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O・サックス博士の自伝から”偉人”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

道程―オリヴァー・サックス自伝― (早川書房)


道程―オリヴァー・サックス自伝― (早川書房)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2015/12/24
  • メディア: Kindle版

遍歴

タングステン棒は私のマドレーヌ


から抜粋


私は19世紀の博物誌を読むのが好きだった。

どれも手記と科学書のブレンドだ。

とくに心をひかれたのは、ウォーレスの『マレー諸島』(新妻昭夫訳、ちくま学芸文庫)、ベイツの『アマゾン川の博物学者』(長澤純夫・大曾根静香訳、新思索社)、スプルースの『アマゾンとアンデスにおける一植物学者の手記』(長澤純夫・大曾根静香訳、築地書館)そして彼ら全員が(そしてダーウィンも)刺激を受けたアレクサンダー・フォン・フンボルトの『新大陸赤道地方紀行』(大野英二郎・荒木善太訳、岩波書店)。

ウォーレスとベイツとスプルースが全員、1849年の同じ月に、同じアマゾン川流域に互いに互いのたどった道を行き来し、追い抜きあい、しかも3人とも親友どうしだったと考えると楽しかった(彼らは生涯にわたって手紙のやり取りを続け、ウォーレスはスプルースの『一植物学者の手記』を彼の死後に出版することになった)。


彼らはみな独学し、自発的に活動し、組織に属していない、ある意味アマチュアであり、競争による動揺も混乱もないエデンの園のような平穏な世界に生きていたように思える。

しかしその世界が次第にプロフェッショナル化していくにつれ、殺伐とした競争(H・G・ウェルズの短編『蛾』(橋本・鈴木万里訳、『モロー博士の島』岩波文庫に所収など)に生々しく描かれているような競争)が目立つようになった。


ビジネスになると殺伐としてくる


ってのは今も昔も同じなのか哀しいけれど。


同時代の偉人たちに想いを馳せる


という構図は、とてもよくわかる。


シンパシーを抱く人たちというか


同好の士とでもいうのか、本人たちは


至って普通で、偉大になろうなんて


微塵にも思ってないというところも。


ひいては、オリヴァー博士たちも


その構図が当てはまります。


スティーヴン・ジェイ・グールドと議論する


から抜粋


博物学と科学史に対する深い愛情に通じ合うものがあったのは、スティーヴン・ジェイ・グールドだ。

私は彼の『個体発生と系統発生』(仁木帝都・渡辺政隆訳、工作舎)や毎月『ナチュラル・ヒストリー』誌に掲載されていた記事のほとんどを読んでいた。

とくに1989年の『ワンダフル・ライフ』(渡辺政隆訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)が気に入っている。

どんな動植物の種にも降りかかりうる純然たる運ーー幸運と悪運の両方ーーと、偶然が進化に果たす役割のとてつもない大きさを実感させる本だ。

彼が書いているように、もし進化を「やり直す」ことができるなら、そのたびにまったくちがう結果になることはまちがいない。

ホモ・サピエンスは特定の偶発性が組み合わさった結果であり、それで最終的に私たちが生まれたのだ。

彼はこれを「すばらしい偶然」(訳注:グールド『フルハウス』ハヤカワ・ノンフィクション文庫の渡辺政隆氏の訳を引用)と言っている。


私はグールドの進化観にとても興奮し、5億年以上前の「カンブリア爆発」で生まれた(カナディアン・ロッキーのパージェス頁岩に見事に保存されていた)驚くほど多種多様な生命のかたちを、さらにそのうちのどれだけ多くが競争や災難、あるいは単なる不運に屈したかを、彼は生き生きと描いていると評した。


スティーヴはハーバードで教えていたが、ニューヨークのダウンタウンに住んでいたので、私たちはご近所さんだったわけだ。

スティーヴにはじつにさまざまな面があって、いろんなことに情熱を燃やしていた。

散歩が大好きで、いまのニューヨーク市だけでなく、1世紀前にどんなふうだったかについても、建築に関する膨大な知識を蓄えていた(彼くらい建築に対する感性が豊かでなければ、進化論において適応を重視しすぎる立場を批判するためのたとえとしてスパンドレル(訳注:ゴシック建築などに見られる、丸屋根を支えるアーチとアーチにはさまれた三角形の部分)を持ち出すことはないだろう)。

そして大の音楽好きだ。

ボストンの聖歌隊で歌い、ギルバード・オサリバンを敬愛していた。

ギルバード・オサリバンの曲はすべて暗記していたと思う。

私たちがロングアイランドにいる友人を訪ねたとき、スティーヴは風呂に三時間入っていて、そのあいだずっとギルバード・オサリバンの曲を歌い、しかも同じ歌を繰り返さなかった。

彼は世界大戦期の歌もたくさん知っていた。

スティーヴと妻のロンダは衝動的に気前のいい行動をする友人で、誕生パーティーを開くのが大好きだった。

スティーヴは母親のレシピでバースデーケーキを焼き、いつも朗読用の詩を書く。

それがとてもうまくて、ある年、彼はルイス・キャロルばりの見事なナンセンス詩を作って、パーティで朗読した。


1997年 オリヴァーの誕生日にささぐ


この男、シダにほれ

世が世なら、バイクのCMスターかも

多様な多様性の王様だ

ヒップ!ハッピ・バースデー!

昔のフロイトを超えている


片足、片頭痛、色がない

火星で、目覚めて、帽子通

オリヴァー・サックス

いまも全力で生きている

泳ぎはイルカを超えている


スティーヴは私と出会う前、40歳かそこらのころに、死を覚悟するような経験をしていた。

非常にまれな悪性腫瘍ーー腹膜中皮腫ーーにかかったが、逆境に打ち勝つと決心し、とりわけ致死率の高いこの癌を克服した。


無駄にできる時間はない。

次に何が起きるかは誰にも分からないのだから。


20年後、60歳のとき、彼は前のものとは無関係と思われる癌にかかった。


しかし彼が病気に対して行った譲歩は、講義中に立つのではなく座ることだけである。

自分の最高傑作『進化理論の構造(The Structure of Evolutionary Theory)』を完成させるとの決意は固く、この本は『個体発生と系統発生』の出版25周年の2002年春に刊行された。


数ヶ月後、ハーバードでの最終講義を終えてすぐ、スティーヴは昏睡状態に陥り、息を引き取った。

まるで意志の力だけで自分を動かし続け、最後の学期の授業を終えて、最後の著作の出版を見届けたところで、ようやく手を引く気持ちになったかのようだ。

彼は自宅の書斎で大好きな本に囲まれて亡くなった。


サックス博士、グールド博士、そして


ギルバード・オサリバン。


なにか共通する気がするのは気のせいか。


カメラ好きってのも頷けるのだけど


どこかの街の小さな商店の写真に


グッとくるものがあるほどの腕前。


その他、バイク好きだった無頼漢な


1950年頃のアメリカの普通の若者の面もあり


多様性を帯びた性嗜好なども赤裸々に


綴られているけれど、その実どこまで


本当なのだろうかという”自伝”によくある


悪い意味での誇張やら記憶違いなども


含まれているよなあと感じた。


そういったことは抜きにこの書は


知性があれば相当楽しめるのだろうなあと


そこは置き去りになってしまう


我が身の哀しさを噛み締め


またの機会に随筆や小説も読んでみたいと


思わせるようなそれはもう深すぎる


作家であることは疑う余地を俟たない


5月真夏のような日差しで


汗をかいたため、Sptifyで


ギルバード・オサリバンを聴きながらの


入浴でございました。


 


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O・サックス博士の随筆から受けた”既視感” [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源

意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/08/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ダーウィンと花の意味

から抜粋


すぐさまダーウィンの想像力は目覚めた。

一対一という比率は、雄雌別株の種に期待される比率だ。

花柱が長い花は、たとえ両性花でも、雌花になる過程にあり、花柱が短い花は雌花になる過程になるのではないだろうか?

自分はまさに中間段階の形態、つまり進化の途中を見ているのだろうか?


楽しい考えだったが、説得力はなかった。

なぜなら、花柱の短い花、つまり雌花とされる花は、花柱の長い「雌」の花と同じだけの種子をつけていたからだ。

この場合、(友人のT・H・ハクスリーが言ったように)

醜い事実によって美しい仮説が殺された」のである。


みんな大好きダーウィン、進化論。


サックス博士はそことはちと視点が異なり


植物への関心も忘れちゃならねえぜ


ダーウィンといえば、って言うのが


なかなか渋いなあと。


記憶は謝りやすい


から抜粋


1970年、ジョージ・ハリスンが大ヒット曲「マイ・スウィート・ロード」をリリースしたが、これが8年前にレコーディングされたロナルド・マック作の(シフォンズの「いかした彼」)にとてもよく似ていることが分かった。

問題が訴訟に発展したとき、法廷はハリスンを剽窃で有罪としたが、その判決には心理学的考察と共感が十分に示されている。

判事は次のように結論を下した。


「ハリスンは故意に「いかした彼」の曲を使ったのか?私は彼が故意にそうしたとは思わない。

しかしながら…これは法の下(もと)では著作権の侵害であり、たとえ無意識のうちに行ったとしても、同じ事である。」


ヘレン・ケラーも、たった12歳の時に剽窃で非難されている。

彼女はごく幼い時から耳と目が不自由で、6歳でアン・サリヴァンに出会う前は実際に言葉を知らなかったが、ひとたび指綴りと点字を学ぶと、たくさんの作品を書くようになった。

なかでも「霜の王様」という物語は、彼女が書いて友人に誕生日プレゼントとして贈ったものだ。

その物語が雑誌に載ることになったとき、読者はすぐにそれがマーガレット・キャンビーの児童向け短編物語「雪の妖精」によく似ていることに気づいた。

ケラーへの称賛は非難に転じる。

本人はキャンビー夫人の物語を読んだ記憶がなかったにも関わらず、剽窃と故意のうそで責められた(彼女はのちに、その物語を手のひらへの指綴りで「読んで」もらっていたことに気づいた)。

幼いケラーは冷酷で無礼な尋問を受け、そのことが生涯、彼女の心の傷跡を残した。


しかし彼女には擁護者もいて、そのひとりが剽窃された側のマーガレット・キャンビーだった。


マーガレット・キャンビーのこの逸話は


単に若年者への配慮だけとは思えない。


”創作”や”着想”のなんたるかをご存知だから


行った擁護であるのではないかと感じる。


ヒトの長い歴史をよくご存知だったからの


行動ではなかろうか。


自分は強くそう感じるのでございます。


暗点ーー科学における忘却と無視


から抜粋


私が論じている例から、何か教訓を引き出すことはできるのか?

私はできると信じる。

ここでまず時期尚早という観念を思い起こし、ハーシェル、ウィアー・ミッチェル、トゥレット、ヴェレによる19世紀の報告はなされるのが早すぎたために、同時代の構想に溶け込むことができなかったのだ、と考える人もいるかもしれない。


ガンサー・ステントは、1972年に科学的発見における「時期尚早」について考え、こう書いている。

「発見の内容が一連の単純な論理ステップによって、正統な知識や一般に認められている知識に結びつかないのであれば、その発見は時期尚早である」。

彼はこのことを、グレゴール・メンデルの古典的な例との関連で論じている。

メンデルの植物遺伝学に関する研究は、あまりに時代の先を行っていたのだ。

さらに、それほど知られていないのが非常に興味深い、オズワルド・エイヴリーが1944年にDNAを発見した例にも触れている。

この発見が見過ごされたのは、その重要性をきちんと評価できる人がまだいなかったからである。


ステントが分子生物学者ではなく遺伝学者だったら、彼は先駆的遺伝学者バーバラ・マクリントックの話を思い出していたかもしれない。


1940年代に、同時代の人々にはほとんど理解できない理論ーーいわゆる動く遺伝子ーーを展開した人物だ。

30年後、生物学がそのような概念を快く受け入れる空気になったとき、マクリントックの洞察は遅まきながら、遺伝学への根本的貢献として認められた。


マクリントックといえば養老先生が


中村桂子先生を評した時に引き合いに


出された人物だった。


確かトウモロコシを研究していての


ノーベル賞ホルダーだがそんなことは


全く興味を示さなかった強者だったような。


それにしても、”動く遺伝子”ってなんだろうか。


解説 養老孟司


表現は難しく感じられるかもしれないし、またこれを日常的に体験する人は少ないであろう。

現代は情報化社会であり、情報はいったん固定化されると、まったく動かない。

だから我々自身が自分の記憶をそれに似たものと錯覚するのは当然かもしれない。

しかし何かを思い出すことは、新たに作り出すことでもある。

それを言葉の上ではなく、実感できるためには、おそらくその実体験が必要なのである。

フロイドは具体的な神経学者から精神医学者に変わった時、そうしたダイナミックな変化に気づいた可能性がある。

だからサックスはその時期のフロイドを論じるのである。


これを日常的な言葉で言えば、ヒトは変わる。

ただし、社会的存在としてのヒトは、むしろ変わってはならない。

昨日の私は、今日の私ではない。

そう主張して、昨日の借金を踏み倒すことはできない。

社会は「同じ私」を要求し、したがって進歩し、成熟していく私はしばしばストレスを受ける。

それが現代社会であろう。

自分自身を動的な過程として捉えること、それができることが真に「生きる」ことなのだが、昨日も今日も会社や官庁、組織に勤務していれば、なかなかそうは思えないのは当然のこととも言える。


サックスは私より4歳年上、ほぼ同年配と言っていい。

第二次世界大戦を子ども時代に経験した年代である。

彼が引用する書物、著作者には、私が親しんだものも多い。

いわば同じ世界の空気を吸って育った感じがする。

その世代は次第に消えて行く

だからサックスの訃報を聞いた時には、寂しい思いがした。

本人に会ったことはない

でも数多い著作を読めば、会う必要もない


またまた完膚なきまでに叩きのめされた


清々しい書評というか人物評をされる


養老先生の解説は泣けるし、痺れる。


昔よりも優しい筆致な気がする。


組織社会の哀しさを指摘されるのは


ご年齢がそうさせているような。


それにしても養老先生のオリヴァー博士に


対する考察は本当にすごい。


病気や脳の知識と実務経験、それに拮抗する


知性を具備されているからこその


共感を示されていると自分などは僅少ながら


理解します。してるのか?してないよね?


自分は初読のオリヴァー・サックス博士は


かなり興味深く、既視感があったのは


昨今の読書文脈から考えるとまじ、


ありがたいことなのかもしれないと


思いつつもGW中日、今日だけ休日という


いつも以上に貴重な一日なので


図書館行って近場古書店でフィールドワーク


あとは家族と過ごしたいと


目論んでいるのでございます。


そろそろ朝ごはんたべようかと。


 


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養老先生と高橋先生の解説から”情動”に触れてみた [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2019/10/31
  • メディア: 単行本

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養老孟司


既存の概念見直し脳機能を考える から抜粋


主題は喜怒哀楽という言葉に代表される情動である。

脳には主として情動を担う部位がある。

たとえば大脳辺縁系

私のように古い教育を受けた者には、そういう知識がしっかりと入っている。


著者はそれをほぼ全面否定する。

そもそも喜怒哀楽、情動とはどういう基準で確定されるか。

顔の表情でわかる。ではそれを解析してみよう。

表情は顔面筋の動きで測定可能なはずである。

では怒りの場合に、どの筋肉がどのくらい動いているか、たとえば筋電図で調べてみよう。結論ははっきりしている。定まった結果が得られない。


さまざまなことをあらためて考え直す必要がある

著者はそれを試みる

従って、多くの概念をあらためて見直し、さらには新語を作りださなければならない

だから古典的な脳科学の教育を受けた人には、読みにくいだろうと思う。

古典的には常識になっていることを変えなければならない。

著者は学会で聴衆の一人を怒らせたという挿話を紹介する。

無理もないと思う。

常識を変えるのは簡単ではないからである。


新しい見方は、新しい用語を必要とする。

水は子どもでも知っている物質である。

しかし化学ではそれをHとOで記す。

HもOも日常とはなんの関係もない、その意味では未知の概念である。

HやOという未知の概念で、水という既知の物質を説明する。

既知を延長すればわかる。

それは知的怠惰である。

著者と訳者は、巻末に丁寧な解説資料を付している。

これを大いに参考にしてほしい。


脳科学という視点からの流石の考察を


養老先生はされている。


さらに、翻訳の難しさも指摘されているくらい


ただいま現在の日本語にすると


違和感があるのだろう。


新しすぎて今は理解できないものなのかもしれない。


訳者 あとがき


から抜粋


最初に、本書の二つの主張を端的に記しておく。

一つは、情動についての従来の見方を覆す、著者独自の「構成主義的理論」を説明すること。

二つ目は、その理論が人間の本性について新たな見方をもたらし、ひいては社会にも大きなインパクトを与えることだ。


情動、ひいては人間の本性についてのまったくの新たな見方を提起する本書の性格上、ややわかりづらい用語が使用されている。

もちろん読み進めれば理解できるように書かれてはいるが、その一助となるべく重要な用語のみに絞って読解の指針を紹介する。


・情動(emotion)ーーー「情動」という用語は、日本だろうが英語圏であろうが、著者間で一貫性があるようには見受けられない。

しかしこれまでの訳者の読書経験から言えば、主観的であるがゆえに本人の自己申告によってしか知り得ない経験として「感情」を、表情や、何らかの生理的な指標(たとえば心拍数など)によって客観的に(すなわち科学的に)測定可能な現象として「情動」をとらえている場合が多い。

本質主義を否定する著者がこの見方をとっていないことは本書冒頭から明らかになるが、著書本人にメールで問い合わせたところ、「慣例にしたがってそのように考えている科学者もいるが、自分はその見方をとらない」という回答があった。

その内容は以下の三つに要約される。


「情動」は、感情(おもに自律的な内受容感覚)とは異なり、身体と外界の相互作用をもとに構築された知覚(perception)である。


②前述の「知覚」は「意識」と同義で、無意識的であるような情動は存在しない


知覚の構築には、「気分の性質」「行動」「世界を経験するための手段(すなわち評価)」「自律神経系の変化」などが関与している。


ここで特筆すべきは、著者は情動に関して意識の介在を前提としており、情動の構築には「概念」が必要だという本書の記述からも、情動構築の基盤の一つとして認知作用を据えていると読み解けることである。


この他、出てくる用語として、


概念(concept)とインスタンス(instance)、


気分(affect)、表情(facial expression)と


相貌(facial configuration)、


感情的ニッチ(affective niche)、縮重(degeneracy)、


構成主義(constructionism)なども解説されている。


高橋洋先生の解説が、これまたシャープで深い。


ものすごい知識量から絞り出されているようで


爽快だけれども、若干読んでいて怖さを感じた。


肝心のリサ博士の内容だけど一言で言うと


浅学非才な自分では、あまり理解できない。


そんな輩に向けても高い文章力からの技術で


平易に書かれているのは分かるし


興味深い内容であることは間違いないのだけれども。


最大の争点、自分にとってってことですが


「感情」とどう違うのか、はなんとなく分かった事が。


身体性を伴う意識で構築されているもの、


とでもいうのか。無意識の領域では一切ないのだね。


フロイトやユング、岸田秀・河合隼雄先生を


読むととさらに分かるのかもしれない。


「意識」と「無意識」は自分にとって


かなり興味深いテーマで、音楽とか芸術って


そことのコネクトだったりするからなあ、と


情動のなんたるかまで辿り着けずにいることに


気づけない愚かというワードは自分のために


あるのかもしれないと思いながらも


GWという世間の流れに乗っての休日


風呂掃除とトイレ掃除して参ります。


その前に朝ごはんですな。


 


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5冊の養老先生の紹介する池田先生を纏める [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

ほんとうの環境問題


ほんとうの環境問題

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/03/01
  • メディア: 単行本

あとがき から抜粋

池田さんが環境問題がいま心配だと、珍しいことをいう。

どこが珍しいかといって、そういういわば政治的な、時事的なことを、本気で心配しているらしかったからである。


池田さんも私も、要するに虫屋である。

虫が好きで、なにかというと、虫捕りに行ってしまう。

実は環境に「超」敏感である。



正義で地球は救えない

正義で地球は救えない

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/10/01
  • メディア: 単行本

あとがき から抜粋

世の中が変なのか、私が変なのかと問えば、そりゃ変なのは私に決まっている。

世間は多数で、私はひとりだからである。

若いときからそう思ってきた。

だからいまでも、変なのは世間ではなく、私に違いないと思っている。

でも似たような変な人がいるもので、共著者の池田君がそうである。

ただし変だというのが似ているだけで、どこがどう変なのか、そこは別段似ているわけではないと思う。

ただし虫がなにより好きというのは、まったく同じ。

前著『本当の環境問題』で、変なふたりが世間を憂えてみたら、読者があんがい多かった

それなら、そう変ではないのかもしれない

それではというので、また世を憂えてしまったのが、この本である。



もうすぐいなくなります―絶滅の生物学―(新潮文庫)

もうすぐいなくなります―絶滅の生物学―(新潮文庫)

  • 作者: 池田清彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/01/28
  • メディア: Kindle版

解説から抜粋

著者の池田清彦は、絶滅という主題を徹底して客観的に論じる。

絶滅という言葉が含む情動性に気づいているからであろう。

情動は科学ではない。

科学の背後に動機として隠れているものである。

絶滅するのはいったい何なのか。

はたして遺伝子か、種か、大きな分類群か。

恐竜なら、鳥になって生き延びてしまったではないか。

絶滅を語るとき、論者はまたして絶滅とは何を意味するか、明確に考えているだろうか。

それを池田は丁寧に、鋭く突く。


かつて池田自身、「科学とは変なるものを不変なるものでコードする」ことだと喝破した。

言葉は「不変なるもの」である。

時間とともに変化しないからである。


池田先生のいう”時間”をディープなレベルで


考察されていて、確か池田先生の著作で


”時間”をテーマに書かれている未読本が


あったなあと。嬉しいような悲しいような。


他にも山積している未読本が…。



臓器移植我、せずされず (小学館文庫 R い- 14-1)

臓器移植我、せずされず (小学館文庫 R い- 14-1)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2000/03/01
  • メディア: 文庫

解説 臓器移植へのラディカルな反論

から抜粋


私が最初に池田に出会ったのは、柴谷篤弘の主催した構造主義生物学のシンポジウムだったと思う。

このとき池田はたしか英語で発表したと思うが、なにをいっているのか、皆目わからなかった

構造主義とはわからないもので、そのわからなさを主題にしたイギリスの小説があるくらいだから、わからなくていい。

でもその後、池田の著書を読んだり、さまざまな会合で話を聞いているうちに、やっと少しわかってきた

なぜわからないかというと、基礎から論じるからである。

それが学問だというのは当然の話だが、いまはわからないと、学生が説明してくださいという時代である。

説明されればわかると思っている。

いくら説明したって、わからないことはわからない

私は陣痛をいう痛みはわからないのである。


それなら池田の話はきわめてわかりにくいかというなら、私の話よりずっとわかりやすいのではないかと思う。

歯切れのいい、かなり辛辣なことをしばしばいう。

山梨にしては珍しいではないかといったら、俺は東京の下町だ、ビートたけしと同じ学校だといわれてしまった。


そう聞けばわかる。

山の手でないことはたしかである。

そもそも風体が違う。

最近しばしば池田と一緒に東南アジアに虫捕りに行く。

池田もそれなりのスタイルを作ってはいるが、暑いところだから、ふだんは短パンに草履を履いて、ビールを飲んでいる。

どうみても下町のオッサンである。


辛辣なことをいうので、ときどき人に嫌われるらしい。

変なしっぺ返しが来ることを、たまにボヤいていることがある。

それは相手の単なる誤解である。

なぜなら性格はたいへんやさしい。

他人に悪意を持つような性格ではない。

虫好きで、若い頃はとんでもない非常識家だったことは、半生の記録を読めばわかる。

生物学者』(実業之日本社)という本である。

こういう無茶をしてきた男がそろそろ中年を過ぎようという年齢で、ものごとがわかっていないはずがない


自分の子どもたちが、なぜか生物学をやる。

そういって不審そうな顔をしている。

親父がこれだから、子どもはそんなものは嫌うと思っているらしい。

よい父親であろうということが、このことでもわかる。

意地の悪い人は、それは池田の奥さん、つまり母親のおかげではないかというかもしれない。


あるとき池田のお母さんが入院して、当時はまだ東大の医学部に勤めていた私の部屋に立ち寄っていったことがある。

そのときの心配ぶりを見て、私よりずっと暖かい人柄だと感じた。

自分の母親に対して、私はあれほど細やかに心配はしない。

いまもそう思っている。

だから学生にも好かれるはずである。

学生がこの大先生を友だち扱いしている。

言葉遣いがそもそも先生に対するものではない。

山梨大学にときどき行く男がそう報告していた。


池田先生のこの書での言説は、


自然界のものは傲慢な生き物が勝手に


どうこうできるものじゃないんだ的な


松井孝典先生の「レンタルの思想」の思想との


類似性を指摘されている養老先生。


『生物学者』は今ではタイトル変わり


自分の中では池田先生の書かれたものの中で


一番好きな書でございます。


全著作を読んでるわけではないけど。


ちなみに養老先生1937年生まれなので、


この時点で当時63歳、


「そろそろ中年を過ぎようという年齢」の


池田先生は1947年生まれの当時53歳。


四半世紀も前のお互いの関係は


今も継続されているようで


こちらは、養老先生84歳、池田先生75歳。



年寄りは本気だ: はみ出し日本論 (新潮選書)

年寄りは本気だ: はみ出し日本論 (新潮選書)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/07/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


まえがき から抜粋


池田は故堺屋太一が言った「団塊の世代」に属する。

私は団塊嫌いと言われることもあるが、妻も典型的な団塊の世代で、その世代に友人も多い。

池田はじつに頭の良い人で、なにしろ天下の英才を集める東大医学部にいた私が言うのだから、間違いあるまい。

もちろん「良い悪い」を言うには物差が必要である。

池田の場合はものごとの本質を掴んで、ずばりと表現する。

そこがきわめて爽快である。

しかも理路整然、理屈で池田にケンカを売る人はほとんどいるまい


前にも書いたことあるけれど、


怖いです、池田先生は。


まさにインテリヤクザそのもの、


もしくは、お二人のことをいうのだろう。


あー、こわっ。だからこそ、面白くて、深い。


『臓器移植 我、せずされず』は、


すでに絶版で題名がご自分の意図するところと


異なることを指摘されていたのを新装版の


電子書籍(『脳死臓器移植は正しいか』)で拝読。


ちなみに新装版は残念ながら養老先生の解説が


割愛されておりますことをご報告させて


いただきたく、なので旧版からの抜粋だった事を


雨降りの関東地方、朝から頭痛に悩まされ


自然と身体はリンクしていることを痛感する


我が身からのご報告となります。


全然関係ないのだけれど、英語に関する


池田先生のご意見が10年以上前週刊朝日に


掲載されており、かなり面白かったので


リンクさせていただきます。


 → 英語できない議員がTOEFL推進 池田教授あきれる


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ゲノムの事典から”倫理”の入口に立つ [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

バイオ・ゲノムを読む事典


バイオ・ゲノムを読む事典

  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2004/02/20
  • メディア: 単行本

編集者によるまえがき

から抜粋


今から半世紀前の1953年、ワトソンとクリックが遺伝子の本体であるDNAの二重らせん構造モデルを発表しました。

遺伝現象が、分子のレベルで説明できたのです。

これ以後、バイオの世界はDNAを基幹に発展してきたと言っても良いでしょう。

1960年代には、生命現象を分子の言葉で語る分子生物学が誕生しました。

そして、1973年にコーエンとボイヤーにより遺伝子組み換え技術の基本となる特許が出願されました。

人類は遺伝子を操作する手段を手に入れたのです。

この技術により1979年には、ヒト・インシュリンが生産されました。

そして1982年、遺伝子組換え医薬品の市販が米国で認められました。

科学的事実の発見から、基本技術の確立まで四半世紀、事業化までは30年程かかったことになります。


1985年には、ヒトゲノムDNAの30億に及ぶ塩基配列(シーケンス)を解読するというヒトゲノムプロジェクトが提案されました。

当時は、巨大科学への研究資金投入について賛否の議論が巻き起こりました。

しかし2000年、想定していたよりも早く、概要解読結果が発表されています。

その背景には、国際共同プロジェクトチームのみでなく、クレイグ・ベンダーが1998年に設立したベンチャー企業セレラ・ジェノミクス社との競合があったことは今や広く知られています。


21世紀に入ってポストゲノムシークエンスの時代となり、遺伝子の機能解析やタンパク質の構造・機能解析に力が注がれています。

これらの研究の先には、遺伝的に規定された個人の体質に合ったオーダーメイド医療など医療の進歩・革新を始めとして人類への計り知れない恩恵が期待されています。


日本における産業としてみた場合、遺伝子組換え技術等いわゆるニューバイオ産業の市場は1兆数千億円程度であり、まだまだ、これからの産業であると言えます。

ただし、従来型のバイオテクノロジーや周辺分野の発展も含めて、バイオマス、機能性食品、バイオ研究ツール、バイオインフォマティクス等産業の幅は確実に広がっています。


バイオテクノロジー・ゲノム科学の進展は、一方で、生命倫理の面や環境・安全面でも大きな問題を投げかけている点を見逃すことはできません。


例えば、個人の遺伝情報の保護や遺伝子診断、クローン動物作製などES細胞を用いた再生医療の研究のあり方、遺伝子組換え作物(GMO)やバイオ施設の社会的受容性などの問題が議論されています。


これらの課題は、いまや一部の科学者や産業界の企業家のみに課せられているわけではありません。

人類の未来を創るためにも、私たちはバイオ(生命科学)についての知識と見識を持たなければならないと思います。


III バイオテクノロジーと生命倫理


生命倫理と国際的対応


(米本昌平)


から抜粋


21世紀の生命倫理の課題は、国際的な基準の確立である。

先進国間にも基準の不統一があるし、南北間にはこれまでには本格的にはとりあげられていない価値観の段差がある。

生命倫理の問題一般に対して、米国社会は、技術使用は原則自由とし自己責任とプライバシー原理によって本人の選択に委ねようとしているのに対して、欧州社会は普遍的価値感を確立させようとしている。


ユネスコ本部はパリにあることもあって、ヒトゲノム宣言は主にフランスの立法官僚の影響下で作成された。

冷戦時代に米国と英国が脱退したままであり、日本はユネスコの経費の4割近く出す最大拠出国なのだが、宣言の作成にはほとんど関与できていない


ヒトゲノム宣言の重要な側面は南北間の協力がうたわれていることである。

生物多様性でもヒトゲノムの多様性でも、発展途上国は一方的に資源を供給する側で、これを元に北側が研究活動とその産物である特許を独占し、南側に売りつけることに不満が生まれている。

これはbiopiracy(生物資源収奪)と呼ばれる。

ヒトゲノム研究の国際調整組織、HUGO(ヒトゲノム機構)の倫理委員会は、ヒトゲノムの研究から未来世代を含めたあらゆる人たちが基本的な保健福祉を受けられるよう、商業開発に成功した企業が1〜3%を拠出することを提案している。


さらにヒトゲノム宣言は、ヒトクローンの禁止にも言及している。

欧州連合(EU)や世界保健機関(WHO)も、ヒトクローンの作製禁止を表明しており、この問題については強制力を持った国際禁止条約の作成に向けた提案もされている。

さらに、軍事利用の禁止や知的所有権など国際的に対応しなくてはならない課題は多い。


東日本大震災も、iPS細胞も、


EU統一からのイギリス離脱も、


コロナのパンデミックも、


ウクライナ侵攻も、


イスラエル・パレスチナ戦争も


経験していない世界だった頃の


バイオ・ゲノムの書で平易にかかれていて


市井の人間にも比較的読みやすいものだけど


科学と無縁な自分が読んでもなあ、とか


だからこそ読むんじゃ、とか思ったり。


それはそれとしてこの書で


倫理を担当されている米本昌平先生の使う


「南北」という表現がとても違和感あり、


具体的には何を指すのか気になった。


なんとなくわかるとはいえ。


それだけにとどまらず、米本先生の


お考え自体気になり何冊か米本先生名義の


書籍を購入してしまった次第でございますが


そもそも倫理という枠で括って良いのかすら


よくわかっておりませんで、過日読んだ書


併せての新たなテーマに遭遇してしまった


感のある午前5時起床での仕事だった本日は


すでに眠くなってきたのでございます。


 


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