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2冊の”人間機械論”を読んで考察に至らない件 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

人間機械論 (岩波文庫 青 620-1)


人間機械論 (岩波文庫 青 620-1)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1932/11/20
  • メディア: 文庫

人間機械論 から抜粋

人間は機械である。

また、全世界には種々雑多な様相化の与えられたただ一つの物質が存在するのみである。

これは問いと仮定とを積み上げたあげく打ち建てた仮説ではない。

偏見の産物でもなければ、予(よ)一個の理性の産物でもない。

もしも予の感覚が、いわば炬火(たいまつ)を振りかざして、予の理性の足もとを照らしつつ、予に理性のあとをついて行くように勧めてくれなかったならば、こんなに不確かなものに思っている案内人なんかは軽蔑したに違いない。

すなわち経験が理性の味方をして予に口をきいてくれたのである。

かくて予はこの二つをいっしょに結びつけたのである。


だが読者はつぎの点をお目に止められたはずである。

予は最も厳密な最も直接に引き出される推論をあえて用いる際にも、無数の科学的な観察の後で始めて行ったのであり、かかる観察はいかなる学者も異論をさしはさみえないものである。

しかも予が自分の引き出す結論の審判者として認めるものはかかる観察をおいて他にないのであり、これはすなわちすべての偏見を持った人間、解剖学者でもなければ、またここで通用する唯一の学問たる人体にかんする学問に通じてもいない人間を忌避する事である。


こんなしっかりした頑丈な檞(かしわ)の樹に対し、神学や形而上学や煩瑣(はんさ)哲学諸派の脆弱きわまる葦(あし)がなにごとをしうるというのか?

子供だましの武器である。


さてこれが予の説である。

というよりは、もし甚だしく誤りを冒していないならば、これが真理なのである。

短く簡単である。

さあどうかわれと思わん人は議論を戦わしてください!


機械である証拠に十項目を挙げておられるが


読んでみてもどうにも腑に落ちないものだった


のだけれども、そういうものなのだろうか。


時代背景から考え「霊魂」というワードも


出てきたりして一瞬ウォレスを思い出したりも。



形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫)

形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/01/14
  • メディア: 文庫

第7章 機械としての構造

1 生物は機械か


から抜粋


いまでは、

「人間は機械である」

と考える人はあまりないであろう。

むしろ、

「機械が生物並みになるのではないか」

を恐れる時代かもしれない。

しかし、それも、コンピュータやロボットの普及で、いささか取り越し苦労になってしまったようである。

たいていの機械が、日常茶飯事になってしまった。

生物が機械だという考え方を、何らかの形で最初に表明したのは、私の知る限りでは、さまざまな機械の作製においても天才的だった、レオナルド・ダ・ヴィンチである。


「おお、この我々の(人体という)機械の観察者よ、君は他人の死によって知識をもたらすからといって、悲しんではならない。むしろ、我々の製作者(である神)が、かくも卓越した道具に知性を据えつけてくれた事を感謝するがいい」

彼は、自分のスケッチの端にこう書き込んでいる。


レオナルドは特別だったかもしれないが、その200年後に、フランスの医者ド・ラ・メトリは『人間機械論』(1747)を書き、

「人間はきわめて複雑な機械である」

「人体は自らをゼンマイを巻く機械である」

などと述べた。

かれはヒトの精神もまた、とうぜん物質的基盤の上に成立すると説いたから、唯物論者とされている。


かれは、ヒトは時計だとも言ったが、この時代には、自分で動く機械といったら、時計ぐらいしかなかったことを考慮すれば、この言明が、それほど子供じみたものではなかったかもしれない、とご理解いただけるであろう。

哲学史では、ド・ラ・メトリの時代の思想が、ニュートンの機械論的自然観の影響を受けたと書く。

ニュートンが火をつけたか、レオナルド以来もともとあった小火(ぼや)が、ニュートンという風を得て大火となったかは知らない。

しかし、この機械論的自然観は、現代に至るまで、生物学にもきわめて大きな影響を及ぼすことになる。


ところで、生物が機械だ、という考えには、いろいろな違いがありうる。

こうした言い方は、すでに何度か出てきたが、けっきょく、ことばの定義に過ぎない。


このばあい、私は、機械は人間の一部だと考える。

機械は元来、ヒトが作り出したものであり、その意味では道具である。

道具は人体の一部だという考えは、古くからあった。

ヒトが作り出した道具が、人間の属性を帯びることに、じつは何の不思議もない。

そうならなかったら、その方が不思議である。

その意味でいえば、機械はもともと生物の一部であり、それを生きものと錯覚しても、考えようによってはあたりまえである。


機械とヒトの異同を考える人たちは、機械やヒトの中身について考えるのであろう。

機械は、その素材をみれば、無生物である。

しかし、純粋に形を考えるなら、素材は別に直接の問題ではない。

それは相似の項でも述べたとおりである。

そして、機械がヒトの一部だということは、素材は何でもいいことを、逆に示している。

こうした考え方が、じつは形を考える、ということなのである。


一般的にヒトと機械を論じるときに、その違いを考える議論がほとんど不毛だったのは、機械はじつはヒトなのだが、ただその一部にすぎない、という観点を落としたからである。

自分の手なり足なりを切り出して、はたしてこれが生物か、と議論してみても、おそらくムダだということは、たいていのヒトは理解するであろう。

だから、われわれは、機械を見るときも、人体を見る時と同じ観点から、観察する。

それを、そうでないと思うのは、相変わらず素材主義から抜けていないだけのことに過ぎない。


人間の身体の不気味さ、美しさというと


川端康成先生の「片腕」を思い出す。


文学にはそういうのが多くあると


ラジオの対談で養老先生おっしゃっていた。


だから、虫を気持ち悪いとかいうな


人間の身体だって十分きもいだろ


という文脈だった。


3 現代の機械論


から抜粋


ドーキンスに『生物=生存機械論』という書物がある。

これはいわゆる社会生物学を解説したものであるが、基本になっている考えは、遺伝子は生き延びるために、今までありとあらゆる手練手管(てれんてくだ)を使ってきた、というものである。

あらゆる環境をくぐり抜け、遺伝子は、じっさい、数十億年にわたって保存されてきたのだから、右のように表現したところで、それほど事実と食い違うとはいえない。

いまの世の中で、遺伝子にも意識があるのか、と疑問を発するナイーブな人が、そういうとも思えない。


この場合の「機械論」は、生物のある種の行動は、なんらかの前提、ここでは遺伝子の存続であるが、それをおくかぎり、まったく論理的に説明できてしまうというものである。

社会生物学は、その前提から、生物の利他行動というおかしな現象を、いとも数学的に、つまり没価値的に証明してしまった。

もっとも、このばあい、価値は、じつは遺伝子の保存ということに集約されている。

それが、自律的な機械という、古来の生物のイメージに、なんとなく反するところが面白い。


つまり機械論としての社会生物学の変わってる点は、個体の価値を「機械」的なものに置換したこと、つまり古くから暗黙の前提だった、「生きること」ではなく、「遺伝子の存続」のみに置き換えたところである。

従って、こうした「機械論」は、いわば目的論の変形であって、ここでいう物理化学的な機械論ではない。


初版は1986年なのだけどドーキンスの


『生物=生存機械論』とあるが、のちの


『利己的な遺伝子』でありまして


メトリ医師の言う「機械論」との関連性というか


類似性は養老先生曰く全く別のもので。さらに


人間=機械を最初に説いたのは、


かのダ・ヴィンチだったと。


気になることは養老先生が解いてくださった。


ちなみに、別の書になるのだけど



解剖学教室へようこそ (ちくま文庫 よ 6-6)

解剖学教室へようこそ (ちくま文庫 よ 6-6)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/12/10
  • メディア: 文庫

解剖ということだと日本では杉田玄白の

「解体新書」に流れを汲むもののようで、


杉田作の書はスケッチが線画で描かれていて、


その元となった図象が西洋の人体のスケッチは


デッサンのように精緻で養老先生はこれは


写真と同じだろうと指摘されてたのが


なぜか興味深かった。


そういう目と表現スキルを中世のヨーロッパ人は


持っていたということが。


話戻しまして肝心の「機械論」の根拠が


未だよく分からずこれは医学の知識がないかぎり


分からないのではなかろうか、みたいな気が


今更ながらしてきた休日の午後、


妻に子供の風邪が感染ってしまい、


ハウスハズバンドなひと時でございました。


 


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