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ダーウィンの危険思想の難解さを読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2001/01/10
  • メディア: 単行本

出版は2001年。


長谷川眞理子先生の書籍で知ったことが


きっかけだったような、うろ覚えで恐縮。


「危険」の解釈が難しい。


ダーウィンそのものがある意味


危険なのだから。


第2章 プロローグから


ダーウィンは、古い伝統とは逆に、種が、永遠でも変化しないものでもなく、かえって進化するものであることを、決定的な形で証明した。

新種の起源は「変化をともなう由来」の結果であることが示された。

ダーウィンは、あまり断定的な形でではなかったが、こういう進化のプロセスが<どのようにして>生じたのかについて、一つの考えを提示した。

つまり「自然淘汰」とみずから呼ぶ、心を欠いた、機械的なーーーアルゴリズムによるーーーープロセスによって、という考え方を。

このような、進化の実りはすベてアルゴリズムによるプロセスの産物として説明できるのだとする考え方が、ダーウィンの危険な思想と言われるものである。


第3章 イントロから


ダーウィンを含めて多くの人々は、自然淘汰というダーウィンの考え方が革命的なパワーを秘めていることはおぼろげながらも理解できたが、それにしてもこの考え方は、いったい何を転倒して見せると約束したのだろう。

ダーウィンの考え方は、私が宇宙論的ピラミッドと呼ぶヨーロッパ的思考の伝統的構造を解体して、これを再構築するのに用いることができる。

ダーウィンの考え方は、宇宙のデザイン全体の漸進的蓄積による起源について、新しい説明を提供してくれる。

ダーウィン以来、懐疑主義が狙いを定めてきたのは、自然淘汰の様々なプロセスは、無精神性をベースとしているにもかかわらず、それ自体実にパワフルなため、世界のうちに明示されているデザイン・ワークはそっくり一人でやりとげてしまったのだという、ダーウィンの暗黙の主張である。


第3章 プロローグから


ダーウィンの危険な思想というのは、デザインは、専従している精神に訴えなくとも、ある種のアルゴリズムのプロセスを通して、ただの秩序から生じることができるのだとするものである。

懐疑論者は、少なくともこうしたプロセスのどこかでは、援助の手(もっと正確に言えば、援助の精神)ーーー一いささかのリフティングを行うスカイフックーーーが差しのべられたに違いないことを証明したいと願ってきた。

ところが懐疑論者は、スカイフックの役割を説明しようとして、かえってクレーンをしばしば発見してきたのだ。

クレーンというのは、アルゴリズムの初期のプロセスの産物のことであるが、これは、アルゴリズムのプロセスを超自然的でない仕方で局所的に速めたりより効果的にしたりすることで、ダーウィンの基本的アルゴリズムのパワーを増幅することができる。

好ましい還元主義者は、クレーンがなくともデザインはどこまでも説明可能だと見る。


”スカイフック”というのは、神のような


象徴的存在が上から手を差し伸べることの


意のようでございます。


こういうメタファ的造語のような使い方


多用されるのだよね、


ドーキンスさんもだけど


洒落てるようでスルーしそうで


良いような悪いような。


第4章 イントロから


進化の歴史的プロセスは、実際のところどのようにして生命の系統樹を造ったのだろう。

自然淘汰はありとあらゆるデザインの起源を説明してくれるが、その能力に関する論争を理解するためには、生命の系統樹の形についてのいくつかの間違い易い特徴と、生命の系統樹の歴史における若干の鍵となる要素を明らかにして、まずは生命の系統樹の視覚化の仕方を学ぶ必要がある。


最近よく読むドーキンスさんとはまた一味違う


筆致で論説自体が難しいからか


慣れるのに時間がかかりタイムアップ。


あらためて、今度は前著を読んでみたいと思ったり。


 


監訳者あとがき 2000年11月6日


山口泰司 から抜粋


本書は”Darwin’s Dangerous Idea——Evolution and the Meanings of Life’s” By Daniel C.Dennett,1996,Touchstone の全訳である。

著者ダニエル・C・デネットは、心の哲学を専門とするアメリカの代表的な哲学者の一人で、現在ボストン郊外のタフツ大学の教授と同「認知研究センター」の所長を務めている。


私は先年、デネットの代表的著作『解明される意識』Cousciousness Explained, 1991の翻訳を青土社から出版しているので、デネットその人についての詳しい説明とその思想の特色については、そちらの解説(訳者あとがき)を参照いただけたら幸いである。


ごらんのとおり、本書は前著の『解明される意識』をも大分上まわる大著で、進化論の枠組みのなかでのこととはいえ、ここでは扱われている範囲もぐんと広がり、学際的性格も一段と深まっているので、本書を読み進めるに当たってそれなりの指針があった方が便利かと考え、以下、本書の思想的枠組みと読みどころとでもいうべき点を「ダーウィンの危険な思想」といわれるものの危険性の意味に焦点を当てながら述べることによって、解説にかえたいと思う。


デネットが前著『解明される意識』で採った立場は、人間の意識を徹底した<機能主義>の立場から把えることによって、人間の存在を、伝統的二言論の説く「物質」という実体にも「精神」という実体にも等しく還元することのできない、より自由で流動的な混沌として把らえ、起源も目的も定かならぬ無限に輻輳(ふくそう)する因果関係の連鎖のなかで絶え間なく己を紡いではこれをほぐし、これをくずしてはまた積み上げるといった、無心な戯れのようなものとして確保しようとするものだった。


そこでは人間の意識の在り方が、<心の哲学>の立場から、従来の西洋哲学とは異なる人間観、「意識の多元的草稿論」仮説に基づく「自己および世界のヴァーチャル・リアリティ論』として展開された。


しかしながら『解明される意識』では、あくまでも意識の解明が第一のテーマであったため、その根底で働いている根本基盤の解明は不問に付されたままだった。

これに対して『ダーウィンの危険な思想』では、その根本基盤たる<母なる大地>の在り方が、ダーウィニズムの徹底した拡大的運用を通して解明されていく。


デネットがダーウィニズムのうちに見ているのは、言うまでもなく、<自然淘汰>を原理とした<進化>の事実であるが、その具体的な意味は、<種>が永遠の存在でも不変の存在でもなく、かえって<進化>するものであること、そしてこの進化のプロセスは、それ自体精神も目的も欠いた、純粋に機械的な<アルゴリズムのプロセス>によって遂行される、というものである。

デネットによれば、ダーウィニズムのこの思想は、直接的には、デネットが<宇宙論的ピラミッド>と呼ぶヨーロッパ的思考の伝統的構造を根本から解体してしまう力を秘めている点で<危険な思想>であり、より本質的には、進化のプロセスを、非生物界と生物界を等しく貫くアルゴリズムの統一的論理で把えうるともするばかりか、生物界一般の論理を、究極的にはデザイン開発の営みという一元的視点から捉えうるともすることによって、自然界における<人間の特権的地位>を危険にさらしてしまう力を秘めている点で、これまた<危険な思想>である。

デネットはこの危険性を、この世のありとあらゆる物質を腐食させてやまない架空の危険物質<万能酸>というイメージに託して、まるまる一章をさいて雄弁に語っている。(第3章)


デネットによれば、世の中には、西洋の伝統的人間観への深い思い入れのなかで、上に向かって自力で伸びていこうとする<母なる自然>のデザイン開発のただ一つの道具、<クレーン>の存在だけでは安心できずに、どこか進化の曲がり角で、言わば機械仕掛けの神のように、上から下に向かって援助の手を差し伸べてくれる<スカイフック>の存在を、人間の霊的存在としての威信をかけて、求めずにいられない人たちがいるのだと言う。

そしてそうした気持ちが、あからさまな反ダーウィニズムや不徹底で混乱したダーウィニズムの元になるのだというのが、デネットの見解である。


デネットはそうした不徹底なダーウィン理解の代表者として、古生物学からスティーヴン・ジェイ・グールド(第10章)、言語学者からノーム・チョムスキー(第13章)、そして数学・物理学からロジャー・ペンローズ(第15章)などを論敵に選んで、彼らのダーウィニズム理解に対する周到な批判を、ほぼ一章ずつさいて展開している。


ドーキンス氏も本文にかなり出てきますが


近い論説のようでこの本の帯は


ドーキンスさん本人で曰く


『ダーウィンの危険な思想』は

並外れて素晴らしい本だ。

デネットは、これまで知識人たちが

進化論の問題について

はなはだしく誤り導かれてきた

ことを明らかにし、

本書はその多大なダメージを

修復してくれるだろう。

ーーーリチャード・ドーキンス


この後<ミーム>も出てきます。


監訳者あとがき山口先生に戻りまして。


だがデネットが、そのドラスチックな科学哲学の展開を通して、徹底した無神論哲学を標榜しているわけでもなければ、人間のうちで働いているきわめて根深い宗教的感受性を揶揄しているわけではないのは、彼自身が、いくつかの形で、神の存在や進化への神のかかわりなどの論理的可能性について自ら示唆している点からも明らかである。

むしろ彼の主眼は、進化の営みは、超越的な力や奇跡の介入なしでも、アルゴリズムとクレーンの重層的組み立て一本で、立派に成し遂げられたのだという点を論証することによって、科学から伝統的人間観への思い入れに発する、人間それ自体で自己完結した特別の種だとする不遜で独善的な信念を排除して、進化の世界では人間を含めた一切の種は、生命の大いなる系統樹の一員として、他のすべての存在と深いつながりのうちにあり、<母なる自然>がそこに至るまでに開発したデザインをほぼそのままの形ですべて己れのうちに含んでいるのだという、ごく当たり前の認識を取り戻そうとする点にあるのだと言ってよい。


しかし一切の種が、このように不連続の連続によって水平的にも垂直的にも互いに深くつながり合っているのだと言うのが真実ならば、逆にまた一切の種は、連続の不連続によって、互いに大きく隔たりあっているのもまた確かである。


動物のなかの人間性、人間のなかの動物性に注目しながら、人間に固有の質の在り方、つまりは人間性の本質を科学と道徳の進化のうちに求めているのは、そのためである。


デネットがそうした人間性の本質を論ずるに当たって大きく依拠しているのは、ドーキンスの<ミーム>と言う観念である。

ミームは、遺伝子、ジーンが生体から生体を渡り歩いては自己を次々に複製することでもろもろの観念の伝播を我知らず限りなくはかり続けようとする文化的進化の単位であるが、利己的なミームによる人間の<心>の形成こそが、科学の限りない前進を可能にしてくれるばかりか、利己的な遺伝子の専横(せんおう)を抑えて人間に個有な特性の実現をも可能にしてくれるのだと、デネットは言う。


すんごい、むずい。頭がバーンアウト。


高次すぎて理解が追いつきませんけど


今度の夜勤中にでも復唱させていただきます。


わかりそうなところだけ抽出。


ダッチコーヒーの如く。


ちなみに若き齋藤孝先生も共同で


部分翻訳されている。


このように本書『ダーウィンの危険な思想』では、『解明される意識』においては認識論の立場から展開されていたある種の空観の哲学が、新たに存在論的立場から展開され直すことで、よりダイナミックな<宇宙論的生命観の哲学>へと生まれかわっているのであり、それはまた、一切を有機体的視点から同じ一つの論理で一元的に把握しようとする試みとしてのかぎりで、自然的現象と人間的事象を統一的かつ連続的に論ずることのできる広大な地平を拓いてもいるのである。


とはいえ、この宇宙論的生命観の哲学が、スカイフックからの介入は断固排して広義の機械論を貫こうとする一つの科学哲学なのだと言う点で、もろもろ伝統的宗教や形而上学とは一線を画すものであることは、はっきり言っておかなければならないだろう。


発表当時には不明だったことが多くて


誤解や間違いも含まれていて


いまだに論議の的となる”進化論”のようで


最近知って関連書を読ませていただいておりますが


いかんせん頭がついていけないので


1ミリずつの前進でございます。


それにしてもいつもながら


早朝読書は静かで本当によいです。


そのために睡眠は削ってませんけれども


歳とると早起きになるというのは本当だ。


物音ひとつせず、でもこれから


セミの大合唱が始まるのだろう


暑い1日を予感させるのですが


早く朝食とって、今日は家の掃除でございます。


 


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