ローレンツ博士の書から”異なる視点”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1985/05/01
- メディア: 単行本
この書で扱うのは、攻撃性(Agression)、すなわち動物と人間の、同じ種の仲間に対する闘争の衝動のことである。
わたしは先ごろアメリカへ行ってきたが、その目的の第一は、比較行動学と行動生理学に関して、精神科医、精神分析医、心理学者たちに講演をすること、第二の目的は、フロリダのサンゴ礁での野外観察によって、ある仮説の真偽を追試してみることだった。
その仮説は、わたしが、ある種の魚の闘争行動とその色彩の種を保つ働きとについて、水槽の中で観察した事実をもとにして、あらかじめ立てておいたものだった。
大学病院では、わたしは初めて精神分析学者たちと話し合ったのだが、その人たちはフロイトの学説を、反論する余地のない教義を述べたものではなくて、どの学問の場合でもそれが当然なのだが、作業仮説を立てたものと見ているのだった。
そうとするなら、ジークムント・フロイトの学説のうちで、あまりにも大胆すぎるのでわたしがそれまで同意しかねていた多くの点が、納得できるものだった。
かれの衝動説についてその人たちと論じ合った結果、思いがけないことに、精神分析学の成果と行動生理学の成果とが一致していることがわかったのだが、この一致は、両分野のあいだで問題の立て方も研究法も違い、とりわけ帰納の土台が違うだけに、わたしにはいっそう重要なことと思われた。
死の衝動という考え方については、おそらく意見が全くわかれるだろうと、わたしは想像していた。
死の衝動とは、フロイトの説によると、生命を保つさまざまの本能と正反対の極をなす破壊の原理となっている。
生物学とは縁のないこの仮説は、行動学を研究する者の目から見ると、不必要であるばかりか、間違っている。
攻撃の及ぼす結果は、しばしば死の衝動の結果と同一視されるけれども、攻撃の本能もやはり他の本能と同じように、自然の条件のもとでは、生命と種を保つ働きをもつものなのである。
自分の手であまりにもすみやかに、その生活条件をつくりかえてしまった人間の場合には、攻撃の衝動は破壊を促すことがたびたびあるが、しかしそれと似た破壊作用は、それほど劇的ではないにせよ、他の本能にも同じくあるものなのだ。
死の衝動なるものに対するわたしのこのような見解を親しい精神分析学者たちに向かって主張したところ、意外にもわたしは屋上屋を架していることになったのだった。
その友人たちは、フロイトの著作からいろいろな箇所を引いて、フロイト自身すら自分の二元論的仮説にあまり信頼を置いてはいなかったこと、その仮説は、有能な一元論者であり機械的に物事を考える自然科学者であったかれにとって、もともと性に合わないものであったに違いないことを、教えてくれたのである。
それからほどなくして、わたしは暖かな海にはいって野生のサンゴ礁の魚を調べ、その攻撃を保つ働きのあることをはっきり見てとったとき、この本を書こうという気になった。
ローレンツ博士にこの本を書かせたのが
フロイト博士だったというのが興味深い。
しかも周りの学者の意見から察するに
ローレンツ博士の学説に近しい見解だった
可能性を匂わせるものを感じ取ったと
いうのだからダブルで興味深い。
攻撃と進化の自然淘汰の親和性ってことだろか。
自分はどちらかというとユング博士派なので
そこは一旦置いておこう。
この書はかつて読んだ対談本で
日高先生と南沙織さんが話していた。
英語版とドイツ語版の考察などされている。
訳者あとがき
訳者を代表として 日高敏隆
から抜粋
ローレンツはここでは、これまでの動物の行動の研究の中から、種を同じくするもの同士の闘いや殺し合いの問題を主題として論じている。
同類どうしの闘いや殺し合いーーーそれはバイブルによれば悪である。
モーゼは人間にそれを禁じたが、動物には禁じなかった。
じっさい、動物においては、同類個体間での闘いはたえずみられるものである。
しかし、よく調べてみると、動物においては、この「悪」はじつは「善」なのである。
それは種を維持する上には必要不可欠なものなのだ。
けれど、同類どうしの殺し合いは、動物においても禁止されている。
モーゼによってではなく、進化によって。
闘いは「儀式化」されることによって、真の殺し合いから切り離され、「悪」から「悪」を捨て去ってその善だけを残すようなてだてがこうじられているのである。
ローレンツはこの同種個体ーーー種を同じ(アルトゲノツセ)くする仲間(Artgenosse)ーーーどうしの闘い、すなわち攻撃性(アグレッション・Aggression)について、かれが歩んだと同じ道をたどりながら、読者に語る。
美しい熱帯魚は、攻撃しやすいために美しいのであること、攻撃によって個体が分散し、種が維持されやすくなること、攻撃は内的な衝動によって引き起こされること、それは自発的で抑えがたいものであること、しかしそれは、動物では進化の過程における儀式化という道を経て、悪の牙を抜かれていること、「本能」というものは単純なものではなく、多くの衝動の間に複雑に絡み合いの結果現れることなど、きわめて含蓄の深い章が続く。
ついで、もし攻撃性がなくなったら、個人的友情というものも消失するであろうという意外な認識が、いろいろな動物の例から語られる。
そうなると、連帯とは一体何なのか?
フロイトは死の衝動ということをいったけれど、攻撃の衝動は死の衝動にあたるものなのか?
人間における闘いの基盤に攻撃衝動が働いていることは否定できないが、それが人間においても遺伝に深く根差したものであることも否定できない。
ではそれにどう対処したらよいのか?
このような人間の根本的な問題への問いかけと彼なりの見解が展開される。
このような議論は、従来はフロイト的な見地からの説明か、さもなくば政治・経済レベルからの説明に終始することが多かったようにおもわれる。
しかし、この人間という奇妙な動物は、そのようなどれか一面からの説明を許さない。
ティンバーゲンがいうとおり、人間はいまだに「未知なるもの」(アレクシス・カレルの『人間この未知なるもの』)である。
ローレンツのこの著書もまた解決ではないけれども、ここに述べられたようなアプローチをとりこんでゆかぬかぎり、人間の哲学的認識も進まないであろう。
サブタイトルの「悪の自然誌」とあるのが
なぜ「悪」なのか、日高先生の解説で腑に落ちる。
自然を無視した文明批判をされる
ローレンツ博士ならではということなのかなと
思いを馳せつつ、夜勤明けブックオフで
遺伝子系の本を購入して歩いてたら
昨年夏に会ったパパ友と偶然会って
近くの大学の食堂に移動して
ローレンツやその他昨今の読書について
熱弁を振るって2時間過ごさせていただき
そこで時の話題、小林製薬の”紅麹”問題の
パパ友なりの見解をお聞かせていただき
そういう視点だとするとまた大手メディアでの
取り上げ方や評価などとは、まったく
異なるなあ、と滋味深く拝聴した次第で
それが出来るのは紙の読書からの
思考技術がなせる技だと勝手に分析&
リスペクトさせていただきつつ
ますます読書熱からの研究及び
フィールドワークに精が出そうだと思った
のでございました。