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③ドーキンス博士『遺伝子の川』から”やんごとなき”を感じる [’23年以前の”新旧の価値観”]


文庫 遺伝子の川 (草思社文庫)

文庫 遺伝子の川 (草思社文庫)

  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2014/04/02
  • メディア: 文庫

全般的に難しいような、でも

読んでしまうといった書籍でございました。

もう少し遺伝子の勉強をしてから

読み直したい。

4 神の効用関数 から抜粋


さて、ここで「リヴァース・エンジニアリング」と「効用関数」という二つの専門用語を紹介しようと思う。

この部分はダニエル・デネットの卓越した本『ダーウィンの危険な思想』の影響を受けている。

リヴァース・エンジニアリングとは以下のような仕組みの推論方法である。

エンジニアがどうにも理解できない人工的な産物と直面したとする。

そこで、それが何かの目的のために設計されたものだという作業仮説を立てる。

そして、それがどんな問題の解決にすぐれているものかを理解する目的で、それを分解して分析する。

「もし、私がこれこれのことをする機械をつくりたかったとしたら、こんなふうにつくっただろうか?あるいは別のこれこれのことをするために設計された機械だと考えた方が分かるだろうか?」


たとえば、計算尺はつい最近までエンジニアという名誉ある職業のお守りだったが、エレクトロニクス時代のいまでは、青銅器時代の遺跡のように古色蒼然としたものになっている。

未来の考古学者は計算尺を発見して何だろうと思い、まっすぐな線を引いたり、パンにバターを塗るのに手ごろだと思うかもしれない。

そのいずれかが本来の用途だったと考えるのは仮定の節約という条件を侵害することになる。

単に先のまっすぐなナイフあるいはバターナイフなら、物差しの真ん中に滑り板などは必要なかったはずだ。


さらに、計算線の間隔を調べれば、偶然にしてはあまりにも細部まで注意深く処理された対数尺であることが分かるだろう。

電算機以前には、この形式が掛け算と割り算を迅速にするための精妙な仕組みだったことが、考古学者にもだんだんわかってくるだろう。

知的かつ経済的な設計という仮定のもとにリヴァース・エンジニアリングすることで、計算尺の謎は解決するはずである。


「効用関数」は、エンジニアリングではなく、経済学者の専門用語である。

それは「最大化するもの」という意味である。

経済企画にたずさわる人びとや社会工学者は何かを最大化しようと努力する点で、建築家や本物のエンジニアに似ている。

功利主義者は「最大多数の最大幸福」(ついでながら、このキャッチフレーズは実際以上に知的な響きがする)を最大化しようとする。

このスローガンのもとに、功利主義者は短期的な幸福を犠牲にしても長期的な安定を多少とも優先させるかもしれないし、しかも功利主義者たちのあいだでも、「幸福」なるものを計るのに、財政的な富、職業上の満足感、文化的な達成度、あるいは個人的な人間関係のどれを尺度とするかで意見が分かれる。


また、公共の福祉を犠牲にして公然と自らの幸福を最大化する人もいて、彼らは自分のエゴイズムを体裁のよいものにするために、個人が自助努力をすれば全体の幸福が最大化するという哲学をふりまわす。


個々の人間の生涯の行動をじっくりと観察すれば、彼らの効用関数をリヴァース・エンジニアリングすることができるだろう。

ある国の政府の行動をリヴァース・エンジニアリングしてみれば、最大化されているのは雇用と全国民の福祉だという結論になるかもしれない。

別の国では効用関数は大統領の権力の維持とか特定の支配者一族の幸福、あるいはスルタンのハーレムの大きさ、中東の安定つまり石油価格の維持ということになるかもしれない。


つまり、想像できる効用関数は一つとは限らないということである。

個人や企業や政府が何を最大化しようとしているかは、かならずしも明らかではない。

だが、何かを最大化しようとしていると考えてもさしつかえないだろう。

何となれば、ホモ・サピエンスは目的にがんじがらめにとりつかれている種だからである。

たとえ効用関数が多くの入力からなる加重和だったり複雑な関数だということになっても、この原理は有効である。


ここで生物体に戻ってその効用関数を導きだしてみよう。

たくさんの効用関数がありうるが、意味深いことに、それらのすべてが最終的には一つに収斂していくことが明らかになるだろう。

この作業を劇的に示すよい方法は、生物が神というエンジニアによってつくられたと仮定して、リヴァース・エンジニアリングすることによって、神が何を最大化しようとしたのかをさぐってみることである。

神の効用関数は何だったのだろうか?


チーターはどう見ても何かのためにすばらしく設計されたように見え、リヴァース・エンジニアリングしてその効用関数を見つけだすのも難しくはなさそうである。


確か無神論でおられるのに


神とか設計とかってのも


アイロニーとして使っておられるのだろうか。


人間は自分が作れないものを見ると


神を出したくなるのだ、というのは


手塚治虫さんが以前ナスカの地上絵を見た時


同じようなことを仰ってた気がする。


話戻ってドーキンスさんって単なる直感だけど


”神”を信じているような気もしてきたな。


自論の考察とは別次元で。まだまだ読みが浅いのか。


やんごとなき空想でした。


もし自然がやさしいのであれば、せめて芋虫が生きたまま食われる前に麻酔ぐらいの小さな譲歩をするだろう。

だが、自然は親切でもないし、不親切でもないのだ。

苦痛に反対でも賛成でもない。

いずれにしろ、自然はDNAの生存に影響をおよぼさないかぎり苦しみには関心がない。


DNAは何も知らず、何も気にかけない。

DNAはただ存在するのみであり、われわれはそれが奏でる音楽に合わせて踊っているのである。


訳者あとがき(95年版)に


垂水先生書かれているけど


”利己的な遺伝子”という語が勝手解釈のもと


一人歩きしすぎて浮気なども遺伝子のせい


というような言説にまで発展してしまい


ドーキンス博士の本意ではないと。


90年代にはそういう勝ち組論が流行りましたので


なんとなく分からなくもないのだけど


ビジネススキームに巻き込まれてるなあと。


ドーキンス博士の言葉を借りるなら


ネッカーキューブのような言説は


やんごとなき展開として迷惑極まりないと


長谷川眞里子博士も指摘されてた。


柳澤桂子先生は遺伝子には個人の


生死の情報までも書かれているとか。


深すぎるため、それは一旦おいておいて


時を経て20年してからの垂水先生のあとがきが


遺伝子という狭義な世界だけに留まっていない


ドーキンス博士のただいま現在を思い


しびれました。


文庫版あとがき から抜粋


この本の原著および日本語訳が出版されたのは、1995年だから、今から20年近く前ということになる。


いまやドーキンスも70歳をとうに越え同い年の好敵手だったスティーヴン・ジェイ・グールドも鬼籍に入った。


これだけの年月を隔てていながらも、今回、文庫化にあたって読み直してみて、その鮮やかなレトリックと、内容が全く古びていないことに改めて感心した。

もちろん、本書が書かれた時点ではヒトゲノム計画は始まったばかりで、その後の華々しい成果はまだ知られていなかった。

それゆえ、本書で取り上げられている具体的な事例は最新のものとはいえないが、その論旨はいささかも変更を必要としない


むしろ、その後の研究はさらに補強証拠を積み重ねていると言える。

分子遺伝学の最新の発展については、多数の啓蒙書が出版されている。

そうした最新情報を取り込んだドーキンス自身の著作としては『祖先の物語』や『進化の存在証明』があるので、関心がある人は読んでいただきたい。

ゲノム解析の成果によって、動物の系統樹が劇的に書き改められたことや、遺伝子発現の複雑なメカニズムがしだいに明らかになっていることがわかるはずだ。


利己的な遺伝子』そのものは世界的な大ベストセラーとなり、初版出版から40年近くなる現在でも売れつづけていて、古典として確固たる地位を築いている。

しかし、その本意をどれだけ理解されているかについてはおおいに疑問がある。

彼の狙いはダーウィンの進化論をより現代的な視点、つまり個体や群(グループ)の進化ではなく、遺伝子の進化として論じることを目指すものだった。


ドーキンスはダーウィンの進化論を現代的な知見にもとづいて装いを新たにしたネオダーウィン主義として、世間に向かってひろめようとしていたのである。


しかし残念なことに、「利己的な遺伝子」という言葉がこれだけひろく認知されるようになったにもかかわらず、科学者のあいだはともかく、大衆のあいだでは、ダーウィンが提唱し、ドーキンスがより先鋭的な形でひろめようとした進化のメカニズムはかならずしも受け入れられていない。


とくにアメリカではそうで、各種の世論調査では国民の7割近くが、聖書の記述を信じて創造説を奉じ、進化論を認めていない。

したがって、いまなお進化論の唱道が必要なのである。

ドーキンスは『利己的な遺伝子』以来、この『遺伝子の川』を含めて、多数の著作を通じて、叫び続けている訳だが、一向に事態が改善される気配がない。

今なお同じ叫びが意義を失わず、ドーキンスの言論が古びないのは、状況が本質的に変わっていないことの裏返しでもある


文庫化にあたって、原則として訳文はいじらず、不適切な表現や明らかな誤記を訂正するにとどめたが、表記はいくつか変更した。

なかでも大きな変更はディジタルをデジタルに変えたことある。

発音表記としてはディジタルが正しく、文科省のディジタル技術検定などのような公式名称も残っていれば、電子情報学ではディジタル信号処理といった表記がいまでも使われている

しかし、近年ではほとんどの媒体でデジタルが使われ、デジカメといった短縮表現さえ流布している。

いってみれば、ディジタルは日本語ミームとしてデジタルとの生存競争で圧倒的に打ち負かされてしまっているのだ。

そこで、文庫化を機会に、敗北を認めてデジタルに変更することにし、それに連動して「ディジタル・リヴァー」も「デジタルの川」に変えた。


90年代半ばは”デジタル”ではなく”ディジタル”だった。


垂水先生ご指摘のように、発音的には


正しいはずなのに一般的に多く流通し


現在では”ディジタル”は駆逐されてしまった体で。


全くの余談だけど、この書の最終ページに広告で


”草思社サイエンス・マスターズ全22巻”とあり


「以下続刊(仮題)」の中に


『生命の歴史と進化/スティーヴン・ジェイ・グールド』


というのが掲載されていて期待を膨らますも


その7年後(2002年)に出た同シリーズの


リー・スモーリン博士の『量子宇宙への3つの道』を


持っておりますが、その続巻広告にはこう書かれてます。


お知らせ

続巻に予定しておりましたスティーヴン・ジェイ・グールド氏の『生命の歴史と進化』(仮題)は、去る2002年5月20日著者急逝のため、取りやめといたします。


残念だなあ、同シリーズで両雄の書籍を


読んでみたかったなあと


やんごとなき思いがよぎったのは


自分だけではなかろうという気がしつつ


今日は早番での仕事のため瞼が


重くなってまいりました。


 


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