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大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた:鷲田清一・内田樹著(2008年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


大人のいない国

大人のいない国

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2013/09/20
  • メディア: Kindle版

著者の一人、内田さんが大瀧詠一さんに贈った書籍と「ラジオデイズ」の対談で話していたことがこの本とのきっかけ。

内容的にも興味あったので一気に読んで気になるところをピックアップ。


プロローグ 成功と未熟ーもう一つの大事なものを護るために 

鷲田清一

から抜粋

 

(中略)

働くこと、調理すること、修繕すること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、考えること、教えること、話し合い取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きてゆくうえで一つたりとも欠かせぬことの大半を、ひとびとはいまの社会の公共的なサーヴィスに委託している。

社会システムからサーヴィスを買う、あるいは受けるのである。これは福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返していえば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。

ひとが幼稚でいられるのも、そうしたシステムに身をあずけているからだ。

近ごろの不正の数々は、そうしたシステムを管理している者の幼稚さを表に出した。

ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。

それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかしない。そして心のどこかで思っている。

いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。

「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方に置いた後、安心して絶壁のほうへ走っている」。

17世紀フランスの思想家、パスカルの言葉はいまも異様なほどリアルだ。

サーヴィス会社はたしかに心地よい。

けれども、先にあげた生きるうえで欠かせない能力の一つ一つをもう一度内に回復してゆかなければ、脆弱なシステムとともに自身が崩れてしまう。

システム管理者の幼稚さはそのことを知らせたはずだ。

「地域の力」といったこのところよく耳にする表現も、見えないシステムに生活を委託するのではなく、目に見える相互のサーヴィス(他者に心をくばる、世話をする、面倒をみる)をいつでも交換できるよう配備しておくのが、起こりうる危機を回避するためにはいちばん大事なことだと告げているのだろう。

これ以上向こうに行くと危ないという感覚、あるいはものごとの軽重の判別、これらをわきまえてはじめて「一人前」である。

ひとはもっと「おとな」に憧れるべきである。

そのなかでしか、もう一つの大事なもの、「未熟」は、護れない。

われを忘れて何かに夢中になる、かちっとした意味での枠組みに囚われていないぶん世界の微細な変化に深く感応できる、一つのことに集中できないぶん社会が中枢神経としているのとは異なる時間に浸ることができる、世界が脱臼しているぶん、「この世界」とは別のありようにふれることができる、そんな、芸術をはじめとする文化のさまざまな可能性を開いてきた「未熟」な感受性を、護ることができないのである。


成熟はサーヴィスが行き届いていて雇用も生み出すから、


社会として機能しているから良いとする反面、


陰の部分もあるという「トレードオフ」の構造なのですな。


「おとな」「一人前」となるべく、そして「未熟」のままで良いはずがないって難しいな。


鷲田さんと内田さんの対談から抜粋

■鷲田

最近、政治家が幼稚になったとか、経営者が記者会見に出てきたときの応対が幼稚だ、などと言いますが、皮肉な見方をしたら幼稚な人でも政治や経済を担うことができて、それでも社会が成り立っているなら、それは成熟した社会です。

そういう意味では、幼稚化というのは成熟の反対というわけではないんですね。

■内田

官僚や政治家やメディアに出てくる人たちがこれほど幼稚なのに、致命的な破綻もなく動いている日本社会というのは、改めて見ると、きわめて練れたシステムになっているなって、いつも感心するんですよ。

■鷲田

幼稚なひとが幼稚なままでちゃんと生きていける。

■内田

そうなんです。欧米にもアジアにも、そんな社会ないですよ。

日本みたいに外側だけ中高年で、中身が子どものままというような人たちが権力を持ったり、情報を集中管理していたりしたら、ふつうは潰れますよ。

なぜ日本社会は子どもたちが統治しているのに、潰れないで済んでいるのか。

そっちの方がずっと不思議だし、興味深い論件だと思いますけれどね。

■鷲田

今の日本には大人がいないんですよ。いるのは老人と子どもだけ。

若い人はみんなもう自分は若くないと思っているし、オジサン、オバサンたちはまだ自分はどこか子どもだと思っている。成熟していない大人と、もうこの先ないと思っている子どもだけの国になってしまいましたね。

 

■鷲田

大学で学ぶことについて、内田さんが格好いいことを言ってるんです。

■内田

なんでしたっけ。

■鷲田

大学で身につけるべき教養とは、「言っていることは整合的だけど何かうさんくさいものと、言っていることはまるでわからないけれど何かすごそうなもの、その二つをちゃんと見分ける能力だ」って言っているです。

■内田

そんなこと書いたかな。いかにも書きそうですけど。(笑)

■鷲田

つまり本物と偽物を見分ける力を身につけることが大切だということです。

(中略)

■内田

僕は、「知識と教養は違う」とよく学生に言うんです。

図書館にある本は情報化された知識ですよね。

教養というのは、いわば図書館全体の構成を知ること。

教養というのは知についての知、あるいはおのれの無知についての知のことだと思います。

■鷲田

コンテクスト(文脈)をつけていけるということね。

■内田

図書館のマップがあれば、自分が読んだ本がどこにあり、読むべき本がどこにあるのかわかる。

自分自身の知識がどれほどのもので、自分が知らないことがどういう広がりを持っているかを知ることができる。

(中略)

知的探求を行なっている自分自身の知のありようについて、上から俯瞰できることが「教養がある」ということではないかとぼくは思うんです。

自分の置かれている文脈を知る。

なぜ自分はこのことを知らずにきたのか、なぜ知ることを拒んできたのかという、自分の鞭の構造に目を向けた瞬間に教養が起動するんだと思います。


■鷲田

内田さんも私も哲学を学んだ出発点が、メルロ・ポンティ(20世紀のフランスの哲学者)ですよね。

こうして話していても、彼の両義性の哲学が核にある。

何か見えたら、これを通して正反対のものも同時に見えてくるという。

勝ち組とか負け組にしたって一枚岩的に語られるけど、本当はそんな単純なものじゃない。

格差は解消しなければならない、痛みは緩和しなければならない、と言い切ってしまうとき、何かを見落としているんです。

ぼくは幼い頃、病気やケガが好きでね。

病気になったら、おいしいものが食べられるし、普段来ない人が来てくれたりするから嬉しかった。

骨折して包帯してたら、もうヒーローやったね。

■内田

「病」にしても「ケガ」にしても両義的な経験ですよね。

■鷲田

「老い」にしてもね。

■内田

60歳近くなって思うことがあるんです。

歳をとるのはマイナス面だけではないって。

馬鈴を重ねただけで、若い人に「50年前の日本の戦後の空気を、君は知らないだろう」と偉そうにいうことができる。「経験的に言って」という一言で何でも断言できちゃうのは圧倒的に優位ですよ。(笑)

■鷲田

日本人が幼稚化を始めたターニングポイントっていつからだったんでしょうね。

■内田

1970年台からじゃないですか。日本が豊かで安全になったので、大人がいなくても、子どもたちだけでも回せるシステムができた。

その結果、成熟する必要がなくなってしまった。

成熟って、生き延びる知恵だから、危機的な状況がなくなれば必要ないといえばないんです。

だから、ある意味では「いいこと」なんです。

それだけ安全で堅牢な社会を作り上げたということなんですから。

(中略)

■鷲田

70年代というと核家族化も進んだ時代ですね。

親子二世代だけの核家族は、子どもにとって一番辛い家族形態じゃないかな。

親と子が対立したら、親の言うことを聞くか、ぶつかって家を出るか、どちらかしかないでしょう。

オール・オア・ナッシング。

もう一つの世代がいれば、父親が偉そうなことを言っても、「あんたが子どもの時はもっとひどかった」と言うことで、子どもにも複数の選択肢が出てくる。

■内田

レヴィ・ストロース(フランスの文化人類学者)が「親族の基本構造」で書いている親族の最低単位は、男の子と両親と母方の伯叔父(おじ)の四人から成るというものです。

核家族ではなく、プラスワンになっている。

父が息子に厳しく接する社会集団ではおじさんが甥を甘やかす。

おじさんが甥を厳しく育てる社会では父と息子が親密である。

これはよく考えると当然だろうと思うんです。

同棲の年長者が二人のロールモデルとして登場してきて、それぞれが子どもに向かって違う接し方をする。

極端な話、違う考え方、違う生き方を指示する。

それが親族の基本構造として要請されていたということが重要だと思うんです。

だって、それだと子どもの中に葛藤が生まれますからね。

どちらのいうことを聞いたらいいのか。

でも、成長のためにはまさにその葛藤が不可欠だと思うんです。

■鷲田

核家族でも、両親が連帯するのが最悪の構図ですね。

■内田

今まさにそうなってますよね。


今に始まったことではなくて、自分の子供の頃、50年前からそうだったな、と気がついた。


内田樹

もっと矛盾と無秩序を

「子どもを成熟させないシステム」を突き崩すには

 

子どもたちはいまたいへんわかりやすい社会に生きている。

そこでは子ども

「手早く、たくさんお金を稼ぐ能力」

の習得が何よりも最優先的に勧奨されている。

そこにはもう何の葛藤もない。

そのような環境で、「子どもが成熟しない」と嘆いてみてもはじまらない。

永い歳月をかけて「子どもを成熟させないシステム」を作り上げてきたのは私たち自身なのだから。

それは対談の中でも述べているように、「未成熟な人間でも経営できる、操縦しやすく安定した社会システム」を完成させる努力として進められてきた。

ヴィジョンのない政治家、自己利益と自己保身しか考えない官僚、思考停止に陥っているマスメディア……。

これら劣悪な人的資源環境の下で、なおこれだけ高いパフォーマンスを示すことのできる社会システムを完成させた国は歴史上存在しない。

これはたしかに世界に向かって誇ることのできる成果だと私は思っている。

しかし、この「子どもだけでも経営できるシステム」が不調になったときに、いったい「誰が」メンテナンスを引き受け、「誰が」制度設計の青写真を描き直すのかという問題は答えのないまま残されている。

私たちが今緊急に考えなければならないのはこの問題だろう。

これまでのやり方を変えて、「日本人を一気に成熟させるシステム」などというものを考案しても仕方がない。

国民全員を斉一的にある方向に向けるようなプログラムがなければならないという考え方自体が子どもの発想だからである。

少数でも一定数の「大人」が継続的に供給されていれば、システムの「メンテナンス」や「再設計」の仕事は果たせる。

その少人数の「大人」の育成をどうやって制度的に担保するのか。それが喫緊の問題だと私は思っている。


たとえば、デジタル庁とか。大丈夫ですかね?


私がとやかくいう言える筋合いではないけど。


自分もここで言われている「大人」になれているのか、って言ったら甚だ疑問を呈してしまうけれど。


「葛藤」を「思考」と置き換えてしまうのは、


ちと無理があるのかもしれないけど、「考えない」方向に


世間全般・世界全体が行っている気が


大袈裟かもしれないけど、します。


単に「成果」だけ出せばあとは無視。


それで良い世界に自分もいて(今もなのかもしれないけど)、なんの疑問も持たなかったけど。


そこを養老孟司先生などは大昔から警鐘を鳴らされているが、如何ともし難い。


いや、まだ子供が義務教育内の自分達は、


1ミリでもいいから良い方向にするよう考えて、日常生活をキープし、行動しないとって思う。


 


余談だけれど、高齢者施設の方たち(90歳代位)は


「大人」だなと思う(全員ってわけじゃないけど)。


一様にみんないうのは「戦争」のことで、


一年前までは今の世の中は「戦争」がなくていいね、


だったのだけど、近い将来また戦争にならないとは


誰も確約できない世の中になってしまったようだ。


 


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