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①河合隼雄先生・養老先生の書から”中年”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


書物との対話

書物との対話

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 潮出版社
  • 発売日: 1993/12/10
  • メディア: 単行本

”脳”を刺激する興味深い対話


養老孟司『脳という劇場』


これは実に刺戟的な対談集である。

『唯脳論』の養老孟司さんがいろんな多彩なタレントを「劇場」に登場させて対話している。

養老さんの柔軟な姿勢を反映して、いずれもそのトピックに合った興味深い視点を引き出していて、読みながら、こちらの「脳」も随分と刺戟される、というわけである。


冒頭の中村雄二郎との対話は、本書の総論と言ってもいいほどで、多くの新しい考えのヒントを与えてくれる。

中村の「形というモメントを入れることによって、あるいはさらに、それを重視することによって近代科学を超えることもできるはず」という考えは注目すべきである。


中村桂子との対話では、養老が学問というものは「既知のものを未知のもので説明する」と述べたことに中村が同感して、一般の人は科学というものを「未知のものを既知のもので説明する」と思っているので困る、と言っている。


多田富雄、大島清、などの対話と共に、「新しい自然科学観」をまさぐってゆこうとする姿勢が伺える。

ただ、素人には少し難解なところがあり解説が欲しいと思う。


免疫学の多田は「自己などという概念は崩壊しちゃった」と宣言している。

このことは心理学で考えている「自己」にまで及んできそうで、古井由吉との対話で問題とされる、「複数の自我」にまでつながってゆくと感じられた。


山根一眞との対話で養老は、頭の「良し悪し」よりも「強いか・弱いか」の方が重要だという注目すべき発言をしている。


哲学者、建築家、小説家、生命科学者、それに棋士、果ては「言いたい放題、死体放題」の南伸坊まで登場して、その幅の広さに感心するが、これら全て自家「ノウ中にあり」と唯脳論の養老先生は主張しているようである。

ーーーサンケイ新聞’90



中年クライシス (朝日文芸文庫 か 23-1)

中年クライシス (朝日文芸文庫 か 23-1)

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 1996/06/01
  • メディア: 文庫

巻末エッセイ


おとな


養老孟司


河合さんにお会いすると、いつでも「おとな」という印象を受ける。

私が「子ども」だということもあるだろうが、それだけではない。

この場合の「おとな」とは、『広辞苑』を例にとれば、

「中・近世、村落の代表者、また、実力者。乙名百姓。年寄。宿老。」といった感じである。

大げさにいえば、「日本のおとな」であろう。


いろいろ違いはあるけれども、河合さんの世代、さらに京都という土地が、こういう乙名百姓を出す培地(ばいち)なのかもしれない。

同時期に京都大学におられた数学の森毅さんも、別な乙名百姓である。

こちらもお会いするたびにそう思う。


関東という土地はどうもこういう人たちを出さない。

そういう感じがする。

その本質が重層的であるような文化というもの、それが関東にはいささか欠けているのである。

関東人はいくら金を持とうが、基本的に貧乏人の性癖を残しており、どことなく乱暴で直線的である。


関東の小説家というなら、私の頭にたちまち浮かぶのは、三島由紀夫、石原慎太郎、深沢七郎などであり、どう考えたって、これはどこか文化的ではない。


河合さんの逆の存在をいうなら、以前テレビ番組にあった『木枯し紋次郎』である。

どこが逆なのかというと、その説明はできない。

強いていえば、紋次郎は「あっしにはかかわりのねェことで」と言いつつ気持ちも身体も徹底的に関わることになり、河合さんは患者さんにいちおう仕事で関わりながら、腹の底ではむしろ「紋次郎」を演じるということであろう。

「紋次郎」は関東的で、要するに関東人は屈折したとしても、たかだかああなのである。

そこがアメリカ文化と平仄(ひょうそく)が合うところなのであろう。


考えてみれば、江戸という町の歴史は400年、おおかたのアメリカの町よりは古いかもしれないが、50歩100歩であろう。

京都は1000年、それなら関東はまだ「紋次郎」でいいわけである。


河合さんは本読みの達人である。

『書物と対話』という本もあって、読書がみごとな芸になっているのがわかる。


『中年クライシス』という本は、私はいつもの習慣で横須賀線の中ではじめて読んだ。

感心しながら引き込まれたから、そのときのことをよく記憶している。

山田太一氏の『異人たちの夏』の解説にあまりに感激したので、肝心の原作を読む気がなくなってしまった。

こういう見事な解説は、ある意味では良くない。

あらかじめ小説を読んだ人しか、読んではいけない解説なのである。

山田氏の小説が、解説ほどでなかったらどうしよう。

私はついそう思ってしまったのである。


これはものすごい目から鱗がフォールダウン。


養老先生の書評こそまさにこれ。


書評読んだらもういいです的な。


水差してすみません。


河合先生の中年への眼差しに戻ります。


「トポスを見いだし、そのトポスとの関連で『私』を定位できるとき、その人の独自性は強固なものとなる。

そのようなことができてこそ、人間は一回限りの人生を安心して終えることができるのではなかろうか。

老いや死を迎える前の中年の仕事として、このことがあると思われる。」


この文章の内容も、最初に読んだときに頭に入ってしまったのだが、引用しようと思ったら、この本が見つからなくなったことがある。

そのままうろ覚えで内容だけ引用してしまった。

この文章に出会うまで、こういう内容を意識したことは、私にはない。

しかし中年の定義としても、みごとなものだと感じられる。

そう思わない人は、たぶんまだ中年ではないのである。


養老先生がまだ解剖学者の頃の文章で興味深い。


編集者さんの仕事だと思うけれども


「巻末エッセイ」というのが時代性を感じる。


河合先生の中年の定義について、自分なりの解釈。


トポス=ギリシア語で”場所”。

話題を発見すべき場所(論点,観点)。


ということらしいのだけど、それを前提として


興味のあるものを自ら見つけ

そこにいる自分を

俯瞰できるようになると”己”は強まる。

それができたら、もう人生を終えても

悔いのないもので、めっけもんです。

もしそう思えないのだったら

まだまだ青春の途上ですよ。


と読めるのは、おそらく自分だけなのだろうなあと


思いつつ、そうだとして、自分はどうなのかを問うと


そう思えるから中年、それ以降であることを実感。


さらに感じていることとして、


早起きしての仕事だった本日、天気があまりにも良く


今日が休みだったらなあ、と思わずに


いられませんでしたことは


言わずもがなでございます。


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多田先生から”教養”を、養老先生から”普遍”を感じる [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

寛容と希望 〔未来へのメッセージ〕 (多田富雄コレクション(全5巻) 第5巻)


寛容と希望 〔未来へのメッセージ〕 (多田富雄コレクション(全5巻) 第5巻)

  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2017/12/20
  • メディア: 単行本

IV 科学と医学の未来


教養とは何か


初出;『信濃毎日新聞』1999年7月7日(『懐かしい日々の想い』)


から抜粋


予定が立て込んでいる中を、無理して能楽堂に能を観に行って来た私に大学院の学生が言った。

「お忙しいのに、よくそんな時間が取れますね。ぼくは狂言は少しはわかるけどお能の方は退屈でわかりません」

私は言下に言った。

「それは君に教養がないからです」。

そう言ってから考えた。

教養って一体何なのだろうか。


そう言えば思い出したことがある。

もう10年近くも前だろうか。

東京大学教養学部の学内新聞で、教授たちに「教養とは何か」というアンケートを出したことがある。

匿名ということもあって、いろいろ面白い答えがかえってきた。


それを読んで気づいたことは、教養というのは実利的な意味では何の役にも立たないが、人間が物を判断する時の基礎となるものらしいことだった。

実利から離れた価値を知ること

それが教養だろう。


現代のような複雑化した社会では、固定した単一の価値観で世界を判断することはできないし、危険でさえある。

民族紛争や国際摩擦は、それぞれの一方的な見方、固定した価値観同士のぶつかり合いから始まる。

それを相対的に眺めて解決の道を探る、複眼的な眼差しこそ教養なのではないだろうか。


東大には教養学部という名前が名目上まだ残っているが、大部分の大学ではここ10年余りの間に教養学部という学部は姿を消した。

代わって実利的な専門教育が前倒しになった。

ことに医学部では、6年間一貫教育という実利主義的理念のもとに、大学に入るとすぐに専門教育がスタートし、以前にあった一般教養の課程はなくなった。

4年間のカレッジを卒業することが、医学部に入る前提となっているアメリカとは大違いだ。


いきおい国家試験合格のためだけのカリキュラムが組まれ、実用的なエンジニアとしての医師を作り出すことが目的になった。

医科大学は職業訓練所になってしまったのである。

そこで教育された医師が、たとえ修理工としての高度な技術を身につけたとしても、複雑な社会的文化的背景を担っている患者という人間を理解し、治療することができるのであろうか。


理系の学生にとっても、本当に新しい発見や開発のシーズとなるはずの一般教養は、絶対に必要だろう。

文系の学生だって、いま生物学を知らずして人間の心や社会を理解することはできまい。


そういう意味では、たとえ時間の無駄と思われようとも、能楽堂に行って「死者」の眼で現実を眺めるような機会を持つことは、若者にとっても大切な「教養」だろう。


多田先生の主戦場である


免疫学のなんたるか、を自分は


まったく不勉強で理解には


自信がないのだけれど


この書は本当に興味深い


随筆で埋め尽くされている。


面白い!が満載だった。


上記の随筆はアメリカと日本の比較として


医療や学問への疑問があり


そのお考えの継承が後の、


日本でもリベラルアーツが必要であるという


流れなのかなと感じた。


この書籍全体に話を戻してまして


若い頃の回想や古典芸能についての関わり方や


科学の未来を慮るお気持ちなど、じっくり


このコレクションを全巻読みたいが時間と財力が…。


それは一旦置きまして、この書の解説が


養老先生で、表現が稚拙ですみませんが


さらに”すごい”のです。


<解説>


多田富雄さんの世代と生き方


個性とは何か


から抜粋


免疫学という、当時の最先端の科学の世界にいながら、多田さんは同時に能を離れなかった。


こうした生き方は、特に科学者にとって大切である。

システム化された科学の世界は、どうしても専門家であることを要求する。

その視点からすれば、古典芸能なんて、要するに暇つぶしに過ぎない。

でも多田さんは若い世代に世阿弥の『風姿花伝』を読むように勧める。

さらには「能と日本人の個人主義」を語ろうとする。

能が科学者としての多田さんにとって、骨肉化していたことがよくわかる文章である。


私が多田さんに出会ったのは、じつは遅過ぎたような気がする。

もう少し早く出会う機会があれば、自分がもう少し早くものを理解したのではなかろうかと思う。

だから若い人にこの作品集を読んでもらいたいのである。


古典芸能のことも、自分でそれを多少とも理解するようになったのは、中年を過ぎた頃だった。

他人のせいにするわけではない。

しかし戦後の日本社会の雰囲気では、古典芸能など、ほとんど時代遅れの産物だった。

そうしたものに触れる機会も、ほとんどなかった。

でも真の普遍性に時代遅れなどない

いわゆるグローバル化、国際化が普遍性なのではない

人間の本性に基づくもの、それが普遍なのである

多田さんはそれをよく理解し、しかもそれを身に着けていた。

その意味でも多田さんは真の教養人だったと思う。


2018年頃の養老先生の解説で


比較的に新しいのだけれども


実は別の多田先生の書籍の


解説の方が、最も強くしびれた。


2007年とのことで古いのだけれども


そういうのとはあまり関係がないようで


こういうのが”普遍”なのでしょうなあ。



寡黙なる巨人 (集英社文庫)

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

  • 作者: 多田 富雄
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2010/07/16
  • メディア: 文庫

解説 養老孟司 から抜粋

多田さんが定年で大学を辞めた1年後に、私も辞めた。

定年前だったが、もう大学にいる気がしなかった。

多田さんがいないということも大きかった。

近くに話し相手がなくなったからである。

わざわざ話さなくたって、そういう人がいるだけでなんとなく安心。

そういうことって、あるでしょうが。

なにを話したかって、特別なことはない。

きちんと決められた業務、それを果たすことだけが仕事であり、人生である、ひたすらそういう世界で、全く違う話ができるのが多田さんだっただけのことである。

高校時代から鼓を習ったこと、それも問わず語りに聞いた。

能が好きだなんて、変な医学部教授だわ。

でもわかる。

私は虫が好きで、これもはなはだ変なことだったから。


『寡黙なる巨人』のなかで、私の胸を撃つ記述がある。

病気の前に自分は生きていなかったが、病を得てからは、毎日生を感じているという意味のことである。

これだけは現代人の心に何としても届いて欲しいと、私が思うことである。


多田さんは動く指ただ一本で、これだけの作品を書いた。

あんたら、なにを寝ぼけてるんや。

五体満足でなにをブツブツいうんか。

ふざけんじゃない。


現代人は生きることを失って久しい。

能は中世の世界で、中世とは人が生きる世界だった。

それは同時に死をつねに意識することである。

平和な時代の人たちは、それを乱世とも呼ぶ。


多田さんの人生が良かったか悪かったか、そんなことは知らない。

でも多田さんが最後に真の意味で「生きた」ことだけは間違いない

それは素晴らしいことで、きっと多田さんはあの笑顔で、いまも心から笑っているはずである。


この書籍、もちろん多田先生の本編も


壮絶だけど美しい書であることは


間違いないのだけれども、この養老先生の


解説は本当に素晴らしすぎて涙を誘うのです。


養老先生の書評は本当に一種の”凄み”を


感じるものが多くて腰の抜ける思いのする


それは夜勤明けだからではないことを


謹んでご報告したいと思っておる


雨の夕刻、妻と買い物をしてきたところ


子どもは泣きべそかきながら試験勉強中です。


 


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2冊の科(生物)学の書から”生命”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし


若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし

  • 作者: 更科 功
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2019/11/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

はじめに から抜粋

ルネッサンス期以降にも、この呼び名に値する人物が何人か現れた。

しかし、ドイツの文豪で科学者のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)あたりを最後に、「万能の天才」と呼ばれる人はいなくなってしまった。


科学の世界に限っても、以前には「万能の天才」的な人がいた。

イギリスのロバート・フック(1635-1703)は、物理学の分野では、ばねの弾性に関するフックの法則を提唱したし、化学の分野でも、気体に関するボイルの法則を作るのに重要な役割を果たしたし、生物学の分野でも、細胞を発見した(実際には植物細胞の中身が抜けた細胞壁を見ていたようだ)し、地学の分野では進化論を唱えていた。

だが、現在の科学はとてつもなく巨大になり、一人の人間がすべての分野に精通することは不可能になってしまった。


しかし、いくら巨大化しても、科学は一つである。

物理学、化学、生物学、地学などと分けることもあるが、それはあくまで便宜的なものだ。

科学自体が、こういう分野に分かれているわけではない。


それは科学の本質とは別の話である。


だから、本当は「万能の天才」のように、科学を広く研究したい。

でも、それは無理なので、たくさんの科学者が協力して、科学を広く研究している。

それは仕方のないことだが、そうすると科学全体を視野に収めることは、なかなか難しくなる。

それでも、少しでも広い視野を持とうとすることは大切だろう。


科学の世界だけに限ったことではない気がする。


昨今の世の中、なんでも細分化されていて


「万能の天才」が生まれにくい空気を感じる。


それは良い事も悪い事もあるのだろうけれど。


この本は「生物学のすすめ」ではない。


この本は、生物学に興味を持ってもらいたくて書いた本である。

タイトルには「若い読者に」と書いたけれど、正確には「自分が若いと思っている読者に」だ。

好奇心さえあれば、100歳超の人にも読んで欲しいと思って、この本を書かせていただいた。


第1章


レオナルド・ダ・ヴィンチの生きている地球


『モナ・リザ』を描いた理由


から抜粋


地球は生物がすんでいる惑星だが、地球そのものは生物ではない。

でも、地球を生物だと考えた人は、昔からたくさんいた。

どうやら地球は、生物に似ているらしい。


レオナルドは、科学者としては運がなかった。

しかし、画家としては、最高の評価を手にいれることになった。

中でも『モナ・リザ』は、西洋絵画の最高傑作とさえいわれている。


この『モナ・リザ』をレオナルドが描いた理由の一つは、地球と人間が似ていることを示すためだった。

『モナ・リザ』には、女性と地球(の一部)が描かれている。

たとえば、女性の曲がりくねった髪の後ろには、曲がりくねった川が描かれている。

わざと両者を対比させて描いたと、レオナルド自身の手稿に書き残している。

人間と地球という二種類の生物を、一枚の絵の中に収めたのだ。


めちゃくちゃ面白い書籍でございます。


系統立てて、現代の身近な例を引かれて


ヤマザキマリ先生や藤子・F先生の


書籍まで引かれての”生物学”講座として


更科先生の進化論を拝読させていただき


読後は満足感に満ち溢れる。


”あとがき”が、これまたすごく


再びヤマザキマリさんネタなのだけど


そこから流れて感動のフィナーレになる辺り


さすがでございますとしか言いようがない。


肝心の生物学について、歴史上の人物から


グールド博士や本庶佑博士、山中伸弥博士まで


興味は尽きませんでした。



WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か

WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か

  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2021/03/10
  • メディア: 単行本

ステップ5

情報としての生命


全体として機能するということ


情報は生命の中心にある


から抜粋


はるか昔、子どもだったころ、あの黄色い蝶は「なぜ」我が家の庭に飛んできたのだろう?

空腹だったのか、卵を産む場所を探していたのか、それとも鳥に追われていたのだろうか?

あるいは単に、世界を探検したいという生まれつきの衝動にかられて?


もちろん、私には、あの蝶のふるまいの理由を知るすべはないけれど、はっきり言えることは、あの蝶は周りの世界と相互作用して、行動をとっていたということだ。

そして、そのために、蝶は情報を管理していたはずだ。


情報は、蝶という存在の中心にあるし、あらゆる生命の中心にある。

生体が、組織化された複雑なシステムとして効果的に機能するためには、自分たちが住む外の世界と身体の世界との、両方の状態について、情報を絶えず集めて利用する必要がある。


内側と外側の世界は変化するから、生命体はその変化を検出して反応する方法が必要となる。

そうでなければ、あまり長生きできないだろう。


蝶が集めた情報には、何らかの「意味」があったはずだ。

蝶はそれを利用し、特定の目的を達成するために、次に何をすべきかを決めた。

つまり、蝶は「目的」を持って行動していた。


あらゆる生体は、自らを維持し、組織化し、成長し、そして増殖する。

これらは、生物が自分と子孫を永続させたいという、基本的な目的を達成するために発達させてきた、目的を持った行動なんだ。


DNAの重要な機能


から抜粋


情報処理は、生命のあらゆる側面に浸透している。

情報という名のレンズを通して、複雑な細胞部品と細胞内プロセスを覗いてみよう。


最初の例は、DNAとその分子構造が、遺伝を説明している点だ。

DNAについての決定的な事実は、それぞれの遺伝子が、A、T、G、CというDNAの四文字アルファベットで書かれた、情報の「直線配列」でできていることだ。

直線配列とは、ようするに、「(文字などの)情報を直線的に並べた」という意味に過ぎないが、情報の保存や伝達にとても有効な戦略なんだ。

読者が今読んでいる単語や文章に使われているのも直線配列だし、机の上のコンピューターやポケットの中のスマホのプログラムも直線配列になっている。


こうしたさまざまな情報は「デジタル」になっている

ここでいうデジタルとは、「情報が少数の桁のさまざまな組み合わせで保存されている」という意味だ。


英語は基本的にアルファベットの「26桁」を用いている。

コンピューターやスマホは「1と0」のパターンを使用し、DNAの桁はA、T、G、Cのヌクレオチド塩基四つといった具合だ。

(少数の桁で意味をあらわす)こういった符号化の大きな強みは、一つの方式から別の方式へ容易に「翻訳」できることなんだ。

DNAの符号をRNAへ翻訳し、さらにタンパク質に翻訳するとき、細胞が行っているのはまさにこれだ。


細胞は人間が人工的に作り出したシステムが足元にも及ばないような、スムーズかつ柔軟な方法で、遺伝子情報を物理現象へと翻訳する。

さらに、人間のコンピューターは、情報を保存するために、別の物理的な媒体に情報を「書く」必要があるわけだが、DNA分子は「そのものが」情報であり、これはデータをコンパクトに保存する方法なんだ。


訳者あとがき から抜粋


ポール・ナースは生物学の世界における巨人である。

2001年にノーベル生理学・医学賞も受賞している。

でも、日本の一般読者には、もしかしたら馴染みが薄い人かもしれない。


生きものの増える仕組みが、あらゆる生きもので同じだということから、本書の245ページでポール・ナースが述べているように、現在の地球上の生きものの誕生は、35億年の歴史の中でたった一回だけ起きた奇跡であり、全ての生きものは、われわれと親戚関係にあることになる。

これほど壮大な物語はないであろう。

私はよく思うのだが、教科書風のまとめなんぞ、どうでもいい。

大切なのは、こういった驚くべき発見をした本人による「生の物語」を読んだり聴いたりすることだ。

そこにこそ、科学という営みの本質が隠されている。


この壮大な物語こそが、若きポール少年が葛藤の末に捨てた聖書に代わるものであり、現時点における人類の知の到達点なのだ。


ただし、ポール・ナースの立場は神の存在は証明できず、知ることが不可能だという不可知論であり、単純に神を否定しているわけではない(きわめて科学的な態度だと感じる)。


なぜ今、このような一般向けの科学書を彼は書いたのか。

この本の随所で、彼は、現代社会の危機に言及している。


私は文系だから科学なんぞ知らなくていい。

私は経済人だから、私は政治家だから科学はいらない。

そう考える人が多ければ、人類は、ウイルスとの戦いで劣勢に立たされてしまう。

新型コロナだけではない。

人種やジェンダーで人を差別したり、地球温暖化を否定したり、科学を学ばないことによる弊害は極めて大きい


私は数々の科学書を翻訳してきたが、これだけ心を打たれた本は、初めてだ。

それほど、ポール・ナースという科学者の家族・友人・先輩・同僚・部下・人類、そして生きものへの愛情を感じた。


竹内薫先生の訳者あとがきも感動的ですが


本編ももちろんそれに負けず


というか本編があるから、竹内先生の


あとがきにもつながるわけでございまして


両方素晴らしいというのは


言わずもがでございます。


こちらも山中伸弥先生が出てこられます。


日本の誇りだなあと感じ入る今日この頃です。


生物学とは直接の関係ないのかもしれないが


自分としてこの書で印象的だったのは、


ポール博士の実の母親と思っていた女性が


実は歳の離れたお姉さんだったという件で。


よくネガティブにならずにおられたなあと。


誰でも幼少期というのは思うようにならない、


幼少期に限らず人生が、ってことなのだけど


このエピソードは何故か胸を潰されるような


思いがしましたことをここに謹んで


ご報告させていただきたく存じます。


 


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養老先生の方丈記の解説を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


漫画方丈記 日本最古の災害文学

漫画方丈記 日本最古の災害文学

  • 出版社/メーカー: 文響社
  • 発売日: 2021/09/10
  • メディア: Kindle版


 


深すぎる養老先生の解説。


いろいろなところで先生は


『方丈記』について語られていて


”無常感”というのは言うに及ばずだが


先生らしい視点で語られ印象的なのが


”田舎の米がなかったら、都会の生活も


成り立たない事を長明は800年前から


これを喝破してたのだよ”という


文明への警鐘文脈で引かれておられたが


総体的に解説しているのは珍しいと思った。


解説


時代の転換期を生きた鴨長明


すべてのものは移り変わる から抜粋


『方丈記』は日本の古典の中で、皆さんにいちばん読んでもらいたい本である。

何より全体がごく短い。

原稿用紙にして25枚と聞いたことがある。

ごく短い文章の中に、現在実際に起こったとしたら、とてつもない大事件になるようなことが、次々に淡々と描かれている。

都の火災、養和の飢饉、大震災など、政治的な背景は源平の合戦、福原への遷都、京への帰還など、それぞれを描いても長編文学になって不思議はない。


短い生涯の間に、こうしたことを全て身近に経験してきた鴨長明の晩年の思い出話がこの『方丈記』である。

鴨長明が生きた時代は、日本の全ての転換期だった。


東日本大震災の時にもこの随筆は


注目されたけれど、コロナ禍でも


同じように語り継がれるであろうことは


誰の目からも明白でして、養老先生も


日本の特徴と合わせて指摘されている。


余談なのだけれど、昔から思っていたのは


この随筆を埋もれさせずに発見したのは


誰なのだろうかという本筋とは


ほぼ関係のない所でして


宗教家の方達が語り継いでいたのか


本編に出てくる10歳の男の子が


何か関係するのだろうかとか。


本当は皆、見ている景色は違う から抜粋


鴨長明の時代以降、鎌倉、室町、戦国時代と時代は移り変わる。

それが終わるのが江戸時代で、天下泰平、再び「変わらないもの」が中心となる。

士農工商という「身分」制度は家制度と結びついており、これは時間が経っても「変わらない」。

大名の子は大名、農民の子は農民である。


その意味では江戸時代はいわば世間そのものを情報化した。

それがほぼ300年の平和を生み出した。

鎌倉から戦国までの時代とは大きな違いである。


明治以降はその路線が引き継がれ、現代社会にまで至る。

世界中が情報化して、そこでは情報化は個人にまで及ぶ。

国民は一人一人が番号化される。

でも番号は腰が曲がったり、ボケたり、シワがよったりはしない。


テレビの普及で何が起こったか

「他人と同じ情景を見ることはできない」という感覚が失われてしまったことである。


富士山の写真を見るとする。

その写真はある瞬間に、誰かが、どこか特定の地点から見た景色である。

「同じ」情景を他の誰にも見ることができない。

だから写真であり、テレビカメラなのである。

ほかの誰も見ることはできない情景を「だれでも見ることができる」ように思わせたのが、テレビを含めたカメラの仕業である。


一卵性双生児は遺伝子は全く同じだが、生まれてしばらくすれば、違う人になる。

見ているものがいつも違うのだから、当然であろう。

個性なんて、取り立てていう必要はない。

人はだれでも、他人とは違うものを見て生きる


自分に必要なものは何か から抜粋


『方丈記』はこの世に起こり得るほとんどの災厄を見てきた人の晩年の述懐だから、若者には必ずしも勧められない内容ではないかと思う。

そもそも方丈の庵とは、段ボールハウスみたいなもので、もう少しよく言えば、モバイルハウスである。

持って歩ける程度の家だから、家族がいたら、どうにもならない。


ただ『方丈記』で一番大切だと思うことは、鴨長明の自足の思想だと思う。


ものを持たないからいいのではない。

ものがなくても、本人が自足しているからいいのである。

ものをもって、自足しているなら、それはそれで問題はない。

ものを持つ、持たないは関係がない。

自足している人は他人のことをあれこれ言わない。

文句を付けない。

鴨長明はああしろ、こうしろと他人に指図しているわけではない。

世の中はこうでした、でも私はこうでした、と淡々と述べているだけである。


おりしも世界はコロナ禍で日常が変わってしまった。

その状況で、自分に真に必要なものは何か、人生とは何かを想う機会が増えたはずである。

鴨長明の自足の思想はそれにある意味で明確に答えている。


たとえ『方丈記』を読んだことがなくても、その思想は日本人の心の中のどこかに入っているはずである。

よく言われるように、日本列島は災害列島でもある。

自然災害はこの列島に住むものにとって、避けることができない。

東北の大震災以降、その列島が鴨長明の時代と同様に、動き出したらしい。

東南海地震は今世紀前半にほぼ「予定されている」。

首都直下型地震はいつ起きても不思議はない。


大きな災害が起こる時には、『方丈記』がかならず思い出される。

なにがあっても、『方丈記』は日本社会とともに生き続けていくであろう。


予定されている地震の根拠は


おそらく尾池先生の書籍だろうことは


池田先生との対談でも察せられる。


尾池先生の書も読んでみたいと思ったが


高額で手がでないため未読なのですが。


災害の警鐘は鎌田浩毅先生の書にもあった。


僭越ながら自分も以前から『方丈記』は


注視しておりまして生来忘れっぽいのに


それを忘れていないのは20年くらい前に


音声朗読をiTuneで購入していたから


覚えているのだけど、その時はあまり


本腰を入れて聞かなかった。というか


原文朗読だったからよくわからなかった。


コロナ禍で水木しげる先生の書を読んで


再燃し様々なバージョンやら論評など


読んで理解の一助としている。


中でも白眉は高橋源一郎先生のものだけど


そちらも「モバイルハウス」っていう


表現をされていて、この平仄の合いっぷりは


単なる偶然なのだろうか?


英語がわかるインテリジェンスをお持ちだと


共通してしまうものなのか。


語学も知性もあまり高くない自分には


なにもわからない。


そもそも、浅学な自分が『方丈記』に


なぜ興味を持ったかというと


三島由紀夫先生の最後の対談で


『方丈記』の話をしていて


鴨長明の死者の数を数える心境は


すごいと言っていたからなのだった。


それからざっと30年を経過して


今のような世の中になり、『方丈記』に


再会することになるとは。


先のことは本当にわからないのだなあ


と感じ入る夜勤明け、ブックオフで


論語増補版』を購入したことも


若い頃の自分では想像だにできんかったと


思う次第でこれも経年がさせている


滋味深い何かなのかもしれないのです。


 


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2冊のノージック博士から”理想の国家”を考察できなかった件 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)


AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2020/09/29
  • メディア: 新書

第3章 AIから人間を哲学する

岡本裕一郎


病に倒れて「むしろ幸せ」という人間の感性 から抜粋


岡本▼

ところで、人の幸福を考えたとき、面白い思考実験があるんですよ。

ロバート・ノージックが1974年に発表した『アナーキー・国家・ユートピア』でこう述べているんです。

「あなたが望むどんな経験でも与えてくれるような経験機械があると仮定してみよう。脳に電極を取り付けられたまま、あなたはこの機械に一生繋がれているだろうか」と。

今で言えばVR(ヴァーチャル・リアリティ=仮想現実)のような、擬似的に幸せになれる刺激をもらえる装置ですよね。

そうした仮想空間で味わう擬似的な体験をし続けることは幸福と呼べるのかどうか、という一つの問いかけなんです。

基本的に「幸福」というものを考える時に、伝統的には二つの立場があって。

一つは、「客観的」な形で幸福を規定できるという立場。

もう一つは、自身の実感として「主観的」に幸福感を味わうという形でしか語れないという立場ですね。


例えば、最近流行ったユヴァル・ノア・ハラリさんの著書『サピエンス全史』の中では、すべての記述が何の説明もなく「幸福感」という文脈で語られているんですよ。

最初から「幸福感こそが幸福だ」という感じで、前提を問うていない。

だから、幸福感という文脈で言うならば、当然ノージックの経験機械にしろ、VRにしろ、仮想空間の中で自分の人生が過ぎ去れば、それが一番幸福だということがあり得るわけですね。

その考えをむげに否定できないのは、例えば同じお金でも、すごくありがたく思う人もいれば、「なんだこんなものか」と感じる人も当然いるからです。

例えば、客観的な知識の場面だと、どうしても自分の思いと現実との対比ということが問題になります。

ですが、幸福に関しては、現実と自分の感覚を対比しなくても、幸福感なら幸福感だけで、ある程度完結するわけです。

なので、客観的な状態ということと切り離して、幸福感を論じるという方向はありますね。


この後、養老先生は亡くなられた多田富雄先生


の病後の活躍について引き合いに出される。


何を幸福と感じるのかは主観的なもので


それを突き詰めると人間本来の”生きる”と


いうことと相反するってことなのか?


”幸福感こそが幸福”というのは


どういう状態なのだろう。かなり難しいです。


これは哲学的な命題なのだろうか。


ノージック博士の”経験機械”については


井上智洋先生も指摘されていて


思考実験という表現で仰っていたが


実際に電極を入れたってことではなく


比喩だったのだね、ノージック博士の言説は。


猿に電極ってのは養老先生と池田晶子先生の対談


仰っていたけれども、その反射で勝手解釈


してしまいました。


でも気になるノージック博士の言説は如何に。



アナ-キ-・国家・ユ-トピア: 国家の正当性とその限界

アナ-キ-・国家・ユ-トピア: 国家の正当性とその限界

  • 出版社/メーカー: 木鐸社
  • 発売日: 1994/11/25
  • メディア: 単行本


 から抜粋


諸個人は権利をもっており、個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害すること無しには)行い得ないことがある。

この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官史たちがなしうることーーが仮にあるとすればそれーーは何かという問題を提起する。

個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるのか。

本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当化(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題が絡み合ってくることになる。


国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。

暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。

それ以上の拡張国家は全て、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。

最小国家は、正当であると同時に魅力的である。


ここには、注目されて然るべき二つの主張が含意されている。

即ち国家は、市民に他者を扶助させることを目的として、また人々の活動を彼ら自身の幸福(good)や保護のために禁止することを目的として、その強制装置を使用することができない。


むずい。とてつもなく。表現の問題なのか。


小さくすれば理想のコミュニティになる


大きいから問題だと読めなくもないのだけど。


私は(本書で)、認識論や形而上学における現代的な哲学上の著作の流儀で筆を進めている。

そこには、手の込んだ議論、非現実的な反証例を持ち出しての主張の論駁(ろんばく)、面くらわせる様なテーゼ、パズル、架空の構造的条件、特殊な領域の事柄に妥当する新理論を見出すための挑戦、驚くべき結論、等などが述べられている。

この手法は、知的な面白味と(望むべくは)刺戟に資することはあっても、倫理学上・政治哲学上の真理はもっと厳粛かつ重要なものであって、このような「俗悪な」道具立てによって獲得されるものではないと感ずる人もいるかもしれない。


しかし、倫理学上の正しさというものは、我々が普通に考えているものの内には見出せないのかもしれないのである。


本書の内容については、本文中で取り上げて論じているが(序でも)さらに、後に続く議論を簡単に述べておくことが許されよう。

私は個人の諸権利を強い形で定式化することから出発するのであるから、無政府主義者の次の主張を真剣に取り上げる。


即ち国家は、暴力の独占を維持し領土内の人々全員を保護する過程で、不可避的に諸個人の権利を侵害し、それゆえ本質的に反道徳的な存在である、と。

この主張に対して私は次のように論じる。

誰もそれを意図し、その実現に努力する者がなくとも、国家は無政府(アナーキー)状態(ロックの自然状態で考えられているような)から、誰の権利をも犯す必要のない過程によって生成しうる。


ちょいと軽いタッチでは読めない。


この大作にはそれ相応の覚悟がないと


読めない。しかもものすごくぶ厚い。


そもそも自分はアナーキストでは


ないからかもしれない。


第3章 道徳的制約と国家


<経験機械>から抜粋


人々の経験が「内側から」どう感じられているかということ以外に何が問題になるのかを問う時にも、我々は重要な難問に直面する。

経験機械があれと仮定してみよう。

超詐欺師の神経心理学者たちがあなたの脳を刺戟(しげき)して、偉大な小説を書いている、友人を作っている、興味深い本を読んでいるなどとあなたが考えたり感じたりする様にさせることができるとしよう。

その間中ずっとあなたは、脳に電極を取り付けられたまま、タンクの中で漂っている。

あなたの人生の様々な経験を予めプログラムした上で、あなたはこの機械に一生繋がれているだろうか。


もしあなたが望ましい経験をしそこなうのが心配なら、複数の営利企業が他の多数の人々の人生を研究し尽くしていると仮定して良い。

あなたは彼らが提供する多彩なこの種の経験の書庫またはバイクング献立から、例えば次の2年間用にあなたの人生経験群を選び出すことができる。

2年が過ぎればあなたは、10分間または10時間タンクの外に出て、次の2年間の経験を選ぶのである。

もちろんタンクの中にいる間、あなたは自分がそこにいることを知らず、全てが実際に起こっていると考えることになる。

他の人々もまた、自分の欲する経験をするために繋がれることができるので、他人のために仕事をするために機械から出ている必要はない。

(もし全員が繋がれていれば誰が機械維持の仕事をするのか等の問題は無視しよう。)


あなたは繋がれたいと思うだろうか。

我々の人生が内側からどう感じられるかという以外に、一体何が我々にとって問題なのか。

あなたが決断した時と繋がれる時の間に瞬時の心理的苦痛があるからといってこれを禁欲すべきではない。

一生の至福(もしあなたの選ぶものがそれであるなら)と比べれば瞬時の苦痛など何であろう。

それに、もしあなたの決断が最良の決断であるなら、なぜ心の痛みなど感じるか。


自分の経験に加えて、何が我々には問題なのか。

まず我々は、あれこれ事柄を行いたいと思うのであって、それらをしているという経験だけが欲しいのではない。

特定の経験については、我々がまずそれらの行為をしたいと思うからこそ、それらをしているという経験やそれらを成し遂げたと考える経験を得たいと思うのである。

(しかしなぜ我々は、それらの活動を経験したいとだけ考えず、それらを行いたいと考えるのだろうか。)

繋がれることをしない第二の理由は、我々が特定の形で存在し、特定の形の人格でありたいと思うからである。

タンクの中で漂っている誰かは、形の定まらない塊である。

長時間タンク内にいた人がどんな人なのかという問いには答えようがない。


彼は勇敢か、親切か、知的か、機知に富むか、愛情豊かか。

知るのが難しいというだけではなく、彼には(どうであるという)あり方がないのだ。

機械内に繋がれるのは、一種の自殺である。

心象の虜になった人には、自分が如何なる存在であるかは、それが経験に反映されない限り何ら問題になり得ない、と思われる場合もあろう。

しかし、自分が何であるかが我々にとって重要だとしても、それは驚くべきことだろうか。

なぜ我々は、如何に自分の時間が充足されるかにのみ関心を持ち、自分が何であるかには無関心でなければならないのか。


第三に、経験機械に繋がれることは、我々(の経験)を人工の現実に限定するが、これは人々が構成しうるもの以上の深さや重要性を持たない世界である。

より深い現実との接点は、その経験の模造は可能だとしても、本当には一切ないのである。

このような接触をもち、一段深い意義を探る可能性を、自分自身に残しておきたいと望む人は多い。


精神に作用する薬剤をめぐる争いの激しさは、このことを明らかにしている。

この種の薬剤を、ある者は単なる局部的な経験機械と看做(みな)し、他の者はより深い現実に至る道だと看做す。

ある者が経験機械への屈服と同じだと考えるものを、他の者は屈服しないための理由の一つに従っているんだと考えるのだ!


アナーキーと国家ってのは、何となく


わかるけれど、その後なぜユートピアなのか


なにをするとそれなのかがちとわかりませんで


第3部のユートピアは後付けだ


と序文にもあったので、もしかしたら


一貫性のないものなのかもしれない。


としても、よくわからなかった。


この書名から察するに


”国家”を軸に前後反転して、


秩序(資本主義)・国家・ディストピア


と置き換えるとわかるのだろうか


という読み方をしてみても


正直よくわかりませんでした。


仮にもしそうだとしたら今の状況を


予見していたようで驚くなと思ったのだけど。


マルクスとの関連など興味深く注視しつつ


今後の課題としたいと思いましたことを


謹んでご報告させていただきたいと思います。


 


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