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音楽が聴けなくなる日:永田夏来著(2020年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

はじめに 永野夏来 から抜粋

日本のテクノバンド、電気グルーヴのメンバーで最近では俳優としても活躍しているピエール瀧さんが、麻薬取締法違反の疑いで2019年3月12日火曜日の深夜に逮捕されました。

(同年6月判決後、7月に懲役1年6ヶ月、執行猶予3年で有罪が確定)。

(中略)

しかし本当に衝撃だったのは、逮捕翌日の出来事かもしれません。

この件を受け、株式会社ソニー・ミュージックレーベルズが、既に発表済みとなっている電気グルーヴの全ての音源・映像の出荷停止、在庫回収、配信停止を発表しました。

これにより新たにCDやDVDが買えなくなり、ネットオークションサイトなどでは高値で取引される事態となりました。

また、最近の音楽の聴き方として定着しつつあるサブスクリプション(定額聴き放題)などでも聴き放題のSpotify、Google play music、Apple music、Amazon Prime Musicなどでも、一斉に電気グルーヴの楽曲が聴けなくなったのです。

今まで当たり前のように聴けていた音楽が、突如聴けなくなる。

CDを買いたいと思っても買えず、転売とみられる業者が不当な利潤を得ている。

そして毎月お金を支払っているにもかかわらず、聴きたい曲が聴けなくなる。こうしたことは果たして「当たり前」なのでしょうか。

私は大学で社会学を教えていて、その際学生に必ず伝えていることがあります。

それは「現時点で自明と信じられている常識を疑うことで、社会が見えてくる」という姿勢です。常識は社会秩序の一部ですが、それは特定の誰かにとって都合の良い秩序であり、発言力が弱い立場にいる別の誰かを抑圧する機能を必ず併せ持ちます。

作品回収・販売停止は、少なくないコストをかけて企業収入を自ら断つという選択です。

決して小さな決断ではないはずです。それがこれほどスムーズに決まってしまうのは、なぜなのか。

もしかすると「売るな」という声が不当に重用され、それと異なる意見が抹殺されているのではないか。

音楽家の坂本龍一さんは、本件を受けてTwitterで

なんのための自粛ですか?電グルの音楽が売られて困る人がいますか?」

と問いかけました。おっしゃる通りだと思います。

困る人がいないのに、わざわざ自粛する。これは「異常な事態」のように思えます。

(中略)

自粛後の様々な論戦、言説にも注目していきます。

中でも当事者である電気グルーヴの石野卓球さんのツイートは注目を浴びました。

石野卓球さんが徹底してピエール滝さんを「友達だ」と言い続けたことはとても重要です。

(中略)

「反社会的勢力とのつながりを断つため」

「薬物に厳しい姿勢を取ることが日本の良さだ」

「本人がまた薬物をやらないためにも、お金を渡すためにはいかない」。

回収・販売停止を支持するいろいろな意見が存在しているのも確かです。

そこには一定の説得力をもつものも、当然含まれます。

しかし同じことを繰り返していて、発展性はあるのでしょうか。

これまでのことをどのように考え、どのように繋げていけば良いのか。


第三節 自粛と再帰性

コンプライアンスと再帰性

なぜ企業にコンプライアンスを求めるようになったのか。

一般的には三菱自動車リコール隠しや、牛肉偽装事件など、ゼロ年代に相次いだ企業不祥事や粉飾決算などが挙げられます。

ただ、企業経営とコンプライアンスの関連についてはその手の専門家に任せるとして、ここでは再帰性という観点から社会の変化と企業の在り方について考えて行きましょう。

再帰性とは、簡単にいえば「人や集団・制度などが自らのありようを振り返り」「情報を参照しながら必要に応じてありようを修正していくこと」です。

(中略)

再帰性のうち、「自らのありようを振り返る」という前段の行為を「セルフモニタリング」と呼びます。

人のふり見てわがふり直すのであれば、あまり良くないと思った他人の行為から自らを省みるということになりますが、「セルフモニタリング」にはもう少し「人の目を気にしすぎる」というような感覚がつきまといます。

インターネットや携帯電話などのコミュニケーションツールの発達がこれを加速させている可能性があります。

「ひとの目を気にしすぎる」というのは、昔からあることではありますが、すぐれて現代的な状況ということもできるでしょう。

 

コンプライアンスという言葉が日本で言われ始めたのは2000年ごろからだと思いますが、その背景には二つのことがあります。

一つは企業による不祥事を防ぐこと。

そしてもう一つは、企業価値の向上です。

再帰性という観点から見ると、気になるのは二つ目の企業価値の向上の方です。

それはつまり、コンプライアンス体制をホームページなどで公表してしてステークホルダーから信頼を得て、コーポレートブランドを上げるといったようなことです。

これは再帰性の高まりという観点から理解できるように思います。

会社のことを振り返ってチェックし、必要に応じて社内でできることを修正していくという営みです。そしてコンプライアンスとして表明することがさらに企業価値を向上させることにつながります。

まとめると、再帰性の高まりからコンプライアンスがもてはやされるようになったのは理由は以下のようになります。

近代化が進むにつれて企業もまた再帰性の高まりに呑み込まれ、自分の立ち位置がはっきりわからなくなった結果、セルフモニタリングで得られた情報を使って自社の態勢を修正していく。

ここまでは再帰性の基本的な考え方です。

そしてそれに実効性を持たせるための方便が、コンプライアンスである。

これが現代における企業のコンプライアンス重視の背景というわけです。

つまりコンプライアンスというのは本当のところ、自分の立ち位置を掴むべく行うセルフモニタリングを意味付けするために導入された使い勝手の良いキャッチフレーズである、というのは言い過ぎでしょうか。


今までの経験と自分なりの解釈を通すと


「企業のリスクヘッジ、自社では統治できない


けど、しかし売上は上げないと


各方面に迷惑かける。


だからと言って手を抜かず働けよ


給料払ってるんだから、でもって


法令遵守を破ったら時代に


反しているからねって、言ったよね?」


みたいになるのだけど、これはなかなか


悪い意味でしびれますよね。


ちょっと端折りすぎたけど。


そんなところで社員やってて


活躍できるわけないと思うが、


それが多くの日本の会社の


現状なんかな、一昔前は。


もう今は、よくわかりませんけど。


永田さんがどこの学校で教鞭を


ふるわれているか存じませんが、


そこの学生は幸せです。


こんな素敵な先生がいるなんて。


余談だけれど、同じタイトル名を


持つ書籍


「音楽が聴けなくなる日:服部克久著(1996年)」を


読んだ。


こちらは「CD再版制度撤廃法案」に物申す内容。


これを紹介している当時(1997年)の


雑誌「CUT」の山下達郎さんの記事が


最高に良い意味でシビれます。


永田夏来さんのと主旨は異なるけど、


流れで、ご紹介をご紹介。


■欲しいのは安いCDではない。いいCDだ。

再版制度を撤廃したら、すべての文化は少年ジャンプ化してしまう。

山下達郎

(中略)

音楽、とりわけポピュラー音楽が第二次世界大戦後の文化的リーダーとなり得たのは、レコードという大量複製の技術を獲得して商品特性が大幅に向上したからに過ぎず、別に音楽が他の文化に比べて特に秀でていたわけでも、市場経済と相性がよかったわけでもない。

ずっと以前から印刷技術によって大きな商品性を得ていた文字メディアも同様だ。

今持って大量頒布の手段を持たない一点ものの絵画や演劇・舞踏などの場合、美術館や劇場まで出向かなくてはならないため、音楽・文学に比べ商品としての市場拡大はしづらいが、それはおのおのの文化の持つ価値とは本来何の関係もない話である。

例えば収容人数100人程度の小劇場を拠点に活動している劇団は、TVから吐き出されるドラマ文化や東京ドームで繰り広げられる大量動員の音楽ライブの前では、マーケティング・観客動員等あらゆる面で「存在しないに等しい」状態を余儀なくされてしまう。

しかし、だからといって、彼等の表現がTVの学芸会ドラマより質的に劣っている、あるいは全国展開されている劇団四季の芝居より価値が低いなどと、誰が言えるだろうか

(中略)

今日も音楽業界ではテレビ・ドラマとのタイ・アップ、CDタイ・アップといった試みが飽くことなく続けられている。

どんなに愚かしくともそれが商業文化の宿命であり、我々はその中で戦い続けるしかないから、そのこと自体を否定する気はさらさらない。

しかし世の中の文化をすべて市場競争原理の支配下に置いたらどういうことになるか。

商品性の低い文化はあっという間に絶滅してしまうだろう。

再版制度廃止の向こうには、文化に正札を付け選別しようと得意満面のお役人やお知識人の顔がありありと見て取れる。

例えば視聴率やヒット・チャート

あんなものは単なる商売の指針であり広告代理店の営業の参考資料でしかない

商業音楽に携わっている以上、話題にもするし一喜一憂もするが、あんなものに文化の優劣の判断基準になどなるはずもない

こんな当たり前のことさえ口に出して言わねばわからない。

ある種の文化はそれほど金儲けの手段としてオイシイものなのだ。

(中略)

CDが安くなる?賭けてもいいが、どこかのバッタ屋に1280円で山積みされた安売り新譜の中に、私の欲しいものは一枚もないだろう。

何かといえばすぐ「アメリカでは~」だ。

鹿鳴館を一歩も抜けられていない。

1997年(当時)のこのご時勢にアメリカのマーケットと日本とを同一視する想像力のなさ

アメリカのCDシングルのマーケットはとっくに壊滅している。

あれと同じにしたいらしい。

アメリカでは今やCDシングルはアルバム拡売用の販促物に堕し、レコード店頭で無料に大量にばらまかれている。


山下さんのこのコラムからざっと25年。


音楽を楽しむ形態が様変わりしたのは


いうまでもございません。


日本の文化の価値判断って本当に


遅れているというか、わかってねえなー


というか。


しかしこれ、文化だけにどどまる


話ではなく、政治にも似たような傾向が…。


だからなのか?


夜勤明け、頭痛くなってきたから


今日はそろそろ休ませていただきます。


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