわけで、これは今後どのような効果を青年達にもたらすだろうか、と思われる。


伝統を継承する師匠から芸を受け継ぐような


漫才は確かに駆逐されたかもだが、


お笑いという芸は廃れることなく今も健在ですよな。


自分は興味ないからよく知らないけれど


テレビには連日出ているよね、芸人さんが。


漫才というフォーマットは昔のそれと


価値が異なっているのかもしれない。


明石家さんまさんが、昔は


「吉本興業に行くというのは


人の道を外れることを意味していた」的な


発言されていたが、今はそれ自体がお笑いだろう。


マンガは日本のソフトパワーとなり世界を席巻。


この後の若者に与えた影響は自分が思うのは


生活に密着しすぎて、注意してみないと


わからないくらい空気のような存在になって


今に至るような気がする。


この二つの論評は、1979年9月から11月に


『共同通信社 京都新聞』ほかで連載とのこと。


『ゲゲゲの鬼太郎』は第二期アニメの頃の


事かと思われ、『マカロニほうれん荘』は


79年に連載終了の頃かと。


『ゲゲゲ』の方は、テレビ版と漫画版だと


水木先生色が薄められているのは周知の事実。


そこを差し引いての論評としても


さすが河合先生で、”ねずみ男”に注視しておられる。


『マカロニ』も違和感なく楽しまれ


芸能の味を感じ取られたようですが


それはある種、伝統的な価値観というか


暗い土着文化をカリカチュアしていたように


思うのだけれども。


ハードロックやパンクが頻繁に出てくるのは


そういう必然を背負っていたような。


だとしても、そこも楽しめてしまう


河合先生の度量の深さや


鴨川先生の技術力の高さは恐れ入ります。


確かに『マカロニ』は新しい感性で


一瞬で突き抜けていった風としか


思えない儚さが作品全体のそこかしこにあり


ストーリーも斬新なら絵もずば抜けて上手かった。


同時期のライバル江口寿史先生と比較され


自分はどちらも今だに好きなのでございますが


この二人は当時の若者や若者予備軍に


与えた影響は計り知れないと思わずにいられない。


時代を二人が写し取っていたような


時代と絶妙にリンクしていたような


マンガで若者の生活を垣間見させてくれ


時代を牽引していたと思ってしまうが


本人達はまったくそんなつもりもなかった


だろうなあ、水木先生もだけど


これらは天才の仕事と呼べるよなあと


思う六月の暑い1日でした。


 


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②河合隼雄先生のつげ作品論評より”オブジェクティブ・サイキ”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


書物との対話

書物との対話

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 1993/12/10
  • メディア: 単行本

現代青年の感性

マンガを中心に


B 内向型感覚


から抜粋


ユングの普遍的無意識の考えが、現在の劇画の内容を説明しうることが多いと述べたが、同じくユングの心理機能に関する理論を用いて、マンガ表現の特徴を指摘したいと思う。

ユングは人間の心理機能に関する理論を用いて、それぞれ互いに対立する思考と感情、および、直感と感覚の機能を考えた。

思考は文字どおり考える機能であるが、ユングのいう感情とは、ものに対する好き・嫌い・善悪の判断を下す機能を示している。


これに対して、感覚は、五感に関係して、ものそのものの形や色などを的確に把握する機能であり、直観は、ものの属性を超えた可能性を把握する機能である。


ところが、ユングはこのような機能にそれぞれ内向と外向の二方向があると考える。

例えば同じ思考機能でも、物事の関係やそのはたらきの仕組みなどについて考える外向的思考型と、生きることの意味とか、死とは何かなど考える内向的思考型があるという。


そして、彼は現在のヨーロッパ文化では、外向的な態度の方が価値を与えられ、内向的感覚や内向的直観の機能は評価されなかったり、誤解されたりすることが多いと述べている。


このような観点に立つと、現在のマンガは、ユングのいう内向的感覚機能に頼って書かれているものがあると感じられる。

つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせることによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。

これは現在の青年の感性に強く訴えるものがあったと思われる。

そのような作者の代表としては、つげ義春をあげるのが適切であろう。

つげ義春は自分の内界を感覚的にとらえて、それを表現する。


内向とか、人間の内界というと誤解する人があって、人間の内省可能な範囲内のことと思う人が多い。

自分はどんな欠点をもっているとか、他人に対してどう感じたとか、そのように考えたり感じたりするのは、むしろその人の意識可能な自我の内部で生じていることである。


ユングが内界という場合、自我の外部に外界が存在するように、内界も心の内部ではあるが自我の外に存在するものと考えている。


そして、外界が一般に客観的な世界と言われているのと同様の意味で、この世界を客観的な心(オブジェクティブ・サイキ)の領域と呼んだことがある。


内向感覚型の人とは、このような世界が鮮明に「感覚的に」とらえられる人である。

その人は内省をするのではなく、ただ「そこに」ある世界を見たり、それに触れたりするのである。

つげ義春の作品を評して、赤瀬川原平は、


「眼の前にあって眼に見えない不思議な正体があるので仕方がないのだ。

そしてその正体は、眼に見えずにリアルなのである。

その漫画の細部は非常に触覚的であり、私たちの生活の検証にも耐えうる確証的なものである。」


と述べている。

ここに「眼に見えずリアル」などの逆説的表現を誘い出すところが、彼の作品の特徴であり、それはとりもなおさず内向的感覚の特徴なのである。

それは「触覚的」でさえあるほどのなまなましさをもちながら、どこかで非存在感を強く味合わせているものである。

それは、われわれが一般に「存在」とか「現実」というときに、どうしても外界に縛られる傾向を持つために、つげの作品を見て、非存在、非現実と感じるものだが、一方それは、まぎれもなくつげ義春が彼の感覚によって確実に把握しているものであるために、なまなましい存在感を与えるのである。

それは、自我の中で「考えだされた」偽物の「ファンタジー」作品とは異なるのである。


この後、河合先生は、つげ先生の『』を


引き合いに出され分析・考察。


別の書籍でつげ先生インタビューにて


最後の見開きページは当時は誰も


理解・評価されなかったと読んだ記憶あり。


66年2月では早すぎたとしか言いようがない。


ビートルズも来日してない日本においてとは


言いたいだけでした。


『沼』はWikiにございますが『兄貴は芸術家』と


同月に発表された、と、驚愕の事実だったのは


本当に言いたいだけです。


沼との溶解体験を作者は見事に「感覚的」に表現する。

それは実に触覚的ですらある。

乙女の首にまきつく蛇の肌の感触を、われわれは感じさせられる。

このような点が、つげを内向的感覚型であるとするところである。

溶解体験は自我の同一性の崩壊の危険をもたらす。

青年は沼との距離を取り戻すために、ひとつの儀式的行為を必要とする。

それがズドーンという銃の発射である、と考えられる。

おそらく、作者自身もこの一発の銃の発射によって、さまざまな溶解体験から自分を切り離すことができたのではないかと推察される。


次に、内界に住む心象の不可解さと残酷さについても述べておかなければならない。

このような点は、この物語に登場する娘の行動に如実に表されている。

彼女の行為をどのように判断するべきかに迷わされるが、ここで大切なことは、彼女は残酷か否か、その行為が善か悪かなどの判断以前に、ともかくそれはそのようにある [ just-so ] ということである。

感覚は事実をあるがままにとらえて、そこに判断を入り込ませないのである。

内界に存在するものが、そのままの姿で把握され描かれるという、このような傾向は、違った表現方法ではあるが、萩尾望都の作品においても認められる。


ユング博士とつげ義春先生との関連性は


河合先生ならでは、なのだけれども


さもありなんとでもいうか、目から鱗というか。


ユング博士の内向的感覚への分析・論理で


60年代だとするとヨーロッパでは


つげ作品は受け入れられなかったのかもだが


昨今は懐深くなった模様でつげ先生は


過日フランスで賞をいただいておられたかと。


内界・外界というのも、なんとなくだけど


つげ先生を言い得ているような気もした。


河合先生の指摘にはないけれども


太宰治に傾倒していたというつげ先生の


『沼』は『魚腹記』に影響されていないか


なんとなく類似性を感じるのだけど。


河合先生の書籍に話は戻りまして


河合先生にかかるとつげ先生作品も


かように料理されるのかと驚くとともに


1977年当時『読書世論調査(毎日新聞社広告局)』の


”好きなマンガ家”が1位手塚治虫、2位長谷川町子、


3位水島新司、4位ちばてつや、5位サトウサンペイ先生、


33位までの中に、なぜ、藤子不二雄先生が


いないのだろうと腑に落ちない本日は休日


午前中は河合先生の書籍を読み、午後は


近くの寺院の境内で「ダライ・ラマ自伝」を


読んでおった豊穣なひと時なのでございました。


 


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