養老・近藤先生の対談本から”懐疑”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2019/04/25
- メディア: 単行本
別の本を持っていて未読なのだけど
なんとなく存じ上げてた程度で
つい最近この書籍の近藤先生と
同一人物と分かり、さっそくに
読んでみた次第でございます。
第3章 私たちが医者を目指した頃
生き物は「情報」になっていく
インターン時代に臨床医を断念 から抜粋
▼近藤
養老先生の解説は素晴らしいですね。
僕はああいう風に書けないなあ。
学生時代に三木先生の謦咳(けいがい)に接したそうですが、そもそも医者になろうと思ったきっかけは何ですか。
▼養老
僕の場合、母は小児科だし、小さい時に病気して、東大病院で医療のありがたさを痛感した。
あれがなかったら俺は死んでいたな、という思いはあります。
じゃあ医者になるか、と思った時に、僕は対人関係が苦手なんですね。
お世辞が言えない。
東大病院は、あちこち回って最後にここへたどり着いた、という患者さんが来るところなんです。
だから、ほとんどの方が亡くなる。
インターンの頃、たまたま運よく治って帰る患者さんが部長のところに来て、
「先生、今回は本当にありがとうございました」
と挨拶しているのを聞くと、
「今回は治ったかもしれないけど、どうせ最終的には別の病気で死ぬことになるんだよ」
と言いたくなる性分ですからね(笑)。
これは困ったなあ、医者になるのは嫌だ、俺向いてないなあ、と思っていたんです。
でも、しょうがなくてね。
虫をやりたかったけど、当時の大学で昆虫教室は、北海道大学と九州大学にしかなかった。
僕は鎌倉だから別に東京にいる必要はなかったけれども、母親が「遠くに行かないでくれ」と言うんです。
それで東大の医学部に入ったのは、東大は授業料が安いから。
慶應は高い(笑)。当時10倍以上したよ。
三木成夫とヘッケル
▼近藤
三木先生には、いつお会いになったんですか。
▼養老
三木さんは解剖に行ってから会った先生です。
杉田玄白以来、いろいろ解剖学の中にも問題があって、うるさいことを言われる。
三木さんはその中で非常に変わった方で、お話が上手で。
たまにああいう先生がいるんですが、論理よりも情動が強い人なんです。
▼近藤
本の書きぶりが、独特ですよね。
こんな風に理系の話を書ける人は、ちょっと他になかなかいない。
▼養老
僕が教授になってから、三木先生を東大の講義にお呼びしたんですよ。
年に一回くらい話して下さい、とお願いして。
面白いなと思うのは、三木さんの講義では最後に、東大の学生たちが拍手するんです。
これ、他に聞いたことがない。
学生たちが完全に釣り込まれて1時間半聞いている。
独特のテンポで、三木先生の師匠だった同じ東大医学部解剖学の小川鼎三先生にそっくりです。
間の取り方が上手で、ものの見方が独特だから、三木節とでも呼びたくなる。
ああ、こういう人もいるんだな、と参考になりました。
三木さんが東大にたまに来られると、話し込んだものです。
▼近藤
養老先生も、三木さんの語りを参考になさっているところがありますか。
▼養老
参考にするというよりは、もともと似ているところがあるかもしれないですね。
▼近藤
三木さんの本は、素人が読んでも面白いはずです。
▼養老
それは当たり前のことなんです。
学問というのは本来、一番下の地面から積み上げていかないとダメなんですよ。
日本は上から持ってくるでしょ。
いつも西洋からつまんでくるから、根っこが怪しいんです。
三木さんの場合は全然違っていて、下から積み上げている。
その代わり、あの人の場合は医学部在学中にバイオリンに凝っちゃって、東京音楽学校の学生に入門して勉強が1年遅れたりしているんです。
後は、ドイツの哲学者クラーゲスの研究ですからね。
最近気がついたけれど、山崎正和さんもクラーゲスのことを書いていた。
日本のある種の人たちの後ろで動いている情動に比較的近い人たちで、しかも論理的に物を語れる。
まさにヘッケルを地で考えている人です。
ヘッケルは19世紀から20世紀にかけてダーウィンの進化論を広めたと言われているドイツの生物学者ですが、簡単に言うと、ヒトの発生過程を観察すると、受精卵の中で胚の形が最初にサカナ、次はイモリや鳥、というふうに進化を辿っている、という考えを示した。
三木さんは、この説をニワトリの肺の研究で確認した人です。
ヘッケルの理論は理屈っぽいけれど、三木さんの話には情が入っている。
ニワトリの胚が卵の中で発達する途中、「今ここで海から上陸する」という瞬間を示したりね。
ダーウィン、メンデル、ヘッケル
▼近藤
ヘッケルは最近はかなり認められてきていますね。
▼養老
英米系ではとくに評判が悪かったですがね。
『個体発生と系統発生』を書いたアメリカ人のスティーヴン・J・グールドが、本の最初の方に書いてますけれど、若い時に先輩に何に興味をもっているかと聞かれて、「個体発生と進化の関わりについて」と答えたら、突然小さな声で、「おまえ、そんなことを口にするんじゃない」と言われた。
アメリカの学界でヘッケルはタブーですからね。
インチキ臭いというんです。
面白いことにヘッケルが出て、最初に英米系から強烈な反論が来るんです。
僕は今ある程度の結論を得ているんですが、要するにヘッケルも、ダーウィンも、言っている内容は情報系なんです。
ただ、ほとんどの人が、まだそう思っていないんですよ。
メンデルの法則は中学校で習うけれど、あれは順列組み合わせでしょ。
しかも単純な組み合わせですよ。
何でこれが立派な法則になるんだと、僕は中学生の時に生意気に悩んでいた。
でも、考えたら、そこに一番のポイントがあった。
メンデルの最大の功績は、一見複雑に見える生物の形質がアルファベット化できる、と言ったことなんです。
えんどう豆の黄色いのはAで緑色はa、と置き換えることができる。
これね、生物を情報化する最初の段階なんです。
ダーウィンの自然選択説も典型的で、結局、情報は完全に適者生存だと言える。
どんな意見でも、相手の頭の程度に合わなければ生き残れない。
近藤先生がいくら正しいことを言ってても、結局、本がどのくらい売れるかが大事なんです(笑)。
▼近藤
それはそうですね。この本も売れてほしいです(笑)。
▼養老
生きものを情報として見た時に、
「ある主題について、今までの人はこう言っている、それを短く要約して繰り返し、そこに自分の考えを付け加えるのが進化だ」
と言える。
それを最初に言ったのが、ヘッケルです。
これ、実は論文の書き方と同じなんですよ。
19世紀の生物学が、それぞれ独特のバラバラな法則を論じているように見えるのは、19世紀には情報の概念がないからです。
1953年に、例のワトソン・クリックのDNAモデルの論文が出て、その中に一言「インフォメーション」と言う言葉がでてくる。
それからダーッと生物の情報化は進むんですよ。
それは社会が情報化するのとほとんど並行しているんです。
19世紀でもう一つ面白いのは、生気論ですよ。
生きものには生きもの独特の性質があって、物理化学では定義できないとする論。
有名なのはドイツの発生学者ハンス・ドリーシュで、日本では米本昌平が翻訳しています。
これを僕らは「時代遅れだ」と習った。
実はドリーシュの本を丁寧に読むと、彼が生気論として一所懸命言おうとしたことがわかる。
それは「情報」なんです。
ただ、当時は「情報」という概念がなかったというか、一般に共有されていなかった。
▼近藤
面白いですね。
▼養老
こういうことは、みんなあまり言わないですよね。
でも、素直に考えたら認めてもらえるはずなんです。
生物を情報として見る、という方法です。
▼近藤
生物の情報の受け渡しかたのルールとしては、その通りだと思いますよね。
▼養老
それは物理化学では解けないでしょ。
太陽と月がどういう情報を交換しているか、という話ではないんですよ。
▼近藤
ヘッケルについて言っておくと、あれがインチキだというのは、最初にヘッケルが世に出した図が間違っているという指摘があって、そこに付け込まれてしまったんですね。
▼養老
あまりに綺麗すぎる、作ったものだ、という批判があった。
しかし、丁寧に見た日本の若い人がいるんです。
彼によると、余分を取ってわかりやすく単純化しただけだから自説に合わせて変形したわけではない。
あれでいいんだ、と言う。
これはだんだん、ひいきの引き倒しになってくるんだけどね。
▼近藤
ヘッケルに肩入れするようですが、胚が出来てくる最初のところを見ると、確かにどれも似ている。
問題は似ている、ということの定義の仕方だとも言える。
人間の場合は受精卵から始まって、魚類のようになって、両生類になって、爬虫類になって、哺乳類ができて、と胎内で進化を辿るわけですね。
その各段階では、むかし獲得した遺伝子とその働き方が固定されている場合が多いから、すべて同じではなくても、哺乳類も魚類も同様に辿らなければいけない道はあるはずなんですね。
だから最初の頃だけ見れば、胚はどれもみんな似ている、
それは自然なことで、僕はヘッケルが間違っていると決めるつけるのはおかしいんじゃないかと思うんですよ。
近藤先生は残念ながら昨年夏に
心不全でお亡くなりになられた。
この対談は興味深く、お二人のかなり深い知見が
盛り込まれている。
またこのネタか、と思う輩もおられるかも
しれないが、この二人の対談っていうところが
味噌でありまして
もはや芸の域に達していると自分なぞは読んでしまう。
アウトローというところは言うに及ばず
かなり似ているのだろうと感じた。
ほかに面白いと感じたのは
お二人が意外と普通の会話というか
「何でそうなんでしょう」と聞いている
素朴さというか。
普通だったら面倒くさくて飛ばされそうなところでも
知性が拮抗しているからか、素直に流れに乗って
会話されているというところで。
これは自分も見習いたいと思ったのでした。
日常の会話の中でも、へんにこだわってしまい
流れを止めてしまうというか。
こだわりというのも大切だけれど
流れに乗って会話することで
得ることも多いという、何とも抽象的な
表現で自らの浅学非才を露呈しっぱなしだが
この書の”おかげ”で、というか”せい”で
また新たなテーマを見つけてしまって
今日手に入れた他6冊と未読本∞(無限)冊も
あるのにどうするのよ、と自分に問う
嵐のような関東地方、夏の暑さが一瞬和らいだ
午後のひと時でございました。