2冊から中垣通先生の”新しい知”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
ネットとリアルのあいだ: 生きるための情報学 (ちくまプリマー新書 123)
- 作者: 西垣 通
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/12/01
- メディア: 新書
アトム化する個人
から抜粋
チャップリンが1930年代につくった映画「モダン・タイムス」は、産業革命によって傷つけられる人間の尊厳というヒューマンなテーマを扱った。
工場で朝から晩までネジを回している人間は、やがて歯車のような存在にされてしまう。
ではIT革命は何をもたらすのか?
それは「社会全体のメガマシン(巨大電子機械)化」である。
少なくとも現代はその方向に走っている。
メガマシンには次のような前提がある。
人間は企業とおなじく、利益の最大化をもとめて合理的行動を行う機械単位だ。
こうして、人間は一群の数値データに還元されてしまう。
つまり、ITの処理対象となっていくのである。
もちろんこれは、資本主義社会の特徴であって、豊かな消費生活をおくるためには仕方がないと割り切ることはできるだろう。
評価数値をあげようとして、組織や人間が努力すること自体は悪いことではない。
しかし問題は、ITの急激な発達によって、組織や人間を評価する数値データが際限なく
増え続けるだけでなく、その変動速度がおそろしく大きくなっていることである。
投機マネーや政治情勢によって市場はつねに揺れ、およそ安定にはほど遠い。
要するに、市場が数値で押し付けてくる「客観的リアル」そのものが、大してあてにならないのだ。
具体的にはたとえば、少々偏差値のたかい大学卒の肩書など、幾度か職場を変わればほとんど就職や昇進の役にたたないのである。
身体的・言語的な「私のリアル」が消失し、空っぽになった自分を感じる時ふと、ネットのなかのアバター(キャラクター)への変身願望が出てこないだろうか。
これを”壊す”ととるか”脱皮”ととるかで
対処法やその後の展開は変わるのだろう。
脱皮とするのは養老先生関わる”メタバース”とかか。
”壊す”はあまり想像つかない。
あとがき から
この本は、ネットの発達した情報社会のなかで、どうしようもなくウツ気分に沈みがちな人たちのために書き下ろした。
筆者自身、特にペシミストではないつもりだが、ウツ気分におそわれることがすくなくない。
現代はいうまでもなく、デジタルな情報がとびかう便利な情報社会である。
だがそこでは、「人間の機械部部品」「人間の情報処理単位化」が猛烈なスピードですすんでいるのではないか。
またそういう自分に倒錯的快楽をおぼえる人も増えてきた。
人間が取り替えのきく機械部品とみなされるとき、自由だの平等だのといったお題目を唱えても虚しいのである。
これは、一部の強者が多くの弱者を抑圧するという昔ながらの問題ではない。
万人を抑圧し、万人をロボットやサイボーグに変えていくという新たな問題なのだ。
20世紀の知のありかた自体の中に、そういう方向性があるのである。
具体的には、意識、合理性、客観的な論理を何より重視する知が、世界を支配してきた。
急速なIT(情報技術)の発展と、これによる社会の効率化はその象徴である。
その有用性自体を否定するつもりはない。
だが一方で、悲鳴をあげているのは「生命」そのものだ。
生物は、無意識、非合理的な直感、身体で突き動かす情動や感情と共に生きているのである。
それらがリアリティを支えている。
人間も生物である以上は、それらを根こそぎ奪われたらどうなるだろうか。
そのあたりを真剣に考えずに、経済発展のためだけにIT立国をとなえるなら、日本列島はますますウツ気分の暗雲におおわれていくだろう。
生物は、無意識、非合理的な直感、身体で
突き動かす情動や感情があるのだというのが
今は手薄になっているような、現代社会。
この指摘は鋭いと思うか、当たり前じゃんと
思うかで意見は分かれるだろうが
もちろん自分は前者でございます。
まえがき から抜粋
「知とは何か」という問いかけは、決して、暇つぶしのペダンティックな質問などではない。
むしろ、命がけの生の実践に関わる問いかけなのだ。
それを象徴するのが、2012年10月、イタリアで地震予知を失敗した学者たちにくだされた禁錮6年の実刑判決だった。
この判決に対しては、世界中の自身学者はじめ、多くの人々から抗議の声が沸き起こった。
科学者の発言責任が刑事罰で問われれば自由な議論ができなくなり、ひいては科学の発達が妨げられるというものである。
だが、犠牲者の遺族達はこの判決を歓迎したという。
科学的議論は自由であるべきだというのは近代の原則だとしても、専門家の発言が権威を持ち、人々の運命を左右する影響力を及ぼすとき、そこに責任は生じないのか。
そんな感想が出てきても不思議ではない。
これは海の向こうの話ではないのだ。
3.11東日本大震災、そして直後の原発事故に関連して、同様の思いをいだいた人は少なくないだろう。
つまり、「専門家の権威」に対する一般の人々の信頼がゆらいでいるのである。
かわりに注目されているのが、一般の人々の意見を集める「集合知」である。
とりわけ、ウェブ2.0が登場して誰でもネットで発言できるようになって以来、「ネット集合知」への期待が高まっている。
高学歴社会のいま、これは魅力的な仮説である。
ネット集合知は、21世紀IT(情報技術)のもっとも重要な応用分野となる可能性がある。
とはいえ、ただみんなの発言を機械的にあつめ、集計すればよいわけではないだろう。
ネット集合知が有効性を発揮するための条件とは何か。
客観的な知識命題と、主観的な利害や感情との調整はどうするのか。
そんな具体的問題を考えていくと、われわれは厭でも「人間にとって、知とは何か」という、いっそう根源的な問題に突き当たる。
あとがき から抜粋
大学で教えるようになって、もう30年近く経った。
近ごろとくに気になるのは、若者達がせっかちになり、手っ取り早く唯一の正解をほしがることだ。
けれども、世の中には、正解など存在しない問題が多い。
20世紀は、専門家から天下ってくる知識が、「客観知」としてほぼ絶対的な権威を持った時代だった。
それが全て誤りだったとは思わない。
今後も専門知は、それなりに尊重されていくべきだろう。
とはいえ、21世紀には、専門知のみならず一般の人々の多様な「主観知」が、互いの相対的な位置を保って交流しつつ、ネットを介して一種のゆるやかな社会的秩序を形成していくのではないだろうか。
それが21世紀情報社会の、望ましいあり方ではないのだろうか。
なぜなら、個々の血のにじむような体験からなる、繰り返せない主観的世界こそ、生命体である人間にとって最も大切なものだからだ。
コンピュータやサイバネティクスとつきあい始めて40年あまり、これが、情報学者として私のたどりついた結論である。
中村桂子・村上陽一郎先生との対談で
初めて存じ上げたのですが
自分もネット経験20年以上なので
リンクするところも多々あり興味深い内容。
中垣先生の、IT全般、AIに対する捉え方など。
表現も独特でユニーク。
「社会全体のメガマシン(巨大電子機械)化」や
「集合知」とは言い得て妙だなあと感じた。
それとは別に「専門家」についての
現代での認識は、池田清彦先生も論じてたことと
「クオリア」は、茂木健一郎先生の言説と
合わせて研究してみたいと思いつつ
そんな時間があるのかよ!と思ったりも
している雨模様の関東地方でございました。