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2冊の”南方熊楠”書から利己的な解釈を疑う [’23年以前の”新旧の価値観”]


詳注・現代語訳『履歴書』: 南方熊楠のマンダラ的自伝

詳注・現代語訳『履歴書』: 南方熊楠のマンダラ的自伝

  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2017/04/27
  • メディア: Kindle版


この本、章立てになってないのでわかりにくいのだけど


最初の方、67ページから抜粋。


亡父は無学の人でありましたが、一代で家を興したばかりではありません。

寡言篤行(かげんとっこう=口数少なく誠実)の人で、地方の官庁から当時は世間でも珍しかった賞辞を一生に三度も受けたのです。 

死に臨んだとき、高野山に人を遣って土砂加持*を行なわせたのですが、僧たちは生存の望みが絶えたと申します。

また緒方惟準氏**を大阪から迎えて診察させましたが、これまた絶望との見立てでありました。  


編集部注

  *土砂加持(どしゃかじ)とは、真言密教で行われる土砂による祈祷。土砂に向って光明真言を誦し、これを病人に授けて病を癒し、また遺体や墓の上にまいて亡者の罪を滅ぼすというもの。  

**緒方惟準(おがたこれよし)は、1843年生、1909年没。適塾の緒方洪庵の次男で、緒方家を継いだ。

オランダ留学を経て、典楽寮医師、医学所取締を務めた。緒方病院院長。


そのときは天理教が流行りだしたときで、誰もが、

「天理教徒に踊らせて平癒した」

だの、

「誰それは天理王を拝したから健康だ」

などと言います。

出入りの者に天理教の信者がいて、

「試しに天理教師を招き、祈り踊らせてみてはどうですか」

と言いました。

亡父は苦笑して、

「生きる者は必ず死ぬというのが天理だ。どんなに命が惜しいからといって、人が死のうとするときに、その枕元に歌ったり踊ったりする者を招いて命が延びるなどという理屈があるものか。死というものだけは、誰も避けることは出来ぬ

と言って、一同に今生の別れを告げて亡くなられたということです。


かつてアテネのペリクレス*は文武両道の偉人で、その一生涯をかけてアテネ文化の興隆に貢献し、ひいては西洋文明の基礎を築いたと申します。

しかしながら、この人が死ぬ間際に、つまらないお守りなどを身に付けたので、それを見た人が理由を尋ねたところ、

「自分は、こんな物が病気に効かないことは重々承知している。だが、人が言うような効能が万に一つもあるのならば、これを身に付けて命が助かりたい、と思って身に付けているのだ」

と言ったとか。

偉い人の割には、ずいぶん悟りが悪かったと見えます。


編集部注 

*ペリクレス(Periklēs)は、紀元前五世紀頃のアテネの政治家。

ペルシア戦争後の古代アテネの民主化を完成させ、黄金時代を築いた。

しかし、アテネの勢力拡大はスパルタとの対立を招くこととなり、前四三一年にはペロポネソス戦争が勃発。

籠城中のアテネには疫病が流行し、ペリクレス自身もそれに罹って亡くなった。


死ねば死にきり、ということを


体現される発芽とでもいうか。


わざわざ引いているのは


亡くなったお父様の影響が濃いとの証かと。


生物学者にして合理主義っていう勝手な印象が強い。


かと思えば、幽霊の実存というのもおかしいが


霊魂が回路が高次になれば見えていたという。


南方曼荼羅を理解するには重要な


視座があると指摘する中沢先生の論考から。



南方熊楠―奇想天外の巨人

南方熊楠―奇想天外の巨人

  • 作者: 荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1995/10/01
  • メディア: ペーパーバック


ヘリオガバルス論理学 中沢新一


3 から抜粋


しかし、そのことを考えるためには、南方熊楠がかかえていた、もう一つのテーマについてすこしだけ触れておく必要がある。

それは霊魂の問題だ。

南方自身が書いているように、粘菌の生態を観察しつづけながら、彼は生死の現象と、霊魂の問題とについて、深く思考をめぐらせていたのである。

南方が幽霊をよく見る人だった、ということは、よく知られている。

海外に遊学しているあいだは、彼のまえに幽霊はめったにあらわれることはなかった。

そのために、彼は当時のイギリスで大流行していた降霊術の会や、いわゆるオカルティズムにたいしては、わりあいと批判的だった。


ところが、日本にもどり落ち着き場所を失って、那智の山中に籠り始めてからは、彼のまえに、たびたび幽霊があらわれるようになったのである。

彼はそれを、自分の「脳力」が高まった証拠だ、と考えていたが、じっさい彼は那智への隠棲時代をとおして、特殊な空間知覚の能力を獲得するようになっていたのだった。


それからは、夜はパラサイコロジー関係の書物をヨーロッパからとり寄せて、熱心に研究するようになったようだ。

霊魂が存在する、ということを前提にしたとき、生命や空間の構造についての合理的な理解の仕方は、どのようにかわっていかなくてはならないか。

熊楠にとって、霊魂の問題は、さけてとおることのできない、大きなテーマとなっていたのである。


このことは、有名な『履歴書』をはじめとして、いろいろな書簡のなかで、語られている。


熊楠は幽霊とよばれている現象が、たんなる幻覚や異常心理からつくられるものではなく、純粋な空間現象のひとつである、と考えていたようである。(「高次元ミナカタ物質」『新潮』1990年8月号)

つまり、それは実在の一形態であり、それを私たちの知覚がとらえることができるかどうかは、まったくこちらがわの「脳力」のたかまりによることなのだ、というのだ。


南方熊楠がその生涯につよくひかれていたもののリストをつくってみたら、さぞかしおもしろいことだろう。

粘菌、隠花植物、神話的思考、野蛮な風習や土俗、霊魂と幽霊、宗教の比較、セクソロジー、猥談、男色ふたなり半陰陽)…どのひとつをとってみても、粘菌的ではないか

現実の世界のなかに顕在化されると、あいまいで猥雑で非合理、しかし、それをつつみこみ、展開する内蔵秩序のもとにとらえれば、あざやかな生命の全体運動が描かれるようになる、そういうものばかりだ。


中沢先生の論考は素晴らしいです。が、


この論考の主旨とはズレますが


日本に戻って霊魂を感じたって所が


熊楠さんに対してなんとなく


信じきれないのだよなあ。


世界をまたぐと存在が普遍ではないという事で。


別の話だが漫画家で作家の


ヤマザキマリさんが日本の幽霊話を


イタリアで話したら一笑に付されてしまい


まったく相手にされなかった、てのとか


そうはいっても欧米って悪魔のいる


キリスト教の国だしなあ、とか。


それも吉本隆明先生が論考された”共同幻想”の


ようなもなんじゃないのか、とか。


熊楠さんの『履歴書』も全部読んでないから


わからないことが多い。(読んでから云え!)


霊には自分は興味がないものだから、


深くキャッチできないのか。


話を戻して『履歴書』は読んだ所まででいうと


全体の表現力はなんか凄いと感じるのと


古今東西の文献などの引用っぷりが


相当な読書量を物語っている。


蔵書量も凄いと荒俣宏先生が驚かれていた。


10カ国語以上の言語を操れたとAmazonの


著者プロフにあったけど、だとして


世界中の書を原書で読みまくっていたのかも。


普通の人、っていう”普通”の定義も


面倒くさいのでそこは端折るが、


”普通”の人が見えているものと


明らかに世界が異なるのだろうなと感じるし


巨大きすぎて自分のキャパでは到底


受け取れない感じがした。


人間以上のなにかとでもいうのか


生物、自然、地球、宇宙、とか連想されて


どこまでも拡張されてしまってこのテーマは


避けたい、他に読みたい本があるから


ってのも正直あるけど、まあいいや


夜勤明け、頭ぼーっとしてるので


食事してお風呂洗わないと


先週サボったからやべえ


とドメスティックな悩みが尽きない


秋の早朝でした。


 


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