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久米宏対話集 最後の晩餐(1999年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

■大橋巨泉■

 1934年、東京都生まれ。早大政経部中退。

 1966年、テレビ「11PM」の司会者となる。

 金曜日は釣り、競馬、マージャンなどのレジャーの世界、

 月曜日は、安保や沖縄返還問題をヌードと組み合わせ、

 高度経済成長のシンボルとしてもてはやされる。

 90年、ハーフ・リタイアと称して、カナダのビジネスに取り組む。

 環境・人口問題に造詣が深い。

 ーー

■大橋

ぼくには医者の友達が多いんだけど、人間の平均寿命がこんなに延びているけど、これは今がピークで、これからは落ちるんじゃないかと、ときどき話したりするんですよ。

なぜかというと、今の若い人たち、つまり養殖魚とか、農薬栽培のものを食べて、風邪ひいたといえば抗生物質飲んでる人たちが、自然なものを食べて、しかも、悪運強く生き残った我々の世代より長生きするとは思えないって。

バイオテクノロジーというのは、長いスパンで見ないとその結果が出てこないでしょう。

もしかすると、一世代過ぎてから影響が出るかもしれない。

だから、ひもじい思いをしたけれども、僕らの年で生き残った人は、非常に幸運かもしれないと医者の友達が言うのを聞くと、ああ、幸運なのかもしれないと思うんです。

■久米

私の友人でも、30代、40代の人は「おれたち、アトピーはできるわ、花粉症にはなるわ、これはいったい何なんだ。こんなこと年寄りにはない」と言いますね。

■大橋

おれらは花粉症にならないもんね。

■久米

でしょ。アトピーなんていうのを聞いたのは、ここ10年くらいでしょ。

本質的にDNAが変わっちゃったんじゃないかと、彼らは非常に不安がってますね。

■大橋

ぼくも、それが一番心配だね。植物はもうクローンができているけど、今度、クローンの動物もできるようになったでしょ。そういうものを食べた影響というのは三十年、五十年経たないと出てこないわけだから。

ぼくは科学的なことはわからないけれども、そういうことを考えると、やはりラッキーだったんだと思うわけね。

完全な人間はいないというのが、ぼくの人生哲学なんです。

ちょっと日本語にはなりにくいんだけど、英語で言うと

You can’t have everything.

おまえは全てを持つわけにはいかんのだ、ということなんだけどね。


平均寿命について、ここ20年の数値を見ると外れてると言わざるを得ない、日本は延びて世界一とかだっけ。


これから先、どのようになるのか興味ありますが。


巨泉さん、政界に一瞬、進出されたのはいつだったか。


小泉元首相に噛みつかれてましたよね。


でも、あんなもんじゃないんだよね、この人の凄さ、というか頭の良さは。


結局尻窄みだったのが至極残念だったけど、元々日本の政界には、多分、合わないよね。


■美輪明宏■

 1935年、長崎県生まれ。本名、丸山明宏。

 51年、上京、17歳でシャンソン喫茶「銀巴里」で歌手デビュー。

 56年当時としては大胆な紫ずくめの女装で注目を集める。

 64年、自作「ヨイトマケの唄」を発表、大ヒット。

 68年には三島由紀夫脚本の「黒蜥蜴」に出演。

 71年に、現在の美輪に改名。

 ーー

■久米

食べ物に関心がないというよりも、さっきのお話と関連づけて考えますと、食べようと思えば美味しくものを食べられる肉体があるだけでもありがたいことだというわけですね。

■美輪

そうなんですよ。ありがたいと思えば、ありがたいものはいっぱいある。

それで自分はなんと幸せなんだろうと思えるんですね。

■久米

食べられる肉体があれば、なんでもいいと。

■美輪

そうなんですよ。そうすると、この世の中で怖いものなんてないんです。

いちばん怖いものは自分ですよね。自分の心のあり方ですよ。

自分の敵は自分。ほかには何にも怖いものなんてありません。

■久米

自分の心のあり方というのは、ややもすると……。

■美輪

落っこっていきますからね。堕落しちゃって、どんどん落ちていく。

それを、ある程度の水準で保ち続けることが必要なんだけど、これが大変なんです。

■久米

よくわかります。

■美輪

でも、それは闘いだけれど、楽しみでもあるんですよ。

昨日より今日。今日より明日というふうに、どれだけ自分を高めていくことができるだろうなって。

十年周期で思い出すんですね。十年前は一つの問題をこう考えてた、こうだった、ああだった、と。

で、今はどうなんだと。

そしたら、あ、ずいぶん成長したなと思うんですよ。私、30になった時に、もうこれ以上、成長しないと思っていたんです。

ですけど、40になってみて、30代のことを考えると、なんてガキだったんだろうと思うんですよね。(笑)

そういうこと、おありにならない?

■久米

しょっちゅうです。ぼくの場合あまり成長してないようですけどね、

高校時代とさほど変わらないような気がするんですけど、自分では(笑)。

■美輪

で、50になると、また、全く見えないものが見えてきちゃったりして。

だから長生きはするもんですよ。

(中略)

人間って不思議なものでね。人生、何度も帰路が来るじゃありませんか。

もうおしまいだっていうようなこともある。

そういうときにいちばん必要なのは何かっていうと、理性と知性なんです。感情はいっさいいらないんですよ。

ところが、普通の人は逆なんです。追いつめられると、感情的に泣く、喚く、酒を飲む。

だから翌日になっても、問題は何も解決してないんですよ。

酒屋のツケが回ってくるのと、お酒がオシッコになって流れるだけ。

昔の御武家様というのは素敵でしたね。

何か一大事というときに、えい騒ぐな、ざわざわと見苦しいと、毅然としていますでしょ。

だから、山一證券の社長さんみたいに、泣きながら会見するのは、本当に見苦しいと思いました。

こういう人だから、会社が潰れるんだって。

■久米

それはちょっとかわいそうかもしれませんけれども(笑)。

追いつめられた時ほど理性的になれというのは、よくわかります。

論理的に自分を分析する以外、解決方法がないですよね。


美輪さんは本当に言っていることが一貫してる、言葉遣いも美しい。


うちの母親が新宿ACBにいらした美輪さんと遭遇したのがはや70年くらい前なのかな。


上京して初めて見た有名人だったらしい。


 


唐突で全然関係ない余談ですが、昔恵比寿にある某スポーツ店の


Webの仕事してたんだけど、そこにいらしてたジャイアント馬場さん。


異様にガタイが大きかった、当たり前だけど。


プロレスはほぼ興味なくて申し訳ないんですが、そんな思い出もありつつ。


馬場さんと対談を終えた久米さんの記された文章で締めでございます。


ジャイアント馬場氏は、兄上を戦争で失くしている。

ガタルカナル島で、兄上は戦死した。ガタルカナル島は、「ガ島」「餓島(ガトウ)」とも呼ばれた。

南太平洋、ニューギニアとフィジーのほぼ中間に位置する小さな島だ。

1941年12月8日の真珠湾奇襲に始まった太平洋戦争。

その翌年の12月31日、日本軍はガタルカナル放棄を決定する。

結局、ガタルカナル島で、日本兵32000人の内、21138人が命を落とした。

この犠牲者は、半数以上が餓死あるいはマラリアによるもので、戦闘で死亡した兵士は半数以下なのだ。

太平洋戦争での日本兵の死者は、特に南方での戦線は、戦って命を失った兵士よりも病死者の方が多かった

ここに、日本軍の、つまり日本そのものの致命的欠陥があった。

 

ジャイアント馬場氏の兄上が、どういう最期をむかえたのかはわからない。

ただ本当に悔しい最期であったろう事は想像にかたくない。

その悔しさ、悲しみを、弟の馬場氏は、いつも背負っていたのではと、今にして思い至る。

リングの上で、ジャイアント馬場氏は、いつも「悲しさ」と闘っていたように思えてならない。

 

ジャイアント馬場氏と弟さんより50年以上も早く死をむかえてしまった兄上に、

心からご冥福をお祈り申し上げる。

久米宏


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