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中村先生たちの訳・監修本から”DNAの警鐘”を見る [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


細胞の分子生物学 第6版

細胞の分子生物学 第6版

  • 出版社/メーカー: ニュートンプレス
  • 発売日: 2017/09/15
  • メディア: 大型本

翻訳にあたって

2017年7月 中村桂子・松原謙一


から抜粋

1983年。

”Molecular Biology of the Cell”と表紙に書かれた教科書の登場に驚き、その内容の見事さに感銘を受けた時のことは今も忘れない。

DNAを遺伝子として捉えることで生命現象を解明できると考えていた分子生物学者が、生きることを支えるのは細胞であることに気づいたのである。

もちろんそれは、”Molecular Biology of the Gene”が進展した結果であり、学問は地道な積み重ねの上にしか飛躍はない。


以来30年以上、「細胞の分子生物学」の進展にはめざましいものがあり、本版のまえがきには、第五版以来これまでに500万を超える論文が発表されたとある。

これを読みこなし、この分野の全体像を作ることがいかに難しいか。

研究の進展は理解を深めると同時に、問いをたくさん生み、時に謎を深めてもいる。


新しい知見を盛り込んだ大部の著書の翻訳はとても大変な作業であり、新版を前に迷ったが、内容の充実ぶりに押されて取り組んだというのが正直な気持ちである。


各版を追うと、その時代の研究の動きが見えて興味深い。

当初は細胞といっても植物と神経には独自なところがあると捉え、これらを別に扱っていた。

しかし、研究が進むにつれて、基本は同じという考え方にまとめられた。

ある時は、近年関心が薄れてきていた感染症の問題が浮かび上がり、そこでそれまであまり眼を向けられていなかった先天性免疫が一項目として取り上げられるようになったこともある。


そして第6版である。

ゲノムをもつ細胞に関する生物学がみごとに整理されたといって良い。

特に近年、新しい研究方法の開発・改善や細胞の可視化によって研究が急速に展開しており、具体的な研究の進展が細胞の理解を進めたことがわかる。

教科書としてもこれだけ版を重ねる必要があったわけだが、30年を越える研究によって細胞の分子生物学の基本はできたといってもよいのではないだろうか。


もちろん、まだわからないことはたくさんある

各章の最後にある「まだわかっていないこと」を見ると、ここにこそ面白いテーマがあることがわかる。

ここに読者がこの問いに答えようという気持ちになってほしいという願いが込められている。


さらに大きなテーマもある。

「まえがき」にあるように、今や私たちの眼の前には、ゲノム解析をはじめとしてタンパク質相互作用、遺伝子発現などについてのデータの山がある。

しかもデータベースには日々更なるデータが入ってくる状況である。


ビッグデータの時代である。

そしてこれは「細胞とは何か」を知るための宝の山と言ってよい。

しかしそれをどう生かすか。

残念ながらそれは見えてこない。

「新しい細胞の生物学」とよんでもよいかもしれない学問を構築しなければ、細胞はその本当の姿を見せてはくれないだろうという状況になっている。

これこそ本書で学ぶ若い人たちの仕事である。


本書が新しい生物学を生み出す研究に生かされることを心から願っている。


PART 1 細胞とは


細部とゲノムから抜粋


地球上の細胞が共有する特徴

ゲノムの多様性と生物の系統樹

真核生物の遺伝情報


地球は生物、つまり周囲から素材を取り入れて自己を複製する複雑な組織を持った不思議な化学工場で満ちている。

生物はとてつもなく多様に見える。

トラと海藻、あるいは細菌と木ほど違うものがほかにあるだろうか。

ところがわれわれの祖先は、細胞もDNAもまったく知らないまま、そこに何か共通するものがあることを感じ、その”何か”を”生命”と呼び、それに驚嘆し、定義しようとし、それが何ものであり、どう働くのかを、物質との関連で説明しようとしてきた。


前世紀でなされた多くの発見で、生命の本質にまつわる神秘は取り除かれ、今では、生物はすべて細部からなることがわかっている

細部は膜で囲まれた小さな単位で、化学物質の濃厚な水溶液で満ちており、成長しニ分裂して自分の複製を作るという優れた能力を持つ。


細胞は生命の基本単位なので、生命とは何でありどう働くかという問いへの答えは細胞生物学(Cell biology)に求めることになる。

細胞とその進化をより深く理解することにより、地球上の生命の神秘的起源、驚くべき多様性、広範な生息場所といった、壮大で歴史的な問題に取り組むことができる。


かつて、細胞生物学の始祖の1人、E.B.Wilsonが強調した通り、”生物学のあらゆる問題の鍵は細胞に求めなければならない。なぜなら、すべての生物は一個の細胞である(あるいは一個の細胞であった)からである”


外見の多様性とは裏腹に、生物の内部は基本的によく似ている。

生物学は、生物個々を特徴づける驚くべき多様性と基本的機構にみられる驚くべき恒常性という二つの主題を対照させる作業といえる。

この章ではまず、地球上の生物に共通の特徴を考え、次に、細部の多様性を概観する。

そして最後に、あらゆる生き物の仕様を記述する分子の暗号(コード)が共通であるおかげで、仕様を読み、計測し、解読することによって微生物から巨大な生き物まで、あらゆる生命体を統一的に理解できるようになったことを見ていく。


ここまで分解され詳細を解説・分析している


細胞の本は、おそらくないのでしょう。


”まだわかっていないこと”というのも


中村先生ご指摘されているけれども


今後生物学を志す若い人たちへの指針に


なろうというものではないかと推察できる。


それはそれとして、自分もいろんなDNA本を


読んでみたものの門外漢の自分がここまで


学術的な書を読むことの必然性のなさに


驚きを隠す事を禁じ得ないのでございまして。


それはともかく、本日ブックオフに


行ったらこの書籍の第五版だったか、があり


その表4の写真が、ビートルズの


”A Hard days night”のデザインだったのに対し


この第六版は、”Please Please Me”だったのは


ちょっと気になった次第で


チームとかクリエイティブとかという意味での


DNAの継承を表現されているのかなと


思ったことはどうでもよい言いたいだけで


ございましたことを謹んでお知らせいたします。


 


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福岡博士の翻訳本から”疑う思考”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

 



七つの科学事件ファイル: 科学論争の顛末

七つの科学事件ファイル: 科学論争の顛末

  • 出版社/メーカー: 化学同人
  • 発売日: 1997/02/01
  • メディア: 単行本


なぜこの書を手にしたのか忘れてしまい


訳者あとがきから読んでみて


うまい文章で面白いなあと思ったら


なんと福岡伸一博士だった。


”動的平衡”は言うに及ばず


何冊も世に送り出されての


人気サイエンス博士の文章であれば


そら面白いわ、と得心したのでした。


訳者あとがき


1997年1月 福岡伸一


から抜粋


村上春樹氏のエッセイに、われわれはテクノロジーに関して絶対君主的な体制下に置かれている、というものがある。

その謂いは、新聞や雑誌を読んでいると、いろんなものが新発見されたり新発明されたりしているものを見かけるけれど、それはある日突然<お触れ>のごとく空から舞いおりて来るものであって、それがなぜそうなるのかはよくわからないまま。とにもかくにも「殿様の言わはったことやから間違いあらへん」ということで、それに馴れてしまう、というものである。


そしてわけがわからないけれどスゴイ発見に聞こえる例をでたらめに創作しているのだが、それが傑作で、「東京大学理学部のXX博士はニホンザルの脳下垂体を電気的処理によって階層化することに成功した」というもの(「村上朝日堂の逆襲」)。


エッセイ自体はこのパロディの見出しからも分かるとおり、なかばジョークとして書かれていて後半はオーディオの進化に話は移るのだが、科学上の新発見ということに関してある種の真実を衝いている。


今日われわれが耳にする科学と技術に関する出来事は、この見出しのように、何となく立派そうに聞こえているだけで、ほとんどの人はその中身にまで触れることはない

しかし、実は、少しでも中身を垣間見ることができれば、新聞に見出しが踊るような「新発見」は、多くの場合、でたらめといわないまでもその内情はお寒い状況なのがわかってくる。


そもそもこういう報道自体が、極めて恣意的なもので、たまたまその時期、毎年恒例のその分野の学会の総会が開催されていて、そこで報告される発表の中から、マスコミ受けしそうなネタを学会側がピックアップして記者に配布していたりするものである。

だから研究学会が多く開かれる春先や秋には「新発見」の記事も自然多くなる。

しかもこの学会というのは学者の一年に一回のお祭りのようなもので、とにかく参加することに意義があり、皆さんとりあえず自分の現在の研究成果を大急ぎで取りまとめてやってくる。

中身は当然、玉石混淆となる。


つまり、「テクノロジーに関して絶対君主的な体制下」にあるわれわれが少しでも科学や技術の世界で行われていることを民主化するために大切なことは、<お触れ>に際して「殿様のいいはったことやから間違いあらへん」とすぐ馴れてしまわず、いますこしだけその内容をのぞいてみようという気持ちを持つことである。

<お触れ>の内容を理解するにはもちろん「脳下垂体」とか「階層化」といった専門用語の意味やいわゆる理科系的思考が必要になることもあるけれど、その前提となるのは「なんとなくすごそうだけどほんとうにそうだろうか。いや、人間のやっていることだからキレイゴトばかりではないはず」という額面どおり受け取らない姿勢なのである。


本書が述べていることもそれにつきている。


つまり、今日われわれが、なんとなく正しいと信じている科学理論は、実はきちんと立証されているわけではない。

他方、今日私たちが、なんとなく間違いであると信じている科学理論は、実は完全に否定されているわけでもない。


「あとがき」から読み始めた読者の方に簡単に内容を紹介すると、前者の例として本書ファイルIII 「相対性理論は絶対か」が興味深い。

ここではアインシュタインの相対性理論の正しさを見事に証明したとされる教科書にも載っている二つの有名な実験が登場するが、この実験には、実は、理論に合うような結果を出すためいくつもの人為的なデータ操作があった。


一方、後者の例としてはファイルI「記憶物質の謎」が面白い。

あるテスト課題を練習させたネズミの脳から取り出した物質を、別のネズミの脳に注射したところ、練習なしで課題ができた、という成果を発表した研究者。

「そんな馬鹿な」とごうごうたる非難の嵐をうけてたちどころに否定されてしまったが、実験方法やデータの取り扱いそのものはまともなものだったのである。

それどころか、このような先駆的研究のおかげで、その後の、脳の神経活動を支配する脳内ペプチドの発見(今はやりの脳内麻薬エンドルフィンもその一つ)がはなばなしく展開されるに至った、といってもよいのである。


科学理論は、端的にいえば、「その現象は、この理由によって生じている(にちがいない)」という因果関係を、ある時、誰かイマジネーション豊かな人が思いつくことから始まる。

そこで、この確信を確かめるために「この理由」を人工的につくり出して、「その現象」が起きるかどうか、調べてみる

これが科学実験である。

が、これはかなりの曲者

本書のほとんどのファイルが示しているように、実験がすんなり思い通りの結果を出すことはまずない。

実験者は持論を確信しているので、実験方法が間違っていたから思い通りの結果にならないのだ、と思う。

でもそもそもその持論が間違いだからそうならないだけなのかもしれない。

うまく行かない実験結果を前にして、両者はすぐには区別がつかない。


その上、理論を思いつく人間のイマジネーションというのがこれまた極めて曲者で、ランダムなことを前にしても、そこにある種のパターンを見出してしまいがち、という人間特有の脳細胞の癖のようなものがあるのだ。


ちょうど、華厳の滝の前で写真を撮ると必ず、自殺者たちの顔が背景に浮かび上がるように(ヒトの視覚認知は、人面のパターンに過剰に反応しやすい癖があるようだ)。

で、多くの理論がこのような関係妄想のなかから生まれてきている。

よくいえばセレンディピティだが、思いつき、早合点ということでもある。


思い込み、刷り込み、因習等からによる偏見。


科学の世界も全てが神聖な成果だけではなく


それはどんなジャンルもそうなのかも


と思わせる福岡博士の分析と考察、


だけでなく、経験からの知見が炸裂。


一般の人とか自分もそうだが


新聞発表があると鵜呑みにしがちで


特定のジャンルということではなく


全てを疑う目と思考力を身につけておいた方が


それも程度によるし生活や仕事に支障なき


範囲でってこととは思うものの、


世の中良い方向に行くのはわかっているものの


つい、めんどくさくて楽な方に行きがちで


身の引き締まるなあと思う


福岡博士の文章でございました。


 


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ローレンツ博士の書から”異なる視点”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

攻撃―悪の自然誌


攻撃―悪の自然誌

  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1985/05/01
  • メディア: 単行本

まえがき から抜粋

この書で扱うのは、攻撃性(Agression)、すなわち動物と人間の、同じ種の仲間に対する闘争の衝動のことである。


わたしは先ごろアメリカへ行ってきたが、その目的の第一は、比較行動学と行動生理学に関して、精神科医、精神分析医、心理学者たちに講演をすること、第二の目的は、フロリダのサンゴ礁での野外観察によって、ある仮説の真偽を追試してみることだった。

その仮説は、わたしが、ある種の魚の闘争行動とその色彩の種を保つ働きとについて、水槽の中で観察した事実をもとにして、あらかじめ立てておいたものだった。


大学病院では、わたしは初めて精神分析学者たちと話し合ったのだが、その人たちはフロイトの学説を、反論する余地のない教義を述べたものではなくて、どの学問の場合でもそれが当然なのだが、作業仮説を立てたものと見ているのだった。


そうとするなら、ジークムント・フロイトの学説のうちで、あまりにも大胆すぎるのでわたしがそれまで同意しかねていた多くの点が、納得できるものだった。


かれの衝動説についてその人たちと論じ合った結果、思いがけないことに、精神分析学の成果と行動生理学の成果とが一致していることがわかったのだが、この一致は、両分野のあいだで問題の立て方も研究法も違い、とりわけ帰納の土台が違うだけに、わたしにはいっそう重要なことと思われた。


死の衝動という考え方については、おそらく意見が全くわかれるだろうと、わたしは想像していた。

死の衝動とは、フロイトの説によると、生命を保つさまざまの本能と正反対の極をなす破壊の原理となっている。

生物学とは縁のないこの仮説は、行動学を研究する者の目から見ると、不必要であるばかりか、間違っている。

攻撃の及ぼす結果は、しばしば死の衝動の結果と同一視されるけれども、攻撃の本能もやはり他の本能と同じように、自然の条件のもとでは、生命と種を保つ働きをもつものなのである。


自分の手であまりにもすみやかに、その生活条件をつくりかえてしまった人間の場合には、攻撃の衝動は破壊を促すことがたびたびあるが、しかしそれと似た破壊作用は、それほど劇的ではないにせよ、他の本能にも同じくあるものなのだ。


死の衝動なるものに対するわたしのこのような見解を親しい精神分析学者たちに向かって主張したところ、意外にもわたしは屋上屋を架していることになったのだった。

その友人たちは、フロイトの著作からいろいろな箇所を引いて、フロイト自身すら自分の二元論的仮説にあまり信頼を置いてはいなかったこと、その仮説は、有能な一元論者であり機械的に物事を考える自然科学者であったかれにとって、もともと性に合わないものであったに違いないことを、教えてくれたのである。


それからほどなくして、わたしは暖かな海にはいって野生のサンゴ礁の魚を調べ、その攻撃を保つ働きのあることをはっきり見てとったとき、この本を書こうという気になった。


ローレンツ博士にこの本を書かせたのが


フロイト博士だったというのが興味深い。


しかも周りの学者の意見から察するに


ローレンツ博士の学説に近しい見解だった


可能性を匂わせるものを感じ取ったと


いうのだからダブルで興味深い。


攻撃と進化の自然淘汰の親和性ってことだろか。


自分はどちらかというとユング博士派なので


そこは一旦置いておこう。


この書はかつて読んだ対談本


日高先生と南沙織さんが話していた。


英語版とドイツ語版の考察などされている。


訳者あとがき 


訳者を代表として 日高敏隆


から抜粋


ローレンツはここでは、これまでの動物の行動の研究の中から、種を同じくするもの同士の闘いや殺し合いの問題を主題として論じている。

同類どうしの闘いや殺し合いーーーそれはバイブルによれば悪である。

モーゼは人間にそれを禁じたが、動物には禁じなかった。

じっさい、動物においては、同類個体間での闘いはたえずみられるものである。


しかし、よく調べてみると、動物においては、この「悪」はじつは「善」なのである。

それは種を維持する上には必要不可欠なものなのだ。

けれど、同類どうしの殺し合いは、動物においても禁止されている。

モーゼによってではなく、進化によって。

闘いは「儀式化」されることによって、真の殺し合いから切り離され、「悪」から「悪」を捨て去ってその善だけを残すようなてだてがこうじられているのである。


ローレンツはこの同種個体ーーー種を同じ(アルトゲノツセ)くする仲間(Artgenosse)ーーーどうしの闘い、すなわち攻撃性(アグレッション・Aggression)について、かれが歩んだと同じ道をたどりながら、読者に語る。


美しい熱帯魚は、攻撃しやすいために美しいのであること、攻撃によって個体が分散し、種が維持されやすくなること、攻撃は内的な衝動によって引き起こされること、それは自発的で抑えがたいものであること、しかしそれは、動物では進化の過程における儀式化という道を経て、悪の牙を抜かれていること、「本能」というものは単純なものではなく、多くの衝動の間に複雑に絡み合いの結果現れることなど、きわめて含蓄の深い章が続く。


ついで、もし攻撃性がなくなったら、個人的友情というものも消失するであろうという意外な認識が、いろいろな動物の例から語られる。

そうなると、連帯とは一体何なのか?

フロイトは死の衝動ということをいったけれど、攻撃の衝動は死の衝動にあたるものなのか?

人間における闘いの基盤に攻撃衝動が働いていることは否定できないが、それが人間においても遺伝に深く根差したものであることも否定できない。

ではそれにどう対処したらよいのか?

このような人間の根本的な問題への問いかけと彼なりの見解が展開される。


このような議論は、従来はフロイト的な見地からの説明か、さもなくば政治・経済レベルからの説明に終始することが多かったようにおもわれる。

しかし、この人間という奇妙な動物は、そのようなどれか一面からの説明を許さない

ティンバーゲンがいうとおり、人間はいまだに「未知なるもの」アレクシス・カレルの『人間この未知なるもの』)である。

ローレンツのこの著書もまた解決ではないけれども、ここに述べられたようなアプローチをとりこんでゆかぬかぎり、人間の哲学的認識も進まないであろう。


サブタイトルの「悪の自然誌」とあるのが


なぜ「悪」なのか、日高先生の解説で腑に落ちる。


自然を無視した文明批判をされる


ローレンツ博士ならではということなのかなと


思いを馳せつつ、夜勤明けブックオフで


遺伝子系の本を購入して歩いてたら


昨年夏に会ったパパ友と偶然会って


近くの大学の食堂に移動して


ローレンツやその他昨今の読書について


熱弁を振るって2時間過ごさせていただき


そこで時の話題、小林製薬の”紅麹”問題の


パパ友なりの見解をお聞かせていただき


そういう視点だとするとまた大手メディアでの


取り上げ方や評価などとは、まったく


異なるなあ、と滋味深く拝聴した次第で


それが出来るのは紙の読書からの


思考技術がなせる技だと勝手に分析&


リスペクトさせていただきつつ


ますます読書熱からの研究及び


フィールドワークに精が出そうだと思った


のでございました。


 


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②槌田敦先生の2冊から”エントロピー”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

  • 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本

2. 多数の農民は失業者になる

【強者のための経済学になり果てた現代経済学】


から


現代社会において、貧富の格差はますます拡大している。


現代経済学者は、その原因を検討することなく、無責任にも「政府はもっと支出と雇用を」(クルーグマン、朝日新聞12年3月9日)などと主張する。

どこから、その資金を捻出するというのか。

富者から税金を取れば良いが、富者は政治を支配しており、損になることをする訳がない。

しかし、富者から見ても、格差社会はトラブルが多く、放置すれば暴動に発展する。


そこでわずかに応ずるだけである。

これでは、格差社会は解決できない。


結局のところ日本のように消費税を値上げして、弱者から税金を搾り取り、弱者を苦しみ追い込むことになる。

同じ人間に生まれて、強者である富者の繁栄と弱者である貧困者の悲劇。

現在経済学は富者の利益だけに関心を示す学問に成り果ててしまった。


【失業と貧困の最大の原因は自由貿易】から


貧困の原因は失業である。

そして、貧困者には需要がなく、失業者は供給できない。

格差社会では多数の人々には需要も供給もなく、商取引から排除されている。

その一方、少数の富者(強者)が商取引を華々しく繰り広げている。

アダム・スミスのいう「神の見えざる手」は壊れている。


日本では、自由貿易は、農業を破壊することが最大の問題であると考えられている。

そして、農業ばかりか、その他の産業も破壊するという。

しかし、自由貿易にはもっと基本的な失業と貧困の問題がある。


はっきり言えば、自由貿易は、農業者を大量に失業させ、これらの人たちを貧困に追い込むのである。


3. 今、必要なのは弱者のための経済学


【エントロピー増大にもかかわらず、人間社会が維持される条件とは】


から


物理学のエントロピー増大の法則により、人間社会の活動は資源を消費し、廃物を発生する。

この人間活動を続けると、環境にある資源は枯渇し、環境は廃物だらけになるはずである。

ところが、現実には資源は枯渇しないし、廃物はいつの間にか消えている。

つまり、地球は人間社会に豊かな環境を提供しているのである。

これが、人間経済が持続できる第一条件である。


その理由は、化石燃料のように資源が豊富で、現在の消費程度では糖分枯渇しないことに支えられている。

これに加えて、環境に排出された廃物がふたたび資源に戻っていることも幸運である。

これは、宇宙に余分のエントロピーが捨てられて、環境に物質循環が存在するからであるが、その物質循環に人間社会も載っているのである。


これに対して、原子力の廃物、放射能を資源として、これをウランに戻す能力は自然にはなく、ここには物質循環は成立しない。


つまり、ウランはそもそも使用可能な資源ではない。

それを無視して原子力を利用した結果が、原子力の困難の原因なのである。


人間社会維持の第二条件は、環境から資源を取り入れ、廃物を自然に返すことが保証されていることである。

その作業は需要と供給という経済活動で支えられた物質循環がしている。

これを強調する学問がエントロピー経済学である。


需要と供給による社会の物質循環を維持することにより、人間社会の持続性は維持される。

これに注目しない「持続可能性」の主張はすべて誤りである。


【商取引の法則、需要と供給】から


では、どのようにして、需要と供給により社会の物質循環が成立するのか。

それは、全面的に古典経済学の正しさを認めることである。

需要者は商品を受け取り貨幣を支払う。

供給者はその逆をおこなう。

その商取引が貨幣循環を成立させる。

これが物質循環を支えている。

そして自然から資源を得て、自然に廃物を返している。


ここで、需要曲線と供給曲線の考えが導入される。

需要曲線とは、その金額ならば買っても良いという商品を価格が下がる順番で並べた曲線であり、供給曲線とは、その金額ならば売ってもよいという商品を価格が上がる順番で並べた曲線である。


その交点が取引価格となる。

この金額で取引すると、需要者は予定価格よりも安い価格で買うことができて得をし、同時に供給者は予定よりも高い金額で売ることができて得をし、両者共に利益が得られる、

この利益(余剰という)は新しい需要となるので、経済成長の原因となる。

これが、いわゆるアダム・スミスの神の見えざる手である。


エントロピー経済学は、このアダム・スミスの神の見えざる手に加えて、この商取引が社会の中の物質循環を保証していることを重視する。

ところが、現代経済学は、その条件を壊す「自由貿易」を掲げている。

これは人間社会を壊す悪魔である。

貿易では、真の自由貿易、買うの買わないの「自由」を尊重する必要がある。


国内政策では、働けるものに補助金を出してはいけない。

失業者には貸付金、就職したら返金(所得税に加算)させる。

働けない子供、病人、老人には税収により生活資金を支援する。

このようにして「アダム・スミスの神の見えざる手」は成立し、失業と貧困のない健全な社会にすることができる。


【残された問題】から


貧困者は生きるために自然を破壊する。

貧困は砂漠化への道である。

このようにして、貧困国では子孫の生活する場所はどんどん消えていく。

ここには売る商品はなく、買う資金もない。

そこで必要なのはこの半砂漠で貿易や援助なしに自給する技術である。


また、近い将来に予測される寒冷化(『新石油文明論』2002年参照)で、北方の農地は使えなくなる。

この人達は集団で移住を求めるであろう。


古典的な戦争の心配もある。

その場合を想定して、温暖化に住む人たちがどのようにして北方の人たちを受け入れるか、検討を始める時がきた。

CO2で温暖化するという騒動で浮かれていた時代はすでに終わったようだ。


すごい。


槌田先生の中では2012年時点


12年前にすでに脱炭素社会キャンペーンは


終わっているのか。


現実的には、いいのか悪いのか、はたまた


浮かれているのか、落ち着いているのかも


不明だけれども、脱炭素キャンペーンは


終わっていないし、さらにご指摘通りで


本当に悲しいが古典的な戦争を


中東ではしていて昨夜のニュースから。


 イラン、イスラエルへミサイル発射 


 「報復攻撃」実施と発表


それは置いておいていいのか不明ですが


一旦置かせていただき


”エントロピー”についての理解に補強として


他の書籍から一部引かせていただきます。



環境保護運動はどこが間違っているのか (TURTLE BOOKS 7)

環境保護運動はどこが間違っているのか (TURTLE BOOKS 7)

  • 作者: 槌田 敦
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 1992/06/01
  • メディア: 単行本


増補・地球温暖化は悪いことか


◉自然のサイクルとは


汚染とは、物理学のことばでいうと、エントロピーです。

地球は、このエントロピーを宇宙に捨てることのできる星です。

これによって、地球上にはいろいろな活動が存在できるのです。

地球に存在する最も大切な活動は、大気の循環です。

つまり風が吹くことです。

この循環により、大気上空で放熱して、宇宙に熱エントロピーを捨てています。

水が蒸発して雨が降るという水の循環も大切な活動です。

この二つの循環活動があるので、地球表面は熱の汚染から免れ、快適な気候が保証されています。


しかし、これだけでは、もうひとつの物の汚染が溜まってしまいます

これは、生態系での養分の循環が解決しています。

土から養分を得て植物が育ちます

これを動物が食べ、植物と動物の死骸は微生物が分解して土に養分を戻すという養分の循環です。


この養分の循環で生態系は元に戻ったのですから物エントロピーは増えていないはずなのですが、その代わり発熱して熱エントロピーになっています。

植物から堆肥をつくるとき、発熱していることからこれを知ることができます。


生態系の循環は物汚染を処理して、熱汚染に変えているのです。

この熱汚染も大気と水の循環によって宇宙に捨てているので、地球上は物汚染も熱汚染も免れることができるのです。


ところで、この養分とは、リンや窒素などの肥料のことですが、水に溶けて下方へ流れ落ちてしまう性質があります。

それを解決しているのは鳥などの動物です。

海や平地で餌を得て、これを高地に運び上げ、そこで糞をして養分を供給しています。

これが地球規模の養分の大循環です。

これにより海洋だけでなく山地を含む陸地にも生態系が存在できるのです。


これらの四つの循環が自然のサイクルと呼ばれるものです。

これらの循環の中に人間の廃棄物を繰り返す限り、汚染問題が発生することはないのです。

しかし、この自然のサイクルの能力を超えて人間社会が廃棄物を発生させると、その汚染は宇宙に捨てることができず、地球上に留まることになります。

これが汚染問題なのです。


自然の循環が大切な営みであり、


自然が人間生活に欠かせないもの、


それ以上でも以下でもない。


それを崩すことは、暗い未来しか


見えてこない。


にもかかわらず、世界や近代文明で


ただいま現在行われていることは


一体何であろうかという疑問。


心配だらけだけれども、日常生活は


キープできるよう個々で頑張って


いかなければと気を引き締めさせて


いただき、仕事や読書を続けて参ります


所存でございます。明日も夜勤なので。


 


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①槌田敦先生の論考から”違和感”と”現実”を体感 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

  • 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本

現代の暴力装置=原発と自由貿易に騙されないために

弱者の視点・エントロピー経済学で考える


元理化学研究所研究員 前名城大学経済学部教授


槌田敦


から抜粋


強者(富者)は、安い電力を口実にして原発を建設し、経済発展を口実にして自由貿易を押し付け、強者の利益をさらに拡大しようとしている。

そして現代経済学は、この強者の欲望を支える道具となっている。


この強者のための現代経済学をふたたび、アダム・スミスの経済学に戻し、福祉のための学問、つまり弱者のためのエントロピー経済学を構築する。

そのため、まず、原発と自由貿易という現在の暴力装置のウソを暴き出すことから始める。


1.これは「事故」を超えて「事件」である


【福島原発事故は、これまでの原発事故と本質的に異なる】


から抜粋


スリーマイル島原発事故(1979年)の原因は、「逃し弁開閉の誤信号」だった。

弁が開いているのに、閉じていると表示され、原子炉の冷却水が流出していることに運転員は気づかなかったのである。


チェルノブイリ原発事故(1968年)は、「制御棒の設計ミス」だった。

原子炉を緊急停止しようとして緊急制御防を入れたら、かえって核反応が進み、核爆発となってしまったのである。


今回の福島事故は、このような単純なミスで起こったのではない

事故の原因は東電による安全対策の手抜きだった。


【大災害となった福島原発事故】


から


この福島事故で、東京電力は大量の放射能を環境にばらまき、強制避難で45人(NHKによれば68人という)を死なせ、数人を自殺させ、福島県民の心身を傷害した。


それだけではなく、BEIRーVII報告(アメリカ科学アカデミー2005年6月29日)によれば、100人が生涯において平均して100ミリシーベルト被曝すると1人はがんになり、またその半分はがん死する。

したがって、生涯被曝が50ミリシーベルト増と予想される福島県民200万人の場合、今回の事故によって1万人はがんになり、その半分5000人はがん死させられることになる。


【今後も安全費用の節約による原発事故継続の心配】


から抜粋


原発では事故があるたびに安全費用の追加が繰り返され、原発の単価はますます高くなっている。

その原因は、放射能という毒物が科学技術では消滅できないからである。

そこで、この放射能毒物の閉じ込めだけで対策することになる。


しかし、放射能はこの閉じ込めもすり抜けて、漏れ出してしまう

そこでまた別の閉じ込め作業の追加が必要となる。

これの繰り返しで、原発の費用は増えていく。

これが、原発の費用が火力の費用よりも高くなる理由である。


放射能は、もはや科学技術の手に負えないことを認めなければならない

原発で儲けようとして裏目に出て、損ばかり増えることになった。

経済学は、この原発の現状を認め、対策不可能な放射能を生み出す原発を廃止する側に立たなければならない。


ところが、それを許さない勢力が存在する。


原発でメシを食っている人たちである。


この人たちは直接電力会社に雇われている訳ではない。

下請けの下請けの…という形になっていて、多くの企業が原発にたかっている。

この連中が、原発停止では職を失うと騒いでいて、これだけの被害があったのに、一部の町長や町会議員に原発再開を言わせているのである


【事故原発の現状説明もウソだらけ】


から抜粋


ところで、この東電は、安全対策の手抜きをごまかすために、原子力・保安院とともに話題をすり替えてきた。

たとえば「炉心溶融」がそれで、マスコミはまんまとひっかかった。

炉心溶融(メルトダウン)とは、融点2800℃の酸化ウラン燃料が溶融することを言う。


スリーマイル島原発のように、完全な空焚きになればそのような事態になるが、福島事故では、原子炉の底には水があり、燃料を支えている構造材の鉄(融点1500℃程度)が溶けて、燃料と共に水中に崩れ落ちて冷えたと考えられる。

構造材の融解はウラン燃料そのものの溶融ではないから炉心溶融ではない。


それから、4つの原子炉建屋ですべて水素爆発したことになっている。

しかし、水素爆発は1号機だけで、2号機は爆発そのものがなかった。

3号機では1986年のチェルノブイリ型爆発である。

水素爆発では黒い煙にはならないし、プルトニウム241(半減期13年)が環境に飛び散ることもない。

4号機は蓋の開いた原子炉から水蒸気が激しく噴き上げ、それが8月になっても続いていたから、1999年のJCOの臨界事故と同様の核暴走があったと考えられる。

この原子炉には燃料が入っていないとされているが、ウソらしい。


【放射性廃棄物はどのようにするのか】


から抜粋


原発推進の経済学者たちは、放射性廃棄物の問題に口を閉ざしてきた。

それにもかかわらず、彼らは、今でも、原発で電気を得て、経済成長しようと叫んでいる。

私は、放射性廃棄物の問題について、子孫に対する4つの犯罪を整理した。


①処理・処分の困難な毒物を製造する行為、

②毒物を取り扱い困難にする行為、

③人間集団の遺伝情報を狂わせる行為、

④子孫に毒物管理を強制する行為

(『エネルギーと環境 原発安楽死のすすめ』1993年、183ページ)。

けれども、原発推進の経済学者たちを反省させるには、私の力は足りなかった。


槌田先生の指摘が正しいとすると


今まで大手既成メディアで


報道されていることとは


違和感があるなあ、という実感。


福島原発事故以前から、槌田先生は警鐘が


無視され続けている現状。


権力は自分たちでは手を下さずに


自粛警察と化している人々が動いている


いびつな構造。


なんかテーマが同じだからか


池田清彦先生に似てきてしまったな。


(どこがだよ!)


何を支持するのが良いのか、は


自分で調べてより正確な”知識”に裏付けされた


”考え”なのだろうと思った久々の日曜早朝読書


梅茶をすすりながらそろそろ朝食をとり


風呂とトイレ掃除しないと。


先週サボっておりますから。


 


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