伝記のガイドブックを読み自己を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
読者の皆様へ から抜粋
『人間っておもしろい』は、日本図書センター発行シリーズ「人間の記録」170巻のガイドブックです。
本書は、シリーズ「人間の記録」第1巻の『田中正造』(1997年刊)から第170巻『柳田国雄』(2005年2月刊)までを、一巻あたり2ページをあてて、その人物概説をし、略歴と各巻表紙写真を掲載したものです。
巻末には「日本人の自伝案内」「出身都道府県別地図」「分野別収録人物一覧」「『人間の記録』一覧」を付してあります。
「人間の記録」は、この国に生きた無数の男女の、さまざまな人間模様を、ジャンルを問わず一人一巻の自伝で見ていこうという試みです。
それぞれの人生の面白さ、意外さ、奥深さには驚きがあります、共感があります、感動があります。
そして、人間ってなんておもしろいのだろうと感じ入るとともに、勇気も湧いて来ます。
本書ガイドをきっかけにして、「人間の記録」の広大な森をぜひあるいてみてください。
これは便利、伝記シリーズのガイドブック。
ただいま現在の現代は
Wikipediaで事足りるというのもあるが
Wikiは薄氷で体重をかけると割れる
とは齋藤孝先生の言ではあるものの
それは一旦おいておいて。
興味ある人をピックアップ。
今日の「多変数解析函数」を独力でつくりあげた数学者
から抜粋
父が日露戦争に出征したため、和歌山県の祖父の家で育ち、1922年(大正11)に京都帝国大学に入学し、1年生の数学の試験中にインスピレーション型発見の雛形を発見して自信を得ると、2年目からは数学教室に変わり数学史を学びます。
卒業後は、同大学の講師となり、のちにノーベル賞を受賞する湯川秀樹らを教え、その後パリに留学してラテン文化の流れに触れ、多数変解析函数の分野に研究課題を定めました。
3年間の留学を終えて帰国し、広島文理科大学の助教授になると、「中心的な問題が山脈の形」で明瞭になって来ましたが、最初の足がかりがなかなか見つかりませんでした。
「全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態にあったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。(略)
意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければいけない」(自伝より)
こうして、数学上の新しい発見をすると、本格的に問題の解決に取り組み、論文を次々に発表しますが、日中戦争が始まると、日本の将来を憂いて内心の行き詰まりに苦闘し、第二次世界大戦後の1946(昭和21)の夏、念仏中に「第三の発見」といわれる情操型を発見し、十数年間座右にあった『正法眼藏』がすらすらわかるようになりました。
インスピレーション型の人物だったのか。
数学ってひらめきとは
相容れないもののような気もするのは
浅学非才な自分ならなのだろうねえ。
ダーウィン進化論に対し独創的な「共生」理論を提唱した人類学者
から抜粋
京都西陣の織元に長男として生まれ育ち、体が弱かったのですが、中学時代に登山で体力に自信をつけ、富士山や日本アルプスにも登り、第三高等学校時代は、西堀栄三郎や桑原武夫らと山岳部を編成して登山やスキーに没頭しました。
1925年(大正14)に京都帝国大学の農学部農林生物科に入学し、昆虫学を専攻して理学部講師になり、その後1933年(昭和8)ごろには、カゲロウの観察から「棲み分け」の理論を唱え、生物の社会構造について独自の理論を打ち立てます。
1944年に中国の張家口に設立された西北研究所の所長になり、帰国後は大学に復帰し、新設された社会人類学研究部門や自然人類学講座の教授になりますが、その間、ニホンザルやチンパンジーなどの観察を続けながら京都大学霊長類研究所の創設に尽力し、人類学にとどまらない幅広い分野で功績を残しました。
この時期には、海外の学術調査にもリーダーとして参加し、マナスル登山隊の先遣踏査隊長、カラコルム支隊長、アフリカ類人猿学術調査隊長として共同研究を主宰、大学を退官してからは”自由人”と宣言して、人間社会への提言をも行いました。
「むしろこの際、人間も生物であり、この地球上に住む生物の一員であることを、率直に認めて、生物の生き方、あるいは生物の生きるべき道をあまり踏みはずさないようにした方が良い。(略)
それは、人間における生物性への復帰、ということになるのかもしれない」(自伝より)
博覧強記の篤(とく)学者で日本の民俗学・エコロジー運動の先駆者
から抜粋
幼少ころから博覧強記の特質を備え、10歳から15歳の5年間で、当時の百科事典であった『和漢三才図絵』や『本草綱目』『大和本草』などを筆写し、後年の博識と生物学の基礎がこのときつくられました。
和歌山県立中学校を卒業して1883年(明治16)に上京し、大学予備門に入学しますが、3年後に退学して渡米。
アメリカではビジネスカレッジやミシガン州立農家大学に在籍しました。
しかし、生来の自由奔放な性格が学究活動には合わず、すぐに退学しています。
「商業学校に入りしが一向商業を好まず、20年にミシガン州の州立農業に入りしが、耶蘇教を嫌いて邪蘇教義のまじりたる倫理学などの諸学科の教場へ出ず…」(自伝より)
こうしてその後、イタリア曲馬団と共に中南米を巡遊して動植物を採取した後、イギリスに渡ってロンドンの大英博物館に通い、十数カ国の文献を写本し、自然科学誌『ネイチャー』などに長短合わせて332本の論文を寄稿しました。
1900年に帰国したあとは、南紀勝浦を拠点に、熊野那智周辺の生物採取調査に数年間従事して細菌や微生物の調査研究に携わります。
その後、田辺町に移って定住して間もなく、内務省は神社合祀令を発令しましたが、それは鎮守の森の破壊につながり、神社を中心とする良俗美風と志気の衰亡を招くと反対運動に身を投じ、生物学と民俗学とを結ぶエコロジーの立場から自然と人間の共生を論じました。
こんなにワイルドな方だったのか。
にしても、アメリカでビジネスで耶蘇(キリスト)教って
らしくなく、でもそれは今だから言えることなのだろう。
それにしても大英博物館が熊楠先生に
与えた影響は計り知れないということか。
人生の不思議を思いますなあ。
豊富なフィールドワークで離島振興の父と呼ばれた民俗学者
から抜粋
1929年(昭和4)には師範学校の専攻科を卒業して大阪府内の小学校に赴任し、教員住宅で自炊生活を始めますが、翌年に風邪をこじらせて肺浸潤になり、医師のすすめで長期療養のため故郷に帰り、絶対安静の療養生活を1年半続けます。
その間、ひたすら『万葉集』と『長塚節(ながつかたかし)全集』を読み、「ほんとうの旅は万葉人の心を持つことによって得られるのではないか」(自伝より)と感動。
病気が癒えてくると、懐に手帳を入れて人の集まるところに出かけて聞いた話をまとめ、柳田国男が蒐集していることを知ると、島の説話を書き送り、その活躍を認められます。
健康が回復すると、ふたたび大阪に出て小学校の代用教員として働きながら、民俗学への興味を深め、1939年には上京し、事業家の渋沢敬三が主宰していたアチック・ミューゼアム(のちの日本常民文化研究所)に入所します。
「大事なことは主流にならぬことだ。傍流で状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう」(自伝より)
という渋沢の言葉に心を打たれ、以降、離島や僻地、農村や漁村をくまなく歩き、各地の民間伝承を収集しました。
戦後は離島の研究に本格的に取り組み、人間関係や環境を構造的に捉える「宮本常民学」を確立し、武蔵野美術大学の教授や日本常民文化研究所所長などを歴任しました。
”常民史学”を形成して新分野を切り開いた日本民俗学の創始者
から抜粋
医師・松岡操とたけ夫婦の六男として生まれ、12歳まで生家で育ちますが、11歳からの1年間は、蔵書家の三木家に預けられ、読書に明け暮れ、多くの知識を吸収しました。
1891年には開成中学に編入学し、第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学政治学科に入学。
卒業後は農商務省農務局に勤務し、1901年に旧信州飯田藩士で大審院判事・柳田直平の養嗣子として入籍し柳田性になり、勤務のかたわら、早稲田大学で農政学の講義を行いながら農業問題に対する数多くの論文を発表しました。
その後、内閣書記官記録課長を経て貴族院書記官長になってエリートコースを歩み、1919年(大正8)に退官します。
翌年からは東京朝日新聞社の客員になり、1921年には国際連盟の常設委任当時委員会に就任し、一時帰国しますが、その後ジュネーブに滞在。
1924年には朝日新聞社編集局顧問として論説を担当し、1930年(昭和5)まで在社しました。
その間、1927年には世田谷区成城に新居を移し、慶應義塾大学講師、東京帝国大学農学部講師を歴任し、終戦を迎えた翌日、高熱にうかされながら、日記にこう記しました。
「内閣の総辞職は不賛成、阿南(あなみ)陸相の自殺は論外のこと也、士道頽廃というべきか」(自伝より)
こうして日本民族の動揺を見つめながら、1946年に枢密院顧問に就任。
1949年には日本民俗学会を結成して初代会長になりますが、その業績は、伝承などの膨大な聞き書きから”常民”という概念を導いて歴史の担い手として位置づけ、日本民族の精神史やルーツに大胆な仮説を立て、多くの後進を育てたことにありました。
そもそも自分が伝記が好きな理由は
大昔読んだつげ先生のあとがきに
近いような気がするので引かせていただきます。
私は文学が好きでよく読むほうだが、作品ばかりでなく日記や年譜も熱心に読む。
ときにはそれだけ読んで作品は読まないことすらある。
日記や年譜を読むことによって、作品をより深く理解するということはあるだろうけれど、私の場合はそうではなく、作家の私生活や境遇を知りたいために読んでいる。
どんな病気をしたのか、どんな家に住んでいるのか、家族構成は、経済状態は、といったことに強い関心を寄せる。
それで好んで読むのは「私小説」ということになる。
私小説はいわば生活報告だからだ。
何故作家の生活に興味を持つかというと、私は人生経験も浅く、未熟で、生き方が下手で、いつも動揺しながら暗闇を手さぐりで進むように、辛うじて生きている。
常に不安で心細く頼りない。
そんなとき他人の生き方を見るのは参考になり、慰められ、勇気づけられるからである。
とりわけ私小説作家の多くは、不幸な境遇を背負い、経済的にも恵まれない例が多いので親近感を覚えるのだ。
しかし作家ばかりでなく、隣り近所の人の生活にも私は興味を示す。
いやむしろそのほうが身近で実感が持てる。
だから近所のことは妻に根掘り葉掘り聞き出そうとする。
そして作家だけでなく、隣り近所の人にも年譜や日記があればやはり読んでみたいと思っている。
いや案外そう思っている人もいるのではないか、そう思ってこのような日記を発表してみる気になった。
これはお隣りさんの日記のようなつもりでいる。
隣りは何をする人ぞ、覗き趣味的に見て、蔑んだり優越を感じたり、あるいは多少なりとも共感して戴ければ幸いだと思っている。
つげ義春さんほどではないにしても、
なんとなくこの気持ちはわかる。
ちと極論かもわからんですが
他人の半生を知ることは
自分自身を知ることと
ニアリーイコールのように感じる。
余談だけど、この書は最近文庫化されたが
自分は単行本で持っておりまして
直筆サイン入りなのでした。
さて、夕飯のアシストをしながら
明日に備えよう、暑い休日でございました。