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3冊から阿部謹也先生に想い馳せ続ける [’23年以前の”新旧の価値観”]

前回からの続きでございます。



阿部謹也自伝

阿部謹也自伝

  • 作者: 阿部 謹也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/05/24
  • メディア: 単行本

第三章 

結婚 から抜粋


博士課程の最後の頃、私は東京聖徳学園の非常勤講師として教えていた。

すでに述べたように文書実務の授業の中で金子光晴を読むことに楽しみを見出していた。


この頃私は同じ高校の別の教師と付き合っていた。


結婚したいとすら思っていた。

彼女もその気があったようで、両親にあって欲しいと言う。

ある時、目黒で彼女のご両親と兄に会った。

兄は医科大学の助手で、私に

「1日の治療費に25万円もかかる病気があるんですが、あなたは妹がそのような病気になった時支払うことが出来ますか」

と聞くのである。

彼らは私の家の事情を興信所を使って調べていたらしい。

このような質問に今なら答えることが出来るが、あの頃の私には答えられなかった。

両親は私との結婚に反対していた。

理由は私が職もなく、貧しかったからである。


学生達と山に行くことになったのはこのような時であった。

一緒に山に行ってみると、清都さんは先の彼女とはまったく違って積極的で活気があった。

たとえば原宿で待ち合わせをしていた時のことである。

彼女は5分ほど遅れてきたが、私にぶつからんばかりに駆けてきて、「遅れてごめんなさい」と謝るのである。

彼女とはいろいろな面で話が合い、しばらくして結婚を考えるようになった。

私は当時は就職もしていなかったから、ご両親は賛成ではなかった。

しかしご両親が反対しても彼女は家を飛び出してくる決意であった。

こうして私は博士課程を終了する直前の三月に結婚した。

新婚旅行に那須に出かけ、帰ってから増田先生の家に挨拶に行ったところ、学術振興会の奨励研究生に採用されたことを知った。

月に2万5千円だった。

これと彼女の給与を合わせれば二人で充分暮らしてゆけた。


興信所を使って家族を調べられるって


そんなのは嫌だなあ、と思うけど


家族のことを思うとそういう行動になるんかなあ。


相手が働いてないっていうのは


確かに心配だけどねえ。


 


その後、気の合う人と結婚されたご様子で


そこでも当初は就職してなかったってのも


なかなかですがねえ。


 


自分も結婚して半年くらいで会社辞めて


就活してたりしたから人のことは言えませんが


それも先生と同じというのは僭越ですが


「若さ」なのだろうなあ。


 


その後、阿部先生は小樽の大学に就職を


されるのだけど…。


 


第四章


ドイツの生活 から抜粋


1969年10月1日に私は羽田空港からハンブルクに向かった。

アレクサンダー・フォン・フンボルト財団の奨学生に採用されたためである。

すでに学部学生のころから親交のあったボン大学のフーバッチュ教授からは早くドイツに来るようにとの連絡があり、私も行きたかったのだが、学部学生の身では出かけていっても自分の望むような研究はできないと思っていた。

大学院で研究の道筋を付けてからドイツに行きたいと考えていたのである。

博士課程の単位習得論文を提出し、一応の道筋がついたと思ったので、小樽商科大学に行ってから、教授に手紙を出し、そろそろ出かけたいという意向を伝えた。

するとすぐに教授からフンボルト財団に推薦書を書いたから、応募するようにとの連絡があり、ようやく渡欧が実現したのである。


ゲッティンゲンの人々 から抜粋


ボンには半年しかいなかったが、ゲッティンゲンでは家族を呼び寄せて一年半過ごした。


ゲッティンゲンの家の前に大学のギリシャ語の講師が住んでいた。

彼の娘と私の長男が同じ幼稚園に通っていたので親しくなり、行き来するようになった。

あるとき日本から持って行ったお土産を彼に渡した。

すると彼は「これはクリスマスに頂きたかった」といったのである。

私はドイツの贈与習慣が日本とは違うことに初めて気がついた

習慣の違いについてはこんなこともあった。

すでに述べたように私は毎日文書館(もんじょかん)に通っていた。

時には大学にも行ったが、そこでハンス・バッツェ教授と知り合った。

彼もしばしば文書館に来ていた。

あるとき大学で書物を借り出すのに彼にいろいろ助けてもらったことがあった。

それからしばらくして町で教授に会った時、日本流に

「先日はありがとうございました」といってしまった。

すると彼は怪訝な顔をして

「それで?」という。

私は困って先日お世話になったということをもう一回話した。

すると彼は

「もう一度して欲しいのか?」

というようなことを言ったのである。

このような体験から私はドイツでは

「先日はありがとうございました」

というように遡ってお礼を言う習慣がないことに気づいたのである。

ついでにいえばドイツだけでなく、欧米の言葉には

「今後ともよろしくお願いします」という日本語の常用句もないのである。

日本人なら誰もが使っているこの種の言葉がないことをどのように説明するのか。

私はこうした問題をやがて「世間」という日本独自な概念の分析を通じて説明することになるのだが、この問題については後に譲りたい。


第九章


高村光太郎 から抜粋


日本人の西洋史研究についていえば、ヨーロッパが私たちにとって自明の世界でない以上、まずその世界の全体を捉えようとしなければならないことになる。

その際に問題になることは、研究の主体である自己がどのような世界で生きているのかを無視してヨーロッパ世界の全体を捉えようとするような方法が間違っているということである。

光太郎が抱え込んだ矛盾は日本とヨーロッパの違いの問題であり、具体的にはヨーロッパの個人と日本の個人との違いの問題なのである。


日本の「世間」にはじめて気がついたのはドイツに留学していた最後の頃であったが、ドイツ人と付き合う中で、私は自分が日本にいるときとは全く違った社会にいることを日々感じていた。

日本にいるときにはいつも他の人々から見下されているような感じを受けていたのだが、ドイツでは全くそのようなことはなかった。

日本では何時でもどこでも誰かから評価され、試されているように感じていたのだが、ドイツではあるがままの私を受け容れてもらっているように感じることが出来た。


「世間」を対象化する


私が貧しく、日常生活にも事欠いていたために、日本で学問の場に身を置くことの劣等感を抱いていたのだろう。

ある教授は家が貧しいものが学問をするなどということはとんでもないことだと公言していた。

実際私は経済的な理由でゼミナールの年中行事に参加するのさえ難しいことが多かった。

こうした自分自身の事情からも、私の日本の「世間」が影を落としていることは明らかであった。

私は「世間」を研究しなければ日本の事情はわからないと確信するようになっていった。

そしてさらにヨーロッパでは何故個人が日本と違った発展を見たのかも明らかにしたいと思った。


贖罪規定書」を読み、告解のあり方の変化を学ぶことで、キリスト教の広がりが個人の成立に果たした役割を知ることとなった。

こうしてドイツにいる間に個人の成立についてはある程度の見通しをつけることができた。

しかし「世間」については日本に帰ってから手をつける以外にはなかった。


そのような中で差別の問題が解決の糸口をつけてくれた。

ハーメルンの笛吹き男』の研究の中ですでに私は差別の問題と関わることになっていた。

笛吹き男が何故差別されたのかを明らかにしなければならなかったからである。


やがて刑史が差別されていた状況もハンブルクの文書館で調べることが出来た。

こうした研究の成果が日本で出版されてゆく中で、日本における被差別部落の差別の問題と関わることが増えていった。


日本の差別にかかわりをもって以来「世間」の研究はひとつひとつ縄がほどけるように進んで行った。

「世間」の構造についても徐々に見通しがついてきた。


まず日本の古代の文献から「世間」とかかわるものを見てゆくと、文学作品と仏教の経典に「世間」の原型を見つけることができる。

その中でも『日本霊異記』には贈与・互酬の関係が明瞭に示されていて、興味深い。

それは仏教を庶民に普及させるための説話集であるが、同じような目的でヨーロッパで作られたキリスト教を普及させるための説話『奇跡を巡る対話』と比較してみると、その違いが明瞭に浮かび上がってくる。


『日本霊異記』の説話集には贈与・互酬の関係が明瞭に示されているが、『奇跡を巡る対話』にはその関係が全く見られない。

贈与・互酬の関係の核にあるのはキリスト教以前の世界にあった呪術である

ヨーロッパではすでに見たように贖罪規定書において呪術は全面的に否定されていたから、贈与・互酬の関係はキリスト教の浸透とともに消滅していったが、日本では今日に至るまで呪術を禁止するという動きは見られなかったから、贈与・互酬の関係は現在まで生き残っている

この場合の贈与・互酬の関係は人と人との間だけでなく、人とモノや動・植物との間でも結ばれており、人と天体との間でも存在している関係である。


たとえば、上野公園の不忍池の側にはさまざまな供養碑がある。

魚の供養や料理人の供養、時計の供養などが営まれているが、その種の供養も欧米には無い。

このように見てくると、日本人は周囲の動物や植物と意識的に共生の世界に生きていたように思えてくる。

このような事実を無視して、欧米の文化だけを取り入れてきたこれまでの私たちの生き方は正しかったのだろうかと反省を迫られるものがある。


このほかに共通の時間意識の問題がある。

「世間」の中においては人々は共通の時間意識を持っている

その点で欧米の人々とは違っている

私たちが初めての人に会った時に、

「今後もよろしくお願いします」

と挨拶することが多いが、このような挨拶は「世間」の中で暮らしている者同士が又何時かどこかで会うことがあるから、そのときのためのお礼の先払いなのだが、欧米人には一人一人が自分の時間を生きているから、「世間」のような共通の時間を生きているわけではない。

したがって欧米にはこのような挨拶はないのである。


この後最終章で「日本世間学会」の発足と


感謝が述べられる。


この書では、阿部先生の幼少期から学生時代


学問や語学に興味を持たれるようになった恩師や


学友との交流や海外生活からのブレイクされた著書


『ハーメルンの笛吹き男』の着想を得たエピソードや


学生紛争時の教育現場や、文科省との確執など


一般的にはこちらがメインと思われるのだけど


捻くれているからか、そこは一旦スルーで


阿部先生のベースとなった興味ある逸話や


「世間」をフォーカスさせていただきました。


 


前回、養老先生と書籍を出して欲しかったと


書きましたが、対談がございましたので


引かせていただきます。


 


見える日本、見えない日本―養老孟司対談集

見える日本、見えない日本―養老孟司対談集

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 清流出版
  • 発売日: 2003/11/1
  • メディア: 単行本

”世間”から飛び出して生きる

コンピュータは”世間”を壊せるか から抜粋


阿部▼

昨年出した本の反響で印象に残ったのは、あるコンピュータ技師からもらった手紙です。

コンピュータ関係の若い世代では”世間”は崩壊しているのではないかと。

そう感じさせたものはインターネットで起こっている論争です。

”世間”というのは顔や体が見えないから、争いはエスカレートする。

これはおもしろい。

ただ、私は世間を考えるときに基本的に変わらない部分に注目します

本当の変化は長い目で見なければ分かりません

 

養老▼

そう思いますね。

私は仕事柄、現物を見てきました。

インターネットは現物ではなく抽象の世界で、五感のすべてによる関係ではありません。

学会の論争みたいなもので、あれは世間と関係がない(笑)。

「世間」とは何か』で最も共感したのは日本人の考え方についてですね。

日本人はものごとを考えるときに、最初に自分なりの”世間”を漠然と想定する。

家族、近所の人、勤め先の人たちという、まさに顔の見える範囲の人たちの重層構造になっているのでしょう。

彼らの反応を予想してから自分の行動を決めるわけです。

外国に対しても同様なことが言え、米国人や韓国人の考えを推し量ってから対応する。

よく言えば己を無にしているわけですが、それは意識の部分で、無意識の部分では固く保守的です。

周囲が「お前はどうしたいのか?」と聞いても、返事がない。

だから”ずるい”と評価されてしまうわけです。

あるいは、米国が日本に対して「自立しろ」と言う。

けれども、主張がないから自立も何もない

その辺りがいま、日本全体の問題になっているのではないかと思います。

 

阿部▼

日常的な会話の中で、「〇〇が好きですか?」という質問にさえ率直に答える人は少ないですね。

「個人的には」という前置きがつく

その場で自分の好みを言って良いかを考え、枠の中でしか発言できないんです。

いったい、”個”とは何かという話になるわけです。

先日、赤面恐怖症の話が出たんですが、赤面恐怖症で問題になるのは、家族や全くの他人の間ではなく、その中間の人に対して起こるということなんです。

つまり”世間”ですね。

身近ではないが暮らしていくうえで関係のある人の間に入ったときに、赤面恐怖症が起こる。

これはヨーロッパなどにはないそうです。

世間に対して緊張するのは、期待されている役割を演じなければならないからです。


この後、明治以降の日本の変化などにも触れられて


短いのだけれど、興味は尽きない深さでございます。


さらに思い馳せ、ただいま現在の日本。


昨日閉幕した広島サミットG7ですか。


これには引いておきたい文章がございます。


別の書籍からで恐縮です。


読書力をつける (知のノウハウ)


読書力をつける (知のノウハウ)

  • 作者: 阿部 謹也
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版
  • 発売日: 1997/03/01
  • メディア: 単行本

 


第四章 生きる知恵を学ぶ

「世間」の中でいかに生きるか から抜粋


欧米の人々は、自分たちが暮らしている近代西欧社会の価値が普遍的であって、日本にも通じるはずだという傲慢な人間理解をもっている場合が多いのです。


日本の「世間」というものは、外国人には理解ができないのです。

そして、日本人もそれを対象化してはとらえていません実感として知っているだけです。


哲学の主題は「いかに生きるか」という問題に尽きると思います。

「いかに生きるか」というときに、人類の過去の知恵がどう役に立つかということです。

そのときに、日本の「世間」というものを全く無視して学者たちが現代日本の社会について書いたものが、はたして役に立つでしょうか。


日本人が「自分とは何か」と問うときに必要なのは、やはり、「世間」という自分たちが置かれている社会の特異な構造を把握して、その「世間」の特色をつかみ、そのなかで生きていく上でヨーロッパの古典が必要かどうかをまず問うことです。


ざっくり、かつ、はしょりすぎてはおりますが


阿部さんが「世間」からこだわられた


ヨーロッパの古典というのは


こういう流れだったのか、と思ったり。


自分は「世間」の特色を掴むどころか、


ご指摘の通り実感しているだけだなあと思ったり。


グローバリズム、大丈夫かよ、とか。


大丈夫なわけないじゃん、とか。


 


忙しくて読書の時間がないと嘆きつつ


新たなテーマにぶち当たり、


何時間あっても足りねーなーと


思う今日この頃でございます。


 


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