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立花隆さんの「対談」から洋の違いを考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

 


連発しております立花隆さんの書にて恐縮です。


対話者にも興味がありまして


多田富雄さんや日高敏隆さん河合隼雄さんたち。


全般的に難しい内容だったけれど


日高さんのドーキンス話からの文化論が


今は響いたのでした。


 



マザーネイチャーズ・トーク

マザーネイチャーズ・トーク

  • 作者: 立花 隆
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日:  1993/12/1
  • メディア: 単行本

Talk2 ナチュラル・ヒストリーのすすめ


対話者 日高敏隆 動物行動学者


『利己的な遺伝子』から抜粋


 


立花▼

ドーキンスの『ザ・セルフィッシュ・ジーン』(邦題『利己的な遺伝子』)は日高さんがお訳しになったんでしたね。

 

日高▼

共訳ですけれどね。

 

立花▼これはどういうストーリーなのか、ごく簡単に説明していただけますか。

 

日高▼

われわれ人間を含めた動物を見ていく場合に、「個体」というのが一つの基盤になっているわけです。

しかし、その個体は実は遺伝子を生き残らせるための機械で、主役は遺伝子なんだというんです。

遺伝子の乗物(ヴィークル)」という言い方をドーキンスはしている。

遺伝子は、自分のコピーが生き残って増えていってほしいと願っている。

そのためには自分が乗っている乗物=個体がうまく育ち、子供をたくさん作ってほしい。

で、個体を一生懸命操作してうまく生きるようにしてやっているんだという話です。

考えてみれば、はかない話なんですね。

仏教の無常観に通じるような……。


立花▼

遺伝子っていうのは、物質的にはどんどん交代していくわけですね。

 

日高▼

そうとう激しく、常に交代しているでしょうね。

 

立花▼

そうすると、遺伝子が生き残るというときに、実際に何が生き残るのかというと、物質的にはどんどん新陳代謝して別のものになっていくわけだから、結局、継続して残るのは遺伝子が伝える情報だけなんですね。

そうすると、自己保存メカニズムを持つ情報が遺伝子だということになる。

遺伝子の仕組みというのが、どういうふうに生まれたのかは、結局よくわからないけれども、あるとき突然自己保存システムを作り出した情報が現れたわけですね。

 

日高▼

でしょうね。

しかしよくいろんな起源の話をするでしょ。

その場合、起源というのが本当にわかるんでしょうかねえ。

時々非常に疑問に思うことがある。

 

立花▼

生命の疑問を実験的に研究している人に聞いたことがありますけれども、起源全体のほんの一部について、単なる机上の理論でないことが、ある実験事実として、やっと何かある程度わかってきたのかなという感じですね。

しかし、生命の起源のワン・プロセスというのが何百万年という単位でしょう。

それを実験室でもう一回やってみると言ったってそれだけの時間はかけられないから、何百年間を、たとえば一週間なら一週間に凝縮するために、いろんな要素を濃縮してギュウッと詰め込むという方法をとる。

そういう場合、量が質に転換する可能性だってありうるわけですね。

 

日高▼

結果的に、違ったことをやっているかもしれない……。

 

立花▼

ええ、ああいう本当に歴史的に起きた現象で、しかも再生不可能なものは、やっぱりちょっと科学の範疇の向こう側にあるんじゃないかって気もしましたけれどもね。

(略)

ドーキンスに話は戻ると、実は僕はあの本を読んで、もう一つわからないことがあるんです。

例えば、個体が老いた場合、死んだほうがその遺伝子にとっては得になるんだという説明がありますね。

要するに子供、孫の世代にどんどん乗り換えたほうが、自分の遺伝子が生きる確率が高いからだという。

 

日高▼

ええ。

 

立花▼

だけど、死んで下の世代に遺伝子の再生産の作業を譲ったら、子供で二分の一、孫で四分の一って、親の遺伝子はどんどん減っていっちゃうでしょう。

反対にどんなじいさんになっても、引退しないで一生懸命ガンバって、若い女を相手にしてどんどん遺伝子の再生産をやれば、二分の一づつ再生産できるわけだから、遺伝子のサバイバル戦略としては、そのほうが得だってことにはならないでしょう。

 

日高▼

生殖できる間はね。

でも、できなくなってもまだ生きているわけですからね。

そうなると、やっぱり、子や孫と食糧資源だとか、空間資源を奪い合うというよりは死んだほうがいいということになるはずですよね、遺伝子にとってはですよ。

 

立花▼

要するに何でも遺伝子のサバイバル戦略なんだとドーキンスは言うわけですね。

だけどそのサバイバル戦略をになっている主体の遺伝子というのは何なんだと言う問題がありますね。

ゲノム()なのか、それとも個別の遺伝子なのか。

個別の遺伝子にそういうサバイバル戦略を支えるメカニズムがあるかと言ったら、ない。

DNAの自己複製メカニズムはあるけれど、それは盲目的に自己複製するだけで、個体の行動を通して発動される戦略なんてものとは関係がない。

ではゲノムなのか。

ゲノムには、確かに生存本能というか自己保存本能が組み込まれているだろう。

だから自己自身の個体を生き残らせるようには行動する。

だけど死んでしまったら、ゲノムにとってはそれで一巻の終わりですよね。

ゲノムは個体と運命共同体だから絶対にサバイバルできない。

ゲノムを構成していた個別の遺伝子は、二分の一の確率でバラバラに生き残るチャンスがある。

でももし生き残ったといっても、別の個別遺伝子と一緒になって、別のゲノムに再構成されて生き残るだけですね。

別の主体になってしまう。

いってみれば、バラバラの遺伝子というレンガでできた建物を壊して、別のレンガと寄せ集めて別の建物を作るみたいな話ですね。

ドーキンスは遺伝子という言葉で、あるときはゲノムを意味させ、あるときは個別遺伝子を意味させ、両者をうまく混同させてしまうから、つい話にのせられてしまうけれど、よく考えるとおかしい。

個体は自己の遺伝子を残したがるなんていうけれど、このバラバラのレンガのレベルまでいったら個性なんてないですよ。

もともとそれは人全体が共有している遺伝子プールから適当に抜きだされたレンガなんだから、これは俺のものだなんていうのはおかしな話です。

だいたいこのレベルで比較したら、人と人の遺伝子なんてほとんど同じです。

人とチンパンジーだって、大部分が共有されているくらいですからね。


=遺伝子Geneと染色体chromosomeの合成語で、生活活動に必要なすべての遺伝子を持った染色体の1セットを指す。

ヒトの場合、約30億塩基対のDNAで構成。米国に2年遅れて日本でも、91年から政府のヒトゲノムプロジェクトがスタートした。


日高▼

自分の遺伝子なんて言い方をするでしょう。

あれは、相当特殊なものを言っているわけですね。

で、非血縁種にはそれがないという前提でしょう。

ないかどうかわからないですよね、そんなことは。

だから、確かにあやしいところはあるんだけれど、それでも面白いストーリーではあるわけで、しかも前の人はそれを考えてこなかった。

そこを評価したいんです。

 

立花▼

結局読んでいて思ったのは、二分法的にどんどん論を進めちゃうでしょう。

どの行動でも、それはサバイバル戦略にプラスかマイナスかということでね。

しかし、現実には、プラスでもマイナスでもない、中立的な行動が生物の行動の大部分を占めている。

ある行動がずっと受け継がれて残っているというのは、サバイバル戦略にとってプラスだったからという場合ももちろんあるだろうけれど、中立的だから残っていることも大いにあるんじゃないか。

 

日高▼

結局西洋人というのは、非常にはっきり議論を持っていきますからね。

 

立花▼

ただ、こっちから見ていたものを、今度は裏側から見せてくれる、という面白さは確かにありますね。

 

日高▼

ドーキンスって人は、会われたことがありますか。

 

立花▼

いや、ないです。

 

日高▼

日本に来たことがあるんですよ、シンポジウムがあって。

その時に彼は前の講演者の話をずっと聞いて時々メモをとっているんですね。

「何のメモをとったの」ってきいたら

「どのスライドを借りるかということだ」と。

自分は一枚しか持ってきてない(笑)。

自分の番が来ると

「これはドクター誰それから借りたスライドだ」

と言って、それに彼自身の説明をつけていくんですね。

そのとき今言われたようなことを言っているんです。

ネッカー・キューブですか、立方体の絵がありますよね。

こっちが出っ張って見えるけれど、じーっと見ていると逆にへこんで見えるという。

自分の話はそれと同じようなものだ。

これによって事実は何も変わらない。

物の見方がまったく逆になるということなんだ。

それだけの話である、と。


ドーキンス氏の来日されてた時のエピソード


興味深い。


ネッカー・キューブって言い得て妙。


さらにスライドを借りようとメモって


ものすごい合理主義の香りがする行動。


スライド(ドキュメント)って


プレゼンする時に


ものすごく大事にする人と


そうじゃない人っているけど。


知的に説得しようとしたら前者だよなあ。


文字だけのドキュメントとか


表現力にセンスを感じられないドキュメントで


熱意だけでしゃべられても


胡散臭いもの。


って好みに分かれるところなので


否定はしませんけれど。


日高▼

西洋人には、どうせ神様の前では人間はみな不完全なんだから、しょうがない、自分は神様じゃないというような、どうもそういう文化があるんじゃないですかね。

ところが日本人は、そういう神様がいないものだから、自分が神様になろうとするところがあって、「ここのところはよくわからないし、こちらの方もありますが、こういうものもあるんです」とかね。

それで、聞いた方は「一体あなたは何が言いたいんですか!」ということになちゃうんですよ。

学会なんかでよくあるんですけれども、「それはこういう結論ですか?」と聞かれて、「いや、私は、そういう大それたことは申しません。こういう事実を述べているだけです」というわけです。

しかし僕は、これは最も謙虚じゃない態度だと思いますね。

大体事実なんてものが、ほんとうにあるかどうかわからないはずでしょう。

本人がそう思ったものを言っているだけの話なんだから。

それより「私はこういうことではないかと思います」と言ったほうが、ずっと謙虚になる。

その辺りのことが、日本人と西洋人の場合、全く反対になっているようですね。

 

よく笑い話をするんですけれども、フランスで家に招かれて行くと、テーブルに花が生けてある。

「この花は綺麗ですね」と僕が言ったら、なぜだと聞かれたんです。

これは一瞬詰まりますね(笑)。

仕方ないから、花の取り合わせがいいとか何とか言って。

で、また別の家に行ったときに、また「なぜだ」と聞かれたんです。

三軒くらいそれをやられたので、三軒目のときには

「何軒の家で、僕がそう言ったら、なぜだと聞かれたけれども、そういうふうに言うのはなぜだ」と聞いたんです。

そうしたら向こうが困っちゃってね。

「よくわからんけれども、おそらく自分は神様じゃないから、断定的に”これは綺麗だ”と言ってはいけない。そういう権利はないんだとみんな思っているんじゃないか。こうこうこうだから、自分は綺麗だと思うふうに言わないといけないと思っているんだろう」

というんです。

 

立花▼

外国の美術館なんかに行くと、必ず美術館の専門家のガイドによる館内ツアーがあって、ガイドが何人もの客を率いて、この絵はどこがどういうわけでいいのかという解説を延々やって、みんな熱心に聞いているでしょう。

日本人っていうのは、どちらかというとそういう解説を聞くよりただ素直に鑑賞しようという感じがありますね。

その辺のメンタリティは、本当に違いますね。

 

日高▼

ヨーロッパの田舎で井戸端会議を聞くでもなく聞いていると、「なぜ」とか「なぜならば」という言葉が必ずたくさん聞こえてくる。

日本ではそんなことはないですから。

……いま突然思い出したんですが、アリストテレスの『動物誌』()なんかでも、とにかく「なぜならば」という言葉が、むちゃくちゃに多いですね。


=自然が元来、身体などにおいて階層をなしているように、動物界にも階層が存在することを著し、人間は動物の中で最も神に近いとされている。


立花▼

東洋で発達したナチュラル・ヒストリーと西洋で発達したナチュラル・ヒストリーが相当違うというのは、その辺りのことも関係してくるんじゃないですか。

 

日高▼

東洋では「なぜ」という発想があまりないんですね。

アリストテレスの『動物誌』にワニの話が出てきましてね。

ワニが水の中でしばしば口を開けるけれども、普通の動物は下顎が、こう下がるものなのに、ワニは上顎が上へ動くって書いてある。

そこは実はヘロトドスの『歴史』からとっているんですがね。

それでやめておけばいいのに、

「なぜならば」

と来るんです。

「ワニは。ほかの動物とは上顎と下顎が逆さまについた動物だからだ」

「そうすると、舌は上顎についているはずである。ところがワニでも舌は下顎についている」

「なぜならば、そうでないと呼吸に困るからである」。

 

本当はね、ワニも下顎が下がるんですよ。

ところが、そうしながら頭を持ち上げるもんですから、下顎が動かないように見えるんで、上顎を上げたように見える。

 

立花▼

なるほど。

 

日高▼

「なぜならば」という説明は、全部うそになるんです(笑)。

 

立花▼

動物学の歴史には割合そういうのが多いですね。

 

日高▼

いや、物理だって何だって、そういうのは、たくさんありますよ。


ええ?ええええ?


日高さんってユニーク!面白い!


 


余談だけど80年代、


画家の横尾忠則さんの随筆に


宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の中に


「なんで来たのか?」と聞かれ


「来たいから来た」と答える場面があり


それが本当だ、として東洋の在り方を考察されてた。


そして「なぜ」を繰り返して結果的に


西洋は原爆を作ってしまったのではないかと。


 


全くの余談、この対談が掲載されていた


雑誌「マザーネイチャーズ」は


7号で廃刊してしまい、趣向を変えた


「シンラ」という


雑誌に変貌したようで。


であるならば、若かりしデザイナー時代、


新聞広告のデザイン制作で


シンラ(SINRA)」一、二度担当しましたよ


90年代に。雑誌は2000年まで発刊されてたのか。


ってのは言いたいだけの昔話でした。


 


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