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三木成夫先生の書から”インスピレーション”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想


海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想

  • 作者: 三木 成夫
  • 出版社/メーカー: うぶすな書院
  • 発売日: 1992/09/01
  • メディア: 単行本

 


いのちについて ーー自然と人間


”あたま”と”こころ”” から抜粋


以上で、人間の”いのち”に対する態度に、じつは二種類あるのだということがはっきりいたしました。

そのひとつは自然の意に逆らってでも「生存期間」を延ばそうとする態度

もうひとつは生命の波を通して、そこに、ひとつの”おもかげ”といったものを観得しようとする態度

この二つであります。

それがはじめに述べました”いのち”の二つの意味にそれぞれ相当するものであることはいうまでもありません。


ところで前者の態度というものはあくまでもわれわれの”あたま”で考える世界であります。

これに対し後者のそれは、われわれの”こころ”で感ずる世界でありましょう。

おなじ”いのち”といいながらじつは、”あたま”で考えるそれと”こころ”で感じるそれとの間に、これほどの差が出てくるのであります。


”あたま”とはなにでしょう

われわれ人間は日常生活においてこの”あたま”をいろいろと働かせるものです。

自然を利用して衣食住の生活を営むのもこの”あたま”をいろいろと働かせるものです。

綿花から木綿をつくる。羊の毛から毛糸をつくる。

また稲の品種を改良し、野菜を栽培し、果樹園を耕す。

そしてさらに木を切り倒し石をけずって家をたてる…。

などなど、これらのどのひとつをとっても、それはすでにわれわれ人間の”あたま”の働きによるものであることはいうまでもありません。

しかしこの働きはこれだけではない。


今日のように、たとえば、石油からプラスチックや着物をつくる。

そして肉までもつくったりする。

そこではただ石油の持っている化学的な成分だけが問題となるのです。

ひとびとは、この成分の組み合わせについて、ひたすら考えをめぐらせるわけであります。

こうして石油というものを、たんに燃料としてだけでなく、それをとことんまで利用し尽くそうとするのであります。

そしてこのやり方は自然のすべてのものに及ぶ…。

地下資源、電力資源などなど地球上で手のとどく範囲のものは、なんでも、こうした人間の欲望を満足させるための手段となってしまうのであります。

そしてついには人的資源ということばまでが登場してくる。

そこでは人間のひとりひとりが機械の歯車に見えてくるわけであります。

自然を雑草・薬草あるいは害虫・益虫と分けて、おのれの気に食わぬものは全部撲滅してしまう、というこのやり方は、けっきょくここから出てきたものでありましょう。


いま、これらを振り返ってみますと、初めはあくまでも自然の持ち味といったものをうまく生かし、それ以上の敷居をけっして超えることなくこれらと共存してきた、そのような人間の生活態度がうかがわれるのであります。

そこでは、自然と人間との間に温かい”こころの交流”といったものが見られた。

つまり、われわれの”こころ”でもって自然のこころを汲みとることがすべてに優先していた、といえるのでしょう。


ところが、このような生活態度はいつの間にか大きく崩れ去ってくる。

そこでは、いったいどういうことが起こったのか、それはもうすでに述べた通りであります。

いったい自然をこのような機械として眺めるところに、はたして”こころ”の世界というものは見られるのでしょうか…。

そこにあるのは、ただ”あたま”の独走だけであります。


今日、叫ばれております自然破壊というもののこれが舞台裏ではないでしょうか。


ここから、われわれは”あたま”と”こころ”との関係についてひとつの道が開かれてまいります

それはここに示しました象形文字に、端的に示されているのではないかと思います。(参照


これは漢字の”思”ですが、上半分は脳を上から眺めたところ、下半分は心臓のかたちで、これは”あたま”が”こころ”の声に耳を傾けているところを象(かたど)ったものといわれています。

”あたま”というものはいってみれば切れるものです。

どれくらい切れるか、これは各自持って生まれた素質によってきまるもので、ある人はカミソリぐらい切れるしある人はナタのように、絶対に刃は折れないけれども細かいことはできない…などなどいろいろあるででしょう。


しかしこれが凶器となるか、あるいは利器となるかは別問題です。

カミソリのような、そういった頭がもし凶器になれば、これは本当に大変なことです。

しかし、これが利器となった瞬間、そこには快刀乱麻の素晴らしい切れ味が展開される。

いわゆる”毒にも薬にもなる”とはこのことをいったものでしょう。


いったいこの岐れ目はどこからきたのか?「思」の象形がこの問題にみごとな回答を与えてくれるのではないかと存じます。

”もの思う”という性能ーーまさにこれこそわれわれ人間の人間たるゆえんのものではないでしょうか。


われわれ大和民族は、歴史的に眺めてどんな民族の中でも”こころ”の豊かさにおいて傑出したものを持っているといわれています。

われわれの祖先は自然というものを無欲に、そして理屈をつけないで、ニュートンの力学がどうであろうと、アインシュタインの相対性原理がどうであろうと、こうした自然を静かに眺め、そのふところに抱かれて生活してきた。

これが、この民族の本来の姿のように思われるのです。

もちろん、明治100年というものはあわただしかった。

それはいわゆる国際的な立場から”あたま”の方を磨くことに専念しないではいられなかったからでしょう。

しかしもうこのへんでそろそろ、われわれの本来の姿にかえる、その時がやってきたのではないかと思っているところであります。


幼稚な表現しかできないが、なんか深い。


理解できてないと思うけれど


なにかが共振してしまうというか。


三木先生の話というか文は概ねそうだが


平易で難易度高くはないのだけど引き込まれ


深いと感じ、これを支えているのは


なんなのだろうと畏怖の念を感じます。


養老先生が、間も無く三木先生の時代がくる


と仰る意味がなんとなく分かる書だった。


解説 三木成夫について 吉本隆明


から抜粋


三木成夫の著書にであったのは、ここ数年のわたしの事件だった


この著者にはふつうわたしたちが断層としてみている植物と動物と人間の構成のあいだに、進化の連続性の流れがみえている。


なぜある有機体は植物になり、また別の有機体は動物になり、また人間になっているのかが、内臓や筋肉や神経の成り立ちや構造に則して、つながりや相違や対応性としてはっきりとつかまれている。

わたしの無知な思い過ごしかも知れぬが、これはほんとに驚きだった。


この方法をはっきりと記述している例を、人間の対象化行為(労働)と価値の論議のばあいのマルクスと、国文学の発生についての折口信夫と、この著者三木成夫のほかにわたしは知らない

また方法的な自意識としていえば、この三人のほかいないのではないかとおもえた。


この方法をかりに初期論的な方法といっておけば、これは初期という枠組みを仮定して、その内部の構造と、展開の方向と、反復の方向と、反復の仕方の組み合わせとして、事象が膨らんでいく過程を位置付けることだ。


たとえばマルクスの価値形態の論議には、アダム・スミスの労働価値の説が「初期」として含まれている。

スミスは野原の一本の木になったリンゴの実の価値はなんだろうかという考察からはじめる。

木に近づいていって、幹にのぼり、そのリンゴの実をもいで木からおり、戻ってくる。

そのあいだに支払った労力がリンゴの実の価値だということになる。

そしてここには商品の価値の初期の萠芽があるとみなせる。

商品は運動し、価値も運動する。

だが価値の源泉は野性のリンゴをもぐための労力にあることをマルクスはてばなさなかった。

折口信夫もまた、日本語の言葉が自然の景物に当たりをつけ、それを描写する仕方が、こころを叙する唯一の方法だと知るようになったとき、こころの暗喩としての自然の景物描写が、詩の発生をうながしたとかんがえた。

この初期状態からはじまって、こころをじかに叙する叙情詩時代がくるまで、自然の暗喩を言葉が組み換えてゆく過程はつづいたとみなした。


三木成夫はこの本のなかで植物と動物をおなじ方法で位置づけ、ふたつのかかわり方を解剖している。

それをいってみれば、動物のからだから腸管をとってきて管の表と裏をめくり返し、露出して外側になった粘膜に開口した無数のくぼみを、外にひっぱり出したものが植物に対応すると述べている。

このひっぱりだされたくぼみは、植物の葉っぱと根っこにあたる。

言いかえれば植物は動物にとって初期だとみなされる。


この対応はもっとさきまでゆく。


アダム・スミスも折口信夫さんも興味深い。


価値、労働というのも看過できないです。


そういう本来の価値を意識させないのが


自然を隔離してしまった今の”都市化”であり


”脳化”された社会なのか、とどうしても


養老先生寄りの考えに近づいてしまうのだけど、


それは偶然ではなくて必然なのだろう。


<こころ>とわたしたちが呼んでいるものは内臓のうごきとむすびついたあるひとつの表出だ

また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよい。

わたしはこの著者からその示唆をうけとったとき、いままで文字以降の表現理論として展開してきたじぶんの言語の理念が、言語以前の音声や音声以前の身体的な動きのところまで、拡張できると見とおしが得られた。

もちろん内臓系の<こころ>のうごきはわたしの定義している自己表出の根源であり、体壁系の感覚器官のはたらきは指示表出の根源をつくっている。


この著者への頌辞(しょうじ)になるかどうかわからないが、知識に目覚め始めた時期に、もっとはやくこの著者の仕事に出あっていたらいまよりましな仕事ができていただろうに、そんなすべのない後悔をしてみることがある。

ひとりでもおおくの読者が、こんな後悔をしないように、とこの解説をひきうけた。


解説を読み宮沢賢治の詩のようだと思った。


ここで言われる”初期”っていうのワードは


具体的にはなにを指すのだろうか。


自分の側に寄せての解釈ってことなのだけど


”発想”とか”着想”となる”きっかけ”とか


そのプロセスを指すのか。


吉本先生独特の展開にミクロ視点での疑問が。


悪い癖で、”木”を見て”森”をみず。


では”森”として感じるのは、


”裏を無視して表は語れねえ”ってことで。


”やっぱり内臓はこころだぞ”、


”腸管をおろそかにするんじゃねえぜ”って


聞こえるのだけど、全然違う?浅すぎかい?


と誰に聞いてるのかわかりませんけれども。


それにしても吉本先生、素敵すぎます。


しびれるなあ、もう。


”いまよりもっとましな仕事”って…。


戦後最大の思想家なのに、などと感じ入る


バス通勤中と歩きながらの


秋の読書なのでございました。


 


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