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立花隆さんの「対談」から文明を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

生、死、神秘体験 (講談社文庫)


生、死、神秘体験 (講談社文庫)

  • 作者: 立花 隆
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/05/15
  • メディア: 単行本

 


第2章

生と死のパラドックス[対話者]荒俣宏


■立花

先日、イギリスへ行ってきたんだけど、そのときにコリン・ウィルソンに紹介されて、おもしろい人物にあったんですよ。

「いまの人間の葬り方は間違っている」と彼は言うんです。

人間が死んだあと、その死体を焼くのはもったいない、焼けば公害は起きるしエネルギーも使う。

これはエコロジーに反する。

いちばんいいエコロジカルな人間の葬り方は死体から堆肥(コンポスト)をつくることだと言うんですよ。

 

■荒俣

死体をリサイクルするんですね。

でも生命って、生きているだけじゃなく死ぬことも重大なんですよ。

全生物の生存システムを支える主要な食糧の一つは、生命それ自体なんですから。

 

■立花

その人は前から有機農法みたいなことをやっていて、堆肥作りの運動もやっていたんです。

堆肥って、日本だと生ゴミからつくるけれど、本当は、植物質に適度な量の動物質を混ぜると最良のものができるらしいですね。

彼はもともと、牧場とか食肉処理場で出る動物質のものを利用して、そういう非常に良質な対比をつくっていた。

それがある日、地元の新聞で自分はもうすぐ死ぬという人からの投書を読んだそうです。

人間は最期はいかにして死ぬべきかみたいなことが書いてあった。

彼は突然ピンときて自分も投書した。

人間が最も有効に死ぬためには、自分の体を土に戻して堆肥になるのがいちばんいい。

死体を切り刻んで、堆肥の発酵槽に入れて、いい堆肥をつくって畑にやる。

これを称して、コンポスト葬(堆肥葬)と彼はいうわけです。


しかし実は、コンポスト葬はアイデアができただけで、技術開発はまだなんです。

それで、すぐ人間でやるわけにはいかないから、とりあえず動物の死体でコンポストを作る技術を開発しようと、実験的なプラントをつくりはじめたところなんだそうです。

だから僕もその技術ができたら、その方法でお願いしますと言ってきた(笑)。


■荒俣

土に還れば、草ものびるし。

(略)

だいたい死についての考え方というのは、生の方を中心に考えられているわけですね。

でも、自然界にあってはごく少数の生きている生物が、それ以外の非常に大きな死によって支えられている構造になっている。

僕がおもしろいと思うのは、ダーウィンが進化論を考えるようになった原因に死がかかわっている、という点です。

一般的に見れば進化論は「いかに生きのびたか」を問題にしている説だと考えられていますが、実は発想の出発点は「なぜこんなに多くのものが死んじゃうんだろうか」ということなんです。

彼のおじいさんのエラズムス・ダーウィンは、「死ぬのが生物の仕事」といつも言っていて、たぶんそれが孫の発想に影響したんですね。


「死ぬもの」が「生きているもの」を支えている


から抜粋


■立花

荒俣さんは、ダーウィンの『ビーグル号航海記』を翻訳していますね。

 

■荒俣

ええ、その中でダーウィンが南米大陸に行ったら、そこにはウマや巨大な哺乳類、大きなナマケモノなどの骨がゴロゴロあって、それこそ化石の銀座みたいな場所だったというところがあるんです。

自然は豊かなのに、一万年くらい前まで棲息してたウマなどが全部死に絶えている。

なぜこんなにたくさん死ぬのか、なぜ種が全滅しちゃうのか。

それが大きな疑問となって、もしかしたら死ぬ理由があるんじゃないかと考えはじめた。

その結論が自然淘汰説なんです。

つまり彼が考えたのは、生物はいろいろな災害や環境の変動に備えて、あらかじめ「死」を織りこんで生命の全体数を生産しているのではないかということだったわけですよ。

魚が何億も卵を産むのは、大量に死んでもある数字を残すという戦略があるからで、そうでなければ、あんなにたくさん子供を産んでも仕方がない。

生物の多様性(バラエティ)についても同じことがいえる。

だからなぜ大量死が必要なのかというところを問い直せば、逆に生物の生きる戦略というか、進化が明確にわかってくるに違いないと考えたんです。

そこで思いついたのが、「死ぬもの」は「生きているもの」を支えている、そういう考え方でした。


自然淘汰というと、種内とか種間競争があって、弱いものが負けて適者が生存することだと考えられています。

「負ける」という言い方だからなんとなく競争と思ってしまうんですが、考えようによっては「お前は生きなさい」と死ぬほうが生き残る方に譲っているともいえる。

にもかかわらず、時代が経つにしたがって、ダーウィンの考え方の中の「生きるための闘争」という側面だけに光が当てられ、大きく発展を遂げてしまった。

それが、実はいま、我々の生死の問題にもかかわってきている。

たとえば、ダーウィンの説を利用した病理学者に博物学に転じたE・メチニコフ(1845〜1916年)という人がいるんです。


■立花

人間の体内を一つの生態的なフィールドとして、体内の生存競争を唱えた人ですよね。

 

■荒俣

ええ。この人が出てから、死や病気の概念も変わった。

それまでは、人は体が衰弱したり、事故に遭って死ぬとなっていたけれど、彼は個体内にダーウィンの考えを全て当てはめ、体の中で白血球の集団と細菌の集団が闘っていて、白血球が負けると細胞全体の大量死=個体の死になるとした。

このイメージって、まさしく大量死から種の絶滅にいたる光景でしょう。

われわれは自分の死を、たとえば脳死とか心臓停止のレベルで考えてますが、メチニコフは種の絶滅というレベルで個体の死を考えた。

これはすごい考え方で、結果として、個体の死の問題と種の絶滅の問題がつながっているという最大の幻想をつくりあげてしまった。


その結果、死ぬことは生存競争に負けることだという概念になってきて、みんななんとか死に勝たなければいけない、科学から哲学からよってたかって死をいかに遠ざけるかということになってしまった。

ダーウィンやメチニコフ以前は死について、ぜんぜん違うとらえ方をしていたと思うんです。

むしろうまく死ぬとか、キリスト教でいえば死んだ後にわれわれは解放されるとか、日本でも浄土に行けば助かるみたいな考えがあって、むしろみんな死を楽しみに待っていた面がなくもなかった。

だから先ほどのコンポスト葬の話は、ダーウィン以前の死の考え方というのか、むしろダーウィンの出発点である死有用論のおおもとにに戻ったのではないかなという感じがしました。


■立花

別の角度から見てみると、人間の発生過程でも同じように大量のものが死んで、少数のものが生き残り、それが生命体になっているという現象がある。

一番典型的なのは神経細胞で、脳の神経細胞なんて胎児の段階で半分以上が死んでしまうんですよ。

 

■荒俣

え、そんなに死んじゃうんですか。しかも細胞は代謝しませんから、死んだら終わりですよね。

 

■立花

生き残ったものがわれわれの脳になるんです。

何が死に、何が生き残って生き続けるのか、そのプロセスはわかっていないけど、その大量死があってはじめて脳というものができてくる。

だから個体の発生過程にもやはりそういう現象はあるんです。


■立花

魚は卵という形で外に出てから死ぬから目立つけれど、人間は体内で大量の卵子が死んでいる。

もっとすごいのは精子でしょう。

一回何億でそれもだいたい全滅しちゃう。

生涯の射精総数はわからないけれど、それに数億掛けるのだから、これはほとんど魚並みですよ。

 

■荒俣

なんか、魚よりも多いかもしれませんね。すごいなあ、われわれの死も。

 

■立花

だから、いわゆる爆発的な生命死というのは人間の場合もあるんですよ。

 

■荒俣

そういうふうに、われわれはいかに多くの死を織り込みながら生きているのかを考えると、一面では、せっかく生かしてくれてるんだからなんとか生きなきゃいけないということも倫理としてあるけれども、もう一面では、われわれがいつ死の側にまわったとしても、次の生を生かすという点でそう無意味なことではない、という感じもありますね。

 

■立花

生命体の問題だけじゃなくて、それを精神現象に拡張して考えても、生は大量の死に支えられているということがある。

たとえばこうして言葉をしゃべっているときでも、ちゃんと生き残る言葉の陰には、しゃべるまでに頭の中をうごめいていた無数の言葉がある。

その比といったらすごい数ですよね。

 

■荒俣

そうですね。

そうしてみると、死というものは、生以上にわれわれに身近な存在で、どこにでも偏在しているといえますね。


かなり興味深い。


ダーウィンは、進化を「生」からでなく「死」から


発想を得たっていう点。


それはきっとあっただろうなと。


■立花

今は人間が自然的な生物ではなくなって、マン=マシン系というか、人間一人ひとりの個体に人工物が付随していて、資源消費が何倍にもなっている。

例えば先進国だと自動車を一人一台持っていて、その車は人間が呼吸する何百倍、何千倍の空気を使っているわけです。

 

■荒俣

実際には何十億の人口に何千倍かを掛け算しなきゃいけませんね。車だけではなくて、工場やビル、発電所などを考えていくと、あんなに大きな巣を作る動物はいないわけですから。バカですよね、ほどんと(笑)。

おまけになかなか死なないという条件が加われば、地球は危機的状況になるでしょう。そろそろ死はいい事なんだぐらいのことは強く言ってもいいのではないかと思います。

 

■立花

エコロジー運動でもラジカルなグループは、人口をもっと縮小しなければダメだという主張をしています。

実際にはいろんな自然条件の制約から考えて、地球環境が保持可能な人口数を計算してみるとそうしなければだめなんです。

 

■荒俣

多くの同類の死によって生を支えてきたのが生物の種であるのに、人類はそうではなくなってしまった。

だから支え方をもう一度元に戻さなくてはいけなんでしょうか。

人類の今の状態は、効率がよすぎてしまい、少しの死で多くの生を支えるようになってきてしまった。

ちょうど逆ピラミッド状態になっている。

 

■立花

人間が自然の食物連鎖の中に組み込まれていたら、ここまで人口が増えなかったわけですね。ここまで増えたのは、人工的な食物連鎖系をつくったのが理由です。


言っていることはわかります。


 


だからと言って、今のこのご時世において


最近話題になった高齢者排除説は違うと思います。


そういう展開にはお二人はならなかったろうな。


ちなみにこれに対して良いと感じたまとめがあった。


 


それにしても「死」が「生」を支えてたって話は


何かに似てるなって思ったのは、


内田樹・平川克美さんと養老先生が教育論を


話していた鼎談で養老先生曰く教師時代に


成績ビリの生徒に向かって


「お前がいるから他の奴が助かってるんだぞ、


お前ビリで偉いんだぞ、お前を切ると(やめさせると)


他のやつがビリになるだろう!」って


いってたって話だった。


(そうしてやる気を出させてたってことかと)


それからすると、自分もほぼ成績はビリだったので


学校時代役に立ってたのだな!と勇気が沸きました!


ってそんなので湧くんじゃねーよ、今頃。


 


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