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福岡博士の翻訳本から”疑う思考”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

 



七つの科学事件ファイル: 科学論争の顛末

七つの科学事件ファイル: 科学論争の顛末

  • 出版社/メーカー: 化学同人
  • 発売日: 1997/02/01
  • メディア: 単行本


なぜこの書を手にしたのか忘れてしまい


訳者あとがきから読んでみて


うまい文章で面白いなあと思ったら


なんと福岡伸一博士だった。


”動的平衡”は言うに及ばず


何冊も世に送り出されての


人気サイエンス博士の文章であれば


そら面白いわ、と得心したのでした。


訳者あとがき


1997年1月 福岡伸一


から抜粋


村上春樹氏のエッセイに、われわれはテクノロジーに関して絶対君主的な体制下に置かれている、というものがある。

その謂いは、新聞や雑誌を読んでいると、いろんなものが新発見されたり新発明されたりしているものを見かけるけれど、それはある日突然<お触れ>のごとく空から舞いおりて来るものであって、それがなぜそうなるのかはよくわからないまま。とにもかくにも「殿様の言わはったことやから間違いあらへん」ということで、それに馴れてしまう、というものである。


そしてわけがわからないけれどスゴイ発見に聞こえる例をでたらめに創作しているのだが、それが傑作で、「東京大学理学部のXX博士はニホンザルの脳下垂体を電気的処理によって階層化することに成功した」というもの(「村上朝日堂の逆襲」)。


エッセイ自体はこのパロディの見出しからも分かるとおり、なかばジョークとして書かれていて後半はオーディオの進化に話は移るのだが、科学上の新発見ということに関してある種の真実を衝いている。


今日われわれが耳にする科学と技術に関する出来事は、この見出しのように、何となく立派そうに聞こえているだけで、ほとんどの人はその中身にまで触れることはない

しかし、実は、少しでも中身を垣間見ることができれば、新聞に見出しが踊るような「新発見」は、多くの場合、でたらめといわないまでもその内情はお寒い状況なのがわかってくる。


そもそもこういう報道自体が、極めて恣意的なもので、たまたまその時期、毎年恒例のその分野の学会の総会が開催されていて、そこで報告される発表の中から、マスコミ受けしそうなネタを学会側がピックアップして記者に配布していたりするものである。

だから研究学会が多く開かれる春先や秋には「新発見」の記事も自然多くなる。

しかもこの学会というのは学者の一年に一回のお祭りのようなもので、とにかく参加することに意義があり、皆さんとりあえず自分の現在の研究成果を大急ぎで取りまとめてやってくる。

中身は当然、玉石混淆となる。


つまり、「テクノロジーに関して絶対君主的な体制下」にあるわれわれが少しでも科学や技術の世界で行われていることを民主化するために大切なことは、<お触れ>に際して「殿様のいいはったことやから間違いあらへん」とすぐ馴れてしまわず、いますこしだけその内容をのぞいてみようという気持ちを持つことである。

<お触れ>の内容を理解するにはもちろん「脳下垂体」とか「階層化」といった専門用語の意味やいわゆる理科系的思考が必要になることもあるけれど、その前提となるのは「なんとなくすごそうだけどほんとうにそうだろうか。いや、人間のやっていることだからキレイゴトばかりではないはず」という額面どおり受け取らない姿勢なのである。


本書が述べていることもそれにつきている。


つまり、今日われわれが、なんとなく正しいと信じている科学理論は、実はきちんと立証されているわけではない。

他方、今日私たちが、なんとなく間違いであると信じている科学理論は、実は完全に否定されているわけでもない。


「あとがき」から読み始めた読者の方に簡単に内容を紹介すると、前者の例として本書ファイルIII 「相対性理論は絶対か」が興味深い。

ここではアインシュタインの相対性理論の正しさを見事に証明したとされる教科書にも載っている二つの有名な実験が登場するが、この実験には、実は、理論に合うような結果を出すためいくつもの人為的なデータ操作があった。


一方、後者の例としてはファイルI「記憶物質の謎」が面白い。

あるテスト課題を練習させたネズミの脳から取り出した物質を、別のネズミの脳に注射したところ、練習なしで課題ができた、という成果を発表した研究者。

「そんな馬鹿な」とごうごうたる非難の嵐をうけてたちどころに否定されてしまったが、実験方法やデータの取り扱いそのものはまともなものだったのである。

それどころか、このような先駆的研究のおかげで、その後の、脳の神経活動を支配する脳内ペプチドの発見(今はやりの脳内麻薬エンドルフィンもその一つ)がはなばなしく展開されるに至った、といってもよいのである。


科学理論は、端的にいえば、「その現象は、この理由によって生じている(にちがいない)」という因果関係を、ある時、誰かイマジネーション豊かな人が思いつくことから始まる。

そこで、この確信を確かめるために「この理由」を人工的につくり出して、「その現象」が起きるかどうか、調べてみる

これが科学実験である。

が、これはかなりの曲者

本書のほとんどのファイルが示しているように、実験がすんなり思い通りの結果を出すことはまずない。

実験者は持論を確信しているので、実験方法が間違っていたから思い通りの結果にならないのだ、と思う。

でもそもそもその持論が間違いだからそうならないだけなのかもしれない。

うまく行かない実験結果を前にして、両者はすぐには区別がつかない。


その上、理論を思いつく人間のイマジネーションというのがこれまた極めて曲者で、ランダムなことを前にしても、そこにある種のパターンを見出してしまいがち、という人間特有の脳細胞の癖のようなものがあるのだ。


ちょうど、華厳の滝の前で写真を撮ると必ず、自殺者たちの顔が背景に浮かび上がるように(ヒトの視覚認知は、人面のパターンに過剰に反応しやすい癖があるようだ)。

で、多くの理論がこのような関係妄想のなかから生まれてきている。

よくいえばセレンディピティだが、思いつき、早合点ということでもある。


思い込み、刷り込み、因習等からによる偏見。


科学の世界も全てが神聖な成果だけではなく


それはどんなジャンルもそうなのかも


と思わせる福岡博士の分析と考察、


だけでなく、経験からの知見が炸裂。


一般の人とか自分もそうだが


新聞発表があると鵜呑みにしがちで


特定のジャンルということではなく


全てを疑う目と思考力を身につけておいた方が


それも程度によるし生活や仕事に支障なき


範囲でってこととは思うものの、


世の中良い方向に行くのはわかっているものの


つい、めんどくさくて楽な方に行きがちで


身の引き締まるなあと思う


福岡博士の文章でございました。


 


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