③カール・セーガン博士の書から気づいた大切なのもの [’23年以前の”新旧の価値観”]
前回から続いて同じ書籍からでございます。
第二十一章 自由への道 から抜粋
本章はアン・ドルーヤンとの共著である。
人類が地球上に登場してから九十九パーセントの期間は、読み書きのできる者はただの一人もいなかった。
なぜなら、文字がなかったからである。
この偉大な発明がなされたのは、ごく最近のことなのだ。
文字が発明されるまでは、直接体験によって得られた知識を別にすれば、ほぼ全ての知識は口づてに伝えられていた。
しかし、何十、何百もの世代を経るうちには、ちょうど「伝言ゲーム」のように、情報はしだいに歪められ、失われていったことだろう。
そんな状況をがらりと変えたのが書物である。
書物が手ごろな値段で入手できるようになると、過去のことを詳しく調べたり、先人の知恵に学んだり、権力者だけでなくいろいろな人の考えを知ることができようになった。
また、どこかの人か、いつの時代の人かを問わず、偉大な知性たちが苦労して自然から引き出してきた知識について、じっくり考えることもできるようになったーーーそれも、最高の教師たちをそばに置いて。
書物は、とうの昔に死んだ人々の声を伝えてくれる。
どこにでも持ち運びできるし、われわれの理解が遅くても辛抱づよく待っていてくれる。
むずかしいところは何度でも読み返させてくれるし、つまずいても決して責めたりしない。
書物は、われわれがこの世界を理解し、民主的な社会に参加するためのカギなのだ。
アン・ドルーヤンも私も、爪に火を灯すような暮らしを知る家の出である。
しかしどちらの両親も熱心な読書家だった。
祖母の一人が読み方を学んだのは、零細農業を営んでいたその父親が、タマネギ一袋と引き替えに、巡回教師を読んでくれたおかげだった。
彼女が読み方を覚えたことは、その後100年にわたって恩恵をもたらした。
謝辞 から抜粋
本書のうち四つの章は、私の妻であり、長年の協力者でもあるアン・ドルーヤンとの共著である。
アン・ドルーヤンは、米国科学者連盟の幹事に任命されてもいる(この組織は、科学とハイテクが倫理的に使用されるよう監視するために、マンハッタン計画の科学者たちによって1945年に設立されたものである)。
アンは、10年におよ本書の執筆作業のあらゆる段階で、きわめて有益な導きと助言と批判とを与えてくれた。
彼女に教えられたことの数々は、とても言葉では言い尽くせない。
アンのように、的確な助言を与えることができ、判断力にすぐれ、ユーモアのセンスをもち、そして勇気ある展望のもてる人物が、同時に最愛の人物でもあってくれて、私は本当に幸運だった。
書物に関する博士の記述は僭越ながら超同意を。
最愛のパートナーが理解者で批判もしてくれるなぞ
それは最高に幸せなことだと僭越ながら思った。
良い夫婦というのは、そういうパターン、
多いなよな、とも。
科学と人類の未来のために(解説)池内了 より抜粋
現在は科学の時代でありながら、驚くほど似非科学が氾濫している。
その中味は、およそ科学とは縁遠い神秘主義に満ち満ちており、「信じるか、信じないか」が踏み絵になる。
科学とは、信じるか信じないかの世界ではなく、「万人に、どこでも、いつでも、成り立つ(証明できる)か、成り立たない(反証できる)か」が、その成立条件であるというのに。
このような似非科学の跳梁は、オウム騒動が起こった日本だけではなく、欧米のいわゆる先進国に共通している。
聖書の根本主義が背景にあるが、もう一つ、現代に特有な現象という側面も顕著である。
科学の成果を満喫しながら、科学が地球を破壊してしまうのではないかという畏れのアンビバレントな感情。
科学の力で築かれた資本主義社会の不公平感・閉塞感。
科学からの逃避と科学への復讐。
それらがないまぜになって、「理科離れ」が進み、似非科学への傾倒となっているのだ。
それを助長するマスコミの動きもある。
眼を惹くまがいものを面白おかしく流し、真性の科学や科学的な考え方は、ほとんどの人の眼に触れないからだ。
しかしゆっくり考えてみよう。
ギリシャ時代から現在まで、人類は、科学の力によって、より多様な生を切り拓けるようになり、より豊かな人生を生きることができ、より多くの人々が飢えや病から解放されてきたではないか。
科学こそ、人間を人間らしくさせてきた原動力ではなかったのか。
逆に、似非科学や神秘主義が横行したとき、どれだけ悲惨な死が人々に強制されたことだろう。
そのことは、中世の魔女狩りやナチスのアーリア科学を思い起こせば、すぐにわかることだろう。
無責任な似非科学は、生命の論理と矛盾するものなのである。
科学の生と負の両側面を冷静に判断することこそが、現在の私たちに求められているのだ。
訳者あとがき
1997年8月 青木薫
から抜粋
1996年12月末、本書の翻訳がちょうど半ばにさしかかったころ、カール・セーガン博士の訃報に接した。
博士の健康状態が悪化していたことをうかつにも知らなかった私は、新聞記事を目にして非常に驚いたが、それと同時に「ああ、そうだったのか」と妙に納得がいった。
というのも、本書のなかには、これだけは言っておかなければというせっぱつまった心情や、懐かしい思い出を語るときのちょっとセンチメンタルなトーンがあって、その率直さに少々戸惑っていたからだ。
セーガン博士は、死が間近に迫っていることを悟っていたにちがいない。
本書はセーガン博士の遺書だったのである。
セーガン博士は、第一線の科学者のなかでも、科学の力強さ、すばらしさを生き生きと語ることのできる、本当に数少ない人物の一人であった。
しかも「核の冬」を警告した博士は、科学のもう一つの顔も知り抜いていた。
セーガン博士自身、宇宙人の可能性を探り続けてきた人もある。
本書の発売と同時に封切られる映画『コンタクト』は、博士のそうした一面を伝えてくれるはずだ。
一方、科学が好きだという人には、科学だけの狭い領域にとどまらず、広く世界を見渡してほしい。
私が科学書の翻訳をするなかで常々感じるのは、一流の科学者たちの多くが、良い意味での教養に裏打ちされた広い視野をもっているということだ。
そのことは専門馬鹿だった私が翻訳するうえでは苦労の種でもある。
私はもともと理論物理が専門だというのに、今回も理論物理の話などほとんど出てこなかった。
本書を訳すために、私は神学の森に迷い込み、”宇宙人の死体”で有名なロズウェル事件の藪に分け入り、エドワード・ギホンの『ローマ帝国衰亡史』をめくり、『易経』をひもといた。
バスケットボールの話を訳すために、なんと、日本のバスケットボール人口を飛躍的に増やしたというコミック『スラム・ダンク』全31巻を読破してしまった。
とにかく、すぐには調べのつかないことが山積みになって、気が遠くなりかけた。
本書の翻訳は、私にとって一つの試練であった。
しかし、なんと実り多く、なんと楽しい試練だったことだろう。
1997年といえば、インターネット黎明期
ということはセーガン博士は、
それ以降の世界を知らずに逝ってしまわれた
ということか。本当に残念。
今の世の中をどのようにご覧になっただろうか。
と同時に、この書の教えてくれたことは
大切なものは頭を柔らかく、
冷静に知性と感性を磨くことだと思った。
これはますます『コンタクト』を見直さなければと
強く思った次第の読書体験でした。