音楽が終わった後に:渋谷陽一著(1982年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
72年当時、ロックは一つのシンボルとしての役割を負わされていた。
アメリカ、あるいはイギリスにおいてロックは単なる音楽ではなく、若い世代の時代意識やイデオロギーを反映したメッセージであった。
サイケデリック・ミュージック、メッセージ・ソング、そうしたものによって触発されたヒッピームーブメント、その思想的な質に対する評価はともかく、ロックはこれまでのポピュラーミュージックとは決定的に異なる、何か新しいものへ変わろうとしていた。
聴く側も演る側も、変わりつつあつロックの現場に立ち合い、それに加わっている事に興奮し、不思議な熱気がロックシーン全体に満ちていた。
ロックをやる事がそれだけで時代の最前線に立ち、何か新しいことの創造に加担しているのだと思わせる熱病が広がっていたのである。
日本の場合、ロックがイデオロギーとして根付いたことはこれまで全くないが、その時はアメリカ・イギリスの熱病の余波が極東の島国まで押し寄せ、ロックを文化的に語るのが流行になっていた。
メディアとはシステムなのである。
受け手と送り手、相方の意志が侵食し合う場合、システムを作り上げることが雑誌作りの全てなのだ。
いわゆる作品発表の場、自己表現の場だと思って雑誌を作っていては絶対に続いていかない。
余程金が余っているか、酔狂なスポンサーでもいない限りそれは不可能だ。
システムができあがれば今度はそれを最も効率よく動かす努力をすればいい。
システムは自立運動を始める。
僕は仕事の上で色々の表現者と会う機会がある。
ロックミュージシャンは無論のこと、作家や漫画家、映画監督、有名無名人たちと話す機会が多い。
しかし、どんな興味深い話ができたとしても、その表現者の作品と同じ時間向き合って得られた以上のものを話し合いで得ることは不可能だ。
だからメディアは素晴らしのだ。
デビッドボウイと30分話すよりも、彼の全力投球したレコードに30分向き合う方が、はるかにデビッドボウイの核に触れることができる。
雑誌よりもフェスに力を入れたのはもうかなり昔。
いろんな雑誌を創刊されてて、若い頃の自分はとても刺激的でした。
余談だけれど、その昔、渋谷さんのトークイベントがあり、1回行った。そこで印象的だった言葉。
「昔は「ミュージックライフ」くらいしか音楽雑誌ってなくって。
そこにレッドツェッペリンのライブの写真があって。
キャプションに「演奏するレッドツェッペリン」ってあったんですよ。
そんなことは見ればわかるって!」
それがロッキングオンを創刊する一つの要因でもある、みたいなお話しされてたのは「季刊BRIDGE」がまだ「季刊渋谷陽一」として準備中だった頃。
ミュージシャンとの関係性が見えるようにと、取材写真もご自分で撮る姿勢は今も充分新鮮です。