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久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった。:久米宏著(2015年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった

久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった

  • 作者: 久米 宏
  • 出版社/メーカー: 世界文化社
  • 発売日: 2017/09/13
  • メディア: 単行本
面白い。いきなりこれ↓だもの。

この本は、かなり詳細です。つまり、かなり面倒な内容ともいえます。

最後の「簡単にまとめてみる」をお読みいただくと、一瞬にして本書の内容がわかります。


久米さんにそう言われちゃ、そうしますよ。


エピローグ・簡 単 に ま と め て み る

(中略)

50年間続けてきた仕事が、それなりの成果を得た、つまりそこそこの成功だったのか、どう見ても失敗の50年だったのかは、なかなか興味のあるテーマだ。

しかしながら、長年の仕事が、成功だったか失敗だったかを判断するのは、とても難しい。

 

最初にラジオで取り組んだ番組、「土曜ラジオワイドTOKYO」は、成功したと思っている。

特に、僕がリポーターをしていた8年間は、何とかして新しい「中継」をと、そればかり考えていて、なんとか、それまでにない中継の形を創り出したという実感がある。何より仕事をしていて楽しくてたまらなかった。

これは僕にとっての最大の成功体験であることは間違いない。

テレビに軸足を移しての、「ぴったしカン・カン」。

この番組は、コント55号の番組だった。僕は、ただそこに居たに過ぎない。でも、テレビの本質に気がついたのはこの番組だった。

 

「ザ・ベストテン」が大成功だったことは間違いない、あれ以上の成功は考えられないぐらいだ。

公正なランキングと生放送、このコンセプトが成功の源だ。日本の歌謡界のピークに遭遇した幸運もある。

「ザ・ベストテン」の大ヒットの威力はものすごく、この番組開始後1年半で僕がフリーに転身したのも、この番組のエネルギーに背中を押されたからだ。

「ザ・ベストテン」については、「ニュースステーション」の開始のために途中降板したことは、慚愧の念に堪えない。

黒柳さんにとても申し訳ないことをしたと、今でも心から思っている。

大ヒット中の番組を途中で放り出すという行為は、許されないことだと思う。

この業界の常識で考えれば、僕はTBSから永久追放されてもおかしくはない。

ところが、今、僕はTBSでラジオの番組をさせていただいている。

TBSという会社は、とても懐の深い会社なのだ。

 

「ザ・ベストテン」と並行して「TVスクランブル」という番組が誕生した。

僕にとって、この番組の意味はとても大きい。

ラジオとテレビの世界で、僕が初めて、企画の段階から参加できた番組だからだ。

この番組には、成功のハンコを押しても良いと思っている。

 

さて、問題は「ザ・ベストテン」を

強行降板までしてスタートした、「ニュースステーション」だ。

この番組は成功だったのか、失敗だったのか、この判断はとても難しい。

難しい理由の一つが、放送期間が18年半と、とても長かったことだ。

これだけ長いと、いろいろと判断材料がありすぎるのだ。

(中略)

ニュースは分かりやすく伝えなければならない。

テレビのニュースは分かりやすくなければならないから。

果たしてこれは正しかったのか。

わかりやすくなければ、番組は見てもらえない。

番組を見てもらえないと、民法としての経営が成立しない。

どんなニュースでも分かりやすく説明してしまうのは、無理があるのではないか。

いや、途方もなく難解なニュースでも、その本質に迫っていけば、実は、優しい言葉で説明できるのだ、この考え方の方が真実ではないか。

「ニュースステーション」は、スタートして2年半ほど経ったころから、厳しい批判に晒され始めた。

ニュースがワイドショーになってしまった。

ものごとを単純化しすぎている。

久米宏は軽すぎる。

山のような批判は、ほとんどが頷けるものばかりだった。

厳しい批判を受けながらも、僕は、「番組がある程度軌道に乗り、成功したからこそ、こうして批判を受ける身になれたのだ。ありがたいことだ」

「ニュースステーション」が終了して、もう13年が経ってしまった。

あの番組が成功したのか、あるいは、日本のテレビのニュース番組に、取り返しのつかない前例を作ってしまったのか。

とても僕には判断できない。

(中略)

51年前、あまりに学業の成績がひどくて、普通の企業の入社試験は受けることができなかった。そんなとき、アナウンサーの募集を知って、冷やかしのつもりでその試験を受けてみた。合格することなどあり得ないと思っていた。

「ちょっと試験を受けてみるか…」から始まったのだ。

「とにかく、ちょっとやってみるか」これは結構大切なのだ。

そして乗りかかった舟は、とりあえず一生懸命漕いでみる

それぐらいのことしか、人間はできないのではないか。

50年は、とても長い。

しかし、あっという間に過ぎてしまうものでもある。

一生懸命舟を漕ぐ時間は、長そうでいて、短い。

 

「ザ・ベストテン」をしているときは、テレビを見ている人に楽しんでもらいたい。

「ニュースステーション」をしているときは、何とか世の中の役に立ちたい。

そんなことを考えながら仕事をしてきたのだけれど、今になって思うと、今までやってきたことは、きっと自分のためだったのだと思う。

よほどの聖人でない限り、なかなか他者のために生きるのは難しいと思う。

人は皆、自分のために懸命に生きている。

ただ、自分のために一生懸命生きたら、それが他者のために、大勢のためになることが、時々起きたりする。

番組が成功したり、会社の利益が急増したり、クラスが団結する。


ここで終われば、とても良い話、さすが久米さん哲学持ってるなあ


なんて思われるのに、以下を追加しちゃうのが


久米さんが久米さんたらしめている、さらなる深さなのだろうなあ。


個人的にはこういう考え方、好きではないけど。


20代後半、ナポリに旅をしたことがある。

ホテルの前に、小さな土産物店があり。

その店先に一人の男がいた。

両腕を頭の後ろに回して、椅子に掛けてぼんやり遠くを眺めていた。

ほぼ僕と同世代の男だった。

数時間ナポリ市内を見物して、ホテルに帰ってきたら、その男は、僕が出かけるときと、全く同じ格好で遠くを眺めていた。

僕が出かけている間、何人かの客が来たのかもしれないし、一人の客も来なかったのかもしれない。

僕は彼の姿を見た瞬間、ある事実に気がついた。

もしかしたら、彼が僕だったかもしれない。僕が彼であっても不思議もない、と。

人間は生まれる場所と時を選べない。

僕は、たまたま、太平洋戦争が終わる一年ほど前に、日本で生まれた。

あのナポリ旅行以来、

「自分の人生すべてが、偶然そのものなのだ」、この考えにとりつかれている。

偶然乗り合わせた舟を、懸命に漕いでいるだけなのだ。


私が母親と同居していたころだからざっと三十年位前、


久米さんのテレビを見たようで


「サラリーマンなんて、つまらないことみんなよくやってますよね」


みたいな発言をされたらしいのを受け、母が言った言葉。


「久米さんは嫌いになった。もう見ない。」


「何でよ?」


と聞いたら


「だって、そのサラリーマンが社会を支えてるんじゃない」


これは、母親と久米さんをとても象徴しているエピソードと記憶させていただいてます。


 


翻って、じゃ、これ書いてる君はどうなのよ、


という問いがあるならば、「その中間です」と面白くないけど正直に答えざるを得ない。


会社員を合計15年くらいやってましたゆえに。


(その前の15年は雇われデザイナだったから会社員とは言い切れないし)


 


余談だけど久米さんといえば、アンチジャアンツ。


これも久米さんを象徴しているけれど、その昔。


元日本テレビの徳光さんと番組というかテレビ局を跨いで賭けをしてましたよね。


ジャイアンツが1位になったら「丸坊主になって徳光さんの番組で万歳三唱する」って。


ジャイアンツ贔屓の徳光さんも相対して多分なんか賭けてたんだと思うけど。


それは忘れたが、徳光さん「久米さん!いらしてくださいよ、約束ですよ!」みたいに煽ってらした。


その後、本当にジャイアンが1位になってしまった。


久米さんその通りにして、徳光さんの番組に丸坊主でいらして「万歳」三唱をされてた。


でも、その時の横にいた徳光さんが言ったのは、力無い声で


「…もう、こんな意味のないことやめましょうね…」みたいに仰る。


なんかとてつもなく深い瞬間だった。


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