柳澤先生ご夫婦の書籍から人格形成を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
シンプルで美しい装丁に惹かれて購入、
寝る前に拝読し、
本当に豊穣な時間でございましたよ。
レイチェル・カーソン『沈黙の春』から抜粋
この時期に読んだ本のなかで特筆しなければならないのは、レイチェル・カーソンの『生と死の妙薬』(新潮社、1964年、のちに『沈黙の春』と改題)でる。
書き出しから詩的で、しかも私たちの運命を予言していて、すばらしかった。
内容はかなりむずかしく、化学の知識がないと読みにくいのではないかと思った。
水も漏らさない論理の進め方、説得力のある推理など、私が『キューリー夫人伝』の次に感動した本である。
DDTが突然変異を起こすという箇所は私は疑問を持ったが、大筋において、これはすごい本だと思った。
子供というのは、生まれたときは手がかかるが、人生全体を通してみると、それはほんの短い期間である。
やがて下の子が幼稚園の年長組となり、誰か留守番と家事をしてくれる人を頼めば、私も外へ出られるようになった。
それに私は、専業主婦としては落ちこぼれであった。
毎日くりかえす単調な仕事に耐えられなかったのである。
これは家事が単調というのではなく、私のやり方が単調だったということで、家事自体には、変化もあり、おもしろいこと、打ちこめることがたくさんある。
現にそれを楽しんで生きている人もたくさんいるのである。
6 研究者として から抜粋
ちょうど運良く、
「三菱化成で東京の研究所を建てるのでこないか」
と慶應大学時代の上司であった三宅端(ただし)先生が声をかけてくださった。
その研究所はは私の家から車で30分くらいのところにあり、何でも好きなことをしてよいという。
私はまだ迷っていたが、専業主婦は私には向かないことがわかってきていたので、思い切って採用試験を受けてみることにした。
採用試験で社長をノックアウト
から抜粋
この選択はまちがっていないかと、試験が始まっても悩み続けた。
入社試験の社長面接がおかしかった。
名前を呼ばれてなかに入ると、10人ぐらいのお年寄りが並んで座っていた。
私はその前に座らされた。
社長が真ん中らしいので、私は社長のまん前であった。社長がます口を開いて、
「お母ちゃんはねえ、家でまんま炊いているのが一番幸せなんだよ」
と言った。
そのときになっても、自分の選択が正しいかどうか迷っていた私から、自分でも思わないことが口をついて出た。
「母親が働く姿を子供に見せることはいけないことでしょうか」
自分でも驚くほど落ち着いた静かな声だった。
その瞬間に社長は、机の上に手を伸ばして倒れ伏した。
起きあがる気配はない。
両側の副社長が、社長の肩に手を置いて、
「社長、私たちはもう古いんでしょうか」
「私たちがまちがっているのでしょうか」
と聞いている。
社長はノックアウトされたままなので、人事課の人が私に外に出てもいいと合図をした。
それでも私は合格になった。
試験に合格してしまったので、いかざるを得なくなった。
すごいエピソードだなあ。
ここからまた研究者として勤務され成果を
上げながらも体調を崩し休職、退職となり
生きるとは何か、まで考えざるを得なくなる
柳澤先生の長い旅が始まる。
まだ男女雇用機会均等法が始まる前か?
面接の社長の言葉も驚愕の野蛮さだけど
それを冷静に切り返す柳澤先生もすごい。
そして合格を出す会社も偉いというか
すごいというか。
当時のお偉いさんたちも
結果的に現実を真摯に受け止めたといえる
姿勢は知性が高い対応だなあと言わざるを得ない。
昨今でも、知性が低いお偉いさんたちって
多そうだものねえ、って
批判じゃないですよこれ、
経験からのファクトですので。
10 私の本の読み方 から抜粋
線を引き、付箋を貼るーーー精読型
私は、「たくさん本を読んでいますね」とよく言われる。
しかし、私はいつも読書量が足りないという劣等感をもっている。
今回、こうして私の読書について振り返ってみると、私は精読型であることがわかった。
読んだ本はどれも汚く、線を引いたり付箋を貼ったりしてあって、ひとさまに見せられないようなものになってしまう。
付箋はいろいろな色の「ポスト・イット」を使う。
線はシャープペンシルで引く。
凝り性で問題指向型
このところ必要に迫られて本を読むばかりで、楽しむために読む時間がないので残念に思う。
けれども、20代、30代のような旺盛な読書欲はない。
読むものの質も変わってきている。若い頃のように恋愛小説のページを繰るのももどかしいということはなくなった。
静かな本ーーーメイ・サートンのものなどが気に入っている。(『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』(1993年)『今かくあれども』(1995年)など)
また、私が本を読むときは、問題解決に向けて読んでいることが多いのにも気がついた。
したがって、一つの問題にたくさんの本がある。
一つの問題に関して、徹底的に読まないと気がすまない。
ときには、翻訳の本ではよくわからないので、原書を取り寄せたりする。
凝り性である。
だからたくさんは読めない。
問題指向型だからといって、その他の本を読まないかというと、そういうことはなく、小説も読む。
かつては、一人の作家のものを読み出したら、手に入るもの全てを読まないと気がすまなかった。
ここでも凝り性があらわれている。
途中で読むのをやめるとき から抜粋
けれども次第に時間が限られてきて、そんな贅沢はしていられなくなった。
あとどれだけ生きるか知らないが、この地球上にある優れた本をほとんど読まないで死んでしまうのが心から残念である。
かつては、できるだけ活字が小さくて、重い本を買うと得をした気分になって、隅から隅まで読んでいた。
しかし、この頃は、時間の方が貴重になって、読み始めてつまらない本だと思うと、高い本でも読むのをやめてしまう。
若い頃には考えられなかったことである。
一方、非常におもしろい本でも、その人のいわんとすることが分かったら、さっさとそこでやめてしまうことがある。
どなたが言われたか忘れたが、「刀の振り方さえ分かればよい」のである。
時間との競争である。
それでいて、年をとると、ぼーっとしている時間が必要になる。
神経が疲れるのであろうか。
最近、読書の速度が落ちたと思う。
集中力も減った。
一番早く読め、吸収もできたのは、20代、30代であった。
まだ若いみなさんは、その能力がいつまでも続くとは思わないで、時間をたいせつにしていただきたいと願う。
本の世界とは何と広く深いのであろう。
私は、今は外出できなくなってしまったが、かつては、本屋さんへ行くのが大好きだった。
本屋さんの入り口に立って、中から匂ってくるあの紙の匂いが何とも言えない。
おいしいごちそうを前にしたときのような至福の時間である。
柳澤先生の読書術を拝見すると
自分も納得してしまうこと多かった。
本屋さん好きってのも同じだなあと。
あとがき から抜粋
人間の人格は遺伝子と環境できまる。
読書は環境の大きな要因である。
文章を読むごとに脳のなかに新しい神経回路ができるはずである。
その回路の密度は、その人の読書量や読み方によって変わってくるであろう。
もちろんできる回路も人によってちがう。
私は研究者であった頃、よく論文を読んだ。
そして、
「論文の読み方は個性的でなければならない」
というのが私の持論であった。
自分が何を研究し、どのような問題を解こうとしているかということによって、論文の読み方の視点が違うはずである。
私はマウスの発生遺伝学を研究していたが、読む論文は、マウスを材料にしたものにかぎらず、細菌からショウジョウバエや線虫まで、いろいろな材料をあつかった論文を読んだ。
また発生学や遺伝学ばかりでなく、生態学の論文などのタイトルだけでも読むようにしていた。
こうした材料がたくさんあると、アリエティのいう三次過程への超越が起こって、新しい発見につながるのである。
よい発見のためにはよい論文からの知識が多い方がよい。
一般の読書についても同じことがいえるのではなかろうか。
個性的な読書は個性的な精神を生む。
時代は個性的な人間を要求している。
そのような意味で、個性的な読書をしたいと願っている。
遺伝子を縦糸とすると、環境は横糸である。
そこに織りあげられる布は遺伝子の経糸と環境の横糸が混じり合って美しい色になるであろう。
出来上がった布の善し悪しより、布を織る過程が楽しいのだ。
「なぜだろう」と思う。
本を検索する。
自分の納得のいくまで本を漁る。
そして、
「これだ」
と思う答えにいきつけたときの喜びは実験における発見とおなじ喜びをもたらしてくれる。
三次過程への超越である。
このようにして精神は成長していく。
いつもながら深くて素敵でございます。
人格は遺伝子と環境、ということで
看過できない題名の書籍でもあり、
興味があったもので
ご主人の書籍も拝読。
性格は顔では読めない
以前、ニューヨークに住んでいたとき、ビザの延長や税金の申告などで、しばしば役所に出向くことがった。
これが実に気が重い。
役所のホールに入ると、そこには受付机が並べてあって。何人もの担当者が座っている。
そしてその前には、ビザの延長申請類をもった人たちが列を作っている。
私はまず、担当者の顔をひと渡り見渡して、私の下手な英語でも辛抱強く聞いてくれそうな人、親切そうな人を探す。
そして、この人ならとあたりをつけたら、多少その前の列が長くても、その後ろにつく。
ところが、その顔判断が当たらないのだ。
人の性格判断は、相手と時間をかけてゆっくり付き合い理解していけば、そう難しいことではない。
だが、初対面で、相手の性格を読まざるをえないときもある。
そんなとき、人はどうするのだろう。
多分、顔や態度で判断しても当たらない、と思いながら、多くの人はそうしているのに違いない。
私が今も不思議に思うのは、人の顔には、誰が見ても善人そうに見える顔と、悪人風の顔があることだ。
しかも、その評価の基準が世界的に共通していることである。
これは外国映画を見ているとよくわかる。
ただ、映画通の友人に言わせると
「悪役に悪人なし」だそうである。
第八章 利他性はどこからくるか
ヒトは利他的である から抜粋
市場資本主義の中心といわれるウォール街では、
「他人のことは構わずに、ひたすら自分の利益だけを追求すれば経済は、自然にもっと望ましい状態となる」
と言い、そんな自分たちを正当化するために
「ヒトが利己的なのは科学で証明されている」
と主張する。
本当だろうか。
科学のために弁明すれば、科学はヒトが利己的なことなど証明していない。
たしかに、生態行動学者たちは
「動物の行動はすべて利己的である」
といっている。
だがそれは、だからヒトの行動もまた利己的であるといっているわけではないし、そんなことを証明してもいない。
彼らが動物の行動はすべて利己的であるというのは、彼らの研究の中でも考え方であって、私たち世間の話ではない。
なぜかというと、まず、研究者たちのいうところの
「利己的」「利他的」
という言葉は、私たちが日常使う利己的な、利他的という言葉とは、その意味も内容も違うからである。
彼らのいう利己的、利他的は学術用語であって、利他的とは
「自分の生存や繁殖を他のものより高めること」
であり、利他的とは
「自分の生存や繁殖を犠牲にして、他のものの生存や繁殖を高めること」
である。そう定義されているのだ。
一方、私たちのいう利己的は、自分の利益だけを追求して、他人をかえりみないことであり、利他的とは他人のために、利益になることをしてやることだ。
研究者たちのいう利己的、利他的は、思いやりの有無などではなく、生存繁殖率の高さや低さを指しているのである。
さらに、動物の行動はすべて利己的であるという彼らの言葉は、彼らが研究対象とする社会性昆虫、アリやハチなどの利他行動を、進化論との関連から考えて、その説明のために得られた結論で、ヒトの社会を対象にした研究結果からではない。
社会性昆虫の世界から目をうつして、動物たちの行動を広く見ていると、親ネコが子ネコを救うような、同じ遺伝子を共有するもの同士だけでなく、共有しない仲間同士でも互いに助け合っている。
この現象を、研究者たちはどう説明するのだろうか。
彼らはそこで互恵的利他行動という概念を導入した(Robert Trivers,1971)。
それは、動物たちは利己行動だけでなく利他行動もするが、それは一方的な助けではなく、互恵的な助け合いである、というものだ。
お前を助けてやるから、お前も俺を助けてくれという、お互いにとって利益のある助け合いだから、進化の過程で淘汰されることはないだろう。
そんなわけで、研究者たちは、動物たちには利他行動は見られるが、それは見返りを求めていて、見返りのない利他行動はしないのだという。
しかし、ほんとうにそうだろうか。
私がみるかぎり、動物にも、見返りを求めない利他行動があると思われる。
同じ仲間同士ではない、種の異なるもの同士では、見返りは求められていないだろう。
たとえば、空堀に落ちた少女を助けたゴリラや、見知らぬ観光客を背に乗せて走ったゾウが、見返りを求めていたとは思えない。
そのゴリラやゾウは、毎日やってくる動物園の観客や観光客たちに、仲間のような親しみを覚えていた、ということはあるかもしれない。
観客や観光客を自分がもらえる餌と関係があると、感じていたかもしれない。
けれども、それだけのことで、見返りを求めていなかっただろう。
見返りを求めない利他行動はあるのである。
第九章 利他的な遺伝子
利己から利他へ から抜粋
子供たちの行動はすべて、遺伝と環境(教育)の掛け算的な結果から生じてくる。
掛け算的というのは、その一方が欠ければ、結果は何も生じてこないということである。
子供が、どんなに優れた知能や深い思いやりをもって生まれてきても、教える環境が劣悪なら、良い結果は決して期待できない。
すべての知識と同じように、社会のルール、道徳や倫理もまた、年長者が教えてはじめて、年少者は知ることになる。
もし、この教育がしっかりとなされないなら、社会はまともに存続しないだろう。
では、それぞれの社会に特有な慣習、規範は除き、どこの社会にも共通して存在する道徳的規範のなかで、最も肝心なもの、最初に教えるべきものは何だろうか。
それは「公正さ」と「思いやり(利他的)」である。
社会に共通する道徳的規範には、大切なものがたくさんあるが、「思いやり」もそれほど大事だろうか、という人もいることだろう。
だがこれは、古来、人が守るべき、もっとも重要な徳目とされてきたものだ。
孔子はそれを「仁」という言葉で表し、釈迦は「慈愛」という言葉で、キリストは「愛」という言葉で、それぞれ、その大切さを説いた。
「思いやり」は徳である。
人徳のある人、人格者とよばれる人はみな、「思いやり」のある人である。
私たち大人は、この二つの道徳規範を、これから社会を担っていく子供たちにまず一生懸命、教えるべきである。
大乗仏教では、困っている人や苦しんでいる人たちを助けることだけでなく、人を教え導くこともまた、大切な利己的な行為だと説く。
後進に道を教え、後進を導くこと(教育)自体が利他的な行為なのである。
書籍タイトルはあきらかに
ドーキンスを意識されている。
内容も挑戦的で、アメリカを知っていて
生物学者の著者ならでは。
自分はドーキンスも全部は読んでないけど
どちらかといえば好きだし、
他学者先生の書も好きで混乱してくる所も
なくもないけれど、そこはライトに考え
今は読書って素晴らしいなあ、とか
子供や若い人も読んでほしいなこれとか
自分も意識したいなあとか
思っているところでございまして
妻も仕事がない日だったので二人で
中華ランチを楽しみつつ、
昨今地震が多いので心配な
今日この頃だったりします。