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小池昌代さんの2冊から”伝わる詩”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


文字の導火線

文字の導火線

  • 作者: 小池 昌代
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2011/07/09
  • メディア: 単行本


出演されていたのをきっかけに


ほぼ初めて拝読させていただきました。


普段詩はそれほど読まないのだけど


年齢のせいもあるのか深さが少しだけ


分かるようになってきた気がするのは


どうでもいい余談です。まずは書評本から。


海のリズムに育てられて


三木成夫海・呼吸・古代形象』(1992年)


から抜粋


この本の著者、三木成夫という人に触れる前に、その人を知るきっかけになった、詩人・思想家の吉本隆明についても書いておきたい。


三木成夫は、その吉本氏の本の中でたびたび言及されていた解剖学者で、胎児と人間の進化、生命の形態や「こころ」に関して、拓跋な研究をなした人として知られる。

人類の祖先は、えんえん、古生代中期の魚類にまで遡ることができるというが、胎児というのは、母親の胎内で、受胎後、32日目から一週間の間に劇的な変身をとげ、その間に、かつて人類が成し遂げた進化の過程を、ものすごい勢いでたどるのだという。


水中から上陸をはたし、魚類から爬虫類、哺乳類と進化していった頂点に、わたしたち人間がいる。

「だから海水浴はかれらの遠い故郷への里帰り」なのだと書いている。

誰もが記憶の古いところを、つんつんとつつかれたような思いを抱くのではないだろうか。


海のリズムと生命の記憶を重ねあわせて綴られていく本書は、読むというより、共鳴の体験だ。

自分の体内に、海の響きを探すこころみだ


著者自身の、さりげない経験から、書き起こされている箇所が多いので、学術書の息苦しさはない

なかでも、妻の乳がはって、母乳を吸う羽目になった三木氏が、その深遠なる味について書いている箇所は、忘れられない。

ここに引用はしないけれども、読みながら、文章からお乳を吸い、わたしが赤ん坊に一瞬、回帰した。

(うぶすな書院、1992年)


三木先生は養老先生とも交流のあった方で


懇意にされていたと。


似ているところがある気がするし


養老先生ご本人もそう書かれておられた。


世界の根本に立っていた人 


石牟礼道子 詩文コレクション6『父』


(2010年)


から抜粋


父上は、天草の海の潮で洗われたような、すがすがしい魂の持ち主だった。

まことに一家の主であった。

石工として、貧しくてもりっぱに生をまっとうし、感情豊かな人や生き物とつきあい、お酒をしこたま飲み、歌えば音痴、なんでも自分の手で作った。

住む家まで。


わたしはここに集められた文章を、最初に旅先のインド・コルカタで読んだ。

インドの旅のあいだじゅう、かたわらに石牟礼道子の文章があった。

読んでは揺さぶられ、ぼうぼうと泣いた


コルカタに行ったのは、そこで生きる人々をテレビ映像に収めるためであった。

なかには豊かな家族もあったが、ほとんどは貧しく、いかに食べるかが先決問題

狭い空間に、大家族が、体を寄せ合って明るく生きていた

みな、手を使ってものを作り、壊れても修理して使い続ける。


わたしたちは、そんな彼らの家にずかずかと侵入していった。

わたしは何をやっているのだろう、と思った。

仕事とはいえ、何をやっているのだろう、と。


ところが彼らは、そんなわたしの杞憂を理解せず、来てくれただけでうれしいという。

そうしていっそう、うちにも来てくれ、家族に会ってくれと、手をひっぱるのである。

コルカタと天草の人々が、次第に重なり合っていた


ちなみにこのエッセイには、石牟礼道子のキーワードとも言うべき、「世界の根本」というタイトルが付いている。

みっちんが小学校3年生のとき、石工の父は、廃材を使って家を建てた。

そのとき、水平秤で土地の傾きを調べたのだが、そこに立ち会ったみっちんに父は言う。


「家だけじゃなか、なんによらず、基礎打ちというものが大切ぞ。基礎というものは出来上がってしまえば隠れこんで、素人の目にはよう見えん。しかし、物事の基礎の、最初の杭をどこに据えるか、どのように打つか。

世界の根本を据えるのとおなじぞ。おろそかに据えれば、一切は成り立たん。覚えておこうぞ」


実は詩はちゃんと読んだことがない。


顔写真というかビジュアルから


なぜか気になる女性でした。


ロックスピリッツを体現して余りある


風格を醸し出されていたとでもいうか。


瑞々しくてやっかいな! 


長塚京三私の老年前夜


から抜粋


本書は俳優・長塚京三の、2冊目になるエッセイ集である。

複雑にして香気(こうき)高い、瑞々しい文章が並んでいる。

稚気とか幽(かす)かに触れ合うほどの、頑固なやっかいさが魅力である。


様々な場面で、著者は自分を、冷静に解体し吟味する。

時にその作業は、幼い頃の自己をあぶり出すが、還暦を過ぎた今現在と、一体どこが違うのか。

わたしの目には同じに見える。

七面倒臭くて複雑で、ゆれ動く内面を持った少年

幼年と今が、かくも直列に、激しく繋がりあっている。

奇妙に胸打たれる点である。


むしろ読み難い文章である。

独特の粘りとこらえ方がある。

だからわたしも、「こらえて」読んだ。

こらえるというのは我慢ではない

気持ちを溜めながら、ゆっくりということ。

稀有な文章に出会ってうれしい。

(2006年)


30年くらい前、テレビのトークで印象的で


「何も確かなものなどない」


「”いま”というのが最もそうだ」


みたいなことをおっしゃっていた気がして


哲学者みたいだなと思っててマーク。


ご子息の映画がつげ先生というのも


興味津々でございます。


読書でついた縄目の痕 


車谷長吉文士の生魑魅(いきすだま)』


(2006年)から抜粋


読書というものは、自分が本を読むことであるが、同時に本に、自分が読まれることである。

最近、つくづく、そう思う。

だから本について語ることは、どうしたって自己を語るに等しいということになる。

それはなかなか危険なことだが、その危険を冒していない書評の類には、これは自分のことを省みても、退屈なものになってしまう。


本をめぐる文章にわたしが期待するのは、読む人の魂と書いたい人の魂の戰いぶりだ。

その生のリングを、観戦したい

その意味で、本書ほど迫力のある一冊はなかなかないだろう。


読んでいると、著者は文学の「生魑魅」を、ものを食むように消化して精神の肉としてきたことがわかる。

最後の文士が語る文士の世界。

危険な読書案内である。


やばそうな香りがするので、読むのをためらいそうな。


この名前自体がもう、デンジャラスな気がするのは


バイアスかかりすぎなのだろうか。


生々しい「狂い」(2008年)から抜粋


深沢七郎の『楢山節考』(新潮文庫)には、四つの短編が収められている。

冒頭に、「月のアペニン山」という作品がある。

文庫本を買ったのは、随分昔のことだが、作家の出世作である「楢山節考」に気をとられて、この作品を見過ごしていた。


末尾に「ーーサスペンスの練習にーー(1957年作)」という作者の断り書きがある。

この作品がサスペンスの、しかも練習になっているのかどうか、わたしにはよくわからない。

ただ、この付言はとても印象的で、今となっては作品の一部と化している。


確かに漠とした不安があり、その不安の焦点がだんだんとあってくるところは、サスペンス的といっていいだろう。

だが、自ら、そう規定することで、逆にそこから、離れていくおかしみがある。

こういうものを、一生懸命創った作者の姿が思い浮かんで笑ってしまう。


ここに深沢七郎の体臭のようなものがにじみ出ている

怖いのにおかしい。

おかしいのに怖い。

感情が整理されてなくて、むずがゆくなる。

そうした特性はどの作品にもあるが、つまり一色でなく深く混濁しているのである。


東京は巨大な脳都市である。

そこに暮らすわたしたちも、脳一つで社会に浮かんでいる。

ネットのような媒体で、日々、妄想を膨らませながら。

わたしにもまた、「言葉が通じない」という、呆然とするような無力感と怒りを覚えた経験があるが、人間同士、話せば通じるというのは奇跡的なことだ。

半世紀も前の作品とはとても思えない。


さらにデンジャラスな人で、人類と闘っていた


作家の印象が強い。


埼玉かどこかの農場を営んでいた記憶あるけれども。


三島由紀夫先生とも接点あり歌の歌詞を提供した後


ビフテキも奢ってもらったのにディスっていたのを


覚えておりますが。


佐野洋子さんは怖い文章家だった 


佐野洋子シズコさん』(2008年)から抜粋


人が見ないふりをするところをさらっと真顔で書く。

文章全体にいつも心が丸裸という印象を受けた。

小さな頃から死をかみしめて生きてきた人だと思う。

普通の人がやる当たり前のことを当たり前にやって死ぬ

生きる方が大事で、文章なんか「嫌々」「ついで」に書くのである。

それが凄い芸になっていた。


『シズコさん』にかつての夫のことを「日本語を自分だけのものと思っているのか」と書いている。

数日前、偶然、ある雑誌で谷川俊太郎の詩を読んだ。

夜中にかかってくる無言電話のことを書いていて、沈黙が沁みる、いい詩だった。

かけている相手が誰かわかっているという設定で、それ以上は何も書いていなかったけれど、わたしは勝手に佐野さんだと思って読んだ。

佐野さんはもう死んでいなかったけれど。


妻が結婚前から好きな作家さんで


何冊か自分も読んだ。


そして自分も好きな作家さんの一人と


させていただいた。


無が白熱する迫力 


池田晶子暮らしの哲学』『リマーク1997-2007


(2007年)から抜粋


わたしの手元に、2冊の本がある。

いずれも著者である池田晶子さんが亡くなられた後、刊行されたものである。


一見、対称的な2冊であるが、どちらも池田晶子であり、語られている内容には少しの齟齬もない。

ただ、前者について言えば、書名を見たとき、「暮らし」という言葉に違和感を覚えた。

このぬくもった語彙は、本来池田さんには、あまりなじまぬように思ったのだが、もし、本人が選択したのだとすれば、このひとが、ついにこの「地べた」まで、降りてきたのかと、深い感慨を覚えずにはいられない。


著者の書くものは、すべて「生」、「死」、「存在」、「私」をめぐる形而上学で、本質的には最後まで変わらぬ一貫性があったが、微妙なところでは、進化し成熟した。

わたしには、身に染みる変化であった。

その変化に、池田さんの「生命」が、ありありと感じられた。


生命とは、移ろっていくもの、変化するものである。

なにがあっても生きたいという、「命根性」(著者の造語)を持たなかった人であるが、樹木が緑に燃え、やがて紅葉し、朽ち、散っていくように、自然現象のひとつとして、自分の老いを、書くもののなかに「変化」として鮮やかに表してくれた。

稀有なことだと思う。


いままで普遍の真理ばかりに夢中になっていた彼女が、本書では、この世の現象という、雑多で移ろいやすい、それゆえの豊かさに驚いている。

それは池田晶子という個人に訪れた変化であると同時に、わたしたちには、善なる魂を宿したひとりの女、ひとりの人間がたどった道筋として見えてくるものだ。


巻末に2007年2月からあと、刊行月まで、日付以外、何もない白紙の数頁がある。

その頁をめくり、空白を読みながら、わたしは池田晶子が、ここにいる、と思った。

何も書かれていない。

文字としては。

だからこそ、彼女はここにいる。

そこに在る。

そう感じる。


池田晶子さんは岸田秀さんの対談で初めて知った。


ビジュアルから入っても良さげなほど


美しい方で花あるのだけど、池田さんの場合は逆で


言葉からだった。


理由は説明できないけど、引っかかるものがある。



通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)

通勤電車でよむ詩集 (生活人新書)

  • 作者: 小池 昌代
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2009/09/08
  • メディア: 新書

次の駅までーーはしがきにかえて


から抜粋


このあいだ、車のバッテリーがあがってしまい、立ち往生するという経験をした。

修理のおにいさんがすぐに来てくれて、充電するのを眺めていたが、自分の心臓を見る思いがした。

バッテリーが、あがりそうだ。

ちょっと無理して走ってる。

無理しないで、と人は言う。

でも生きるって、どこかでどうしても無理すること

誰かに無理を通されたこともあるし、無理のなかでもみくちゃになることではないか。


消耗した現代人が、詩の力をてことして、遠くへ飛翔し、深く、よく、生きることができたら

その願いも、本書を編んだ源にある。


もちろん、詩は、どこで読もうと、自由である。

だがこうして見てくると、電車のなかほど詩を読むにふさわしい空間は、他に見つからないというくらいの気持ちになってくる。


こんなおしゃべりをしているあいだに、待っていた電車が来たようだ。

本書を片手に、乗車しよう。次の駅まで、あと、数分。


詩の解説なぞ、蛇足だという向きもあろうが


この書は小池さんの選んだと思われる”詩”だちと


解説がつく。


これがまた流れるような詩になっていて


対のようにそこでいったん完結してるから


感心してしまう。


それと電車というキーワードもいいです。


それにしても、今日は秋晴れの関東地方


映画にでも行こうかと目論んでおりますが


物価高騰の折、取りやめにするかもしれません事


また、自分もバッテリー上がって立ち往生は


しなかったが代車をあてがわれておる都合上


あまり運転しないで済むようしております事


ご報告させていただきます。


 


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