文民統制の危機:立花隆(「文藝春秋」2015年11月号) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
「知的ヒントの見つけ方(2018年)」から記事の抜粋
唖然とした。何なのだこれは、と思った。しばらくテレビ実況に見入った。
9月17日の安保法案強行採決の場面だ。
(中略)何に唖然としたのかというと、あの決定過程だ。
野党から平和安全法制特別委の鴻池委員長に対して不信任動議が出された。
その採決をする間、委員長職が鴻池氏から自民党の筆頭理事たる佐藤正久議員(かつてのイラク派遣自衛隊のヒゲの隊長)にゆずり渡された。
しばらくして不信任動議が否決されると、鴻池委員長が委員長席に復帰した。
その瞬間だった。強行採決劇が一気に進行した。
突如屈強な一群の若手自民党議員が入ってきたかと思うと、アッという間に委員長席周辺を取り囲んだ。そのただならぬ様子にいよいよと察知した野党議員たちがドッとかけつけた。
たちまち両陣営が入り乱れての怒鳴り合い、つかみ合い、殴る蹴るの乱闘シーンがあちこちで繰り広げられた。怒号が飛び交う中、いつの間にか議場の一角に移動していたヒゲの隊長が手を何度か上下に振ると、それに合わせて与党議員たちが一斉に立ったり座ったりを繰り返した。
声がちゃんと収録されていなかったので、テレビを見ている人には何が起きているのかさっぱりわからない。
テレビ実況のアナウンサーが、「今何が行われているんですか?」「さあ何ですかね」と言葉を濁したくらいだ。議事録上には「議場騒然。聴取不能」とのみ書かれているという。
聴取不能のわずか8分間のうちに、あわせて11本の安保関連法案の採決が全部終わっていた(と自民党は主張し、野党は無効を主張している)。
まるで、見物人の気が一瞬そがれた隙に全てが終わってしまう高等手品のような法案さばきだった。この間何といっても目立ったのは、議場の一角から全体の指揮をとっていたヒゲの隊長の采配ぶりである。優れた指揮官は戦場で味方の軍に指揮棒を一閃させるだけで、自由自在に兵を動かすといわれるが、それはこういうことをいうのだろうと思った。
その見事な統率力と采配ぶりに感心もしたが、同時になんじゃこれはと思った。こんなことが許されていいのだろうかと思った。
(中略)
これほどの無茶苦茶は、昭和戦前期の議会で政党政治がテロで一瞬に瓦解し、軍の専横時代を全面的に開花させたあの時代ですら行われなかったことだ。
悪夢を見る思いだった。軍がかかわる最重要の国策変更を、元軍人が全面に出て現場指揮を執ることで一挙に強行採決で片付けてしまったのだ。
それもわずか8分で。
(中略)
この場面を見ていてつくづく感じたのは、軍という組織が持つ圧倒的な行動力と組織力である。
あれを見て、軍が中心になって行動すれば、クーデタなんかすぐにできると思った。
史上最も有名なクーデタは、ナポレオンが一瞬にして政権を掌握した「ブリュメール18日(1799年)のクーデタ」だが、今回のヒゲの隊長の作戦は、手際からいって、それをはるかにしのぐものだった。軍はこういう危険性を内包した組織であるだけにそれ的な暴走を絶対に起こさせない仕掛けを内部に持っていなければならない。
それがシビリアンコントロールという制度である。
現代のいかなる国家も、軍という武力装置を持つと同時に、それに付随して軍を暴走させないためのシビリアンコントロール制度をあわせ持っている。
(中略)
安倍首相(当時)は、シビリアンコントロール制度は日本から消えたわけではない、その根幹は、軍の最高司令官たる日本の総理大臣が文民でなければならない(憲法66条)というところにある、という意味の答弁をおこなって(シビリアンコントロールは、「国民から選ばれた総理大臣が最高指揮官であるということにおいて完結している」)国民を安心させた。
だが、安保法案騒動のなかで、国民の相当部分が、安倍首相の平和マインドそのものを疑いはじめている。
日本は軍と軍人にいかなる地位を与えるべきなのか。
いかなる行動準則を与えるべきなのか。真剣に考えるべきときがきているのではないか。
ひどい話ですよなあ、これTVで見たことあるから覚えてるけど。
立花さんと同意見ですよ。恐れ多くも。
そして早くも、このことは記憶の彼方に行こうとしている。
余談だけれど、「文民統制」って「シビリアン・コントロール」のことだというのに、別の本を読んでて今日知った。
恥ずかしながら…というか、そういう人、もはや多いような気もするのだが。