SSブログ

2冊から養老先生の読書→人生を参照・考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

バカの壁』以前の養老先生の書を


読み続けて、さらに先生が


教員時代から退官後数年の


狭間の書を読んでみた。



本が虫: 本の解剖学 2

本が虫: 本の解剖学 2

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 法蔵館
  • 発売日: 1994/12/10
  • メディア: 単行本


 


 


IV ふたたび本の読み方 から抜粋


本を読むのは楽しいが、生産的ではない。

学問上の恩師には、太陽の光で本を読むなと教えられた

ローソクやホタルの光で読め、というわけではない。

日中は体を動かして働けというのである。

これも拳拳服膺(けんけんふくよう)したことはないが、太陽の光で本を読むと、いまでもすこしうしろめたい。

もっとも、恩師にしてもこれをそのまた恩師に言われたらしい。


本の読み方にもいろいろある。私の場合には以下の通りである。

いちばん丁寧に読むのは、外国語の本を翻訳する場合。

外国語で書かれたものは頭に入りにくいから、丁寧に読むなら翻訳するのが結局早い。

さもないと、本人は読破したつもりでも、内容を正確に覚えていない。

わかるようにしか読んでいないらしい。

仕事関係のものは翻訳しても出版するとは限らない。

日本語にするまでにはずいぶん丁寧に読む。

中味をひとりでに覚える。

それをねらう。


粗密がひどいのが、書評のために読む場合

必要なところは丁寧に読まないと、誤読して恥をかく

面倒なところはとばさないと期限に間に合わない

こういう読み方は好きではない。

読まなくてはならないと思うと、面白い本もつまらなくなる

本は楽しみに読むのがいちばんいい。

寝ころんで好きな本を読む。

読み終わるまで仕事は一切お断り。

途中で電話がかかるとむやみに腹が立つ。


わかります。


しかし微妙なのはこのブログ。


読まないと投稿できない。


なので読むという義務が発生。


楽しみが若干減る。


しかし量はおかげで増える。


薄いけれど増える。


増える中から吟味して掘る。


結果オーライと言えなくもない。


話を読んだ書籍に戻しませう。


この書は、フォーマットが同じ装丁の



脳が読む: 本の解剖学 1

脳が読む: 本の解剖学 1

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 法蔵館
  • 発売日: 1994/12/10
  • メディア: 単行本

と双子のような存在、


あとがきが同日に書かれている。


この頃は養老先生、人生の過渡期というか


東大の教授を辞するタイミングで


論文や教育現場から、北里大学を経由して


ヤクザな世界、作家への道へ入るところ。


 


上の2冊は主に書評・読書がテーマだったが


同時期に書かれて、解剖学を主軸とした


哲学随筆ともいうべき書で、途中


「ドラゴンボール」の42巻まで引き合いに出される。


(第III章 型・身体と表現「修行ー道ー型」


2 現代の親鸞の最後あたり)


 


一般のフィールドでの活動を


学内同僚、生徒からも嫌味を言われてきたことも


辞する要因となったのだろうけれど


退官は結局はご自分で判断されたことで


より多くの一般性を獲得し、あえて軽くいうと


”フォロワー”を作ったことは日本社会にとって


思いっきり有意義だと自分は思う。


って自分なぞに思われても、事実


なんの得にもなりませんけど。


でも自分は先生から本当に多くのことを教わった


不祥ながら弟子のようなものでございまして。



臨床哲学

臨床哲学

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 哲学書房
  • 発売日: 1997/04/01
  • メディア: 単行本

 


あとがき から抜粋


この10年、個人的にはさまざまなことがあった

考える内容も変わってきたと思う。

解剖学を定年にしたので、第V章のような主題を直接扱うのは、この本がほとんど最後になるかもしれない。

興味が失せたわけではないが、状況がもはや許さない

数十年頑張ってきたものを扱わないのは寂しい気もするが、年齢もある

あとは解剖学の方法論を発展させるしかないのである。


この書を書かれていた10年の間に


先生は東大教授を退官される。


長くいた共同体や価値観から抜け出すってのは


苦しみを伴うですよ。


真面目な性格であればあるほど。


ここは自分もなんとなく会社員を


長くやってたのでわかるような。


年齢や価値観がその共同体に


合わなくなっていることを実感。


不安もあるけど次のステップへ、


どんな世界へなのかわからないけれど


今までの経験を発展させるしかない。


辞めてみると空が青く感じたってのは


なんとなくわかる気がするなあと。


最近は社会的な主題をよく扱う。

専門を離れてみると、いわば世間のフリーターになっていることに気づく。

だから世間と距離ができる分だけ、考えやすいらしい。

特定分野の前提を、あれこれ外から問いただしても、誰も気にしない。

こういうところは、気楽でいい

専門分野の中にいて、その分野の前提を問題にすると、嫌われる。

専門家は素人よりは遠くへ歩いていった人である

それにもとへ戻りにくくなっている。

それがむしろ専門家の定義であろう。


私はもともと専門家になれる性質ではない。

なれるとしたら、とうになっていたはずである。

それならなにをしてきたかというと、やはり臨床哲学であろう。

哲学はものを考えることだと思うが、私はそれを、そのときどきの状況に応じてやってきただけである。

だから体系もなかったし、なんの専門家にもなれなかった。

自分の考えの体系は、これからまとめてみようと思っている。

それは別に大げさなことではない

自分で矛盾がないと思われる体系を、自分で基礎だと思うことから、組み立てればいいからである。

私はそれを勝手に「人間学」と呼んでいる


どの国の人であろうが、年齢がどうだろうが、人は人である。

しかも世界は人が認識するものに決まっている。

それなら人というものは、万物の普遍的な尺度に使えるはずである。

しかも人ははなはだ具体的で、解剖学のように「物質的に」計画することすらできる

その意味では、人は理想的なモノサシであろう。

私の考えは結局はそこに収斂した。

だから「人間」学なのである


人という尺度は、脳と身体でできている。

脳は意識を与え、その意識がさまざまな表現を生み出す。

いまの人はその表現のなかに溺れて、しばしば自分の居場所すらわからなくなっている。

脳のなかを泳いでいるのである。

そのプールの大きさを測るのが脳の科学であろう。

脳科学自体が溺れてしまうと思う人もいるだろうが、こればかりはやってみないとわからない。


その点、身体という尺度は、間違いようがない。

そのかわりどうにもならない面を持っている。

身体は完全に意識化できないからである。

表現のためには身体が必要だが、その身体が完全な意識にはならないということが、人間のアポリアである。

身体のほうは、詰めるところまで、意識で詰めてみるしか仕方がない。

日本の伝統・文化という「表現」のなかでは、それが型の問題になっている。


右のような考えを導いてくる過程が、ここに載せた文章に表れているはずである。

もう自分の考えが正しいとか、正しくないということではなくなっている。

自分のなかで全体の整合性を作り上げるのに、おそらく一生かかるであろう。

それはそれで、自分としては大きな楽しみなのである。

1997年3月 養老孟司


「人間学」は「人生哲学」とニアリーイコールかと。


「経験値」とも同義かと。ちと雑だけど。


 


安定しているはずの東大教員生活から


その後別の大学を経由してから


不安定なアウトローな生活になっても


このポジティブさは先生をものすごく


象徴されている。


昔から先生は先生だった


退官されたのは95年、57歳の時。


57までいったら、そっちは選ばないでしょう普通


っていうのは、もちろんあっただろうけれど


こういうのって本人じゃないと、いや


本人にもよくわからない流れってのがあるように


自分の経験から思う。


先生の場合いきなりフリー一本てことでは


なかったようだけど


それでもなかなか勇気いるだろうなと。


ご家族は心配されたか、諦めてたかもしれないけど


何言っても聞かんわ、うちのパパは、みたいな。


思いっきり余談だけど、この書の”著者紹介”が


他の書と異なるのをそこはかとなく感じる。


自分も会社員時代、売り込みの資料を作ったり


転職時就活してたからなんとなく分かるのだけど


これからの先生の生活に向けての


ステートメントのようにも受け取れるのは気のせいか。


これ、ご自分で書いてるでしょ?


『臨床哲学』の著者紹介 から抜粋


1937年鎌倉に生まれる。

62年東京大学医学部を卒業の後東京大学医学部教授をつとめ95年に退官の後は北里大学教授。

そのまなざしは二つの情報系、遺伝子系(ゲノム)と神経系(脳)とが直交する領域に注がれ、構造(たとえば脳)と機能(たとえば心)との相即を解きほぐす。

その思考はあるいは唯脳論に、また身体論、型論に結実する。

数学と並んで脳自体の法則を記述する哲学にも関心は及ばざるを得ない。

『脳の中の過程』(哲学書房、86)、『唯脳論』(青土社、89)、から最近の『日本人の身体観の歴史』(法蔵館、96)、『身体の文学史』(新潮社、97)まで著書は数十を数える。


nice!(57) 
共通テーマ:

nice! 57