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②中村先生の2冊から”科学と自然”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


科学者が人間であること (岩波新書)

科学者が人間であること (岩波新書)

  • 作者: 中村 桂子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/08/22
  • メディア: 新書

1「生きものである」ことを忘れた人間

自分の感覚で生きる から抜粋


近代文明をすべて否定するのでなく、生きものとしての感覚を持てるようにするところから転換をはかろうとするならば、生物学に大事な役割りが果たせるはずであると考えています。

なぜなら私自身この分野で学んだがゆえに、とくに意識せずに「生きものである」という感覚を身についてることができ、日常をそれで生きていけると実感するからです。


簡単な例をあげるなら、購入した食べ物が賞味期限を超えてしまったような時でも、それだけで捨ててしまうことができません。

まだ食べられるかどうか、自分の鼻で、舌で、手で確認します。


鼻や舌などの「感覚」で判断するとはなんと非科学的な、そんなことで大丈夫なのか、もっと「科学的」でなければいけないのではないかと言われそうです。

科学的とは多くの場合数字で表せるということです。

具体的には冷蔵庫から取り出したかまぼこに書かれた日時をさすわけです。

衛生的な場所で製造されお店に出されていると信じ、安全性の目安として書かれている期限を見て、その期限を見て、その期間に食べているわけです。


こうした判断のしかたは、私には、自分で考えず科学という言葉に任せているだけに思えます。

「科学への盲信」で成り立っているように思います。


もちろん、「感覚」だけではわからないことがたくさんあります。

科学を通じて微生物による腐敗や毒性の生成などの危険性を知り、それに対処することは重要です。

しかし、賞味期限内であれば危険はなく、それと過ぎたら危険と、数字だけで決まるものではありません。


うっかり期限の過ぎたかまぼこをすぐには捨てず鼻や舌を使うという小さなことですが、一事が万事、この感覚を生かすとかなり生活が変わり、そういう人が増えれば社会は変わるだろうと思うのです。

常に自分で考え、自身の行動に責任を持ち、自律的な暮らし方をすることが、私の考える「生きものとして生きる」ということの第一歩です。


「一極集中」と多様性 から抜粋


地球儀の中での日本列島を眺めると、なんと自然に恵まれ、可能性に満ちた場所に私は生まれたのだろうと思います。

ぜひ一度眺めてください。


独立した島としての特徴を生かした国づくりを考えると、次々とアイデアが浮かぶ場です。


そんな呑気なことを言っていては、現代の国際社会において立ち後れてしまうと言われるでしょう。

もちろん、国際社会の一員であることは重要ですが、グローバルであれと言って、そこで動いている政治や経済のみから生き方を決めていくことのほうが、もはや、後れた考え方だと思います。


そうではなく、この列島の「自然」にふさわしい生き方を考えたうえで、そこから世界に発信し、世界と交渉し、世界に学び、尊敬される国として存在していくことを考えられる、私たちの国はそんな豊かな地盤を持った国だと思うのです。


特に東日本大震災を体験し、今後も太平洋プレートの動きは大型の地震の発生を予測させると言われる今、日本列島で上手に暮らしていく方策を考えるなら、生きものであることを実感できる、新しい豊かさを求めていくことが不可欠でしょう。


生きものの基本は多様性であり、さまざまな視点があることです。

「人間は生きもの」という考え方は、多様性を大事にしますので、さまざまな場にある自然、暮らし、文化が織りなす社会を求めます。

その方が一極集中型より柔軟性があり、その結果強い社会になると思います。


日本の近代化は西欧からの科学を主とする知や社会制度の導入で始まったのですが、ヨーロッパなどいわゆる先進国とされる国は実は分散型であり、食べ物の自給もしています。


今後、土地、水などの不足と人口増加、経済成長が重なって食糧不足が心配される中での食べ物づくりの選択を考える時です。

少なくともこのままでは、日本は先進国ではないと言わざるを得ません

社会制度や経済の専門家ではないのでこれ以上のことは分かりませんが、生命誌の立場から、一極集中は改めなければならないと言えます。


東日本大震災の少し後の書だから


今と異なるところあるだろうが基本的に


憂いておられた事は現実になろうとしている。


経済学から得たヒント から抜粋


もう一つ、「生きもの」の視点から見た場合に、現代社会の経済のありようが気になります。


便利さと欲望を叶えることを最優先する考え方が社会を動かしていることは、誰の眼にも明らかです。

ことに金融資本主義経済全盛となってからは、経済は生活者の暮らしという現実から遊離し、「実体」を離れたものになりました。

現代社会は、コンピュータ操作で動きまわる巨大な「お金」に翻弄されています。


こうした経済のあり方には、経済学、社会学など社会科学の中からも批判は出てきています。

たとえばロナルド・ドーア著『金融が乗っ取る世界経済』では、いわゆる「カジノ資本主義」を、格差の拡大・不確実性と不安の増大・知的能力資源の配分への影響・信用関係の歪みなどを引き起こす、憂うべきものとして批判しています。

この言葉を書き移しているだけで気が滅入ります。


あきらかに非人道的(非生物的)なものであるにもかかわらず、金融リテラシーこそ人間にとって最重要課題であるかの如くに言い、小学校で株の取引の教育をしようという動きがあったことが思い出されます。

さすがにリーマンショック以来、それを言う経済学者や経済評論家はいなくなりましたが、それを聞いた時、おなじカブなら畑で蕪を作るほうが良いのにと思ったことも思い出します。


ドーアさんは、GDPの大きさを競うのでなく、格差の少ない、教育・医療・福祉がそこそこ整っている社会、住みやすさの感じられる社会をつくることを選ぼうと提案しています。

そして、GDP競争をするのは小人、住みやすさを選ぶのが君子と言っているのです。

人間を生きものとして捉えることは、このような社会への道筋をつけることだと考えており、社会科学からこの提案が出されていることにホッとします。


ここで経済学の祖と読んでもよいアダム・スミスが同じことを言っていることを思い出しました。

大阪大学の堂目(どうめ)卓生さんから教えられたものです。


「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、…他人の不幸を…自分にとって必要なものだと感じるのである。

…われわれが、他の人びととの悲しみを想像することによって自分も悲しくなることがしばしばあることは明白であり、証明するのに何も例を挙げる必要はないであろう」


「もちろん最低水準の富は必要だが、それ以上の富の追加が、幸せと比例すると考えるのは私たちの中の”弱さ”である

一方、私たちには真の幸福は、徳と英知がもたらすものであることを知っている賢明さもある。

「財産への道」と「徳の道」が矛盾した時は徳の道を優先させれば、社会の秩序は維持され、繁栄する

(『道徳感情論』)


つまり、お金の額(具体的にはGDP)を暮らしやすい社会づくりの基本として考えるのをやめようと言う考え方は、経済の軽視ではなく、経済の本来の姿を大事にすることなのです。

あまりにもお金に振り回される社会であり過ぎ、株価や為替レートに取り囲まれている状況に疲れ、経済を否定的に見てしまいますが、まさに経済は国、社会を支える活動であり、その本来の姿を取り戻すことが大事なのです。


これは、科学技術についても言えます。

原発事故で痛い目に遭ったからといって、科学技術の全否定に走るのは違うでしょう。

科学技術はどうあるべきなのか、それを「人間の側から」考え直すことが必要なのです。


社会経済思想の佐伯啓思さんが『経済学の犯罪』でこの問題をみごとに解析しています。

最近の大学の経済学部では市場競争中心のミクロ経済、マクロ経済、とくにその応用や各論しか勉強しておらず、ケインズ理やマルクス理論が体系的に学生の頭に入っていないことを知って驚いたと著者は語っています。

市場競争中心のアメリカ経済学はさまざまな学派の一つにすぎず、しばらく前の経済学の中ではむしろ批判の対象だったのに、ということです。


同時に、アダム・スミスやケインズやハイエクには「思想」があり、それがなければ本当の経済学者ではないとも書かれています。

効率性、経済成長、成果主義、能力主義などを過度に追求することは、私たちの生活を著しく不安定化し、人間関係をたいへん窮屈なものにしてしまうということであり、その極限にグローバルな市場競争主義があるという考えで書かれた本です。

生きものという視点から考えたことと、まったく同じことが経済学そのものから出てきているのです。

経済学も生活を大事にするところから生まれた学問のはずですから、同じになるのは当然なのかもしれませんが、とても心強く思います。


経済学のなんたるかも分かってもいないのだけど


中村先生指摘のような「生活を大事にする」には到底


今の世の中、思えず、”経済を優先”と感じるのは


自分だけの気のせいだろうか。


経済とははなれるが、さらに悩ましいのが


昨日の桜島の噴火や宮古島付近の地震の


自然災害や、はたまた自然とははなれるが


引いてみると世界は二つの戦争をしていて


なんとも言葉に言い尽くせぬ状況なのだけれど。


全然話変わったようで変わらずだけど


グローバルについて感じたことがございまして


本日は休みの為、妻と上野・秋葉原に出掛けたが


ここはどこの国だというくらい人種のカオスで


その要因であろう日本という国の魅力は


内側からだと気づきにくいけれのだけれど


変な方向でのグローバル価値の均等化は


避けてほしいと切に願う次第でございます。



ゲノムの見る夢 中村桂子対談集 増補新版

ゲノムの見る夢 中村桂子対談集 増補新版

  • 作者: 中村桂子
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2015/06/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


増補1 いま、なぜ「科学的思考」がたいせつか


茂木健一郎(2014年)


科学的思考は、人を自由にします から抜粋


茂木▼

科学的な考え方は、平和にもつながっていくと思うんです。

領土問題なんかもね、自然界を見ていると、ばかみたいってことになるんですよ。

たとえばチンパンジーには、隣り合う群れ同士の活動が必ずぶつかるところ、オーバーラップゾーン(重複域)というのがあって、それを知ると人間も、歴史上、こっちの人とあっちの人の活動がかぶってくるのは当たり前だな、と思える。

科学的にものを考えていくことは、平和貢献にもつながっていく。

まあ一方では原爆も作ったりもするから、危険もあるのですが。


中村▼

とくに自然や生き物を見ることは、人間社会を理解するのに役立ちますね。

もちろんハチやアリなどの社会と人間の社会は違いますし、そのまま持ってくるとこれまた危険です。

そうではなく、おお、こんな生き物がこんなことをやっているという驚きを持って理解していき、そこから学ぼうとする。

動植物から学ぶことはいくらでもある。

それを科学と思ってほしいんです。


茂木▼

科学を知っていると、自由になれるんです。

ぼくは途中で法学部に行ったのですが、同じ問題を考える時でも、科学的な素養がある人は、より自由になれる気がする。

国境線の問題を、国際法でどうのこうのというよりも、動物のテリトリー争いと比較してみる方が、断然面白い。

オーバーラップゾーンの他に、レジデンシーエフェクトという有名な研究もあります。

チョウが縄張り争いをするときには、もともといたチョウが後から来たチョウに勝つ確率の方が高いのだそうです。

人間もまさにそうじゃないですか。

先に土地をとった方が、優勢になる場合が多い。

チョウも人間もそんなに変わらないなと思うと、国境問題だって、マジに争ったってしかたないじゃん、となる。

科学的思考は人を自由にするんです。


増補2 「縮小時代」の復興ーー新たな価値観を求めて


鷲田清一(2013年)


一人の人間として科学者も語るべき から抜粋


鷲田▼

大阪大学総長時代、震災直後に卒業式があり、学生にどんな式辞を贈ったらいいのかと悩みました。

そこでいろいろ調べたのですが、愕然としたのが、「日本原子力工学会が存在しない」という事実です。

「日本原子力学会」という団体があるにはあるんですが、電力事業者の人が数多く学会理事の仕事をしている。

つまり、アカデミックな学会ではなく、社団法人なんです。

「原子力工学者」という肩書きにしても、「あなたのご専門は?」と聞くと、「電気関係です」「制御システムの〇〇です」「放射能医学が専門です」という答えが返ってくる。

専門が細分化されていて、一人の科学者として、原子力工学もしくは原発全体を見ている人がいないんですね。


中村▼

どの分野もそうですね。


鷲田▼

科学者はごく限られた自分の専門以外は知ろうとしない。

むしろそれが美徳とされる。

でも、ある原子炉が爆発する可能性を科学者がたとえば0.01%だと判断して、だから安心していいのか、逆に原発を即刻停止すべきか否かという判断を、科学者が下すことはできません。

科学者と科学者でない人たちが、同じ土俵で議論し、複合的な要因を考えに入れて決めていくしかない。


中村▼

そうです。

そのときに「科学者と普通の人」と分けるのではなく、科学者も日常の部分を持ち合わせた一人の人間として語るのでなければ、意味がないわけです。


鷲田▼

それは、すごく納得できます。

企業人について言えば、最近よく言われる「ワーク・ライフ・バランス」という言葉も、誤解されているような気がします。

企業での職業人としての生活と、帰宅後のプライベートライフを両立させるというんだけど、そんなのどっちもプライベートじゃないですか


中村▼

その通りです。


鷲田▼

それよりも重要なのは、個人生活を大切にすると同時に、地域の一員としての公共的な生活も大切にするということです。

プライベートライフを大事にするだけでは、世の中は変わらない。

地域や社会の一員としての役割を果たすためにしっかりと時間をとることが大切です。

その意味では、「ワーク・ライフ・バランス」という言葉も、よく考える必要があると思います。


茂木・鷲田先生、中村先生含めて、


かっけえなー。


あ、すいません、雑な言葉で。


いい歳して。


そうは感じない方もおられるとは思いますが。


余談だけど、鷲田先生の指摘される


”ワークライフバランス”って最近聞かないなと。


”QOL”の方がよく見聞きする気がしますが。


”ワーク”なんとかとか”働き方”なんとかって


なんとなくお上が言いたいだけで


実態分かってねえなと思わざるを得ないのですが。


いや、全部ってわけではないすよ、


自分が多分無知なだけで、もちろん


きちんとしたものもあろうかと存じますが


全然、国家に楯突く気なぞはありませんよ。


グローバルキャピタリズムにロックオンされて


それに振り回されなければいいなと


少し気になっただけでして。


まずは自分にできる所からってのは言うに及ばず、


一刻も早く2つの戦争が収束する事を祈り


自然や生きもの全般を意識した生態系や


食物連鎖を取り戻せるような生活をしていきたいと


願い思い行動したい次第でございます。


簡単じゃないだろうけれどもね。


 


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