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2冊から阿部謹也先生に想い馳せる [’23年以前の”新旧の価値観”]

当然のことながら、私はなんの関係も


ございませんが、昨今阿部先生の関連書を


数冊拝読させていただいております。


毎度の事ですがアンダーラインは私視点でございます。
阿部謹也自伝


阿部謹也自伝

  • 作者: 阿部 謹也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/05/24
  • メディア: 単行本

第一章

鎌倉の暮らし から抜粋


 私の父は昭和18年1月8日に死んだ。

肝硬変であった。


その知らせが入ったとき私たちは鎌倉にいた。

皆で東京に向かう車中で私が鼻血を出した。

すると義姉が「お父さんはもう駄目だ」と言った。

肉親が死に掛けている時に鼻血などの出血をするものがいるとその肉親は助からないのだという。

その時は私のせいで父が死ぬのかと不思議で気味が悪い気がしたが、このことは後年に中世史研究の中で思い出すことになる。


神判の世界とケガレ」を書いているとき、参籠起請(さんろうきしょう)の問題に行き当たった。

鎌倉幕府法の中の文歴二年(1235年)の式目追加に起請文失条の編目として「鼻血を出すこと」があげられている。

誓いを立てて参籠している者の身に何かが起こったとき、その者の起請は偽りとされたのである。

その一つに鼻血があった。

状況はかなり異なっているが、近親に死者が出ることも同じ失(しつ)にあげられており、八百年の時を隔てて呪術的な観念が伝えられていることになる。

義姉は後に高野山で尼となったから、そのような感覚を普段も持っていたのかもしれないが、鎌倉という土地の性格も与っていたように思う。


川越への疎開と敗戦 から抜粋


ある日私の祖母は叔父達が集まっている中で突然

「この戦争は負けだね」

と言った。

叔父たちがあわてて

「そのようなことを言っては駄目だよ」

といさめたが、祖母は

「日本の飛行機がアメリカを空襲したという記事があったかね。それなのに日本は毎日空襲されているだけじゃないか。負けに決まっているよ」

と言って聞かなかった。

何かを聞かれて私が

「そのときは僕はもうおばあさんの孫ではないんだよ。天皇の子なんだから」

と答えたことがある。

すると祖母は

「そうかいそれじゃ、天皇さんに食わしておもらい」

と言って私を黙らせてしまった。

この祖母は戦争が終わったとき、これからは

「天皇さんに秋刀魚が焼けましたからどうぞ、と言って持って行けるようになるよ」

と言っていた。

しかし実際にその予言は当たらなかった。


秋刀魚の予言はあたらなかったとはいえ、


戦争は負けると言い放つこのときのおばあさんの


言いっぷりはさすが年長者だけあって鋭い。


周りは今でいう同調圧力、忖度が当たり前の中


一人だけ本当のことを察知されていた。


しかし大人から子供まで国に欺かれていた


記憶というのは決して消えることはなく、


この時期はわかりやすく”終戦”という形を


とっているから良い(のかは置いといて)として


昨今のわかりにくい欺かれかたは


何に怒りを持っていけば良いのか。


なんて暗くなるからいったんやめとこう。


敗戦の詔勅を聞いたのは所沢の駅前であった。

母と二人で鎌倉まで荷物をとりに出かけた帰りに西武線が停車し、皆電車から下ろされて駅前の店に集められた。

ラジオから天皇の声が聞こえたが雑音が多くて私にはよく解らなかった。

 

前にいた中年の男性に

「これからどうなるのでしょうか」

と尋ねた。

するとその男性はひと言

「ますます食えなくなるんですよ」

と答えた。

それを聞いて母は

あんなにぞーっとしたことはない

とあとで語っていた。

そうでなくでも戦時中は食うものにはなはだしく事欠いていたから、これからますます食えなくなると聞いて前途に絶望したのだと思う。

実際戦時中よりも敗戦後のほうがはるかに食糧難は厳しかったのである。


牛込にて から抜粋


そうこうしているうちにまた引っ越しをすることなった。


戦後の混乱まだ続いており、母親一人の力では生活が成り立たなかったからである。

母は私たちを預けて自分は働きに出る決心をした。

問題はどこに預けるかである。

母はさまざまな施設を見て歩いた。

その結果無料の施設は母の気に入らず、有料だが、設備その他が良さそうだということで、あるカトリックの施設にゆくことになった。


カトリックの修道院にて から抜粋


教会の敷地の中に掘っ立て小屋があり、そこに一人のおじいさんが住んでいた。

彼は靴の修理をしたり、ちょっとした大工仕事をしたりして生計を立てていたらしい。

住まいは二畳ほどの部屋だけで、きわめて貧しい生活をしていた。

彼はミサに行かなかったし、教会の行事にも参加しなかったから、修道女達から疎まれていた。

私はどういうわけか彼が好きでしばしば彼の小屋を訪ねた。

ゆけば必ず何かのお菓子をくれたからかもしれない。

しかし修道女達は私に彼のところに行ってはいけないと言っていた。

そのおじいさんが亡くなったのである。

その時神父は葬式の説教の中で

「この人は現在は煉獄にいるでしょう」

と語ったのである。

煉獄とは普通の人が死んだ時、全ての罪を償ってはいないから、その償いが済むまでしばらく滞在する場所としてヨーロッパ中世後半の教会によって考え出された場所のことである。

私は神父がおじいさんは煉獄にいると断言したことが気に入らなかった。

そんなことは人間にはわからないのではないかとおもったからである。


この後、蛇の話が出てきてシスターが


悪魔の使いだから殺すように


と言われ違和感を抱くエピソードも。


阿部先生のマインドはカトリック教会で


培われたのが大きいのですね。


 


余談だけど、煉獄って文字は今の子供は


みんな読めるはず。


鬼滅の刃』にその名のキャラがいるってのは


全くどうでもいいことでした。


 


帰京 から抜粋


話はやや先走るが、それから十年以上あとのことである。

私は大学院生として研究生活を送っていた。

もちろん生活が不安定であったから、アルバイトをしなければならず、思い立ってその頃高等学校の校長をしていたこの校長先生を訪ねて、非常勤講師の口の紹介をお願いした。

すると彼は意外なことを言ったのである。

当時私は一橋大学で歴史家の上原専禄先生のゼミナールに入っていた。

上原先生は当時日教組の講師団の一人であった。

校長先生は

「あなたを非常勤講師に紹介することはすぐにでもできますが、その前に上原先生のゼミナールをやめてください」

と言うのである。

それができなければ紹介できないという。

私は呆気にとられたが、すぐに事態を理解し、お礼を言ってその場を去り、以降二度とこの校長と会うことはなかった。

このとき私ははじめて日本的な行動様式に気づいたのである。

この校長は卒業式で西欧的な近代の図式に基づいて告辞を行なった。

西欧近代的な行動様式を中学生に教えたのである。

しかし現実の彼の行動はそのような図式に基づくものではなかった。

彼は日本的な行動様式にのっとって私に忠告したのである。

このときはじめて私は「世間」の存在を予感したのだと思う。


そのころ私の家は大泉学園にあった。

母はそこで中華料理の店を出していた。

私は受験勉強の合間に出前などを手伝っていた。

私が出前を持っていく家の一つに牧野さんという家があった。

いつも注文は焼きそばに決まっていた。

その家には白髪のおばあさんがいてこの人が焼きそばを好んでいるという話だった。

私はいつも縁側から出前を持って入り、直接そのおばあさんに渡していたのだが、ある時その人が有名な牧野富太郎博士だと聞いた。

私はおばあさんだとしか思っていなかったので驚いてしまった。

 

牧野博士とほとんど話をしなかったが、ある時私に学生なのかと聞き、今何を読んでいるのかと質問があった。

博士は何をやるにしても外国語はきちんとたくさん学ぶ必要があるということを何度も繰り返しおっしゃった。

別の機会には厚い紙の間に挟んだ植物の標本を見せていただいた。

残念ながら私は植物学にその頃は関心がなく、牧野博士と話をしながら、何かを学ぶという姿勢がなかった


中華料理の店で私が手伝っていたのはほとんど出前だった。

料理を入れた岡持を持って自転車で運ぶことには慣れたが、客との対応にはなかなか慣れなかった。

 

ある時アメリカ兵が二名店にやってきた。


私が呼ばれて二人の注文を訊いた。

たまねぎの料理が食べたいといっていることは解ったが、どのように調理するのかは解らなかった。

調理人が適当なものを作ったらしい、食べ終わると二人はガソリンが欲しいので案内してくれという。

近所の燃料店に連れていくと、タンクいっぱいのガソリンを入れさせて、今は金がないから後払いに来るという。

店の主人は文句も言わず、言う通りにしてやっていた。

占領軍には逆らえないと思っていたのだろう。

一週間ほどして忘れた頃、二人の米兵がやってきて、先日のガソリン店に行こうという。

一緒に行くとタンクに持ってきたガソリンを店に返したのである。

私も店の主人も米兵が約束を守ったことに感心していた。

ガソリンを返し終わると米兵は私を家まで連れ戻り、そこで帰っていった。

高校一年生の私を彼らはまるで大人として遇していたように思う。

日本人との違いをここでも感じていた


お母様のバイタリティすごいです。


中華料理店かあ。


戦後すぐの日本人はそういう方多かったのだろうな。


今でも本当に生活に困ったら


なんとかして生活の手段を考えるだろうけど


かくいう自分も然りで今があるけど


ここまで過酷じゃないですわな。


過酷を極めている方も多くいると


思いますが…。


 


日教組と先生達の関係っていまだに


なんとなくしか分かってないし


これからもわかる予定ないのだけど


これはひどいよなあ、と。


でも、そのおかげで阿部先生スピリットが


覚醒されたのかもしれないのだけど。


 


牧野富太郎博士といえば、今NHK朝ドラの方


若き日の阿部先生との邂逅があったのですね。


残念ながら早かったとしかいえないけれど。


その和洋の対比として米兵のエピソードを


引いたわけではございません。


単に興味あるものを拾ったらそうなっただけで


深い意図はございませんので。


コミュニケーションができた阿部青年に


対する成果だけで人を見るという姿勢は


今も日本は見習った方が良いという点で。


 


しかしこの本を読んでいると養老先生との


共通点が多く散見されるでございます。


養老先生もそのことを隈研吾さんと


廣瀬通孝さんの対談で指摘されていた。


廣瀬さんというのは東大教授で


生命知能システム研究者とのこと。



日本人はどう死ぬべきか? (新潮文庫)

日本人はどう死ぬべきか? (新潮文庫)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/04/26
  • メディア: 文庫

第五章 日本人とキリスト教的死生観

質実剛健で軍隊式の教育 から抜粋


養老▼

僕は一橋大大学で学長を務められていた阿部謹也さんと、もう少しちゃんと話をしておきたかったと思っているんです。

 

隈▼

阿部先生は2006年に惜しくも亡くなられて。

 

養老▼

なんでかというと、一橋の学長を六年間もされていたから、お忙しかったんですよ。

最近、『近代化と世間』という阿部さんの本を朝日新聞出版が文庫にするというので、解説を書かされたんですね。

それで『阿部謹也自伝』を読み直してびっくりしたんですが、彼は鎌倉のご出身で、僕より二つ上なんです。

 

廣瀬▼

そうなんですか。

 

養老▼

僕は昭和17年に親父を亡くしているんですが、阿部さんも戦争中に父上を亡くされている。

母親に育てられたというところが、まず同じなんです。

 

廣瀬▼

しかも鎌倉という同じ場所で。

 

養老▼

あのころ、駅前に明治製菓の店があって、そこで最後に食えたメニューが焼きリンゴだったんですよ。

何しろ、ほかに何もない時代でしょう。

その焼きリンゴがうまかった、という話が自伝には書いてあって、僕と同じ思い出が残っているの。

 

隈▼

阿部先生の「日本には『世間』は存在しても『社会』は存在しない」という問題意識から、日本世間学会が生まれましたよね。

 

養老▼

僕も世間とはどういうものか、という問題を別の方から考えていた。

そのことも、まったく相通じるんですよ。

さらに、彼は中学生の時にドイツ系の修道院の寄宿舎に入っているんですよ。

そもそも司教さんになりたかった方なんですね。


お二人の深い対談を、マジ読んでみたかったよー。


二、三冊は出せたよ、この二人の知の巨人なら。


和洋の違いを中心として中世と近代の話から


ユニークで洒脱な雑談も含めて。


 


話を阿部先生の書にフォーカスし直して


興味深くて発見が多い。


小さい頃から金持ちでエリート道を


約束されていた人たちとは明らかに異なる。


貧しくて、でも勉強はされてて


身体壊して入院して退院して勉強続けて


その時期惹かれる人とつるんでたら


それが間接的な理由でなかなか就職できないとか。


書籍全体にうっすらと漂うソフトでマイルドな感じ


幼少の心の残っている人なのだなあと。


 


普通は大人になるとそういうのって


良い悪いでなく、無くなってしまって


大人になりきるのが主流と思うし


権威ある職域におられる人だったら


ふんぞりかえってナンボ的な所あるものだけど


少し変わった人なのだなあ、と。


 


同時に自分もそういう要素少し残っていて


残念ながら権威は全くないのだけど


性質的に似ているから気になるのか、と


いつものどうにもならない分析みたいのを


しながら拝読させていただいておりますが


休日のためそろそろトイレ掃除をしてきます。


雨の関東地方、梅雨も近いのかなてなことを


思っております。


 


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