中村桂子先生の書から”業(カルマ)”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 作者: 中村桂子
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2017/02/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
から抜粋
科学とはどういうものだろうと考えた時、一つ興味深い見方に気づきました。
科学が生まれ、盛んになる前の社会は、宗教が人々の考え方をきめていました。
とくにヨーロッパでは、神様がすべてを決めてくださっているとしていました。
けれども、デカルトやガリレイに始まる科学は、世界は数学で書かれているものであってそれを自分で解いていかなければならないと考えました。
どのように書かれているかを私たちは知らないのですから、自分で考えなければなりません。
これは人間にとって大事なことですし、楽しいことです。
子どもはなんでも知りたがる。
これが人間の本性なのだと思います。
大人になると、こんなこと聞いたら恥ずかしいなどと思って遠慮してしまいますが、本当は知りたいことだらけです。
このようにして始まった科学は、世界を数学で理解しようとしたのですから機械論になります。
デカルトが生きものを機械として見る見方を出し、そこからラ=メトリの「人間機械論」にまでつながりました。
機械はすべて知ることができるはずです。
自然を解明していく科学の知識をふやすことによって、人間は自然を支配できるはずです。
こうして科学を基礎に置く現代社会は「進歩」を信じ、進歩することでよいことであると考えるようになりました。
進歩の具体は、科学を活用した科学技術によってより便利な社会をつくることです。
まさに今私たちはそのような考え方が主流の社会にいます。
すべてが神様の意志の表れであって決められた中で行動するという世界観に比べて、知らないことを自分で知り、前の世代よりは次の世代の方が進歩をすると信じて生きる方が、明るい未来をイメージできます。
すばらしいことです。
けれども、今これって本当かなという疑問が出ているのではないでしょうか。
世界全体を見ると基本的には先進国と開発途上国という格差がありますし、今やそれだけでなく先進国の中でも格差が出ています。
しかも、最先端科学技術は兵器の開発にも利用されますし、エネルギーの多消費による地球規模の環境問題も起きています。
どう見てもいのちが大切にされているとは言えず、生きものとしては暮らしにくい社会にどう見てもいのちが大切にされているとはいえず、生きものとしては暮らしにくい社会になっています。
なんとかしなければいけないと考える人が、環境問題を解決するための技術開発に努めたり、NGOやNPO法人を立ち上げて食事が充分とれない子どもたちのための食堂をひらくなど、いのちに向けての活動が行われています。
どれも大切な行動です。
ただ、「人間が生きもの」という視点を充分に活かそうと考えると、実は、現代社会を支えている世界観がそれに合わないのではないかと思えてきます。
それを考え直さなければ、いのちを大切にする社会をつくることはできないのではないか。
今考えていることはそれです。
思いきり個人的な柴谷論
から抜粋
柴谷篤弘先生と言えば反射的に思い出すのは、メモ差し出しのエピソードだ。
1945年8月15日は、もちろん太平洋戦争敗戦の日だが、日本の研究者にとっては英米の情報解禁の日だった。
そこで東大図書館(研究者の中ではアメリカンセンターと言われているが、柴谷先生のご著書にはこう書かれている)に届いた新しい論文を読みながら一人の物理化学者が「2600オングストローム」と呟いた。
近くにいた生物学者がこれに敏感に反応し、「私も同じ物質に強い関心を寄せています。後で話しましょう」
というメモをそっと差し出したというのである。
呟いたのが渡辺格、メモを書いたのが柴谷篤弘。
もちろん二人が注目したのは核酸である。
2600オングストローム(現在は260nmと言う)は核酸特有の紫外線吸収波長である。
この出会いが戦後日本の生物学の夜明けだったと言ってもよいだろう。
その後渡辺・柴谷は名古屋大学の生化学教室の江上不二夫、発生生物学研究所の大沢昌三らと共に医学を含むさまざまな科学の中で新しい学問を求めていた人たちを誘って「核酸研究会」を創設した。
1949年である。敗戦の混乱を考えると素早い立ち上げだ。
個人的な思い出を書かせていただくと、縁あって私は、渡辺・江上・大沢の三先生には一つ屋根の下で教えをいただき、その謦咳に接する幸運に恵まれた。
柴谷先生はそれがなかったのだが、少し違った形で最後まで教えをいただいたという意味では私の基本を支えてくださった存在である。
1971年、江上先生は「生命科学」という新しい概念を出し、「三菱化成生命研究所」を創設している。
ここでは、分子・細胞・発生・脳・地球(環境)・社会までを含めた総合的な学問が提案された。
細分化した専門分野に中で分析を進めていけば生命がわかるという時代は終わったこと、生きものの中には人間も入るのであり環境・社会などを視野に入れた生命研究が不可欠なことを意識しての提案である。
研究者が専門に閉じこもらず、社会の一員として考え行動する必要性も説いている。
ご一緒した九州出張の車中で、「水俣病は海を物理的に見て水で水銀を薄めると考えた。そこに生きものがいて濃縮が起きるという発想に欠けていた。技術の基本に生物学の知識が不可欠だ」と話された時の熱っぽさを思い出す。
この視点は柴谷先生の『反科学論』の内容と重なっているが、それを「生命科学研究所」として具体化したことが重要である。
しかもそれを民間、とくに三菱という資本の下で進めた決断は、当時の時代を考えると驚くべきことだ。
具体的な研究を進めるには、総合を目指しながらもまず分析を積み上げることが必要であり、『反科学論』の持つ勇ましさには欠けることになるのは仕方がない。
もちろん柴谷先生はそこは理解し、この活動を高く評価していた。
その研究所の中で、環境・社会を意識しながら新しい生物学を考える役割を与えられ、文字通りの暗中模索となった私は、江上先生から欧米の研究の現状を見てくるように言われ、その一つとして英国サセックス大学を訪れた。
1972年である。
当時イデオロギーとしては左寄りの雑誌『New Scientist』で活躍する研究者がおり、いわゆるSTS(科学・技術・社会)の議論が活発に行われていた場である。
そこで小さな会議に出席したら、なんと柴谷先生がいらっしゃった。
オーストラリアを拠点に世界中のその種の活動に参加していらしたのである。
『反科学論』はこのような議論を踏まえて書かれたものなのである。
以来、精力的に書かれる論文を次々送ってくださることになった。
一方、私の書くものはお送りしないのにすべて読んで感想を送ってくださる。
日本にいる仲間でさえ気づかないような場に書いたものまで感想が来るので、オーストラリアにいらしてどうやって見つけるのですかと問うたほどだ。
その問いには笑って答えなれなかったが、あらゆる文献に眼を通しているとしか思えない。
お化けみたいな方だ。
当時送られたものを読みながら感じたことは、柴谷先生の根っこにはやはり図書館での出会いの時に見せた新しい知の情熱、その始まりとしての分子生物学へのこだわりがあるということだ。
その後もお二人は付かず離れずお互いの仕事を
刺激し合いながら各自の領域でお仕事をされ
ご活躍されていくことになられるわけですが
何がどうなったのか本当のところは定かではないが
お互いの”知”に対する考えに齟齬をきたすような
難しい局面を迎えることになった模様で…。
柴谷先生的には”ゲノム”に何か
物申したいことがあったのだろうか。
それにしても、柴谷先生が私に接して下さったような形でもっと積極的に生命科学研究の中にいる次の世代、次々世代に知的刺激を与えてくださったらよかったのにと思う。
ここでシャガルフを思い出す。
大きな知の人でありながら、その仕事に適切に評価されなかったことから気持ちを閉じてしまい、ある時から自身の中にある大きな知を仲間と分かち合うことを止めてしまったのである。
柴谷先生にもそのようなところが見られた。
あれこれ言うのは止めよう。
とても大きな知の人であると同時に本当に優しい方だった。
柴谷先生と中村先生の関係というのは興味深い。
中村先生のポジティブパワーに照らされると
保護色のようになるけれども、個人単体だと
なぜか鋭利でダークな光になってしまう
ようにも見えてしまうような恐ろしさを
柴谷先生は、元から備えていたのか、
途中でそうなったのか、年齢のせいなのか、
私のようなものには到底わかるはずも
ございませんですが。
ここはさらに研究テーマが増えてしまった感あり。
話を本に戻して、多田富雄先生への追悼文もあり
2000年初頭ごろに中村先生の周りで起きたことや
宮沢賢治、まどみちおさんへの研究発表もされていて
今につながっているわけなのですが
ご自分でもあとがきで書かれているけれども
書き下ろしではないため、この書を
まとまりに欠けていると、
寄せ集め感があるものだけれども
逆に自分はとてもとても深さを感じたし
中村先生の中でも重要な本なのではないかと思った。
一つ一つが短くて図らずも今風な気もするのだけど
こういう方が得てして本質を炙っていることって
往々にしてあったりするからなあ、と
しみじみ思った夜勤前の読書でございました。